2009年07月05日
生涯ソムリエ 国際ソムリエ協会会長小飼さんの自伝
生涯ソムリエ著者:小飼 一至
販売元:エフビー
発売日:2008-12
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日本ソムリエ協会会長で、2007年からは国際ソムリエ協会会長もつとめる小飼一至(こがいかずよし)さんの自伝。
ソムリエが書いた本としては、ソムリエの教科書ともいえる浅田勝美さんの「ワインの知識とサービス」がある。
新版 ワインの知識とサービス―仏・独のワインを中心に
著者:浅田 勝美
販売元:柴田書店
発売日:1991-09
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筆者はソムリエの友人に勧められて、15年ほど前に浅田さんの本を買って大事にしているが、フランスワインの解説などは今でも参考になる。小飼さんの本でも浅田さんの本が引用されている。
ワインの知識や、サービスについては浅田さんの本にまかせ、この本では、ソムリエやソムリエ、ワインエクスパートを目指す人に向けた小飼さんの実戦的アドバイスが書かれている。
小飼さんの略歴
小飼さんは長野県茅野市出身。日本のマキシム・ドゥ・パリに1969年に入社し、すぐにシェフ・ソムリエとなり、1973年にフランスのマキシムでソムリエとして1年間修業した。
当時フランスのマキシムはミシュラン3つ星で、JFKの未亡人ジャックリーンと結婚した海運王オナシスなどの超VIPが常連だった。
マキシムのオーナーの厚意で、師匠のシェフ・ソムリエ、ジュリアンと一緒にボルドーやブルゴーニュのワイナリーを歴訪して歓待を受け、普通では教えてもらえないような情報まで知ることができた。
日本に帰国後、1981年に日本のソムリエコンクール優勝。翌1982年にマキシムからプリンスホテルに転職。そのときはマキシムのオーナー、ソニーの盛田さんの奥さんからもプリンスホテルへに口添えしてもらい、温かく送り出されたという。
世界ソムリエコンクール予選
1988年にはパリで行われた世界ソムリエコンクールに日本代表として出場。
この世界ソムリエコンクールの日本代表を決めるために、小飼さん、田崎真也さん、そして渋谷昭さんの過去の国内ソムリエコンクールの優勝者3人で、決戦が行われた。
結果は小飼さんと田崎さんが同票で、二人ともいわばプレイオフの問題を要求したのに、審査員はあみだくじを提案。二人が拒否すると、当時29歳の田崎さんは自ら辞退し、当時41歳の小飼さんが世界ソムリエコンクールの日本代表となった。
小飼さんは1988年の世界ソムリエコンクールを最後にコンピティションからは引退し、その後は田崎さんが出場し、ついに1995年の東京大会で優勝する。
1988年の日本代表を譲ってもらった時に、小飼さんは「田崎さんをライバルとは考えない。一生の友と考える」と決心したことを、この本で告白している。
世界ソムリエコンクールで3位入賞
小飼さんが3位に入賞した世界ソムリエコンクールでは、筆記問題と利き酒問題が出題された。
最後の聞き酒では、第1問はブルゴーニュのシャンボール・ミュジニー1983年を、小飼さんはシャサーニュ・モンラッシュの1983年と答えた。ブルゴーニュのコート・ドール県の北と南の違いだった。
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![シャサーニュ・モンラッシュ[2002]ブランショ・デュス](http://image.rakuten.co.jp/wshop/data/ws-mall-img/shimurasaketen/img128/img10094595976.jpeg)
シャサーニュ・モンラッシュ[2002]ブランショ・デュス
筆者はシャンボール・ミュジニーは飲んだことがある。女性的な名前だが、ブルゴーニュの赤ワインらしく、力強さも持った特級から第一級のワインだ。
第2問のカルバドス8年ものは、カルバドス6年物と答え、ほぼ正解だった。小飼さんは優勝を確信していたところ、3位になり、観客席で応援していた田崎さんに申し訳ない気持ちで一杯だったという。
ちなみにこの時の1位は聞き酒が抜群に強かったアメリカ代表のソムリエだった。地元フランスのソムリエは第2位となり、彼は次の1992年のブラジルで開催された世界ソムリエコンクールで優勝し、リベンジを果たしている。
ソムリエに必要な知識
小飼さんは1993年からは国際ソムリエ協会の技術委員として、コンクールの問題作成と審査にあたり、2007年に国際ソムリエ協会の会長に就任する。
マキシムでの人脈と、国際ソムリエコンクールに参加することで築いた世界のソムリエとの交友関係の広さが、小飼さんの強みだ。
一流のソムリエには、まずはワインの知識が要求されている。トリビアのような問題でも徹底して覚えるのだ。
たとえば世界ソムリエコンクールのフランス予選では、次のような質問が出されたという。
★ロマネ・コンティが造られなかった年は何年か?
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答えは1946年〜1951年だ。これに答えられた選手がフランス代表となった。こんな事は暗記するしかない。
小飼さんの勉強法
小飼さんは片道40分の通勤時間を利用して、電車を勉強部屋にしたという。小飼さんがソムリエとして知識を憶えたのは次の本だ。
Larousse Encyclopedia of Wine販売元:Larousse Editions
発売日:2001-10
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フランス語の辞書で有名なLarousse社が出しているワインの事典だ。アマゾンに載っているのは英語版だが、小飼さんはフランス語の原典で勉強したという。
ラルース ワイン通のABC販売元:日経BP社
発売日:1998-01
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小飼さんがサーブした有名人
この本では、小飼さんがサーブした海運王オナシス、ユル・ブリンナー、などの有名人の逸話が紹介されている。オナシスは「ルージュ」としか言わないのだという。オナシスがルージュと言うと、1937年か1951年のシャトー・ラフィット・ロートシルトをよく開けたという。
1937 (750ml)シャトー・ラフィット・ロートシルト 1937 (750ml)
ユル・ブリンナーはマキシムを自分のキッチン代わりに毎日使っていたという。大体ボルドーのメドックのワインを飲みながら、その日のおすすめ料理を食べていたという。
ジョン・ウェインはワインは飲まず、ウォッカ・マティーニ一本槍。
セルジオ・メンデスは、いつも女性といつも一緒に来て、途中で女性が泣き出し、しょうがないなという感じで、メンデスがバンドのピアノを借りて演奏し、女性が歌うというパターンだったという。毎回40−50分の即興演奏で、お客は大喜びだったという。
セルジオ・メンデスは、DRCの”ラ・ターシュ”、”リシュブール”、”グラン・エシェゾー”をよく飲んでいたという。ロマネ・コンティなんかは飲まないという主張が感じられたという。
パーカーポイント90点!【送料無料】[1985] DRC ラ・ターシュ 750ml【No.11036】[1985] DRC La Tache 750ml
ジョン・レノンはオノ・ヨーコと来て、蚊の泣くような声で「オレンジジュース」と頼んだという。
日本で一番カッコイイ男、白洲次郎
小飼さんが日本人で一番カッコイイと思ったのは、白洲次郎で、最初の印象からただ者ではないというオーラを放っていたという。既に70歳を過ぎていた頃だが、上背がありすらりとして姿勢がよく、ワイシャツとネクタイの接点をこれほどきれいにしている人はいなかった。
いつもスーツ姿で、男でもほれぼれするようなカッコイイ人だった。
小飼さんがサーブすると、まるで長年の知り合いのように会話を楽しみ、ワインは何にするかと聞くと、「そうだな、何にするか」と小飼さんの手を握ってくれたという。普通の人がやったら、まるで様にならないと思うが、様になる上に、相手に感動を与えるのはさすが白洲次郎だ。
小飼さんは最初は外人かと思ったと。決していばらない、まさにジェントルマンだった。
目の下に少しソバカスがあったが、目が熱っぽく、老人だったが、目が子供のようにかわいらしかった。とにかくあれほどカッコイイ人はいなかった。
小飼さんは当時白洲次郎のバックグラウンドを知らずにサーブしていて、情けないと語る。後にNHKテレビで白洲次郎特集を見て、非常に感激したと語る。
ソムリエの命は利き酒
ソムリエはワインの売り上げを上げなければならないので、高品質のワインを手頃な値段で仕入れる事が重要で、そのためには利き酒能力を磨く必要がある。
自分で利き酒をして、良いワインを格安の値段で買って、リーズナブルな価格で売るのがソムリエの仕事だ。
たとえば、今回筆者のソムリエの友人からわけてもらったワインは次のワインだ。
![“バッド・ボーイ”[2005]年・ジャン・リュック・テュヌヴァン・AOC・ボルドー“Bad Boy”[2005] Jean-Luc-Thunevin AOC Bordeaux](http://image.rakuten.co.jp/wshop/data/ws-mall-img/wineuki/img128/img10163314290.jpeg)
“バッド・ボーイ”[2005]年・ジャン・リュック・テュヌヴァン・AOC・ボルドー“Bad Boy”[2005] Jean-Luc-Thunevin AOC Bordeaux
ワイン評論家のロバート・パーカーが、醸造家のテュヌヴァン氏を"Bad boy"と呼んだことから、それを銘柄としたボルドーワインで初めて英語の名前がついたガレージワインだ。2005年が最初のビンテージで、熟成は2010年以降、2025年頃までと予想されている。
まだ出たばかりなので、価格は安いが、いずれ評判が上がれば、同じテュヌヴァン氏のシャトー・ヴァランドローの様に価格も上昇することが見込まれる。
[1997] シャトー・ド・ヴァランドロー 750ml
ソムリエは、定評のあるワインを揃える他に、このような知られざるワインでも積極的に試飲して評価し、良ければ店の在庫として確保し、常連客さんに出すのだ。
ワインは色、香り、味の3つの点で判断するが、小飼さんが最も強調するのが、ワインの香りだ。
ワインの香りにはアロマとブーケがある。
言葉で言い表しにくいが、小飼さんは、若いワイン、たとえばボジョレー・ヌーヴォーの香りがアロマで、熟成した良いワイン、たとえばモンラッシュの10年ものの香りがブーケだという。
ワインの評価には香りが不可欠
利き酒の能力を伸ばすには利き酒につぐ利き酒しかない。コンクールなどでの利き酒での決め手は香りだと小飼さんは語る。
ワインの試飲で香りが重要な理由は、味だけでは、そのワインがどんなワインなのかを理解出来ない、つまり当てられないからだと。
グラスに注いで香りをかぐ練習が良い。
筆者の友人のソムリエは、ワインを一旦グラスに注いで、すぐにグラスを空にして香りをチェックする。こうすると熟成した時の香りがわかるのだという。
ソムリエはそこまで香りに真剣になる。利き酒というと、味を見るのかと思っていたが、プロのソムリエは香りをいろいろな角度から評価する。今まで疑問に思ってきたことがこの本を読んでわかった。
香りを記憶するために、フランスでは”ネ・デュ・ヴァン”という、香りのエッセンスを入れた小瓶54本セットのワインテスターがある。

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香りを表現していくには、”グー・デュ・ヴァン”というワインの香りを系統的に分けている本が良いという。
この本にはソムリエなどのプロの読者も想定して、小飼さんの「接客の心構え」9ヶ条、よいソムリエの5つの条件、「人を育てる心得」11のポイント、最後に国際ソムリエコンクールで出題される問題の傾向について説明していて興味深い。
この本を読むまで国際ソムリエ協会の会長が日本人だとは知らなかったが、日本のソムリエ業界を小飼さんと、田崎さんの二人で世界トップクラスにもり立てているようだ。
ソムリエコンクールの質問の傾向など、舞台裏も描かれていて面白い。
ワインに興味がある人に、是非おすすめする。
参考になれば投票ボタンをクリックして頂きたい。
2009年07月02日
モデル失格 押切もえさんの最大の長所はコンプレックス?
モデル失格 ?幸せになるためのアティチュード? (小学館101新書 24)著者:押切 もえ
販売元:小学館
発売日:2009-02-03
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ティーン誌"CanCam"のお姉さん版"AneCan"の専属モデルとして活躍する一方、テレビの英語番組、”英語でしゃべらナイト”のパーソナリティを務めるなど、積極的に才能を磨いているトップモデル押切もえさんの本。
「おっさんがこんな本読むな!」と言うことなかれ。いわゆる「タレント本」と思ってはいけない。
アマゾンのなか見、検索に対応しているので、是非目次のところを見て欲しい。
共感出来る点も多く、もえちゃんの芯の強さ、そしてなによりも生きることすべてにポジティブな性格には敬意を表する次第である。
もえちゃんはNHKの英語番組にレギュラー出演しているので、他のモデルとは違うなと以前から思っていたことが、この本を読んだきっかけだ。
この本を読んで、プロダクションが倒産して、仕事のない時は日雇いアルバイトをしていた不遇の時代があったり、CanCamの専属モデルとなってからもハワイで首を複雑骨折したり、コンプレックスと苦労を乗り越えて、もえちゃんの現在の姿があることを初めて知った。
この本の主題をもえちゃんは、第1章第3節のタイトルとしている。いわく:
「最大の長所は、コンプレックスです」
コンプレックスは人間を伸ばすバネとなる良い実例だと思う。
次がもえちゃんのコンプレックスだ。今では克服し、逆に特徴と転じて、現在のもえちゃんがある。
★顔がファニーフェイス
★モデルとしては身長が低い(といっても169センチ)
★読者モデルというスタート
★ティーンを過ぎた20歳になってからのティーン誌モデルスタート
★ティーン誌出身モデルというハンディ
★「臆病、あきらめが早い、人見知り」という三重苦の性格
★字が汚い、新聞が読めないというハンディ
筆者もコンプレックス克服が発端
余談になるが、筆者はあらすじブログを5年近く書いているので、先日知人から、昔からあらすじをまとめるのが得意だったのだろうと言われた。
実は全然そうではない。
むしろあらすじをまとめることは不得手だった。
恥ずかしい思い出だが、大学1年生の時に政治学の大森 彌(おおもり わたる)先生の教養のゼミを取った。
タイトルは「組織と人間」だったか、外国人の学者の論文の抄訳をまとめた本が教材で、学生2人が一組となり、それぞれが担当する章の要約を発表するというゼミだった。
自分の番が来たときに発表したあらすじは、本の引用をコピペしたようなもので、「○○教授は”○○である”と語り、その理由については”△△である”と語っている」というような、コピペあらすじだった。
一方、たしか開成出身のいかにもスマートな学生は、きちんと自分の言葉で担当の章を要約しており、自分の頭が整理されていないことを痛感させられた。
筆者は学生時代は1日1冊本を読むことをノルマにしており、それこそ漱石や芥川の小説から、政治学、哲学の本まで幅広く読んだ。
しかし、これまたページをめくり、字を追っていただけで、ゼミでの要約と同様に、本を読んでも自分の頭で理解していないものだから、単に「読んだ」というだけで、内容はほとんど憶えていなかった。
この度重なる「自分の頭が整理されていない」という発見は、強烈なコンプレックスを自分に抱かせることになった。
それから人の話や、本のあらすじを要領よくまとめることを目標としてきた。いまだに満足していないが、このブログを書くことで、自分の頭の中を整理するトレーニングをコンスタントに続けているのだ。
英語にしてもそうだ。会社に入った時は社内検定3級で、TOEICでいえば700点台だったが、米国駐在の時も含めてコツコツ向上を心がけ、TOEIC945点にまでなった。
これも、最初の海外駐在の時にパンナム機でスチュワーデスに"milk"を頼んだら、ビールを持ってこられたという屈辱があったから、発憤して英語能力アップに取り組んだのだ。
だからもえちゃんの「コンプレックスが最大の長所」というのは、まさに実感できる。
押切流、幸せになるための処方箋
押切流、幸せになるための処方箋として、「こころ」をポジティブにする方法、「からだ」をポジティブにする方法、「仕事」をポジティブにする方法、幸せをつかむ「姿勢=アティチュード」のつくり方を、それぞれいくつかの項目に分けて説明している。
なか見、検索で目次を見て欲しいが、いくつか抜き出すと、次のような処方箋を書いている。
★自分を好きになれないとき
★ここぞの勇気が欲しいとき
★どうしようもなく落ち込んだとき
★きれいになりたいとき
★ダイエットについて
★評価してもらいたいとき
★何をしていいかわからないとき
★行き詰まったとき
★どんなときでも「夢」に向かえ
★常に負けず嫌いたれ
★幸せに向かって、走れ
「『幸せになりたい』が、すべての原動力」で締めくくっており、「おばあちゃんになっても、現役モデルを続けていること」が将来の夢だという。
もえちゃんは太宰治の「人間失格」を繰り返し読んでいるので、この本のタイトルも「モデル失格」となっている。
人間失格 (集英社文庫)著者:太宰 治
販売元:集英社
発売日:1990-11
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「私はモデル失格だ」、そしてそれを認めたときから、私のモデル人生は始まったのだと。
もえちゃんも図書館でパワーアップ
この本のなかで、もえちゃんは参考になることを数多く書いているので、是非読んで欲しいが、そのなかでも筆者が注目したのは図書館についてだ。
仕事のモチベーションは家族だともえちゃんは語るが、仕事が無いときも、ただ家にいることを両親は許さなかったという。「働かざる者食うべからず」の精神だ。
そのおかげでもえちゃんは図書館に足を運ぶことになった。現状打破の方法が見つからないなら、先人に聞けということで、モデルや俳優で活躍している人の本を読み漁るようになったという。
前半は自分のコンプレックス克服法、後半は人生相談のような内容だ。筆者がいわゆる「タレント本」とは違うというゆえんである。
図書館について書いていることも好感を持った。「タレント本」とバカにせず、是非一度手にとって見て欲しい本である。
参考になれば投票ボタンをクリックして頂きたい。
2009年06月30日
俺は、中小企業のおやじ スズキの鈴木修社長の自伝
俺は、中小企業のおやじ著者:鈴木 修
販売元:日本経済新聞出版社
発売日:2009-02-24
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2008年12月に世界経済危機を乗り越えるために8年ぶりに78歳で社長に復帰したスズキの鈴木修社長の回顧録。
鈴木さんは年齢は7掛けで見て欲しいという。昔の寿命は50歳、今は平均寿命は70歳超、だから7掛けで見るのが適当だという。
今年79歳だが、7掛けなら56歳だ。たしかに60歳前後と言ってもおかしくないハードな仕事漬けの生活で、唯一の趣味は週1回のゴルフだという。
この本の冒頭には、鈴木さんの言葉が掲げられている。
「俺は中小企業のおやじ。やる気、そしてツキと出会い、運とともに生涯現役として走り続けるんだ。」
まさに走り続ける鈴木さんのビジネス人生が描かれている。
スズキでの経歴
鈴木さんは1930年岐阜県下呂市生まれ、終戦の年海軍航空隊に入隊するが、すぐに終戦。中央大学法学部を卒業後銀行に就職するが、1958年2代目社長鈴木俊三さんの娘婿として、浜松にあった鈴木自動車に入社。
当時の売り上げは48億円で、義父の鈴木俊三社長は、なんとか売り上げを月間5億円、年間60億円に持って行きたいと言っていたという。エンジン付き自転車のスズキモペットや日本初の軽自動車セダンスズライトが新商品だった。

スズライト 出典:Motor Magazine Medialog
実態は町工場で、あらゆる機械が天井のシャフトからベルトで動力を得ており、組み立てラインもベルトコンベアではなく、手押し車だったという。
最初に企画室に配属されるが、生産の実態をつかんでいない仕事ぶりに反発し、1週間で工程管理課という現場に移る。鈴木さんの仕事ぶりに企画室は反発し、3年後鈴木さんつぶしのため新工場建設チーム長として体よく追い出される。
鈴木さんは若い仲間を集めて愛知県の豊川市で1961年からスズキライトキャリイという2サイクル360CCの軽トラックの生産を始め、初年度は880台生産した。
スズキの工場は5万坪の本社工場が最初で、同様の小規模な豊川工場、10万坪の磐田工場、20万坪の湖西工場、15万坪の湖西第2工場、そして2008年7月には70万坪の相良工場が完成して生産能力を大幅に拡大した。
1963年には購買部長になり、零細企業ばかりのスズキの部品メーカーをオートバイで出かけて指導した。
取締役に就任。東京での営業を経て、輸出部長、1966年にUSスズキ社長としてアメリカに2年間駐在したが、2サイクルエンジンが主力のスズキのオートバイは売れず、10億円の赤字を出して帰国する。2サイクルは振動がひどく、バックミラーで後ろも見られなかったという。
辞表を出すが慰留され東京勤務となり、特徴ある自動車を生産していたホープ自動車から4輪駆動の製造権を買い、360CC2サイクルエンジンの軽自動車ジープ、ジムニーを売り出し大ヒットさせ、アメリカでの赤字を取り戻す。

初代ジムニー 出典: Motor Magazine Medialog
社長に就任
常務、専務、代表取締役専務を経て1978年社長に就任。当時のスズキの売上高は3,232億円だった。
それが30年間で売り上げは3兆円超と10倍に増えたが、鈴木さんは、スズキは部品組み立て業であり、部品の仕入れ高を減算した付加価値は3ー5,000億円にすぎない中小企業なのだと語る。
スズキの危機は25年周期で来る。最初は1950年の労働争議、会社は倒産寸前まで追い込まれた。このころトヨタも同じように労働争議で倒産寸前になっていた。
次は1975年。石油ショック直後、スズキは新型エンジンの開発に成功したと発表していたにもかかわらず、実際には開発に失敗し、トヨタ自動車からエンジンを供給してもらい、なんとか生き延びた。
3度目が今回の金融危機を発端とする世界同時不況だ。スズキの問題は人材で、過去の危機を知っている幹部社員がほとんどないので、減産を経験したことがなく、とまどっている。しかし、この時期は外注先にコスト削減を強いるのはもってのほかで、カラーコピーをやめたり、不要不急の投資をやめるなど、内なるコスト削減をしなければならないと鈴木さんは語る。
苦境に立たされるほどファイトが湧いてくる。悔いや失敗の連続だったこれまでの経験と率直な思いをつづることで、最大の危機を乗り切る力とすべく、この本を書いたという。
アルト
先日タタ自動車のナノ(リンク先はインドの車比較サイト)が10万ルピー(27万円、約3,000ドル)車として話題になったが、鈴木さんが社長に就任して初めて1979年に売り始めた軽自動車アルトは、ライトバン仕様として商用車の安い物品税を利用して、当初全国一律47万円で売り出した。当時の為替相場で約2,500ドルだった。コストは35万円だったので、十分利益が出たという。

タタ・ナノ 出典: Wikipedia

初代アルト 出典:日本の自動車技術240選
5回のモデルチェンジを経て、累計477万台、2008年は8万台売ったという。インドでは800〜1,000CCの大きめのエンジンを搭載しているが、やはりアルトをベースとするマルチ800(リンク先はインドの車比較サイト)がトップシェアで、年間34万台売れているという。
タタがこれからやろうとしていることを、スズキは日本で30年前に実現しているのである。
アルトは鈴木さんにとって忘れられない車である。鈴木さんの考えたキャッチフレーズは次の通りだ。
「あるときはレジャーに、あるときは通勤に、あるときは買い物に使える。あるとべんりな車。それがアルトです。」
一時は消える運命にあると見られた軽自動車がアルトの成功で、息を吹き返し、現在は新車市場の1/3、年間200万台を販売している。
またアルトの成功で、スズキはそれまでの2サイクルエンジンから4サイクルエンジンへの切り替え投資が出来たという。

2サイクルエンジン 出典:Wikipedia

4サイクルエンジン 出典: Wikipedia
現在は2サイクルエンジンはあまりないのかもしれないが、昔はオートバイは本田を除き、2サイクルエンジンが多かった。
筆者も中学の「技術」の授業でエンジンの構造を習ったが、2サイクルエンジンはオイル混合ガソリンを使い、簡単な構造だが、振動が激しく、排気ガスがオイルを含んでいるので白っぽく、においがするのが欠点だ。
オートバイのHY戦争
アルトを売り出して2年後の1981年にオートバイのHY戦争が起こり、ホンダとヤマハの激烈な値引き競争が起こる。発端はヤマハがホンダを抜き、世界1位になろうとシェア争いを始めたからだ。
シェアトップ1位、2位の争いなので、3位のスズキはなすすべがなく、5割減産に追い込まれた。もしアルトがなかったら、スズキはどうなっていたかわからないという。
一時はバイク1台1万円まで下がったHY戦争は、1983年ヤマハの敗北で終結する。
鈴木さんの経営手法
鈴木さんの経営手法がいくつか紹介されている。
★うなぎの寝床型工場 1キロくらいの長さの生産ラインとして、100メートルごとに資材の搬入口を付ける。フレキシブルに生産ラインを組み替えるためだという。
★重力と光はタダだ ベルトコンベアでなく、生産ラインに傾斜をつけて、重力で移動するような工場設計が特徴だ。光も極力自然採光を取り入れる。
★工場監査 鈴木さんは、1989年から年1回国内外の工場を丸一日かけて隅から隅まで歩き、ムダがないか目を光らす。「あの蛍光灯は必要なのか?」、「このスペースは空いている」というような指摘をする。工場監査は、VWの工場を見たことから始めたという。
★小少軽短美がモットー。
★工場にはカネが落ちている。野球の鶴岡一人元監督の「グラウンドにはゼニが落ちている」にならって。
★部品の共通化 VW元社長ハーン博士の教え。VWはモデルチェンジしても、ほとんど旧型車と同じ部品を使い続ける。VWはゴルフを17年で1,200万台生産しているのに対し、スズキのアルトは300万台弱の生産に留まる。このコストの差は大きい。
余談になるが、筆者が初めてのピッツバーグ駐在に赴任した1980年代後半にアメリカでも同じような話を聞いた。
そのときはGMとトヨタで、GMは乗用車部門は当時キャデラック、オールズモビル、ビュイック、ポンティアック、シボレーそしてサターンの6部門を持っていた。
GMがトヨタ車を買って、分解してみたら、カローラも上級車も、例えばワイパーモーターなどの部品は同じものを使っていたという。GMはそれぞれの部門で外見が似たような車をつくっていたが、内部は部門によってバラバラだった。
それに対してトヨタは、外見は違うが内部の使っている部品は同じだったという。見事に部品の共通化ができていたのだ。
筆者はアメリカで出張の時などにレンタカーを借りたが、GMの車は嫌いだった。別に性能とかシートの座りごこちなどはフォードもGMも変わりはないが、GMの車は、内装を車種ごとに変えているので、ワイパーやライトのスイッチが車種ごとに違っており、運転していて度惑うことが多かった。
特にポンティアックの車などは、スポーティな車が多かったせいか、内装のデザインがバラバラで、ワイパーやライトのスイッチが見つけにくく、閉口したものだ。
何もワイパーやライトのスイッチなど、車種ごとにレイアウトを変えることもないと思うが、内装デザインを変えるのが、当時のGMのやり方だった。
GMとの提携
1980年スズキは米国の某自動車メーカー向けに、新開発の1,000CCのエンジンを積んだカルタスをOEM供給する交渉をしていたが、契約は白紙となる。
そのとき既にGMと提携していたいすゞ社長の仲介で、GMとの提携が成立する。GMがスズキの5%の株式を取得し、小型車での3社提携が成立する。この時鈴木さんの言った言葉が、「蚊は鯨には飲み込まれない」だ。
カルタスを10万台/年輸出する契約を結ぶが、おりからの対米自動車輸出自主規制の延長に引っかかり、やむなくカナダオンタリオ州インガソルで合弁での現地生産を始める。この時のGMカナダのトップが後にGMのCEOとなるロジャー・スミス氏で、財務部長がその後のCEOで、今年解任されたワゴナー氏だ。生産したのはシボレースプリントという車種だ。

シボレースプリント 出典: Wikipedia
1989年4月に第1号車を生産し、累計生産台数は200万台を超えている。
鈴木さんはクルマづくりはGMから学んだと語る。小型車の分野は主にGMのドイツ子会社オペルと共同開発したが、オペルの技術者は頑固で、基礎を積み上げるやり方を実直に守っていたという。この成果が2005年RJCカーオブザイヤーのスイフトで、年産30万台以上を生産している。
GMにはもう一つ助けられたという。1988年6月ジープ型の4輪駆動車サムライが横転しやすいとして、米国のコンシューマーズユニオンが道路交通安全局にリコールを要請した。

1988年頃のジムニー 出典: Wikipedia
その数年前にアウディがオートマ車の急発進問題で欠陥車とされ、大打撃を受けたばかりだったので、鈴木さんはすぐに米国に向かった。消費者のクラスアクション(集団訴訟)に発展し、損害賠償額は1,400億円の規模だったが、GMの法務部長が道路交通安全局に話してくれ、クラスアクションに慣れている弁護士も紹介してもらい、9月にはサムライに安全性の問題はないとのお墨付きがでて決着した。
その後GMはスズキの持ち株比率を20%にまでアップされるが、昨年からの金融危機ですべて売却したことは記憶に新しい。
鈴木さんの、「私なら5分で決断できる」と「トップ・ダウンはコスト・ダウン」という言葉はGMのトップも使い出したという。
ハンガリー進出
1985年まだ共産党政権のハンガリーからスズキに自動車生産の話が伊藤忠商事経由持ち込まれ、スズキは1990年、ハンガリー49%、スズキ40%、伊藤忠商事11%の持ち株比率でマジャール・スズキを設立し現地生産を開始する。
スズキがハンガリーに進出を決めた当時の駐ハンガリー全権大使が、このブログで「日英同盟」や「チャーチルが愛した日本」などの著書を紹介している関栄次さんだ。
現在はスズキの持ち株比率は97.5%にまで上昇している。
当初は5万台規模で生産していたが、現地調達比率が60%以上を超えていたので、EUへの輸出が本格化し、現在は30万台生産している。ハンガリー国内向けは3万台程度で、残りはすべて西欧への輸出だという。
2008年10月にはスプラッシュという車を日本に輸入販売したという。日本でも売れる車をつくれるほどの工場に成長したのだと。

スプラッシュ 出典: Wikipedia
インド進出
鈴木さんは、「どんな市場でもよいからナンバーワンになって社員に誇りを持たせたい」と強く思っていたという。
スズキは1975年にパキスタンの自動車会社と技術提携契約を結んでいたが、1982年にインド政府がパートナー企業を募集するという情報を入手し、インド政府の訪日調査団を前に、どんな工場をつくらなければならないか鈴木さん自身が熱弁をふるった。
当時の日本メーカーは対米進出が最大の課題で、インドの話をまともに取り上げた自動車会社トップはなく、インド調査団の話を真剣に聞いてくれたトップは鈴木さんだけだったという。
1982年に話がまとまり、総工費2億ドル、資本金200億円のうち鈴木が26%出資して工場建設がスタートし、1992年に出資比率を50%に上げ、2002年に子会社化した。
日本的な経営でかまわないという条件だったので、カースト制を反映して幹部用の個室がある元のデザインを破棄し、すべて壁をぶちこわし、社員食堂も一緒にした。
グルガオン工場が出来たばかりのときは、鈴木さんも月1回はインドに行き、あれこれ指示していたという。工場のオープニングにはインディラ・ガンジー首相が、息子で国民車構想を打ち上げた故サンジャイ・ガンジー氏の悲願が実ったとスピーチした。
インドではマルチ800(2代目アルトと同じボディに800CCのエンジンを積む)を累計270万台生産しており、5代目アルトと4輪駆動のジムニーを生産している。

マルチ800 出典: Wikipedia
スズキはニューデリー郊外にある第2工場のマネサール工場を2007年2月から稼働させ、生産能力を年間100万台に大幅アップさせている。もちろんトップシェアである。
インドではフィアットから技術導入して、燃費の良い小型のディーゼルエンジンを製造しているという。
ワゴンR
2003年から2008年まで連続して日本の車別の販売台数トップがワゴンRだ。国内累計販売は310万台である。

ワゴンR 出典: Wikipedia
軽乗用車のワンボックスブームに乗り、それまで女性用の乗り物だった軽乗用車を、男性にも売り込める車にしたのだ。
この車のネーミングは、「スズキにはセダンもあるけど、ワゴンもあーる」ということで、ワゴンRとなったのだと。
鈴木さんは、小さな車を作ることに関しては誰にも負けないという自信があるという。
生涯現役宣言
鈴木さんは1979年に通産省に入省した浜松出身の小野さんを娘婿に迎え、いずれは後継者と考えていたが、小野さんは2007年にガンのために52歳で亡くなったのだ。2008年には津田社長が健康上の理由で退任し、鈴木さんみずからが社長としてカムバックした。
現在は月曜日と金曜日は役員昼食会、火曜から木曜は部門別の昼食会に鈴木さんも参加し、会社全体のレベルアップを図っているという。すごいエネルギーだ。
鈴木さんは中小企業のおやじ、生涯現役で走り続けるという。有給休暇は死んでから嫌というほどとれるからだと。
GEの元会長のジャック・ウェルチの自伝、"Straight from the Gut"(直訳すると、ガッツ(はらわた)からストレートに、腹蔵なしの意味)を現在オーディオブックで聞いているが、鈴木さんは日本の経営者のなかでも、最もガッツある、気骨のある経営者の一人だろう。
Jack: Straight from the Gut著者:Jack Welch
販売元:Hachette Audio
発売日:2001-09-11
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ビジネスの話中心で、他の話はほとんど書いてないが、面白く一気に読める。
是非一読をおすすめする。
参考になれば投票ボタンをクリックして頂きたい。
2009年06月26日
皇族たちの真実 竹田宮末裔の語る皇族の話
語られなかった皇族たちの真実-若き末裔が初めて明かす「皇室が2000年続いた理由」著者:竹田 恒泰
販売元:小学館
発売日:2005-12
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終戦後11宮家の皇籍離脱で一般人となった竹田宮の末裔、竹田恒泰さんの本。竹田さんは昭和50年生まれで、環境学や孝明天皇を研究し、現在は慶應大学法学部の講師として「天皇と憲法」を担当している。中田現市長が勝利した平成14年の横浜市長選挙に出馬も考えたが、まわりからとめられたという。
竹田さんの祖父の竹田恒徳氏は「スポーツの宮様」として、昭和28年からJOC委員となり、後にJOC委員長として昭和39年の東京オリンピックと昭和47年の札幌冬季オリンピックの誘致に成功している。
竹田さんの父君の竹田恒和さんは恒徳氏の三男で、馬術でミュンヘン、モントリオールオリンピックの代表となり、現在はJOCの会長を務めている。
竹田宮は伏見宮の傍系で、明治になって伏見宮から北白川宮が分家し、さらに竹田宮が分かれた。明治39年に生まれた比較的新しい宮家である。

出典:系図でみる近現代
皇族の役割
この本では、皇族の役割として1.皇統の担保(血のスペア)と、2.天皇の藩屏(はんぺい)を挙げており、それぞれについて説明している。
第1章は万世一系の危機ということで、女帝を認めるかどうかの議論を旧皇族の立場から論じている。これが皇統の担保だ。
第2章以下は、天皇の藩屏として、つまり天皇の近親者として天皇を守る役割で、戦争に加わった皇族、皇族達の終戦工作や、終戦の際の東久邇宮内閣や11宮家の皇籍離脱を取り上げている。
男系継承の意義
皇族の第一の存在理由は、皇統が途絶えそうになったときに、皇族が皇位を継承することによって万世一系を維持することだ。
2006年に秋篠宮文仁親王に悠仁(ひさひと)親王が生まれる前までは、皇太子ご夫妻の唯一の皇子は愛子内親王だったので、女性天皇を認めるように皇室典範を改正しようという動きがあった。
小泉首相の私的諮問機関として「皇室典範に関する有識者会議」が吉川弘之元東大総長を会長とする10名の委員で設置され、2004年に男女を問わない長子優先の制度が適当であり、女性天皇も認めるべき、女王の配偶者も皇族とすべきという答申を発表している。
竹田さんは、日本の皇室は男系継承されてきた世界で最も古い王家である。歴史上何度かあった皇統断絶の危機も皇位は常に男系で継承されてきたように、今後も男系継承の伝統は守られるべきだと語る。
男系継承は皇室にとって絶対に変えてはならない伝統であると。ただし竹田さんの主張は、竹田家や旧皇族の統一見解でなく、個人的意見であると断っている。
英国など他の国の王室との違いについては、竹田さんの「旧皇族が語る天皇の日本史」に詳しいが、他国の王室は、ロイヤルファミリーを殺して、別の権力者のファミリーが王座を乗っ取ったという歴史がある。
これに対して、日本の皇室は単一ロイヤルファミリーが2,000年も続いているというのが大きな差だ。
旧皇族が語る天皇の日本史 (PHP新書)著者:竹田 恒泰
販売元:PHP研究所
発売日:2008-02-14
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過去の皇統断絶の危機
今上天皇は第125代天皇にあたるが、過去109回は天皇の皇子、9回は天皇の皇孫、3回は皇曾孫が即位している。
このうち女性天皇は8方10代だが、すべて男系の天皇であり、女系の天皇はかつてない。
ここでは女系天皇と女性天皇を区別する必要がある。
女性天皇は既婚者の場合はすべて皇后または皇太子妃であり、夫が亡くなった後に践祚(せんそ)した。女帝が独身の場合は、生涯独身を貫くことが不文律としてあったという。
残り3例が皇統断絶の危機である。6世紀の第26代継体天皇と第25代武烈天皇は祖父同士がはとこ、10親等の隔たりがあるが、それでも男系継承が続けられた。
15世紀、室町時代の第102代後花園天皇は、皇統断絶の危機から伏見宮家よりの天皇が即位した。大宅壮一氏は、宮家とは血のリレーの伴走者であると評したそうだが、まさに”血のスペア”が現実となった事例だ。
最後の3例めは、江戸時代後期の18世紀末、第118代後桃園天皇が22歳で崩御した時だ。
御桃園天皇の子どもは2歳の欣子内親王で、近親に皇族男子がいなかったため、一時空位が生じたが、閑院宮家の8歳の祐宮を後桃園天皇の養子とした上で、第119代光格天皇として即位させた。
そして血縁を濃密にするために、欣子内親王は光格天皇の皇后となった。
光格天皇は在位38年と、昭和天皇の64年、明治天皇の46年に次ぐ歴代2位の在位期間で、院政の23年を入れると通算62年君臨し、明治維新につながる歴史の礎をつくった。
側室制度の意義
このように万世一系の皇統を維持するためには、世襲親王家と天皇の皇子を増やす側室制度が不可欠であったと竹田さんは語る。
昭和天皇の直系の先祖、大正天皇、明治天皇、孝明天皇、仁孝天皇は生母がすべて側室だが、だからといって皇位継承に何の問題もない。しかし昭和22年制定の現在の皇室典範は嫡子のみに皇位継承権があると明記され、庶子は皇族の身分が与えられなくなった。
天皇はなぜ尊いのか?
「旧皇族が語る天皇の日本史」では、竹田さんは学生から「天皇はなぜ尊いのか?」と聞かれて、その場では答えられなかったという話を紹介している。
竹田さんが男系継承にこだわるのは天皇家が2000年の伝統があるからに尽きると語る。天皇は初代天皇の血を受け継いできているから尊いのだと。
筆者も同感である。まさにそれ以外の説明はできないだろう。世界で唯一2000年続いてきたことに絶対の価値があるのだと思う。
このあたりは文化人類学者の竹内久美子さんの「万世一系のひみつ」のあらすじで紹介しているので、参照してほしい。
遺伝子が解く!万世一系のひみつ (文春文庫)著者:竹内 久美子
販売元:文藝春秋
発売日:2009-05-08
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また女性天皇を認める場合には、神道では生理は”穢れ”ということになるので、過去の女帝の時代には、生理の期間中は神事は行えないという支障も出ていたことを考慮に入れなければならない。
天皇の分身としての皇族
この本では戦争と皇族、終戦と皇族、占領下の皇族の3つの切り口から皇族が天皇のいわば分身として機能した例を取り上げている。
昭和16年日米戦争が避けられない雰囲気となってきた時、9月6日の御前会議で昭和天皇は明治天皇の御製を2度朗誦された。
「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風の立ちさわぐらむ」
はっきりと開戦回避を命じられたのだ。
それにもかかわらず10月に海軍元帥の伏見宮博恭親王が開戦を強く進言したことにいたく失望されていたという。
戦争反対の高松宮他の皇族
これに対し避戦を主張されたのが、海軍中佐で大本営参謀だった弟宮の高松宮宣仁親王だ。
高松宮殿下は開戦決定の御前会議の1日前の11月30日に昭和天皇と話し、開戦をやめるべきだと主張したが、昭和天皇は「そうか」とだけ言われたという。
天皇はこのときの心境を「昭和天皇独白録」に、次のように書いている。
「私は立憲国の君主としては、政府と統帥部との一致した意見は認めなければならぬ、もし認めなければ、東條は辞職し、大きな「クーデタ」が起こり、却って滅茶苦茶な戦争論が支配的になるであらうと思ひ、戦争を止める事に付いては、返事をしなかった」
昭和天皇独白録 (文春文庫)著者:寺崎 英成
販売元:文芸春秋
発売日:1995-07
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当時御殿場で、肺結核静養中だった秩父宮殿下は英国留学経験もあり、英米との開戦は絶対反対だった。
開戦後も、リスクを冒して外務省北米課長の加瀬俊一を米国・英国大使館に派遣して駐日米国大使のグルーと駐日英国大使のクレーギーに遺憾の意を伝えたという。
グルーが米国に外交官交換船で帰国後、格下の極東課長、つぎには国務次官に就任し、日本のために天皇制は残した方が良いと主張して回り、米国の占領政策に影響を与えた。
皇族の停戦工作
その後も高松宮はミッドウェーでの惨敗後、昭和天皇に手紙を送ったり、近衛文麿と細川護貞(もりさだ)と一緒に早期講和を訴え、昭和19年6月には昭和天皇と激論になったという。
この辺の事情は「高松宮日記」に詳しい。
高松宮日記〈第1巻〉著者:高松宮 宣仁
販売元:中央公論社
発売日:1996-03
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高松宮と秩父宮は東條英機とも対立した。
終戦直後の総理大臣に就任した東久邇宮稔彦王は、大正末期に7年間フランスに留学し、自由な生活を楽しんだが、当時親交のあった元首相のクレマンソーに次のように言われたという。
「アメリカが太平洋へ発展するためには、日本はじゃまなんだ。(中略)アメリカはまず外交で、日本を苦しめてゆくだろう。日本は外交がへただから、アメリカにギュウギュウいわされるのにちがいない。その上、日本人は短気だから、きっとけんかを買うだろう。
つまり、日本の方から戦争をしかけるように外交を持ってゆく。そこで日本が短気を起こして戦争に訴えたら、日本は必ず負ける。アメリカの兵隊は強い。軍需品の生産は日本と比較にならないほど大きいのだから、戦争をしたら日本が負けるのは当たり前だ。それだからどんなことがあっても、日本はがまんをして戦争してはならない」
やんちゃ孤独 (1955年) (読売文庫)
著者:東久邇 稔彦
販売元:読売新聞社
発売日:1955
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まさにクレマンソーがこう言って15年も前に予測していた通りの展開となったのだ。
東久邇宮は昭和16年9月の天皇が明治天皇の御製を詠んだ御前会議のあとに、陸軍大学同窓の東條英機陸相と激論を交えた。
クレマンソーの話も聞かせ、「アメリカの手にのって戦争をしないように我慢しなければならない」と説得したが、東條は「勝利の公算は2分の1である。危険ではあるが、このままで滅亡するよりは良いと思う」と答え、最後に「見解の相違である」と話を切り上げた。
東久邇宮は日中戦争を終わらせるために、右翼の巨頭で蒋介石が日本に亡命したときにかくまった頭山満を、蒋介石との交渉に派遣しようと昭和16年9月と改選後の12月にも画策するが、二度とも東條英機に「見解の相違」とかたづけられてしまう。
天皇の名代として日本軍の武装解除を説く
終戦の時も、昭和天皇は昭和20年8月12日に高松宮、三笠宮、賀陽宮、(かやのみや)、東久邇宮、梨本宮、朝香宮、東久邇宮、竹田宮、閑院宮、、朝鮮王室の李王垠、李鍵公の各皇族、王公族をよび、ポツダム宣言受託の旨を説明し、日本再建への努力を依頼した。
このあたりは、以前紹介した半藤一利さんの「日本のいちばん長い日」にも描かれている。
そして8月16日朝香宮はシナ派遣軍に、竹田宮は関東軍に、閑職院宮は南方総軍に天皇の名代として終戦と武装解除を伝達した。
竹田宮は満州国皇帝溥儀を亡命させる密命を受けていたが、ソ連軍が奉天飛行場まで迫ってきており、溥儀はソ連軍に身柄を拘束されシベリアに抑留されてしまう。竹田宮もあやうく難を逃れるが、護衛の戦闘機はソ連軍めがけて自爆した。
陸海軍あわせて789万人の武装解除を完遂するために、それからも各宮は厚木飛行場などに行って、天皇の指令で各地を訪問した。
その後10月10日に昭和天皇は伊勢神宮などにお参りし、自分がお参りできない120の天皇御陵にお参りすることを宮家の代表に指示した。
ちなみに半藤一利さんの対談集の「日本史はこんなに面白い」によると、天皇は10代の頃、すべての天皇御陵を訪問している。これは天皇が歴史の授業を受けた東京帝国大学教授白鳥庫吉の影響だという。
日本史はこんなに面白い著者:半藤 一利
販売元:文藝春秋
発売日:2008-07
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恐るべき米軍の諜報力
竹田宮はフィリピン侵攻の時に、参謀として飛行機でバターン半島を視察するが、後にGHQのウィロビー少将に会ったときに、「はじめてではない。1942年のはじめに、あなたは赤い吹き流しのついた飛行機でコレヒドール上空を飛んだでしょう。そのときにあなたに会いましたよ」と言っていたという。
マッカーサーは天皇のお使いがここまで飛んできたということは、日本軍がはっきり自信を持ってきた証拠だとみて、フィリピンを捨てて、豪州に退く決心をしたのだという。
東久邇宮内閣
戦後すぐの内閣として東久邇宮が総理大臣となる。近衛文麿と緒方竹虎をアドバイザーとして組閣するが、マッカーサーと天皇が並んで撮った有名な写真を掲載した新聞を、内務省が発行停止としたので、内務省解体をGHQは決意する。これが東久邇内閣が54日で総辞職するきっかけだった。

出典: Wikipedia
皇室ねらいの高率財産税
昭和21年9月にGHQの指令により財産税が導入され、昭和21年3月3日現在の1,500万円を超える財産に、最高90%の財産税を課せられることとなったので、天皇家と皇族は大きなダメージを受けた。
日本全体の財産税税収が43億円だったのに対して、天皇家は資産評価額37億円で、33億円を納税した。まさにGHQの皇室をねらい打っての財産税導入だ。
ちなみに三井、岩崎、住友などの財閥家は3〜5億円程度の資産だったので、天皇家の財産がいかに大きかったのかがわかる。皇族では高松宮の納税額1千万円がトップだったという。
11宮家の臣籍降下
昭和21年11月に昭和天皇の兄弟の秩父宮、高松宮、三笠宮をのぞいて11宮家、51人に臣籍降下が命じられる。この本の表紙の写真は昭和22年に行われたお別れ会の時の写真だ。
昭和22年5月3日の新憲法施行時に華族制度も廃止され、490華族が爵位と財産上の特権を失い、皇族に準ずる待遇を受けていた朝鮮の李王家も廃止となった。
赤坂にあった李王家の本邸は現在の赤坂プリンスホテルとなり、高輪にあった竹田宮本邸は高輪プリンスホテルとなり、竹田宮洋館は現在でも貴賓館として残っている。
昭和22年の廃止後も、菊栄親睦会という皇室と旧皇族の親睦会が続けられている。
11宮家のその後
この本では11宮家のその後を紹介しており、巻末資料として11宮家の起源から簡単に解説している。
竹田さんのおじいさんの竹田恒徳さんが、秩父宮とともに”スポーツの宮様”として、スポーツ振興に取り組み、後楽園アイスパレス建設とか、JOC委員、後に会長として東京・札幌オリンピック招致にあたっている。
竹田さんのお父さんもミュンヘン、モントリオール両オリンピックに出場した馬術選手で、現JOC会長だ。
11宮家のうち、すでに断絶したのが、東伏見宮家、山階宮家、閑院宮家で、継嗣がなく当主で断絶が見込まれるのが、梨本宮家、伏見宮家、北白川宮家である。
ちなみに今上天皇の第1皇女,黒田清子さんが勤めていたのが、山階宮家ゆかりの山階鳥類研究所だ。
今後も継続が見込まれるのは、賀陽宮家、久邇宮家、朝香宮家、東久邇宮家、竹田宮家の5家だ。
旧皇族は大企業に勤めたり、必ずしも成功ばかりではないが、事業を開始したりしている。
皇族の使命
最後に竹田さんは、すでに皇族制度は廃止されており、皇籍を離脱しているが、11宮家は”血のスペア”として”ノーブレス・オブリージュ”の責任を感じ、皇統の危機にあたっては、ともに悩む責任があると語る。
男系継承の可能性がある現在、女系天皇を議論するというのは、あまりに時期尚早であり、万世一系を冒涜する考えであると。
皇族制度が廃止されてすでに60年以上も経っており、普段あまり意識することがないが、竹田さんは旧宮家の一員として、きっちり言うべき事は言っている。
文末に100冊以上の主要参考文献を紹介しており、きちんとした調査の上に書かれた本であることがよくわかる。
時代を代表する出来事も簡潔に織り込み、この本全体を通して歴史の流れも理解できる優れた構成となっている。
読みやすく、わかりやすい。
是非一読をおすすめする。
参考になれば投票ボタンをクリックして頂きたい。
2009年06月25日
エルテがテーマのプチホテルが検索でトップグループ入り!
2009年6月24日再掲:
アールデコの寵児エルテがテーマの北軽井沢のプチホテルヴィラR&Tが、Yahoo!検索でもGoogle検索でもトップページにランキングされるようになった。

Google検索か、Yahoo!検索で、”軽井沢 ペンション”と打ち込んで、検索しすると、時々変動するようだが、トップページにランキングされている。
きれいなプチホテルで、おいしい料理とリーズナブルな料金設定が人気だ。
ホームページも相当凝っている。
軽井沢か北軽井沢に旅行で行かれるなら、プチホテルヴィラヴィラR&Tもおすすめです。
2007年12月18日再々掲:
以前ご紹介した北軽井沢のプチホテルヴィラR&Tのホームページが、全面リニューアルされたので再掲して、お知らせする。
今は寒ブリの季節で、オーナーに頼めば冨山の寒ブリを取り寄せてもらうことも可能だと思うので、是非お試しいただきたい。
筆者も昨年訪問したときに寒ブリを食べたが、脂が乗って普通のブリとは全然味が違った。
平日なら一泊二食付きで、8,900円という一周年記念スペシャルレートもある。
近郊のパルコール嬬恋スキー場のリフト券は普通だと3,900円(平日)から4,300円(週末)するが、ヴィラR&Tのリフト券付きパックだと3,000円アップで、大変お得なので、スキーに行かれる人には是非おすすめする。
2007年11月15日再掲:
以前紹介した北軽井沢のファンタジックなプチホテルヴィラR&Tが、お得な一周年記念料金で宿泊できるので、再度ご紹介する。
11月から3月までの特別料金は、平日1泊2食付で8,900円/日・人で、クリスマスから正月シーズンでも1,000円アップで泊まれる。
11月1日からオープンしている人工雪で手軽な軽井沢プリンスのスキー場とか、もよりのスキー場がいくつかあるが、おすすめはパルコール嬬恋。
ゴンドラも備えたスキー場で、リフトと違ってゴンドラなら風も受けず、寒い思いをしないで山頂に上がれ、途中きれいな樹氷も楽しめる。
コースは全長4.5KMで、下まで滑り降りるのに結構距離がある。
12月中なら通常4,300円の1日リフト券が、1,500円というお得なパッケージもプチホテルR&Tで利用可能だ。
軽井沢インターからプチホテルヴィラR&Tまで約1時間、都心から碓氷・軽井沢インターまで車で2時間半。新幹線でも行ける。
軽井沢ならスキーをしない人でも、プリンスのアウトレットモールとか、旧軽井沢の商店街、各種のミュージアムなど、いろいろ楽しめる。
ヴィラR&Tは食事も大変おいしく、手軽な旅行をお考えの方には、一周年記念パックのご利用を是非おすすめする。
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エルテ―幻想の世界を生きたアールデコの寵児 (六耀社アートビュウシリーズ)
アールデコの寵児と言われるエルテ(本名Romain de Tirtoff)をテーマにしたペンションを、友人が軽井沢に開いたので、エルテの作品集を読んでみた。
エルテの作品は、この本の表紙になっている「待つ女たち」など、幻想的で美しい女性を描いたものが中心で、まとまって紹介されている作品集を見たかった。
エルテはロシアの貴族階級に生まれ、父親はロシア海軍司令官だ。
代々ロシアの海軍高官の家族の出身だが、エルテ自身は海軍という男性らしい職業は忌み嫌っていた様だ。
当時のロシアの貴族階級はフランス語を話していた。エルテは8歳で1900年のパリ万博を見学して以来、フランス文化に惹かれていた。
1912年にエルテ20歳の時に、デザインの勉強のためにパリに移る。すぐにアールデコの大家ポール・ポワレに専属デザイナーとして雇われ、1915年からは"Vogue"と並ぶ世界的ファッション誌Harper's Bazar誌の表紙を22年間専属で描くことになる。
これがエルテの出世作となった。
アールデコの代表的アーティストとして版画やセリグラフの他、様々な劇の舞台衣装などもデザインする。
以前紹介した米国出身の黒人エンターテイナー、ジョセフィン・ベーカーがパリで活躍したのも、1925年からなので、ちょうどこの頃だ。
ヨーロッパが戦争に向かっている1930年代後半からは、アールデコは下火となり、エルテも1937年にHarper's Bazarの表紙画をやめることになる。
それから戦争をはさんで約30年間、アールデコとともにほとんど忘れ去られていたエルテが復活するのは、エルテが70歳となった1960年代だ。
一躍エルテを再度有名にしたのは、1967年から発表した数字やアルファベットを女性や動物などのポーズで美しく描いた作品だ。
アルファベットL

エルテの作品が多く見られるインターネットのサイトは、Doubletake Gallary画廊のイメージライブラリーがおすすめだ。126点の作品が紹介されている。
日本だとギャラリーダッドアートというサイトで多くの作品が紹介されているが、ほとんどの作品が売却済みだ。手軽に買える点が人気を呼んでいるようだ。
エルテの作品は手軽に買える作品もあるが、筆者が気に入っている「自由の女神」は、レアもので、アメリカでも9,000ドル(100万円)である。
自由の女神 昼バージョン

自由の女神 夜バージョン

そのエルテをテーマにしたペンションが北軽井沢にある。
筆者の友人がやっているプチホテルヴィラR&Tだ。
エルテ作品を取り扱う横浜の画廊ARK COMでも、エルテの作品とともに、ヴィラR&Tが紹介されている。
客室が4室の小さなプチホテルだが、各部屋エルテの作品が飾られ、設備も高級感があふれ、リゾートの非日常感覚が満喫できる。そして、なによりもオーナー夫妻のホスピタリティが良い。

ヴィラR&Tの全景

ヴィラR&Tの玄関は美しいブルーの扉だ。

玄関を入ってすぐ、この本の表紙になっているエルテの「待つ女たち」に迎えられる。

庭ではブルーベリーも栽培していて、朝食には自家製のブルーベリージャムが出される。

室内にはエルテの作品が多く飾られ、ファンタジックな非日常感が味わえる。

庭の置物も凝っている。

ヴィラR&Tの”RT”はフランス語読みだとエルテだ。プチホテルの名前と、芸術家エルテの名前を掛けているのだ。
ランチとディナーもやっている。
青森県五戸(ごのへ)のシャモロック という鶏、富山から取り寄せる海の幸など、食材にこだわった食事も、大変美味しいうえに、価格がリーズナブル だ。
1泊2食付きで8,900円という冬季スペシャル料金もある。
筆者も昨年利用させて貰ったが、パルコール嬬恋スキーリゾートの”超”格安リフト券付きのパッケージもあるので、軽井沢に行かれる人、スキー好きな人には是非おすすめする。
参考になれば投票ボタンをクリックして頂きたい。
アールデコの寵児エルテがテーマの北軽井沢のプチホテルヴィラR&Tが、Yahoo!検索でもGoogle検索でもトップページにランキングされるようになった。
Google検索か、Yahoo!検索で、”軽井沢 ペンション”と打ち込んで、検索しすると、時々変動するようだが、トップページにランキングされている。
きれいなプチホテルで、おいしい料理とリーズナブルな料金設定が人気だ。
ホームページも相当凝っている。
軽井沢か北軽井沢に旅行で行かれるなら、プチホテルヴィラヴィラR&Tもおすすめです。
2007年12月18日再々掲:
以前ご紹介した北軽井沢のプチホテルヴィラR&Tのホームページが、全面リニューアルされたので再掲して、お知らせする。
今は寒ブリの季節で、オーナーに頼めば冨山の寒ブリを取り寄せてもらうことも可能だと思うので、是非お試しいただきたい。
筆者も昨年訪問したときに寒ブリを食べたが、脂が乗って普通のブリとは全然味が違った。
平日なら一泊二食付きで、8,900円という一周年記念スペシャルレートもある。
近郊のパルコール嬬恋スキー場のリフト券は普通だと3,900円(平日)から4,300円(週末)するが、ヴィラR&Tのリフト券付きパックだと3,000円アップで、大変お得なので、スキーに行かれる人には是非おすすめする。
2007年11月15日再掲:
以前紹介した北軽井沢のファンタジックなプチホテルヴィラR&Tが、お得な一周年記念料金で宿泊できるので、再度ご紹介する。
11月から3月までの特別料金は、平日1泊2食付で8,900円/日・人で、クリスマスから正月シーズンでも1,000円アップで泊まれる。
11月1日からオープンしている人工雪で手軽な軽井沢プリンスのスキー場とか、もよりのスキー場がいくつかあるが、おすすめはパルコール嬬恋。
ゴンドラも備えたスキー場で、リフトと違ってゴンドラなら風も受けず、寒い思いをしないで山頂に上がれ、途中きれいな樹氷も楽しめる。
コースは全長4.5KMで、下まで滑り降りるのに結構距離がある。
12月中なら通常4,300円の1日リフト券が、1,500円というお得なパッケージもプチホテルR&Tで利用可能だ。
軽井沢インターからプチホテルヴィラR&Tまで約1時間、都心から碓氷・軽井沢インターまで車で2時間半。新幹線でも行ける。
軽井沢ならスキーをしない人でも、プリンスのアウトレットモールとか、旧軽井沢の商店街、各種のミュージアムなど、いろいろ楽しめる。
ヴィラR&Tは食事も大変おいしく、手軽な旅行をお考えの方には、一周年記念パックのご利用を是非おすすめする。
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エルテ―幻想の世界を生きたアールデコの寵児 (六耀社アートビュウシリーズ)アールデコの寵児と言われるエルテ(本名Romain de Tirtoff)をテーマにしたペンションを、友人が軽井沢に開いたので、エルテの作品集を読んでみた。
エルテの作品は、この本の表紙になっている「待つ女たち」など、幻想的で美しい女性を描いたものが中心で、まとまって紹介されている作品集を見たかった。
エルテはロシアの貴族階級に生まれ、父親はロシア海軍司令官だ。
代々ロシアの海軍高官の家族の出身だが、エルテ自身は海軍という男性らしい職業は忌み嫌っていた様だ。
当時のロシアの貴族階級はフランス語を話していた。エルテは8歳で1900年のパリ万博を見学して以来、フランス文化に惹かれていた。
1912年にエルテ20歳の時に、デザインの勉強のためにパリに移る。すぐにアールデコの大家ポール・ポワレに専属デザイナーとして雇われ、1915年からは"Vogue"と並ぶ世界的ファッション誌Harper's Bazar誌の表紙を22年間専属で描くことになる。
これがエルテの出世作となった。
アールデコの代表的アーティストとして版画やセリグラフの他、様々な劇の舞台衣装などもデザインする。
以前紹介した米国出身の黒人エンターテイナー、ジョセフィン・ベーカーがパリで活躍したのも、1925年からなので、ちょうどこの頃だ。
ヨーロッパが戦争に向かっている1930年代後半からは、アールデコは下火となり、エルテも1937年にHarper's Bazarの表紙画をやめることになる。
それから戦争をはさんで約30年間、アールデコとともにほとんど忘れ去られていたエルテが復活するのは、エルテが70歳となった1960年代だ。
一躍エルテを再度有名にしたのは、1967年から発表した数字やアルファベットを女性や動物などのポーズで美しく描いた作品だ。
アルファベットL
エルテの作品が多く見られるインターネットのサイトは、Doubletake Gallary画廊のイメージライブラリーがおすすめだ。126点の作品が紹介されている。
日本だとギャラリーダッドアートというサイトで多くの作品が紹介されているが、ほとんどの作品が売却済みだ。手軽に買える点が人気を呼んでいるようだ。
エルテの作品は手軽に買える作品もあるが、筆者が気に入っている「自由の女神」は、レアもので、アメリカでも9,000ドル(100万円)である。
自由の女神 昼バージョン
自由の女神 夜バージョン
そのエルテをテーマにしたペンションが北軽井沢にある。
筆者の友人がやっているプチホテルヴィラR&Tだ。
エルテ作品を取り扱う横浜の画廊ARK COMでも、エルテの作品とともに、ヴィラR&Tが紹介されている。
客室が4室の小さなプチホテルだが、各部屋エルテの作品が飾られ、設備も高級感があふれ、リゾートの非日常感覚が満喫できる。そして、なによりもオーナー夫妻のホスピタリティが良い。
ヴィラR&Tの全景
ヴィラR&Tの玄関は美しいブルーの扉だ。
玄関を入ってすぐ、この本の表紙になっているエルテの「待つ女たち」に迎えられる。
庭ではブルーベリーも栽培していて、朝食には自家製のブルーベリージャムが出される。
室内にはエルテの作品が多く飾られ、ファンタジックな非日常感が味わえる。
庭の置物も凝っている。
ヴィラR&Tの”RT”はフランス語読みだとエルテだ。プチホテルの名前と、芸術家エルテの名前を掛けているのだ。
ランチとディナーもやっている。
青森県五戸(ごのへ)のシャモロック という鶏、富山から取り寄せる海の幸など、食材にこだわった食事も、大変美味しいうえに、価格がリーズナブル だ。
1泊2食付きで8,900円という冬季スペシャル料金もある。
筆者も昨年利用させて貰ったが、パルコール嬬恋スキーリゾートの”超”格安リフト券付きのパッケージもあるので、軽井沢に行かれる人、スキー好きな人には是非おすすめする。
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2009年06月24日
「エコノミック・アニマル」は褒め言葉だった 役に立つ英語のショートストーリー集
「エコノミック・アニマル」は褒め言葉だった―誤解と誤訳の近現代史 (新潮新書)著者:多賀 敏行
販売元:新潮社
発売日:2004-09
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ケンブリッジ大学で法学の修士学位を持つ外交官で、東京都儀典長の多賀敏行さんの英語の本。
先日お目にかかる機会があったので、サインも頂いた。
タイトルも含めて、次のような文を集めている。
第1章 「日本人は12歳」の真意
第2章 「エコノミック・アニマル」、「ウサギ小屋」は悪口か
第3章 アーネスト・サトウと山下将軍の無念
第4章 暗号電報誤読の悲劇 ー 日米開戦前夜
第5章 漱石の鬱屈、魯迅の感動
第6章 ダイアナ妃とブッシュ・シニアの文法
第7章 存在しない「グローバル・スタンダード」という言葉
第8章 ブッシュ・ジュニアの国連演説
第9章 騒動の中心はたったひとつの言葉
付録として1951年5月5日のマッカーサーの上院答弁の原文、1941年11月4日の日本の東郷外相から野村駐米大使宛ての電報(暗号が誤読された電報原文)、1979年のEC報告書(英語版)を紹介している。
「文藝春秋」などで公開された作品もあり、文学小品として大変興味深いものばかりだ。
マッカーサーの「日本人は12歳」発言
たとえばマッカーサーの「日本人は12歳」発言。筆者もマッカーサーが日本人のことを見くびった発言だとばかり思っていたが、この本の解説と原文を読むと、決して日本人をバカにした発言ではないことがわかる。
日本人をバカにした発言と思いこんでいる著名人の例が挙げられており、そのような評価につながった朝日新聞の報道や「天声人語」も紹介されている。
意に添わない受け止められ方をしてマッカーサーも残念だったことだろう。多賀さんも「あまりにも気の毒な感じがしてならない」と語っている。
マッカーサーの発言は、マッカーサーがトルーマン大統領に解任されて、帰国直後の1951年5月5日の上院の軍事・外交合同委員会の時のものだ。
ちなみにこの1ヶ月ほど前に、マッカーサーは上下両院議員を前に「老兵は死なず。ただ消え去るのみ」(Old soldiers never die; they just fade away.)という有名な言葉で締めくくった演説をしている。
日本の民主化の成功を得々と説明するマッカーサーが、つい「一旦自由を享受した国民が(平時に)自発的にその自由を手放したという事例は一つたりとも私は知りません。」と言い切ったのに対して、ロング議員が意地の悪い切り返しをした。
ロング委員はワイマールドイツの例を出し、一旦は民主化したのにファシズムに転換した例もあるではないかと鋭く突っ込んだので、とっさにマッカーサーが答えたのがこの発言だ。
ドイツやアングロサクソンは文化的にも45歳の成熟期といえ、ナチズムも国際道義を知っていながら侵略やホロコーストなどを確信犯的に犯したものだ。
これに対し日本は長い歴史がある民族ではあるが、社会の発達の度合いからも12歳の少年のように(they would be like a boy of 12)ナイーブで民主主義教育が可能だと言いたかったものだ。
多賀さんの総括の言葉を引用すると:
「日本人はドイツ人と異なり封建体制下でしか生きたことがなく、世界のことも十分知らず暮らしてきた。欧米の社会の発展の度合いでみると子供のようなものである。しかし子供であるからこそ、教育が可能だ。壮年期に確信犯として悪事を働いたドイツとは違う」ということを強調したかったのだろう。」
この本で紹介されている原文を読んでも、多賀さんの理解が正しいと思う。
ネガティブ発言として歴史に埋もれてしまったマッカーサー発言を、原典にまで遡って調査して、誤解を解消する多賀さんの地道な言論活動に敬意を表する次第である。
マッカーサーと、その良きカウンターパートの吉田茂も感謝していることだろう。
その他の話の要旨
詳しく紹介すると本を読んだときに興ざめとなるので、筆者の備忘録も兼ねて要旨だけ紹介しておく。
★「エコノミック・アニマル」、「ウサギ小屋」は悪口か
日本を「エコノミック・アニマル」と読んだのはパキスタンのブット元首相だが、多賀さんの外交官の先輩によるとブット氏は「自分は決して日本人を侮辱するつもりでエコノミック・アニマルと言ったのではないのに」と語っていたという。
ブット氏はUCバークレーとオックスフォード大学を卒業し、同大学で教鞭をとったこともあり、完璧なイギリス英語を話したが、この「○○アニマル」という云い方は、決して侮辱的ではないことが様々な根拠から論証されている。
★1979年のECの報告書に「日本人はウサギ小屋のような住居に住んでいる」と書かれたことを、フランス語の原文までたどって、決して侮辱的な意味ではなかったことをきっちり説明している。
フランス語では共同住宅のことを"cage a lapins"、と呼んでいるが、これは文字通り訳すと「ウサギ小屋」となるのだ。
★アーネスト・サトウと山下奉文(ともゆき)将軍の無念
アーネスト・サトウは幕末の日本を書いた「一外交官の見た明治維新」の著者として有名だ。アーネスト・サトウの話は、幕府との交渉の時に"The treaties"なのか"treaties"なのかで、あいまいに幕府側が説明したことにミスリードされたという話だ。定冠詞の有無で意味が全然異なる例である。
一外交官の見た明治維新〈上〉 (岩波文庫)著者:アーネスト サトウ
販売元:岩波書店
発売日:1960-01
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山下奉文中将はシンガポール陥落の時の日本軍指揮官で、英軍パーシバル中将が降伏交渉でくどくどと条件交渉をはかったので、"Yes"か"No"かで答えを迫ったという話で有名だが、実はこれは通訳が悪かったのでしびれをきらしたのだという。
終戦の時、フィリピン方面軍総司令官の山下奉文大将の降伏調印式には捕虜収容所から出所したばかりのパーシバル中将がいたという。マッカーサーの報復である。
山下奉文―昭和の悲劇 (文春文庫)著者:福田 和也
販売元:文藝春秋
発売日:2008-04-10
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★暗号電報誤読の悲劇
太平洋戦争前からアメリカは日本の暗号を解読していて、ルーズベルト大統領は”マジック”と呼んでそれを読んでいたが、実は重要な部分に誤訳があってそれが日米交渉を終了に追い込んだ理由の一つになったという。
今度紹介する「真珠湾の真実」でも解読された日本の暗号文が数多く紹介されているが、この本では英文と和文が対照されているので、興味深くわかりやすい。
真珠湾の真実 ― ルーズベルト欺瞞の日々著者:ロバート・B・スティネット
販売元:文藝春秋
発売日:2001-06-26
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開戦当時、外務次官だった西春彦氏は「回想の日本外交」に、日米交渉の際に日本側が甲・乙両案を出したのに、アメリカ側は重大な譲歩を含む甲案に興味を示さなかったので不審に思ったことを書いている。
西氏が戦後、東京裁判の時に不思議に思って米国の暗号解読資料を読んでみると1941年11月4日の東郷外相から野村駐米大使宛の電報が、米国側に誤訳され、日本側は誠意がないと受け止められる内容となっていて、はじめて甲案に米国が反応を示さなかった原因がわかったという。
この傍受電報の誤訳が日米交渉が決裂した大きな原因の一つになったと思うと、西さんは、その晩は眠れなかったという。
回想の日本外交 (1965年) (岩波新書)著者:西 春彦
販売元:岩波書店
発売日:1965
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★漱石の鬱屈(うっくつ)、魯迅の感動
ロンドン留学時代の夏目漱石が官費留学にもかかわらず金欠病で、海外生活不適応症候群となっていたのに対して、日本留学中の魯迅は「藤野先生」にも書かれている通り、大変熱心に指導を受け、文法の誤りも含めノートはすべて朱筆してもらったという。
阿Q正伝・藤野先生 (講談社文芸文庫)著者:魯迅
販売元:講談社
発売日:1998-05
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多賀さんもケンブリッジ留学時代に教授から"I am slightly disappointed at your rather slow progress."という具合に「英国人的指導」を受け、それから論文を念入りに朱筆してもらって、有り難かったことや、英国での下宿生活の経験を書いている。
筆者もアルゼンチンで2年間、研修生として賄い付きの下宿で生活していたが、他に3人アルゼンチン人の同宿人がいた。
いまだに彼らとは文通しているが、土日(平日は朝・夕、土日は夕食はなかった)は彼らと一緒に食事したり、外出したりして楽しく過ごし、スペイン語漬けの生活を送ったので、帰国して社内スペイン語検定で1級が取れた。
同宿人はスペイン系アルゼンチン人とイタリア系アルゼンチン人だったが、一緒に町を歩くと、出会った若い女性には必ず声を掛けるので、閉口する部分もあったが、今から思えば楽しい思い出である。
多賀さんも書いているが、やはり良い下宿、良い環境で生活するというのは、語学を上達させる上で絶対に必要だと思う。
★ダイアナ妃とブッシュ・シニアの文法
湾岸戦争の時に、ブッシュ・シニアが「サダム・フセインがイラクからいなくなったらよかっただろうとは思う。これは超過去完了時制ですよ。」と言ったという。
原文では、"'Out of there' would be have been nice. This is ex-pluperfect past tense."と言ったという。「超過去完了」などなく、実際には仮定法過去だが、インテリらしく見せないブッシュ・シニア一流の切り返しだという。
ダイアナ妃は自分のことを"She won't go quietly"とインタビューで語り、強い女の一面をのぞかせた。
★存在しない「グローバル・スタンダード」という言葉
よく「アメリカン・スタンダードはグローバル・スタンダードではない」という風に使われるが、これは和製英語のようだ。
★ブッシュ・ジュニアの国連演説
"We will work with the U.N. Security Council for the necessary resolutions"と最後が複数形になっているのは、フランスに配慮してのことだという。英語は奥が深い。
★騒動の中心はたったひとつの言葉
カナダのクレティエン首相の報道官がブッシュ大統領のことを"moron"と呼んで辞任。"moron"とはうすのろのことだ。その他"recalcitrant"とか難しい単語をめぐってのエピソードが紹介されている。
多賀さんの知性と教養があふれる英語のショートストーリー集である。楽しく読めてためになる。
簡単に読め、大変面白い本なので、是非手にとって見て欲しい。
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2009年06月19日
何で今、蟹工船ブームなの? プロレタリア文学をオーディオブックで聞く
蟹工船・党生活者 (新潮文庫)著者:小林 多喜二
販売元:新潮社
発売日:1954-06
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今なぜかベストセラーとなっているプロレタリア文学の代表作小林多喜二の「蟹工船」をオーディオブックで聞いた。
図書館でカセットを借りて、アナデジ転換ソフトでiTunesに取り込んで聞いたが、現在同じオーディオブックは売っていない様なので、アマゾンで載っている最近のものを紹介する。
[オーディオブックCD] 蟹工船著者:小林 多喜二
販売元:パンローリング
発売日:2008-08-15
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もう一つは低音の魅力の声優の若山弦蔵さんが吹き込んでいる。
蟹工船 (新潮CD)
著者:小林 多喜二
販売元:新潮社
発売日:2008-08-29
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筆者が聞いたオーディオブックは北海道帯広市出身の仁内達之さんが、吹き込んでおり、東北弁のセリフが本当にリアルで、労働歌なども良い。
アマゾンで売っているオーディオブックは聞いていないが、たぶん東北弁が話せる俳優が吹き込み、労働歌を歌わせていると思うので、本を読むよりも臨場感があって記憶に残ると思う。
ただ正直、本だったら最後まで読み通したかどうかわからない。それほど暗い内容で、読む者の気分を落ち込ませる。
小説のあらすじは筆者のポリシーとして詳しく紹介しないが、昭和初期、カムチャッカの海で蟹を捕っては缶詰に加工する、作業環境劣悪のいわゆる「たこ部屋」蟹工船を描いたものだ。
小説の中では、水産会社は儲かって、社長は代議士に立候補するほどいい生活をしているのに、労働者は最低の生活を強いられ、命の危険と隣り合わせの生活をしていることが描かれている。
老朽船の蟹工船が難破すると、むしろ保険料が入ってきて会社は儲かるので、SOSを聞いても助けに行かないごうつくばりの監督が労働者の敵として描かれている。
昭和初期の話だが、この本を読んで白洲次郎は戦前に日本水産の取締役を務めていたことを思い出した。白洲次郎はさしずめこの本で出てくる資産家の代表となるのだと思う。
余談になるが、筆者はロシアに2度出張したことがあり、毎回蟹缶詰をおみやげに買って帰った。
もう20年近く前の話だが、タラバガニの缶詰が5ドル程度だったと思う。
ロシアではキャビアも安いので(といってもワンオーダー30ドルくらいはしたが)、出張中は結構キャビアも食べていた。
ボルシチもおいしいし、アルゼンチンで”エンサラダ・ルサ”、ロシアンサラダというビーツ(赤大根)とポテトのサラダを本場で食べた。
ロシアの食事は安くておいしかった記憶がある。
もっともあれから20年近く経っているので、今やモスクワは車が増えすぎて飛行場に行くのもどれだけ時間が掛かるか読めないほどの大渋滞らしい。
閑話休題。
プロレタリア文学なので、資本家への反発が根本にあるが、ソ連に親近感を持っているのかどうかははっきりしない。
「赤化」という言葉が頻繁に出てきて、ソ連への好意と思えるところもあるし、工場監督の言葉ながら、「ロスケ」と呼んで共産主義をバカにした部分もある。
いずれにせよ、何で今、「蟹工船」がリバイバルしているのか、理由が分からない。
最後に労働者が立ち上がる場面があるが、それも単に集団サボタージュであり、別に労働者が良い労働条件を勝ち取る訳ではない。
蟹工船労働者の日常という以外に、ストーリーらしいストーリーはなく、気分が滅入るほど悲惨な蟹工船での労働者の生活を冷酷に描いた作品なので、あまりおすすめはしないが、話題の本という意味では一度読んでもよいかもしれない。
既に著作権が切れ、青空文庫で公開されているので、一度どんなものか、ざっと見る手もある。
テキストファイルと、XHTMLファイルの2種類があるが、XHTMLファイルの方が読みやすいと思う。
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2009年06月18日
コミュニケーションをデザインするための本 ガンバレ広告業界
コミュニケーションをデザインするための本 (電通選書)著者:岸 勇希
販売元:電通
発売日:2008-09-03
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電通のカリスマ広告クリエーター杉山恒太郎さんが、先日のダイレクトマーケティングEXPOの基調講演で紹介されていたので読んでみた。
杉山さんといえばこのブログで紹介した「明日の広告」のさとなおさんの上司でもあり、サントリーのランボーとか数々のCMの名作で有名だ。
明日の広告 変化した消費者とコミュニケーションする方法 (アスキー新書 045)著者:佐藤 尚之
販売元:アスキー
発売日:2008-01-10
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広告理論については、「ホリスティック・コミュニケーション」という本で、伝統的なAIDMA(Attention Interest Desire Memory Action)に代わり、今はAISAS(Attention Interest Search Action Share)だと提唱している。
ホリスティック・コミュニケーション
著者:秋山 隆平
販売元:宣伝会議
発売日:2004-01
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この本では電通の新進コミュニケーションデザイナーの岸勇希さん(新卒入社ではないが、2004年入社なので5年目!)が、将来に不安を感じている広告業界の人、広告クライアント、そして広告業界を目指す人のために自らのコミュニケーションデザイン作品を紹介している。
次の7例が取り上げられている。
CASE 1 永谷園 「ミス冷え知らず COLLECTION '08」
CASE 2 ワールド通商 「求ム、天才」
CASE 3 フマキラー 「一発命虫!バイラル・キャンペーン」
CASE 4 ロケットカンパニー 「漢字DS プロモーションキャンぺーン」
CASE 5 マリエール 「40人40色の恋愛模様」
CASE 6 メ〜テレ(名古屋テレビ) 「ウルフティッカー」配布キャンペーン
CASE 7 「新聞ブログ」開発プロジェクト
岸さんのブログにこれらの作品が紹介されている。
筆者はどれも知らなかったが、「ミス冷え知らず」は、冷え性の女性向けのカップスープで、OL予備軍の女子大学生をターゲットにキャンペーンを行った。
大学のキャンパスで、”タダコピ”という裏紙が広告となっている代わりに無料でコピーできる機械を大学に設置して、16大学のミスキャンパスの写真とサーモグラフィー写真を裏紙にして宣伝した。
そしてウェブサイトとモバイルサイトでは16人のミスを紹介した。


現在はキャンペーンサイトは閉鎖されているが、CMをつくっているシーンがasahi.comで紹介されている。
さらにブロガーにサンプルを配って、ブログやSNSで紹介してくれるようにして盛り上げた。
結局期間中に目標売り上げの250%を達成し、期間中に100万食を売り上げたという。
その他いろいろなアイデアで消費者とのコミュニケーションを提案している。
電通は数年前から、自らの事業領域を「広告代理業」ではなく、「トータル・コミュニケーション・サービス」と定義しているという。
テレビや新聞などのマス広告の効果がどんどん落ちているので、広告業界もこれからは大変だろう。
若い広告マンの苦悩がわかる本である。
ガンバレ広告業界!
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2009年06月17日
日本は侵略国家ではない 田母神論文を収録
日本は「侵略国家」ではない!著者:渡部 昇一
販売元:海竜社
発売日:2008-12
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元航空自衛隊幕僚長田母神俊雄さんと、上智大学名誉教授渡部昇一さんの共著。
田母神さんは、昨年「日本は侵略国家であったのか」論文が、アパグループ代表、元谷外志雄さん主催の「真の近現代史観」論文コンテストで優勝したが、政府公式見解と異なる主張を公にした責任を問われて幕僚長を更迭された。
それからはマスコミにしばしば登場し、ひょうきんなキャラクターで人気となっている。
普通本を読む時には、著者の意見に同感できるか、新しい知識を得られないと良い本とは思わない。
その意味ではこの本はどちらも中途半端なので、おすすめはできないが、こんな意見の人もいて、たぶん主張には真実も含まれているのだろうとは思う。
信念の人 田母神さん
田母神さんは信念の人だと思う。
まだ現役だったころに中国に出張した時、日本は侵略国家だったという中国の軍人に対して、真っ向から日本は悪くないと反論したという。
それから日中防衛交流に影響が出る時期もあったが、しばらくしたら収まったという。
辞任の原因 村山談話からの乖離
平成7年の村山富市首相の、「戦後50年の終戦記念日にあたって」、いわゆる「村山談話」は次の通りだ。
「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。
私は、未来に過ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明致します。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。」
歴代首相は就任すると必ず、野党から「村山談話」を突きつけられ、踏襲するかどうか迫られる。まるで踏み絵だという。
麻生首相が「踏襲」(とうしゅう)を「ふしゅう」と読んでしまったため、マスコミの餌食になったが、麻生首相も例外ではなかった。
村山談話は言論弾圧の道具?
田母神さんは、前述の懸賞論文の件で航空幕僚長を解任された直後に、参議院の外交防衛委員会に参考人として招致された。
田母神さんの個人的な見解は封印され、文民統制違反としてやり玉に挙げられたという。
国会が終わったあと、田母神さんは「『村山談話』は原論弾圧の道具だ。自由な議論を追求することができないなら、日本は北朝鮮と同じだ」と記者に発言し、これまた火に油を注ぐ結果となる。
「日本は悪い国?」
「我が国は侵略国家であり、醜く悪い国」と表明する日本国とは、いったいどういう国なのかと田母神さんは語る。
田母神さんは、日本の戦後知識人が日本を「悪い国」にしたと語り、全面講和を主張した南原繁総長はスターリンの指示を受けて全面講和を貫いたとか、南原さんの後の矢内原忠雄総長は、戦前「神よ、日本を滅ぼしたまえ」という論文を書いており、一橋大学の都留重人名誉教授は、本物の共産党のスパイだったと言われているという。
こんな初めて聞く話がやたら出てくる。
日本のおわび外交は小和田恒さんから?
谷沢永一関西大学名誉教授は、日本がお詫び外交に変わったのは、昭和60年の皇太子妃雅子様の父君の小和田恒(ひさし)氏の、悪いのは日本だったという国会発言からだと語っていることを、渡部氏は紹介している。
国際司法裁判所所長の小和田恒氏は、東大の横田喜三郎教授(後に外務省顧問)の影響を受けているが、横田教授は、東京裁判を国際法上も有効で、アメリカの占領政策を擁護する発言をしていという。
前防衛大臣の石破茂氏は中国共産党系の新聞に、「靖国神社を参拝したこともないし、これからも絶対に参拝しない」、「大東亜戦争は日本の侵略戦争でした」、「南京大虐殺も事実です」などと答えており、売国的発言であると渡部氏は語る。
「日本は悪い国だった」と売国的発言をした当時現役防衛大臣の石破氏が追求されず、「日本はいい国だった」と正論を述べた田母神さんが更迭されるのは、どういうことだと。
航空自衛隊には最高の戦闘機が必要?
田母神さんの話で興味を惹くのは、「日本の航空自衛隊には、徹底的に世界最高の飛行機を与えなければなりません。そしてそれには、一番練度の高いパイロットがいなければなりません。空幕さえしっかりしていれば、敵は来ることができないのです。」という発言だ。
自衛隊は米国が機密が漏れるとして売りたがらないF−22が必要だと言いたいのだろう。以前も書いたが、いまさら人が飛行機に飛び乗って迎撃に行く時代なのだろうか?むしろミサイルや無人機・軍事衛星などの時代ではないのだろうか?

出典:Wikipedia
田母神さんは、戦前戦後を通じての航空のエース源田実さんの発言を引用して、零戦が勝てなくなって日本はダメになったので、終戦直前には最新鋭の「紫電改」を導入してアメリカ軍を苦しめたが、戦力集中でなく各地に戦力を散らばらせたので負けたのだと語っている。
ちなみに筆者は、ちばてつやさんのマンガ「紫電改のタカ」を子どもの頃読んでいたので、紫電改には親しみがあるが、実際は生産量も少なく、燃料も不足していたので到底戦局を変える力はなかったのが現実だ。
紫電改のタカ (4) (中公文庫―コミック版 (Cち1-4))著者:ちば てつや
販売元:中央公論新社
発売日:2006-07
クチコミを見る

出典: Wikipedia
戦闘機さえ強ければ爆撃機は来られない。爆撃機が来られなければ、船も来られないのだと田母神さんは語っているが、およそあきれた話である。
第2次世界大戦は、石油確保とロジスティックス(兵站)が戦争に勝つための必須条件だという近代戦争の典型だと思う。
日本もドイツも戦闘機は残っていた。特にドイツは最新式のジェット戦闘機、ME262を2,000機以上も製造していたが、燃料が不足していたので、迎撃はおろかパイロットの訓練にも飛び立てず、連合軍の爆撃を許したのだ。

出典: Wikipedia
紫電改も同じ事だ。全部で1,400機程度では数としても不足な上に、燃料がなくては、迎撃にも飛び立てない。
田母神論文
この本では問題になった田母神論文が原文で紹介されている。
渡部さんも書いているが、原稿用紙にすると18枚であり、これは論文ではなくエッセーである。
証拠も不十分で、言いっぱなしの感があり、論拠としてはきわめて薄弱と言わざるを得ない。
田母神論文の論点を抜き出すと。
★我が国は戦前中国大陸や朝鮮半島を侵略したと言われるが、実は日本軍のこれらの国に対する駐留は条約に基づいたものであることは意外に知られていない。
★日本は相手国の了承を得ないで一方的に軍を進めたことはない。(略)国際法上合法的に中国大陸に権益を得て、これを守るために条約に基づいて軍を配置したのである。
★この日本軍に対して蒋介石国民党は頻繁にテロ行為を繰り返す。邦人に対する大規模な暴行、惨殺事件も繰り返し発生する。(略)日本政府は辛抱強く和平を追求するが、その都度蒋介石に裏切られるのである。
★実は蒋介石はコミンテルンに動かされていた。(略)コミンテルンの目的は日本軍と国民党を戦わせ、両者を疲弊させ、最終的に毛沢東共産党に中国大陸を支配させることであった。
★我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者なのである。
★張作霖爆死事件もコミンテルンの仕業である。
★盧溝橋事件の仕掛け人は自分だと劉少奇自身が東京裁判中に語った。
★日本統治時代に満州の人口は1932年の3千万人が、1945年では5千万人、韓国は35年間で1千3百万人が、2千5百万人に倍増。日本統治時代は豊かで治安が良かった証拠である。
★朝鮮人出身の日本の将軍もいたし、朝鮮王室は日本の宮家となった。
★コミンテルンに動かされていたハリー・ホワイトがハル・ノートを書いた。
★日本はルーズベルトの仕掛けた罠にはまり真珠湾攻撃を決行した。
★日本があのとき大東亜戦争を戦わなければ、現在のような人種平等の世界が来るのがあと100年、200年遅れていたかもしれない。
★大東亜戦争を「あの愚劣な戦争」などという人がいる。戦争などしなくても今日の平和で豊かな社会が実現できたと思っているのだろう。
★今なお大東亜戦争で我が国の侵略がアジア諸国に耐え難い苦しみを与えたと思っている人が多い。しかし私たちは多くのアジア諸国が大東亜戦争を肯定的に評価していることを認識しておく必要がある。
★タイで、ビルマで、インドで、シンガポールで、インドネシアで、大東亜戦争を戦った日本の評価は高いのだ。そして日本軍に直接接していた人たちの多くは日本軍に高い評価を与え、日本軍を直接見ていない人たちが日本軍の残虐行為を吹聴している場合が多いことも知っておかなければならない。
★日本軍の軍紀が他国に比較して如何に厳正であったか多くの外国人の証言もある。我が国が侵略国家だったなどというのは正に濡れ衣である。
★日本は古い歴史と優れた伝統を持つ素晴らしい国なのだ。(略)嘘やねつ造は全く必要がない。個別事象に目を向ければ悪行と言われるものもあるだろう。それは現在の先進国の中でも暴行や殺人が起こるのと同じ事である。
★私たちは輝かしい日本の歴史を取り戻さなければならない。歴史を抹殺された国家は衰退の一途を辿るのみである。
「なんでもコミンテルン陰謀説」
それにしても田母神さんと渡部昇一さんの、いわば「なんでもコミンテルン陰謀説」には閉口する。
筆者が20年以上も前に当時はやっていた「なんでもユダヤ陰謀説」で大変な失敗をした経験があることは以前ブログで書いたが、今度は「なんでもコミンテルン陰謀説」である。
ユダヤが解ると世界が見えてくる―1990年「終年経済戦争」へのシナリオ (トクマブックス)
著者:宇野 正美
販売元:徳間書店
発売日:1986-05
おすすめ度:
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米国政府財務省高官にハリー・ホワイトというコミンテルンのスパイがいたのかも知れないが、それにしてもコーデル・ハルは以前から対日強硬派の急先鋒で、強硬な対日要求を最終決定したのはルーズベルトである。
今度紹介する「真珠湾の真実」を読むと、たしかに日米開戦は厭戦気分が大勢を占めるアメリカ国民を戦争に向かわせるためにルーズベルトが仕掛けた疑いが強いと思う。
真珠湾の真実 ― ルーズベルト欺瞞の日々著者:ロバート・B・スティネット
販売元:文藝春秋
発売日:2001-06-26
おすすめ度:
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しかし日米関係を決定的に悪化させたのは、1940年9月の日独伊三国同盟だと思う。
米国が全体主義国のドイツ・イタリアを敵国とみなし、民主主義を守るためとして英国に武器を「駆逐艦・基地協定」を結んで供給し、1941年3月からはロシア、それに中国の蒋介石政権にも最新兵器をレンンドリース法で無償貸与していたのは周知の事実であり、独伊と同盟を結べば、英国を支援する米国とどういう関係になるのかは自明の理である。
1986年頃、「なんでもユダヤ陰謀説」の本は、ベストセラーになったが、今回の「なんでもコミンテルン陰謀説」の本もよく売れているようだ。
歴史を判断するには、前後の動きと力学を大局的に見なければならない。一面の真実が含まれているのかもしれないが、この本については筆者はあえて「なんでもコミンテルン陰謀説」とレッテルを貼らせてもらう。
これでは決して歴史学のメインストリームとはなり得ないだろう。それでも興味ある人にのみおすすめする。
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2009年06月15日
ホームレス大学生 笑えて泣ける家庭の「解散」劇 お兄さん編
2009年6月15日追記:
ホームレス大学生
著者:田村 研一
販売元:ワニブックス
発売日:2008-10-09
おすすめ度:
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ホームレス中学生で大ヒットした麒麟の田村君のお兄さん、田村研一さんの本。
ホームレス中学生と基本的には同じストーリーだが、お兄さんの目から見たホームレス生活のことを書いている。
田村君は「まきふん公園」だが、お兄さんとお姉さんは「たこ公園」だ。
田村君の本では兄弟がホームレス生活の後で、知人の好意で古家で一緒に生活できたことしか書いていないが、お兄さんの本ではどうやって生活費、家賃を工面したかが書いてある。
お兄さんは一家が「解散」した時には大学生だった。コンビニの深夜アルバイトで月12万円ほどの収入があったが、それだけでは3人が暮らすのは到底無理なので、「解散」後すぐに田村君は友達のところに行くと言って、実際には「まきふん公園」で、お兄さんとお姉さんは「たこ公園」でホームレス生活を始めた。
そして知人の好意で古家に兄弟3人で住めることになり、お兄さんは奨学金を受け、アルバイトし、お姉さんと田村君は生活保護を申請し、時にはアルバイトをして、なんとか家賃を工面した。
一時は毎日小遣い2,000円ということもあったが、生活保護がなくなると一日300円となった。このあたりは以下の田村君の「ホームレス中学生」に詳しい。
お兄さんはお父さんが蒸発したあと、家長として兄弟を支えたことがよくわかる。
お兄さんも吉本で芸人を目指したが、田村君がやはり芸人を目指すことになると、兄弟2人が芸人で、お姉さんの幼稚園教諭としての給料では3人生活できないとして、自分はきっぱり辞めた。
お兄さんのみが経験した話として、お父さんを追いかけていた借金取りに捕まり、怖い目にあったことが描かれている。
最後はテレビの企画で、逃亡していたお父さんが14年目に見つかり、お父さんが独りで住んでいる1DKを兄弟3人で訪問して、それから家族が一緒に暮らせるようになったことを書いている。
今や田村君は売れっ子芸人、妹さんは幼稚園教諭となって結婚し、あとは長男として弟妹をひっぱってきたお兄さんが自分の生き方を見つける番だ。
そんな将来の道を見つける決心をするための今回の出版かも知れない。
ホームレス中学生と同じストーリーながら楽しく読めた。
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2008年8月18日追記:
「ホームレス中学生 あらすじ」で検索して、当ブログを訪問する方が急に増え、大体1日150人前後おられる。現在の検索ワードNo. 1だ。
本は200万部を超え、7月にフジテレビでホームレス中学生がドラマとなったことや、10月には小池徹平主演で映画にもなることから、人気が再燃している様なので、あらすじを再掲する。
しかしフジテレビのドラマで田村君役をやった13歳の黒木辰哉君。こうしてみると信じられないほど田村君に似ている。

映画は小池徹平主演なので、田村君とは似ていないが、前評判は上々の様だ。

テレビドラマも面白かったが、映画も楽しみである。
2008年4月22日初掲
ホームレス中学生
著者:麒麟・田村裕
販売元:ワニブックス
発売日:2007-08-31
おすすめ度:
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漫才コンビ麒麟の田村君の、中学生の時に公園に一ヶ月ほど住んでいたというホームレス生活を中心とした自伝。
衆議院議員の麻生太郎氏も推薦している。
「突然の「解散」が家庭にもあったとは…。お笑いタレントが書いた本に、これほど泣かされるとは…。ここには、日本人として忘れてはならない何かがあります」
アンパンマンのやなせたかしさんも推薦文を載せている。
「人々にパンを与えたアンパンマン、ハトからパンを奪った田村くん。どちらの話も、みんなに勇気を与えてくれる」
本の表紙は段ボールを似せてつくっており、帯には段ボールをかじり、雑草を手にする田村君の写真が載っている。
大阪の吹田市のマンションに一家四人(既にお母さんは直腸ガンのため田村君が小学五年生の時に亡くなっており、お父さんと、お兄さん、お姉さん、田村君の三人兄弟)で住んでいた田村君一家は、田村君が中学二年の一学期の終業式の日に、自宅マンションから追い出される。
お父さんの収入が激減し、ローンが払えないため差し押さえになったのだ。
お父さんは以前は大手製薬会社に勤めていたが、お母さんを看病しているときに、やはりガンとなり、仕事をクビになったのだ。
お父さんは「ご覧の通り、まことに残念ではございますが、家のほうには入れなくなりました。厳しいとは思いますが、これからは各々頑張って生きて下さい。………解散!」と言い残してどこかに行ってしまう。
コンビニでバイトしていた京都教育大学生のお兄さんと、受験生のお姉さんは吹田市のいざなぎ神社の公園、田村君は「友達の家に泊めて貰う」と強がりを言って、実は通称「まきふん公園」のカタツムリ型滑り台の中で生活を始めた。
数日で生活費がなくなり、まずは雑草、次に段ボールを水に濡らして食べてみるが、到底食べられるものではなかった。自動販売機の取り忘れ釣り銭や、ハトのえさのパンの耳を貰ったりして生活していると、子供達が田村くんに気が付き、石を投げて攻撃してくる。
一ヶ月弱公園生活をしていると、道でクラスメートの川井君に会い、お母さんの好意で、川井君の家に住まわせて貰うことになる。お姉さんも親類の家に引き取られ、お兄さんだけは学校の校舎などで生活を続けた。
川井君のお母さんなどが費用を出してくれて、兄弟一緒にアパートを借りて住むことになる。生活保護を受けて田村君は普通の中学生活に戻り、バスケ部も続け、お兄さんの薦めもあり吹田高校に進学してからもバスケを続ける。
そのうち、みんなの前ではおどけてみんなを楽しませていたが、一人になると生きていてもしょうがないという気持ちがもたげてきた。そんなときに田村君を救ったのは、教師として悩んでいた担任の工藤先生の手紙だった。
田村君は生きる望みを取り戻し、みんなにほめられるような立派な人間となりたいと決意する。
一時は一日2,000円貰っていた生活費は、300円となり一日一膳だけご飯を家で食べて良いという条件に変わった。
このときに田村君が「味の向こう側」と呼ぶ、ご飯を一口10分以上噛んでいると味わえる最後の瞬間の味と出会う。兄弟はごはん一膳で二時間以上噛んでいたという。
田村君が回転寿司屋で皿洗いのバイトを始めて300円生活は半年ほどで一日1,000円に改訂されたが、300円生活は本当に苦しかったという。
高校ではバスケの顧問の先生に見込まれて生徒会長になった。田村君がしゃべるとみんなが聞いてくれると先生は言ったそうだ。
田村君の人を惹きつける人なつっこさ、カリスマは高校時代からも傑出していたのだろう。
その後吉本のNSC(吉本総合芸能学院)に入学し、現在の相方川島君と出会い、麒麟を結成する。
実はお兄さんも一時NSCに在籍していたが、兄弟二人も生活の安定しない芸人を目指すのは支援してくれた人たちに申し訳ないということで、お兄さんは自分から辞めたのだと田村君は言う。
いろいろな人の支援、そして天国のお母さんの導きがあって今の芸人生活に入れたので、お母さんへのメッセージでこの本を締めくくっている。
若いとはいえ人生の荒波をくぐってきた人の言葉は重みがある。コミカルに書いてはいるが、ウルウルしてしまうところも多い。
ベストセラーになるべくしてなった感動の自伝だ。
簡単に読めるし、どこの本屋でも置いているはずなので、是非手にとってめくって欲しい本である。
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ホームレス大学生著者:田村 研一
販売元:ワニブックス
発売日:2008-10-09
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ホームレス中学生で大ヒットした麒麟の田村君のお兄さん、田村研一さんの本。
ホームレス中学生と基本的には同じストーリーだが、お兄さんの目から見たホームレス生活のことを書いている。
田村君は「まきふん公園」だが、お兄さんとお姉さんは「たこ公園」だ。
田村君の本では兄弟がホームレス生活の後で、知人の好意で古家で一緒に生活できたことしか書いていないが、お兄さんの本ではどうやって生活費、家賃を工面したかが書いてある。
お兄さんは一家が「解散」した時には大学生だった。コンビニの深夜アルバイトで月12万円ほどの収入があったが、それだけでは3人が暮らすのは到底無理なので、「解散」後すぐに田村君は友達のところに行くと言って、実際には「まきふん公園」で、お兄さんとお姉さんは「たこ公園」でホームレス生活を始めた。
そして知人の好意で古家に兄弟3人で住めることになり、お兄さんは奨学金を受け、アルバイトし、お姉さんと田村君は生活保護を申請し、時にはアルバイトをして、なんとか家賃を工面した。
一時は毎日小遣い2,000円ということもあったが、生活保護がなくなると一日300円となった。このあたりは以下の田村君の「ホームレス中学生」に詳しい。
お兄さんはお父さんが蒸発したあと、家長として兄弟を支えたことがよくわかる。
お兄さんも吉本で芸人を目指したが、田村君がやはり芸人を目指すことになると、兄弟2人が芸人で、お姉さんの幼稚園教諭としての給料では3人生活できないとして、自分はきっぱり辞めた。
お兄さんのみが経験した話として、お父さんを追いかけていた借金取りに捕まり、怖い目にあったことが描かれている。
最後はテレビの企画で、逃亡していたお父さんが14年目に見つかり、お父さんが独りで住んでいる1DKを兄弟3人で訪問して、それから家族が一緒に暮らせるようになったことを書いている。
今や田村君は売れっ子芸人、妹さんは幼稚園教諭となって結婚し、あとは長男として弟妹をひっぱってきたお兄さんが自分の生き方を見つける番だ。
そんな将来の道を見つける決心をするための今回の出版かも知れない。
ホームレス中学生と同じストーリーながら楽しく読めた。
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2008年8月18日追記:
「ホームレス中学生 あらすじ」で検索して、当ブログを訪問する方が急に増え、大体1日150人前後おられる。現在の検索ワードNo. 1だ。
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しかしフジテレビのドラマで田村君役をやった13歳の黒木辰哉君。こうしてみると信じられないほど田村君に似ている。
映画は小池徹平主演なので、田村君とは似ていないが、前評判は上々の様だ。
テレビドラマも面白かったが、映画も楽しみである。
2008年4月22日初掲
ホームレス中学生著者:麒麟・田村裕
販売元:ワニブックス
発売日:2007-08-31
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漫才コンビ麒麟の田村君の、中学生の時に公園に一ヶ月ほど住んでいたというホームレス生活を中心とした自伝。
衆議院議員の麻生太郎氏も推薦している。
「突然の「解散」が家庭にもあったとは…。お笑いタレントが書いた本に、これほど泣かされるとは…。ここには、日本人として忘れてはならない何かがあります」
アンパンマンのやなせたかしさんも推薦文を載せている。
「人々にパンを与えたアンパンマン、ハトからパンを奪った田村くん。どちらの話も、みんなに勇気を与えてくれる」
本の表紙は段ボールを似せてつくっており、帯には段ボールをかじり、雑草を手にする田村君の写真が載っている。
大阪の吹田市のマンションに一家四人(既にお母さんは直腸ガンのため田村君が小学五年生の時に亡くなっており、お父さんと、お兄さん、お姉さん、田村君の三人兄弟)で住んでいた田村君一家は、田村君が中学二年の一学期の終業式の日に、自宅マンションから追い出される。
お父さんの収入が激減し、ローンが払えないため差し押さえになったのだ。
お父さんは以前は大手製薬会社に勤めていたが、お母さんを看病しているときに、やはりガンとなり、仕事をクビになったのだ。
お父さんは「ご覧の通り、まことに残念ではございますが、家のほうには入れなくなりました。厳しいとは思いますが、これからは各々頑張って生きて下さい。………解散!」と言い残してどこかに行ってしまう。
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数日で生活費がなくなり、まずは雑草、次に段ボールを水に濡らして食べてみるが、到底食べられるものではなかった。自動販売機の取り忘れ釣り銭や、ハトのえさのパンの耳を貰ったりして生活していると、子供達が田村くんに気が付き、石を投げて攻撃してくる。
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田村君は生きる望みを取り戻し、みんなにほめられるような立派な人間となりたいと決意する。
一時は一日2,000円貰っていた生活費は、300円となり一日一膳だけご飯を家で食べて良いという条件に変わった。
このときに田村君が「味の向こう側」と呼ぶ、ご飯を一口10分以上噛んでいると味わえる最後の瞬間の味と出会う。兄弟はごはん一膳で二時間以上噛んでいたという。
田村君が回転寿司屋で皿洗いのバイトを始めて300円生活は半年ほどで一日1,000円に改訂されたが、300円生活は本当に苦しかったという。
高校ではバスケの顧問の先生に見込まれて生徒会長になった。田村君がしゃべるとみんなが聞いてくれると先生は言ったそうだ。
田村君の人を惹きつける人なつっこさ、カリスマは高校時代からも傑出していたのだろう。
その後吉本のNSC(吉本総合芸能学院)に入学し、現在の相方川島君と出会い、麒麟を結成する。
実はお兄さんも一時NSCに在籍していたが、兄弟二人も生活の安定しない芸人を目指すのは支援してくれた人たちに申し訳ないということで、お兄さんは自分から辞めたのだと田村君は言う。
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ベストセラーになるべくしてなった感動の自伝だ。
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2009年06月11日
あなたに貸す金はない! クレジットクランチ時代のサバイバル法
あなたに貸す金はない! 国が生み出す新しい「借金地獄」 (アスキー新書)著者:岩田 昭男
販売元:アスキー・メディアワークス
発売日:2009-05-08
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このブログで紹介した「信用力格差社会」と「信用偏差値」に続く、改正貸金業法の影響に警鐘を鳴らす消費生活評論家 岩田昭男氏の最新作。
「信用力」格差社会―カードでわかるあなたの“経済偏差値”著者:岩田 昭男
販売元:東洋経済新報社
発売日:2008-11
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「信用偏差値」―あなたを格付けする (文春新書)著者:岩田 昭男
販売元:文藝春秋
発売日:2008-11
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いよいよ今月、2009年6月より改正貸金業法が一部施行され、個人の借り入れなどの信用情報が全金融機関で共有される様になる。
現在5社ある信用情報機関がグループ化され、統合された機関となるのは今年秋頃と見られるが、個人の信用情報の共有は機関が設立する前からスタートするのだ。
この件についてマスコミは全く騒いでいないが、この本の帯に書いてある通り「借金大パニック襲来!!1000万人が借りられなくなる!」ことになるのは必至なのだ。
岩田氏は、昨年から前掲の2冊で、警鐘を鳴らしていたが、本件についてはマスコミはまったく騒いでいないのは驚くべきことだ。
改正貸金業法の骨子
貸金業法の改正骨子をおさらいしておくと、次の5点が大きな改正点である。
1.金利規制(グレーゾーン金利撤廃)
2.過剰貸付の抑制(年収の1/3までの総量規制と、すべての業態をまとめる指定金融情報機関設立)
3.業務規制(貸金業登録の最低総資産額を500万円から5,000万円に引き上げ)
4.ヤミ金融対策(罰則強化)
5.多重債務者対策(借りられなくなる人のセーフティネット強化)
法律は2006年12月に成立し、2010年6月に完全施行される。すでに段階的に施行されており、グレーゾーン金利撤廃の影響で消費者金融会社とクレジットカード会社が3大金融グループの草刈り場となっているのは周知の通りだ。
岩田氏は最近タモリが、アコムのTVコマーシャルに出演していることを取り上げている。
サラ金という今までのイメージから、三菱UFJファイナンシャルグループというメガバンク傘下の消費者金融会社に変わったので、タモリもコマーシャルに出ても良いと思ったのではないかと。
今月からいよいよ影響が出てくるのは上記2.の過剰貸し付けの抑制だ。
具体的には個人の借入情報をすべての金融機関が見られることになり、その人の年収の1/3までが無担保貸し付けの限度額となり、これを越える借り入れは断られることになる。
また既に年収の1/3を超える借金がある人は、残高が年収の1/3を下回るまで新しい借り入れはできず、返済するだけとなる。
いままでは消費者金融の借り入れ残高は、クレジットカード会社や銀行ではアクセスできなかったので、クレジットカードのキャッシング枠で借り入れるとか、銀行のフリーローンで借り入れることができた。
業態ごとに信用情報の交流がないので、クレジットカードで多重債務に陥っても、消費者金融に行けば何度でも借り入れができるということができていた。
今度は総借入額が年収の1/3を超えると、一切新規の借り入れができなくなるのだ。
個人信用情報の統合
日本には現在次の5つの個人信用情報機関がある。
1.全国銀行個人信用情報センター(KSC) 銀行系
2.CIC クレジットカード、信販系
3.CCB クレジットカード、信販系
4.全国信用情報センター連合会(全情連、JIC) 消費者金融系
5.テラネット 消費者金融系
このうち最も古く40年の歴史のある全情連のデータベースは加盟各社のデータがリアルタイムで統合されており、入金があるたびに更新されるという点で最も優れている。消費者金融業界の貸し倒れが少ないのも、このデータベースが充実しているからだといわれている。
上記の3,4,5が統合されることになりそうで、1,2については動向は決まっていないが、いずれにせよ2009年6月以降は信用情報はすべての機関で一本化されることが決まっている。
信用情報をより広く共有化することにより、多重債務を抑止しようとするものだ。
クレジットクランチ、借金難民続出の時代
これまでは年収の2倍まで借りられると言われていたのに、これが一挙に1/3までしか借りられなくなったら、多くの人は借金難民となり、おまけにクレジットカードも作れないというクレジットクランチ時代が到来し、カード難民が続出する。
筆者も住宅ローンと車のローンを抱えているが、岩田氏は、我が身を振り返って、借金は生活習慣病だと語る。
多重債務者は生活習慣病で、一時は財産100億円を超えていたのに詐欺をはたらいて有罪となった小室哲哉氏のように、収入が減少しても生活レベルは急には落とせないので放っておけば必ず再発すると。
だから本当に必要なのは借金メタボ対策のカウンセリングなのだと。借金メタボには生活ダイエットが必要であり、生活を切りつめることが必要なのだ。
借金サバイバル法
この本は岩田氏の借金サバイバル法が伝授されていて、大変参考になる。
たとえば最近弁護士がやたらテレビや電車の車内広告で借金整理の宣伝しているが、弁護士に頼むのはデメリットの方が大きいと言い切る。
返済している途中の弁護士や司法書士による債務整理は事故に当たるので、すぐにブラックリストに載ってしまう。一度ブラックリストに載ると5年間は借り入れできなくなる。
弁護士は「別にブラックリストに載っても良いではないか」と説明するらしいが、ブラックリストに載って5年間も一切借り入れもクレジットカードも作れないとなると、誰でも不安に思うだろう。
それと弁護士に頼むと着手金が1社あたり2万1千円、借り入れが5社だと10万円強がすぐに必要だ。そして過払い金を取り戻せても、弁護士が成功報酬2万1千円、返還金の20%とチャラになった残高の10%を取る。
業者が債務減額に応じただけだと、減額された金額の10%が弁護士報酬になる。
なんだかんだで弁護士報酬はバカにならない。弁護士も儲からなければ、あれだけ頻繁に大金をかけてテレビコマーシャルなどやらないはずだ。
岩田氏は弁護士を使わず、自分で過払い金請求をすることを勧め、この本で過払い金返還請求の手順まで懇切丁寧に説明している。
個人情報保護法の規定により、開示請求があれば貸金業者は取引経過を開示しなければならないという最高裁判決が出ているので、まずは取引経過を取り寄せ、次のような過払い金請求マニュアル本についている附属CDソフトで過払い金を計算し、利息分(5〜6%)を加えて配達証明郵便で業者に請求書を送るのだと。
そうすると業者から返還額を書いた書類を送ってくるので、それに同意して捺印して送り返すと1〜2ヶ月で入金するという。
Q&A 過払金返還請求の手引―サラ金からの簡易・迅速な回収をめざして販売元:民事法研究会
発売日:2008-06
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50万円借りて、毎月1万3千円ずつ払って完済していた場合には、過払い請求するとなんと約73万円が返還されるという。
とっておきのノウハウ伝授
岩田さんは、最後にとっておきのノウハウも惜しげなく教えている。
数社から借金がある場合、まず1社を何が何でも完済するのだと。そして完済した後で、過払い金返還請求する。完済後は過払い金返還請求しても事故にはならないのだ。
そして過払い金が入金したらそれを使って2番目の業者の債務を完済して、完済後に同じく過払い金返還請求する。同じ事を3番目め、N番目の業者に繰り返すのだ。
すごい実践的アドバイスである。
そのほか、ノウハウとして、キャッシング=手数料と肝に銘じるとか、リボルビング払いはしないなどの、「岩田流 多重債務を防ぐポイント」として8ヶ条、家計簿をつけてみよう、収入を増やす努力をして、支出を切りつめる、いよいよとなったら公的機関に頼るなどの、「岩田流 借金生活脱出法」6ヶ条を紹介している。
東京都の場合、消費生活センターに連絡するとなんとかなるだろうと。
テレビによく出てくる「年収300万円シリーズ」で、自分は年収数千万円を稼いでいる評論家の本などとは全然違う地に足がついた実践的指南である。
参考になる情報が満載
貸金業法改正で影響が出るのは、年収400万円以下、特に200万円以下の人と、主婦やフリーターなどで、それ以外の人はあまり影響はないと思われるが、情報としても参考になる。
たとえば次のような情報が紹介されている。
★トヨタファイナンスはキャッシング枠をなくし、無担保ローンから撤退する。これはレクサスカードなどの優良顧客を守りたかったのではないかと岩田氏は推測する。
キャッシング枠があるとその情報は指定信用情報機関に上げられ、貸金業各社が見ることになり、優良顧客であればDM攻勢が来ることになる。トヨタファイナンスはそれを避けたかったのではないかと。
★年末派遣村にやってきた派遣切りにあった失業者の多くは多重債務者で、たとえ生活保護を受けるためでも住民登録は嫌がる人が多い。債権者に見つかってしまうからだ。
★本当は恐ろしいリボルビング払い これは説明不要だろう。アメリカのクレジットカードは基本がリボルビング払いなので、サブプライムローン問題が出てきた時に破産者が急増した理由の一つとなった。
★東京都はバングラデシュのグラミン銀行を参考にして、生活再生資金貸付事業を社団法人生活サポート基金に委託して行っている。
岩田さんの本だと年利12.5%、返済期間120回となっているが、ホームページでは最高300万円、年利3.5%(ただし保証人必要)、最長7年間となっている。保証人がいないと金利が異なるのだろう。
ただし、まだ実績は5件しかないという。
★岩手県消費者信用生協によるスイッチローンは、信用生協、県内市町村、岩手弁護士会、提携金融機関が共同で多重債務者を救済するという全国でも例を見ない優れたシステム。
★改正割賦販売法によりショッピング枠にも網がかかる。こちらは経済産業省の主管で、(年収 ー 生活維持費) x 大臣が定める係数(0.5〜1)でクレジットカードのショッピング枠を決めるという、いかにもお役所らしい計算式だ。
係数もまだ決まっていないし、車のローン除外、海外旅行時には最大2ヶ月限度額2倍とか、公共料金の支払いを除外するとか、主婦は無条件で合計30万円だが、世帯主の収入を主婦の限度額に算入できるとか、例外をめぐってまだまだ議論が続きそうだ。
★貸金業者数は2000年の3万社から、2008年の9千社にまで激減し、さらに減少が見込まれる。
PtoP個人間借金サイト
最後にこの本には載っていないが、最近のYahoo!のニュースで気がついたPtoPの個人間でお金を貸し借りするサイトが気になるので、紹介しておく。
maneoというサイトで、個人間の金銭貸借をオークション形式で仲介するサイトのようだ。手数料は1.5%だという。
日本では企業が貸金業をやることは、出資法で厳しく規制されており、ライセンスが必要だが、個人間の貸し借りだったら法の網をくぐれるということなのだろうか?
無規制でこんなサービスが日本でやれるとは信じられないような気がするが、今のところ貸付金総額7千5百万円ということなので、まるめて1億円としても手数料1.5%なら、創業以来の収入が150万円しかないので、このままでは採算が合わずサービス撤退は時間の問題だろう。
はたしてこのようなサービスが生き延びるのか興味があるところだ。
最近グラミン銀行のムハマド・ユヌス氏の自伝をオーディオブックで読んで(聞いて)感動したので、近々あらすじを紹介するが、グラミン銀行の場合、女性5人でグループをつくってお互いを励まし合うという「隣組」あるいは「細胞」のような組織がベースとなっているから、99%という高率の返済率となっている。
Banker to the Poor: Micro-Lending and the Battle Against World Poverty著者:Muhammad Yunus
販売元:Blackstone Audiobooks
発売日:2007-01
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そういうモラル面での歯止めがない個人間融資は、危険な賭けではないかと思うが、筆者の直感が間違っているかもしれない。
この本には、Q&Aも充実しており、興味ある質問ばかりで大変参考になる。
クレジットスコアやクレジットレポートの実例なども解説されており、これ一冊でクレジットクランチ時代の問題点やサバイバル法がすべてわかる。
時宜を得た本で、わかりやすくためになる。
是非一読をおすすめする。
参考になれば投票ボタンをクリックして頂きたい。
2009年06月09日
南原繁の言葉 東大の8月15日
南原繁の言葉―8月15日・憲法・学問の自由著者:立花 隆
販売元:東京大学出版会
発売日:2007-02
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「天皇と東大」という長編作品を書いた立花隆さんが中心になって、2006年8月15日に開催した「八月十五日と南原繁を語る会」の記録。
天皇と東大 大日本帝国の生と死 上著者:立花 隆
販売元:文藝春秋
発売日:2005-12-10
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南原繁さんは、内村鑑三、新渡戸稲造の薫陶を受けた政治学者で、戦後すぐに最後の東京帝国大学総長に就任、貴族院議員も兼任した。
総長在任は1945年12月から1951年の間なので、旧制東京帝国大学の最後の総長で、1947年からは新制東京大学の最初の総長でもある。
南原繁さんの出身校の香川県の三本松高校のホームページに、南原繁さんの年譜が紹介されている。
「八月十五日と南原繁を語る会」については、安藤義信さんという方のホームページで詳しくレポートされているので、紹介しておく。
出典:安藤義信さんのホームページ
安藤さんという方は昭和33年の東大の卒業生だ。
このブログでは立花さんの「滅び行く国家」のあらすじを紹介しているので、立花さんが「天皇と東大」という上下1,500ページもの大作を出しているのは知っていた。
滅びゆく国家 日本はどこへ向かうのか著者:立花 隆
販売元:日経BP社
発売日:2006-04-13
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立花さんが「天皇と東大」を書いた理由
立花さんが「天皇と東大」を書いた理由は、日本の近現代史を通じて”天皇という存在”と、”国民の側の天皇観”が社会を動かした「影の主人公」で、その天皇観をめぐる大きなドラマの中心舞台が東大だったからだと。
そのドラマの中で最も大きかったものは昭和10年(1935年)の「天皇機関説」問題だった。
「天皇機関説問題」とそれに続く「国体明徴運動」は、一種の無血クーデターで、当時の日本社会のありかたを根本的に変えてしまった。それをきっかけに、昭和十一年2.26事件が起こり、翌昭和十二年廬溝橋事件が起こり、日本は暴走過程に入っていった。
なぜ日本があれほどバカな戦争に突入してしまったのかの理由、国民感情のうねりのようなものの転回点とその背景、大転回のプロセスを知りたくて「天皇と東大」を書いたのだと。
「天皇と東大」を書いていくうちに、立花さんはその転回点が「天皇機関説問題」だったことがわかったのだと。
憲法学者美濃部達吉博士の「天皇機関説」は大正時代は主流の学説だった。ところが、貴族院を中心に急に「天皇機関説問題」が持ち上げり、反国体思想の元凶とされて、著書は発禁になり、美濃部博士は貴族院議員を辞任し、ついには右翼テロリストの銃弾を浴びることになった。
世の中が変わるときは、一挙に変わる。
立花さんは、もしかしたら似たような国民感情の大転回が現在の日本でも起きつつあるのではないかと危惧しており、それがこの「八月十五日と南原繁を語る会」を開催した心理的背景だと語る。
「八月十五日と南原繁を語る会」
前出の安藤義信さんのホームページで紹介されている当日のプログラムは次の通りだ。
出典:安藤義信さんのホームページ
最初の二人、石坂公成さん(ライホイヤアレルギー免疫研究所名誉所長)、細谷憲政さん(東大名誉教授、人間栄養学)は、医学部出身。医学部は軍医養成ということで、学徒出陣の対象外だったので、南原繁さんが総長に就任してから毎月のように学生に対して「国を廃墟から復興させるものは学問と教育しかないのだ」と呼びかけていた言葉を現場で聞いている証言者だ。
細谷さんは、米国に2回滞在しているが、そのとき聞いた興味深い話を紹介している。
2度目に滞在したヴァージニア大学法科大学院は占領政策研究のメッカということで、教授数名から日本の占領政策は成功であったと評価されていると聞いたという。
なにせ脱脂粉乳やパン食など日本人の食生活を変えてしまったにもかかわらず、日本の一般国民からは感謝されたからだと。
また米国の占領政策は日本の歴史から学んだものだと言っていたという。
天皇家は渡来人であり、少数派の彼らが多数派の在来人に対してどのように対処していったのかを米国は研究したところ、統治の基本は栄養政策だとわかり、占領政策も栄養問題を柱にしたという。
天皇家に限らず、日本人はどこからかの渡来人の子孫のはずで、ことさら”渡来人”という征服者のように考える学説があるのかどうか知らないが、面白い見方である。
元法学部長石井紫郎さんは当時の東大事務局長の息子
次に元法学部長の石井紫郎さんが、南原繁総長時代に東大の事務局長だったお父さんの石井勗(つもむ)さんの著書「東大とともに50年」や、お父さんから聞いた東大の接収計画について語っている。
東大とともに五十年 (1978年)
著者:石井 勗
販売元:原書房
発売日:1978-04
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最初は昭和20年7月の東部軍管区の東大接収計画で、隅田川、荒川を堰(せ)き止めて、米軍が本土上陸してきたら一挙に堰を開放して東京の下町を水浸しにして米軍をおぼれさせる計画で、そうすると上野・東大あたりが海岸線となるので、ここの「帝都防衛司令部」を設置したいという申し出だったそうだ。
次はGHQで、総司令部として東大に白羽の矢を立てているという話で、下見後、「終戦連絡事務局」を経由して申し出があった。
東大7教授の終戦工作にも参加し、アメリカに人脈を持つ高木八尺(やさか)教授などを介して押し返したところ、「日本最高の学部である東大を尊重し、接収しない」と返事があり、結局GHQは皇居前の第一生命ビルを接収した。
余談になるが、筆者は石井紫郎教授の日本近代法制史の授業を受けたことがある。当時石井さんは新進気鋭の教授で長身のすらりとしたハンサムガイだった。
「曲学阿世」論争
吉田茂と南原繁の両方を知る辻井喬(堤清二さん)が吉田茂の「曲学阿世」批判について一文寄せている。
「吉田茂 ポピュリズムに背を向けて」で紹介した通り、1950年日本が全面講和をめざすか、それとも西側だけとの講和を目指すべきかの議論が活発になったときに、吉田茂総理は、南原繁総長の全面講和論を「曲学阿世」と非難したのだ。
朝鮮戦争が起こる1ヶ月ほど前で、このときマッカーサーは「共産党は侵略の手先」と呼んで、共産党の非合法化を示唆したばかりで、日本の占領政策が逆コースに動くタイミングだった。
南原繁総長は、吉田発言を批判し、次のように語った。
「私に曲学阿世の徒という極印を押したが、これは満州事変以来、軍部とその一派が、美濃部博士をはじめ多くの学者に対して常用したもので、学問の冒涜、学者に対する権力的弾圧である。私が国際情勢をしらないと吉田首相は言うが、それは官僚的独善である。
「現実と理想を融合させるために、英知と努力を傾けるのが政治家の任務であるのに、全面講和と永世中立を空理空論ときめつけるところに日本民主政治の危機がある。」
吉田茂から再批判はなく、この論争はこれで終わった。
辻井さんは吉田茂、南原繁両方を知っているが、吉田茂は魅力のある人間だったが、敵対する相手への無愛想は極めつけだったという。一方南原総長は謹厳そのもで、相手の意見が自分と違っていても態度は変わらなかったという。
これは筆者の考えだが、結果論ではあるが、結局南原さんの主張した全面講和の道を選ばず、ソ連との講和条約を今の今に至るまで締結しなかったことが、現在の日本の国際的地位及び経済状況を決定づけていると思う。
この吉田ー南原論争の2ヶ月後に朝鮮戦争が始まっているので、吉田茂の西側との講和を優先するというのは、正しい選択だろうが、吉田茂もまさかサンフランシスコ講和条約締結から50年たってもロシア(旧ソ連)との平和条約が結ばれないという事態は想像もしていなかったと思う。
今年5月のプーチン首相の露払い来日もあり、メドべージェフ大統領の7月来日の機会を利用して、平和条約を締結してシベリアそして地球温暖化を利用した北極圏の経済開発に日本の活路を見いだ方向性を示すべきではないかと思う。
南原繁の言葉
この本に収録されている言葉は、南原さんが法学部長として終戦直前の1945年4月に入学式で語った「学徒の使命」と、終戦直後の1945年9月に同じ題で学生に呼びかけた同じタイトルの「学徒の使命」。
東京帝国大学総長に就任する直前の1945年11月、復員学生を歓迎する式での「新日本の建設」、そして翌1946年2月建国記念日の「新日本文化の創造」が第1部で取り上げられている。
次に第2部としては1946年3月の「戦没学生を弔う」、同じテーマの1963年12月の「戦没学生の遺産を嗣ぐもの」、1957年4月の著書「文化と国家」の序文、1946年9月の「祖国を興すもの」。憲法に関しては1946年11月の「新憲法発布」と1962年1月の「第9条の問題」が収録されている。
実に印象的な言葉が多い。
終戦直前の入学式での言葉
たとえば1945年4月の終戦直前の入学式での法学部長としての言葉だ。
戦時下でいつ最後となるかもしれない授業だが、大学や教授陣に何か「異常なもの」を期待してはならない。
われわれは特殊な「精神教育」をするものではなく、淡々と平常と変わりなく学問に従事する。燃えるが如く情熱を湛(たた)えつつ、それを抑制して学的作業に沈潜するところに、学徒の任務があるのだと。
「勝利は単なる『必勝の信念』によってもたらされるものでなく、必ずやそうした文化および自然にわたり、近代科学の知性に裏付けられてはじめてこれを獲得することができるであろう。」
この冷静な発言に続いて、法学部生は単に六法全書に取り組むだけではなく、「教養」を身につけろと訴える。
教養の核心は知性をもってする人間本質の展開または人間個性の開発にある。
事物を知るということは、それを通して自己を知ることであり、ソクラテスが「汝自身を知れ」と言ったのは、この意味で真理をついていると南原さんは語る。
3月10日の東京大空襲の後、ほとんど焼け野原になった東京で、毎日の空襲で明日をも知れない状況のなかで、実に冷静で教育者としての信念がこもった発言である。
終戦直後の言葉
終戦直後の1945年9月1日の言葉は、状況変化をふまえ、かつ学問の基本を押さえた発言となっているのが印象的だ。
「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」を目指すのではなく、勝敗を超えて列国と協力、進んで世界平和の建設に積極的に寄与すべきであり、それが天皇の終戦詔勅の「万世の為に太平を開かんと欲す」の聖旨であると。
原子爆弾ができた以上、戦争の再発を防止し、人類を滅亡から救うのは、世界の理性と良心に基づく公正な世論と組織に求める他に道はない。
そして旧来の我が国の大陸政策なるものを捨て、中国の近代国家の統一の達成に協力しなければならない。
両国の真の協力なくして東亜の安定と世界の平和は達成できないのだとまで言っている。
それを達成するためにも、猜疑と敵意を棄てて、人間としての信頼と尊敬を勝ち得るために、教養をつける。自己自身を絶えず内面的に向上し、純化する人間として自らを形成することが、教養の意義であると。
さらに戦いに倒れた護国の英魂も、我らとともにあり、これからの新たな戦いを祝福し、響導するであろうと。
まさに終戦直後の学徒を鼓舞し、日本の再建に向かわせる原動力を抱かせる印象的で力強い言葉である。
アカデミック・フリーダム
1945年11月の帰還学生歓迎会や、1946年2月、敗戦後最初の紀元節(建国記念日)では、学問の自由、アカデミック・フリーダムについて語っている。
これが憲法第23条の”学問の自由はこれを保障する”という条文に現れている。ちなみに憲法第23条の英語訳は"Academic freedom is guaranteed"だ。
憲法の権威、宮沢俊義さんの解説書、「コンメンタール日本国憲法」によると、「本条は、学問の自由を保障する。かつて滝川事件(1933年)や天皇機関説事件(1935年)のような学問の自由を否認する事件の再発を防ぐ趣旨である」と解説させている。
東大の総長経験者の佐々木毅さんによると、東大の総長になると「歴代総長演説集」が与えられるという。これを読んで自分の挨拶を考えろという意味なのだと。
南原さんの言葉は、これからも東大総長の挨拶の中で繰り返し引用されることだろう。
南原繁と靖国問題
ちょうど2006年8月15日は小泉元総理が総理退任前に現役総理大臣として靖国神社に参拝した日なので、「南原繁と靖国問題」というテーマの講演も含まれているが、南原繁の発言や著作には靖国神社に直接言及したものはなかったという。
南原繁の言葉の後半では、1946年3月の戦没並びに殉職者慰霊祭のときの「戦没学徒を弔う」や、9月の戦後最初の卒業式の挨拶、1946年11月3日の新憲法発布の時の言葉などが収録されている。
立花さんの解説
この本のところどころに立花隆さんの解説が織り込まれている。
たとえば終戦後すぐは東大を卒業しても就職口がない時代だったので、「諸君、われわれを取り囲む環境がいかに苛酷であろうと(略)、諸君は真理に対する確信を失うことなく、どこまでも自らの精神と魂をもった人間となれ!かような人間と人間性理想こそが祖国を興すものとなり…。」と語っていることを、紹介している。
また憲法9条の問題については、政治学の世界では無抵抗主義は成り立たない。国際連合に加盟したら、いずれは国際警察的な組織の一員として参加し、寄与する義務を免れることはできないだろうと語っていることが引用されている。
この本を通して立花隆さんの南原繁さんへの熱い思いが伝わってくる。
たしかに今読み直すと、まさにそのときの時代を反映していながらも、軸がぶれない姿勢は尊敬すべきだと思う。
単に歴史的な言葉として読むのでなく、今でも通用する自警の言葉として筆者も味わった。
南原さんの3代後の大河内一男総長は東大の卒業式で「太った豚より痩せたソクラテスになれ」と訓示したが、まさに南原さんは日本のソクラテスのような人だったと思う。
内容的にはちょっと堅いところがあるが、是非一度図書館などでパラパラとめくってみて欲しい本である。
参考になれば投票ボタンをクリックして頂きたい。
2009年06月05日
日本のいちばん長い日 事実は小説より奇なり
決定版 日本のいちばん長い日 (文春文庫)著者:半藤 一利
販売元:文藝春秋
発売日:2006-07
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司馬遼太郎亡きあとの歴史小説の第一人者半藤一利さんが、昭和40年(1965年)文藝春秋編集次長時代に、大宅壮一編として出版した名作。
大宅壮一氏死後、未亡人の了承を得て、森近衛師団長惨殺の実行者など、当時の事情で差し障りがあって隠蔽せざるを得なかった事実や、その後わかった史実を加えた「決定版」として、半藤さんの名前で30年後の1995年に再度出版したものだ。
「日本のいちばん長い日」は、阿南惟幾(あなみこれちか)陸相を演じる三船敏郎以下のオールスターキャストで映画化され大ヒットした。
日本のいちばん長い日 [DVD]出演:三船敏郎
販売元:東宝
発売日:2005-07-22
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1945年(昭和20年)8月14日正午から8月15日正午に至るまでの24時間の出来事を、登場人物の発言を構成して濃密なドラマに仕上げている。
半藤さんのあとがきによると、この本の特徴は直接証言者にあたり、実地の踏査を重んじたことだという。戦後20年の昭和40年にはそれが可能だったのだと。
それゆえあとがきの謝辞に59名もの取材協力者の名前をクレジットとして列挙している。
当時の状況をおさらいすると、1939年9月ポーランド電撃占領で第2次世界大戦を始めたドイツは1945年5月に降伏し、唯一日本だけが全世界を相手に戦争を続けていたが、日本の敗北は時間の問題と思われていた。
この年2月には近衛文麿が終戦を求める近衛上奏文を提出し、吉田茂が近衛上奏文に関わったとして逮捕されたのは4月だ。
連合国は1945年7月26日にドイツベルリン郊外のポツダムで会議を行い、日本に無条件降伏を求めるポツダム宣言を出した。
ポツダム会議に参加した英アトリー、米トルーマン、ソ連スターリン

出典: Wikipedia
ルーズベルトが4月に死去したので、米国大統領に昇格したトルーマンとチャーチルが宣言案をつくったが、そのチャーチルはポツダム会議中にイギリスの総選挙でまさかの敗北を喫して、副代表として参加していたアトリー新首相に交代するというハプニングまで起こった。
スターリンは会議のホストだったにもかかわらず、チャーチルとトルーマンにより宣言からはずされ、激怒したという。日本には宣戦布告していないからという理由だった。
このあたりは以前紹介した「暗闘」に詳しい。
暗闘―スターリン、トルーマンと日本降伏著者:長谷川 毅
販売元:中央公論新社
発売日:2006-02
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日本はスターリンが署名していないことから、ソ連による和平調停に一縷の望みをかけ、近衛文麿が訪ソすることでソ連と交渉した。しかし既に対日参戦を決めていたソ連は確答せず、日本ははぐらかされて、8月9日のソ連の対日参戦に至る。
この本のプロローグではポツダム宣言を「ただ黙殺するだけである」との鈴木貫太郎首相の発言がラジオで報道され、日本は拒絶したと受け取られる結果となり、その後の原爆投下とソ連参戦の口実にされたことを記している。
日本がポツダム宣言を即時受諾に踏み切らなかったのは、天皇制を中心とする国体護持の保証がなかったからだ。
そうこうしているうちに8月6日広島に原爆が投下された。内閣と天皇に原爆により広島市全滅という情報がもたらされたのは、その日の午後遅くだったという。
8月7日トルーマンはラジオで演説し、20億ドルを投じて歴史的な賭けを行い賭けに勝ったと原爆を賞賛し、日本が降伏しない限り他の都市にも投下すると警告する。
8月8日天皇は「このような武器がつかわれるようになっては、もうこれ以上、戦争をつづけることはできない。不可能である。有利な条件をえようとして大切な時期を失してはならぬ。なるべくすみやかに戦争を終結するよう努力せよ。このことを木戸内大臣、鈴木首相にも伝えよ」と東郷外相に指示する。
8月9日早朝ソ連が参戦する。鈴木首相は朝10時半から最高戦争指導会議を開催するが、その最中に長崎へ第2の原爆が投下されたことが報告される。
会議はまとまらず、深夜11時50分から御前会議を開いた。

出典: Wikipedia
会議では天皇の地位を変更しないことだけを条件としてポツダム宣言を受け入れることを主張する米内海相、東郷外相、平沼枢密院議長と、さらに占領期間、武装解除、戦犯処理まで日本人の手で行うという合計4条件を求める阿南陸相、梅津参謀総長、豊田軍令部総長の3:3にわかれ、鈴木首相は自らの決定を辞し、天皇に聖断を頼む。
天皇は「それならば私の意見をいおう。私は外務大臣の意見に同意である。」と答える。
「ひとりでも多くの国民に生き残ってもらい将来再び立ち上がってもらうほか道はない。明治天皇の三国干渉の際のお心持をしのび奉り、私は涙をのんで外相案に賛成する」
会議が終わったのは8月10日午前2時半を過ぎていたという。
すぐに中立国スイスとスウェーデンの日本公使に「天皇の大権に変更を加うるがごとき要求は、これを包含しておらざる了解のもとに」ポツダム宣言を受諾する旨の電報が発信された。
8月10日午後首相経験者などを集めた重臣会議が開催され、ほとんどの重臣は賛成したが、元首相の東條英機と小磯国昭は反対した。
米国政府はそのまま受けろと主張する親日派スチムソン陸軍長官に、フォレスタル海軍長官、リーヒ大統領付幕僚長は同調したが、バーンズ国務長官は強硬で、日本側電報の回答として、天皇と日本政府の権限は、連合軍最高司令官に"subject to"と回答してきた。
外務省は”制限の下におかる”と名訳を出したが、陸軍は”隷属する”と訳して、態度を硬化させた。
8月12日午後から13名の各宮を集めた皇族会議が開催された。皇族の順位に従って高松宮からはじまって、竹田宮、朝鮮王室の李王垠、李鍵公の順に座ったという。
敗戦で最悪天皇制廃止や退位などもありうると覚悟した天皇の心遣いだろう。
天皇は国体護持は譲れないと主張する阿南陸相に対し、「阿南よ、もうよい。心配してくれるのは嬉しいが、もう心配しなくともよい。私には確証がある」と諭したという。
しかし閣議ではまたも紛糾し、8月13日の最高戦争指導会議もまたも紛糾した。結局8月14日午後、御前会議で聖断を仰ぐこととなる。
陸軍省では、帰任した阿南陸相を徹底抗戦を訴えるクーデター計画が待っていたが、陸相は確答しなかった。
8月14日午前10時50分から最高戦争指導会議と閣僚全員の合同の御前会議が開かれた。このような合同の御前会議は開戦決定の1941年12月1日の御前会議以来だという。
8月14日の御前会議の絵

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御前会議で鈴木首相が報告し、天皇の聖断を求めると、天皇は立ち上がり、ポツダム宣言受諾を宣言する。自分のできることはなんでもする。マイクの前にも立つ。どこでも出かけて親しく説きさとすと語る。
長いので引用しないが、この本では参加者の手記をもとに鈴木首相にも確認の上で作成された下村宏国務・情報局総裁作成の天皇の発言全文を掲載しており、大変興味深い。
自らの身を投げ出しても戦争を終結させるとの天皇の強い意志だった。閣僚たちは皆慟哭したという。
陸軍省では青年将校達が依然として徹底抗戦を訴えるが、阿南陸相は「最後のご聖断が下ったのだ。悪あがきをするな。軍人たるものは聖断にしたがうほかない」とはねつける。
天皇自らラジオで放送することとなり、生放送でなく録音放送にきまる。天皇の声がラジオで放送されるのははじめてだ。
迫水書記官長が中心となって、安岡正篤の協力も得て終戦の詔勅案が作られ、ガリ版刷りの原案が閣議の了承を得て、14日午後6時に天皇の朗読が録音されることになった。
準備は遅れに遅れ、詔勅に天皇が御名御璽を印したのは午後8時半、実際に天皇が2回録音盤に吹き込んだのは夜中の午後11時50分だった。
終戦の詔勅 残虐なる爆弾のあとに”頻に無辜を殺傷し”という書き込みがある

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録音盤は徳川侍従が整理戸棚の書類入れの軽金庫に納め、書類をその上にうずたかく積んで隠した。
一方陸軍はとうとう行動を起こす。陸軍省軍事課員井田中佐、椎崎中佐、畑中少佐らが、どうせ明日は死ぬ身だからと近衛師団を使っての宮城制圧を計画する。海軍でも米内海相の暗殺をひそかに計画しているものがあったという。
8月14日午後5時頃近衛文麿が、近衛師団に不穏の計画があるがと木戸内大臣に伝えに来る。はたして不安は的中し、井田中佐、椎崎中佐他が、森近衛師団長に決起を促そうと談判する。午前1時まで粘るが、受け入れられないので、畑中少佐がピストルで森師団長を撃ち、上原大尉と窪田少佐が斬りつけ、森師団長と白石中佐を殺戮する。
そして偽の師団長命令をつくり、近衛師団を動員して、血眼になって皇居中を探し録音盤を見つけようとするが、結局見つからなかった。
玉音放送を録音したNHKの会長とスタッフは近衛師団の兵士につかまり、監禁される。木戸内大臣などは皇居内の地下室に隠れて難を逃れる。近衛師団は放送局にも押し入り、意見放送を要求するが、空襲警報中は放送できないと断られる。
反乱軍の首謀者の一人の井田中佐は陸軍省に行き、阿南陸相と最期の杯を交わす。阿南陸相は3時頃に森師団長が殺害されたという報告を受けたが、「このお詫びも一緒にすることにしよう。」と言うと、さらに「米内を斬れ」とぽつりと言ったという。阿南陸相は陸軍省で最期の酒盛りをしたあと、午前5時半陸軍省の廊下で割腹自殺する
このときの遺書が次の通りだ。義理の息子の竹下中佐が立ち会い、最後に介錯する。
「一死を以て大罪を謝し奉る 昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣 阿南惟幾
神州不滅を確信しつつ」
阿南陸相は三男を中国戦線で亡くしていたので、「惟晟(これあきら)は本当によいときに死んでくれたと思う。惟晟といっしょに逝くんだから、私も心強い」と語っていたという。
死んであの世で三男とあえるのを楽しみにしていると言っていたという。
午前3時東部軍が異変に気づき、参謀を近衛師団に派遣し、森師団長が殺害された現場を確認する。午前5時田中軍司令官が宮城に乗り込み、近衛師団を帰任させる。
この動きとは全く関係のない乱入劇もあった。
横浜警備隊長佐々木大尉が率いる学生四十名がトラックに分譲して軽機関銃などで武装して鈴木首相の私邸を襲い、官邸を焼き、平沼騏一郎邸も焼き、宮城に押し入り、機関銃を発射する。
午前6時天皇にも近衛師団のクーデターが起こったことが知らされる。兵に直接さとすと陛下は言われるが、その前に田中軍司令官が制圧し、騒ぎは収まった。
その日午前10時55分アメリカ航空部隊は戦闘中止命令をうけて途中で引き返したが、ソ連は猛進撃を続けていた。
玉音放送の直前に軍人が乱入しようとしたが、取り押さえられ正午から予告の通り玉音放送が流された。
11時半、天皇が放送を聞くために枢密院議場に姿を現したと同じ時刻に、反乱軍の首謀者の畑中少佐と椎崎中佐は皇居前で自刃した。
海軍厚木航空隊など、徹底抗戦を唱える一部のものもあったが、全体として日本軍は粛々と武装解除にすすみ、8月30日にマッカーサーは無抵抗の厚木基地に降り立つ。
厚木飛行場に降り立つマッカーサー一行

出典: Wikipedia
これから後は「白洲次郎 占領を背負った男」に詳しい。
この本を読んで、いかに当時の日本政府、日本軍関係者全員が天皇を守ることに命をかけ、必死だったのかよくわかる。
「幕末史」のあらすじでも書いたように、阿南陸相の遺書の”大罪を謝し奉る”という言葉は、日本陸軍の最期の言葉にふさわしいと思う。
幕末史著者:半藤 一利
販売元:新潮社
発売日:2008-12
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まさに「事実は小説より奇なり」という言葉を地でいく、筋書きのないドラマである。DVDを借りて映画も見てみようと思う。
文庫本になっているので、半藤一利さんの代表作として、一度手に取ってみることをおすすめする。
参考になれば投票ボタンをクリックして頂きたい。
2009年06月03日
幕末史 半藤一利さんの”賊軍的幕末史”
幕末史著者:半藤 一利
販売元:新潮社
発売日:2008-12
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歴史小説で数々の名作を書いている半藤一利さんの”賊軍的幕末史”。
このブログでは半藤さんの「ノモンハンの夏」を紹介したが、「日本のいちばん長い日」も読んだので、これも近々紹介する。
ノモンハンの夏著者:半藤 一利
販売元:文藝春秋
発売日:1998-04
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「日本の一番長い日」というと、大宅壮一さんの作品だと思っていたが、実は当時文藝春秋の編集部次長だった半藤さんが書いたものを、事情があって大宅壮一編として発表したものだという。
決定版 日本のいちばん長い日 (文春文庫)著者:半藤 一利
販売元:文藝春秋
発売日:2006-07
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賊軍史観の幕末史
半藤さんは東京の生まれだが、お父さんの出身地の新潟県、旧長岡藩に毎年夏、からだを鍛えるために送り込まれて、おばあさんから”賊軍”史観を教わったという。
学校で教えている日本近代史は”薩長史観”に基づくもので、長岡藩のような”賊軍”から見れば、薩長はそもそも泥棒で、長岡藩に無理矢理けんかをしかけて、7万4千石のうち5万石を奪い取ったのだと。
だから東京生まれの夏目漱石、芥川龍之介、永井荷風などが”維新”と呼ばず、徳川家の”瓦解”と呼ぶのに、快哉(かいさい)を叫んでいたという。
そもそも明治初期は一般的に”維新”とは呼ばれず、”御一新”で通していたという。
革命で徳川家を倒したものの、当時の民衆は薩長で収まるとは思っていなかったようで、次のような狂歌もあるという。
「上からは明治だなどといふけれど、治まるめい(明)と下からは読む」
司馬遼太郎さんも「幕末にぎりぎりの段階で薩長というのはほとんど暴力であった」と書いているそうだが、半藤さんもその見方に同感で、「西郷は毛沢東と同じ」、「坂本龍馬には独創的なものはない」という見方をしているという。
慶應大学の特別講座
この本は慶應大学丸の内キャンパスの特別講座として2008年3月から7月まで、12回にわたって開催された講義をまとめたもので、漫談調で語っている。
慶應大学で講義していながら、福沢諭吉の著書を紹介するのに”あまり好きではない福沢諭吉”と付け加えていることからも分かるとおり、言いたい放題の講義で面白い。
半藤さんは1930年(昭和5年生まれ)なので、78歳だったはずだが、記憶力も含めて全く衰えるところが見られないのはさすがだ。
この本は1853年のペリー来訪から始まって、安政の大獄、和宮降嫁と公武合体、攘夷論、蛤御門の変、龍馬がフィクサーとなった薩長連合、大政奉還、江戸城の無血開城、五ヶ条のご誓文、版籍奉還・廃藩置県、国民皆兵、征韓論と西南戦争、そして1878年の大久保利通暗殺と参謀本部の設立でまで描いている。
「吉田茂 ポピュリズムに背を向けて」で著者の北康利さんも言っていたが、筆者の高校時代の日本史の授業では、昭和史は受験に出ないということで、自習にまわされていた。
一方幕末、明治の近代史は高校の日本史の授業でしっかり勉強したので、大きな流れはわかっているため、登場人物の細かい動きがわかって面白い。
なぜ幕末史が明治十一年の参謀本部設立で終わっているのか?
なぜ幕末史が山県有朋と桂太郎(当時は中佐)による明治十一年の参謀本部の設立で終わっているかは、半藤さんの考えがあってのことだろうが、半藤さんが最後に次のように述べて強調しているところから推測できると思う。
「芯から政略家である山県と桂のコンビのまことに巧妙な計画によって、軍隊指揮権ははやくも一人歩きをはじめたのです。
ですから明治二十二年に憲法ができたとき、すでに統帥権は独立していましたから、軍隊にかんする憲法の条項はたったの二条しかありません。
よろしいですか、国の基本骨格ができる前に、日本は軍事優先国家の道を選択していたのですよ。」
これと呼応するのが、半藤さんの「日本のいちばん長い日」に書かれている阿南惟幾陸相の自刃の時の遺言である。日本陸軍最後の大臣となった阿南陸相は「一死を以て大罪を謝し奉る」と書き残している。
その「大罪」について半藤さんは、阿南陸相の義理の息子の竹下中佐に次のように語らせている。
「大罪について私は特に大臣に質問はいたしませんでしたが、おそらくは、満州事変以後、国家を領導し、大東亜戦争に入り、ついに今日の事態におとしいれた過去および現在の陸軍の行為にかんし、全陸軍を代表してお詫び申し上げたのだろうと思います。」
半藤さんはつづけて:
「敗戦の罪はすべて陸軍が背負うべきであろう。統帥権の独立を呼号し、政治を無視し、自分の意のままに事後承諾の形であらゆることを遂行してきた陸軍こそ、罰せられてしかるべきなのであろう」
と書いている。
つまりこの幕末史の終わりで紹介されている参謀本部の設立から始まった軍事優先国家の終末が、「日本のいちばん長い日」なのだ。
孝明天皇と幕府
近々紹介する「皇族たちの真実」の著者の竹田恒泰さんは、孝明天皇の研究家だそうだが、明治天皇の父で和宮の兄、孝明天皇はこの本では超攘夷論者として描かれている。
語られなかった皇族たちの真実-若き末裔が初めて明かす「皇室が2000年続いた理由」著者:竹田 恒泰
販売元:小学館
発売日:2005-12
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幕府が諸外国との間で結んだ修好通商条約などに従って兵庫の開港が必要となり、徳川慶喜が上洛し、孝明天皇の裁可を求める。孝明天皇は外国人嫌いだが、皇統と国民のためということで、条約を裁可する。太平洋戦争終結時の昭和天皇も、皇統と国民のためと言われていたのと同じなところが皇室の同一性を物語っている。
先日終了したNHKの大河ドラマで一躍有名になった篤姫は孝明天皇の妹の和宮が嫁した徳川家茂の養母で、大奥を支配し、勝海舟の勧める江戸城の無血開城を支援した。
勝海舟や坂本龍馬が活躍した時代
この時代は桜田門外の変や坂本龍馬の暗殺などで代表されるように、テロが頻繁に起こっており、多くの人がテロに倒れている。
鎖国とはいえ、オランダと通商は続けていたので、幕府も案外世界の情報を入手していて、ペリーが来訪したがっているという情報もオランダ経由入手していたという。
勝海舟は神戸操練場をつくり、坂本龍馬を塾頭に採用する。西郷は勝の噂を聞き、神戸まで出向いて面談している。
その後龍馬は西郷に会いに行き、「西郷という奴は、わからぬ奴だ。少しく叩けば、少しく響き、大きく叩けば大きく響く」と勝に報告したことは有名だ。
1866年、龍馬の仲介で、桂小五郎と西郷隆盛の間で薩長同盟が成立する。長州は、長崎のグラバー商会を通じて元込め銃やアームストロング砲など最新兵器を購入し、幕府軍より優秀な武器を揃える。
ちなみにグラバーはジャーディンマセソン商会の長崎代理店を長くつとめた。吉田茂の父の吉田健三は、同じくジャーディンマセソン商会の横浜支配人で、若くして亡くなったので、吉田茂に莫大な財産を残したことは、北康利さんの「吉田茂 ポピュリズムに背を向けて」のあらすじで紹介した通りだ、
吉田茂 ポピュリズムに背を向けて著者:北 康利
販売元:講談社
発売日:2009-04-21
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勝海舟は、西軍が江戸に進撃してきたら、ナポレオンのモスクワ進軍の時のように、江戸に火をつけて西軍を焼き殺し、慶喜は英国に亡命するという計画を英国パークス公使と話していたという。
薩長支配という現実
賊軍出身者は陸軍、海軍でも差別され、終戦の時の首相の鈴木貫太郎も賊軍出身ということで、差別を受けて3度も海軍をやめようと思ったという。
例として明治30年の陸軍中将の出身を挙げている。長州12人、薩摩13人、土佐2人、福岡4人、東京1名で、陸軍大将は全員長州出身だという。
「歴代首相 知れば知るほど」のあらすじで紹介した通り、歴代首相も薩長出身者のオンパレードだ。
歴代首相 (知れば知るほど)著者:小林 弘忠
販売元:実業之日本社
発売日:2008-02-01
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参考になるエピソードが満載
明治政府が成立してすぐの1871年に、岩倉具視を団長として、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文を含めた総勢46人の欧米視察団を派遣し、これに留学生42名も同行する。こうのうち5名が女子留学生で、津田塾大学創設者の津田梅子さんも入っている。
海外の進んだ技術を取り入れるために、政府のトップみずから進んで外国を視察し、どん欲に吸収していったことがわかる。
西郷は征韓論に負けたこともあって、権力闘争に嫌気がさして、鹿児島に帰る。そして不平士族に祭り上げられ、西南戦争を起こし、敗北して自ら命を絶つ。
山県有朋は陸軍の参謀本部を創設し、陸軍卿を西郷従道にゆずり、みずから参謀本部長に就任している。これで統帥権の独立が達成された。
半藤さんは明治政府はビジョンもなにもなく始まったと評しているが、筆者には5ヶ条のご誓文といい、国民皆兵で富国強兵をスローガンに欧米諸国に肩を並べる国際的地位を目指したことといい、廃藩置県、学制公布、徴兵制、地租改正、廃刀令など、時宜にあった政策を打ち出していることは高く評価できると思う。
その意味では筆者は司馬遼太郎さんの様な明治礼賛とまではいかないが、幕末・明治時代の人物には興味を惹かれる。
半藤さんは、靖国神社は戊辰戦争の死者をまつることから始まったが、逆軍の東軍の死者は一人として祀られておらず不条理だと訴えている。靖国神社には戊辰戦争以来の戦死者が祀られているという話を聞いていたが、幕府軍の戦死者は祀られていないとは初めて知った。
全体を通して半藤さんが言うほど”賊軍史観”だとは思わない。
面白い事実が満載の楽しい読み物である。
是非一読をおすすめする。
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2009年06月01日
報道されない近現代史 田母神論文を選んだアパグループCEOの本
報道されない近現代史―戦後歴史は核を廻る鬩ぎ合い著者:元谷 外志雄
販売元:産経新聞出版
発売日:2008-04
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渡部昇一さんの本で紹介されていたアパグループCEOの元谷外志雄さんの本。
アパグループは昨年田母神元航空幕僚長が書いた「日本は侵略国家であったのか」を最優秀に選んだ「真の近現代史観」懸賞論文の主催社で、田母神さんが辞める直接の原因となったことは記憶に新しい。
本の帯に佐藤優氏が絶賛と書いてあり、佐藤さんの写真まで載っているが、推薦の言葉などは書かれていない。
アントニオ猪木と一緒にキューバのカストロ議長に会ったり、台湾の李登輝元総統、韓国の金泳三元大統領、モンゴル大統領、森喜朗元首相などと対談するなど、その交友範囲は一介の経営者の域を超えている。なにやら得体の知れない人だ。
報道されない真実
次のような真相が明かされたと語っている。
*北朝鮮の金正日は核武装主義者で、父の金日成が1994年のカーター元大統領との面談後、核開発断念に傾いていたので、父を排除して(正式には心筋梗塞で死亡したことになっている)トップの座に着いた。
昨今の北朝鮮の核実験や連続ミサイル発射実験など、核武装主義者の金正日であれば、さもありなんと思う。
*江沢民は中国の説得にも応ぜず核開発を続けた金正日を暗殺しようとして2004年龍川駅で列車を爆発させたが失敗し、表舞台から去った。
*北朝鮮は10発程度の核爆弾を保有しているとみられ、一旦手にした核は絶対に手放さない。
*アメリカの核開発は1939年アインシュタインがドイツが核兵器を開発するおそれがあるので、アメリカも急ぐべきだという書簡をルーズベルト大統領に送ったことがきっかけ。
核分裂を1938年に発見したオットー・ハーンや、物理学の最高権威だったハイゼンベルグがドイツにいたからだが、戦後ハイゼンベルグはヒトラーの手に原爆がわたったときの結果を憂慮して、原爆開発を遅らせたことがわかった。
アインシュタインは「このことがわかっていれば、アメリカに原爆を作らせようなどとはしなかった」と自らの行動を深く後悔していたという。
*ソ連の核兵器開発がアメリカに遅れることわずか四年で完成したのは、アメリカの核独占を憂慮した科学者が、アメリカが核兵器を使えないようにソ連にも核兵器を持たせるために技術をリークした。死刑となったローゼンバーグ夫妻が情報を流したという。
*ハルノートはソ連の謀略だった。ハルノートは元々ハルの穏健案と、ハリー・ホワイト財務省次官補が作成した強硬案の2つあり、ルーズベルトは強硬案を採用した。
戦後ハリー・ホワイトは、1948年にソ連(コミンテルン)のスパイだった疑惑が米国下院で暴露された直後、不可解な死を遂げる。最近公開されたソ連暗号解読史料「ベノナファイル」によって、ホワイトがソ連のスパイであることが明らかになった。
*「真珠湾の真実」で明かされたとおり、ルーズベルトは1941年11月末には日本艦隊が択捉島に集結していたことをつかんで、奇襲を予測していた。しかし欧州戦争には参戦しないと公約して選挙に勝ったために、アメリカを参戦に導くためにあえて日本の奇襲攻撃を利用した。
真珠湾の真実 ― ルーズベルト欺瞞の日々著者:ロバート・B・スティネット
販売元:文藝春秋
発売日:2001-06-26
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*韓国では有害図書の指定を受けている「親日派のための弁明」によると、韓国人の半日感情が強いのは、米国の意図によるものだ。
1910年の日韓併合以来、朝鮮の人口は30数年で一千万人から倍となり、未開の農業社会だった朝鮮が、日本からのインフラ投資により短期間のうちに近代的な資本主義社会へと変貌し、特に教育投資が重視された。
親日派のための弁明著者:金 完燮
販売元:草思社
発売日:2002-07
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*アメリカはユダヤ人が支配している。主なメディアや金融機関はユダヤ系だ。共和党がキリスト教政党なので、ユダヤ人は民主党寄りである。
ニュークリアシェアリング
この本で参考になったことはニュークリアシェアリングという考えだ。アメリカはNATO加盟国のドイツ、ベルギー、イタリア、オランダ、トルコに、戦時にはアメリカの核兵器を使えるというオプションを与えるというものだ。これによって核の拡散を防止しながら、バランスオブパワーを維持するというものだ。
元谷さんも言っているが、ニュークリアシェアリングについては日本のマスコミは一切報道していない。田母神論文ではこのニュークリアシェアリングを主張しているという。
日本に適するのかどうかわからないが、少なくとも自前の核兵器を開発して、2流の核保有国になるよりは、よほど妥当な考え方ではないかと思う。
特に北朝鮮が核兵器保有を切り札に難局を乗り切ろうとしている現状では、たとえば韓国と日本がアメリカとニュークリアシェアリングを導入するとかは実際検討すべきアイデアだと思う。
北朝鮮に対抗上、韓国も日本も独自に核兵器開発をするようなことになっては、それこそ核拡散が進んでしまう。「日本は原子爆弾をつくれるのか?」でも紹介したが、核兵器開発はそもそもやるべきでないと思う。
その意味ではニュークリアシェアリングは代替案として検討する価値があると思う。
福岡の飲酒運転の追突事故
それともう一点は、福岡の飲酒運転の追突事故で幼い兄弟三人が亡くなった事故があったが、あれは欄干の強度が問題だと語る。
金沢(アパグループの本社がある)でも車がスリップして橋から落ちるという事故があって分かったということだが、車道に面している橋の欄干は、総重量25トンの車両の衝突にも堪えられるように設計されている。
ところが車道との間に歩道が入ると、幅一メートルに体重60キロの大人四人が寄りかかっても壊れない程度の欄干強度と全然建築基準が違うという。
建築基準が、車が歩道を乗り上げて欄干に激突するいう想定では作られていないのだ。あくまで自転車や歩行者が欄干にぶつかる程度の強度しか求められていないという。
その他の提言として、日本再建のため大家族制復活に政治が動けとか、40年体制の清算をすべきだと主張し、不公平税制を直し、贈与税・相続税を廃止すべきだと言う。
ユダヤ陰謀説
この本で筆者の忘れたい過去の失敗を思い出させられた。
新婚時代の約20年前に、ピッツバーグに初めて駐在した時にアパートの前の部屋のアメリカ人若夫婦が引っ越しするので、彼らを招いて送別会を自宅でやったが、その当時日本で、はやっていたユダヤ陰謀説の本を話題にしてしまったのだ。
人の良い旦那は話を合わせて、自分もその本を読みたいと言ったが、奥さんは明らかに何を言うんだという雰囲気になり、彼らが自室に戻ったら、たぶん深刻な夫婦げんかが起こったと思う。
レイシストと言われてもやむをえない事態である。全く汗顔というか恥である。それからは絶対に人種とか宗教とかユダヤ人の話とかは一切しないと誓ったものだ。
当時ベストセラーになっていたユダヤ陰謀説の本は今は絶版となっているが、アマゾンで検索すると中古は売っているようだ。
ユダヤが解ると世界が見えてくる―1990年「終年経済戦争」へのシナリオ (トクマブックス)
著者:宇野 正美
販売元:徳間書店
発売日:1986-05
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ともかく決して人種の話とか不用意にしてはならない。それを深く記憶に刻み込んだ経験だった。
世界でイスラエルに次いでユダヤ人人口の多いのは米国で、アルゼンチンは南米で最もユダヤ人人口が多く、世界では7番目である。
筆者はその米国に9年、アルゼンチンに2年間駐在した経験があり、ユダヤ人の友人や取引先も多い。その経験のある筆者は、ユダヤ人の陰謀なんてありえないと思う。
その意味では元谷さんとは考え方が違う。
未確認情報、憶測ばかりではないかという気がするが、”報道されない”というタイトル通り、たとえばニュークリアシェアリングなどは、興味ある考え方だし、英米によるソ連暗号解読研究の「ベノナファイル」というのがあることを初めて知った。
上記の通り、「ユダヤ陰謀説」では筆者は苦い失敗があり、この本も決しておすすめしないが、元谷さん(と一部の関係者)がある意味、筋が通った考え方をしているのは間違いないと思う。
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2009年05月31日
超英語法 野口悠紀雄さんの英語勉強法
2009年5月31日追記:
下記のあらすじを書くために読んだのは2004年4月発刊の単行本だったので、iPodの活用について全くふれていなかった。iPod前の時代なので、やむをえないところだろう。
文庫本は2006年10月発刊なので、あるいはiPod、特にPodcastを活用しての英語勉強法について書いてあるかもしれないと思って、文庫本も読んでみた。
内容は変わりなく、気づいた唯一の変化は文庫版のあとがきだった。
iPodの活用については、「このような技術進歩の成果を最大限に活用することが重要だ」と書いてあるだけだが、そのほかに野口さんがスタンフォード大学客員教授として赴任して感じたことを書いているので、紹介しておく。
スタンフォードで痛感したのは、日本人学生の英語力の低さだと。
スタンフォードの留学生数を見ても、1990年代のはじめ頃は日本、中国、韓国それぞれ120名程度で、ほぼ同数だったが、現在は中国が400名、韓国も300名強に対して、日本は逆に減っており60名程度になっているという。
企業派遣の留学生が減ったこともあるが、スタンフォードで教えていて感じた一番の原因は日本人留学生の英語力の低下と考えざるをえないと野口さんは語る。
ITにより世界の経済構造は大きく変わり、アメリカで企業に電話すると、ほとんどの場合インドのコールセンターにつながるが、日本はこのようなITを使った変化から取り残されている。
インターネット上の世界言語は英語であり、日本人の英語力の低さにより、日本が大きな変化から取り残されているのだと。
単行本で述べていなかった「読む英語」の重要性にもふれている。
今や情報収集の主役はインターネットの検索であり、世界中のあらゆる情報を調べようとしたら、それは英語の文献が中心になる。今後の世界は日本語と英語の差がさらに広がり、「差が本質的なものになる」だろう。
野口さんがスタンフォードにいたときに、Googleのトラックが毎日大学図書館に横付けになり、本を搬送していたという。
本をロボットが撮影して電子化するのだ。それが現在ベータ版で提供されているGoogle book search(Googleブック検索)だ。
たとえばGoogleブック検索で「英語 夏目漱石」で検索してみるとヒットするのは122件だ。

次に"English Soseki Natsume"で検索すると、ヒットするのは526件だ。

もちろんコンテンツの数よりコンテンツの中身の方が重要だが、それにしても漱石の引用や作品ですらインターネット上の情報では英語の方が日本語より圧倒的に多いのがわかる。
このグーグルブック検索は本だけの検索で、著作権の関係から載っている本でも一部しか公開されていないし、検索にかからない本がまだ圧倒的に多いが、それでも何かのテーマについて書く時には大変便利なツールだ。
話が横道にそれたが、いずれにせよ英語を読めるかどうかで、その人の情報能力には本質的な差が生じることになる。英語の勉強は今後ますます重要性を高めているのであると野口さんは文庫版のあとがきで記している。
目的のPodcastの活用法については、別の本を読んだ方がよさそうなので、調べてまたあらすじで紹介する。
尚、野口さんの「超英語法」のサイトがあり、現役英語教授との対談とか、超英語法講演会レポートなどのコンテンツが載っていて参考になるので、紹介しておく。

2009年5月27日初掲:
「超」英語法 (講談社文庫)
著者:野口 悠紀雄
販売元:講談社
発売日:2006-10-14
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以前紹介した「英語ベストセラー本の研究」で2000年代、第三次英語ブームの時代の代表作として紹介されていたので読んでみた。
読んでみてあらためて「英語ベストセラー本の研究」が内容を的確にまとめていることがわかった。さすが元編集者が書いた英語の本である。
孫引きのようになるが、筆者の「英語ベストセラー本の研究」のあらすじのなかで、「超英語法」関連部分を引用すると次の通りだ。
+++++++++++++++++++++++++++++++
勉強法で数々のベストセラーを出している野口悠紀夫さんの英語法は、英語は単語帳で暗記せずに、文脈で覚える、そのためには有名な文章を暗記するのが一番というものだ。
ちなみに野口さんはジョージ・オーウェルのアニマルファームやケネディの就任演説全文を暗記したという。
Animal Farm (Signet Classics)
著者:George Orwell
販売元:Signet Classics
発売日:1996-04-01
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(注:ケネディの大統領就任演説で最も有名な"Ask not, what your country can do for you. Ask what you can do for your country. Ask not, what America will do for you but what together, we can do for the freedom of man"は、最後の12分20秒くらいにある。)
口語に関する限り、聞く練習がすべてで、話す練習は全く必要がないと野口さんは語る。「聞くことができれば、自動的に話すことができる」と。
語学のマスターには4,000時間が必要だ。中学から大学まで約3,000時間英語を勉強してきたので、あと1,000時間を社会人になっても継続することを野口さんはアドバイスする。
++++++++++++++++++++++++++++++++
簡単ではあるがほぼこの本の要点は抑えていることがわかる。
英語は聞くことができれば話すことができる
野口さんの英語勉強法の最大の論点は、「英語は聞くことができれば、ほぼ自動的に話すことができる」という点だ。
それが冒頭の部分で語られているので、その部分を引用する。
「多くの人は、実用英語とは英語を「話すこと」だと考えている。英語の能力があることを示すのに「英語を流暢に話せる」と表現することが、その証拠だ。
しかし、これは大きな間違いだ。実際の場面で必要なのは、「聞くこと」なのである。そして、聞くことができれば、ほぼ自動的に話すことができる(詳しくは、第一章の2を参照)。
だから、実用英語の訓練は、実際に話されている英語を聞くことに集中すべきだ。
英会話学校もテレビの英会話番組も、あるいは「こうした場合にこう話す」という類の参考書も、「実用英語は話すこと」としている点で、基本的に誤っている。」
聞ければ自動的に話せる例として、友人と野口さんが話している例を、"Coffee Break"というコラムで紹介している。
会話は「相手に助けられながら話す」のだと。相手が言っていることをそのまま繰り返すだけで会話が成立することもあるし、Yes, Noを挟んだり、簡単な返しの言葉"Yes, indeed"とか"Oh, really?"、"That's right"などを使っても良い。
相手に依存して、相手を真似するだけで自動的に話すことができる。
実際の会話はこのように相手のペースで進むことが多い。相手が言っていることを正しく理解できさえすれば、こちらが複雑な表現法をできなくとも、問題なく進行するのだと。
だから「聞く訓練に集中すべし」という観点からすると、多くの英会話学校でやっている授業や、ラジオ、テレビの番組の英語の勉強法は、間違っていると野口さんは語る。
聞く訓練においては、教師の役割は少ないため、英会話学校としては売り物にならない。「話せるように訓練します」というのは「供給者の論理」で、それにはまりこまないことが重要だと。
「英語は聞ければ話せる」というのは英語教育業界に真っ向から反発する内容なので、論議を呼ぶ意見だが、筆者自身の経験からしても正しい順番だと思う。
赤ん坊は親の話す言葉を聞いて言葉を覚えるわけだし、筆者自身、"R"と"L"の発音の違いがわかったのは、アルゼンチンの下宿でアルゼンチン人の友人とワインの話をしている時だった(白ワインをスペイン語ではvino blancoと言い、"L"の発音だ)。
友達の発音をまねてvino blanco(ビノ・ブランコ)と言えた訳だ。
ちなみにスペイン語では"L"と"R"の区別はあるが、"V"と"B"の区別はないのがややこしいところだ。だからヴィノ・ブランコではなく、ビノ・ブランコなのだ。
英語細胞説
英語を聞いたり読んだりするときは、脳の英語細胞を使うという「英語細胞説」があるそうだが、野口さんの英語勉強経験からも、この「英語細胞説」は納得できる点が多いという。
「英語細胞」という言い方が正しいのかどうかわからないが、米国駐在九年の筆者の経験からしても、「英語で考える」ことができる段階まで上達すれば、たしかに「英語細胞」は「日本語細胞」と別にあるという説も理解できる。
駐在が長くなると、英語の単語は出てくるが、日本語の単語が思い出せないということがある。筆者はアルゼンチンに駐在してスペイン語ができるので、スペイン語でも同様のことがあった。
これも「英語細胞」、あるいは「言語細胞」の例なのだろう。
ひとまとめで丸暗記する
野口さんのもう一つの主張は、「単語帳でばらばらに単語を覚えても使えない。丸暗記でひとまとまりのものとして覚える必要がある」ということだ。
このブログで紹介した多賀敏行さんの「外交官の『うな重方式』英語勉強法」でも「うな重方式」として紹介しているように、多くの英語勉強法の著者が、様々な表現で語っている通りだ。
外交官の「うな重方式」英語勉強法 (文春新書)
著者:多賀 敏行
販売元:文藝春秋
発売日:2008-11
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ちなみにコラムで、経済学の授業で”マルチンゲール”という言葉が出てきて意味が分からずに困ったという話を紹介している。筆者もこの言葉は知らなかったが、負ければ賭け金を倍にしていく賭けのことだ。
英語を聞く練習
この本を読んで、野口さんの勉強法は、かなり筆者の勉強法と似ていることがわかった。
第5章「聞く練習を実践する」では、次のサブタイトルで説明している。
1.通勤学習のすすめ
2.インターネットで演説を聞く
3.インターネットでニュースを聞く
4.オーディオブックで文学作品やビジネス書を聞く
5.映画は実用英語の勉強教材として適切か
通勤時間を利用して、英語を聞く点は筆者と同じだが、筆者の場合、「歩きながら本を読む」をモットーに、歩いている間にも英語を聞いている。
筆者が読んだ単行本は2004年4月の発刊で、まだiPodが広まる前の時代なので、iPodのAudible.comのオーディブックとの相性の良さ、Podcastでアメリカの有名大学などの講義が視聴できる便利さなどは語られていない。
Audible.comサイト:

Podcastのスタンフォード大学のページ

ちなみに筆者がiPod第3世代のiPodを買ったのは、2003年の冬頃だ。iTunesのWindows版が出たのが、2003年10月ということなので、たぶんその直後だと思う。
この本も、今改訂版が出れば、iPodを活用した英語勉強法に見直されることだろう。
野口さんは英語をどう勉強してきたか
最後の第7章「私は英語をどう勉強してきたか」のサブタイトルは次の通りだ。
1.中学生のときに見つけた丸暗記法
2.アメリカ留学
3.帰国後に英語を勉強
帰国後に英語を勉強とは、上記の通勤学習のことだ。
野口さんの英語勉強の目的は、「アメリカ人が普段の生活で使っている口語も聞けるようになること」で、象徴的に言えば「映画の英語がすべて分かること」だという。
これが野口さんに不足している能力で、それに加え、正式な英語を書くのは難しいと今でも思っていると語る。野口さんは留学中に大学の博士論文を書くときに、冠詞の使い方が悪いと指摘されたという。本当に冠詞は難しい。
日暮れて道遠し
この本で何度も引用されている故伊丹十三監督の「ヨーロッパ退屈日記」に、ヴァイオリンの奏者に三段階あり、1.全く奏することができない者、2.非常につたなく奏する者、3.非常に巧みに奏する者だという話が出てくる。
ヨーロッパ退屈日記 (新潮文庫)
著者:伊丹 十三
販売元:新潮社
発売日:2005-03
おすすめ度:
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野口さんはこの第2段階だと謙遜する。この道50年で「日暮れて道遠し」だと。
64歳になってからも新しい外国語に挑戦したシュリーマンの例を取り上げ、映画の英語がすべて聞けるように今後も英語を楽しく勉強したいと締めくくっている。
古代への情熱―シュリーマン自伝 (岩波文庫)
著者:ハインリヒ シュリーマン
販売元:岩波書店
発売日:1976-01
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まさに同感である。英語の勉強に終わりはない。筆者も通勤時間に英語のオーディオブックを聞き、車に乗るときはaudible.comでダウンロード購入してiPodに入れたチャーチルの「第二次世界大戦」を聞いている。
Audible.comのチャーチルの第二次世界大戦のページ

Second World War (Second World War)
著者:Winston, Sir Churchill
販売元:Mariner Books
発売日:1986-05-09
おすすめ度:
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ノーベル文学書受賞作でもあり、チャーチルの英文が格調高いこともあって、まだまだわからないことが多い。
筆者の場合も、まさに、この道40年で「日暮れて道遠し」だ。
英語勉強の原点
野口さんは、英語で悔しい思いをした経験はないようで、中学の英語弁論大会で、(受賞はしなかったが)スピーチをした時が原点だという。
筆者の場合は、24歳でアルゼンチンに赴任したときに乗ったパンナム機で、米国人スチュワーデスに何度言っても"milk"が通じず、結局ビールを持ってこられた時の悔しさが、英語勉強の原点だ。
それからも何度も悔しい思いや失敗をした。
これからもあの悔しい思いを忘れずに、少しでも英語力向上に努力するつもりだ。
「聞くことができれば話せる」とは異論があるかもしれないが、まずはカンペキに聞いて分かることが英語の最大の上達法であることは間違いないと思う。
いろいろな意味で参考になる本だった。是非iPod時代にあわせて改訂版を出してもらいたいものだ。
参考になれば投票ボタンをクリックして頂きたい。
下記のあらすじを書くために読んだのは2004年4月発刊の単行本だったので、iPodの活用について全くふれていなかった。iPod前の時代なので、やむをえないところだろう。
文庫本は2006年10月発刊なので、あるいはiPod、特にPodcastを活用しての英語勉強法について書いてあるかもしれないと思って、文庫本も読んでみた。
内容は変わりなく、気づいた唯一の変化は文庫版のあとがきだった。
iPodの活用については、「このような技術進歩の成果を最大限に活用することが重要だ」と書いてあるだけだが、そのほかに野口さんがスタンフォード大学客員教授として赴任して感じたことを書いているので、紹介しておく。
スタンフォードで痛感したのは、日本人学生の英語力の低さだと。
スタンフォードの留学生数を見ても、1990年代のはじめ頃は日本、中国、韓国それぞれ120名程度で、ほぼ同数だったが、現在は中国が400名、韓国も300名強に対して、日本は逆に減っており60名程度になっているという。
企業派遣の留学生が減ったこともあるが、スタンフォードで教えていて感じた一番の原因は日本人留学生の英語力の低下と考えざるをえないと野口さんは語る。
ITにより世界の経済構造は大きく変わり、アメリカで企業に電話すると、ほとんどの場合インドのコールセンターにつながるが、日本はこのようなITを使った変化から取り残されている。
インターネット上の世界言語は英語であり、日本人の英語力の低さにより、日本が大きな変化から取り残されているのだと。
単行本で述べていなかった「読む英語」の重要性にもふれている。
今や情報収集の主役はインターネットの検索であり、世界中のあらゆる情報を調べようとしたら、それは英語の文献が中心になる。今後の世界は日本語と英語の差がさらに広がり、「差が本質的なものになる」だろう。
野口さんがスタンフォードにいたときに、Googleのトラックが毎日大学図書館に横付けになり、本を搬送していたという。
本をロボットが撮影して電子化するのだ。それが現在ベータ版で提供されているGoogle book search(Googleブック検索)だ。
たとえばGoogleブック検索で「英語 夏目漱石」で検索してみるとヒットするのは122件だ。
次に"English Soseki Natsume"で検索すると、ヒットするのは526件だ。
もちろんコンテンツの数よりコンテンツの中身の方が重要だが、それにしても漱石の引用や作品ですらインターネット上の情報では英語の方が日本語より圧倒的に多いのがわかる。
このグーグルブック検索は本だけの検索で、著作権の関係から載っている本でも一部しか公開されていないし、検索にかからない本がまだ圧倒的に多いが、それでも何かのテーマについて書く時には大変便利なツールだ。
話が横道にそれたが、いずれにせよ英語を読めるかどうかで、その人の情報能力には本質的な差が生じることになる。英語の勉強は今後ますます重要性を高めているのであると野口さんは文庫版のあとがきで記している。
目的のPodcastの活用法については、別の本を読んだ方がよさそうなので、調べてまたあらすじで紹介する。
尚、野口さんの「超英語法」のサイトがあり、現役英語教授との対談とか、超英語法講演会レポートなどのコンテンツが載っていて参考になるので、紹介しておく。
2009年5月27日初掲:
「超」英語法 (講談社文庫)著者:野口 悠紀雄
販売元:講談社
発売日:2006-10-14
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以前紹介した「英語ベストセラー本の研究」で2000年代、第三次英語ブームの時代の代表作として紹介されていたので読んでみた。
読んでみてあらためて「英語ベストセラー本の研究」が内容を的確にまとめていることがわかった。さすが元編集者が書いた英語の本である。
孫引きのようになるが、筆者の「英語ベストセラー本の研究」のあらすじのなかで、「超英語法」関連部分を引用すると次の通りだ。
+++++++++++++++++++++++++++++++
勉強法で数々のベストセラーを出している野口悠紀夫さんの英語法は、英語は単語帳で暗記せずに、文脈で覚える、そのためには有名な文章を暗記するのが一番というものだ。
ちなみに野口さんはジョージ・オーウェルのアニマルファームやケネディの就任演説全文を暗記したという。
Animal Farm (Signet Classics)著者:George Orwell
販売元:Signet Classics
発売日:1996-04-01
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(注:ケネディの大統領就任演説で最も有名な"Ask not, what your country can do for you. Ask what you can do for your country. Ask not, what America will do for you but what together, we can do for the freedom of man"は、最後の12分20秒くらいにある。)
口語に関する限り、聞く練習がすべてで、話す練習は全く必要がないと野口さんは語る。「聞くことができれば、自動的に話すことができる」と。
語学のマスターには4,000時間が必要だ。中学から大学まで約3,000時間英語を勉強してきたので、あと1,000時間を社会人になっても継続することを野口さんはアドバイスする。
++++++++++++++++++++++++++++++++
簡単ではあるがほぼこの本の要点は抑えていることがわかる。
英語は聞くことができれば話すことができる
野口さんの英語勉強法の最大の論点は、「英語は聞くことができれば、ほぼ自動的に話すことができる」という点だ。
それが冒頭の部分で語られているので、その部分を引用する。
「多くの人は、実用英語とは英語を「話すこと」だと考えている。英語の能力があることを示すのに「英語を流暢に話せる」と表現することが、その証拠だ。
しかし、これは大きな間違いだ。実際の場面で必要なのは、「聞くこと」なのである。そして、聞くことができれば、ほぼ自動的に話すことができる(詳しくは、第一章の2を参照)。
だから、実用英語の訓練は、実際に話されている英語を聞くことに集中すべきだ。
英会話学校もテレビの英会話番組も、あるいは「こうした場合にこう話す」という類の参考書も、「実用英語は話すこと」としている点で、基本的に誤っている。」
聞ければ自動的に話せる例として、友人と野口さんが話している例を、"Coffee Break"というコラムで紹介している。
会話は「相手に助けられながら話す」のだと。相手が言っていることをそのまま繰り返すだけで会話が成立することもあるし、Yes, Noを挟んだり、簡単な返しの言葉"Yes, indeed"とか"Oh, really?"、"That's right"などを使っても良い。
相手に依存して、相手を真似するだけで自動的に話すことができる。
実際の会話はこのように相手のペースで進むことが多い。相手が言っていることを正しく理解できさえすれば、こちらが複雑な表現法をできなくとも、問題なく進行するのだと。
だから「聞く訓練に集中すべし」という観点からすると、多くの英会話学校でやっている授業や、ラジオ、テレビの番組の英語の勉強法は、間違っていると野口さんは語る。
聞く訓練においては、教師の役割は少ないため、英会話学校としては売り物にならない。「話せるように訓練します」というのは「供給者の論理」で、それにはまりこまないことが重要だと。
「英語は聞ければ話せる」というのは英語教育業界に真っ向から反発する内容なので、論議を呼ぶ意見だが、筆者自身の経験からしても正しい順番だと思う。
赤ん坊は親の話す言葉を聞いて言葉を覚えるわけだし、筆者自身、"R"と"L"の発音の違いがわかったのは、アルゼンチンの下宿でアルゼンチン人の友人とワインの話をしている時だった(白ワインをスペイン語ではvino blancoと言い、"L"の発音だ)。
友達の発音をまねてvino blanco(ビノ・ブランコ)と言えた訳だ。
ちなみにスペイン語では"L"と"R"の区別はあるが、"V"と"B"の区別はないのがややこしいところだ。だからヴィノ・ブランコではなく、ビノ・ブランコなのだ。
英語細胞説
英語を聞いたり読んだりするときは、脳の英語細胞を使うという「英語細胞説」があるそうだが、野口さんの英語勉強経験からも、この「英語細胞説」は納得できる点が多いという。
「英語細胞」という言い方が正しいのかどうかわからないが、米国駐在九年の筆者の経験からしても、「英語で考える」ことができる段階まで上達すれば、たしかに「英語細胞」は「日本語細胞」と別にあるという説も理解できる。
駐在が長くなると、英語の単語は出てくるが、日本語の単語が思い出せないということがある。筆者はアルゼンチンに駐在してスペイン語ができるので、スペイン語でも同様のことがあった。
これも「英語細胞」、あるいは「言語細胞」の例なのだろう。
ひとまとめで丸暗記する
野口さんのもう一つの主張は、「単語帳でばらばらに単語を覚えても使えない。丸暗記でひとまとまりのものとして覚える必要がある」ということだ。
このブログで紹介した多賀敏行さんの「外交官の『うな重方式』英語勉強法」でも「うな重方式」として紹介しているように、多くの英語勉強法の著者が、様々な表現で語っている通りだ。
外交官の「うな重方式」英語勉強法 (文春新書)著者:多賀 敏行
販売元:文藝春秋
発売日:2008-11
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ちなみにコラムで、経済学の授業で”マルチンゲール”という言葉が出てきて意味が分からずに困ったという話を紹介している。筆者もこの言葉は知らなかったが、負ければ賭け金を倍にしていく賭けのことだ。
英語を聞く練習
この本を読んで、野口さんの勉強法は、かなり筆者の勉強法と似ていることがわかった。
第5章「聞く練習を実践する」では、次のサブタイトルで説明している。
1.通勤学習のすすめ
2.インターネットで演説を聞く
3.インターネットでニュースを聞く
4.オーディオブックで文学作品やビジネス書を聞く
5.映画は実用英語の勉強教材として適切か
通勤時間を利用して、英語を聞く点は筆者と同じだが、筆者の場合、「歩きながら本を読む」をモットーに、歩いている間にも英語を聞いている。
筆者が読んだ単行本は2004年4月の発刊で、まだiPodが広まる前の時代なので、iPodのAudible.comのオーディブックとの相性の良さ、Podcastでアメリカの有名大学などの講義が視聴できる便利さなどは語られていない。
Audible.comサイト:
Podcastのスタンフォード大学のページ
ちなみに筆者がiPod第3世代のiPodを買ったのは、2003年の冬頃だ。iTunesのWindows版が出たのが、2003年10月ということなので、たぶんその直後だと思う。
この本も、今改訂版が出れば、iPodを活用した英語勉強法に見直されることだろう。
野口さんは英語をどう勉強してきたか
最後の第7章「私は英語をどう勉強してきたか」のサブタイトルは次の通りだ。
1.中学生のときに見つけた丸暗記法
2.アメリカ留学
3.帰国後に英語を勉強
帰国後に英語を勉強とは、上記の通勤学習のことだ。
野口さんの英語勉強の目的は、「アメリカ人が普段の生活で使っている口語も聞けるようになること」で、象徴的に言えば「映画の英語がすべて分かること」だという。
これが野口さんに不足している能力で、それに加え、正式な英語を書くのは難しいと今でも思っていると語る。野口さんは留学中に大学の博士論文を書くときに、冠詞の使い方が悪いと指摘されたという。本当に冠詞は難しい。
日暮れて道遠し
この本で何度も引用されている故伊丹十三監督の「ヨーロッパ退屈日記」に、ヴァイオリンの奏者に三段階あり、1.全く奏することができない者、2.非常につたなく奏する者、3.非常に巧みに奏する者だという話が出てくる。
ヨーロッパ退屈日記 (新潮文庫)著者:伊丹 十三
販売元:新潮社
発売日:2005-03
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野口さんはこの第2段階だと謙遜する。この道50年で「日暮れて道遠し」だと。
64歳になってからも新しい外国語に挑戦したシュリーマンの例を取り上げ、映画の英語がすべて聞けるように今後も英語を楽しく勉強したいと締めくくっている。
古代への情熱―シュリーマン自伝 (岩波文庫)著者:ハインリヒ シュリーマン
販売元:岩波書店
発売日:1976-01
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まさに同感である。英語の勉強に終わりはない。筆者も通勤時間に英語のオーディオブックを聞き、車に乗るときはaudible.comでダウンロード購入してiPodに入れたチャーチルの「第二次世界大戦」を聞いている。
Audible.comのチャーチルの第二次世界大戦のページ
Second World War (Second World War)著者:Winston, Sir Churchill
販売元:Mariner Books
発売日:1986-05-09
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ノーベル文学書受賞作でもあり、チャーチルの英文が格調高いこともあって、まだまだわからないことが多い。
筆者の場合も、まさに、この道40年で「日暮れて道遠し」だ。
英語勉強の原点
野口さんは、英語で悔しい思いをした経験はないようで、中学の英語弁論大会で、(受賞はしなかったが)スピーチをした時が原点だという。
筆者の場合は、24歳でアルゼンチンに赴任したときに乗ったパンナム機で、米国人スチュワーデスに何度言っても"milk"が通じず、結局ビールを持ってこられた時の悔しさが、英語勉強の原点だ。
それからも何度も悔しい思いや失敗をした。
これからもあの悔しい思いを忘れずに、少しでも英語力向上に努力するつもりだ。
「聞くことができれば話せる」とは異論があるかもしれないが、まずはカンペキに聞いて分かることが英語の最大の上達法であることは間違いないと思う。
いろいろな意味で参考になる本だった。是非iPod時代にあわせて改訂版を出してもらいたいものだ。
参考になれば投票ボタンをクリックして頂きたい。
2009年05月29日
Google Mapストリートビュー 削除画像が復活
Google Mapのストリートビューで、車のナンバープレートが写っていたため、昨年9月に自宅の画像を削除してもらったが、Googleの新技術でナンバープレートにぼかしを入れるようになったので、筆者の自宅の画像も復活している。

どうやら今年の初め、冬に撮った写真のようだ。
筆者のハリアーハイブリッドが写っているが、こんどはナンバープレートにぼかしがはいっていて読めない。
あたらしい画像に入れ替えて、すべて復活したのだと思う。
ピッツバーグで住んでいた家も2台車が写っているが、ナンバープレートは読めないようになっている。アメリカの画像は以前と変わっていない。たぶん画像を入れ替えたのは日本だけなのだろう。

ナンバープレートをぼかすプログラムを追加したのだろうが、それにしてもGoogleはやることが早い。さすがだと思う。
参考になれば次クリック投票お願いします。
2008年9月19日初掲:
Google Mapのストリートビュー機能が始まって、1ヶ月強がたった。
始まった時にそのすごさをブログに書いたが、実は日本の自宅については車のナンバープレートが読めるというプライバシーの問題があった。
そこでGoogle Mapストリートビューのヘルプで問題を報告してみた。

このストリートビューヘルプをクリックすると次の画面が現れる。

これに記入して送信すると、次のような確認メールが届く。
Google の記録によりますと、お客様から Google マップのストリートビュー
に、公開に適さない画像があるというご連絡を頂戴いたしました。 現在、ご報
告いただいたコンテンツを確認しております。確認が取れ次第、画像を削除する
など、適切に対応させていただきます。 ご協力のほどよろしくお願いいたしま
す。 今後ともよろしくお願い申し上げます。
Google マップ チーム
そこで削除してもらったのが次の画面だ。

自分の家の住所を入れると、ストリートビュー表示されるのが「この画像はなくなりました」というメッセージだ。
自分の家の画像がなくなるというのは、ちょっと寂しい気もするが、人の顔はスクランブルをかけて自動的にぼかしが入るが、車のナンバープレートの数字だけを消すという芸当はできなかったようだ。
たぶんこれからポツポツと歯抜けが出てくると思う。
もし自分の家で、不適切な画像があればGoogleに連絡すると良い。数日で削除されると思う。
参考になれば次クリック投票お願いします。
どうやら今年の初め、冬に撮った写真のようだ。
筆者のハリアーハイブリッドが写っているが、こんどはナンバープレートにぼかしがはいっていて読めない。
あたらしい画像に入れ替えて、すべて復活したのだと思う。
ピッツバーグで住んでいた家も2台車が写っているが、ナンバープレートは読めないようになっている。アメリカの画像は以前と変わっていない。たぶん画像を入れ替えたのは日本だけなのだろう。
ナンバープレートをぼかすプログラムを追加したのだろうが、それにしてもGoogleはやることが早い。さすがだと思う。
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2008年9月19日初掲:
Google Mapのストリートビュー機能が始まって、1ヶ月強がたった。
始まった時にそのすごさをブログに書いたが、実は日本の自宅については車のナンバープレートが読めるというプライバシーの問題があった。
そこでGoogle Mapストリートビューのヘルプで問題を報告してみた。
このストリートビューヘルプをクリックすると次の画面が現れる。
これに記入して送信すると、次のような確認メールが届く。
Google の記録によりますと、お客様から Google マップのストリートビュー
に、公開に適さない画像があるというご連絡を頂戴いたしました。 現在、ご報
告いただいたコンテンツを確認しております。確認が取れ次第、画像を削除する
など、適切に対応させていただきます。 ご協力のほどよろしくお願いいたしま
す。 今後ともよろしくお願い申し上げます。
Google マップ チーム
そこで削除してもらったのが次の画面だ。
自分の家の住所を入れると、ストリートビュー表示されるのが「この画像はなくなりました」というメッセージだ。
自分の家の画像がなくなるというのは、ちょっと寂しい気もするが、人の顔はスクランブルをかけて自動的にぼかしが入るが、車のナンバープレートの数字だけを消すという芸当はできなかったようだ。
たぶんこれからポツポツと歯抜けが出てくると思う。
もし自分の家で、不適切な画像があればGoogleに連絡すると良い。数日で削除されると思う。
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2009年05月25日
悩む力 姜尚中(カン・サンジュン)さんの自伝的読書感想文
東大情報学環教授の姜尚中(カン・サンジュン)さんの自伝的読書感想文。2008年のベストセラーだ。
悩む力 (集英社新書 444C)
著者:姜 尚中
販売元:集英社
発売日:2008-05-16
おすすめ度:
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在日韓国人二世として生まれた姜尚中さんだが、熊本の両親が子どもに不自由な思いをさせまいと骨身を惜しまず働き、惜しみなく愛情を注いでくれたという。
この本では在日だからといった特別な体験は語らず、青春そして人生の悩みについて主に夏目漱石の小説とドイツの社会学者マックス・ウェーバーの著作を題材にして語っている。
従って漱石の小説を読んでいないと話が理解できず中途半端に終わってしまう。
漱石は筆者も好きな小説家で、学生時代も読んだが、最近、オーディオブックであらためて聞いている。
朗読 夏目漱石作品集
アーティスト:加藤剛/橋爪功
販売元:インディペンデントレーベル
発売日:2003-05-01
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このブログでも「坊っちゃん」、「こころ」、「それから」のオーディオブックは紹介しているが、他にも「三四郎」、「門」、「吾輩は猫である」、「草枕」をオーディオブックで聞いた。
図書館で朗読のCDを借りたり、カセットしかないものは、アナログーデジタル変換ソフトで変換してiPodで聞いている。
漱石の小説は既に著作権が失効しているので、青空文庫でも公開されている。
青空文庫では漱石の101点の作品を読むことができるが、漱石の作品は文庫で出版されており、簡単に読めるし、オーディオブックにもなっているので、文庫本を買うか、もよりの図書館の朗読CDをチェックすることをおすすめする。
この本の目次
この本の目次は次の通りだ。
序章 「いまを生きる」悩み
第1章 「私」とは何者か
第2章 世の中すべて「金」なのか
第3章 「知っているつもり」じゃないか
第4章 「青春」は美しいか
第5章 「信じる者」は救われるか
第6章 何のために「働く」のか
第7章 「変わらぬ愛」はあるか
第8章 なぜ死んではいけないか
終章 老いて「最強」たれ
悩む人
最初にこのブログでも紹介しているヴィクトール・フランクルの「苦悩する人間は、役に立つ人間よりも高いところにいる」という言葉を紹介して、「悩む力」に、生きる意味(を追求すること)への意志が宿っている姜さんは語る。
漱石の作品にはたしかに悩む人が多く描かれている。この本では「こころ」の”先生”を詳しく取り上げているが、筆者は「門」の宗助が鎌倉の禅宗のお寺で修行するところが好きだ。
あの禅宗の坊さんの「父母未生以前本来の眼目」を考えてみろというのが、どうしても頭から離れない。
青空文庫からその部分を引用すると:
「さあどうぞ」と案内をして、老師のいる所へ伴(つ)れて行った。
老師というのは五十格好(がっこう)に見えた。赭黒(あかぐろ)い光沢(つや)のある顔をしていた。その皮膚も筋肉もことごとく緊(しま)って、どこにも怠(おこたり)のないところが、銅像のもたらす印象を、宗助の胸に彫りつけた。ただ唇(くちびる)があまり厚過ぎるので、そこに幾分の弛(ゆる)みが見えた。その代り彼の眼には、普通の人間にとうてい見るべからざる一種の精彩(せいさい)が閃(ひら)めいた。宗助が始めてその視線に接した時は、暗中に卒然として白刃を見る思があった。
「まあ何から入っても同じであるが」と老師は宗助に向って云った。「父母未生(ふぼみしょう)以前(いぜん)本来(ほんらい)の面目(めんもく)は何(なん)だか、それを一つ考えて見たら善(よ)かろう」
宗助には父母未生以前という意味がよく分らなかったが、何しろ自分と云うものは必竟(ひっきょう)何物だか、その本体を捕(つら)まえて見ろと云う意味だろうと判断した。それより以上口を利(き)くには、余り禅というものの知識に乏しかったので、黙ってまた宜道に伴れられて一窓庵へ帰って来た。
漱石の精神衰弱
漱石がロンドン留学中に神経衰弱に罹った話は有名だが、この本の漱石とウェーバーの関連年譜を見ると、漱石は東大英文科を卒業して大学院に進み、東京高等師範学校(現つくば大学)の英語教師となった28歳の頃に精神衰弱となり、鎌倉円覚寺で参禅している。
たぶんこの「門」の老師の問答はそのときの経験をもとに書いているのだろう。
その後漱石は文部省派遣留学生として34歳でロンドンに留学するが、精神衰弱に悩まされる。
留学当時の漱石の様子は、今度紹介する多賀敏行さんの「『エコノミック・アニマル』は褒め言葉だった」に紹介されている。多賀さんはケンブリッジ大学に留学し、法学修士号を取得している。
「エコノミック・アニマル」は褒め言葉だった―誤解と誤訳の近現代史 (新潮新書)
著者:多賀 敏行
販売元:新潮社
発売日:2004-09
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多賀さんによると、漱石の留学は、大学など正規の高等教育機関に通って勉強したわけではなく、ひたすら生活費を切りつめ、余った金のすべてを書籍購入に振り向け、きたない下宿に籠城して朝から晩まで書物を読むふけるというネクラ生活だったという。
クレイグ先生に教導を得たと言われているが、クレイグ先生とは月に数回通って、英文学について質問するという程度の関係だったようで、江藤淳が「漱石とその時代 第二部」に次のように記していることを挙げている。
「Craigニ至ル。文章ヲ添削センコトヲ依頼ス。extra chargeヲ望ム。卑シキ奴ナリ。」(2月12日付け「日記」)
つまり師弟というよりもビジネスの関係だったようだ。
漱石とその時代 第1部 (新潮選書)
著者:江藤 淳
販売元:新潮社
発売日:1970-08
おすすめ度:
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漱石はこのような生活を続けて、今で言う「海外生活不適応症候群」のようになり、精神衰弱を再発させたようだ。
漱石は後に「倫敦に住み暮らしたる二年間は尤も(もっとも)不愉快の二年なり。余は英国紳士の間にあって狼群に伍する一匹のむく犬の如く、あはれなる生活を営みたり。」と「文学論」で記しているという。
多賀さんはイギリス留学中に江藤淳の「漱石とその時代」を読み、その後「ロンドンの夏目漱石ー漱石研究の一つの盲点」という元日経新聞ロンドン特派員の韮澤嘉雄さんが書いた論文を入手し、漱石がいかに爪に火をともすような生活を送っていたか知ったという。
漱石は倹約のために、一缶80銭のビスケットを水も飲まずに無理やりかみ砕いては生つばのみで飲み下して昼食としていたという。
文部省から支給されていたのは毎月150円で、当時の為替レートで約15ポンドだったという。ウェスト・ハムステッドの下宿は朝食・夕食込みで週2ポンドで、下宿代だけで留学費の半分以上かかっていた。
留学のみやげも持って帰らなければならないので、漱石は相当の倹約を強いられたようだ。
多賀さんは漱石の下宿だったウェスト・ハムステッドの素人下宿も訪問したが、中の下の階級の人が住むような古いレンガ作りの家だったという。(現在は文化財に指定されている)
漱石は50歳で亡くなっているが、その死因は胃潰瘍だった。精神衰弱になるほど悩みが深い漱石なので、胃潰瘍も併発したのだろう。
最近ではWBCに出場したイチローが打撃不振で胃潰瘍になっていたことが記憶に新しい。
イチローもメディアには哲学者のような独特の対応をしているが、いわゆる胃がきりきり痛むまで思い詰めるタイプの人なのだろう。
ウェーバーも精神病で入院
ウェーバーは政治家で資産家の家に生まれ、何不自由ない生活をしていたようだが、政治家であった父に反目する。
順調にキャリアを伸ばし30歳でフライブルク大学教授、33歳でハイデルベルク大学教授となった後、34歳で漱石と同じように精神疾患を発病し、34歳の時に精神病院に入院し、病気のため39歳で正教授の職を辞し、名誉教授となる。
40歳でセントルイスの国際会議に参加するため、アメリカを訪れ、そのときの経験もふまえて、41歳で「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を発表し、一躍有名になる。
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)
著者:マックス ヴェーバー
販売元:岩波書店
発売日:1989-01
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今の学生がウェーバーの作品をどれほど読んでいるのか分からないが、筆者の学生時代は、ウェーバーが必読書とされていた。
そのウェーバーも精神病で入院していたとは知らなかった。
姜さんの主張
この本では姜さんは、特にああしろ、こうしろとは書いていない。
自分の体験と読書の感想を通して、次のような具合に例を提示し、読者に考えるきっかけを与えている。
「人は何を知るべきなのか、という問題は、どんな社会が望ましいかという事ともつながっています。
いずれしても、われわれの知性は何のためにあって、われわれはどんな社会を目指しているのかということを、考え直す必要があるのではないでしょうか」
老いて最強たれ
最後に姜さんは、「老いて最強たれ」ということで、老人力を発揮し、福沢諭吉の言葉のように「一身にして二生を経る」、つまり一人の人間で二つの人生を生きることを呼びかけている。
悩み続けて、悩みの果てに突き抜けたら、映画「イージーライダー」の主題歌"Born to be wild"のように"wild"=「横着者」で行こうと語る。
まだ見ていない人には、結末を教える様で申し訳ないが、筆者にはイージーライダーの最後の印象的なシーンが忘れられない。
漱石やウェーバーの本を読んでいない人は、是非この機会に本を手にとってみてほしい。100年前の作品とは思えない。必ずや得るものがあるはずだ。
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悩む力 (集英社新書 444C)著者:姜 尚中
販売元:集英社
発売日:2008-05-16
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在日韓国人二世として生まれた姜尚中さんだが、熊本の両親が子どもに不自由な思いをさせまいと骨身を惜しまず働き、惜しみなく愛情を注いでくれたという。
この本では在日だからといった特別な体験は語らず、青春そして人生の悩みについて主に夏目漱石の小説とドイツの社会学者マックス・ウェーバーの著作を題材にして語っている。
従って漱石の小説を読んでいないと話が理解できず中途半端に終わってしまう。
漱石は筆者も好きな小説家で、学生時代も読んだが、最近、オーディオブックであらためて聞いている。
朗読 夏目漱石作品集
アーティスト:加藤剛/橋爪功
販売元:インディペンデントレーベル
発売日:2003-05-01
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このブログでも「坊っちゃん」、「こころ」、「それから」のオーディオブックは紹介しているが、他にも「三四郎」、「門」、「吾輩は猫である」、「草枕」をオーディオブックで聞いた。
図書館で朗読のCDを借りたり、カセットしかないものは、アナログーデジタル変換ソフトで変換してiPodで聞いている。
漱石の小説は既に著作権が失効しているので、青空文庫でも公開されている。
青空文庫では漱石の101点の作品を読むことができるが、漱石の作品は文庫で出版されており、簡単に読めるし、オーディオブックにもなっているので、文庫本を買うか、もよりの図書館の朗読CDをチェックすることをおすすめする。
この本の目次
この本の目次は次の通りだ。
序章 「いまを生きる」悩み
第1章 「私」とは何者か
第2章 世の中すべて「金」なのか
第3章 「知っているつもり」じゃないか
第4章 「青春」は美しいか
第5章 「信じる者」は救われるか
第6章 何のために「働く」のか
第7章 「変わらぬ愛」はあるか
第8章 なぜ死んではいけないか
終章 老いて「最強」たれ
悩む人
最初にこのブログでも紹介しているヴィクトール・フランクルの「苦悩する人間は、役に立つ人間よりも高いところにいる」という言葉を紹介して、「悩む力」に、生きる意味(を追求すること)への意志が宿っている姜さんは語る。
漱石の作品にはたしかに悩む人が多く描かれている。この本では「こころ」の”先生”を詳しく取り上げているが、筆者は「門」の宗助が鎌倉の禅宗のお寺で修行するところが好きだ。
あの禅宗の坊さんの「父母未生以前本来の眼目」を考えてみろというのが、どうしても頭から離れない。
青空文庫からその部分を引用すると:
「さあどうぞ」と案内をして、老師のいる所へ伴(つ)れて行った。
老師というのは五十格好(がっこう)に見えた。赭黒(あかぐろ)い光沢(つや)のある顔をしていた。その皮膚も筋肉もことごとく緊(しま)って、どこにも怠(おこたり)のないところが、銅像のもたらす印象を、宗助の胸に彫りつけた。ただ唇(くちびる)があまり厚過ぎるので、そこに幾分の弛(ゆる)みが見えた。その代り彼の眼には、普通の人間にとうてい見るべからざる一種の精彩(せいさい)が閃(ひら)めいた。宗助が始めてその視線に接した時は、暗中に卒然として白刃を見る思があった。
「まあ何から入っても同じであるが」と老師は宗助に向って云った。「父母未生(ふぼみしょう)以前(いぜん)本来(ほんらい)の面目(めんもく)は何(なん)だか、それを一つ考えて見たら善(よ)かろう」
宗助には父母未生以前という意味がよく分らなかったが、何しろ自分と云うものは必竟(ひっきょう)何物だか、その本体を捕(つら)まえて見ろと云う意味だろうと判断した。それより以上口を利(き)くには、余り禅というものの知識に乏しかったので、黙ってまた宜道に伴れられて一窓庵へ帰って来た。
漱石の精神衰弱
漱石がロンドン留学中に神経衰弱に罹った話は有名だが、この本の漱石とウェーバーの関連年譜を見ると、漱石は東大英文科を卒業して大学院に進み、東京高等師範学校(現つくば大学)の英語教師となった28歳の頃に精神衰弱となり、鎌倉円覚寺で参禅している。
たぶんこの「門」の老師の問答はそのときの経験をもとに書いているのだろう。
その後漱石は文部省派遣留学生として34歳でロンドンに留学するが、精神衰弱に悩まされる。
留学当時の漱石の様子は、今度紹介する多賀敏行さんの「『エコノミック・アニマル』は褒め言葉だった」に紹介されている。多賀さんはケンブリッジ大学に留学し、法学修士号を取得している。
「エコノミック・アニマル」は褒め言葉だった―誤解と誤訳の近現代史 (新潮新書)著者:多賀 敏行
販売元:新潮社
発売日:2004-09
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多賀さんによると、漱石の留学は、大学など正規の高等教育機関に通って勉強したわけではなく、ひたすら生活費を切りつめ、余った金のすべてを書籍購入に振り向け、きたない下宿に籠城して朝から晩まで書物を読むふけるというネクラ生活だったという。
クレイグ先生に教導を得たと言われているが、クレイグ先生とは月に数回通って、英文学について質問するという程度の関係だったようで、江藤淳が「漱石とその時代 第二部」に次のように記していることを挙げている。
「Craigニ至ル。文章ヲ添削センコトヲ依頼ス。extra chargeヲ望ム。卑シキ奴ナリ。」(2月12日付け「日記」)
つまり師弟というよりもビジネスの関係だったようだ。
漱石とその時代 第1部 (新潮選書)著者:江藤 淳
販売元:新潮社
発売日:1970-08
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漱石はこのような生活を続けて、今で言う「海外生活不適応症候群」のようになり、精神衰弱を再発させたようだ。
漱石は後に「倫敦に住み暮らしたる二年間は尤も(もっとも)不愉快の二年なり。余は英国紳士の間にあって狼群に伍する一匹のむく犬の如く、あはれなる生活を営みたり。」と「文学論」で記しているという。
多賀さんはイギリス留学中に江藤淳の「漱石とその時代」を読み、その後「ロンドンの夏目漱石ー漱石研究の一つの盲点」という元日経新聞ロンドン特派員の韮澤嘉雄さんが書いた論文を入手し、漱石がいかに爪に火をともすような生活を送っていたか知ったという。
漱石は倹約のために、一缶80銭のビスケットを水も飲まずに無理やりかみ砕いては生つばのみで飲み下して昼食としていたという。
文部省から支給されていたのは毎月150円で、当時の為替レートで約15ポンドだったという。ウェスト・ハムステッドの下宿は朝食・夕食込みで週2ポンドで、下宿代だけで留学費の半分以上かかっていた。
留学のみやげも持って帰らなければならないので、漱石は相当の倹約を強いられたようだ。
多賀さんは漱石の下宿だったウェスト・ハムステッドの素人下宿も訪問したが、中の下の階級の人が住むような古いレンガ作りの家だったという。(現在は文化財に指定されている)
漱石は50歳で亡くなっているが、その死因は胃潰瘍だった。精神衰弱になるほど悩みが深い漱石なので、胃潰瘍も併発したのだろう。
最近ではWBCに出場したイチローが打撃不振で胃潰瘍になっていたことが記憶に新しい。
イチローもメディアには哲学者のような独特の対応をしているが、いわゆる胃がきりきり痛むまで思い詰めるタイプの人なのだろう。
ウェーバーも精神病で入院
ウェーバーは政治家で資産家の家に生まれ、何不自由ない生活をしていたようだが、政治家であった父に反目する。
順調にキャリアを伸ばし30歳でフライブルク大学教授、33歳でハイデルベルク大学教授となった後、34歳で漱石と同じように精神疾患を発病し、34歳の時に精神病院に入院し、病気のため39歳で正教授の職を辞し、名誉教授となる。
40歳でセントルイスの国際会議に参加するため、アメリカを訪れ、そのときの経験もふまえて、41歳で「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を発表し、一躍有名になる。
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)著者:マックス ヴェーバー
販売元:岩波書店
発売日:1989-01
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今の学生がウェーバーの作品をどれほど読んでいるのか分からないが、筆者の学生時代は、ウェーバーが必読書とされていた。
そのウェーバーも精神病で入院していたとは知らなかった。
姜さんの主張
この本では姜さんは、特にああしろ、こうしろとは書いていない。
自分の体験と読書の感想を通して、次のような具合に例を提示し、読者に考えるきっかけを与えている。
「人は何を知るべきなのか、という問題は、どんな社会が望ましいかという事ともつながっています。
いずれしても、われわれの知性は何のためにあって、われわれはどんな社会を目指しているのかということを、考え直す必要があるのではないでしょうか」
老いて最強たれ
最後に姜さんは、「老いて最強たれ」ということで、老人力を発揮し、福沢諭吉の言葉のように「一身にして二生を経る」、つまり一人の人間で二つの人生を生きることを呼びかけている。
悩み続けて、悩みの果てに突き抜けたら、映画「イージーライダー」の主題歌"Born to be wild"のように"wild"=「横着者」で行こうと語る。
まだ見ていない人には、結末を教える様で申し訳ないが、筆者にはイージーライダーの最後の印象的なシーンが忘れられない。
漱石やウェーバーの本を読んでいない人は、是非この機会に本を手にとってみてほしい。100年前の作品とは思えない。必ずや得るものがあるはずだ。
参考になれば投票ボタンをクリックして頂きたい。
2009年05月23日
吉田茂 ポピュリズムに背を向けて 今なぜ吉田茂なのか?
+++今回のあらすじはすごく長いです+++
吉田茂 ポピュリズムに背を向けて
著者:北 康利
販売元:講談社
発売日:2009-04-21
おすすめ度:
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筆者が注目している元ビジネスマン作家、北康利さんの最新作。前作「白洲次郎 占領を背負った男」で取り上げた白洲次郎のボス、吉田茂の伝記だ。このあらすじブログは筆者の備忘録も兼ねているので、良い本だと筆者の思い入れも強く、あらすじがつい長くなってしまう。
この本の表紙は、50歳頃と思われる吉田茂の写真だ。これはロンドンの写真館で撮ったものということなので、1930年前後のものだろう。見慣れた次のような吉田茂の写真とは異なり、別人の様に見える。

出典:Wikipedia
YouTubeには次のような吉田茂のドキュメンタリーがいくつか収録されているので、こちらも参照して欲しい。
筆者は神奈川県藤沢市出身なので、小学校の遠足などで箱根方面に行く途中で大磯を通る時には、バスガイドが大磯の吉田邸の話をしていたことを思い出す。
また横浜市戸塚区の横浜新道と国道1号線をつなぐバイパスは、筆者の子供の頃は「ワンマン道路」と呼ばれていた。
このバイパスができる以前は国道一号線の戸塚駅付近に東海道線の踏切があって、朝晩は「開かずの踏切」になるので、たびたび足止めを食らった吉田首相の鶴の一声で、バイパス建設が決まったという逸話がある。
吉田茂は高知県人の「いごっそう」で、神奈川県出身ではないが、大磯に長く住んでいたので、まるで神奈川県の偉人のように感じていたものだ。
北さんも本の中で記しているが、今年3月吉田邸が不審火で焼失したのは残念でならない。
筆者の子どもの頃に吉田元首相の国葬があったことをおぼろげに覚えているが、北さんが述べている様に、高校の日本史では、受験に出ないという理由で、現代史は自習だったので、ほとんど当時の吉田茂のことは知らないので、興味深く読めた。
400ページ弱の本で、吉田茂の生い立ちから、サンフランシスコ講和条約締結までで終わっている。最初読んだ時は、吉田茂の晩年のことが書いてないので、尻切れトンボのような印象を受けたが、あらすじを書くために読み直すと、北さんの真意がわかってきた様な気がする。
たぶん北さんはこの本のタイトルにあるように、小泉元首相などに代表される「ポピュリズム」政治へのアンチテーゼとして、ステーツマン(ポリティシャン=政治屋でなく尊敬できる政治家)吉田茂の伝記を書きたかったのだろう。だから1951年のサンフランシスコ講和条約で終わっているのだと思う。
吉田茂のおいたち
吉田茂は明治11年(1878年)高知県で竹内綱の5男として生まれ、すぐに横浜のジャーディンマセソン商会の横浜支配人吉田健三の許に養子として出された。実父の竹内綱は自由民権運動家として知られた実業家・政治家だ。
吉田の長兄の竹内明太郎は小松製作所の創業者であり、早稲田大学理工学部創設に貢献したことから、竹内記念ラウンジがある。友人の田健治郎、青山禄朗とともに改心社自動車工場を設立し、3人の頭文字を取って脱兎にかけたDAT CAR後のダットサンが生まれる。
養父の吉田健三は福井県出身で、英国船に密航してイギリスで2年間生活した強者だ。帰国後実業家となり、当時極東最大のジャーディンマセソン商会の横浜支配人を勤めた。ビールを最初に取り寄せたのも吉田健三だといわれている。
健三は大磯に住んでいたが、当時大磯には伊藤博文、西園寺公望、木戸幸一、樺山愛輔(白洲正子の父)などが住んでいた。
健三は40歳で病死する。死因は不明だが、インフルエンザだったといわれている。豚インフルエンザの流行が毎日報道されるこのごろだが、昔も今でもインフルエンザは死に至る病となるのだ。
吉田茂は11歳で吉田家の戸主として現在の金にすると25億円ほどの遺産を相続し、遺産の大半を戦前に使い切ってしまったという。
大磯の豪邸をさらに広げたとはいうものの、それにしても大変な金銭感覚の無さだ。もっぱら遊びに使ったのだろう。吉田茂の実母は竹内綱の妾だったようで、後に妻の雪子に「芸者の子は芸者が好きね」とため息をつかれたという。
外務省入省
吉田茂は藤沢の耕余義塾という漢学塾に学び、日本中学校、東京高等商業(現一橋大学)、正則中学、東京物理学校(現東京理科大)、学習院大学を経て28歳で東大政治学科を卒業し、1906年外務省に入省する。
外務省では謹厳実直なエリート広田弘毅と同期で親友となる。
入省翌年、はやくも奉天に1年間勤務する。その後帰国して有力者牧野伸顕の娘雪子と結婚する。翌1908年ロンドン、次にイタリアに勤務する。
1912年から1916年までは朝鮮と中国の国境の鴨緑江に面する安東県領事として勤務する。
1915年大隈重信内閣は、袁世凱政権に対して「対支21ヶ条の要求」を突きつける。吉田は在満州の領事に呼びかけて、対支21ヶ条に反対したが誰も賛同しなかったという。保身を考えず、信念で行動する吉田らしいエピソードだ。
多くの役職を歴任して外務次官に
帰国後寺内正毅首相に秘書官にならないかと誘われ「私は首相なら務まると思いますが、首相秘書官は務まりません」と断っている。当時の外務次官の幣原喜重郎は英語の達人として知られるが、吉田とはウマが会わなかったという。
1918年中国の済南領事となり、第一次世界大戦のパリ講和条約に義父の牧野の秘書官として参加し、西園寺公望に同行していた近衛文麿と出会う。パリ講和会議では日本は人種差別撤廃を主張し、賛成多数を獲得するが、アメリカ大統領ウィルソンが全会一致を要求し、日本案は葬られてしまう。
吉田茂はこのとき国際社会における日本の立場を思い知らされたという。帰国後吉田は1920年に再度イギリスに赴任する。
1922年天津総領事を経て、1925年奉天総領事として勤務する。
このとき、吉田を訪ねてきた来客に出くわし、「本人がいないと言っているんだ。こんな確かなことがありますか」と答えたという話が残っている。戦後記者に「諸君とは食べ物が違う。私は人を食っている」と答えたという吉田茂らしいエピソードだ。
済南、天津、奉天のこと
余談になるが、筆者は中国の済南、天津、奉天(現瀋陽)すべて行ったことがある。
奉天(現瀋陽)に最初に行ったのは今のように近代化される前の1986年で、当時中国のマグネシア原料を米国に輸入していたので、鉱山を訪問したのだ。
今のように高速道路などない時代なので、片側一車線の並木道が旧満鉄沿いに大連から奉天まで続いており、当時の中国人運転手(今もそうかもしれない)の特徴とも言える無理な追い越しで何度も怖い目にあった。
奉天では満鉄の主要駅前にあった旧大和ホテルで一泊した。旧式ではあるが立派なホテルだった。
天津は2002年に行った。天津は北京から近いので、車で十分日帰りでき、天津事務所の人との打ち合わせだけだったので、あまり記憶にない。
山東省の済南へは、1998年頃米国向け鉄鋼原料の買い付けで行った。飛行機で北京から済南まで飛んで、車で済南から青島まで高速道路で移動した。
このあたりは石炭を燃料としている中小工場が多く、済南から青島までずっと途中スモッグがたちこめ、中国の大気汚染のひどさに驚いたものだ。
日曜日は済南に一泊したので、済南の近くの鍾乳洞を訪問した。本当は同じ山東省の孔子廟のある曲阜(きょくふ)に行きたかったのだが、片道5時間かかると言われ、1980年代(?)に発見されたという鍾乳洞を見学した。
すごい大規模な鍾乳洞で、たしかに一見の価値はあった。
山東省は筆者にとって忘れ得ない省だ。一つは最初に中国に出張した1983年に浙江省の杭州の相手方の総経理(社長)が山東省の出身ということで、山東省名産の汾酒というアブサンみたいなアルコール50%超のセメダインのにおいのする酒で何度も乾杯させられたのだ。

中国焼酎 汾酒 フェンチュウ 53度 500ml
(今調べてみたら汾酒は山西省の名産ということで、筆者が山東省と聞き間違えたのかもしれない)
悪酔いして本当にもう死ぬかとおもったが、案外翌日仕事ができたのには自分でも驚いた。たぶん蒸留酒なので翌日には残らないのだろう。
翌日の宴会の乾杯は度数の低いブランデーで、コーラも一緒に用意してこちらのペースで進めたので、問題なかった。ちゃんと対策を取っていれば、中国の宴会の「乾杯攻め」も怖くないことを知った。
もうひとつは1998年に済南に行ったときの宴会料理だ。
料理の一つが大皿にずらっと並んだセミの幼虫だったのだ。筆者が主賓のため、主賓が食べないと他の人も食べられないので、やむなく2−3個取って食べてみた。味はほとんど覚えていない。食べられなくはなかったが、うまいものではなかった。
そうしたら12人ほどのテーブルで、中国人でも食べないやつがいるのには頭に来た。こっちはせっかく無理して食べたのに、なぜ食べないのかと聞くと、今は(冬だった)セミのシーズンではないと言っていたので再度頭に来た。
閑話休題。
戦争に向かう日本
短期間のスウェーデン公使のあと、帰国して1928年に外務次官となる。張作霖爆殺事件が起こり、関東軍の暴走を止められなかった田中義一内閣は昭和天皇の叱責を受けて総辞職し、田中は3ヶ月後狭心症で死去する。
当時28歳の昭和天皇は、田中を叱責したことが田中内閣を総辞職させ、田中を死に追いやる結果にもなったかもしれないということを深く悔やみ、以後は発言を極力控えるようになり、そのことが軍部の横暴に拍車を掛ける結果となる。
今度紹介する元竹田宮家の旧皇族の竹田恒泰さんの「旧皇族が語る天皇の日本史」に「昭和天皇独白録」の関係部分が引用されているので紹介する。
旧皇族が語る天皇の日本史 (PHP新書)
著者:竹田 恒泰
販売元:PHP研究所
発売日:2008-02-14
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「それでは話が違ふではないか、辞表を出してはどうか」
「こんな云ひ方をしたのは、私の若気の至りである(中略)この事件あって以来、私は内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持ってゐても裁可を与へる事に決心した」
吉田は1930年まで外務次官をつとめた後、イタリア大使として転出する。
1931年に満州事変が起こり、政府は不拡大宣言を出すが、軍を抑えられず若槻内閣は辞職し、犬養毅内閣が成立する。その犬養毅も翌1932年5.15事件で暗殺され、暗い時代に入っていく。
駐米大使の話もあったが、吉田はこれを断り、1932年に日本に待命待遇で帰国する。駐米大使は外交官として最高の栄誉なので、あり得ない話だが、関東軍の暴走を追認する内田外相への反感によるものだという。
日本では1932年から駐日米国大使となっていたジョセフ・グルーと家族ぐるみの親密なつきあいをする。グルーはボストンの名家出身で、モーガン財閥とは姻戚だ。ハーバード大学在学中に日本を訪問し、日本びいきとなったという。
外交感覚のない国民は必ず凋落する
多くの逸話がある吉田茂だが、外交で国を救うという姿勢は一貫しており、その一つがこのエピソードだ。
1933年、吉田の外務省同期の広田弘毅が外相になり、待命中の吉田に気を遣って外交巡閲使として吉田を欧米に派遣する。1933年は日本が国際連盟を脱退した年だ。朝鮮・中国からスタートして一年強掛けて世界を一周する。このとき同行したのが麻生太郎首相のお母さんで吉田茂の三女、旧姓吉田和子さんだ。
吉田はワシントンで岳父牧野伸顕の紹介で、ウィルソン大統領の親友で外交官のハウス大佐に会い、「外交感覚のない国民は必ず凋落する」という警句を聞いた。これが吉田の生涯忘れえない言葉となった。
1936年には2.26事件が起こり、義父の牧野伸顕は湯河原で襲われ、孫の吉田和子と一緒に、すんでのところで難を逃れる。この時遭難してれば、麻生太郎首相も生まれなかったわけだ。
牧野についておもしろいエピソードを北さんは紹介している。
吉田茂の息子の吉田健一は評論家として有名だが、吉田の仲間の小林秀雄は酒癖が悪く、ある時酔って牧野に抱きつき、頭をなでながら「お前みたいに記憶のいい爺イはメモアールを書いておけ!きっと書くんだぞ!」と怒鳴っていたという。
仲間の河上徹太郎が失礼をわびると、牧野は「いやなに、2.26の時は機関銃の弾の下をくぐりましたから」と答えたという。
筆者の年代の人は、小林秀雄というと、文芸評論家の神様の様な存在で、現代国語の問題によく引用され、その難解な文章には悩まされたものだが、まさか酒乱だったとは思わなかった。
駐英大使として赴任
1936年3月、広田弘毅内閣が誕生する。広田は吉田を外相にするつもりだったが、軍部の反対でやむなく断念し、吉田を駐英大使に任命する。
この頃は在外武官が武官府という独自の事務所を持ち始め、独自の外交を展開していた。そんな武官の中で最も力を持っていたのがドイツ大使館付きでドイツ語が堪能な大島浩少将だ。
大島はヒットラーとも親しく、リッペントロップ外相と日独防共協定案をつくりあげる。1937年11月に日華和平交渉を仲介するなど、それまでドイツは親中国の立場を取っていたので、この協定は大島の自信作で、案が煮詰まるまで大島は一切外務省には知らせていなかったという。
外務省はあわててドイツ以外のイギリスなどにも参加させようとするが、吉田は防共協定自体に反対する。結局この年11月に日独防共協定は締結され、広田内閣も10ヶ月で辞職する。
吉田が駐英大使時代につきあいが深まったのが白洲次郎である。次郎が日本水産の貿易担当役員をしていた関係で、ロンドンにもしばしば立ち寄り、吉田の妻雪子からは娘の和子の結婚相手を探すように頼まれる。
次郎が見つけてきた相手が麻生太賀吉・麻生鉱業社長だ。たまたま次郎は麻生と同じ船に乗り合わせ、サンフランシスコから横浜までの2週間一緒にいて意気投合したのだという。
白洲次郎夫妻が仲人となり、吉田の帰国後の1938年12月に二人は結婚する。麻生太賀吉は実父を早く亡くしたこともあり、吉田茂を実の父親のように慕っており、セメントや石炭事業が絶好調の麻生鉱業が、巨額の政治資金を吉田茂に提供したのだという。
1937年には廬溝橋事件で日中戦争に突入し、近衛文麿が総理大臣となるが、有名な「蒋介石を相手にせず」声明を発表してしまう。
吉田は駐英大使として孤軍奮闘し、親日家のロバート・クレーギーを駐日大使に赴任させることに成功するが、外務省の実権は大島の息のかかった白鳥敏夫派に移り、吉田は本国の支援を失い、1938年9月帰国辞令が出る。
吉田の後任が重光葵であり、チャーチルは重光と頻繁に会って、日本の欧州戦争への参戦を思いとどまらせようとしていたことは、関栄次さんの「チャーチルが愛した日本」に詳しい。
チャーチルが愛した日本 (PHP新書)
著者:関 榮次
販売元:PHP研究所
発売日:2008-03-15
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最後まで開戦回避に努力
吉田の帰国辞令と時を同じくして結ばれたのがチェンパレン英国首相の戦争回避策であるミュンヘン協定だが、ヒットラーはミュンヘン協定を破って領土をさらに拡大し、戦争に突入していく。
日本に帰国した吉田は、役職にはつかず、白洲次郎と一緒にグルー駐日米国大使としばしばゴルフに出かけたり、クレーギー駐日英国大使とも密接な関係を保っていた。このため吉田の周囲は、憲兵隊から「ヨハンセングループ」(吉田反戦グループ)とコードネームを付けられ、常時監視されることになる。
1939年9月ドイツのポーランド侵攻により第2次世界大戦が始まる。閉塞感が漂う中、1940年7月近衛が再び首相に就任した直後に、米国は対日航空ガソリン禁輸を決定する。日本はやむなく石油資源を求めて9月に北部仏印進駐、そして日独伊三国同盟が大島と白鳥駐伊全権大使の連携で締結される。
1941年に吉田の妻の雪子が亡くなった。雪子の死後数年は吉田はやもめ暮らしをしていたが、娘の和子のすすめで、長年の妾だった小りんを家に迎え入れる。小りんは故雪子に気を遣って、入籍はしなかったという。
1941年4月戦争回避のためホノルルで近衛首相とルーズベルト大統領が会談するという計画が持ち上がるが、ハル国務長官や松岡洋右外相の反対で実現しなかった。7月には南部仏印進駐への制裁として、米国は在米日本資産の凍結を発表、8月には対日石油輸出を全面禁止とした。
近衛はグルーと直接会い、ルーズベルトとの直接会談を要望するが、10月に近衛内閣は総辞職に追い込まれる。東條英機内閣が成立し、11月末の強硬なハルノートを受け取り、日本は開戦に踏み切る。
吉田は12月始めにグルーの要請で東郷茂徳外相との会談を実現すべく最後まで努力するが、12月1日の御前会議で開戦決定が下されていたので、東郷はグルーに会わなかった。
太平洋戦争に突入
戦争中も吉田は、和平を結ばせるべく努力し、近衛や木戸幸一内大臣などと相談するが、即時停戦の近衛上奏文作成に加わったことで1945年4月に逮捕され、阿南惟幾陸相の口利きで5月末に釈放されるまで収監される。吉田邸の女中や書生としてスパイが送り込まれていたのだ。
一方グルーは1942年外交使節交換船で帰国するが、米国帰国後も駐日大使より格下の国務省の極東次官補にあえて就任し、次に国務次官に就任、皇居への直接爆撃を阻止するなど、早期戦争終結に努力するが、ルーズベルトの後任のトルーマンは原爆の威力に魅せられ、グルーを遠ざけた。
吉田はグルーを「真の日本の友」と呼んで感謝している。
グルーの努力も実らず、結局原爆が投下され、ソ連が参戦し、日本は降伏した。終戦を決定した鈴木貫太郎内閣は1945年8月15日総辞職し、皇族の東久邇宮稔彦殿下が首相となり、吉田は外相として67歳で初めて入閣し、さっそく外務省の人事を一新し、大改革に取りかかる。。
マッカーサーと吉田茂
吉田は1945年9月GHQを訪れ、はじめてマッカーサーと面談する。初対面で「ライオンの檻に入れられたような気がする」とジョークを飛ばし、それ以降マッカーサーとは終生良い関係を保った。
この二人は自尊心といい、他人の言うことを聞かない独善性といい、性格的にはそっくりで、犬好きという共通点もあったと北さんは評している。
外相就任してすぐに、天皇の希望で、天皇とマッカーサーとの会談が実現し、有名な写真が公開される。モーニング姿の天皇に対し、開襟シャツのマッカーサー。どちらが支配者か一目で分かるマッカーサーの政治傑作の一つだ。

出典:Wikipedia
マッカーサーの予想に反し、昭和天皇は命乞いをするどころか「戦争の全責任は私にある。私は死刑も覚悟しており、私の命はすべて司令部に委ねる。どうか国民が生活に困らぬよう連合国にお願いしたい」と述べた。
マッカーサーは感動し、誰にも使ったことのなかった”サー”を口にして送り出した。マッカーサーは、引退後も日本の戦後復興の最大の功労者は、昭和天皇だと語っており、天皇に対する尊敬は終生変わりはなかったという。
このときの昭和天皇の帽子の裏地には、ほころびを繕った跡があったという。天皇の人柄と、いかに清貧な生活をしていたのかが偲ばれるエピソードだ。
内務省が会見写真の新聞公開を差し止めたことから、GHQは怒り、内務大臣と内務・警察官僚4,000人の罷免を要求する。これで東久邇内閣は総辞職し、54日という歴代内閣最短記録をつくる。このことが尾を引き、戦前「役所の中の役所」と呼ばれてきた内務省は、1947年に解体されてしまう。
東久邇宮内閣の次は幣原喜重郎内閣が成立し、吉田は引き続き外相として留任して、「終戦連絡事務所」を設立し、白洲次郎を終連中央事務局参与に任命する。近衛はマッカーサーから一時はおだてられるが、米国内で近衛に対する非難がわき上がると、近衛を切り捨て、近衛は戦犯容疑で収監される前日に青酸カリ自殺する。
GHQ民政局と対決
GHQの占領政策の中心は民政局のホイットニー准将(当時48歳)とその部下のケーディス大佐(当時40歳)だった。彼らはニューディールの申し子で、いわば理想主義者の集団だった。
吉田茂と白洲次郎のコンビはGHQの民政局を相手に、日本の国益を守るために必死に戦う。吉田は作戦として、自分はマッカーサーを交渉相手にすることを決め、それ以下のホイットニーなどは相手にしなかった。マッカーサーの部下との交渉を引き受けたのが、ケンブリッジ仕込みの英語の達人、白洲次郎だった。
民政局は20万人を公職追放し、「ホイットニー旋風」を起こすが、GHQの中でもG2の「バターン・ボーイズ」の一人のウィロビー少将は民政局の政策を好まず、吉田と白洲はウィロビーと接近する。
ソ連が極東委員会を通じて、対日占領政策に口だしする構えをみせたので、マッカーサーは1946年2月に憲法改正草案の作成を命じ、GHQ関係者25名が7日間で草案を作り上げ、吉田と次郎に手渡す。改正案を日本側が訳して4月に憲法改正案として公表され、国会決議を経て成立した。
憲法改正案が国家に上程されたときに、多くの議員が無念のあまり嗚咽を漏らしたという。
自国の憲法を批准するのに国会議員が涙を流したというのはおそらく日本だけだろうと北さんは語る。日本人は彼らが抱いた悔しさを今ではすっかり忘れ果ててしまっていると。
第1次吉田内閣成立
1946年4月の総選挙で勝利した鳩山一郎は、組閣準備を始めるが、GHQの民政局から公職追放を突きつけられ、やむなく組閣をあきらめ、吉田に首相就任を要請する。吉田は一旦は断るが、鳩山や周りの説得で1946年5月に首相就任を決意する。
このとき鳩山に出した条件が次だ。
*自分は金を作らない
*人事には干渉させない
*嫌気がさしたらやめる
鳩山は「追放が解除になったらすみやかに総裁を譲る」という約束があったと主張して、後に吉田茂と大げんかになる。鳩山の公職追放が解除されたのは1951年のことだ。
戦争に負けて外交で勝った歴史はある
この有名な言葉は、吉田茂が昭和21年5月、初めて総理大臣となったときの言葉だ。
「戦争に負けて外交で勝った歴史はある」
吉田茂は後に日本医師会会長となる甥の武見太郎に、首相になる自信はあるかと聞かれた時に、このように答えたという。
19世紀ナポレオンの没落後、ヨーロッパ中を敵にまわしながら、領土を守りきったフランスのタレーラン外相のことを思って言ったのではないかと北さんは語る。
1946年当時、日本は海外領土を失い、農業の働き手を失って深刻な食糧不足に悩まされていた。
吉田はマッカーサーと掛け合い、食料問題を解決するために450万トンの食料援助を依頼するが、実際は70万トンで国内に十分な食料がゆきわたった。
マッカーサーがそのことをなじると、吉田茂は「もし日本が正しい数字を出せる国だったら戦争に負けてなどいませんよ」といなし、これにはマッカーサーも笑い出したという。
吉田はGHQの指示で、六・三制義務教育(それまでは6年間が義務教育だった)、農地改革を実現する一方、組合を「不逞の輩(やから)」と呼んで舌禍事件を起こした。
また選挙嫌いも徹底しており、地元で「自分は高知から選出されたかもしれないが、日本国の代表であって高知県の利益代表ではない」と公言していたという。
残りは続きを読むに記載。
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吉田茂 ポピュリズムに背を向けて著者:北 康利
販売元:講談社
発売日:2009-04-21
おすすめ度:
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筆者が注目している元ビジネスマン作家、北康利さんの最新作。前作「白洲次郎 占領を背負った男」で取り上げた白洲次郎のボス、吉田茂の伝記だ。このあらすじブログは筆者の備忘録も兼ねているので、良い本だと筆者の思い入れも強く、あらすじがつい長くなってしまう。
この本の表紙は、50歳頃と思われる吉田茂の写真だ。これはロンドンの写真館で撮ったものということなので、1930年前後のものだろう。見慣れた次のような吉田茂の写真とは異なり、別人の様に見える。

出典:Wikipedia
YouTubeには次のような吉田茂のドキュメンタリーがいくつか収録されているので、こちらも参照して欲しい。
筆者は神奈川県藤沢市出身なので、小学校の遠足などで箱根方面に行く途中で大磯を通る時には、バスガイドが大磯の吉田邸の話をしていたことを思い出す。
また横浜市戸塚区の横浜新道と国道1号線をつなぐバイパスは、筆者の子供の頃は「ワンマン道路」と呼ばれていた。
このバイパスができる以前は国道一号線の戸塚駅付近に東海道線の踏切があって、朝晩は「開かずの踏切」になるので、たびたび足止めを食らった吉田首相の鶴の一声で、バイパス建設が決まったという逸話がある。
吉田茂は高知県人の「いごっそう」で、神奈川県出身ではないが、大磯に長く住んでいたので、まるで神奈川県の偉人のように感じていたものだ。
北さんも本の中で記しているが、今年3月吉田邸が不審火で焼失したのは残念でならない。
筆者の子どもの頃に吉田元首相の国葬があったことをおぼろげに覚えているが、北さんが述べている様に、高校の日本史では、受験に出ないという理由で、現代史は自習だったので、ほとんど当時の吉田茂のことは知らないので、興味深く読めた。
400ページ弱の本で、吉田茂の生い立ちから、サンフランシスコ講和条約締結までで終わっている。最初読んだ時は、吉田茂の晩年のことが書いてないので、尻切れトンボのような印象を受けたが、あらすじを書くために読み直すと、北さんの真意がわかってきた様な気がする。
たぶん北さんはこの本のタイトルにあるように、小泉元首相などに代表される「ポピュリズム」政治へのアンチテーゼとして、ステーツマン(ポリティシャン=政治屋でなく尊敬できる政治家)吉田茂の伝記を書きたかったのだろう。だから1951年のサンフランシスコ講和条約で終わっているのだと思う。
吉田茂のおいたち
吉田茂は明治11年(1878年)高知県で竹内綱の5男として生まれ、すぐに横浜のジャーディンマセソン商会の横浜支配人吉田健三の許に養子として出された。実父の竹内綱は自由民権運動家として知られた実業家・政治家だ。
吉田の長兄の竹内明太郎は小松製作所の創業者であり、早稲田大学理工学部創設に貢献したことから、竹内記念ラウンジがある。友人の田健治郎、青山禄朗とともに改心社自動車工場を設立し、3人の頭文字を取って脱兎にかけたDAT CAR後のダットサンが生まれる。
養父の吉田健三は福井県出身で、英国船に密航してイギリスで2年間生活した強者だ。帰国後実業家となり、当時極東最大のジャーディンマセソン商会の横浜支配人を勤めた。ビールを最初に取り寄せたのも吉田健三だといわれている。
健三は大磯に住んでいたが、当時大磯には伊藤博文、西園寺公望、木戸幸一、樺山愛輔(白洲正子の父)などが住んでいた。
健三は40歳で病死する。死因は不明だが、インフルエンザだったといわれている。豚インフルエンザの流行が毎日報道されるこのごろだが、昔も今でもインフルエンザは死に至る病となるのだ。
吉田茂は11歳で吉田家の戸主として現在の金にすると25億円ほどの遺産を相続し、遺産の大半を戦前に使い切ってしまったという。
大磯の豪邸をさらに広げたとはいうものの、それにしても大変な金銭感覚の無さだ。もっぱら遊びに使ったのだろう。吉田茂の実母は竹内綱の妾だったようで、後に妻の雪子に「芸者の子は芸者が好きね」とため息をつかれたという。
外務省入省
吉田茂は藤沢の耕余義塾という漢学塾に学び、日本中学校、東京高等商業(現一橋大学)、正則中学、東京物理学校(現東京理科大)、学習院大学を経て28歳で東大政治学科を卒業し、1906年外務省に入省する。
外務省では謹厳実直なエリート広田弘毅と同期で親友となる。
入省翌年、はやくも奉天に1年間勤務する。その後帰国して有力者牧野伸顕の娘雪子と結婚する。翌1908年ロンドン、次にイタリアに勤務する。
1912年から1916年までは朝鮮と中国の国境の鴨緑江に面する安東県領事として勤務する。
1915年大隈重信内閣は、袁世凱政権に対して「対支21ヶ条の要求」を突きつける。吉田は在満州の領事に呼びかけて、対支21ヶ条に反対したが誰も賛同しなかったという。保身を考えず、信念で行動する吉田らしいエピソードだ。
多くの役職を歴任して外務次官に
帰国後寺内正毅首相に秘書官にならないかと誘われ「私は首相なら務まると思いますが、首相秘書官は務まりません」と断っている。当時の外務次官の幣原喜重郎は英語の達人として知られるが、吉田とはウマが会わなかったという。
1918年中国の済南領事となり、第一次世界大戦のパリ講和条約に義父の牧野の秘書官として参加し、西園寺公望に同行していた近衛文麿と出会う。パリ講和会議では日本は人種差別撤廃を主張し、賛成多数を獲得するが、アメリカ大統領ウィルソンが全会一致を要求し、日本案は葬られてしまう。
吉田茂はこのとき国際社会における日本の立場を思い知らされたという。帰国後吉田は1920年に再度イギリスに赴任する。
1922年天津総領事を経て、1925年奉天総領事として勤務する。
このとき、吉田を訪ねてきた来客に出くわし、「本人がいないと言っているんだ。こんな確かなことがありますか」と答えたという話が残っている。戦後記者に「諸君とは食べ物が違う。私は人を食っている」と答えたという吉田茂らしいエピソードだ。
済南、天津、奉天のこと
余談になるが、筆者は中国の済南、天津、奉天(現瀋陽)すべて行ったことがある。
奉天(現瀋陽)に最初に行ったのは今のように近代化される前の1986年で、当時中国のマグネシア原料を米国に輸入していたので、鉱山を訪問したのだ。
今のように高速道路などない時代なので、片側一車線の並木道が旧満鉄沿いに大連から奉天まで続いており、当時の中国人運転手(今もそうかもしれない)の特徴とも言える無理な追い越しで何度も怖い目にあった。
奉天では満鉄の主要駅前にあった旧大和ホテルで一泊した。旧式ではあるが立派なホテルだった。
天津は2002年に行った。天津は北京から近いので、車で十分日帰りでき、天津事務所の人との打ち合わせだけだったので、あまり記憶にない。
山東省の済南へは、1998年頃米国向け鉄鋼原料の買い付けで行った。飛行機で北京から済南まで飛んで、車で済南から青島まで高速道路で移動した。
このあたりは石炭を燃料としている中小工場が多く、済南から青島までずっと途中スモッグがたちこめ、中国の大気汚染のひどさに驚いたものだ。
日曜日は済南に一泊したので、済南の近くの鍾乳洞を訪問した。本当は同じ山東省の孔子廟のある曲阜(きょくふ)に行きたかったのだが、片道5時間かかると言われ、1980年代(?)に発見されたという鍾乳洞を見学した。
すごい大規模な鍾乳洞で、たしかに一見の価値はあった。
山東省は筆者にとって忘れ得ない省だ。一つは最初に中国に出張した1983年に浙江省の杭州の相手方の総経理(社長)が山東省の出身ということで、山東省名産の汾酒というアブサンみたいなアルコール50%超のセメダインのにおいのする酒で何度も乾杯させられたのだ。
中国焼酎 汾酒 フェンチュウ 53度 500ml
(今調べてみたら汾酒は山西省の名産ということで、筆者が山東省と聞き間違えたのかもしれない)
悪酔いして本当にもう死ぬかとおもったが、案外翌日仕事ができたのには自分でも驚いた。たぶん蒸留酒なので翌日には残らないのだろう。
翌日の宴会の乾杯は度数の低いブランデーで、コーラも一緒に用意してこちらのペースで進めたので、問題なかった。ちゃんと対策を取っていれば、中国の宴会の「乾杯攻め」も怖くないことを知った。
もうひとつは1998年に済南に行ったときの宴会料理だ。
料理の一つが大皿にずらっと並んだセミの幼虫だったのだ。筆者が主賓のため、主賓が食べないと他の人も食べられないので、やむなく2−3個取って食べてみた。味はほとんど覚えていない。食べられなくはなかったが、うまいものではなかった。
そうしたら12人ほどのテーブルで、中国人でも食べないやつがいるのには頭に来た。こっちはせっかく無理して食べたのに、なぜ食べないのかと聞くと、今は(冬だった)セミのシーズンではないと言っていたので再度頭に来た。
閑話休題。
戦争に向かう日本
短期間のスウェーデン公使のあと、帰国して1928年に外務次官となる。張作霖爆殺事件が起こり、関東軍の暴走を止められなかった田中義一内閣は昭和天皇の叱責を受けて総辞職し、田中は3ヶ月後狭心症で死去する。
当時28歳の昭和天皇は、田中を叱責したことが田中内閣を総辞職させ、田中を死に追いやる結果にもなったかもしれないということを深く悔やみ、以後は発言を極力控えるようになり、そのことが軍部の横暴に拍車を掛ける結果となる。
今度紹介する元竹田宮家の旧皇族の竹田恒泰さんの「旧皇族が語る天皇の日本史」に「昭和天皇独白録」の関係部分が引用されているので紹介する。
旧皇族が語る天皇の日本史 (PHP新書)著者:竹田 恒泰
販売元:PHP研究所
発売日:2008-02-14
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「それでは話が違ふではないか、辞表を出してはどうか」
「こんな云ひ方をしたのは、私の若気の至りである(中略)この事件あって以来、私は内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持ってゐても裁可を与へる事に決心した」
吉田は1930年まで外務次官をつとめた後、イタリア大使として転出する。
1931年に満州事変が起こり、政府は不拡大宣言を出すが、軍を抑えられず若槻内閣は辞職し、犬養毅内閣が成立する。その犬養毅も翌1932年5.15事件で暗殺され、暗い時代に入っていく。
駐米大使の話もあったが、吉田はこれを断り、1932年に日本に待命待遇で帰国する。駐米大使は外交官として最高の栄誉なので、あり得ない話だが、関東軍の暴走を追認する内田外相への反感によるものだという。
日本では1932年から駐日米国大使となっていたジョセフ・グルーと家族ぐるみの親密なつきあいをする。グルーはボストンの名家出身で、モーガン財閥とは姻戚だ。ハーバード大学在学中に日本を訪問し、日本びいきとなったという。
外交感覚のない国民は必ず凋落する
多くの逸話がある吉田茂だが、外交で国を救うという姿勢は一貫しており、その一つがこのエピソードだ。
1933年、吉田の外務省同期の広田弘毅が外相になり、待命中の吉田に気を遣って外交巡閲使として吉田を欧米に派遣する。1933年は日本が国際連盟を脱退した年だ。朝鮮・中国からスタートして一年強掛けて世界を一周する。このとき同行したのが麻生太郎首相のお母さんで吉田茂の三女、旧姓吉田和子さんだ。
吉田はワシントンで岳父牧野伸顕の紹介で、ウィルソン大統領の親友で外交官のハウス大佐に会い、「外交感覚のない国民は必ず凋落する」という警句を聞いた。これが吉田の生涯忘れえない言葉となった。
1936年には2.26事件が起こり、義父の牧野伸顕は湯河原で襲われ、孫の吉田和子と一緒に、すんでのところで難を逃れる。この時遭難してれば、麻生太郎首相も生まれなかったわけだ。
牧野についておもしろいエピソードを北さんは紹介している。
吉田茂の息子の吉田健一は評論家として有名だが、吉田の仲間の小林秀雄は酒癖が悪く、ある時酔って牧野に抱きつき、頭をなでながら「お前みたいに記憶のいい爺イはメモアールを書いておけ!きっと書くんだぞ!」と怒鳴っていたという。
仲間の河上徹太郎が失礼をわびると、牧野は「いやなに、2.26の時は機関銃の弾の下をくぐりましたから」と答えたという。
筆者の年代の人は、小林秀雄というと、文芸評論家の神様の様な存在で、現代国語の問題によく引用され、その難解な文章には悩まされたものだが、まさか酒乱だったとは思わなかった。
駐英大使として赴任
1936年3月、広田弘毅内閣が誕生する。広田は吉田を外相にするつもりだったが、軍部の反対でやむなく断念し、吉田を駐英大使に任命する。
この頃は在外武官が武官府という独自の事務所を持ち始め、独自の外交を展開していた。そんな武官の中で最も力を持っていたのがドイツ大使館付きでドイツ語が堪能な大島浩少将だ。
大島はヒットラーとも親しく、リッペントロップ外相と日独防共協定案をつくりあげる。1937年11月に日華和平交渉を仲介するなど、それまでドイツは親中国の立場を取っていたので、この協定は大島の自信作で、案が煮詰まるまで大島は一切外務省には知らせていなかったという。
外務省はあわててドイツ以外のイギリスなどにも参加させようとするが、吉田は防共協定自体に反対する。結局この年11月に日独防共協定は締結され、広田内閣も10ヶ月で辞職する。
吉田が駐英大使時代につきあいが深まったのが白洲次郎である。次郎が日本水産の貿易担当役員をしていた関係で、ロンドンにもしばしば立ち寄り、吉田の妻雪子からは娘の和子の結婚相手を探すように頼まれる。
次郎が見つけてきた相手が麻生太賀吉・麻生鉱業社長だ。たまたま次郎は麻生と同じ船に乗り合わせ、サンフランシスコから横浜までの2週間一緒にいて意気投合したのだという。
白洲次郎夫妻が仲人となり、吉田の帰国後の1938年12月に二人は結婚する。麻生太賀吉は実父を早く亡くしたこともあり、吉田茂を実の父親のように慕っており、セメントや石炭事業が絶好調の麻生鉱業が、巨額の政治資金を吉田茂に提供したのだという。
1937年には廬溝橋事件で日中戦争に突入し、近衛文麿が総理大臣となるが、有名な「蒋介石を相手にせず」声明を発表してしまう。
吉田は駐英大使として孤軍奮闘し、親日家のロバート・クレーギーを駐日大使に赴任させることに成功するが、外務省の実権は大島の息のかかった白鳥敏夫派に移り、吉田は本国の支援を失い、1938年9月帰国辞令が出る。
吉田の後任が重光葵であり、チャーチルは重光と頻繁に会って、日本の欧州戦争への参戦を思いとどまらせようとしていたことは、関栄次さんの「チャーチルが愛した日本」に詳しい。
チャーチルが愛した日本 (PHP新書)著者:関 榮次
販売元:PHP研究所
発売日:2008-03-15
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最後まで開戦回避に努力
吉田の帰国辞令と時を同じくして結ばれたのがチェンパレン英国首相の戦争回避策であるミュンヘン協定だが、ヒットラーはミュンヘン協定を破って領土をさらに拡大し、戦争に突入していく。
日本に帰国した吉田は、役職にはつかず、白洲次郎と一緒にグルー駐日米国大使としばしばゴルフに出かけたり、クレーギー駐日英国大使とも密接な関係を保っていた。このため吉田の周囲は、憲兵隊から「ヨハンセングループ」(吉田反戦グループ)とコードネームを付けられ、常時監視されることになる。
1939年9月ドイツのポーランド侵攻により第2次世界大戦が始まる。閉塞感が漂う中、1940年7月近衛が再び首相に就任した直後に、米国は対日航空ガソリン禁輸を決定する。日本はやむなく石油資源を求めて9月に北部仏印進駐、そして日独伊三国同盟が大島と白鳥駐伊全権大使の連携で締結される。
1941年に吉田の妻の雪子が亡くなった。雪子の死後数年は吉田はやもめ暮らしをしていたが、娘の和子のすすめで、長年の妾だった小りんを家に迎え入れる。小りんは故雪子に気を遣って、入籍はしなかったという。
1941年4月戦争回避のためホノルルで近衛首相とルーズベルト大統領が会談するという計画が持ち上がるが、ハル国務長官や松岡洋右外相の反対で実現しなかった。7月には南部仏印進駐への制裁として、米国は在米日本資産の凍結を発表、8月には対日石油輸出を全面禁止とした。
近衛はグルーと直接会い、ルーズベルトとの直接会談を要望するが、10月に近衛内閣は総辞職に追い込まれる。東條英機内閣が成立し、11月末の強硬なハルノートを受け取り、日本は開戦に踏み切る。
吉田は12月始めにグルーの要請で東郷茂徳外相との会談を実現すべく最後まで努力するが、12月1日の御前会議で開戦決定が下されていたので、東郷はグルーに会わなかった。
太平洋戦争に突入
戦争中も吉田は、和平を結ばせるべく努力し、近衛や木戸幸一内大臣などと相談するが、即時停戦の近衛上奏文作成に加わったことで1945年4月に逮捕され、阿南惟幾陸相の口利きで5月末に釈放されるまで収監される。吉田邸の女中や書生としてスパイが送り込まれていたのだ。
一方グルーは1942年外交使節交換船で帰国するが、米国帰国後も駐日大使より格下の国務省の極東次官補にあえて就任し、次に国務次官に就任、皇居への直接爆撃を阻止するなど、早期戦争終結に努力するが、ルーズベルトの後任のトルーマンは原爆の威力に魅せられ、グルーを遠ざけた。
吉田はグルーを「真の日本の友」と呼んで感謝している。
グルーの努力も実らず、結局原爆が投下され、ソ連が参戦し、日本は降伏した。終戦を決定した鈴木貫太郎内閣は1945年8月15日総辞職し、皇族の東久邇宮稔彦殿下が首相となり、吉田は外相として67歳で初めて入閣し、さっそく外務省の人事を一新し、大改革に取りかかる。。
マッカーサーと吉田茂
吉田は1945年9月GHQを訪れ、はじめてマッカーサーと面談する。初対面で「ライオンの檻に入れられたような気がする」とジョークを飛ばし、それ以降マッカーサーとは終生良い関係を保った。
この二人は自尊心といい、他人の言うことを聞かない独善性といい、性格的にはそっくりで、犬好きという共通点もあったと北さんは評している。
外相就任してすぐに、天皇の希望で、天皇とマッカーサーとの会談が実現し、有名な写真が公開される。モーニング姿の天皇に対し、開襟シャツのマッカーサー。どちらが支配者か一目で分かるマッカーサーの政治傑作の一つだ。

出典:Wikipedia
マッカーサーの予想に反し、昭和天皇は命乞いをするどころか「戦争の全責任は私にある。私は死刑も覚悟しており、私の命はすべて司令部に委ねる。どうか国民が生活に困らぬよう連合国にお願いしたい」と述べた。
マッカーサーは感動し、誰にも使ったことのなかった”サー”を口にして送り出した。マッカーサーは、引退後も日本の戦後復興の最大の功労者は、昭和天皇だと語っており、天皇に対する尊敬は終生変わりはなかったという。
このときの昭和天皇の帽子の裏地には、ほころびを繕った跡があったという。天皇の人柄と、いかに清貧な生活をしていたのかが偲ばれるエピソードだ。
内務省が会見写真の新聞公開を差し止めたことから、GHQは怒り、内務大臣と内務・警察官僚4,000人の罷免を要求する。これで東久邇内閣は総辞職し、54日という歴代内閣最短記録をつくる。このことが尾を引き、戦前「役所の中の役所」と呼ばれてきた内務省は、1947年に解体されてしまう。
東久邇宮内閣の次は幣原喜重郎内閣が成立し、吉田は引き続き外相として留任して、「終戦連絡事務所」を設立し、白洲次郎を終連中央事務局参与に任命する。近衛はマッカーサーから一時はおだてられるが、米国内で近衛に対する非難がわき上がると、近衛を切り捨て、近衛は戦犯容疑で収監される前日に青酸カリ自殺する。
GHQ民政局と対決
GHQの占領政策の中心は民政局のホイットニー准将(当時48歳)とその部下のケーディス大佐(当時40歳)だった。彼らはニューディールの申し子で、いわば理想主義者の集団だった。
吉田茂と白洲次郎のコンビはGHQの民政局を相手に、日本の国益を守るために必死に戦う。吉田は作戦として、自分はマッカーサーを交渉相手にすることを決め、それ以下のホイットニーなどは相手にしなかった。マッカーサーの部下との交渉を引き受けたのが、ケンブリッジ仕込みの英語の達人、白洲次郎だった。
民政局は20万人を公職追放し、「ホイットニー旋風」を起こすが、GHQの中でもG2の「バターン・ボーイズ」の一人のウィロビー少将は民政局の政策を好まず、吉田と白洲はウィロビーと接近する。
ソ連が極東委員会を通じて、対日占領政策に口だしする構えをみせたので、マッカーサーは1946年2月に憲法改正草案の作成を命じ、GHQ関係者25名が7日間で草案を作り上げ、吉田と次郎に手渡す。改正案を日本側が訳して4月に憲法改正案として公表され、国会決議を経て成立した。
憲法改正案が国家に上程されたときに、多くの議員が無念のあまり嗚咽を漏らしたという。
自国の憲法を批准するのに国会議員が涙を流したというのはおそらく日本だけだろうと北さんは語る。日本人は彼らが抱いた悔しさを今ではすっかり忘れ果ててしまっていると。
第1次吉田内閣成立
1946年4月の総選挙で勝利した鳩山一郎は、組閣準備を始めるが、GHQの民政局から公職追放を突きつけられ、やむなく組閣をあきらめ、吉田に首相就任を要請する。吉田は一旦は断るが、鳩山や周りの説得で1946年5月に首相就任を決意する。
このとき鳩山に出した条件が次だ。
*自分は金を作らない
*人事には干渉させない
*嫌気がさしたらやめる
鳩山は「追放が解除になったらすみやかに総裁を譲る」という約束があったと主張して、後に吉田茂と大げんかになる。鳩山の公職追放が解除されたのは1951年のことだ。
戦争に負けて外交で勝った歴史はある
この有名な言葉は、吉田茂が昭和21年5月、初めて総理大臣となったときの言葉だ。
「戦争に負けて外交で勝った歴史はある」
吉田茂は後に日本医師会会長となる甥の武見太郎に、首相になる自信はあるかと聞かれた時に、このように答えたという。
19世紀ナポレオンの没落後、ヨーロッパ中を敵にまわしながら、領土を守りきったフランスのタレーラン外相のことを思って言ったのではないかと北さんは語る。
1946年当時、日本は海外領土を失い、農業の働き手を失って深刻な食糧不足に悩まされていた。
吉田はマッカーサーと掛け合い、食料問題を解決するために450万トンの食料援助を依頼するが、実際は70万トンで国内に十分な食料がゆきわたった。
マッカーサーがそのことをなじると、吉田茂は「もし日本が正しい数字を出せる国だったら戦争に負けてなどいませんよ」といなし、これにはマッカーサーも笑い出したという。
吉田はGHQの指示で、六・三制義務教育(それまでは6年間が義務教育だった)、農地改革を実現する一方、組合を「不逞の輩(やから)」と呼んで舌禍事件を起こした。
また選挙嫌いも徹底しており、地元で「自分は高知から選出されたかもしれないが、日本国の代表であって高知県の利益代表ではない」と公言していたという。
残りは続きを読むに記載。
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2009年05月19日
新型プリウスの紹介
昨日新型プリウスが発表された。

出典:Marklines自動車情報プラットフォーム
いろいろなサイトで紹介されているが、筆者が会員となっている自動車業界関係者の情報サイトMarklinesの紹介記事が最も充実していると思うので紹介する。

このMarklinesは会員制自動車情報サイトで、その情報の質と量は半端ではない。
たとえば世界の環境対応車のリストが紹介されている。

それぞれに説明とリンクがついており、大変参考になる。
ちなみに筆者のハリアーハイブリッドの最近4,500キロの平均燃費は9km/Lだ。

カタログでは10.15モードで17.8km/Lとなっているが、これはたぶん平坦地で理想的なコンディションでの燃費計測で、筆者の住んでいる町のようにアップダウンがある場所ではどうしても燃費が落ちる。
また季節によっても燃費は変わり、冬場の方が落ちる。
興味のある人は、実際の燃費の推移、当初の補助金、車の税金の優遇、有料道路の優遇などを紹介している過去のハリアーハイブリッドの記事も参照して欲しい。
新型プリウスだと納車まで半年くらいかかるらしいが、燃費が38キロというのは驚異的だし、EV(電気自動車)としても走れるようだ。
価格も旧型よりも安くなっているので、是非多くの人にハイブリッド車に切り替えを考えて欲しい。
参考になれば投票ボタンをクリックして頂きたい。

出典:Marklines自動車情報プラットフォーム
いろいろなサイトで紹介されているが、筆者が会員となっている自動車業界関係者の情報サイトMarklinesの紹介記事が最も充実していると思うので紹介する。
このMarklinesは会員制自動車情報サイトで、その情報の質と量は半端ではない。
たとえば世界の環境対応車のリストが紹介されている。
それぞれに説明とリンクがついており、大変参考になる。
ちなみに筆者のハリアーハイブリッドの最近4,500キロの平均燃費は9km/Lだ。
カタログでは10.15モードで17.8km/Lとなっているが、これはたぶん平坦地で理想的なコンディションでの燃費計測で、筆者の住んでいる町のようにアップダウンがある場所ではどうしても燃費が落ちる。
また季節によっても燃費は変わり、冬場の方が落ちる。
興味のある人は、実際の燃費の推移、当初の補助金、車の税金の優遇、有料道路の優遇などを紹介している過去のハリアーハイブリッドの記事も参照して欲しい。
新型プリウスだと納車まで半年くらいかかるらしいが、燃費が38キロというのは驚異的だし、EV(電気自動車)としても走れるようだ。
価格も旧型よりも安くなっているので、是非多くの人にハイブリッド車に切り替えを考えて欲しい。
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