2009年11月09日
ロスチャイルド家と最高のワイン
ロスチャイルド家と最高のワイン―名門金融一族の権力、富、歴史著者:ヨアヒム クルツ
販売元:日本経済新聞出版社
発売日:2007-12
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フランスの5大シャトーのうち、2つを持つロスチャイルド家の歴史とワイナリー経営をつづった本。
これがロスチャイルド家の紋章だ。

出典:別記ない限りWikipedia
前半はロスチャイルド家の歴史、後半はロンドンとパリのロスチャイルド分家が持つシャトー・ラフィット・ロートシルトと、シャトー・ムートン・ロートシルトの歴史を描いている。(ロートシルトはロスチャイルドのドイツ語読み)英語版Wikipediaが情報量が豊富なので、ところどころ英語リンクをいれた。
筆者はワイン好きなので、ほとんど毎日ワインをグラス半分くらい夕食の時に飲んでいるが、今まで漠然としか知らなかったロスチャイルド家の2大シャトー経営がわかって大変参考になった。
またロスチャイルド家をとりまく伝説の真偽のほどがわかった。
まずはロートシルトという名前だ。日本ではロートシルトを「赤い楯」と訳しているものが多いが、これは名詞の性を間違ったもので、男性名詞ならば「楯」だが、これは中性名詞なので「赤い表札」とでも訳すべきだと訳者は語る。
学生時代に第2外国語でドイツ語を習ったが、たしかに名詞には男性・女性・中性の三種類あったことを思い出した。
ロスチャイルド家の開祖は、18世紀半ばフランクフルトのユダヤ人街ゲットーに住んでいて、12歳で孤児となったマイヤー・アムシェルだ。マイヤー・アムシェルは商人となって頭角を現し、王侯貴族の御用商人として成功し、5人の息子を使ってビジネスをヨーロッパ規模に拡大する。
ロスチャイルド家の家系図(英文)

長男のアムシェル・マイヤーはフランクフルト本家、次男のサロモン・マイヤーはウィーンの分家、そして最も羽振りの良かった3男のネイサンはロンドン分家、4男のカールはナポリ、5男のジェームズはパリ分家の開祖だ。この5分家でロスチャイルド金融財閥をつくっていた。
「ロスチャイルド家の5人兄弟は、ワーテルローの戦いの結果をいち早く入手し、巨額の富を築いた」という伝説があるが、これは真偽のほどは疑わしいという。
戦いの結果はたしかにロスチャイルド家にいち早く届けられたが、ネイサンはその数日前に戦争の継続を見込んでイギリス政府に金を貸しており、予測が裏目に出たという。
ともあれ19世紀にはロスチャイルド家は「王たちに君臨するユダヤ人」と人々に呼ばれ、人々からねたまれる存在となっていた。
ロスチャイルド家の財力を各国の王家は頼りにし、ロスチャイルド家は産業資本家として製鉄所、汽船会社などを支援し、鉄道建設を推し進めたので「鉄道男爵」と人々は呼んだ。
ロスチャイルド家の分家は男子のみの相続と、分家間のいとこ同士での結婚を繰り返し、キリスト教徒との結婚は厳しく禁じられていたという。芸術のコレクションと育成に熱心で、各分家では当時の最高級の芸術品のコレクションを保有していた。
アメリカや新大陸、アジア、アフリカにも進出し、アメリカの鉄道建設の起債の引き受けでロスチャイルド家は事業を拡大し、1875年にはイギリス首相ディズレーリと組んでスエズ運河を買収した。
20世紀に入ると2度の世界大戦、特にナチスの迫害で財産は奪われ、芸術品はナチスが没収し、ノイシュヴァンシュタイン城に保管していた。
シャトー・ムートンのオーナーのフィリップはナチスの逮捕から逃れて、徒歩でスペイン国境を越えて脱出したが、妻のリリーはフランス貴族の出身でユダヤ人でないので安心していたところ、ナチスに捉えられて収容所で殺害された。
ロスチャイルド家は現在も活躍しており、2003年にはロンドンのロスチャイルド銀行と、パリのロスチャイルド銀行が合併し、LCFロスチャイルドが成立している。
1994年にはフランクフルトのユダヤ人墓地に80人もの一族があつまり、初代アムシェル・マイヤーの生誕250周年を祝ったという。
最初にワインに投資したのはロンドンロスチャイルド家
最初にフランスワインに投資したのは、ロンドンロスチャイルド家のネイサンの3男のナサニエルで、1853年にシャトー・ムートンを買収した。ちなみにボルドーでのワイン生産はローマ時代に始まったと言われる。
今も生きているボルドーワインの格付けが決まったのは1855年なので、その直前にムートンを買収したナサニエルは、ムートンを一級に格付けさせようと画策する。格付けは紆余曲折を経た後で、当時の仲買人の価格をよりどころにして決定され、ムートンは一級の取引価格であったにもかかわらず、二級となる。
ナサニエルは、「われ一級たり得ず、されど二級たることを潔しとせず。われムートンなり」とぶどう園に掲げたという。
ナサニエルはパリ分家のジェームズの娘婿で、甥にあたる関係だが、ロンドン分家のナサニエルに先を越されて、パリ分家の総領ジェームズは憤激したという。そして13世紀からワインを製造する一級のシャトー・ラフィットを1868年入札で獲得する。この時の入札の競争相手はナサニエルで、ロートシルト両分家はワイナリーを巡ってまさに骨肉の争いを繰り広げたのだ。
パリ分家がラフィットを手に入れてからも、両者の近くにあるカリュアド買収で火花をちらすこととなる。次がこの本に冒頭に掲載されているボルドー地区そしてムートンとラフィットがある場所の拡大図だ。隣接していることがよくわかる。
出典:本書冒頭の地図
19世紀後半にはフランスワインの伝統種をアメリカ在来のフィロキセラ虫が根絶やしにしてしまう大事件が起こり、フランスのぶどうはフィロキセラに強いアメリカの台木に接ぎ木することで生き延びる。
ムートンの中興の祖フィリップ
シャトー・ムートンを押しも押されもしない第一位ワインに押し上げたのはフィリップの努力だ。フィリップは20歳でムートンに着任し、不正追放、シャトー元詰め化、ラベルに一流画家の絵を利用、普及ワインのムートン・カデ販売、そして一級格付け獲得に専念する。
ムートン・カデ ルージュ AOCボルドー 750ml(赤ワイン)
ムートンのラベル一覧
出典:http://www.theartistlabels.com/
一流画家にラベルを書いて貰う条件は、そのラベルのヴィンテージ五箱と、好きな年のヴィンテージ五箱だという。たぶん多くの画家が20世紀最高のヴィンテージと言われる1945年のヴィンテージを選んだのだろう。
ナチス占領時代に難を逃れてカサブランカ経由脱出するが、奥さんのリリーはフランス貴族の出身にもかかわらずナチスに捕まり収容所で殺害されてしまう。戦争中のフランスワインのことは、「ワインと戦争のあらすじ」に詳しいので参照して欲しい。
他の四大シャトーとは五人クラブを結成し、協調関係を保ってきたが、1950年代に突如ムートンは仲間はずれにされる。一級でないからという理由だが、どうやらラフィットを持つパリロスチャイルド家の差し金のようだった。
フィリップは怒り心頭で、各方面に働きかけ、ムートンの格付け変更に力を注ぐが、格付け変更を勝ち取るためにはそれから20年の歳月を要し、1969年のポンピドー大統領就任で動きが出る。ポンピドーは以前ロスチャイルド家の会社の社長を務めていた。そして1973年当時農業相だったジャック・シラクよりついにムートンを一級に昇格させるという省令を受ける。
これでムートンのモットーは変わった。1973年のラベルに刻まれた新しいモットーは「われ一級なり、かつて二級なりき、されどムートンは変わらず」だ。
このブログでも紹介した1976年の「パリスの審判」のフランス人ワイン専門家9人によるブラインドテイスティングで、ムートンを含むフランスワインが、カリフォルニアワインに負けると、フィリップは審査員に電話して「私のワインになんて事をしたんだ。一級昇格に40年もかかったんだぞ」とどなったという。
ラフィットは管理人任せ
ロンドンロスチャイルド家出身のフィリップは、シャトームートンに住み、シャトーの経営を現地で手がけたが、ラフィットを持つパリロスチャイルド家はシャトーの経営は管理人に任せ、自ら経営に乗り出すことはなかった。
「ラフィット・ロートシルトは人頼み、ムートン・ロートシルトは俺頼み」と言われたという。
ラフィットは初めから一級、ムートンは実質一級と見なされていながらも二級というハンディがあったことが経営姿勢の差にも現れたのだろう。
ラフィットは1970年代になるとぶどう園に投資を強化する一方、貯蔵設備や醸造設備を近代化し、醸造マスターを代えた。1987年に建設したスペインの建築家リカルド・ボフィールの設計による回廊式貯蔵庫は、ワインセラー建築の傑作の一つとされている。
ムートンの系列ワイナリーと海外展開
ムートンとラフィットという同じロートシルトという名前がつく一級ワイナリーが二つあるので、系列がわかりにくいが、ムートンの系列のワイナリーは隣のダルマイヤック、シャトー・クレール・ミロン、エル・ダルジャン(白ワイン)とドメーヌ・バロン・ナーク、そしてフランスで最も売れている圧倒的な生産量のムートン・カデだ。
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経営者はフィリップの娘のフィリピーヌで、会社名はバロン・フィリップ・ド・ロートシルト社、2004年には世界で約3億本のワインを売り、1億7千万ユーロの収益を上げた。
ムートンの海外展開はカリフォルニアワインのモンダヴィとのオーパス・ワン。1981年の最初の人箱はオークションで2万4千ドルで売れたという。モンダヴィは創業者ロバート・モンダヴィの死後、ティムとマイケルの兄弟の不和により2004年に世界最大のワインメーカー、コンステレーション・ブランズに13億6千万ドルという巨額で売却されている。
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チリではコンチャ・イ・トロ社との合弁で1998年から生産しているアルマビーバが南米最高のワインの一つと評価されている。
ラフィットの系列のワイナリーと海外展開
ラフィットの会社はドメーヌ・バロン・ド・ロートシルト・ラフィット社(DBR社)で、系列はムートンと争って手に入れたカリュアドと1962年に手に入れた隣のデュアール・ミロン、そして1973年にエリー男爵の甥のエドモンが買収したシャトー・クレルクとその隣のシャトー・マルメゾンだ。
シャトー・デュアール・ミロン [2004]
1990年にはポムロール地区のシャトー・レバンジルを買収し、隆盛著しい南フランスでもドメーヌ・ドーシェールと提携している。1995年からは「コレクション」と呼ばれる割安なボルドー産ブレンドワインを販売している。
エドモンはボルドー大学のエミール・ペイノーの指導で、シャトー・クレルクのブドウを植え替え、正確な温度調整のできる醸造設備に入れ替えたので、メドックでも一級シャトーのないリストラック地区のグラン・クリュではないブルジョワ級のワインながら、シャトー・クレルクはグラン・クリュなみの評価を受けることとなる。
エドモンはメドックの”アンファン・テリブル”(恐るべき子ども)と呼ばれ、エドモンが1997年に亡くなると、その息子のペンジャマンもシャトー・クレルクに力を入れ、2005年のヨーロッパ審査委員会の評価ではラフィットより上、ムートンより4位下の43位にランクされている。
ロスチャイルド家の新しい世代も父祖を同様に、ワイン作りに精力的に取り組んでいることがよくわかる事例だ。フィリピーヌは「家柄に頼らない一族が、成功する一族なのです」と語っている。
ラフィットの海外展開はチリのロス・バスコスの買収、カリフォルニアとワシントン州に10のぶどう園を持つシャロン・ワイン・グループとの経営参加、アルゼンチンのボデガス・カロと提携した「カロ」と「アマンカヤ」、ポルトガル、イタリアのワイン生産者との提携などだ。
フランスワイン業界の苦境
フランスの一人当たりのワイン消費は、かつての年間135リットルから68リットルに半減し、フランスのワイン業界はユーロ高による輸出不振もあって苦境にある。そんな中でフランスの保険会社AXAミレジムやルイ・ヴィトン、モエ・エ・シャンドンといった企業がワインに目を付けラトゥール始め数々の由緒あるシャトーを買収している。
1855年にグラン・クリュとして格付けされたワイナリーで、経営が変わらなかったのはわずか2社で、三級のシャトー・ランゴア・バルトンとムートンのみだ。ラフィットもロスチャイルド家が買収したのが1868年なので、同じように長年経営が変わらなかったと言えるだろう。
これからもロスチャイルド家はワインビジネスをファミリービジネスとして続けていくことだろう。
今まで断片的にしか知らなかったロスチャイルド家とワインのことがよくわかった。ロマネ・コンティは高すぎて無理する気にもならないが、ムートンやラフィットなら、ちょっと無理をすれば手が届く超高級ワインである。
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シャトー・ムートン・ロートシルト[2003](赤ワイン)
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シャトー・ラフィット・ロートシルト[2002](赤ワイン)
ムートンやラフィットは今まで1−2度しか飲んだことがないが、次に飲める時のために予備知識として読んでおきたい本である。
参考になれば投票ボタンをクリックして頂きたい。
2009年11月06日
自分の値打ちを高める法 ビジネスマン必修講座
自分の値打ちを高める法 (WAC BUNKO)著者:廣瀬禎彦
販売元:ワック
発売日:2009-09-19
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アスキー、セガを経てアットネットホーム社長、コロンビア社長となり、現在はコロンビア名誉相談役の廣瀬禎彦さんの本。今年10月に121ワークスLLCというコンサル会社を設立予定とあるので、近々自らのコンサル会社を立ち上げる予定のようだ。
廣瀬さんは「IBMで学んだことアスキーで得たことセガで考えたこと」という本を2001年に出版しており、今回の本が2冊目だ。この本も現在読んでいるので、いずれあらすじを紹介する。
IBMで学んだことアスキーで得たことセガで考えたこと著者:廣瀬 禎彦
販売元:ワック
発売日:2001-10
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かつては先輩から後輩に伝承されてきたビジネス・ノウハウや、プロとしての考え方が、今の若いビジネスマンには伝承されていないと感じ、この本では廣瀬さんの経験を元にビジネスに役に立つエッセンスをまとめている。
先輩達からビジネスの基本を教えてもらっているつもりで読んで欲しいと語る。
アマゾンで登録されている表紙は何の変哲もないものだが、実際に本屋で並んでいる本は、次の写真のような廣瀬さんの写真入りの帯がついている。
実は先日、偶然地下鉄神谷町の駅で廣瀬さんをお見かけしたが、DJの小林克也さんに似ていると思った。

出所;グーグルで「小林克也」で検索して表示された写真
廣瀬さんは慶應の工学部のマスターを卒業し、1969年にIBMにエンジニアとして入社。途中から営業に移り、IBM本社では広報も担当した。その後ソフト業界、ネット業界を経て、エンターテイメント業界に移ったキャリアの持ち主だ。
冒頭に書いたように、若いビジネスマンへのビジネスノウハウの伝承が目的で書かれた本なので、すぐに役に立つアドバイスが満載だ。
この本の目次
残念ながらアマゾンのなか見検索には対応していないので、ちょっと長くなるが目次を紹介しておく。
プロローグ 私はこうしてビジネス・ノウハウを取得した
第1章 自分の仕事の「価値」をつくる
1. いま、自分の仕事の「価値」がどれだけあるか
2. 「目に見えない価値」も大きな武器
3. 「小さな価値」の積み重ねがブランド力に
4. 「あなただけ」という価値
第2章 あなたがプロジェクトを任されたら
5. 「仕様・機能・便益」を、うまくお客に伝える
6. 商品開発の「思い」を必ず伝える
7. 大幅なコストダウンを可能にする方法
8. ゴールを考えて、商品や計画をつくる
9. プロジェクトの進行管理はこうやる
第3章 「何を優先、徹底させるか」が最初の勝負
10. デイリーコールは、すべての基本
11. お客様の「不満」こそが「ニーズ」
12. 最後の決め手は「情」になる
13. まず、小さな成功体験をつくっていく
14. 提案書には必ず理念やコンセプトをいれる
15. 高いノルマを自分で決める
第4章 お客様の利益を考える交渉力
16. 交渉では相手にまずメリットを
17. 可能性とリスクの確認
18. 組むならば、業界ナンバーワンと組む
19. お客様の価値観に立つ
第5章 「売れない時代」のマーケティング
20. マーケティングと営業はビジネスの両輪
21. IBMで学んだ「イメージ」戦略
22. 時代に応じた「コーポレート・キーワード」が重要
23. 「コミュニティ・ワード」を重視せよ
24. 「ユーチューブ」の活用を
25. 仲間のリコメンドが重視される時代
26. インターネット時代でも、やはり営業は「情報力」だ
第6章 リーダーとして組織を動かすために
27. アメリカの「小学校3年生」と日本の「ガキ大将」に学ぶ
28. 「段取り」が一番重要な仕事
29. リーダーが肝に銘じておくべき8つのタブー
30. いつも部下に声をかける
31. 部下を楽しませるアフターファイブ
32. 会議は「目的」をはっきりさせる
第7章 ベンチャー志向のあなたへ
33. 「お金持ちになりたい」という気持ちを生かせ
34. 「マーケットイン」と「プロダクトアウト」
35. ともかく決断と行動を速く
36. 「アマゾン」は既存のビジネスの組み合わせ
37. いわゆる「スキマ」で勝負せよ
38. 「MBA」は全く必要ない
第8章 使えるキャリアを目指せ
39. 会社に依存はするな
40. 自分の好きな仕事をすると、自然にスキルアップする
41. スキルが身についていないうちは、積極的に残業する
42. 変化の速い時代には、「経験」より「知識」が武器になる
43. 得意分野で勝負すれば、転職は成功する
第9章 あなたも会社も、勝ち組になるために
44. 会社の「利益」は、お客様のためでもある
45. 「会社」と「自己」の価値を高める
あとがきによると、元々ジグソーパズルのようだった廣瀬さんのメモを編集してこの本にしたそうだが、章のタイトルも、それぞれの章の説明もわかりやすく整理されていて、このWACという出版社の編集者はなかなかなものだと思う。
良くできた目次なので、目次だけ読んでも廣瀬さんが懇切丁寧に若いビジネスマンに向かってノウハウを伝授していることがわかると思う。
詳しく紹介すると長くなりすぎるので、印象に残った部分を紹介する。
「教育に飽和点はない」
あとがきに出てくるが、IBMにいたときに教わった言葉だという。何歳になってもプロを目指すチャンスはあるし、プロになっても腕を磨き続ければプロとしての価値を高め寿命を延ばすことができる。
廣瀬さんは「プロ」というイメージは「職人」と言った方が廣瀬さんの好みにあっていると語る。
自分なりの原則、ルールが、まるで職人の道具箱のように蓄積されており、どんな職場に行っても道具を十分使いこなせるというのがビジネスのプロだ。
変化の速い時代は、「経験」より「知識」が武器となる。「知識」を得るためには本を読むことが一番効率的だ。経営書でも文学書でも良い。本をよく読んでおくと、経営に関する知識や、人間に関係する知識が豊富になって、キャリア形成に生きてくるはずだと。
筆者も全く同感だ。
しかしただ本を読むだけではダメだ。本の知識を自分のものとして消化しなければならない。メモでも良いが、筆者はこのブログを備忘録として書いている。是非備忘録としてのブログ活用をおすすめする。
マーケティングはインバウンド、セールスはアウトバウンド
筆者は米国にも合計9年間駐在し、長年ビジネスマンとしてキャリアを積んできたが、この整理ほどなるほどと思った言い方はない。廣瀬さんの言葉通り、何歳になっても学ぶべきことはあるものだ。
マーケティングのイロハも知らないのか!?と言われそうだが、マーケティングはマクロ「戦略」、セールスはミクロ「戦術」と漠然と理解してきたが、たしかにインバウンドとアウトバウンドと整理するとぴったりくる。
初めての米国駐在の時に、米国の一流メーカーでマーケティング・マネージャーを長年務めた人をセールス・マネージャーとして採用したが、オフィスに居てパソコンの前に座ったきりで、客を積極的に訪問しようとしない彼のパフォーマンスには今ひとつ満足できなかった。
採用するときに、米国人の人事責任者に相談したら、マーケティングができればセールスもできると言っていた。そういう人もいるのかもしれないが、長年マーケティングばかりやっている人にセールスをやれといっても、限界があったのだと思う。
廣瀬さんはマーケティングは空爆、セールスは地上戦にたとえている。
IBMで学んだイメージ戦略
ビジネスを進める上では、「実」(機能や品質)も重要だが、それだけではビジネスはうまくいかず、「虚」(イメージ)の部分もビジネスを成功させるためには不可欠である。
たしかにIBMは超一流会社で、社会貢献、フィランソピーに熱心な会社というイメージを筆者は持っているが、数ヶ月前にはIBMは東京の地下鉄のエスカレーター広告ジャックをやっていた。
たしかあれもイメージ広告だったと思う。イメージ戦略も重要ということが社内で徹底されているのだろう。
このブログでも「人類はみな兄弟」ということを実証したNational Geographicと組んだIBMのジェノグラフィック・プロジェクトを紹介したが、これも施策の一つだろう。
この本では廣瀬さんがIBMを辞める前に担当したパソコンのアプティバの話が紹介されている。廣瀬さんは3年間のアメリカ本社勤務の後、帰国してパソコンを担当する。
当時の日本IBMでは「パソコンはスペックが低く、おもちゃみたいでチャチだから売れない」と一旦結論づけられていたが、廣瀬さんはIBMのアプティバが米国で飛ぶように売れていることを知り、帰国の時に自分で1台買って持ち帰る。
日本IBMの副社長に現物を見せて話すと、一旦はNOという結論がでていたにもかかわらずGOサインが出た。
当時のパソコン市場はNEC全盛で、IBMは後発だった。新しいイメージが必要なので、インターネット・パソコンというコンセプトで、当時15歳だったSMAPの香取慎吾をイメージキャラクターにつかって大成功する。
次のYouTubeのCM集の最初に出てくるのがIBMのアプティバのCMだ。
「実」の部分も必要だが、IBM製だから技術が優れているといっても、それだけでは消費者は買ってくれない。「虚」=イメージの部分も組み合わせることによって、はじめて買って貰えることを実感したと。
その他、「ユーチューブ」を使って無料で情報発信(廣瀬さんはユーチューブが出来たばかりの頃に、自分でチャンネルを持って情報発信していたので、ユーチューブのCEOがどんな人なのか見に来たという)、部下を飲みに誘う時にはエンターテインメント提供に徹しろ(会計も当然上司負担)、成功するには「金持ちになりたい」という気持ちを生かせ、など実戦的なアドバイスばかりだ。
ちなみに廣瀬さんが転職を意識したのは、IBM本社での大規模なリストラを目にしたからだという。このブログで紹介したルー・ガースナーの「巨象も踊る」で書かれている大リストラ時代にちょうど米国本社勤務をしてたようだ。
得意分野で勝負すれば転職は成功すると廣瀬さんは語る。
一つのトピックを具体例も入れて数ページにまとめているので、簡単に読めて大変参考になる。是非前記の目次も参考にして、本を手にとって欲しい。
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2009年11月05日
超凡思考 伊藤塾の伊藤塾長とハーバードMBA岩瀬さんの本
超凡思考著者:岩瀬 大輔
販売元:幻冬舎
発売日:2009-02-10
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「ハーバードMBA留学記」で有名になった現ライフネット生命保険副社長の岩瀬大輔さんと、岩瀬さんが東大法学部在学中に通った伊藤塾の伊藤真塾長の本。
岩瀬さんは開成高校出身、東大法学部在学中に司法試験に合格したが、法曹職になることをやめ、新卒は3人しか採らないBCG(ボストン・コンサルティング・グループ)に就職、リップルウッドへの転職後、自費でハーバードビジネススクールを卒業し、優秀な成績で日本人として4人目となるべーカー・スカラーとなる。(元BCG日本代表、現ドリームインキュベーターの堀紘一さんが日本人初めてのべーカースカラーだそうだ)
留学当時書いていたブログを本として出版した「ハーバードMBA留学記」は大変参考になったので大学生の息子に渡した。
ハーバードMBA留学記 資本主義の士官学校にて著者:岩瀬 大輔
販売元:日経BP社
発売日:2006-11-16
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国籍のみならず、エンジニアや金融業界、メーカーなど、いろいろなバックグラウンドの学生が寄り集まって小グループをつくって勉強しているという話は、あの本で初めて聞いたが、なるほどと思った。
企業派遣のハーバードMBAは結構いるが、べーカースカラー(金時計組)という全体の5%の優等生になったという話も聞いたことがないし、新浪さんなど日本人が集まっての小グループはともかく、インターナショナルチームでの学習という話も聞いたことがない。
あるいは企業派遣留学生も当たり前に小グループで学習していたのかもしれないが、同じ授業を聞いてもバックグラウンドが異なる人が集まれば理解がより深まるだろう。
MBAのケーススタディは答えを出すことが目的ではない。答えよりも、一つのケースを様々な角度から分析して、いろいろな見方を知り、考え抜くことが重要であり、その意味では岩瀬さんが参加していた小グループでの勉強は、密度の濃い勉強をするために最適の方法だと思う。
岩瀬さんの本は最近文庫版が出たようだ。
金融資本主義を超えて―僕のハーバードMBA留学記 (文春文庫)著者:岩瀬 大輔
販売元:文藝春秋
発売日:2009-05-08
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岩瀬さんは帰国後、インターネットで募集する生命保険会社のライフネット生命保険副社長となる。これからの保険の主流はインターネット募集となるという信念があるという。
その岩瀬さんが東大在学中に司法試験の予備校として通っていた伊藤塾の伊藤真塾長と一緒に書いた本だ。
開成高校、東大法学部、在学中の司法試験合格、BCGに新卒入社、ハーバードビジネススクールでトップ5%の優等生;と岩瀬さんの経歴を書いていくと、いかにも超秀才の様に思えるが、岩瀬さんがこの本で書いていることは実に基本的なことだ。
ひとことで言うと、ストレッチしてワンランク上の目標を設定して、それを目指してあきらめずにコツコツとにかくやり続けるということだ。
岩瀬さんも伊藤さんも読書の重要性を語っている
時間はすべての人に平等に与えられている。勉強でも何でも、やり続けることが出来る人が成功するのだ。
この本の帯にも書いてあるが、当たり前を愚直にやりぬくと、平凡は非凡に変わる。それがこの本の提言だ。
司法試験などの資格試験専門の伊藤塾の伊藤真塾長については、今まで本も読んだことないし、筆者とは年代がだぶらないので、名前しか知らなかったが、この本でカリスマ講師としての片鱗が伺えて参考になった。
伊藤さんの講師としてのテクニックを披露
伊藤さんが紹介している講師としてのテクニックは次の通りだ。
・何を伝えたいのか。強い意識があってこそ、技術が生きる。
伊藤さんは何百回という講演をこなしているが、相手が聞きたいと思うことしか伝わらないと実感していると語る。
コミニュケーションの本質は、「相手が聞きたいこと、知りたいこと、欲しているものしか伝わらない」という点にある。
・ロゴスとパトス、理性と情念、頭と心のバランスを取ることが重要。
話をするとは、役を演じることと似ている。相手の求めているものを与えるために、学者、易者、医者、役者、芸者、父母という具体的に6つの役割が話し手には求められている。
理性と情念のミックスで求められた役をこなすのだ。
・具体例と「3」の使い方。相手に合わせて記憶に残す。
講演などで話をするときの目的は、「理解」、「納得」、「満足・共感」そして究極は「感動」してもらうことだ。
「理解」してもらうための方法は、
1.受け手の思考のスピードに合わせて話すスピードを変える
2.聞き手が理解しやすいように「予測可能性」を演出する。
「今日いちばんお話したいのは○○です」、「みなさんに伝えたいことは3つあります」という様な具合だ。
話し終えたら、ポイントをおさらいして、次のテーマに移る工夫もしている。
3.具体例を多用する。
「こんなことって、ありますよね」という具体例で、聴衆の想像力をいかに刺激できるかが勝負だ。
「3」は安定した数字の一つなのだと。
・欲張らない。10のうち2伝われば十分。
欲張らずに、情報の優先順位をつけておくこと、そして大切なのは繰り返すことだ。
演説のうまかったヒットラーは「労働者の皆さん、仕事を与えます」と1時間の演説の中で何十回も繰り返したという。
・信頼を得る5要素。積極性・社交性・専門性・個人的魅力、そして客観性。
これらが「納得」してもらう5要素だ。少数派への配慮も怠ってはならないと。
・四隅と真ん中へのアイコンタクト。「1対1」で共感と親近感を。
「笑顔」とアイコンタクト、途中で上着を脱ぐのも効果的だ。「私も数年前まではわかりませんでした」とか「たしかにこれは難しいですね」と一緒に悩んでみせる。
「みなさん」という言葉の代わりに「あなた」という言葉を使ってみる。
オーケストラのように、会場のいちばん後ろの「あの人に伝わるように」という意識を持つことが重要だ。
・スピード、リズム、ジェスチャーと意外性で、集中力を維持。
緊張と弛緩を繰り返すために、話すスピードとリズムを変える。「間」をつくる。「何ページを見てください」と具体的な作業を促す。「みなさん、これはどう思いますか?」と質問する。
「これは試験に出ますよ」と言うと一瞬にして緊張感が高まるという。
筆者は仕事で10月に3回講演をしたばかりだが、この本を先に読んでいれば、もっと工夫できたのにと残念に思う。
伊藤さんは「続ける力」という本を出しているので、今度読んでみる。
続ける力―仕事・勉強で成功する王道 (幻冬舎新書)著者:伊藤 真
販売元:幻冬舎
発売日:2008-03
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伊藤さんのパートでは、大学卒業以来ひさしぶりに「リーガルマインド」という言葉を聞いた。
実は筆者が就職活動をしていた時に、今の会社の役員面接で、「大学で何を学びましたか」という質問があり、筆者は「リーガルマインド」であると答えた。
そのとき副社長(その人は経済学部の卒業生)から突っ込みがあり、リーガルマインドとはどういうものか自分なりの理解を説明した。
結構冷や汗ものだったが、伊藤さんはこの本の中でリーガルマインドを「複眼的にものを見る手法」であり、「物事を多角的に見るのがリーガルマインド」だと説明している。
岩瀬さんは、「一つの物事を見るとき、ある一つの見方を絶対視しないで、多角的に検討するということ。見方や考え方には違う価値観がいろいろ内在していて、それを比較し考慮したうえで、そうした思考のプロセスを過不足なく、相手に伝えること」と説明している。
筆者はたしか「物事を様々な面から見て、いろいろな見方を比較考量して結論を下すという考え方が、リーガルマインドです」だと答えたような記憶がある。
どうやらほぼ正解のようだ。
岩瀬さんのパート
岩瀬さんのパートのなかで世界中のブログを調べて何語で書かれているブログが多いか調査したところ、一番多いのは中国語でも英語でもなく、日本語だったという。
世界で発信されているブログの3−4割が日本語なのだと。岩瀬さんの率直な感想は、「日本人はそれだけ溜めているのか」ということだと。
たぶん元データはTechnoratiのレポートだと思う。

出典:http://www.sifry.com/alerts/archives/000433.html
もっと新しいデータがないか探してみたが、今のところ2006年第4四半期のものしかみつからないが、これでも依然として日本語がブログ言語では第1位だ。

出典:同じSifryさんのブログ
自分の思いを外に伝えたい、発表したくてうずうずしている人は潜在的に大勢いたのだ。
間違いやすい英単語
ちなみにどうでも良い話だが、最後の岩瀬・伊藤対談で、岩瀬さんがハーバード時代は、みんな青臭いことを語っていた、「生きる上でのお前のプリンシパルは何かとか、理想の人生は?…」という部分があるが、これは「プリンシプル」の間違いだ。
「プリンシパル」と「プリンシプル」は間違えやすいので、「プリンシパル」は「パル」=友達だから校長だと、アメリカ人は覚えるようにしている。
「校長=パル=友達」という発想は日本人にはないが、アメリカの学校の先生は校長先生でも子どもと友達のように親しくしている。
ピッツバーグに駐在している時代に、長男の小学校に行ったら、子どもが気軽に校長室に遊びに来ていることには驚いた。
アメリカの小学校には職員室はなく、先生は自分の教室に机をもっており、そこが先生のオフィスだ。だから子どもと先生は常に一緒なのだ。
ファカルティルーム(Faculty room)というのがある学校もあるが、学校の事務員が働くオフィスであり、到底教師全員が入れる日本のような職員室ではない。
大学は多分小中学校や高校とは異なるだろうし、全米の学校のことを知っている訳ではないので、あるいは日本風の職員室のある学校もあるのかもしれないが、アメリカでは先生=師ではなく、先生=パル=友達という発想がなりたつ教室の設定なのだ。
200ページ余りの本だが、奇をてらったところのない基本に忠実な提言ばかりなので、通勤途上で1時間もかからず読み終えた。
簡単に読めて参考になることも多いので、本屋で手に取ってパラパラめくってみるこをおすすめする。
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2009年11月03日
This Is It マイケル・ジャクソンの最後のリハーサル
マイケル・ジャクソン THIS IS IT デラックス・エディション(初回生産限定盤)アーティスト:マイケル・ジャクソン
販売元:SMJ
発売日:2009-10-28
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マイケル・ジャクソンの最後のリハーサルのドキュメンタリー映画、"THIS IS IT"を見た。
死の数日前までロンドン公演のためにリハーサルをやっていた時の映像だが、マイケルは元気いっぱいで、とても10年間もブランクがあるとは思えないエネルギッシュなステージだ。
マイケルと一緒に踊りたいということで、数百人のダンサーが集まり、オーディションで10名程度に絞られた。さすがに厳選されたダンサーばかりなので、リハーサルとはいえバックダンスもぴっちり決まっており、服装がラフなだけでそれ以外は本番のステージそのものだ。
映画ではあるが、マイケルのコンサートは実は初めて見た。
もう20年くらい前になるが、米国のピッツバーグに駐在していた時にマイケルの公演があり、何ヶ月も前からチケットを予約していたのに、ちょうどその同じ日に東京から出張者があり、行けなかったのは残念だった。
この作品は映画といっても迫力満点で、まるでマイケルのステージを見ているような気になる。
マイケルはステージの全ての演奏者を完全にコントロールしており、一人一人にリズムやスピード、コードなど細かい指示を与えて、いわばシンガー・コンダクター(指揮者)だ。
この映画はリハーサルという、いわば舞台裏を撮したものだが、だからこそマイケルの完全主義者ぶりがよくわかる。
今年6月に亡くなったマイケルをこんな形で見るとは複雑な気持ちだ。
映画なのに最後に観客席から拍手が起き、観客が口々にもう一度見たいと言っていたのは印象的だった。
当初10月28日から全世界同時に2週間限定で公開するということだったので、映画館も満員だった。
映画館によっては2週間を越えても延長公演があるようだが、いずれにせよ限定公開でもあり、できるだけ大きなスクリーンのある映画館で早めに見ることを是非おすすめする。
マイケルの最後の姿が心に焼き付くこと請け合いだ。
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2009年11月02日
火垂るの墓 オーディオブックで聞いてみた
アメリカひじき・火垂るの墓 (新潮文庫)著者:野坂 昭如
販売元:新潮社
発売日:1972-01
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火垂るの墓 (新潮CD)
著者:野坂 昭如
販売元:新潮社
発売日:2001-07-25
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高校生の時に読んだ野坂昭如の「火垂るの墓」をオーディオブックで聞いた。
橋爪功さんの朗読だ。
電車の中で聞いていると、年甲斐もなくウルウルしてみっともないのではないかと恐れていたが、小説自体は涙がにじむことはなかった。
しかしこのオーディオブックの巻末についている野坂昭如さんの6分半にわたる談話にはぐっときた。
野坂さんは自分ではこの本を読めないのだと。
自分のことを飾って書いている。卑しい気持ち、死んでしまった妹に対する哀悼の気持ち、虚構の部分がヤリのように突き刺さってくるのだと。
神戸空襲で焼け出された昭和20年6月5日から妹が亡くなった8月21日まで、ほとんどまともなものが食べられなくて、妹が死んだ姿・形を見たときに自分の人生観が決まったという。
今度紹介するグラミンバンク創設者のムハマド・ユヌスさんは、自伝に次のように書いている。
「死に方はいろいろあるが、餓死は最も受け入れがたい死に方だ。餓死はスローモーションのようにやってくる。生と死の境がだんだんせばまり、生きているのか死んでいるのか分からない状態になる。餓死は静かにやってくるので、誰もが気が付かないうちに人は死んでしまう。」(筆者訳)
こういった死に方が戦地、そして内地でも終戦前後に起きた。野坂さんの妹もスローモーションのように餓死して息絶えたのだろう。
野坂さんは、「自分自身を甘やかして書いている。自分はあんなにやさしくなかった、妹の食べるものを奪って自分自身が生き延びた負い目がある」と語っている。
残酷な兄だということを隠して、食べ物をかっぱらって生き延びて、そのことを隠して飾って小説を書いて、カネを稼いで今贅沢をしているのだという。
この作品を語ることは苦痛ではあるが、物書きはその苦痛に直面せざるをえない。人によっては気が狂ったり、自殺したりするが、それは物書きの宿命なのだと。
なんとも含蓄のある著者談話である。
自分の作品について語る著者談話がオーディオブックの巻末についてくることは時々あるが、この野坂昭如さんの談話ほど感動したものはない。
野坂さん自身が非常に冷静に語っているところが、すごいところだ。
アニメや実写版になってDVDも出ているが、野坂さん自身の談話が含まれているCDも、機会があれば是非聞いて欲しい。
火垂るの墓 完全保存版 [DVD]販売元:ウォルトディズニースタジオホームエンターテイメント
発売日:2008-08-06
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火垂るの墓 [DVD]出演:吉武怜朗
販売元:バンダイビジュアル
発売日:2009-03-27
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昔読んだ作品を読み直す(聞き直す)のも、感動を新たにできて良い。
高校の時に読んだので、文庫本で一緒に収録されている「アメリカひじき」が何のことなのか、懐かしく思い出される。
(アメリカひじきが何かは、続きに書いておいた)
時には昔読んだ本を読み返すことも良い。その際にはオーディオブックの活用も是非おすすめする。
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2009年10月31日
もったいない主義 映画「おくりびと」の脚本家 小山薫堂さんの本
もったいない主義―不景気だからアイデアが湧いてくる! (幻冬舎新書)著者:小山 薫堂
販売元:幻冬舎
発売日:2009-03
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映画「おくりびと」で昨年アカデミー外国映画賞を受賞した脚本家小山薫堂(くんどう)さんの本。
以前紹介したノーベル平和賞受賞者ワンガリ・マータイさんと何か関わりがあるのかと思って読んでみた。
ワンガリさんの"mottainai"とは直接関係なかったが、小山さんの本を読んで、以前仕事で講演をお願いしたことがある日本を代表するクリエーター、博報堂の宮崎晋専務のことを思い出した。
宮崎さんはカンヌ国際広告祭グランプリの金賞を何度も受賞しているクリエーターで、博報堂のクリエイティブ部門のトップだ。宮崎さんの部屋には金や銅などの様々色のライオン像が置いてあった。
たとえば日清食品のHungry?というコマーシャルも手がけている。
有名コマーシャルは数々あるが、講演では雑誌「ナンバー」の話をされていた。
Sports Graphic Number (スポーツ・グラフィック ナンバー) 2009年 10/29号 [雑誌]販売元:文藝春秋
発売日:2009-10-15
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この雑誌は30年近く前に創刊されたものだが(たしか第2号の表紙が具志堅用高のタイトルマッチ試合直後の無惨にも腫れ上がった顔写真)、創刊号のナンバー1からはじまって、ナンバー2,ナンバー3と毎号雑誌タイトルが変わることに当時の文部省(?)からクレイムがついたという話をされていた記憶がある。
宮崎さんは入社以来通勤定期は持たず、帰りの山手線は右回りだったり、左回りだったり、別のルートをつかったり、その日の気分で途中下車したりして、今日は何か新しいことがないかと通勤を楽しんでいたと言われていた。
この本で小山さんも同様に「今日はいつもより1時間早く仕事が片づいたから、普通なら電車に乗って帰るところを、バスを乗り継いで帰ってみよう。その途中でこういうことをやってみようか」というようなことを思うことも「企画」だと語る。
身の回りにあることで企画を考えるのが楽しいのだと。
宮崎さんと同じ人種なのだとピーンときた。
この本では小山さんの手がけた広告などが多く紹介されていて面白い。
特に印象にのこった例をいくつか紹介しておこう。
「もったいない」から生まれたヒット商品
大輪のバラを咲かすには、20本の内19本の花を間引きして、1本のバラをつくる。その間引いたバラの花を使ってバラ風呂をヒットさせたのが大阪のローズネットという会社の川端秀一社長だという。
川端社長は「僕この間までホームレスだったんですけど、このバラが成功して、もうすぐ上場するんです」と言っていたという。
バラ風呂として使った後は、乾燥させてポプリとするのだと。
他にも東武動物公園で1個200円で売っているへびの抜け殻で作った「お金が貯まるへびの皮」などを紹介している。
日本の映画を全部無料化
小山さんが日本の首相なら、日本の映画館をタダにすると語る。日本の映画産業の規模は年間2,000億円しかない。ばらまきの定額給付金予算2兆円の1/10の規模である。
地デジ切り替えの数千億円を、コマーシャルではなく、機材買い換え費用に充てるのか、何か形に残る形にした方が良いと。
デザインではデザイナーの深澤直人さんがつくり、2007年のDIME「トレンド大賞」を受賞したトイレ「アラウーノ」が好きだという。
◆送料無料◆【パナソニック】アラウーノS床排水タイプ/ホワイト[XCH1101WS]Panasonic全自動お掃除トイレ
深澤さんはAUのINFOBARや壁掛け式CDプレーヤーの作品で有名なデザイナーだ。
小山さんはFM横浜のパーソナリティを務めているので、この本でもラジオ番組の話がいろいろ出てきて面白い。
1時間程度で簡単に楽しく読める。気分転換の読書には最適の本である。
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2009年10月29日
マイクロソフトでは出会えなかった天職 成功するNPOのつくり方
+++今回のあらすじは長いです+++
マイクロソフトでは出会えなかった天職 僕はこうして社会起業家になった
著者:ジョン ウッド
販売元:ランダムハウス講談社
発売日:2007-09-21
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マイクロソフトで9年間勤務し、オーストラリアと中国に駐在して国際関係の要職を勤めていたが、1999年に辞めて社会起業家となったジョン・ウッドさんの本。
ウッドさんはマイクロソフトでの激務の合間に休暇で行ったネパールで、旅行者の置いていった数冊の本しかない学校の図書館の実情を知る。
校長に「あなたはきっと、本を持って帰ってきてくださると信じています」と呼びかけられ、親や友人に声をかけて本をネパールに寄付することからNPO活動を始め、人生を変える行動を起こす。
英語の原書では荷物を一杯積んでいるヤクのそばに立っているウッドさんの写真が表紙だ。
Leaving Microsoft to Change the World: An Entrepreneur's Odyssey to Educate the World's Children
著者:John Wood
販売元:HarperBusiness
発売日:2006-09-01
おすすめ度:
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NPOもビジネスだ
彼の活動は"Room to read"というNPOだ。

世界の40カ国以上に地域チャプターがあり、日本にもチャプターがある。

各地でチャプター(支部)をつくってその国での活動をチャプターに一任するというのもすぐれてビジネス的な発想だし、このRoom to Read運動が世界的に広まった理由の一つだ。
以前Table for Two活動事務局長小暮真久さんの「20円で世界をつなぐ仕事」のあらすじを紹介したが、その中で語られていた「NPOもビジネスだ」ということがよく分かる。
マイクロソフトではたぶん億に近い給料と経費枠(アメリカの会社のエクゼクティブは、年俸と同じくらいの経費枠を持っており、社有車、住居、出張、ゴルフ場、接待その他の費用に充てられる)を得ていたウッドさんは自らの意思で無給で何年も働いた。
スタッフの多くも月給1,000ドルとかの低い給料なので、利益を上げることが目的の会社とはかなり違うが、NPOの慈善福祉団体でも、しっかりしたビジネスプランと営業力がないと成功しない。
ちなみに岩瀬大輔さんと伊藤真さんの「超凡思考」を読んだところだが、岩瀬さんが卒業したハーバードビジネススクールでは、今や卒業生の10%が社会起業分野に就職しており、最も人気が高い分野とのことだ。
超凡思考
著者:岩瀬 大輔
販売元:幻冬舎
発売日:2009-02-10
おすすめ度:
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いくら理念が立派なNPOでも、資金がなければ何もできないわけで、そのことを象徴するのが、Room to Readを立ち上げたばかりの時の2つの面談だ。
American Himalayan Foundationの冷たい対応
ネパールに本を寄贈する運動を立ち上げたいと最初にAmerican Himalayan Foundationに申し入れたら、女性専務理事は何度も待たせたあげく、話を始めて2分で「これ以上、お話をする必要があるかしら。あなたと同じ事をしている小さなグループは何百もありますね。」と切り上げようとした。
「マイクロソフトで学んだことは"Think Big"、大きく考えることです」と必死に食い下がると、「自分ならできると思う理由は?」と聞かれる。
「良い質問です。まず、私には意欲があり、エネルギーが山ほどあります。必死に働くこともいといません。テクノロジー業界時代の人脈は広く…。」と説明しはじめると、たった10分足らずでランチのアポイントがあるといって11時15分に打ち切られた。
「良い質問です。"Good question"」というのは、普通答えに困った時にとっさに言って、その間必死に考える為の時間つなぎの言葉で、答えを用意していなかったのがバレる結果となる。
理念だけではいくらでも同じような団体はあるのだ。面談後フォローのメールを出しても返事も来なかった。ウッドさんは「5つ星の事務所に星ゼロの人格」と皮肉っている。
ベンチャーキャピタリストの高い評価
もう一つの面談は、サンフランシスコでの成功したベンチャーキャピタリストとの面談だ。
ビル・ドレイパーはドレイパー・リチャーズというベンチャーキャピタルで成功し、ドレイパー・リチャーズ財団という財団をつくり、年間10万ドルの使途無制限の資金を3年間提供して社会起業家を支援している。ドレイパー・リチャーズは1959年から活動を始めたベンチャーキャピタリストの老舗で、マイクロソフトが買収したホットメールなどを育て上げた。
ビル・ドレイパーは秘書と一緒にメルセデスの赤のコンバーチブルでウッドさんの事務所に時間ぴったりに来た。ビル・ドレイパーは熊のような大男で、70歳になったばかりだが、10歳は若く見える。ラクダのブレザーに白いシャツ、赤のネクタイとブルックス・ブラザースのカタログから飛び出してきたようだったと。
ビルは「私は人材に投資する。まず、きみたちのスタッフについて説明して欲しい」と切り出す。
ウッドさんは次のように説明する。
「この資金集めのモデルは、世界を変えたいと思っている人のすべてが、今の仕事を辞めてまで行動を起こすわけにはいかない、という現実に基づいたものです。」
「誰でも資金集めに協力できるようにすることが目標です。仕事中に1時間だけ時間をやりくりしたり、夜や週末を使ったりして、イベントを企画する事なら出来るでしょう。」
「このモデルの利点は、ボランティアの彼らにお金を払う必要がないことで、資金集めのコストを抑えることができます。」
「すばらしい。いい発想だ。経費はすくないほどいい。」とビルは力強くこたえる。
次にRoom to Readのミッションステートメントだ。
「われわれのチームは途上国の地域社会と協力し、共同出資モデルをつくって、学校や図書館、パソコン教室、女子への長期的な奨学金など新しい教育インフラの創造を媒介する。」
ビルはまたも賞賛する「これはいい。共同出資はまさに理にかなっている。私がUNDPの総裁を務めていたことは知っているだろう?私はかねがね、援助計画を成功させる唯一の方法は、地元の住民にも労働力と少額の資金を提供させることだと思っていた。」
「そうでなければ援助は無償の贈り物にすぎず、当人たちに失うものがないから、プロジェクトの価値をだれも認めようとしない。」
ウッドさんは我が意を得たりということで、ハーバードビジネスクールのマイケル・ポーター教授の言葉を紹介する。
「旅行業界の歴史を通じて、レンタカーを洗車した人は誰もいない。所有している意識がなければ、長期的なメインテナンスはしない。私たちのプロジェクトも同じだと思っています。」
ビル・ドレイパーは国際発展に関する様々なエピソードを語り、Room to Readを賞賛した。「感心した」と語り、秘書が止めるのもかまわず、奨励金の使い道を考え始めると良いと言ってくれたという。
最後のだめ押しは事務所に置いてあったノースフェイスの黄色い寝袋だ。
「重要なレポートなどがあるときは、これが僕の家になるのです。」
「そう言って欲しかったんだ。一所懸命に働くことをいとわない人がいい。NPOは『仕事は9時から5時まで』の精神の持ち主が多すぎる。」
成功したのはマイクロソフトのおかげ
Room to Readが成功したのも、初期のマイクロソフトで培ったあきらめない営業力のおかげだと。
マイクロソフトでは、「大きく行け、それができなければ家に帰れ」と言われていたという。Room to Readの目標も「1,000万人の子どもに生涯の教育機会を届けること」だと。
「21世紀のアンドリュー・カーネギーは裕福な白人男性ではない。21世紀のカーネギーとは、関心の高い世界中の市民のネットワークのことで、それをこれからつくるのだ」とウッドさんは語る。
マイクロソフトの面接問題
「ビル・ゲイツの面接試験」のあらすじで紹介したマイクロソフトの面接試験のことが書かれていて面白い。
ビル・ゲイツの面接試験―富士山をどう動かしますか?
著者:ウィリアム パウンドストーン
販売元:青土社
発売日:2003-06-15
おすすめ度:
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1991年にマイクロソフトに応募したときウッドさんの面接官はメリンダ・フレンチ(当時はビルの恋人。今は奥さん)だった。彼女の質問は;
「商業銀行は、積極的な人やねばり強い人が集まる業界には思えません。コンチネンタル銀行での経歴を通して、あなたは例外なのだと説明してください」
ウッドさんはウェアトン・スチールとの大きな契約をまとめた経験を披露し、それが気に入られて1991年4月にマイクロソフトに入社した。1991年ということは、まだMS−DOSのコンピューターばかりで、ウィンドウズ3.0が出たばかりの時代だ。
思わぬ所でウェアトン・スチールという名前が出てきたが、ウェアトン・スチールは筆者のピッツバーグ駐在時代の取引先で、ピッツバーグから車で南に1時間弱のところにある製鉄所によく行ったものだ。かなり古い製鉄所だが、閉鎖せずに動かすために従業員が株主となっていた。
ウェストバージニア州の最大の雇用者なので、会社が破綻しそうになっても州政府が雇用確保のために、てこ入れしていたが、筆者が日本に帰国してから倒産し、資産はオークションにかけられ、世界最大の鉄鋼メーカー、ミッタルが買収したそうだ。
マイクロソフトのエクゼクティブ達
マイクロソフトのビル・ゲイツや、こわいボスだったスティーブ・バルマーのエピソードが紹介されているのも面白い。
ウッドさんはビルが中国に出張で来た時に、マスコミに言って欲しいことをブリーフィングするが、ビルは何の準備もしていなかったという。「カネをたっぷり稼いだ人は、たいてい悪い聞き手になる」という紀行作家のポール・セロー(Paul Theroux)の言葉を紹介している。
ワールズ・エンド(世界の果て) (村上春樹翻訳ライブラリー)
著者:ポール セロー
販売元:中央公論新社
発売日:2007-11
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スティーブ・バルマーとは仕事でも、一緒のジョッギング中にも怒鳴りまくられたが、ウッドさんがボストン・マラソンで3時間4分の記録だったということをしっかり覚えていて、「部下のことは何でも知っているんだ」と言っていたという。
スティーブ・バルマーの飛び跳ねるビデオがYouTubeに載っている。気が違ったのではないかと思えるようなビデオなので、"Steve Ballmer going crazy"というタイトルが付いている。
Room to Readの営業方針
ウッドさんは次の5つの方針で営業にあたったという。
1.お金のある人は、教育が自分の人生に役に立ったという経験をしている可能性が高い。その「お返し」に途上国の子どもに同じ贈り物をできるのだと強調する。
2.寄付がもたらす直接の効果がわかる。8,000ドルの寄付でネパールに学校を一つ建てられるのだ。
3.運営コストは低く抑える。寄付金の90%が実際のプロジェクトに使われる。
4.情熱を売り込む。ジョンがテクノロジー業界の出世街道を捨てて報酬なしで専念していることを話せば、共感してもらえるだろう。
5.人は人生により多くの意味を求めている。教育に投資すれば、世界を変えるために手助けをしているというすばらしい気持ちを味わえる。
まさにビジネスの営業方針そのものだ。NPOビジネスとして、しっかりとした方針があって事業にあたっていることがよくわかる。
この本の巻末にある、寄付金の募集要項も紹介しておく。

これを読んだら誰でもできることは協力したいと思うだろう。
Room to Readのあゆみ
300ページ余りの本で、ウッドさんがRoom to Readを思いついてから、両親や友人他の助言で、マイクロソフトをやめてNPOに専念する決心をし、Room to ReadがCNNなどのマスコミにも報道されることによって、さらに大きく成長したかが物語りとして語られている。
この成長物語は詳しくは紹介しないが、大変面白い読み物になっている。
特に最初の頃、73歳のお父さんが、ネパール行きをしつこくウッドさんに主張し、父のことを心配して思いとどまらせようとするウッドさんに「そんな風に人を見下すような息子に育てた覚えはない。自分は大恐慌も第2次世界大戦も生き延びてきたのだ。」と言い、メールにまで「PS 私が一緒にネパールに行けない理由をもう一度、説明してくれないか?」と書いてきたというエピソードが印象に残る。
ネパールに本を送るプロジェクトは、それからは父と息子のプロジェクトになったのだと。
途上国教育を支援する意義
911の直後、シカゴの募金集めの会でベン・シャピロから次のように言われたという。(筆者注:ベン・シャピロは若手コラムニストだと思うので、Wikipediaのリンクもそのベン・シャピロのものを載せた)
「きみたちのウェブサイトを見て本当に感動した。…僕たちは安上がりにグローバル化を進めてきた。たとえば、この10年間にアフガニスタンに学校をつくるべきだった。あの国の教育制度を確立する努力をしていれば、テロリストはいまより少なくなっていたはずだ。」
日本の民主党がアフガニスタン支援の方向を転換してインド洋での給油をやめてアフガニスタンへの農業や教育面での復興支援で協力すると言い出していることを思い起こさせる言葉だ。
ウッドさんはベンの言葉を「カブールの本屋」を読んだときに、思い出したという。
カブールの本屋―アフガニスタンのある家族の物語
著者:アスネ セイエルスタッド
販売元:イーストプレス
発売日:2005-07
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様々な寄付のアイデア
この本では様々な人から様々な形での寄付があったことを紹介しているが、ユーモアがあって最も印象に残ったのは、ロンドンにあるモンテッソーリ教育法のパークゲート小学校の子ども達の「沈黙売ります」というアイデアだ。
1時間10ポンドで、生徒は自宅で黙って夜を過ごすという商品は親に大人気だったという。
ちなみにモンテッソーリ教育法は、日本ではあまり見かけないが、(たしか鎌倉などにモンテッソーリ法の幼稚園があったと思う)欧米では有名な幼児からの教育法で、感覚教育と自発性を重んじることが特徴だ。筆者の次男もピッツバーグで年少・年中の時にモンテッソーリ幼稚園に通っていた(米国では年長からは小学校に組み込まれている)。
日本のRoom to Read活動
この本の日本語訳には特別に第22章(ルーム・トゥ・リードと日本)という章が付け加わっている。この中に東京チャプターの資金集めのイベントが南アフリカ大使公邸で開催された時のマレファネ大使の挨拶が紹介されている。
「私が9年生、14歳のとき、地元の学校に村で最初の図書館ができました。私は大切な本を手に取れることがうれしくて、夢中で読みましたが、図書館にはわずかな本しかなく、毎週1時間しか開いていませんでした。」
「だからいま、ルーム・トゥ・リードが私の国にもやって来たことを、心から歓迎しています。たくさんの子どもが生まれて初めて本というものを見て、喜びのあまり踊りだすでしょう。」
実に印象深い大使の挨拶だ。
日本チャプターの実績:

これまでのRoom to Readの実績
ウッドさんはメールの署名のところにRoom to Readの実績を書いて、こまめに更新していたという。この本の翻訳時点での実績と現在ウェブサイトに載っている実績比較は次の通りだ。素晴らしい伸びである。
2007年6月 2009年10月
寄贈した本の数 140万冊 570万冊
建設した学校 287校 765校
建設した図書館 3,540ヶ所 7,168ヶ所
コンピューター教室 117ヶ所 179ヶ所
奨学金を受ける女生徒 2,336人 7,132人
現在の実績:

地元は労働奉仕で協力
ネパールで学校の建設のためにセメント袋を背負って運ぶ母親達の話も印象的だ。日の出前に1時間かけて50キロのセメント袋を取りに行き、1時間半かけて山道を登って村に戻るのだと。
ジョンは試しにセメント袋を担ごうとしたが、ぎっくり腰になりかけたという。たしかに50キロを背負うというのは並大抵のことではない。ネパールの母親達は自分の体重くらいのセメント袋を担いでジョンより早足で山登りしていたという。
労働の提供も地元負担分として認められるので、母親達はセメント運搬、父親達は建設作業で、現金は出せなくても新しい校舎建設に協力しているのだ。
すごく参考になった本なので、いろいろ紹介したいが、あらすじが長くなりすぎるので、この辺りにしておく。
本来ならカタい話だが、冒険小説のようにスッと読める。筆者が久しぶりに読んでから買った本だ。是非一読をおすすめする。
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マイクロソフトでは出会えなかった天職 僕はこうして社会起業家になった著者:ジョン ウッド
販売元:ランダムハウス講談社
発売日:2007-09-21
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マイクロソフトで9年間勤務し、オーストラリアと中国に駐在して国際関係の要職を勤めていたが、1999年に辞めて社会起業家となったジョン・ウッドさんの本。
ウッドさんはマイクロソフトでの激務の合間に休暇で行ったネパールで、旅行者の置いていった数冊の本しかない学校の図書館の実情を知る。
校長に「あなたはきっと、本を持って帰ってきてくださると信じています」と呼びかけられ、親や友人に声をかけて本をネパールに寄付することからNPO活動を始め、人生を変える行動を起こす。
英語の原書では荷物を一杯積んでいるヤクのそばに立っているウッドさんの写真が表紙だ。
Leaving Microsoft to Change the World: An Entrepreneur's Odyssey to Educate the World's Children著者:John Wood
販売元:HarperBusiness
発売日:2006-09-01
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NPOもビジネスだ
彼の活動は"Room to read"というNPOだ。
世界の40カ国以上に地域チャプターがあり、日本にもチャプターがある。
各地でチャプター(支部)をつくってその国での活動をチャプターに一任するというのもすぐれてビジネス的な発想だし、このRoom to Read運動が世界的に広まった理由の一つだ。
以前Table for Two活動事務局長小暮真久さんの「20円で世界をつなぐ仕事」のあらすじを紹介したが、その中で語られていた「NPOもビジネスだ」ということがよく分かる。
マイクロソフトではたぶん億に近い給料と経費枠(アメリカの会社のエクゼクティブは、年俸と同じくらいの経費枠を持っており、社有車、住居、出張、ゴルフ場、接待その他の費用に充てられる)を得ていたウッドさんは自らの意思で無給で何年も働いた。
スタッフの多くも月給1,000ドルとかの低い給料なので、利益を上げることが目的の会社とはかなり違うが、NPOの慈善福祉団体でも、しっかりしたビジネスプランと営業力がないと成功しない。
ちなみに岩瀬大輔さんと伊藤真さんの「超凡思考」を読んだところだが、岩瀬さんが卒業したハーバードビジネススクールでは、今や卒業生の10%が社会起業分野に就職しており、最も人気が高い分野とのことだ。
超凡思考著者:岩瀬 大輔
販売元:幻冬舎
発売日:2009-02-10
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いくら理念が立派なNPOでも、資金がなければ何もできないわけで、そのことを象徴するのが、Room to Readを立ち上げたばかりの時の2つの面談だ。
American Himalayan Foundationの冷たい対応
ネパールに本を寄贈する運動を立ち上げたいと最初にAmerican Himalayan Foundationに申し入れたら、女性専務理事は何度も待たせたあげく、話を始めて2分で「これ以上、お話をする必要があるかしら。あなたと同じ事をしている小さなグループは何百もありますね。」と切り上げようとした。
「マイクロソフトで学んだことは"Think Big"、大きく考えることです」と必死に食い下がると、「自分ならできると思う理由は?」と聞かれる。
「良い質問です。まず、私には意欲があり、エネルギーが山ほどあります。必死に働くこともいといません。テクノロジー業界時代の人脈は広く…。」と説明しはじめると、たった10分足らずでランチのアポイントがあるといって11時15分に打ち切られた。
「良い質問です。"Good question"」というのは、普通答えに困った時にとっさに言って、その間必死に考える為の時間つなぎの言葉で、答えを用意していなかったのがバレる結果となる。
理念だけではいくらでも同じような団体はあるのだ。面談後フォローのメールを出しても返事も来なかった。ウッドさんは「5つ星の事務所に星ゼロの人格」と皮肉っている。
ベンチャーキャピタリストの高い評価
もう一つの面談は、サンフランシスコでの成功したベンチャーキャピタリストとの面談だ。
ビル・ドレイパーはドレイパー・リチャーズというベンチャーキャピタルで成功し、ドレイパー・リチャーズ財団という財団をつくり、年間10万ドルの使途無制限の資金を3年間提供して社会起業家を支援している。ドレイパー・リチャーズは1959年から活動を始めたベンチャーキャピタリストの老舗で、マイクロソフトが買収したホットメールなどを育て上げた。
ビル・ドレイパーは秘書と一緒にメルセデスの赤のコンバーチブルでウッドさんの事務所に時間ぴったりに来た。ビル・ドレイパーは熊のような大男で、70歳になったばかりだが、10歳は若く見える。ラクダのブレザーに白いシャツ、赤のネクタイとブルックス・ブラザースのカタログから飛び出してきたようだったと。
ビルは「私は人材に投資する。まず、きみたちのスタッフについて説明して欲しい」と切り出す。
ウッドさんは次のように説明する。
「この資金集めのモデルは、世界を変えたいと思っている人のすべてが、今の仕事を辞めてまで行動を起こすわけにはいかない、という現実に基づいたものです。」
「誰でも資金集めに協力できるようにすることが目標です。仕事中に1時間だけ時間をやりくりしたり、夜や週末を使ったりして、イベントを企画する事なら出来るでしょう。」
「このモデルの利点は、ボランティアの彼らにお金を払う必要がないことで、資金集めのコストを抑えることができます。」
「すばらしい。いい発想だ。経費はすくないほどいい。」とビルは力強くこたえる。
次にRoom to Readのミッションステートメントだ。
「われわれのチームは途上国の地域社会と協力し、共同出資モデルをつくって、学校や図書館、パソコン教室、女子への長期的な奨学金など新しい教育インフラの創造を媒介する。」
ビルはまたも賞賛する「これはいい。共同出資はまさに理にかなっている。私がUNDPの総裁を務めていたことは知っているだろう?私はかねがね、援助計画を成功させる唯一の方法は、地元の住民にも労働力と少額の資金を提供させることだと思っていた。」
「そうでなければ援助は無償の贈り物にすぎず、当人たちに失うものがないから、プロジェクトの価値をだれも認めようとしない。」
ウッドさんは我が意を得たりということで、ハーバードビジネスクールのマイケル・ポーター教授の言葉を紹介する。
「旅行業界の歴史を通じて、レンタカーを洗車した人は誰もいない。所有している意識がなければ、長期的なメインテナンスはしない。私たちのプロジェクトも同じだと思っています。」
ビル・ドレイパーは国際発展に関する様々なエピソードを語り、Room to Readを賞賛した。「感心した」と語り、秘書が止めるのもかまわず、奨励金の使い道を考え始めると良いと言ってくれたという。
最後のだめ押しは事務所に置いてあったノースフェイスの黄色い寝袋だ。
「重要なレポートなどがあるときは、これが僕の家になるのです。」
「そう言って欲しかったんだ。一所懸命に働くことをいとわない人がいい。NPOは『仕事は9時から5時まで』の精神の持ち主が多すぎる。」
成功したのはマイクロソフトのおかげ
Room to Readが成功したのも、初期のマイクロソフトで培ったあきらめない営業力のおかげだと。
マイクロソフトでは、「大きく行け、それができなければ家に帰れ」と言われていたという。Room to Readの目標も「1,000万人の子どもに生涯の教育機会を届けること」だと。
「21世紀のアンドリュー・カーネギーは裕福な白人男性ではない。21世紀のカーネギーとは、関心の高い世界中の市民のネットワークのことで、それをこれからつくるのだ」とウッドさんは語る。
マイクロソフトの面接問題
「ビル・ゲイツの面接試験」のあらすじで紹介したマイクロソフトの面接試験のことが書かれていて面白い。
ビル・ゲイツの面接試験―富士山をどう動かしますか?著者:ウィリアム パウンドストーン
販売元:青土社
発売日:2003-06-15
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1991年にマイクロソフトに応募したときウッドさんの面接官はメリンダ・フレンチ(当時はビルの恋人。今は奥さん)だった。彼女の質問は;
「商業銀行は、積極的な人やねばり強い人が集まる業界には思えません。コンチネンタル銀行での経歴を通して、あなたは例外なのだと説明してください」
ウッドさんはウェアトン・スチールとの大きな契約をまとめた経験を披露し、それが気に入られて1991年4月にマイクロソフトに入社した。1991年ということは、まだMS−DOSのコンピューターばかりで、ウィンドウズ3.0が出たばかりの時代だ。
思わぬ所でウェアトン・スチールという名前が出てきたが、ウェアトン・スチールは筆者のピッツバーグ駐在時代の取引先で、ピッツバーグから車で南に1時間弱のところにある製鉄所によく行ったものだ。かなり古い製鉄所だが、閉鎖せずに動かすために従業員が株主となっていた。
ウェストバージニア州の最大の雇用者なので、会社が破綻しそうになっても州政府が雇用確保のために、てこ入れしていたが、筆者が日本に帰国してから倒産し、資産はオークションにかけられ、世界最大の鉄鋼メーカー、ミッタルが買収したそうだ。
マイクロソフトのエクゼクティブ達
マイクロソフトのビル・ゲイツや、こわいボスだったスティーブ・バルマーのエピソードが紹介されているのも面白い。
ウッドさんはビルが中国に出張で来た時に、マスコミに言って欲しいことをブリーフィングするが、ビルは何の準備もしていなかったという。「カネをたっぷり稼いだ人は、たいてい悪い聞き手になる」という紀行作家のポール・セロー(Paul Theroux)の言葉を紹介している。
ワールズ・エンド(世界の果て) (村上春樹翻訳ライブラリー)著者:ポール セロー
販売元:中央公論新社
発売日:2007-11
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スティーブ・バルマーとは仕事でも、一緒のジョッギング中にも怒鳴りまくられたが、ウッドさんがボストン・マラソンで3時間4分の記録だったということをしっかり覚えていて、「部下のことは何でも知っているんだ」と言っていたという。
スティーブ・バルマーの飛び跳ねるビデオがYouTubeに載っている。気が違ったのではないかと思えるようなビデオなので、"Steve Ballmer going crazy"というタイトルが付いている。
Room to Readの営業方針
ウッドさんは次の5つの方針で営業にあたったという。
1.お金のある人は、教育が自分の人生に役に立ったという経験をしている可能性が高い。その「お返し」に途上国の子どもに同じ贈り物をできるのだと強調する。
2.寄付がもたらす直接の効果がわかる。8,000ドルの寄付でネパールに学校を一つ建てられるのだ。
3.運営コストは低く抑える。寄付金の90%が実際のプロジェクトに使われる。
4.情熱を売り込む。ジョンがテクノロジー業界の出世街道を捨てて報酬なしで専念していることを話せば、共感してもらえるだろう。
5.人は人生により多くの意味を求めている。教育に投資すれば、世界を変えるために手助けをしているというすばらしい気持ちを味わえる。
まさにビジネスの営業方針そのものだ。NPOビジネスとして、しっかりとした方針があって事業にあたっていることがよくわかる。
この本の巻末にある、寄付金の募集要項も紹介しておく。
これを読んだら誰でもできることは協力したいと思うだろう。
Room to Readのあゆみ
300ページ余りの本で、ウッドさんがRoom to Readを思いついてから、両親や友人他の助言で、マイクロソフトをやめてNPOに専念する決心をし、Room to ReadがCNNなどのマスコミにも報道されることによって、さらに大きく成長したかが物語りとして語られている。
この成長物語は詳しくは紹介しないが、大変面白い読み物になっている。
特に最初の頃、73歳のお父さんが、ネパール行きをしつこくウッドさんに主張し、父のことを心配して思いとどまらせようとするウッドさんに「そんな風に人を見下すような息子に育てた覚えはない。自分は大恐慌も第2次世界大戦も生き延びてきたのだ。」と言い、メールにまで「PS 私が一緒にネパールに行けない理由をもう一度、説明してくれないか?」と書いてきたというエピソードが印象に残る。
ネパールに本を送るプロジェクトは、それからは父と息子のプロジェクトになったのだと。
途上国教育を支援する意義
911の直後、シカゴの募金集めの会でベン・シャピロから次のように言われたという。(筆者注:ベン・シャピロは若手コラムニストだと思うので、Wikipediaのリンクもそのベン・シャピロのものを載せた)
「きみたちのウェブサイトを見て本当に感動した。…僕たちは安上がりにグローバル化を進めてきた。たとえば、この10年間にアフガニスタンに学校をつくるべきだった。あの国の教育制度を確立する努力をしていれば、テロリストはいまより少なくなっていたはずだ。」
日本の民主党がアフガニスタン支援の方向を転換してインド洋での給油をやめてアフガニスタンへの農業や教育面での復興支援で協力すると言い出していることを思い起こさせる言葉だ。
ウッドさんはベンの言葉を「カブールの本屋」を読んだときに、思い出したという。
カブールの本屋―アフガニスタンのある家族の物語著者:アスネ セイエルスタッド
販売元:イーストプレス
発売日:2005-07
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様々な寄付のアイデア
この本では様々な人から様々な形での寄付があったことを紹介しているが、ユーモアがあって最も印象に残ったのは、ロンドンにあるモンテッソーリ教育法のパークゲート小学校の子ども達の「沈黙売ります」というアイデアだ。
1時間10ポンドで、生徒は自宅で黙って夜を過ごすという商品は親に大人気だったという。
ちなみにモンテッソーリ教育法は、日本ではあまり見かけないが、(たしか鎌倉などにモンテッソーリ法の幼稚園があったと思う)欧米では有名な幼児からの教育法で、感覚教育と自発性を重んじることが特徴だ。筆者の次男もピッツバーグで年少・年中の時にモンテッソーリ幼稚園に通っていた(米国では年長からは小学校に組み込まれている)。
日本のRoom to Read活動
この本の日本語訳には特別に第22章(ルーム・トゥ・リードと日本)という章が付け加わっている。この中に東京チャプターの資金集めのイベントが南アフリカ大使公邸で開催された時のマレファネ大使の挨拶が紹介されている。
「私が9年生、14歳のとき、地元の学校に村で最初の図書館ができました。私は大切な本を手に取れることがうれしくて、夢中で読みましたが、図書館にはわずかな本しかなく、毎週1時間しか開いていませんでした。」
「だからいま、ルーム・トゥ・リードが私の国にもやって来たことを、心から歓迎しています。たくさんの子どもが生まれて初めて本というものを見て、喜びのあまり踊りだすでしょう。」
実に印象深い大使の挨拶だ。
日本チャプターの実績:
これまでのRoom to Readの実績
ウッドさんはメールの署名のところにRoom to Readの実績を書いて、こまめに更新していたという。この本の翻訳時点での実績と現在ウェブサイトに載っている実績比較は次の通りだ。素晴らしい伸びである。
2007年6月 2009年10月
寄贈した本の数 140万冊 570万冊
建設した学校 287校 765校
建設した図書館 3,540ヶ所 7,168ヶ所
コンピューター教室 117ヶ所 179ヶ所
奨学金を受ける女生徒 2,336人 7,132人
現在の実績:
地元は労働奉仕で協力
ネパールで学校の建設のためにセメント袋を背負って運ぶ母親達の話も印象的だ。日の出前に1時間かけて50キロのセメント袋を取りに行き、1時間半かけて山道を登って村に戻るのだと。
ジョンは試しにセメント袋を担ごうとしたが、ぎっくり腰になりかけたという。たしかに50キロを背負うというのは並大抵のことではない。ネパールの母親達は自分の体重くらいのセメント袋を担いでジョンより早足で山登りしていたという。
労働の提供も地元負担分として認められるので、母親達はセメント運搬、父親達は建設作業で、現金は出せなくても新しい校舎建設に協力しているのだ。
すごく参考になった本なので、いろいろ紹介したいが、あらすじが長くなりすぎるので、この辺りにしておく。
本来ならカタい話だが、冒険小説のようにスッと読める。筆者が久しぶりに読んでから買った本だ。是非一読をおすすめする。
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2009年10月25日
資本主義はなぜ自壊したのか 構造改革推進派 中谷巌さんの反省の書
資本主義はなぜ自壊したのか 「日本」再生への提言著者:中谷 巌
販売元:集英社
発売日:2008-12-15
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以前は公務員の兼業が禁止されていたため、一橋大学教授をやめてソニーの取締役となった中谷巌さんのグローバル資本主義に対する「懺悔の書」。
中谷さんは一橋大学を卒業後日産自動車に勤めるが、27歳で休職してハーバード大学の博士課程に留学。博士号を取って帰国してからは大阪大学教授、一橋大学教授を歴任、ソニーの一件以来国立大学には奉職せず、多摩大学教授や三菱UFJリサーチ&コンサルティング理事長などを勤めて、最近はテレビのコメンテーターとしてもしばしば登場する。
2005年まではソニーの取締役会の議長を勤めていた。
グローバル資本主義はモンスター
中谷さんはグローバル資本主義は世界経済活性化の切り札となるというプラスもある反面、(1)世界経済の不安定化、(2)所得や富の格差増大、(3)地球環境破壊・食品汚染など、人間社会にマイナスの効果ももたらすモンスターだと語る。
このモンスターに自由を与えすぎて規律を失ったから資本主義そのものが自壊したのだと。
中谷さんは古き良きアメリカ時代にアメリカに留学しているが、最近アメリカに行くたびに「何か変だ」と感じていたという。
所得上位1%の富裕層の財産が8%から17%に倍増する一方、かつての豊かなアメリカを支えていた中流階級の所得はほどんど上がらず、没落した。
そして資本主義は暴走してサブプライム問題に端を発する世界金融不況に突入する。信用程度の低いサブプライムローンを分割して他の債権商品とくっつけ債権レーティングをAAとするまやかし金融術がまかり通り、不動産市況が下落に転じるとすべてのスキームが破綻に陥った。
金融のプロ達は破滅が来ることは計算済みだったのだ。
構造改革推進派
中谷さんは小渕内閣で「経済戦略会議」議長代理を務め、竹中平蔵氏と一緒に二百数十項目の改革提案をまとめ、その後の小泉構造改革路線でも「改革なくして成長なし」のスローガンのもとに、構造改革を支持した。しかし、これは人を不幸にする改革だったと反省しているという。
ここ10年で日本も年収200万円以下のワーキングプアと呼ばれる低所得者が1,000万人を越え、非正規社員比率は1990年の2割から毎年上昇して2008年には1/3を越え、日本の終身雇用・安心・安全神話は崩れた。
パンドラの箱は開いてしまったのだ。
構造改革は日本人を幸福にしたか?
中谷さんの最大の反省点は、「構造改革は日本人を幸福にしたか」という点だ。
日本経済が「グローバルスタンダード」なるものを受け入れ、構造改革、規制緩和、100円ショップなどの価格破壊、郵政民営化を実現したが、小泉改革により日本社会は他人のことを思いやる余裕を失い、自分のことしか考えないメンタリティが強くなった。
だから日本人は小泉構造改革には幻滅している。
小泉元首相が支持表明し、2008年9月の自民党の総裁選に出馬して構造改革路線の進化・発展を訴えた小池百合子氏が、自民党地方票では1票も取れなかったことがその証拠だと中谷さんは語る。
ちょうど小池百合子さんの「もったいない日本」という自民党総裁選後2008年10月に出版された本を読んだところなので、小池さんの言い分も紹介しておく。同じ出来事でも、小池さんは全く正反対の評価をしているので面白い。
もったいない日本著者:小池 百合子
販売元:主婦と生活社
発売日:2008-10
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「特に、各地の党員・党友が投票する地方票において、47都道府県中35の地で第2位となることができたのは、大きな意義がありました。これは、地方の「声なき声」が私を支持してくださったからであり…。」
自民党の総裁選挙のしくみはよく知らないが、どうやらアメリカ大統領選挙のような一位がその県の全票を取るという"Winner takes all"式なのだろう。その意味では、どちらも真実なのだろうが、小泉改革支持派は小池さんしかいなかったことから考えると、中谷さんの言うことが当を得ていると思う。
中谷さんが見過ごしたもの
1970年代初めにハーバード大学の博士課程に留学した中谷さんは、ノーベル賞受賞者揃いのハーバードの教授陣や、世界中から集まった同級生の優秀さに驚かされ、一気にアメリカかぶれになった。
その後1970年代後半に台頭した小さい政府、規制緩和を掲げるレーガンノミックスを支える市場原理肯定派に感化されたという。しかし、ここで中谷さんは2つのことを見逃していたと反省する。
一つはアメリカ流経済学を日本に適用しても日本人が幸せになれる保証はどこにもないこと。
もう一つは当時の豊かなアメリカ社会を支えていたのは、レーガンノミックスによる自由な市場活動ではなく、政府の役割を重視していたサミュエルソンなどの「新古典派総合」経済政策だったことだ。
レーガン政権で潤ったのは富裕層
レーガンが登場し、小さな政府、大胆な減税により、最も潤ったのは富裕層だ。2005年では上位1%の富裕層が17%の所得を得ており、上位0.1%の最富裕層がなんと全体の7%の所得を得ている。
これはクルーグマンが「格差はつくられた」で指摘しているところだ。
格差はつくられた―保守派がアメリカを支配し続けるための呆れた戦略著者:ポール クルーグマン
販売元:早川書房
発売日:2008-06
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資本主義や民主主義は元来非情なもの
マーケットメカニズムを説く近代経済学も、自由を重んじる民主主義も、貴族階級から権限を奪うためのエリート支配のツールだったという一面もある。
アダム・スミスの「見えざる手」による資源の適正配分と自由主義市場の自律機能は、王侯・貴族から権限を奪い、ブルジョワジーに力を与える理論だったのだ。
国富論 国の豊かさの本質と原因についての研究(上)著者:アダム・スミス
販売元:日本経済新聞社出版局
発売日:2007-03-24
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中谷さんはアダム・スミスの「見えざる手」を繰り返し強調しているが、「国富論」の中に「見えざる手」が出てくるのは2個所のみというのは有名な話だ。
だからといって「国富論」の価値が下がる訳ではないが、元々「国富論」は当時のイギリス経済の状況について書いた本なのだ。筆者も昨年「国富論」(約1,000ページ)を読み直して、これを確認した。いずれ「国富論」のあらすじも紹介する。
日本の産業空洞化は必然
モノを安く供給しようと思えば、生産は必然的に中国・ベトナムなどの低賃金国に移る。中谷さんが「生産と消費の分離」と呼ぶ、日本の産業空洞化が生じたのだ。
ロバート・ライシュはこのブログでも紹介した「暴走する資本主義」の中で、先進国では消費者と資本家はグローバル資本主義の恩恵を受けたが、労働者と市民は被害を受けたと説いている。
暴走する資本主義著者:ロバート ライシュ
販売元:東洋経済新報社
発売日:2008-06-13
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「資本主義とは個人を孤立化させ、社会を分断させる悪魔の挽き臼」であるというのは、ハンガリーの経済学者カール・ポランニーが第2次政界大戦中に書いた「大転換」という本の中の言葉である。
「国民総幸福量」という考え方
中谷さんは世界でも低所得国のブータンとキューバを取り上げ、貧困でも心がすさまない、明るく他人に親切な社会について語っている。
キューバは、その高い医療水準で医療立国を目指している。これを取り上げたのがマイケル・ムーア監督の「シッコ」だ。
アメリカで医療を受けられない人々をキューバに連れて行ったら、キューバでは無料で高度な医療が受けられたという。
ブータンでは王室が選挙制度を導入し、民主主義に移行したが、国民の90%は民主化に反対したと。この国では30年以上の前に「国民総幸福量」という概念を発表している。
ブータンの産業は水力発電くらいしか思いつかないが、鶴が電線で感電死するかもしれないという理由で、村を電化することを住民が止めたというエピソードまである。まさに「ボロは着てても心は錦」の国なのだ。
世界幸福感指数
イギリスのレイチェスター大学が発表した世界の幸福感指数では、ブータンは福祉の行き届いた北欧諸国と並んで、世界第8位で、日本は90位だという。それは次のようなランキングだ。
The 20 happiest nations in the World are:
1. Denmark
2. Switzerland
3. Austria
4. Iceland
5. The Bahamas
6. Finland
7. Sweden
8. Bhutan
9. Brunei
10. Canada
11. Ireland
12. Luxembourg
13. Costa Rica
14. Malta
15. The Netherlands
16. Antigua and Barbuda
17. Malaysia
18. New Zealand
19. Norway
20. The Seychelles
Other notable results include:
23. USA
35. Germany
41. UK
62. France
82. China
90. Japan
125. India
167. Russia
The three least happy countries were:
176. Democratic Republic of the Congo
177. Zimbabwe
178. Burundi
アメリカは「宗教国家」
中谷さんは、アメリカは「マニフェストデスティニー」を背負った「宗教国家」なのだと語る。だから神から受けた使命を達成するために原住民のインディアンを殺したり、ペリーを派遣して未開国日本を開放させたり、戦争で日本に勝ったが、ベトナムで敗北し、ブッシュ政権はイラクで壁にぶちあたった。
これを修復するのがオバマ大統領だ。オバマは(1)大不況からの修復、(2)中産階級の修復、(3)モラル・リーダーシップの修復をすることが期待される。
中谷さんの日本人論
この本の中で中谷さんは日本人論に多くのページをさいている。いくつかサブタイトルをひろうと。
・なぜ日本人は自然と共生できたのか
・なぜ、西行や芭蕉は聖人と慕われたか
・神道と仏教を融合した日本人
・弥生人は縄文人を征服しなかった
・国譲りによって統一された日本の独自性
・自然に神聖さを感じる日本人、自然を征服の対象と考える欧米人
・日本文化の中にこそ環境問題への解決の鍵がある
・戦後日本を経済大国にした談合・系列の秘密
・信頼こそが社会資本である
・稀に見る均質性こそ日本近代化の鍵だった
・今や貧困大国となった日本
・雇用改革が破壊した日本社会の安心・安全
中谷さんの結論
結論としては、江戸時代以来の伝統である安心・安全という価値観を、環境対策や省エネといった分野で、世界に広めようというものだ。そして安心面で日本が学ぶべきモデルケースとして高福祉国デンマークを挙げている。
デンマークではいつでも余剰人員を解雇できる。解雇されても、高い失業保険がもらえ、さらに職業訓練学校に通いスキルアップのチャンスとなるので、解雇されることをマイナスと思わないという。デンマークでは同一労働同一賃金が徹底しているので、同じ所に長く働いても賃金が上がるわけではないのだ。
デンマークでは社会に支えられているという実感があり、たとえば子育ての親の苦労を地域社会全体が負担しようと公共の養育施設が充実している。
これからはグローバルスタンダードでなく、相互に認め合う相互承認の時代であると結んでいる。この本はグローバルスタンダード論から日本の構造改革を支持してきた中谷さんの方針転換、反省の書である。
筆者もGDP世界第二の経済大国の座を失っても、日本は世界のリーダーとして存在意義を十分示せると思う。この本の中谷さんの提言に賛成だ。
中谷さんほどの著名な学者がここまで謙虚に「懺悔の書」を書くとは驚きだ。日米文化論は中谷さんの放談という感があるが、全体を通して中谷さんのまじめな性格が伺える。
本屋で平積みになっていると思うので、是非一度手に取ってみて欲しい本である。
参考になれば投票ボタンをクリックしてください。
2009年10月22日
「古代カルタゴとローマ展」に行ってきました チュニジア大使の「うな重方式」英語勉強法
2009年10月22日追記:
多賀さんの本にたびたび登場する会社の先輩(TOEIC970点!)と同僚で大丸で開かれている「古代カルタゴとローマ展」に行ってきた。
次は会場で配られていたチュニジア政府の観光案内だ。

チュニジアの各都市の位置を示したのが次の資料だ。

出典されていたのは、テラコッタの様々な像や瓶など、ギリシャ風の大理石の彫像、ガラス細工の置物や首飾り、指輪やコインなどの金属加工品、墓を飾った石柱装飾や彫刻された石棺、そしてモザイク画などだ。
「古代カルタゴとローマ展」のサイトの写真をいくつか紹介しておく。
これが筆者が感心した金属加工による装飾よろいだ。ミネルヴァの女神像が彫られている。

紀元前3世紀というと日本では弥生時代にこれだけの精密な金属加工製品ができていたことに驚かされた。
極彩色のガラス細工の置物もきれいだった。そしてカルタゴ展を代表するモザイク画も見事だった。
バラのつぼみを撒く女性のモザイク像:

モザイクのメデューサ像。

これが石棺のふたの彫刻だ。下半身が羽となった女神が右手で鳩を持っている。

筆者が1980年代はじめにエジプトに出張した時に、先方の接待でエジプト料理のレストランに行き、鳩料理を食べたことを思い出す。なぜか「オム・デ・アリ(アリのお母さん)」というフルーツタルトのようなホットデザートを食べたことが記憶に残っている。
カルタゴの港は海の入口の商港とその奥にある軍港にわかれていたが、軍港にあった巨大な木製の人口島のモデルには驚かされた。
軍船200隻以上を収納可能だったそうで、中央は司令室、ドック自体は乾ドックとなっており、軍船を収納して修理したもので、当時の再現CGが流れていて大変興味深かった。
次のカルタゴの想像図で、丸い出島のようなものが描かれているが、これが軍港の乾ドックだ。

カルタゴは今のシリアあたりに居たフェニキア人の植民地で、ローマと戦ったポエニ戦争でのハンニバル将軍の象を使ってのアルプス越えが有名だ。
カルタゴの最大領土(出典:Wikipedia)

しかし第3次ポエニ戦争でローマ軍に破れ、住民はほとんど殺戮されたり奴隷にされて、不毛の地にするために土には塩がまかれ、カルタゴは徹底的に破壊されたという。もちろんこの軍港の巨大な木製人工島も破壊されたのだろう。
筆者はエジプトには出張したことがあるが、チュニジアには行ったことがない。ましてやカルタゴが現在のチュニジアにあることも知らなかった。アフリカにあるが、住民は見たところアラブ系の浅黒い人というよりは、白人が多いようだ。
この本の著者の多賀敏行さんがチュニジア大使で赴任されたので、おかげで知識が広がった。是非機会があれば「古代カルタゴとローマ展」も見て欲しい。
2009年10月18日追記:
「外交官のうな重方式英語勉強法」の著者多賀敏行さんは、今年7月に辞令を受けて、在チュニジア全権大使としてチュニジアに赴任されている。
そのチュニジアにちなんだ「古代カルタゴとローマ展」が全国各地で順繰りに開催されている。
現在は東京駅の大丸百貨店で10月25日まで開催されている。

来週にでも一度行ってみようと思う。
それにしても今回カルタゴの英語読みのスペリングを初めて知った。"Carthage"(カーセージ)がカルタゴとは!
チュニジアはアラビア語国だが、フランス語も普及しており、多賀さんも昔独学で覚えたフランス語が役に立っているそうだ。
「芸」は身を助けると言うが、いろいろな国の言葉ができることも立派な「芸」だと思う。
その意味も含めて多賀さんの最新作「外交官のうな重方式英語勉強法」のあらすじを再掲する。
2009年3月11日初掲:
外交官の「うな重方式」英語勉強法 (文春新書)
著者:多賀 敏行
販売元:文藝春秋
発売日:2008-11
おすすめ度:
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この本の最後のクレジットに挙げられている先輩に勧められて読んでみた。著者の多賀敏行さんはジュネーブ日本政府代表部公使や、バンクーバー総領事などを歴任した外交官で、現在は東京都知事本局の儀典長だ。
まず不思議なネーミングに興味がわく。
多賀さんが「うな重方式」と呼ぶのは、うな重は、ご飯、たれ、ウナギ蒲焼きが混ざって初めておいしいのであって、別々に食べても良さがわからない。
英単語もこれと同様に、名詞の前後の動詞なり、主語なりを一緒に覚えることで、記憶にとどめようというものだ。
たとえば日本の戦争責任について、カナダの新聞に"Japan's amnesia"というタイトルの記事が掲載されたことがあったが、"amnesia"とは健忘症のことで、日本の首相が靖国神社に参拝することに中国などが日本は戦争責任を忘れていると怒っているという内容の記事だ。
同じ記事に"The Japanese are contorting the truth"という文が出てくる。"contort"というのは難しい単語だが、"contort the truth"(事実を歪曲する)だと覚えやすい。
このような言い回しで英単語を覚えることを「うな重方式」と 多賀さんは呼んでいる。
筆者も今でこそTOEIC945点だが、会社に入ってアルゼンチンに研修生として赴任する時、パンナムのアメリカ人スチュワーデスに"milk"を頼んだら、何度言っても通じず、"milk","milk"と連呼していたら、結局ビールを持ってこられたときには落ち込んだ。
当時筆者は"L"と"R"の発音の区別ができなかったし、朝食時でもないのに、大の大人が牛乳を頼むというのも、スチュワーデスからすれば、ありえないことだったのかもしれない。
このことが教訓となり、それからはミルクを頼む時は、"(a glass of)fresh milk"と頼む様になり、特に"a glass of"を付け加えるようにすればカンペキになった。
これも多賀さんの言う「うな重式」の例になるのかもしれない。
TOEIC945点までになったのも、このパンナムの"milk"の件で発憤したことも大きいと思う。
ところで、アルゼンチンにいる間に"L"と"R"の発音ができるようになったので、その後の英語の進歩につながった。
アルゼンチンで"L"と"R"が区別できるようになったのは、ワインのおかげだ。
スペイン語で白ワインは”ビノ・ブランコ”だが、はじめはvino brancoという風に発音していた。ある時vino blancoと言えたら、同じ下宿のアルゼンチン人の友達が"L"が言えたじゃないかと祝福してくれた。
余談ながらポルトガル語では白ワインはvinho brancoだ。どういうわけかヨーロッパもポルトガルまで行くと他の国と"L"と"R"が逆転する。
200語を覚えると10,000語理解できる!?
多賀さんは昔の英語勉強法のベストセラー作家岩田一男さんの本を紹介し、100の接頭語(a, in, ex, re, conなど)と100の語幹(たとえばspire)を覚えると、マトリクスで10,000語の意味がわかる50倍の投資効率だと紹介している。
英単語記憶術―語源による必須6000語の征服 (カッパ・ブックス)
著者:岩田 一男
販売元:光文社
発売日:1967-03
おすすめ度:
クチコミを見る
筆者も岩田一男さんのカッパブックスの本を学生時代に読んだことがある。英語を語源で覚える英語勉強法の本はいくつもあるが、たぶん岩田一男さんの本が元祖ではないかと思う。
ちなみに接頭語の"a"や"con"は元々ラテン語起源で、"a"は英語の"to"だし、"con"は"with"である。
●冠詞が分かれば英語は分かる
そこそこ英語が出来る人には、冠詞の重要さ、冠詞の使い方の難しさは共通認識になっていると思う。
冠詞が正確に使えると、ネイティブと区別がつかない英文を書ける。
この本では多賀さんはいくつか例を紹介している。たとえば:
・Do you have time?(時間がある?)
・Do you have the time?(今、何時?)
・What is time?(時間とはなんであろうか?ー哲学的疑問)
・What is the time?(今、何時?)
・within a month(1ヶ月のうちに)
・within the month(その月のうちに)
・I ate a chicken in the backyard.(庭で一羽のにわとりを締めて食べた)
・I ate chicken in the backyard.(庭でチキンを食べた)
参考として次の2冊を紹介している。
国際ジャーナリストの英語術 (朝日新書)
著者:村上 吉男
販売元:朝日新聞出版
発売日:2008-05-13
おすすめ度:
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村上吉男さんはよく米国のメディアにも登場した英語の使い手だという。また日本人の英語についてのマーク・ピーターセン氏の本も、冠詞の使い方について参考になるという。
日本人の英語 (岩波新書)
著者:マーク ピーターセン
販売元:岩波書店
発売日:1988-04
おすすめ度:
クチコミを見る
マーク・ピーターセンは、最初に冠詞が決まり次に名詞を選ぶのだという。発想が全く日本人とは逆である。
多賀さんは、筆者も高校生の時に使ったなつかしい「山貞」(山崎貞)の参考書、「新々英文解釈研究」(初版はなんと1915年)を今でも使える英文法の解説書として、"what"の関係形容詞的用法などを紹介している。
新々英文解釈研究復刻版
著者:山崎 貞
販売元:研究社
発売日:2008-12-11
おすすめ度:
クチコミを見る
"what money I have"は"all the money I have"の意味だ。
●"can"と"be able to"の違い、"will"と"be going to"の違い
この本では"can"と"be able to"の違い、"will"と"be going to"の違いなどが、多賀さんの経験を通じて説明されているので、わかりやすい。
"can"と"be able to"は、多賀さんがケンブリッジに留学していた時、判例が見つかったときに、教授に"I could find the case"と言ったら、理解されなかった例を紹介している。
"could"は、「いつでも望めばできた」という意味で、「ある時あることができた」と言うなら、"be able to"か"manage to"を使うのだと。
"will"と"be going to"の違いは次の通りだ。
・I will take you to the observatory floor."(展望階につれて行ってあげましょうー意志決定)
・I am going to take you to the observatory floor."(これから展望階につれて行ってあげますー元々の計画をこれから実行)
●同じように見えて意味が違うケース
この本には同じように見えて、様々な意味の違いがあるケースを紹介している。答えは続きを読むに記載した。
・「古池やかわず飛び込む水の音」は"A frog has jumped into the water."か、"A frog jumped into the water"か?
・"I have painted the chair"と"I painted the chair"の違い
・"My grandfather has done a lot for me"と"My grand father did a lot for me"の違い
●チャーチルの名言
バトルオブブリテンの時のチャーチルの英国議会での有名な発言が倒置法の例として紹介されている。
"Never in the field of human conflict was so much owed by so many to so few."
(人類の戦争において、こんなにも多くの人々が、こんな少ない人達によって、これほどまでに助けられたことはなかった=訳は筆者バージョン)
横道にそれるが、筆者はオーディオブックで、チャーチルのノーベル賞受賞作"The Second World War"第2次世界大戦を聞いている。
Audibleでダウンロードしたものだが、元々6巻をチャーチル自身が4巻にまとめたものを、声優が全文朗読している。
1巻が10時間から14時間で、4巻全部で50時間程度の大変なボリュームだが、第2次世界大戦のあちこちの戦場での出来事が詳しく語られている。

バトルオブブリテンは第12章、オーディオブックで30分ほどが割り当てられている。
撃墜機数も戦果発表当時とは違い、実は半分程度だったとか、レーダーもまだよちよち歩きの段階だったという風に、第2次世界大戦の帰趨を決めた重要な戦いながら、控えめな表現なのが印象的だ。
ずいぶん前から聞いているが、やっと1944年10月のレイテ沖海戦まで来たところだ。
元外交官の関榮次さんの「チャーチルが愛した日本」を読んだことでもあり、時間を掛けて興味深く聞いている。
チャーチルが愛した日本 (PHP新書)
著者:関 榮次
販売元:PHP研究所
発売日:2008-03-15
おすすめ度:
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ちなみにアメリカを訪問した時に、チャーチルは自分のことを"Half American"と言っており、アメリカ人である母のジェニーの影響を強く受けていることをみずから語っている。
ややセンスが古いところもあるのでアマゾンのレーティングは低いが、軽妙な語り口で1時間程度で読める。
「うな重方式」という奇抜なネーミングに難があるような気がするが(混ぜて食べて味わうならカレーライスでも天丼でも何でも良いはず)、かなり英語が出来る人でも参考になる点が多いので、一度手に持ってページをめくってみることをおすすめする。
参考になれば投票ボタンをクリックしてください。
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多賀さんの本にたびたび登場する会社の先輩(TOEIC970点!)と同僚で大丸で開かれている「古代カルタゴとローマ展」に行ってきた。
次は会場で配られていたチュニジア政府の観光案内だ。
チュニジアの各都市の位置を示したのが次の資料だ。
出典されていたのは、テラコッタの様々な像や瓶など、ギリシャ風の大理石の彫像、ガラス細工の置物や首飾り、指輪やコインなどの金属加工品、墓を飾った石柱装飾や彫刻された石棺、そしてモザイク画などだ。
「古代カルタゴとローマ展」のサイトの写真をいくつか紹介しておく。
これが筆者が感心した金属加工による装飾よろいだ。ミネルヴァの女神像が彫られている。

紀元前3世紀というと日本では弥生時代にこれだけの精密な金属加工製品ができていたことに驚かされた。
極彩色のガラス細工の置物もきれいだった。そしてカルタゴ展を代表するモザイク画も見事だった。
バラのつぼみを撒く女性のモザイク像:

モザイクのメデューサ像。

これが石棺のふたの彫刻だ。下半身が羽となった女神が右手で鳩を持っている。

筆者が1980年代はじめにエジプトに出張した時に、先方の接待でエジプト料理のレストランに行き、鳩料理を食べたことを思い出す。なぜか「オム・デ・アリ(アリのお母さん)」というフルーツタルトのようなホットデザートを食べたことが記憶に残っている。
カルタゴの港は海の入口の商港とその奥にある軍港にわかれていたが、軍港にあった巨大な木製の人口島のモデルには驚かされた。
軍船200隻以上を収納可能だったそうで、中央は司令室、ドック自体は乾ドックとなっており、軍船を収納して修理したもので、当時の再現CGが流れていて大変興味深かった。
次のカルタゴの想像図で、丸い出島のようなものが描かれているが、これが軍港の乾ドックだ。

カルタゴは今のシリアあたりに居たフェニキア人の植民地で、ローマと戦ったポエニ戦争でのハンニバル将軍の象を使ってのアルプス越えが有名だ。
カルタゴの最大領土(出典:Wikipedia)

しかし第3次ポエニ戦争でローマ軍に破れ、住民はほとんど殺戮されたり奴隷にされて、不毛の地にするために土には塩がまかれ、カルタゴは徹底的に破壊されたという。もちろんこの軍港の巨大な木製人工島も破壊されたのだろう。
筆者はエジプトには出張したことがあるが、チュニジアには行ったことがない。ましてやカルタゴが現在のチュニジアにあることも知らなかった。アフリカにあるが、住民は見たところアラブ系の浅黒い人というよりは、白人が多いようだ。
この本の著者の多賀敏行さんがチュニジア大使で赴任されたので、おかげで知識が広がった。是非機会があれば「古代カルタゴとローマ展」も見て欲しい。
2009年10月18日追記:
「外交官のうな重方式英語勉強法」の著者多賀敏行さんは、今年7月に辞令を受けて、在チュニジア全権大使としてチュニジアに赴任されている。
そのチュニジアにちなんだ「古代カルタゴとローマ展」が全国各地で順繰りに開催されている。
現在は東京駅の大丸百貨店で10月25日まで開催されている。
来週にでも一度行ってみようと思う。
それにしても今回カルタゴの英語読みのスペリングを初めて知った。"Carthage"(カーセージ)がカルタゴとは!
チュニジアはアラビア語国だが、フランス語も普及しており、多賀さんも昔独学で覚えたフランス語が役に立っているそうだ。
「芸」は身を助けると言うが、いろいろな国の言葉ができることも立派な「芸」だと思う。
その意味も含めて多賀さんの最新作「外交官のうな重方式英語勉強法」のあらすじを再掲する。
2009年3月11日初掲:
外交官の「うな重方式」英語勉強法 (文春新書)著者:多賀 敏行
販売元:文藝春秋
発売日:2008-11
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この本の最後のクレジットに挙げられている先輩に勧められて読んでみた。著者の多賀敏行さんはジュネーブ日本政府代表部公使や、バンクーバー総領事などを歴任した外交官で、現在は東京都知事本局の儀典長だ。
まず不思議なネーミングに興味がわく。
多賀さんが「うな重方式」と呼ぶのは、うな重は、ご飯、たれ、ウナギ蒲焼きが混ざって初めておいしいのであって、別々に食べても良さがわからない。
英単語もこれと同様に、名詞の前後の動詞なり、主語なりを一緒に覚えることで、記憶にとどめようというものだ。
たとえば日本の戦争責任について、カナダの新聞に"Japan's amnesia"というタイトルの記事が掲載されたことがあったが、"amnesia"とは健忘症のことで、日本の首相が靖国神社に参拝することに中国などが日本は戦争責任を忘れていると怒っているという内容の記事だ。
同じ記事に"The Japanese are contorting the truth"という文が出てくる。"contort"というのは難しい単語だが、"contort the truth"(事実を歪曲する)だと覚えやすい。
このような言い回しで英単語を覚えることを「うな重方式」と 多賀さんは呼んでいる。
筆者も今でこそTOEIC945点だが、会社に入ってアルゼンチンに研修生として赴任する時、パンナムのアメリカ人スチュワーデスに"milk"を頼んだら、何度言っても通じず、"milk","milk"と連呼していたら、結局ビールを持ってこられたときには落ち込んだ。
当時筆者は"L"と"R"の発音の区別ができなかったし、朝食時でもないのに、大の大人が牛乳を頼むというのも、スチュワーデスからすれば、ありえないことだったのかもしれない。
このことが教訓となり、それからはミルクを頼む時は、"(a glass of)fresh milk"と頼む様になり、特に"a glass of"を付け加えるようにすればカンペキになった。
これも多賀さんの言う「うな重式」の例になるのかもしれない。
TOEIC945点までになったのも、このパンナムの"milk"の件で発憤したことも大きいと思う。
ところで、アルゼンチンにいる間に"L"と"R"の発音ができるようになったので、その後の英語の進歩につながった。
アルゼンチンで"L"と"R"が区別できるようになったのは、ワインのおかげだ。
スペイン語で白ワインは”ビノ・ブランコ”だが、はじめはvino brancoという風に発音していた。ある時vino blancoと言えたら、同じ下宿のアルゼンチン人の友達が"L"が言えたじゃないかと祝福してくれた。
余談ながらポルトガル語では白ワインはvinho brancoだ。どういうわけかヨーロッパもポルトガルまで行くと他の国と"L"と"R"が逆転する。
200語を覚えると10,000語理解できる!?
多賀さんは昔の英語勉強法のベストセラー作家岩田一男さんの本を紹介し、100の接頭語(a, in, ex, re, conなど)と100の語幹(たとえばspire)を覚えると、マトリクスで10,000語の意味がわかる50倍の投資効率だと紹介している。
英単語記憶術―語源による必須6000語の征服 (カッパ・ブックス)
著者:岩田 一男
販売元:光文社
発売日:1967-03
おすすめ度:
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筆者も岩田一男さんのカッパブックスの本を学生時代に読んだことがある。英語を語源で覚える英語勉強法の本はいくつもあるが、たぶん岩田一男さんの本が元祖ではないかと思う。
ちなみに接頭語の"a"や"con"は元々ラテン語起源で、"a"は英語の"to"だし、"con"は"with"である。
●冠詞が分かれば英語は分かる
そこそこ英語が出来る人には、冠詞の重要さ、冠詞の使い方の難しさは共通認識になっていると思う。
冠詞が正確に使えると、ネイティブと区別がつかない英文を書ける。
この本では多賀さんはいくつか例を紹介している。たとえば:
・Do you have time?(時間がある?)
・Do you have the time?(今、何時?)
・What is time?(時間とはなんであろうか?ー哲学的疑問)
・What is the time?(今、何時?)
・within a month(1ヶ月のうちに)
・within the month(その月のうちに)
・I ate a chicken in the backyard.(庭で一羽のにわとりを締めて食べた)
・I ate chicken in the backyard.(庭でチキンを食べた)
参考として次の2冊を紹介している。
国際ジャーナリストの英語術 (朝日新書)著者:村上 吉男
販売元:朝日新聞出版
発売日:2008-05-13
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村上吉男さんはよく米国のメディアにも登場した英語の使い手だという。また日本人の英語についてのマーク・ピーターセン氏の本も、冠詞の使い方について参考になるという。
日本人の英語 (岩波新書)著者:マーク ピーターセン
販売元:岩波書店
発売日:1988-04
おすすめ度:
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マーク・ピーターセンは、最初に冠詞が決まり次に名詞を選ぶのだという。発想が全く日本人とは逆である。
多賀さんは、筆者も高校生の時に使ったなつかしい「山貞」(山崎貞)の参考書、「新々英文解釈研究」(初版はなんと1915年)を今でも使える英文法の解説書として、"what"の関係形容詞的用法などを紹介している。
新々英文解釈研究復刻版著者:山崎 貞
販売元:研究社
発売日:2008-12-11
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"what money I have"は"all the money I have"の意味だ。
●"can"と"be able to"の違い、"will"と"be going to"の違い
この本では"can"と"be able to"の違い、"will"と"be going to"の違いなどが、多賀さんの経験を通じて説明されているので、わかりやすい。
"can"と"be able to"は、多賀さんがケンブリッジに留学していた時、判例が見つかったときに、教授に"I could find the case"と言ったら、理解されなかった例を紹介している。
"could"は、「いつでも望めばできた」という意味で、「ある時あることができた」と言うなら、"be able to"か"manage to"を使うのだと。
"will"と"be going to"の違いは次の通りだ。
・I will take you to the observatory floor."(展望階につれて行ってあげましょうー意志決定)
・I am going to take you to the observatory floor."(これから展望階につれて行ってあげますー元々の計画をこれから実行)
●同じように見えて意味が違うケース
この本には同じように見えて、様々な意味の違いがあるケースを紹介している。答えは続きを読むに記載した。
・「古池やかわず飛び込む水の音」は"A frog has jumped into the water."か、"A frog jumped into the water"か?
・"I have painted the chair"と"I painted the chair"の違い
・"My grandfather has done a lot for me"と"My grand father did a lot for me"の違い
●チャーチルの名言
バトルオブブリテンの時のチャーチルの英国議会での有名な発言が倒置法の例として紹介されている。
"Never in the field of human conflict was so much owed by so many to so few."
(人類の戦争において、こんなにも多くの人々が、こんな少ない人達によって、これほどまでに助けられたことはなかった=訳は筆者バージョン)
横道にそれるが、筆者はオーディオブックで、チャーチルのノーベル賞受賞作"The Second World War"第2次世界大戦を聞いている。
Audibleでダウンロードしたものだが、元々6巻をチャーチル自身が4巻にまとめたものを、声優が全文朗読している。
1巻が10時間から14時間で、4巻全部で50時間程度の大変なボリュームだが、第2次世界大戦のあちこちの戦場での出来事が詳しく語られている。
バトルオブブリテンは第12章、オーディオブックで30分ほどが割り当てられている。
撃墜機数も戦果発表当時とは違い、実は半分程度だったとか、レーダーもまだよちよち歩きの段階だったという風に、第2次世界大戦の帰趨を決めた重要な戦いながら、控えめな表現なのが印象的だ。
ずいぶん前から聞いているが、やっと1944年10月のレイテ沖海戦まで来たところだ。
元外交官の関榮次さんの「チャーチルが愛した日本」を読んだことでもあり、時間を掛けて興味深く聞いている。
チャーチルが愛した日本 (PHP新書)著者:関 榮次
販売元:PHP研究所
発売日:2008-03-15
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ちなみにアメリカを訪問した時に、チャーチルは自分のことを"Half American"と言っており、アメリカ人である母のジェニーの影響を強く受けていることをみずから語っている。
ややセンスが古いところもあるのでアマゾンのレーティングは低いが、軽妙な語り口で1時間程度で読める。
「うな重方式」という奇抜なネーミングに難があるような気がするが(混ぜて食べて味わうならカレーライスでも天丼でも何でも良いはず)、かなり英語が出来る人でも参考になる点が多いので、一度手に持ってページをめくってみることをおすすめする。
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2009年10月20日
星間商事社史編纂室 三浦しをんさんの最新作
星間商事株式会社社史編纂室著者:三浦 しをん
販売元:筑摩書房
発売日:2009-07-11
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三浦しをんさんの最新作、「星間商事株式会社社史編纂室」を読んでみた。
三浦しをんさんの作品は以前「まほろ駅前多田便利軒」を紹介したが、あれは直木賞受賞作だからというよりは、筆者の住んでいる町田市をモデルにした小説だったから読んでみた。
まほろ駅前多田便利軒 (文春文庫)著者:三浦 しをん
販売元:文藝春秋
発売日:2009-01-09
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筆者も商事会社に勤めているので、この本はタイトルに興味を惹かれて読んでみた。
筆者のポリシーとして小説は詳しいあらすじは紹介しないが、「まほろ駅前…」と同じく、この本も「事実は小説より奇なり」ではなく、「小説は事実より奇なり」という感じだ。
社史編纂室に左遷されたアラ30の女性主人公が、実は「さぶ」(今や廃刊となっているようで、古いかもしれないが、他にうまい言葉が見つからないので)系の同人誌を女友達2人と10年来作っているオタク(ただし本人はノーマル)という設定だ。
商社に勤める筆者の目からして、ストーリーはありえない展開だが、エンターテインメントとしては大変面白いので、それでよいと思う。
登場人物もありえない設定だし、奇想天外で面白い。
こういう小説を読むと、読書はエンターテインメントなんだと妙に感心してしまう。
大変面白いので、小説が好きな方には是非おすすめする。
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2009年10月17日
靖国への帰還 ミステリー作家内田康夫さんのファンタジー作品
靖国への帰還著者:内田 康夫
販売元:講談社
発売日:2007-12-15
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著者内田康夫さんは、「浅見光彦」ミステリーシリーズなどで、多くのミステリー作品を書いている売れっ子推理小説作家だ。
その内田康夫さん自身の、「これは、私の代表作になるかもしれない」とのコメントが本の帯に載っている。
本のタイトルと富士山をバックにした日本軍機月光の表紙に興味を惹かれて読んでみた。

小説のあらすじは詳しく紹介しないのが筆者のポリシーだが、この本を読んでスピルバーグの「未知との遭遇」のあの場面を思い出した。
「未知との遭遇」は「フォレストガンプ」と並んで、筆者の最も好きな映画だ。
次のYouTubeに載っているビデオの5分過ぎくらいから出てくる場面だ。
この本のストーリーには「未知との遭遇」と同じ様なファンタジー性を感じる。
靖国をテーマとした小説だが、内田康夫さんの靖国問題についての主張も色濃く反映されていて、考えさせられる作品だ。
筆者の叔父さん(母の弟)は海軍土浦航空隊の航空訓練生だったが、米軍機の防空壕直撃爆弾で昭和20年に多数の戦友と一緒に窒息死している。亡くなった母や祖父が元気だった頃は、毎夏土浦まで合同慰霊祭に出かけたものだ。
戦死した叔父さんは「海軍二等飛行兵曹」と彫った立派なお墓があるので、靖国神社に祀られているということを一度も考えたこともなかった。「ミッドウェーの奇跡」のあらすじで紹介した空母「加賀」で戦死した親戚もいるので、一度靖国神社を訪問して調べてみようと思う。
そんなことを考えさせられた作品だった。
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2009年10月15日
最近ハマっているビール キリンハートランド 瓶ビール
最近は、もっぱらキリンのハートランド瓶ビールを飲んでいる。

たまたま近くの酒屋で見つけて飲んでみたが、泡のきめの細かさにびっくりした。本当にクリームのような泡だ。
コーンスターチや米などアメリカのバドワイザータイプの原料を一切含まず、麦とホップだけを原料としているので、味も格別だ。

このビールは昔ながらのリターナブルボトルを使用しており、販売店に空瓶を持って行くと5円リファンドがある。
子どもの時、平日の朝、友達と夏の湘南海岸に行って、ビールや酒の空瓶拾いに出かけて、小学校のクラブだったかPTAだったかの活動資金の足しにしていたことを思い出す。
たしかビール瓶は一本5円か10円で酒屋が買い取ってくれたが、もっと大きい酒の一升瓶は買い取ってくれなかったような記憶がある。子供心に、ガラス原料をたくさん使ったでかい瓶の方を何故買い取ってくれないのか不思議に思っていたものだ。
麦とホップしか使わないドイツ伝統製法のビールとして、今まではエビスビールを飲んでいた。
缶ビールもあり、どこでも売っているエビスに比べると、売っている店が限られるし、店まで空瓶を持って行くのが面倒ではあるが、味と泡のクリーミーさではキリンハートランドに軍配が上がる。
「キリンもその気になれば出来るんじゃん」という感じのビールだ。
販売店が限られているので、デパートなどのリカーショップや酒の量販店でも売っていないかもしれないが、近所の酒屋で聞いてみるか、ネットで買って一度試してみることを是非おすすめする。

【送料無料】 キリンハートランドビール500ml瓶 20本入(P箱)
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たまたま近くの酒屋で見つけて飲んでみたが、泡のきめの細かさにびっくりした。本当にクリームのような泡だ。
コーンスターチや米などアメリカのバドワイザータイプの原料を一切含まず、麦とホップだけを原料としているので、味も格別だ。
このビールは昔ながらのリターナブルボトルを使用しており、販売店に空瓶を持って行くと5円リファンドがある。
子どもの時、平日の朝、友達と夏の湘南海岸に行って、ビールや酒の空瓶拾いに出かけて、小学校のクラブだったかPTAだったかの活動資金の足しにしていたことを思い出す。
たしかビール瓶は一本5円か10円で酒屋が買い取ってくれたが、もっと大きい酒の一升瓶は買い取ってくれなかったような記憶がある。子供心に、ガラス原料をたくさん使ったでかい瓶の方を何故買い取ってくれないのか不思議に思っていたものだ。
麦とホップしか使わないドイツ伝統製法のビールとして、今まではエビスビールを飲んでいた。
缶ビールもあり、どこでも売っているエビスに比べると、売っている店が限られるし、店まで空瓶を持って行くのが面倒ではあるが、味と泡のクリーミーさではキリンハートランドに軍配が上がる。
「キリンもその気になれば出来るんじゃん」という感じのビールだ。
販売店が限られているので、デパートなどのリカーショップや酒の量販店でも売っていないかもしれないが、近所の酒屋で聞いてみるか、ネットで買って一度試してみることを是非おすすめする。

【送料無料】 キリンハートランドビール500ml瓶 20本入(P箱)
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2009年10月14日
終の住処 磯崎 憲一郎さんの芥川賞受作
終の住処著者:磯崎 憲一郎
販売元:新潮社
発売日:2009-07-24
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三井物産現役商社マンの磯崎憲一郎さんの芥川賞受賞作品。磯崎さんは今まで勤務先は関係ないとして、公表していなかったそうだが、今回芥川賞受賞が決まって三井物産の人事総務部の部長代理ということがわかってしまったようだ。
家内が図書館から借りていたので、読んでみた。たぶん家内は出版されたらすぐに図書館に予約を入れたのだと思う。
寝る前に1時間弱で読み終えた。
筆者のポリシーとして小説のあらすじは細かく紹介しないが、30歳過ぎで愛し合うこともなく結婚した主人公の、平凡のような、それでいてありえない20年あまりの生活をつづった作品だ。
タイトルのように家がところどころ重要なモチーフとなっている。
出版社の宣伝文句では、「ガルシア=マルケスを思わせる感覚で、日常の細部に宿る不可思議をあくまでリアルに描きだす。」ということだそうだ。
筆者は主人公の立場で疑似体験できるタイプの小説が好きだが、この作品の場合には感情移入できなかった。(そういえばガルシア=マルケスの「百年の孤独」も感情移入できなかった)
百年の孤独著者:G. ガルシア=マルケス
販売元:新潮社
発売日:1999-08
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横道にそれるが、ガルシア・マルケスの短編集はアルゼンチンでスペイン語の個人教授を受けて勉強しているときの教材だった。「百年の孤独」は彼の最も有名な作品だが、筆者は短編集の方をおすすめする。
悪い時 他9篇著者:ガブリエル ガルシア=マルケス
販売元:新潮社
発売日:2007-06
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「終の住処」は強い印象がなかったが、それは読み手によるのだろう。ある意味、評論家や批評家など、くろうと好みの作品なのかもしれない。
15万部突破ということで、本屋の店頭に平積みになっていると思うので、一度手に取ってパラパラめくってみることをおすすめする。
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2009年10月11日
生物と無生物のあいだ 65万部突破のポスドク賛歌
生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)著者:福岡 伸一
販売元:講談社
発売日:2007-05-18
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2007年発刊の本ながら、いまだにアマゾンのベストセラー231位に入っている分子生物学者の福岡伸一青山学院大学教授の本。勝間和代さんの「まねる力」というムック本の対談に登場していたので読んでみた。
AERA MOOK 勝間和代「まねる力」著者:勝間 和代
販売元:朝日新聞出版
発売日:2009-06-30
おすすめ度:
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本の帯には各界のいろいろな人からの推薦文が紹介されている。
筆者は昔はブルーバックスなどを時々読んでいたが、最近は科学系の本は「日本は原爆爆弾をつくれるのか」以来読んでいなかったので、久しぶりに読んだ科学の本だ。
これを機にブログにも「自然科学」というカテゴリーを新設した。
福岡さんは新書大賞とサントリー学術賞をダブル受賞していることでも分かる通り、この本は科学の本というよりは、本の帯にある「極上の科学ミステリー」といった感じの本で、エンターテインメント性を追求し、非常に読みやすく、わかりやすい。
筆者がひさびさに読んでから買った本だ。
ウィルスには生命の律動がない
現在新型インフルエンザがはやっているが、この本は昔読んだ岩波文書と同じ「生物と無生物の間(あいだ)」という題だったので、てっきりウィルスについての本かと思った。
生物と無生物の間―ウイルスの話 (岩波新書 青版 245)著者:川喜田 愛郎
販売元:岩波書店
発売日:1956-07
クチコミを見る
ウィルスは代謝なし、呼吸なし、結晶化も可能で、限りなくミネラルに近い存在である。しかしウィルスは自己増殖する。この不可解なウィルスを生物とするか無生物とするかで長年、論争がある。
福岡さんはウィルスを生物であるとは定義しない。福岡さんは生物と無生物の間にどのような界面があるのかを、この本で定義したいと語る。それはいわば「生命の律動」であると。いかにも文学的な、わかりやすい表現だ。
この本の目次がふるっている
この本の目次がいかにもふるっている。とても科学書とは思えない目次だ。この本はアマゾンのなか見検索にも対応している
ので、是非目次を覗いてみて欲しい。
第1章 ヨークアベニュー、 66丁目、 ニューヨーク
第2章 アンサング・ヒーロー
第3章 フォー・レター・ワード
第4章 シャルガフのパズル
第5章 サーファー・ゲッツ・ノーベルプライズ
第6章 ダークサイド・オブ・DNA
第7章 チャンスは、準備された心に降り立つ
第8章 原子が秩序を生み出すとき
第9章 動的平衡(ダイナミック・イクイリブリアム)とは何か
第10章 タンパク質のかすかな口づけ
第11章 内部の内部は外部である
第12章 細胞膜のダイナミズム
第13章 膜にかたちを与えるもの
第14章 数・タイミング・ノックアウト
第15章 時間という名の解(ほど)けない折り紙
「細胞膜」と言う用語が出てくるので、生物学の本だということがわかるが、それを除くと、まるで小説のチャプターのような目次である。
研究者にスポットライト
文章のうまさとタイトルの奇抜さもさることながら、この本の特徴は研究者に注目して生化学反応の原理探求を描いていることだ。
普通、科学の本はどういった反応が起こったかを、しとうと読者にわかりやすく説明しようと反応の原因解説が中心だ。読者にわかりやすく解説しようとする著者の親切心の現れともいえる。
読者としては反応がなぜ起こったのかについての知識は得られるが、研究者の人現像や、実験の過程で研究者がどんな点に工夫したかについてはあまり説明されていないことが多い。
ところがこの本では研究結果もさることながら、研究者の方にスポットライトが当たっており、実験者の人物像や試行錯誤の過程が詳しく説明されているので、しろうとにも実験の難しさと、その実験が成功したときの達成感や意義がわかりやすい
最もよい例が第2章アンサング・ヒーローだ。
アンサング・ヒーローとは、人知れず偉大なことを成し遂げた人のことで、福岡さんは「縁の下の力持ち」と言っている。この場合はDNA=遺伝子だと世界で最初に気づいたオズワルド・エイブリーという科学者のことだ。
エイブリーは福岡さんも勤務したニューヨークマンハッタンの一番東寄りのヨークアベニューと66丁目の交差点付近にあるロックフェラー大学研究所に1913年から定年退官する1948年まで35年間勤務していた。
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ロックフェラー大学研究所にはかつて野口英世も在籍し、数々の研究成果を発表したが、その発表の大半は現在は誤りであったとされている。
ヨークアベニューと66丁目というのはマンハッタンのちょうどクイーンズボロブリッジあたりで、ユニバーサルスタジオのアトラクションでキングコングが攻撃するケーブルカーがあるあたりだ。
筆者はピッツバーグに合計9年間駐在したので、ニューヨーク出張の帰りにマンハッタンからレンタカーでラガーディア空港に向かう時は、ちょうどこのあたりからからFDRドライブに入ってトライボロブリッジを通って、空港まで行っていた。
そんな有名な研究所があったとは全く知らなかった。
エイブリーがDNA=遺伝子という発見をしたので、その成果を元に1953年にイギリスの若いジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックがDNAはらせん構造をしているという事実を発表し、後にノーベル賞を受賞した。
1953年に"Nature"に発表されたわずか1.5ページのワトソンとクリックの歴史的論文が、この本に紹介されている。

出典:本文107ページ 原文はNatureサイトで閲覧可
ワトソンもクリックも次の本を読んだことが、生命を研究するきっかけとなったと語っているので、一度読んでみようと思う。
生命とは何か―物理的にみた生細胞 (岩波文庫)著者:シュレーディンガー
販売元:岩波書店
発売日:2008-05-16
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ちなみにノーベル賞のサイトでは二重らせん構造のDNAを福岡さんがフォー・レター・ワードと表現するACGTでつくるゲームがあるので、一度見て欲しい。
ポスドク賛歌
この本ではこういった華やかな成果発表を支え、来る日も来る日も地道な実験を繰り返すポスドク(博士課程を卒業した研究者)やラボテクニシャン(補助研究者)の様々な試行錯誤にスポットライトを当てている。
福岡さん自身が米国のポスドク研究者だったので、ポスドクの役割である数々の下準備や、実験の工夫などがわかりやすく紹介されていて面白いストーリーとなっている。何人かの評者が「科学ミステリー」と呼ぶゆえんだ。
たとえば「内部の内部は外部だ」という題で、膵臓の細胞が消化酵素を分泌する動きが次の図で説明されている。非常にわかりやすい。
出典:本文200ページ
「サーファー・ゲッツ・ノーベルプライズ」も面白い。特定のDNAを増殖するPCR(ポリメラーゼ・チェイン・リアクション)マシンの発明をひらめいたサーファー科学者キャリー・マリスのことだ。
ポスドクのことを自虐も含めてラボ・スレイブと呼ぶそうだが、理系の学生にとって、この本は希望とやる気を与えてくれるだろう。
ポスドクは就職戦線では非常に厳しい状況にある。小宮山前東大総長の「東大のこと教えます」という本で、東大が就職部をつくったのは東大でも留学生やポスドクは就職が難しいからだと書いていたことを思い出す。
東大のこと、教えます―総長自ら語る!教育、経営、日本の未来…「課題解決一問一答」著者:小宮山 宏
販売元:プレジデント社
発売日:2007-03
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動的平衡
動的平衡とは、体の細胞を構成するタンパク質・アミノ酸が数日間ですべて新しいものに置き換わることであり、それゆえ生命は動的平衡にある流れであると定義できるという。
マーカーで染色されたアミノ酸入りのえさを食べた大人のネズミを解剖して器官を調べたら、アミノ酸は体内のあらゆる細胞に行き渡っていた。生物のあらゆる細胞は短期間にすべて新しいものに置き換わるのだ。
生命は機械ではない
この本の最も印象的な実験が、GP2という細胞膜をつくるタンパク質を持たないGP2ノックアウトマウスを使った実験だ。
まずはGP2遺伝子を欠損させたES細胞(なんの器官にもなるオールマイティ細胞)をつくり、マウスの胚に流し込むと、ES細胞は胚の一部となり、やがてGP2遺伝子ノックアウトマウスが誕生する。
福岡さんははやる思いでGP2ノックアウトマウスの組織を調べたら細胞膜に異常はなく全く正常だったという。
生命には時間がある
次は狂牛病を引き起こすプリオンタンパク質をノックアウトしたマウスだ。
プリオンタンパク質の異常は狂牛病を引き起こすので、プリオンタンパク質ノックアウトマウスは狂牛病になると予想されたが、実際には正常だった。
それではということで、今度は遺伝子の1/3を欠損したプリオンタンパク質をプリオンタンパク質ノックアウトマウスにもどしたら、マウスは狂牛病を発症した。
GP2を完全にノックアウトしたマウスはGP2がなくとも正常に生き、遺伝子を部分的に欠損したノックアウトマウスは異常を発症した。
福岡さんはこの現象について、「生命には時間がある。その内部には常に不可逆的な時間の流れがあり、その流れに沿って折りたたまれ、一度、折りたたんだら二度と解くことができないものとして生物はある。」と語る。
GP2ノックアウトマウスは動的平衡のなかで、GP2遺伝子の欠損を見事に埋め合わせたが、あとから遺伝子の欠陥をつくると、生命の動的平衡は失われるのだ。
生物と無生物の境界はまだ解明されていないが、この本を読んで生物と無生物の境界がミステリー仕立てで、なんとなく理解できたような気がする。
科学書を読むと、いつも感じた読後不満足感がない。大学生の息子にも勧めた。小説のように一気に読めるので、是非一読をおすすめする。
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2009年10月09日
図書館に行こう! その9 落語CDの在庫もスゴイ
百席(48)乳房榎アーティスト:三遊亭円生
販売元:ソニーレコード
発売日:1998-01-21
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先日勘三郎の納涼歌舞伎公演で見た「怪談乳房榎」の元ネタの落語を聞いた。
筆者の住んでいる町田市の図書館には落語CDをたくさん置いており、「落語」で検索すると330本のCDを置いている。
さらに「円生」で検索するとなんと105本のCDがある。
「ビートルズ」でヒットするのが67件で、そのうち多くのCDが同じ物を別の会社がだしたものなので、たぶん円生の105本というのは、町田図書館にあるアーティストとしては最も多い作品数なのではないか?
町田図書館の場合にはCDは予約できないので、出向いて棚や書庫にあるCDを借りることになるが、それでも105本もあると円生の落語を聞くだけで1年以上かかると思う。
ほとんどすべての図書館が落語CDを置いている。
中央区図書館は172本のCDとビデオテープ、DVD。
港区図書館は84本のCD,DVDだ。
町田図書館はCDの予約はできないが、中央区と港区図書館ではCDでもDVDでも予約ができるので便利だ。
筆者は今まで落語のCDをあまり聞いたことがなかったが、今回のCDでは、円生の円熟した技に驚かされた。さすがに日本落語界の第一人者を長年続けた円生だけある。
男女の声色も使いわけるし、いなか言葉や江戸っ子のしゃべりもその役になりきっている。
下男の正介がよっぱらうところなど、本当に酒を飲んでいるような音までたてて、まさになりきっている。
解説の円生の地声に戻ると江戸っ子の「ひ」と「し」の発音が混ざっているのは、ご愛敬なのだろう。
日本の古典芸能の落語は奥が深い。
今後はときどき落語のCDも借りてみようと思う。
是非最寄りの図書館で落語CDをチェックして欲しい。多くの落語CDを置いているはずだ。
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2009年10月03日
日本海軍の戦略発想 ”マベリック”海軍参謀の敗戦分析と反省記
+++今回のあらすじは長いです+++
日本海軍の戦略発想
著者:千早 正隆
販売元:プレジデント社
発売日:2008-12
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最後の海軍大学卒業生で、終戦の時に連合艦隊砲術参謀中佐だった千早正隆さんが昭和22年に書いた日本海軍の反省記の改訂版。プレジデント社で1982年に発売され、1995年に文庫本になっている。
読んだのは中公文庫版だが、2008年12月に、プレジデント社から再発売されている。たぶん日本海軍の戦略の失敗の現代的意味を問い直そうということだろう。
千早さんは戦後GHQの戦史室調査員となり、このブログでも紹介した「ミッドウェーの奇跡」などを書いたGHQ戦史室長ゴードン・プランゲ博士の調査に協力した。
この本は英訳されて、多くの英語の戦史研究に引用されている。
千早さんはいわば”マベリック”
映画トップガンを見た人は覚えているだろうか?トム・クルーズが演じる主人公のコードネームが”マベリック”だ。マベリックとは、異端者、へそまがりという意味で、千早さん自身も自らの性格をそう評している。
たとえば千早さんはアメリカ人の戦争観を知るためにシンガポールで押収した「風とともに去りぬ」を見たいと、海軍大学時代に言いだしたが、さすがにこれは認められなかったという。
次にクレマンソーを研究したいと言い出して、クレマンソー研究家の酒井陸軍中将を招いて講演をしてもらったら、酒井中将は大東亜戦争出直し論を2時間論じたという。
クレマンソーといえば、「皇族たちの真実」で終戦直後の総理大臣に就任した東久邇宮稔彦王が、フランス留学時代に親交のあった元首相のクレマンソーに警告されたという話を思い出す。
「アメリカが太平洋へ発展するためには、日本はじゃまなんだ。(中略)アメリカはまず外交で、日本を苦しめてゆくだろう。日本は外交がへただから、アメリカにギュウギュウいわされるのにちがいない。その上、日本人は短気だから、きっとけんかを買うだろう。
つまり、日本の方から戦争をしかけるように外交を持ってゆく。そこで日本が短気を起こして戦争に訴えたら、日本は必ず負ける。アメリカの兵隊は強い。軍需品の生産は日本と比較にならないほど大きいのだから、戦争をしたら日本が負けるのは当たり前だ。それだからどんなことがあっても、日本はがまんをして戦争してはならない」
まさにクレマンソーの警告した通りの展開になったわけだ。
海軍大学卒業に際して放校になりかける
海軍大学卒業に際して、教授連に対して、ほとんど造反ともいえるマベリックぶりを見せた。
千早さんたち学生に意見を求められたので、千早さんは海軍大学の教育方針を独善的で各科バラバラであると評した。
科学的に戦争そのものを分析して、日米戦の対策はどうあるべきかという大命題の下に、あらゆる科目を統合して研究すべきで、艦隊の運動の研究などはその一部にすぎないと書いた。
「現在の戦況の苦境もつまるところ、研究に不真面目であったためである。深く戒む(いましむ)るところがなければならない」と要約したら、翌日学生全員が集められ、主任教官より名前を挙げて譴責されたという。
処分の話も出たが、同期生全員がかばってくれたのと、校長が代わったので処分なしで終わったという。
参謀としてもマベリック
参謀としても並み居る海軍大学出身参謀たちと対立して、ビアク島防衛の重要性を強調し、「ビアク気違い」と呼ばれたりしたという。
ちなみにビアク島には1万人の兵力が駐留し、米軍の攻撃までに十分陣地を構築する時間がなかったにもかかわらず、善戦して米軍を手こずらせたのでマッカーサーは激怒し、指揮官を子分のバターンボーイズの一人のアイケルバーガー中将に代えている。
マッカーサーが厚木飛行場に乗り込んできた時に、ぴったり寄り添っているのがアイケルバーガー中将だ。

出典:以下特記ないかぎりWikipedia
千早さんの経歴
千早さんは昭和2年の海兵第58期生。昭和5年に海兵を卒業後、すぐに艦隊勤務となり、駆逐艦、巡洋艦などの現場を経験し、砲術学校での学習を経て巡洋艦・戦艦の対空砲の分隊長となった。
千早さんの書いた艦隊防空のレポートは、海軍省の昭和16年の最優秀作品に選ばれたという。
千早さんは戦艦大和の艤装作業に立ち会い、大和は1トン爆弾の直撃にも堪えるように全体を装甲200ミリの鉄板で覆っているのに、巡洋艦から転用した副砲塔の装甲は30ミリしかないことを指摘したという。
戦争が始まると戦艦比叡に乗艦し、昭和17年11月の第3次ソロモン海戦で比叡が夜間探照灯砲撃で集中攻撃を受けた際に千早さんも両手の親指を負傷するが、奇跡的に指はつながり、内地で病院生活を送った。
比叡は切手にもなったので、筆者も亡くなった叔父に貰って、この満州国建国記念の切手を今でも持っている。

昭和18年7月から海軍大学校に学び翌19年3月に普通2年のところを8ヶ月で繰り上げ卒業し、艦隊参謀、連合艦隊作戦参謀として勤務し終戦を迎える。
千早さんがこの本を書いた理由
千早さんがこの本を書いた理由は、戦後多くの日本人、アメリカ人に次のような質問をされ続け、千早さん自身もその理由を解き明かしたかったからだと。
1.日本で米国のことを一番知っていたのは、日本海軍ではなかったか、その海軍がなぜ米国と戦争することになったのか。
2.アメリカンフットボールで同じ手を使って連敗するのは下の下といわれるが、日本海軍はなぜ同じ手を繰り返してその都度叩きのめされたのか。
米軍の攻撃で最も驚いた点
千早さんが連合艦隊参謀として勤務していて、米軍の攻撃で最も驚いたのは次の点であると。
1.B29による本土爆撃。超航空を飛ぶB29には対空砲も届かず、迎撃戦闘機も有効でなかった。

2.B29による瀬戸内海への機雷敷設。これは「飢餓作戦」と呼ばれたものだ。使用された機雷は日本海軍が見たこともなかった磁気式、水圧式に度数式を組み合わせた新型のもので、特に低周波音響機雷には有効な掃海手段はなかったので、瀬戸内海はほとんど通行不可能となった。
まさに日本の首を真綿で絞めたのと同じ結果となった。
3.原子爆弾。連合艦隊作戦参謀だった千早さんでも原子爆弾の概念すら持っていなかった。慚愧(ざんき)に堪えないという。
この本の目次
目次を読めば大体この本の内容がわかると思うので、紹介しておく。
第1部 日本海軍の対米戦争に関する判断
1. 日本海軍の仮想的は米国海軍
2. 日米戦争に関する研究
3. 戦術面のみに目が奪われた
4. 不備だらけの日本海軍の戦務(戦務とは旧海軍用語で、索敵、偵察、海上輸送護衛、補給などの戦争するための諸準備のこと)
5. 大局を忘れた日本海軍の戦備
6. 陸海軍協同の不完全
7. 戦争についての各種判断の誤り
第2部 戦争はかく実証した
1. ハワイ海戦の戦訓
2. 日本海軍の小手先芸
3. 小手先芸の限界
4. あと1ヶ月あったなら(ガダルカナルも敵に簡単に奪われることもなかったろう)
5. 馬鹿の一つ覚え
6. 偵察、索敵の軽視
7. 追撃戦の宿命
追撃戦で最後まで徹底的にやった戦例が乏しいのは、徹底性を欠く国民性にあると千早さんはいう。
8. 慢心と増長の悲劇
ミッドウェー海戦が典型例である。作戦の根本思想、敵空母出現の可能性の未検討、索敵の不備など、暗号が解読されている以外にも慢心と増長は多い。
9. 美辞麗句が多くなった作戦命令
10. 用法を誤った潜水艦戦と時代遅れの対潜作戦
日本の船腹量は約1千万トンだったが、戦争で喪失した船腹量は800万トン、このうち潜水艦の攻撃によるものが全体の57%、航空機が31%、触雷が7%、敵の砲撃はわずか2万トンにすぎない。
B29と潜水艦の前に日本の戦力は崩壊したといえる。
11. 補給戦に敗れた
ニューギニア戦線では14万人が補給もなく投入され、実に13万人が死亡したが、戦死はわずか3%で、残りは餓死、戦病死だった。
12. 誤った作戦で犠牲になった設営隊
昭和19年、暗号が解読されていると千早さんは疑い、わざわざ「長官の名前の画数を足した日」というような指令をだしたが、島の防衛隊からの返信に「では○○日のことか?」と打ち返してきて頭を抱えてしまったという。結局敵に待ち伏せされたという。
13. 軽視した情報、防諜のとがめ
14. 甘かった人事管理
第3部 総まとめ
1. 後手、後手となった作戦計画
2. 完敗に終わった「あ」号作戦と「捷」号作戦
3. 水上部隊の悲惨な最期 戦艦大和が片道の燃料で向かったという話は実は誤りで、実際には簿外の在庫を呉の機関参謀がかきあつめ、往復に必要な燃料を積んで死出のはなむけとしたのだと。これでほとんどの艦船を沈められて、燃料もなく日本海軍は静かに死を待った。
4. マクロ的な考え方と総合性の欠如
5. 物量の差だけではなかった
6. 教育に根本の問題があった
いくつか参考になった点を紹介しておく。
日本海軍の仮想的は明治以来米国海軍
明治40年、日露戦争の2年後に決定された「帝国国防方針」では日本の仮想敵は陸軍はソ連、海軍は米国とされた。
米国は日本海軍が兵力を増強するための目標敵であったが、実際に昭和12年南京攻略時に日本の爆撃機が間違って米国の砲艦バネー号を撃沈した時には、米国に陳謝するとともに多額の賠償金を支払った。あくまで仮想敵であって、本当に米国と戦線を開くことなど考えてもいなかったのだ。
ところが三国同盟に猛反対していた米内海軍大臣が昭和15年に及川海軍大臣に交代すると、海軍は簡単に三国同盟に賛同し、一挙に対米戦が現実味を帯びてくる。
昭和14年9月の第2次世界大戦勃発以降、対米関係は悪化の一途をたどった。ナチスの傀儡のヴィシー政権の承認を強引に得た昭和16年7月の南仏印進駐が引き金となって、米国が在米資産凍結、石油全面禁輸を発表し、海軍は対米戦の準備を開始した。
いわゆる月月火水木金金の猛訓練だが、この時も大口径砲の戦艦で敵を迎え撃つ艦隊決戦が戦略の中心で、潜水艦の船団攻撃や船団の対潜護衛の演習は皆無だったという。
太平洋戦争開戦時の連合艦隊の戦力
太平洋戦争が始まった時の連合艦隊の戦力は次の通りだ。これは戦艦と潜水艦こそ米国の6割を切っていたが、航空母艦と重巡洋艦では米国と肩を並べる兵力で、これにくわえて大和、武蔵の巨大戦艦2隻が加わった。
戦艦 10隻
航空母艦 9隻
重巡洋艦 18隻
軽巡洋艦 18隻
駆逐艦 90隻
潜水艦 55隻
潜水母艦 3隻
水上機母艦 2隻
合計 133万トン(基準排水量)
対米戦のために長年兵力を整備した結果だった。日本海軍は米軍に比肩しうる戦力を持っていたことがわかる。
ちなみに今度あらすじを紹介する佐藤晃さんの「太平洋に消えた勝機」という非常に面白い本の巻末に、「日米主要艦の戦力推移」という表が載っているので、紹介しておく。
太平洋に消えた勝機 (光文社ペーパーバックス)
著者:佐藤 晃
販売元:光文社
発売日:2003-01
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出典:本書230ページ
この表を見ると、日本は戦争の後半でほとんどの艦船が撃沈されているのに対して、アメリカは真珠湾で戦艦2隻、1942年に空母が4隻沈没した他は、1942年以降戦艦の喪失ゼロ、1943年以降は主要艦船の喪失ゼロという状態が続いていたことがわかる。
日本側の一方的敗北だったことがよくわかる表である。昭和19年のマリアナ沖海戦は「マリアナの七面鳥撃ち」を言われ、日本艦船を米軍が面白いように葬ったが、かくも一方的な敗北だと本当に「バカの一つ覚え」と言わざるを得ない。
実はこの表は正規空母までで、米国が圧倒的な産業力を注力して大量に製造した1万トン級のリバティー船と8,000トン級の護衛空母や軽空母が含まれていない。
リバティ船は戦後構造的欠陥が判明したが、溶接を使わず、鉄板をリベット接合して、わずか42日で完成し、戦時中実に531隻が建造された。

護衛空母は100隻以上が建造され、ドイツ潜水艦の脅威を封じ込めるのに成果を上げた。

日露戦争以来の大鑑巨砲主義の旧弊が支配した海軍
日本の大鑑巨砲主義という伝統は崩せず、開戦時の10名の艦隊長官のうち、4名が鉄砲屋(砲術出身)、4名が水雷屋、1名が航海屋、1名が航空屋だった。
唯一井上成実(しげよし)第4艦隊長官が昭和16年1月に「航空兵力の充実、海上護衛兵力の大増強、南方島嶼(とうしょ)の守備の強化」という正鵠を得た「新軍備計画論」を訴えたが、大鑑巨砲主義の主流派から無視される結果となった。
馬鹿の一つ覚えの艦隊決戦でのアウトレンジ戦法
日本の戦法は敵の射程距離外から砲撃して敵を撃滅するというアウトレンジ戦法で、これがため世界最大の46センチ主砲を持つ大和・武蔵を建造したものだ。
この巨大戦艦はパナマ運河を通行できないため、アメリカのように大西洋と太平洋両方に面している国は機動力が生かせないので、アメリカは同じサイズの戦艦をつくれないと見られていた。
そうすると大和・武蔵の46センチ砲はアメリカ戦艦の40センチ砲よりも射程距離が長く、それがためアウトレンジ戦法で勝利できるというシナリオだった。
しかしアウトレンジ戦法が度が過ぎて、射程距離を縮めて命中確率を上げようという積極性に欠け、レーダー測敵機もないので、遠距離から射撃しても非常に悪い命中率にとどまっていた。
たしか大和の大砲は小田原から撃って、東京に届くという話を聞いたことがある。射程距離は最大42キロだという。しかし、現実問題そんなに離れていては光学照準機では到底ねらえない。
戦争中の艦隊決戦の例では、昭和17年のジャワ沖海戦では、日本の重巡洋艦は敵の15センチ砲にまさる20センチ砲を持っていたので、アウトレンジ戦法で砲撃したが、数百発の20センチ砲弾のうち1発が敵に命中しただけだった。
次に戦艦2隻が36センチ砲を打ち込んだが、300発撃って一発も命中しなかった。
アッツ島ではまたもアウトレンジ戦法で、900発撃って5発しか命中しなかった。
昭和19年のレイテ沖海戦では、栗田艦隊の戦艦大和と長門が最初で最後の砲撃を敵艦隊に浴びせるが、大和は約100発、長門は45発撃ち、金剛、榛名がそれぞれ100発づつ撃ったにもかかわらず、敵駆逐艦を1隻沈め、1隻を大破させただけだった。
アメリカ側はレーダー測敵器があるので、照準は正確だったようだ。これが前記の表の圧倒的な日米の艦艇損失の差になるのだ。
不備だらけの日本海軍の戦務
戦務とは旧海軍用語で、索敵、偵察、海上輸送護衛、補給などの戦争するための諸準備のことである。
燃料は海軍は当初の2年分の燃料は備蓄して戦争に臨んだと言われているが、実際には開戦時の備蓄は600万トンだった。
必要な燃料量を年280万トンと見込んで戦争に突入したが、実際には年500万トン近くを消費し、南方などからの石油供給も海上輸送路を攻撃されて満足にできなかった。昭和17年後半以降は常に燃料に苦しめられることとなった。
燃料備蓄量以外にも、日本艦船は日本近海の艦隊決戦を想定して建造されているので、航続距離に問題があったという。
さらに問題なのは弾薬で、開戦時に艦艇に定数通りの量を配給したら、弾薬庫には25ミリ機銃弾がなくなり、その後も弾薬の不足は解消されなかった。
日本海軍の対空砲の弾薬定数は高角砲200発(約10分)、機銃1,500発(約10分)のみで、撃ち尽くしても補充は受けられなかった。
これも艦隊決戦で大砲には一門の大砲が発射する弾数に限度があるので(大口径砲では120発。それ以上だと大砲が焼き付いてしまう)、それと同じ考えを対空火器まで適用したことが問題だった。
この点では相当期日にわたる会戦を単位に弾薬を準備していた日本陸軍の方がましだったと千早さんは語る。
日本は潜水艦による近代戦を理解しなかった
日本の潜水艦戦略には通商破壊戦の考え方はなく、艦隊決戦のみを想定していた。それでも対潜水艦対策は皆無だった。
「享楽的で質実剛健に乏しい米人は、困苦欠乏をもっとも必要とする潜水艦の乗員には適しない。従って、米国潜水艦はあまり恐れる必要はないだろう」とたかをくくっていたという。
有名な米国海軍のフロスト中佐は逆に「潜水艦は米人の使用に好適の艦種である。なんとなれば、米人は敏活、果断、独創に富み、潜水艦の乗員に最適な性質を具備している。われわれ米国海軍軍人は、潜水艦戦において、世界いずれの海軍軍人も凌駕することができる」と語っているという。
まさに日本の見方と正反対だが、これが結果的に真実となった。前述の「日米主要艦の戦力推移表」でも、米国潜水艦に沈められた空母や戦艦が多いことがわかる。
排水量わずか2,000トン程度の潜水艦が、3−5万トンの戦艦や航空母艦を葬り去るのである。実に効率のよい戦いである。
ノックス米海軍長官は「日本は近代戦を理解しないか、あるいはまた近代戦に参加する資格がないか、いずれかである」と語っていたという。
海軍大学の画一的で時代遅れの教育
千早さんは昭和18年7月に海軍大学に入学し、9ヶ月で繰り上げ卒業している。卒業したときはギルバート、マーシャル諸島は敵手に落ち、ラバウルも秋風落莫の状態だったという。
明治につくられ、最終改訂が昭和9年の最高機密「海戦要務令」が絶対規範として生きていた。
これは艦隊決戦主義で、航空部隊も潜水艦部隊もそれを支援するという域を出ていなかった。もちろん通商破壊もなく、対潜水艦作戦もない。いかに日本海軍の用兵者の考えが硬直的だったかがわかる。
海軍大学の戦略、戦術の研究は机上演習に終始し、日米海軍の決戦を想定した自己満足のものだった。
決戦が起こるのか、決戦が起きたら戦争は終わるのか、負けたらどうなるのかといった問題はまじめに研究されなかった。
おまけに机上演習ではゼロ戦は1機でヘルキャット10機に相当するなどという、ありえない前提が演習統監により出されていたという。
千早さんは海軍大学で教育を受けた画一的なエリートが参謀なり司令官なりになって戦争を指導したことが、日本海軍の敗因であると推論している。
アメリカ軍は日本軍の敗因は、チームワークの欠如にあったと分析しているという。マクロ的かつ長期的な総合性と計画性を欠く日本人特有の結果に基づくのではないかと。
たしかにたまたま真珠湾で大勝利してしまったがゆえに、徹底性を欠く一般的な日本人の性格、オペレーションリサーチマインドというか、科学的な彼我の戦術の分析の欠如が、敗戦につながったことは否めないと思う。
いろいろな戦記もののタネ本ともなっている本で、昭和22年に最初の原稿が完成し、まだ戦争の記憶が生々しいなかで書かれたこの本は、冷静な分析と反省に満ちている。
プレジデント社から昨年末再度発売されたことでもあり、是非一度手にとって見て欲しい本である。
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日本海軍の戦略発想著者:千早 正隆
販売元:プレジデント社
発売日:2008-12
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最後の海軍大学卒業生で、終戦の時に連合艦隊砲術参謀中佐だった千早正隆さんが昭和22年に書いた日本海軍の反省記の改訂版。プレジデント社で1982年に発売され、1995年に文庫本になっている。
読んだのは中公文庫版だが、2008年12月に、プレジデント社から再発売されている。たぶん日本海軍の戦略の失敗の現代的意味を問い直そうということだろう。
千早さんは戦後GHQの戦史室調査員となり、このブログでも紹介した「ミッドウェーの奇跡」などを書いたGHQ戦史室長ゴードン・プランゲ博士の調査に協力した。
この本は英訳されて、多くの英語の戦史研究に引用されている。
千早さんはいわば”マベリック”
映画トップガンを見た人は覚えているだろうか?トム・クルーズが演じる主人公のコードネームが”マベリック”だ。マベリックとは、異端者、へそまがりという意味で、千早さん自身も自らの性格をそう評している。
たとえば千早さんはアメリカ人の戦争観を知るためにシンガポールで押収した「風とともに去りぬ」を見たいと、海軍大学時代に言いだしたが、さすがにこれは認められなかったという。
次にクレマンソーを研究したいと言い出して、クレマンソー研究家の酒井陸軍中将を招いて講演をしてもらったら、酒井中将は大東亜戦争出直し論を2時間論じたという。
クレマンソーといえば、「皇族たちの真実」で終戦直後の総理大臣に就任した東久邇宮稔彦王が、フランス留学時代に親交のあった元首相のクレマンソーに警告されたという話を思い出す。
「アメリカが太平洋へ発展するためには、日本はじゃまなんだ。(中略)アメリカはまず外交で、日本を苦しめてゆくだろう。日本は外交がへただから、アメリカにギュウギュウいわされるのにちがいない。その上、日本人は短気だから、きっとけんかを買うだろう。
つまり、日本の方から戦争をしかけるように外交を持ってゆく。そこで日本が短気を起こして戦争に訴えたら、日本は必ず負ける。アメリカの兵隊は強い。軍需品の生産は日本と比較にならないほど大きいのだから、戦争をしたら日本が負けるのは当たり前だ。それだからどんなことがあっても、日本はがまんをして戦争してはならない」
まさにクレマンソーの警告した通りの展開になったわけだ。
海軍大学卒業に際して放校になりかける
海軍大学卒業に際して、教授連に対して、ほとんど造反ともいえるマベリックぶりを見せた。
千早さんたち学生に意見を求められたので、千早さんは海軍大学の教育方針を独善的で各科バラバラであると評した。
科学的に戦争そのものを分析して、日米戦の対策はどうあるべきかという大命題の下に、あらゆる科目を統合して研究すべきで、艦隊の運動の研究などはその一部にすぎないと書いた。
「現在の戦況の苦境もつまるところ、研究に不真面目であったためである。深く戒む(いましむ)るところがなければならない」と要約したら、翌日学生全員が集められ、主任教官より名前を挙げて譴責されたという。
処分の話も出たが、同期生全員がかばってくれたのと、校長が代わったので処分なしで終わったという。
参謀としてもマベリック
参謀としても並み居る海軍大学出身参謀たちと対立して、ビアク島防衛の重要性を強調し、「ビアク気違い」と呼ばれたりしたという。
ちなみにビアク島には1万人の兵力が駐留し、米軍の攻撃までに十分陣地を構築する時間がなかったにもかかわらず、善戦して米軍を手こずらせたのでマッカーサーは激怒し、指揮官を子分のバターンボーイズの一人のアイケルバーガー中将に代えている。
マッカーサーが厚木飛行場に乗り込んできた時に、ぴったり寄り添っているのがアイケルバーガー中将だ。

出典:以下特記ないかぎりWikipedia
千早さんの経歴
千早さんは昭和2年の海兵第58期生。昭和5年に海兵を卒業後、すぐに艦隊勤務となり、駆逐艦、巡洋艦などの現場を経験し、砲術学校での学習を経て巡洋艦・戦艦の対空砲の分隊長となった。
千早さんの書いた艦隊防空のレポートは、海軍省の昭和16年の最優秀作品に選ばれたという。
千早さんは戦艦大和の艤装作業に立ち会い、大和は1トン爆弾の直撃にも堪えるように全体を装甲200ミリの鉄板で覆っているのに、巡洋艦から転用した副砲塔の装甲は30ミリしかないことを指摘したという。
戦争が始まると戦艦比叡に乗艦し、昭和17年11月の第3次ソロモン海戦で比叡が夜間探照灯砲撃で集中攻撃を受けた際に千早さんも両手の親指を負傷するが、奇跡的に指はつながり、内地で病院生活を送った。
比叡は切手にもなったので、筆者も亡くなった叔父に貰って、この満州国建国記念の切手を今でも持っている。

昭和18年7月から海軍大学校に学び翌19年3月に普通2年のところを8ヶ月で繰り上げ卒業し、艦隊参謀、連合艦隊作戦参謀として勤務し終戦を迎える。
千早さんがこの本を書いた理由
千早さんがこの本を書いた理由は、戦後多くの日本人、アメリカ人に次のような質問をされ続け、千早さん自身もその理由を解き明かしたかったからだと。
1.日本で米国のことを一番知っていたのは、日本海軍ではなかったか、その海軍がなぜ米国と戦争することになったのか。
2.アメリカンフットボールで同じ手を使って連敗するのは下の下といわれるが、日本海軍はなぜ同じ手を繰り返してその都度叩きのめされたのか。
米軍の攻撃で最も驚いた点
千早さんが連合艦隊参謀として勤務していて、米軍の攻撃で最も驚いたのは次の点であると。
1.B29による本土爆撃。超航空を飛ぶB29には対空砲も届かず、迎撃戦闘機も有効でなかった。

2.B29による瀬戸内海への機雷敷設。これは「飢餓作戦」と呼ばれたものだ。使用された機雷は日本海軍が見たこともなかった磁気式、水圧式に度数式を組み合わせた新型のもので、特に低周波音響機雷には有効な掃海手段はなかったので、瀬戸内海はほとんど通行不可能となった。
まさに日本の首を真綿で絞めたのと同じ結果となった。
3.原子爆弾。連合艦隊作戦参謀だった千早さんでも原子爆弾の概念すら持っていなかった。慚愧(ざんき)に堪えないという。
この本の目次
目次を読めば大体この本の内容がわかると思うので、紹介しておく。
第1部 日本海軍の対米戦争に関する判断
1. 日本海軍の仮想的は米国海軍
2. 日米戦争に関する研究
3. 戦術面のみに目が奪われた
4. 不備だらけの日本海軍の戦務(戦務とは旧海軍用語で、索敵、偵察、海上輸送護衛、補給などの戦争するための諸準備のこと)
5. 大局を忘れた日本海軍の戦備
6. 陸海軍協同の不完全
7. 戦争についての各種判断の誤り
第2部 戦争はかく実証した
1. ハワイ海戦の戦訓
2. 日本海軍の小手先芸
3. 小手先芸の限界
4. あと1ヶ月あったなら(ガダルカナルも敵に簡単に奪われることもなかったろう)
5. 馬鹿の一つ覚え
6. 偵察、索敵の軽視
7. 追撃戦の宿命
追撃戦で最後まで徹底的にやった戦例が乏しいのは、徹底性を欠く国民性にあると千早さんはいう。
8. 慢心と増長の悲劇
ミッドウェー海戦が典型例である。作戦の根本思想、敵空母出現の可能性の未検討、索敵の不備など、暗号が解読されている以外にも慢心と増長は多い。
9. 美辞麗句が多くなった作戦命令
10. 用法を誤った潜水艦戦と時代遅れの対潜作戦
日本の船腹量は約1千万トンだったが、戦争で喪失した船腹量は800万トン、このうち潜水艦の攻撃によるものが全体の57%、航空機が31%、触雷が7%、敵の砲撃はわずか2万トンにすぎない。
B29と潜水艦の前に日本の戦力は崩壊したといえる。
11. 補給戦に敗れた
ニューギニア戦線では14万人が補給もなく投入され、実に13万人が死亡したが、戦死はわずか3%で、残りは餓死、戦病死だった。
12. 誤った作戦で犠牲になった設営隊
昭和19年、暗号が解読されていると千早さんは疑い、わざわざ「長官の名前の画数を足した日」というような指令をだしたが、島の防衛隊からの返信に「では○○日のことか?」と打ち返してきて頭を抱えてしまったという。結局敵に待ち伏せされたという。
13. 軽視した情報、防諜のとがめ
14. 甘かった人事管理
第3部 総まとめ
1. 後手、後手となった作戦計画
2. 完敗に終わった「あ」号作戦と「捷」号作戦
3. 水上部隊の悲惨な最期 戦艦大和が片道の燃料で向かったという話は実は誤りで、実際には簿外の在庫を呉の機関参謀がかきあつめ、往復に必要な燃料を積んで死出のはなむけとしたのだと。これでほとんどの艦船を沈められて、燃料もなく日本海軍は静かに死を待った。
4. マクロ的な考え方と総合性の欠如
5. 物量の差だけではなかった
6. 教育に根本の問題があった
いくつか参考になった点を紹介しておく。
日本海軍の仮想的は明治以来米国海軍
明治40年、日露戦争の2年後に決定された「帝国国防方針」では日本の仮想敵は陸軍はソ連、海軍は米国とされた。
米国は日本海軍が兵力を増強するための目標敵であったが、実際に昭和12年南京攻略時に日本の爆撃機が間違って米国の砲艦バネー号を撃沈した時には、米国に陳謝するとともに多額の賠償金を支払った。あくまで仮想敵であって、本当に米国と戦線を開くことなど考えてもいなかったのだ。
ところが三国同盟に猛反対していた米内海軍大臣が昭和15年に及川海軍大臣に交代すると、海軍は簡単に三国同盟に賛同し、一挙に対米戦が現実味を帯びてくる。
昭和14年9月の第2次世界大戦勃発以降、対米関係は悪化の一途をたどった。ナチスの傀儡のヴィシー政権の承認を強引に得た昭和16年7月の南仏印進駐が引き金となって、米国が在米資産凍結、石油全面禁輸を発表し、海軍は対米戦の準備を開始した。
いわゆる月月火水木金金の猛訓練だが、この時も大口径砲の戦艦で敵を迎え撃つ艦隊決戦が戦略の中心で、潜水艦の船団攻撃や船団の対潜護衛の演習は皆無だったという。
太平洋戦争開戦時の連合艦隊の戦力
太平洋戦争が始まった時の連合艦隊の戦力は次の通りだ。これは戦艦と潜水艦こそ米国の6割を切っていたが、航空母艦と重巡洋艦では米国と肩を並べる兵力で、これにくわえて大和、武蔵の巨大戦艦2隻が加わった。
戦艦 10隻
航空母艦 9隻
重巡洋艦 18隻
軽巡洋艦 18隻
駆逐艦 90隻
潜水艦 55隻
潜水母艦 3隻
水上機母艦 2隻
合計 133万トン(基準排水量)
対米戦のために長年兵力を整備した結果だった。日本海軍は米軍に比肩しうる戦力を持っていたことがわかる。
ちなみに今度あらすじを紹介する佐藤晃さんの「太平洋に消えた勝機」という非常に面白い本の巻末に、「日米主要艦の戦力推移」という表が載っているので、紹介しておく。
太平洋に消えた勝機 (光文社ペーパーバックス)著者:佐藤 晃
販売元:光文社
発売日:2003-01
おすすめ度:
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出典:本書230ページ
この表を見ると、日本は戦争の後半でほとんどの艦船が撃沈されているのに対して、アメリカは真珠湾で戦艦2隻、1942年に空母が4隻沈没した他は、1942年以降戦艦の喪失ゼロ、1943年以降は主要艦船の喪失ゼロという状態が続いていたことがわかる。
日本側の一方的敗北だったことがよくわかる表である。昭和19年のマリアナ沖海戦は「マリアナの七面鳥撃ち」を言われ、日本艦船を米軍が面白いように葬ったが、かくも一方的な敗北だと本当に「バカの一つ覚え」と言わざるを得ない。
実はこの表は正規空母までで、米国が圧倒的な産業力を注力して大量に製造した1万トン級のリバティー船と8,000トン級の護衛空母や軽空母が含まれていない。
リバティ船は戦後構造的欠陥が判明したが、溶接を使わず、鉄板をリベット接合して、わずか42日で完成し、戦時中実に531隻が建造された。

護衛空母は100隻以上が建造され、ドイツ潜水艦の脅威を封じ込めるのに成果を上げた。

日露戦争以来の大鑑巨砲主義の旧弊が支配した海軍
日本の大鑑巨砲主義という伝統は崩せず、開戦時の10名の艦隊長官のうち、4名が鉄砲屋(砲術出身)、4名が水雷屋、1名が航海屋、1名が航空屋だった。
唯一井上成実(しげよし)第4艦隊長官が昭和16年1月に「航空兵力の充実、海上護衛兵力の大増強、南方島嶼(とうしょ)の守備の強化」という正鵠を得た「新軍備計画論」を訴えたが、大鑑巨砲主義の主流派から無視される結果となった。
馬鹿の一つ覚えの艦隊決戦でのアウトレンジ戦法
日本の戦法は敵の射程距離外から砲撃して敵を撃滅するというアウトレンジ戦法で、これがため世界最大の46センチ主砲を持つ大和・武蔵を建造したものだ。
この巨大戦艦はパナマ運河を通行できないため、アメリカのように大西洋と太平洋両方に面している国は機動力が生かせないので、アメリカは同じサイズの戦艦をつくれないと見られていた。
そうすると大和・武蔵の46センチ砲はアメリカ戦艦の40センチ砲よりも射程距離が長く、それがためアウトレンジ戦法で勝利できるというシナリオだった。
しかしアウトレンジ戦法が度が過ぎて、射程距離を縮めて命中確率を上げようという積極性に欠け、レーダー測敵機もないので、遠距離から射撃しても非常に悪い命中率にとどまっていた。
たしか大和の大砲は小田原から撃って、東京に届くという話を聞いたことがある。射程距離は最大42キロだという。しかし、現実問題そんなに離れていては光学照準機では到底ねらえない。
戦争中の艦隊決戦の例では、昭和17年のジャワ沖海戦では、日本の重巡洋艦は敵の15センチ砲にまさる20センチ砲を持っていたので、アウトレンジ戦法で砲撃したが、数百発の20センチ砲弾のうち1発が敵に命中しただけだった。
次に戦艦2隻が36センチ砲を打ち込んだが、300発撃って一発も命中しなかった。
アッツ島ではまたもアウトレンジ戦法で、900発撃って5発しか命中しなかった。
昭和19年のレイテ沖海戦では、栗田艦隊の戦艦大和と長門が最初で最後の砲撃を敵艦隊に浴びせるが、大和は約100発、長門は45発撃ち、金剛、榛名がそれぞれ100発づつ撃ったにもかかわらず、敵駆逐艦を1隻沈め、1隻を大破させただけだった。
アメリカ側はレーダー測敵器があるので、照準は正確だったようだ。これが前記の表の圧倒的な日米の艦艇損失の差になるのだ。
不備だらけの日本海軍の戦務
戦務とは旧海軍用語で、索敵、偵察、海上輸送護衛、補給などの戦争するための諸準備のことである。
燃料は海軍は当初の2年分の燃料は備蓄して戦争に臨んだと言われているが、実際には開戦時の備蓄は600万トンだった。
必要な燃料量を年280万トンと見込んで戦争に突入したが、実際には年500万トン近くを消費し、南方などからの石油供給も海上輸送路を攻撃されて満足にできなかった。昭和17年後半以降は常に燃料に苦しめられることとなった。
燃料備蓄量以外にも、日本艦船は日本近海の艦隊決戦を想定して建造されているので、航続距離に問題があったという。
さらに問題なのは弾薬で、開戦時に艦艇に定数通りの量を配給したら、弾薬庫には25ミリ機銃弾がなくなり、その後も弾薬の不足は解消されなかった。
日本海軍の対空砲の弾薬定数は高角砲200発(約10分)、機銃1,500発(約10分)のみで、撃ち尽くしても補充は受けられなかった。
これも艦隊決戦で大砲には一門の大砲が発射する弾数に限度があるので(大口径砲では120発。それ以上だと大砲が焼き付いてしまう)、それと同じ考えを対空火器まで適用したことが問題だった。
この点では相当期日にわたる会戦を単位に弾薬を準備していた日本陸軍の方がましだったと千早さんは語る。
日本は潜水艦による近代戦を理解しなかった
日本の潜水艦戦略には通商破壊戦の考え方はなく、艦隊決戦のみを想定していた。それでも対潜水艦対策は皆無だった。
「享楽的で質実剛健に乏しい米人は、困苦欠乏をもっとも必要とする潜水艦の乗員には適しない。従って、米国潜水艦はあまり恐れる必要はないだろう」とたかをくくっていたという。
有名な米国海軍のフロスト中佐は逆に「潜水艦は米人の使用に好適の艦種である。なんとなれば、米人は敏活、果断、独創に富み、潜水艦の乗員に最適な性質を具備している。われわれ米国海軍軍人は、潜水艦戦において、世界いずれの海軍軍人も凌駕することができる」と語っているという。
まさに日本の見方と正反対だが、これが結果的に真実となった。前述の「日米主要艦の戦力推移表」でも、米国潜水艦に沈められた空母や戦艦が多いことがわかる。
排水量わずか2,000トン程度の潜水艦が、3−5万トンの戦艦や航空母艦を葬り去るのである。実に効率のよい戦いである。
ノックス米海軍長官は「日本は近代戦を理解しないか、あるいはまた近代戦に参加する資格がないか、いずれかである」と語っていたという。
海軍大学の画一的で時代遅れの教育
千早さんは昭和18年7月に海軍大学に入学し、9ヶ月で繰り上げ卒業している。卒業したときはギルバート、マーシャル諸島は敵手に落ち、ラバウルも秋風落莫の状態だったという。
明治につくられ、最終改訂が昭和9年の最高機密「海戦要務令」が絶対規範として生きていた。
これは艦隊決戦主義で、航空部隊も潜水艦部隊もそれを支援するという域を出ていなかった。もちろん通商破壊もなく、対潜水艦作戦もない。いかに日本海軍の用兵者の考えが硬直的だったかがわかる。
海軍大学の戦略、戦術の研究は机上演習に終始し、日米海軍の決戦を想定した自己満足のものだった。
決戦が起こるのか、決戦が起きたら戦争は終わるのか、負けたらどうなるのかといった問題はまじめに研究されなかった。
おまけに机上演習ではゼロ戦は1機でヘルキャット10機に相当するなどという、ありえない前提が演習統監により出されていたという。
千早さんは海軍大学で教育を受けた画一的なエリートが参謀なり司令官なりになって戦争を指導したことが、日本海軍の敗因であると推論している。
アメリカ軍は日本軍の敗因は、チームワークの欠如にあったと分析しているという。マクロ的かつ長期的な総合性と計画性を欠く日本人特有の結果に基づくのではないかと。
たしかにたまたま真珠湾で大勝利してしまったがゆえに、徹底性を欠く一般的な日本人の性格、オペレーションリサーチマインドというか、科学的な彼我の戦術の分析の欠如が、敗戦につながったことは否めないと思う。
いろいろな戦記もののタネ本ともなっている本で、昭和22年に最初の原稿が完成し、まだ戦争の記憶が生々しいなかで書かれたこの本は、冷静な分析と反省に満ちている。
プレジデント社から昨年末再度発売されたことでもあり、是非一度手にとって見て欲しい本である。
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2009年10月01日
O. ヘンリー短編集 珠玉の作品集 心が洗われる
最後の一葉 (新潮CD)
著者:O.ヘンリ
販売元:新潮社
発売日:2001-12
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図書館でCDを借りてO.ヘンリーの短編集のオーディオブックを聞いた。
「最後の一葉」、「よみがえった改心」、「賢者の贈り物」というO.ヘンリーの代表作ばかり3作の朗読だ。
子供の時に読んだと思うが、大人になって読んでも心を動かされる。
新訳シリーズで、代表作21作品をあつめたO.ヘンリー短編集も最近出版されているようだ。
1ドルの価値/賢者の贈り物 他21編 (光文社古典新訳文庫)著者:O・ヘンリー
販売元:光文社
発売日:2007-10-11
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筆者のポリシーとして小説のあらすじは詳しく説明しないが、「最後の一葉」は重症の肺炎で明日をも知れない娘が、窓の外に見えるツタの葉が落ちると自分も死ぬと思い込んでいる話だ。
「よみがえった改心」は元銀行強盗の話。
「賢者の贈り物」は赤貧の新婚夫婦のクリスマスプレゼント交換の話だ。
ひょっとしたら教科書に載っていたのかも知れない。たぶん多くの人が、読んだことがあるストーリーだと思う。
やはり名作は心が洗われる思いだ。短編集なので1日で読める(聞ける)。是非O.ヘンリーをおすすめする。
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2009年09月27日
ハングル入門 ハングルが読めると世界が違う
2009年9月27日再掲:
先週家族でソウルに3泊4日で旅行した。朝9時の羽田発の飛行機で行き、帰りは夜9時の金浦発の便だったので、4日間ゆっくりできた。
出発の前日に高信太郎の「マンガハングル入門」を読み返し、行きの飛行機の中でも読み直したので、記憶を呼び起こして大体ハングルを読めた。
まんが ハングル入門―笑っておぼえる韓国語 (カッパ・ビジネス)
著者:高 信太郎
販売元:光文社
発売日:1995-07
おすすめ度:
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ハングルが読めるようになったのはよかったのだが、会話が問題だった。
高信太郎や蓮池薫さんの本に漢字+ハムニダ(たとえば感謝とか失礼+英語の"do
"に当たるハムニダ)を使うことが紹介されているが、たしかに簡便な会話法として役立つが、これだけでは会話は成り立たない。相手の言うことを理解できないからだ。
今回一番困ったのが電子マネーを使って地下鉄に乗ろうとした時だ。
韓国にはT-Moneyという電子マネーがあり、ソウルではSeoul City Passという地下鉄、バス、タクシーすべてに使える電子マネーICカードがある。

地下鉄の駅でSeoul City Passの販売機があったので、3,000ウォンで買って地下鉄に乗ろうとしたら、改札口を通れず立ち往生してしまった。
改札口に係員はおらず、インターフォンで聞くしかないので、困っていたところを日本語のできる人に助けて貰って、やっと事情がわかった。
3,000ウォン(約230円)は電子マネーカードの発券手数料だけで、発券されたカードのバリューはゼロなので、別のチャージ機でバリューをチャージしなければならないのだ。
事情がわかったので、チャージ機でチャージして地下鉄に乗れたが、片道電子マネー切符の発券手数料は500ウォンでリファンドされるので、Seoul City Passの発券手数料も500ウォンで残りの2,500ウォンがバリューだと思い込んでいた。
チャージ機には英語、日本語の音声案内があるが、Seoul City Passの券売機は韓国語のみで、カード自体は箱に入ってクーポンブックや説明書が付いてくるが、解説が韓国語のみで、英語も日本語もないので、さっぱりわからなかった。
せめてSeoul City Passの券売機も日英対応にするか、もっと観光客が使いやすいように最初から往復運賃程度のバリューがチャージされたカードを発券して欲しいものだ。
ロンドンの地下鉄のオイスターカードはあらかじめチャージされたカードが簡単に券売機で購入でき、現金で買うよりも安く便利で使いやすいので、是非Seoul City Passも観光客が使いやすいように改善して欲しいものだ。

結局この地下鉄のT-Moneyの件では、家族からひんしゅくを買う結果となった。やはりちょっと本を読んだくらいで、ラクして語学を覚えようという姿勢に問題があったといわざるを得ない。
しかしハングルが読めると世界が違う。たとえばホテルの近くの老舗の菓子屋に入ったら、アイスクリームの冷蔵庫にハングルで「モナカアイスクリム」と書いてあったのにはびっくりした。
最中は韓国語でも「モナカ」なのだ。
漢字の読み方が多数あり、難しい漢字の読み方がクイズにまでなっている日本語とは異なり、韓国語の漢字の読み方は一通りしかないので、覚えやすい。
また日本語とかなり近い漢字の読み方も多いので、ハングルが読めれば意味も推測できる。たとえば路(みち)は「ロ」だし、鉄橋は「テッキョ」だ。
ハングルが読めれば韓国に旅行したときに世界が違う。是非高信太郎の「マンガハングル入門」か、蓮池薫さんの「蓮池流韓国語入門」で勉強して欲しい。
半日でハングルが読めるようになるので、是非試して欲しい。
尚、蓮池薫さんの「半島へ、ふたたび」がベストセラーとなっている。近々読んでこのあらすじも紹介する。
半島へ、ふたたび
著者:蓮池 薫
販売元:新潮社
発売日:2009-06
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2008年12月27日初掲:
蓮池流韓国語入門 (文春新書)
著者:蓮池 薫
販売元:文藝春秋
発売日:2008-10-21
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拉致被害者で、現在は翻訳家、新潟産業大学講師の蓮池薫さんの韓国語入門本を読んでみた。
2008年10月20日発売の新刊書だ。
日本語と韓国語は語順が同じなので、同じ発想で話せるという。蓮池さんは時々自分が韓国語を話しているのか、日本語を話しているのかわからなくなることがあるほどだという。
その他にも共通点が多い。たとえば省略である。日本語では主語や言葉尻を省くことがよくあるが、韓国語も同じだ。日本語の「この、その、あの」も英語や中国語ではthisとthatしかないが、韓国語も3通りある。
儒教の国だけに父母や祖父母に対しては絶対尊敬語がある。他人に対しても身内をへりくだった言い方はしない。
このブログで紹介した蓮池さんの訳書「孤将」の韓国の英雄李舜臣将軍は、日本軍の戦闘の真っ最中に親が死んだという知らせを受けると、戦場を部下に任せ、故郷に帰りかなり長い間喪に服したという。
それと固有語と外来語、特に漢語の一致だ。
次が日本語の固有語と外来語の比率だが、このうち漢語の9割は韓国でも使われている。
日本で作られた「野球」、「午前、午後」、「会社」、「汽車」、「映画」などは中国では使われていないが、韓国では使われている。日中の漢語一致率は7割だが、日韓は9割となっている。
固有語 34%
漢語 49%
外来語 9%
混種語 8%
もっとも北朝鮮では、戦時中の日本のように外来語禁止なので、野球もサッカーも用語はすべて韓国語で言い換えているという。
第一部の基本編「日本語と韓国語はどれだけ似ているのだろう」は上記の様な内容でわかりやすいが、第二部の「実践編」はちょっとハードだ。
正直ハングルが読めないと難しい。
筆者は10年以上前に漫画家の高信太郎さんの「まんがハングル入門」でハングルを覚えて、韓国に出張したときは「ヤク」=薬屋などの店のハングルサインを読んだり、自分の名前をハングルで書いたりして、コミュニケーションに役立てていた。
それから韓国にはずっと行っていないので、筆者のハングルもリフレッシュが必要だが、この高信太郎さんのまんががあれば、1時間程度で思い出せると思う。
超簡単まんがハングル―明日から使える韓国語 (カッパ・ブックス)
著者:高 信太郎
販売元:光文社
発売日:2002-02
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筆者が読んだ本は次の本だが、これは絶版となっており、上の本が新版だ。
まんが ハングル入門―笑っておぼえる韓国語 (カッパ・ビジネス)
著者:高 信太郎
販売元:光文社
発売日:1995-07
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1446年にハングルを公布したとき、李氏朝鮮第4代国王の世宗は、「これなら2時間で誰でも覚えられる」と喜んだという。
たしかに誰でもハングルを2時間で覚えられると思うので、まずは高信太郎さんのマンガでハングルを覚えて、蓮池さんの本を読むことをおすすめする。
参考になれば投票ボタンをクリックしてください。
先週家族でソウルに3泊4日で旅行した。朝9時の羽田発の飛行機で行き、帰りは夜9時の金浦発の便だったので、4日間ゆっくりできた。
出発の前日に高信太郎の「マンガハングル入門」を読み返し、行きの飛行機の中でも読み直したので、記憶を呼び起こして大体ハングルを読めた。
まんが ハングル入門―笑っておぼえる韓国語 (カッパ・ビジネス)著者:高 信太郎
販売元:光文社
発売日:1995-07
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ハングルが読めるようになったのはよかったのだが、会話が問題だった。
高信太郎や蓮池薫さんの本に漢字+ハムニダ(たとえば感謝とか失礼+英語の"do
"に当たるハムニダ)を使うことが紹介されているが、たしかに簡便な会話法として役立つが、これだけでは会話は成り立たない。相手の言うことを理解できないからだ。
今回一番困ったのが電子マネーを使って地下鉄に乗ろうとした時だ。
韓国にはT-Moneyという電子マネーがあり、ソウルではSeoul City Passという地下鉄、バス、タクシーすべてに使える電子マネーICカードがある。
地下鉄の駅でSeoul City Passの販売機があったので、3,000ウォンで買って地下鉄に乗ろうとしたら、改札口を通れず立ち往生してしまった。
改札口に係員はおらず、インターフォンで聞くしかないので、困っていたところを日本語のできる人に助けて貰って、やっと事情がわかった。
3,000ウォン(約230円)は電子マネーカードの発券手数料だけで、発券されたカードのバリューはゼロなので、別のチャージ機でバリューをチャージしなければならないのだ。
事情がわかったので、チャージ機でチャージして地下鉄に乗れたが、片道電子マネー切符の発券手数料は500ウォンでリファンドされるので、Seoul City Passの発券手数料も500ウォンで残りの2,500ウォンがバリューだと思い込んでいた。
チャージ機には英語、日本語の音声案内があるが、Seoul City Passの券売機は韓国語のみで、カード自体は箱に入ってクーポンブックや説明書が付いてくるが、解説が韓国語のみで、英語も日本語もないので、さっぱりわからなかった。
せめてSeoul City Passの券売機も日英対応にするか、もっと観光客が使いやすいように最初から往復運賃程度のバリューがチャージされたカードを発券して欲しいものだ。
ロンドンの地下鉄のオイスターカードはあらかじめチャージされたカードが簡単に券売機で購入でき、現金で買うよりも安く便利で使いやすいので、是非Seoul City Passも観光客が使いやすいように改善して欲しいものだ。
結局この地下鉄のT-Moneyの件では、家族からひんしゅくを買う結果となった。やはりちょっと本を読んだくらいで、ラクして語学を覚えようという姿勢に問題があったといわざるを得ない。
しかしハングルが読めると世界が違う。たとえばホテルの近くの老舗の菓子屋に入ったら、アイスクリームの冷蔵庫にハングルで「モナカアイスクリム」と書いてあったのにはびっくりした。
最中は韓国語でも「モナカ」なのだ。
漢字の読み方が多数あり、難しい漢字の読み方がクイズにまでなっている日本語とは異なり、韓国語の漢字の読み方は一通りしかないので、覚えやすい。
また日本語とかなり近い漢字の読み方も多いので、ハングルが読めれば意味も推測できる。たとえば路(みち)は「ロ」だし、鉄橋は「テッキョ」だ。
ハングルが読めれば韓国に旅行したときに世界が違う。是非高信太郎の「マンガハングル入門」か、蓮池薫さんの「蓮池流韓国語入門」で勉強して欲しい。
半日でハングルが読めるようになるので、是非試して欲しい。
尚、蓮池薫さんの「半島へ、ふたたび」がベストセラーとなっている。近々読んでこのあらすじも紹介する。
半島へ、ふたたび著者:蓮池 薫
販売元:新潮社
発売日:2009-06
おすすめ度:
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2008年12月27日初掲:
蓮池流韓国語入門 (文春新書)著者:蓮池 薫
販売元:文藝春秋
発売日:2008-10-21
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拉致被害者で、現在は翻訳家、新潟産業大学講師の蓮池薫さんの韓国語入門本を読んでみた。
2008年10月20日発売の新刊書だ。
日本語と韓国語は語順が同じなので、同じ発想で話せるという。蓮池さんは時々自分が韓国語を話しているのか、日本語を話しているのかわからなくなることがあるほどだという。
その他にも共通点が多い。たとえば省略である。日本語では主語や言葉尻を省くことがよくあるが、韓国語も同じだ。日本語の「この、その、あの」も英語や中国語ではthisとthatしかないが、韓国語も3通りある。
儒教の国だけに父母や祖父母に対しては絶対尊敬語がある。他人に対しても身内をへりくだった言い方はしない。
このブログで紹介した蓮池さんの訳書「孤将」の韓国の英雄李舜臣将軍は、日本軍の戦闘の真っ最中に親が死んだという知らせを受けると、戦場を部下に任せ、故郷に帰りかなり長い間喪に服したという。
それと固有語と外来語、特に漢語の一致だ。
次が日本語の固有語と外来語の比率だが、このうち漢語の9割は韓国でも使われている。
日本で作られた「野球」、「午前、午後」、「会社」、「汽車」、「映画」などは中国では使われていないが、韓国では使われている。日中の漢語一致率は7割だが、日韓は9割となっている。
固有語 34%
漢語 49%
外来語 9%
混種語 8%
もっとも北朝鮮では、戦時中の日本のように外来語禁止なので、野球もサッカーも用語はすべて韓国語で言い換えているという。
第一部の基本編「日本語と韓国語はどれだけ似ているのだろう」は上記の様な内容でわかりやすいが、第二部の「実践編」はちょっとハードだ。
正直ハングルが読めないと難しい。
筆者は10年以上前に漫画家の高信太郎さんの「まんがハングル入門」でハングルを覚えて、韓国に出張したときは「ヤク」=薬屋などの店のハングルサインを読んだり、自分の名前をハングルで書いたりして、コミュニケーションに役立てていた。
それから韓国にはずっと行っていないので、筆者のハングルもリフレッシュが必要だが、この高信太郎さんのまんががあれば、1時間程度で思い出せると思う。
超簡単まんがハングル―明日から使える韓国語 (カッパ・ブックス)著者:高 信太郎
販売元:光文社
発売日:2002-02
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筆者が読んだ本は次の本だが、これは絶版となっており、上の本が新版だ。
まんが ハングル入門―笑っておぼえる韓国語 (カッパ・ビジネス)著者:高 信太郎
販売元:光文社
発売日:1995-07
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1446年にハングルを公布したとき、李氏朝鮮第4代国王の世宗は、「これなら2時間で誰でも覚えられる」と喜んだという。
たしかに誰でもハングルを2時間で覚えられると思うので、まずは高信太郎さんのマンガでハングルを覚えて、蓮池さんの本を読むことをおすすめする。
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2009年09月23日
へこたれない ワンガリ・マータイ自伝 モッタイナイ運動支援者
UNBOWEDへこたれない ~ワンガリ・マータイ自伝著者:ワンガリ・マータイ
販売元:小学館
発売日:2007-04-11
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ケニア出身でアフリカ各地で植林を進めるグリーンベルト運動の創始者、ワンガリ・マータイさんの自伝。
30年間で3,000万本もの植林を実現した功績と、ケニアの独裁政権と対決し、何度も投獄されながらもアフリカの女性解放運動を推し進めた功績で、2004年のノーベル平和賞を受賞している。
2005年に毎日新聞社の招きで来日した時に、日本語の「もったいない」を知り、"MOTTAINAI"運動として世界に広める努力をしている。
世界の森林比率
アフリカというとジャングルやサバンナが思い浮かぶが、ケニアでは森林伐採が続き毎年0.3%ずつ森林比率は減少し、現在は6%だ。日本の森林比率は70%弱で、実は世界で最も森林比率の高い国の一つだ。
FAO(国連食料農業機関)でGlobal Forest Resources Assessment 2005という世界の森林の状態についてのレポートを公開しているので紹介しておく。
出典:FAO Global Forest Resources Assessment 2005
次の表は上記の表を加工したものだ。
出典:FAO Global Forest Resources Assessment 2005のデータを加工
先進国では1990年以来、森林の面積はほとんど減っていないが、世界全体では毎年0.2%ずつ減少しており、森林面積トップ10ヶ国の中では、2位ブラジル(−0.6%)、8位インドネシア(−2%)、9位スーダン(−0.8%)の減少が大きい。
アフリカでは全体として毎年0.6%ずつ減少しており、アフリカ諸国の平均減少率よりは少ないが、マータイさんの母国のケニアでは毎年0.3%づつ森林が減少している。
ヨーロッパ、北米、東アジアでは、ほぼ横ばいか増加だが、アフリカ、南米、南・東南アジアでは減少している。森林問題は貧富の差の問題でもあることがわかると思う。
ちなみに世界最大の森林国はロシアである。次の地図からもそれがわかるだろう。
ケニアではトウモロコシやコーヒー、茶などの換金作物の生産のために森林がどんどん伐採され、地盤がゆるみ大雨が降ると洪水が頻繁に起こるようになっている。
この本を読むと森林伐採問題以外にも、ケニアでは部族問題、女性差別問題、独裁政権と、アフリカ諸国共通の問題を抱えていることがよくわかる。
マータイさんの生い立ち
ワンガリ・マータイさんは1940年生まれ。ケニア最大の部族、キクユ族の出身だ。生まれてすぐイギリス人の経営する農場に一家で移り住み、一夫多妻制で母親の違う兄弟が居たという。
ケニアでは20世紀初頭には統治者のイギリスに対して各部族が抵抗を試みたが、イギリス政府が武力により鎮圧した。1950年前後には抵抗運動が再び活発となり、初代大統領のジョモ・ケニヤッタも1952年に逮捕され、強制収容所に収容されている。
女子に教育を受けさせない家族も多かったが、マータイさんは8歳から片道5キロの道を歩いて小学校に通い始めた。授業はキクユ語で行われ、英語、スワヒリ語、数学、地理を学んだ。
全寮制のカトリック系の女子中学校、次にナイロビの女子高校に進学、高校をトップの成績で卒業した。会話は英語だったという。
アメリカに留学
1960年前後はアフリカ諸国が軒並み独立した時期で、アメリカはアフリカの留学生を積極的に受け入れ、マータイさんはJFKの父のジョセフ・P・ケネディ財団の支援で、カンザス州のアッチソンにあるベネディクト会の修道女が運営するマウント・セント・スコラスティカ大学に留学する。
オバマ大統領の父もやはりケニア出身のアメリカ留学生だった。
ニューヨークからカンザス州に行くグレイハウンドバスの旅の途中のインディアナ州で、黒人は喫茶店内には入れないという黒人差別を目にして衝撃を受ける。しかし大学のあったアッチソンでは大歓迎してくれたという。
マータイさんは近くにある男子大学との交流でダンスパーティなどで男女が一緒に踊ることを見て驚く。ケニアで受けたカトリック教育がビクトリア朝そのままの厳格な教育だったからだという。
第2バチカン公会議(1962〜1965年)を控え、カトリック教会の改革を進める風潮があったという。
マウント・セント・スコラスティカ大学のみんなは親切で、祝日には地元の人が留学生を自宅に招いてくれ、アメリカ人の友人もでき、後に40年ぶりに再開する日本からの留学生とも友達になったという。
大学には黒人はほとんどいなかったが、2人いる補助職員の黒人の生活を通して、アッチソンでも黒人居住区があることを知ったという。
ピッツバーグ大学で修士号取得
マータイさんはマウント・セント・スコラスティカ大学卒業後、1964年からピッツバーグ大学の生物学大学院で、動物の脳の松果体を研究する。
当時のピッツバーグでは老朽した製鉄所の大気汚染を改善する取り組みが進んでおり、マータイさんにとって最初の環境改善運動を経験することになる。
筆者はピッツバーグに合計9年間駐在したので、マータイさんがピッツバーグ大学出身と聞いてなつかしく思った。1960年代初め頃は、これらの製鉄所は生産を続けて公害をはき出していた。
ところが1968年頃の鉄鋼不況で、軒並み製鉄所は閉鎖され、約1千万トン以上の鉄鋼生産能力がスクラップ化された。
ピッツバーグ市内や郊外に老朽した製鉄所がアレゲニー川沿いに10キロ以上も連なっており、最初の駐在の時には日本からのお客の希望があれば、川沿いの廃墟に沿ってドライブしたものだ。
郊外にU.S.スチールのE.T.(エドガー・トムソン、カーネギーが大口顧客で当時のペンシルバニア鉄道の社長の名前を付けた製鉄所)が有る他は、今はピッツバーグ市内には製鉄所は一ヶ所もない。だから筆者が駐在した時にはピッツバーグはシティルネッサンスの代表として、全米で最も住みやすい町に選ばれたほどだ。
ちょうど明日からピッツバーグでG20の会議が開催されるが、マータイさんも今のピッツバーグを知ったら、その変貌にさぞかし驚くことだろう。
ナイロビ大学に就職
ピッツバーグ大学での研究後、ナイロビ大学の動物学科から採用通知を受け取り、マータイさんは1966年にケニアに戻る。しかし、大学に行ったら動物学の教授から他の人を採用したと言われる。教授と同じ出身部族の者を優先したのだ。
就職活動の後、ギーセン大学から派遣されているドイツ人教授のいるナイロビ大学獣医解剖学科に採用され、ギーセン大学に2年弱留学する。
1969年にナイロビ大学の助講師として復帰し、政治活動を志すムワンギ氏と結婚、長男をはじめ3人の子供が生まれる。ムワンギ氏は1974年の選挙で当選し、マータイさんも1977年に助教授に就任する。
公私ともに順調のように見えるが、次第に夫婦の仲は悪化し、1979年には離婚訴訟となる。さらに訴訟中にマータイさんは女性の進出を好ましく思わない裁判官に法定侮辱罪で有罪とされ、刑務所に入れられてしまう。
植林運動を開始
1970年代前半からマータイさんは婦人運動や赤十字、環境運動にも加わり、森林伐採による洪水被害や、環境悪化対策として植林を推進するグリーンベルト運動を始め、エンバイロケア社を設立する。
1976年には国連人間居住計画(ハビッタットI)に参加し、マーガレット・ミード、マザー・テレサ、バーバラ・ウォードなどの演説を聴き、感銘を受ける。
ケニヤ独裁政権との闘い
1978年にケニヤッタ初代大統領が亡くなり、モイ副大統領が次いだ。
マータイさんはケニア全国女性評議会(NCWK)の議長に立候補するが、政府から圧力を受ける。出身部族のこと、女性であること、離婚歴があることなどがモイ大統領が嫌った理由だ。
1982年の国会議員補欠選挙に立候補を決めるが、裁判所からは資格がないという判決を出され失職する。
ナイロビ大学は復職を拒否し、社宅は即時退去、健康保険なし、おまけに年金受け取り資格がないと通知してきた。大統領が大学総長を兼任しており、大統領の意をくんだ副学長の仕業だ。
大学教授の地位も収入も失ったマータイさんを支援したのは、国連女性開発基金、UNIFEMとノルウェー森林協会だった。
グリーンベルト運動を進める一方、政府によるナイロビ市内のウフル公園への”公園の怪物、タイムズスクウェアビル”建設に反対したり、ナイロビ郊外のカルラの森の環境破壊に反対したので、モイ大統領からは反政府勢力と見なされ、投獄されたり、弾圧を受けることになった。
国会議員に当選
2002年の選挙でモイ政権が交代するとともに、マータイさんも国会議員に当選した。「立ち上がり、歩こう」という聖書からの言葉がモットーだったという。
この本の原題は"Unbowed"
この本の原題は"Unbowed"、つまり「屈しない」という意味で、男女差別、離婚した女性への差別、部族差別、政府の弾圧に対抗し、投獄されても屈しない生き方が描かれている。
この本を読むとグリーンベルト運動や世界女性会議等を通じたマータイさんの人脈の広さがよくわかる。
アメリカ留学資金を提供してもらったケネディ家に始まり、UNIFEMの初代事務局長ペギー・スナイダー、ロックフェラー家、U2のボノ、ボブ・ゲルドルフ、アル・ゴア、ミハイル・ゴルバチョフ、ノルウェーやオーストリアなど欧州の支援団体などだ。
ノーベル平和賞の候補になったときにも推薦する人が多くいたのだと思う。やはり国際政治がらみの案件は国際的な人脈が鍵となる。
その意味で東京のオリンピック立候補には残念ながら不安を感じざるをえない。鳩山首相に出馬願うとともに、皇室か国際機関などでの勤務経験のある国際的に著名な人材を得て、最後までベストを尽くして欲しいものだ。
マータイさんは日本語の「もったいない」に賛同し、"MOTTAINAI"精神と、風呂敷をエコラッピングとして世界的に広める運動を支援している。マータイさんをを支援者に持つことは、日本独自の3Rを中心とするMOTTAINAI運動にも国際的な広がりを与えることだろう。
3RとはReduce, Reuse, Recycleの3つのRだ。マータイさんはこれにRespectを加えて4つのRとしてはどうかと言っているそうだ。
アフリカに生まれ、女性差別、部族差別、離婚経験者差別、政府の弾圧など、様々な差別と圧力と闘って、ついにノーベル平和賞を受賞したマータイさんの努力には頭が下がる思いだ。
アル・ゴアのノーベル賞受賞理由と金大中の受賞理由の両方を兼ね備えているが、どちらかというと金大中の受賞理由に近い独裁政権との闘いが評価されているのだと思う。
この本はマータイさんの自伝で、森林保全のグリーンベルト運動に関しては、マータイさんのもう一冊の「モッタイナイで地球は緑になる」の方が詳しい。
モッタイナイで地球は緑になる著者:ワンガリ マータイ
販売元:木楽舎
発売日:2005-06
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但し、こちらの本も「モッタイナイ」という題名は付いているが、MOTTAINAI運動を広めようという趣旨の本ではないので、念のため。
アフリカでも森林伐採が進んでおり、ケニアではわずか国土の6%しか森林が残っていないという話に衝撃を受けた。アフリカのことを何も知らないのだということを、思い知らされた。
是非一読してアフリカに関する知識を拡充して欲しい。
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2009年09月21日
白洲次郎 占領を背負った男 祝!NHKドラマ 完結!
2009年9月21日追記:
いよいよNHKのテレビドラマ「白洲次郎」が完結する。今日夜10時から3夜連続で、第一話から第三話まで連続して放映される。

吉田茂役の原田芳雄の病気で、当初から今年2月末の第一、二話から半年遅れて第三話が8月に放映されることになっていた。これが衆議院選挙の関係でさらに一ヶ月遅れて完結することになったものだ。
家族で韓国に旅行するがHDビデオで予約し、戻ったら見るつもりだ。
ドラマの完結を祝して原作の北康利さんの「白洲次郎 占領を背負った男」のあらすじを再掲する。
著者の北康利さんからもコメントを戴いている。ドラマを見る際の参考にして欲しい。
2009年2月28日追記:
今日(2月28日)夜9時からNHK総合でドラマ「白洲次郎」が放送された。
見ていてストーリーが北さんの本と違うなと思っていたら、最後に「実話に基づくフィクション」という字幕が表示されて納得した。
冒頭に白洲次郎が自宅で、戦後の極秘文書を焼却する場面がある。白洲正子は中谷美紀だが、70歳台の白洲次郎は本人にそっくりの老俳優が演じていたのでびっくりした。
なかなかおもしろく、次回におおいに期待を持たせる内容だった。次の放送は3月7日、そして最後の3回目は8月に予定されている。
次回が楽しみだ。
2009年2月27日追記:
いよいよ明日(2月28日夜9時からNHK総合でドラマ「白洲次郎」が放送される。NHKも相当力が入っているようで、放送は全3回。2月28日、3月7日、そして最後の3回目は8月に予定されている。

大変期待しているドラマなので、テレビ放映にあわせて原作の北康利さんの「白洲次郎 占領を背負った男」のあらすじを再掲する。
2008年12月13日追記:
このブログで紹介して著者の北康利さんからもメッセージを頂いた「白洲次郎 占領を背負った男」が文庫になって講談社文庫から上下2巻で発売された。
白洲次郎 占領を背負った男 上 (講談社文庫)
著者:北 康利
販売元:講談社
発売日:2008-12-12
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白洲次郎 占領を背負った男 下 (講談社文庫)
著者:北 康利
販売元:講談社
発売日:2008-12-13
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文庫本になって買い求めやすくなったので是非一度は手にとってみて欲しい。
年間250冊読む筆者の今年一番のおすすめのノンフィクションである。
2008年5月20日追記:
筆者は読んでから本を買う主義だ。世の中には本当に手元に置いておきたい本は少ない。筆者の場合、読んでから買う本は年間5−10冊程度だ。
その筆者がこの本をアマゾンで注文して購入した。
買ってみて驚いたが、なんと筆者が買った版は第25刷だった。1刷何万部かわからないが、仮に1万部とすると既に25万部が売れている計算になる。
推薦文も図書館で借りて読んだ本は城山三郎氏の推薦文のみだったのが、第25刷では、城山三郎氏の他に、渡部昇一、朝日新聞、山崎洋子、福田和也、佐高信、舛添洋一、甘糟りり子、河内厚郎、読者2人の推薦文が本の帯に載せられている。
また北康利氏は、NHKの「その時歴史が動いた」の2006年4月の白洲次郎特集にも出演している。
大変よく売れている本で、いまだにベストセラーでもある。これは買っても良い本だと思う。
2008年5月17日追記:
本日あらすじをアップしたら思いがけず著者の北康利さんからコメントを戴いた。
いろいろなブログで取り上げていただきましたが、こんな気合の入ったものは初めてです。感激しました。Posted by 北康利 at 2008年05月17日 11:41
元気の出るコメントで、こちらこそ感激です。
+++今回のあらすじはすごく長いです+++
白洲次郎 占領を背負った男
著者:北 康利
販売元:講談社
発売日:2005-07-22
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吉田茂の腹心の部下として、戦争直後の対GHQ対策を担当し、日本国憲法が生まれる現場に立ち会った異色の実業家白洲次郎の伝記。
筆者は東京の町田市に住んでおり、小田急線の鶴川駅が最寄り駅だ。その鶴川駅から歩いて5分程度の場所に白洲次郎・正子夫妻の武相荘(ぶあいそう)があって、現在は記念館になっている。
一般的には白洲正子がエッセイストとして有名だが、白洲次郎もここ数年で数冊の本が出て、一躍有名になった。この本も2005年の発行だ。
白洲次郎は「日本で初めてジーンズをはいた人物」と呼ばれているが、次の本の表紙写真にあるようにジーンズ・Tシャツ姿も決まっている。
風の男 白洲次郎 (新潮文庫)
著者:青柳 恵介
販売元:新潮社
発売日:2000-07
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鶴川の書店では白洲正子コーナーがある。その一部に白洲次郎に関する本も少しだけ置いてあったが、最近では白洲次郎の本もかなりの数になっている。
この本の表紙の写真は白洲次郎が一目惚れした樺山正子、後の白洲正子に送った若き日のポートレートだ。ハンサムガイである。
白洲次郎は身長180センチを超え、当時の日本人としては非常に背が高く、外人の中に入っても見劣りしない体格と、ケンブリッジ大学出身の英語力で、戦後直後のGHQと渡り合い「マッカーサーをしかりとばした日本人」と言われている。
この本の著者の北康利氏は、東大法学部出身で銀行系の証券会社に勤務する傍ら、兵庫県三田市の郷土史研究家として九鬼隆一、川本幸民など三田市出身の名士の伝記を出版している。
また近々紹介する「国を支えて国を頼らず」も、九鬼隆一と浅からぬ縁がある福沢諭吉の伝記だ。
福沢諭吉 国を支えて国を頼らず
著者:北 康利
販売元:講談社
発売日:2007-03-30
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白洲次郎の祖先も三田出身だ。それにしても現役のビジネスマンながら、綿密な資料調査に基づき内容に全く手抜きのない400ページもの力作を何冊も出版している北さんのエネルギーには敬服する。
筆者も見習いたいものだ。
城山三郎氏の推薦文
あらすじが長くなってしまったので、この本の帯に載せられている城山三郎氏の推薦文を紹介しておく。この本の内容を簡潔に言い表している。
ある超名門ゴルフ・クラブのテラス。その大長老ともいえる人物に声をかけられ、私はその隣の椅子に。著名な政治家や財界人などが会釈するのに対して、その人物は軽くうなずくだけ。それに見合う不思議な存在感の持ち主。それが、白洲次郎氏であった。
この人の出自も結婚も、華やかそのもの。平然と官界、政界、財界、それに軍とも闘う。よく見て、監督し続ける。トヨタのトップには、「かけがえのない車を目指せ」とアドバイスし、政府に対しては、「何で勝手に勲何等とか決めることができるのか」と。
その人物がどんな風に育ち、人格を形成していったのかを、話題豊かに展開していく快著である
白洲次郎という人の経歴を一口で言うと、次のようになる。
白洲次郎は、神戸の豪商の家に生まれ、ケンブリッジ大学を卒業し、作家の白洲正子と結婚、戦前は吉田茂の「ヨハンセングループ」に協力し、戦時中は東京都下の鶴川村に隠棲、戦後は吉田茂の側近としてマッカーサーのGHQと日本国憲法制定交渉にあたる。数々の民間企業の経営に携わった他、初代貿易庁長官、通商産業省設立、東北電力会長就任、軽井沢ゴルフ倶楽部理事長就任という華やかな経歴を持った日本の戦後を創った功労者の一人である。
1985年に白洲次郎氏が亡くなったときは、総理大臣の中曽根康弘氏が弔問に駆けつけたという。
北さんが「占領を背負った男」と表したのも、実に的確と思う。
この本の最後に北さんは次のように記している。
白洲次郎の痛快なエピソードに触れると誰しも、高倉健主演の仁侠映画を見たあとの観客が、肩で風切りながら映画館をでてくるのにも似た精神の高揚感に包まれるはずである。しかしその一時的な興奮の後に、信念を持つ人間のみが身にまとえる真の意味での「格好良さ」に思いを致していただけるならば、作者冥利に尽きるというものである。
たしかに良い映画を見終わって映画館から出てくるような読後感のさわやかな作品である。この本に触発されて、筆者も白洲次郎に関する本を何冊か買ったので、いずれあらすじを紹介していく。
北さんは「司亮一」というペンネームで、兵庫県三田市出身の官僚九鬼隆一、蘭学者川本幸民の伝記を書いているが、ペンネームからも司馬遼太郎を意識していることがうかがえる。
この本も司馬遼太郎の作風を思わせる様に、あたかも見てきたように著述している。
筆者の住む町の有名人で、同じ旧大洋ホエールズファン、ストーリー性が高い人生を送った白洲次郎氏の伝記と言うこともあり、400ページ弱の大作だが、つい引き込まれてしまい、あらすじが大変長くなってしまい続きを読むにまでかかってしまった。
白洲次郎は強烈な人柄の人物なので、敵も味方も多く居たと思うが、この本ではもっぱら良い面だけが書かれている。その意味ではやや片手落ちの感もあるが、一度読んだら白洲次郎のファンになること請け合いだ。
このあらすじを読んだら、ほとんどこの本を読んだような気になるかもしれないが、是非手にとって読んで欲しい本だ。
それでは、この本の目次に従ってあらすじを紹介する。筆者は良い本は目次を見れば分かると思っているが、その典型の様な良くできた目次だ。日本国憲法制定以降は続きを読むに記した。
稀代の目利き
これは白洲正子、つまり白洲次郎の妻のことだ。昭和を代表する目利き青山二郎や昭和を代表する評論家小林秀雄、河上徹太郎などと親しくつきあい、著述家、目利きとして白洲正子は成長していく。
白洲正子は、プリンシプルを重んじる白洲次郎のことを「直情一徹の士(さむらい)」と表している。
エピソードには事欠かない。
白洲次郎はマッカーサーをしかりつけた日本人として有名だ。「戦争に負けたけれども奴隷になったわけではない」が次郎の口癖だったという。日本人離れした体躯と英国風のエレガンス・英語力を身につけていた次郎はGHQ高官とも堂々とわたりあった。
次郎は、うるさ方として音に聞こえた存在で、まず相手を威嚇して、その度量を図るという悪い癖があった。初対面の相手はそれだけで震え上がったという。青山二郎からは「メトロのライオン」(MGM映画の冒頭の吼えるライオンのこと)というあだ名を付けられたほどだ。
育ちのいい生粋の野蛮人
白洲次郎は1902年生まれ。兵庫県三田藩で代々儒官をつとめた白洲家で生まれ、祖父白洲退蔵は家老職を勤めた。白洲次郎は母よしこ似だったという。
父の白洲文平(ふみひら)にはなじめなかったが、芦屋の北の4万坪の屋敷に住み、何不自由ない少年時代を過ごした。家には美術館があり、雪舟や狩野派、土佐派の日本画、コロー、モネ、マティスといった洋画のコレクションがあったという。
神戸一中時代には親から米国車を買って貰って、自動車運転を始めている。同級生の作家今日出海は、「育ちのいい生粋の野蛮人」と呼んでいる。
ケンブリッジ大学クレア・カレッジ
旧制高校に行くだけの学力がなかった次郎を、父文平は「それならいっそのこと留学せえ」と、ケンブリッジ大学クレア・カレッジに送る。
次郎は生涯を通じ「プリンシプルが大事だ」と口にしたが、これはケンブリッジの"Be gentleman"(紳士たれ)という教育が元になっている。ケンブリッジ時代に生涯の友、後のストラッフォード伯爵、通称ロビンと出会う。
次郎への仕送りは1回で現在の金で3,000万円ほどという高額で、留学時代はベントレーの3リッターとブガッティタイプ35という超高級車2台を持っていたという信じられない生活をしている。
ケンブリッジの仲間からは、「オイリーボーイズ」と呼ばれ、サーキットに入り浸ったり、大陸へのグランドツアー(卒業旅行)をロビンと二人で2週間行っている。
孫の著述家白洲信哉氏の「白洲次郎の青春」は、このグランドツアーの旅程を現代のベントレーで巡った旅行記で、こちらも読み物として面白い。
白洲次郎の青春
著者:白洲 信哉
販売元:幻冬舎
発売日:2007-08
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そんな次郎の元に昭和の金融恐慌で白洲商店が倒産したという知らせが届き、次郎は8年間の留学生活にピリオドを打ち帰国する。帰国してからは「ジャパン・アドバタイザー」という英字新聞で働いた。米国の女学校への留学帰りの樺山伯爵家の娘正子と出会い、一目惚れして結婚する。樺山家には黒田清輝の「湖畔」と「読書」が客間と食堂を飾っていたという。

次郎はセール・フレーザー商会を経て、35歳で日本水産の取締役に就任する。
近衛文麿と吉田茂
次郎はカンパクと呼ぶ近衛文麿と親しくなり、近衛に頼まれて長男近衛文隆の面倒を見た。近衛文隆はソ連軍にシベリアに抑留され、とうとう1956年にシベリアで亡くなる。次郎は「ソ連の野郎、絶対にゆるさねえ!」と叫んだという。
正子の父樺山愛輔は、吉田茂の義理の父の明治の元老牧野伸顕と同じ薩摩出身で親しかったことから、次郎も吉田と知遇を得る。
昭和10年当時、樺山愛輔、牧野伸顕、吉田茂は「ヨハンセングループ」(吉田反戦グループ)と呼ばれ、軍部から目を付けられていた。
次郎は吉田や吉田の妻雪子にも可愛がられ、吉田の三女、和子の麻生太賀吉への縁組みをまとめ上げる。政治家麻生太郎氏の両親だ。
吉田は戦争回避に尽力するが、流れは食い止められず日本は戦争に突入する。次郎は日本の敗戦を予測し、間違いなく食糧不足になるとの見込みのもとに、東京都鶴川村で5,000坪の農家を買って移り住み農業を始める。これが鶴川にある武相荘だ。
牛場友彦、細川護貞などがこのころの次郎の友達だ。
吉田は近衛の依頼を受け、天皇に終戦の上申書を提出しようとしていたことから、軍部に逮捕され、昭和20年4月に収監されるが、阿南惟幾陸軍大臣(あなみこれちか)の口添えで不起訴となり釈放される。
終戦連絡事務局
1945年(昭和20年)、次郎が43歳の時に日本はポツダム宣言を受諾した。マッカーサーが進駐してきて、GHQを設立する。GHQは第一生命本社ビルを接収して事務所として使った。

当時65歳だったマッカーサーの様々なエピソードが紹介されていて、面白い。マッカーサーは演出効果、アナウンスメント効果を常に考えて行動する名優だったという。天皇との写真の演出などはその最たる物だ。

正装の天皇と略服のマッカーサー。日本国民はこの写真を見て衝撃を受けたという。
出典:Wikipedia
次郎は近衛に対して吉田を外相として起用するよう進言する。吉田は外務省の部長以上を辞めさせ、次郎をGHQとの折衝を担当する終戦連絡事務局参与として抜擢する。
GHQの窓口は民政局(Government Section)であり、局長はホイットニー准将、局次長はユダヤ人でハンサムガイのケーディス中佐だった。
北さんは宮澤喜一元首相にも取材しているが、「白洲さんはとにかくよく進駐軍に楯ついていましたよ」と語っていたという。
英語の喧嘩はお手のもので、ホイットニーが「貴方は英語がお上手ですな」とお世辞を言ったら、「閣下の英語も、もっと練習したら上達しますよ」と切り返した話は有名だ。次郎のあだ名は"Mr. Why"とも"Sneaking eel"(岩の間に入り込むうなぎ)とも言われた。次郎の行動をよく示しているあだ名である。
憤死
マッカーサーは近衛と会い、「近衛公は世界を知り、コスモポリタンで、年齢も若いのだから、自由主義者を集めて帝国憲法を改正するべきでしょう」と促す。近衛はこれに基づき、京大時代の恩師の佐々木惣一をヘッドとする憲法調査会を内大臣府に編成した。しかし戦犯容疑のある近衛を重用するマッカーサーへの批判がアメリカ国内で強まると、マッカーサーは近衛を切り捨てる。
GHQは日本側案を一顧だにせず黙殺、ついには近衛を戦犯指名する。近衛は逮捕前日に親しい友人を夕食に招待したが、勘の鋭い次郎は招待を断る。予想通り近衛は青酸カリ服毒自殺を遂げる。
その直後、次郎が天皇のクリスマスプレゼントをマッカーサーの部屋に届ける時に、マッカーサーが「その辺にでも置いておいてくれ」というと、次郎は「いやしくもかつて日本の統治者であった人からの贈り物を、その辺に置けとは何事ですかっ!」と叱りとばし、マッカーサーはあわてて謝り、新たにテーブルを用意させたという事件が起こる。
次郎がマッカーサーをしかりつけた唯一の日本人と云われるゆえんだ。
「見ていてくれましたか?カンパク、あの野郎に一矢報いてやりましたよ」、近衛を憤死させた義憤があったからこそ、絶対権力者に対して大胆にも声を荒げて怒ったのだ。
"真珠の首飾り"ー憲法改正極秘プロジェクト
マッカーサーは絶対権力者として、欲しいままに日本を荒療治する。自分をフィリピンで破った本間雅晴中将に対しては43の罪で戦犯として銃殺刑を科した。
本間は、刑の執行の前に「私はバターンにおける一連の責任を取って殺される。私が知りたいのは、広島や長崎の無辜の市民の死はいったい誰の責任なのか、という事だ。それはマッカーサーなのか、トルーマンなのか」と語ったが、その声は無視される。
GHQの民政局を実質支配していたケーディスは昭和21年1月に公職追放を発表し、1年半ほどの間に20万人の有力者が追放され、指導者を失った現場は大混乱した。
近衛死後日本側で新憲法案を検討していたのは、国務大臣で法学者の松本烝治ただひとりだったが、昭和21年2月に憲法問題調査委員会試案が毎日新聞記者の西山柳造によりすっぱ抜かれ、毎日新聞の1面にスクープされたのだ。
ちなみに西山記者が情報入手ソースを明かさなかったため、この世紀のスクープの真相は50年近く不明だったが、死の直前の1997年に西山氏は真相をあかしている。
日本側案は明治憲法を微調整したものだったので、毎日新聞スクープの2日後にマッカーサーはホイットニーに象徴天皇、戦争放棄、封建制廃止の3つの原則を柱とする憲法改正草案の作成を命じる。これがコードネーム"真珠の首飾り"の新憲法案作成プロジェクトだ。
GHQが憲法を制定することは、そもそも国際法に違反する行為だった。国際法の基本であるハーグ条約には次のような規定がある。
「国の権力が事実上占領者の手に移りたる上は、占領者は、絶対的の支障なき限り、占領地の現行法律を尊重して、なるべく公共の秩序及び生活を回復確保する為施し得べき一切の手段を尽くすべし」(ハーグ条約付属書規則第43条)
しかしソ連が日本の占領がアメリカ軍だけで行われていることに不審を抱き、GHQを監視する極東委員会が設置されることが決まったことが、マッカーサーに憲法改正案をつくらせる引き金となった。ソ連が口出しする前に先手必勝というわけだ。
ホイットニーはケーディスにリンカーンの誕生日(2月12日)までに憲法改正案を創るように指示する。ケーディスは民政局から25名のメンバーを選び、いわゆるマッカーサー草案を期限前の2月10日に完成させる。
25人のメンバーの構成は、陸軍将校11名、海軍士官4名、軍属4名、秘書を含む女性6名だった。弁護士資格を持つものこそ3名いたが、憲法の専門家はゼロだった。
マッカーサー草案は予定通り2月13日に吉田外相、松本烝治国務大臣、次郎、外務省嘱託長谷川元吉にホイットニー、ケーディスらから伝えられた。天皇象徴制、一院制が骨子だ。当時GHQ民政局には共産主義者が多かったといわれているが、それを反映した土地国有化条項も織り込まれていた。
日本側がマッカーサー草案を見ている間、ホイットニーらは席を外す。戻ってきた時に次郎に言った言葉が"We have been enjoying your atomic sunshine"だった。次郎は憤慨し、それを聞いた吉田が、GHQなんて"Go Home Quickly"だと怒る。
ジープウェイ・レター
次郎は、マッカーサー案は日本の固有の事情を顧みない"Airway letter"(空路)であり、日本側の案は曲がりくねった山道を行く"Jeepway letter"で、日本の伝統と国情に即したものだと反論したが、全く功を奏さなかった。
次郎がホイットニーと交渉するが、48時間以内に回答しないとGHQ側でマッカーサー案を発表し総選挙の争点にするとおどされる。
幣原首相がマッカーサーと会談し、天皇に関する規定や戦力不保持といった基本原則以外は修正を加えても良いとの一応の言質を取り付け、回答期限の2月22日に天皇に上奏し了承を得た。
2月26日の閣議にマッカーサー案の外務省訳が閣僚に配布され、3月4日を期限としてマッカーサー案を土台にして日本案を作る作業にかかることが決定される。
ソ連が動き、極東委員会が活動を開始したので、マッカーサーは早急に憲法改正案をつくる必要が出てくる。
「今に見ていろ」ト云フ気持抑ヘ切レス
3月4日に法制局の佐藤達夫部長、松本烝治、次郎と外務省の担当者他でGHQのホイットニー以下と30時間におよぶマラソン翻訳会議を開始する。ベアテ・シロタというロシア系ユダヤ人で日本に10年間滞在して日本語が堪能なメンバーが通訳として加わる。
彼女が加わったことで、女性の権利を保障する日本国憲法第24条などが織り込まれた。
ベースとなるのは3月2日案と呼ばれる松本案だった。マッカーサー案から大幅に修正されていることがわかり、ケーディスと松本の激論が始まったが松本は途中で官邸に戻るとして退席し、次郎と佐藤、外務省スタッフだけが残って交渉を続ける。
結局修正が認められたのは一院政と土地所有くらいで、松本修正案はほとんど徒労に終わった。
ソ連の呼びかけで極東委員会が3月7日にワシントンで開催されることが決まったので、ケーディスは3月5日までにファイナルドラフトをつくると宣言する。次郎は松本を呼ぶが、松本は病気を口実に拒否し、次郎と佐藤がケーディス、シロタ他と徹夜で外務省訳をもとに3月5日朝までにドラフトを作成する。
次郎はそれまで何度も官邸に途中報告し、できあがった英文の「憲法改正草稿要項」を官邸に持ち込み、3月5日午後4時半からの閣議にかける。松本は引き延ばしを主張するが、幣原首相は涙ぐみ「もう一日でも延びたら大変なことになる」として受諾を決意する。
その後皇居に幣原と松本が参内、「敗北しました」と天皇に閣議決定を報告する。天皇は皇室典範の天皇の留保権と、堂上華族を残せないかと2点につき要望を述べられるが、そのままになった。
翌3月6日に「日本政府による憲法改正案」として世間に公表される。完全な「出来レース」だ。極東委員会はこれが日本人によるものでないことを見抜いたが、マッカーサーは押し切る。
大日本国憲法の改正だったので、枢密院可決を経て、帝国議会で承認、貴族院でも可決され、昭和21年11月3日日本国憲法は公布され、翌22年5月3日に施行された。
GHQは憲法案成立直後に松本烝治を公職追放した。次郎は「監禁して強姦されたらアイノコが生まれたイ!」と言っていたそうだ。
次郎が汚れ役になってGHQの矢面に立ったおかげで、吉田茂は憲法案成立の数ヶ月後に首相になれたと指摘する歴史家もいる。
屈辱を堪え忍んだ次郎だが、近々紹介する自著の「プリンシプルのない日本」の中で「戦争放棄の条項などプリンシプルは実に立派なので、押しつけられようが、そうでなかろうが、いいものはいいと率直に受け入れるべきではないだろうか」と冷静な意見を言っているのは注目に値すると北さんは指摘する。
プリンシプルのない日本 (新潮文庫)
著者:白洲 次郎
販売元:新潮社
発売日:2006-05
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いよいよNHKのテレビドラマ「白洲次郎」が完結する。今日夜10時から3夜連続で、第一話から第三話まで連続して放映される。
吉田茂役の原田芳雄の病気で、当初から今年2月末の第一、二話から半年遅れて第三話が8月に放映されることになっていた。これが衆議院選挙の関係でさらに一ヶ月遅れて完結することになったものだ。
家族で韓国に旅行するがHDビデオで予約し、戻ったら見るつもりだ。
ドラマの完結を祝して原作の北康利さんの「白洲次郎 占領を背負った男」のあらすじを再掲する。
著者の北康利さんからもコメントを戴いている。ドラマを見る際の参考にして欲しい。
2009年2月28日追記:
今日(2月28日)夜9時からNHK総合でドラマ「白洲次郎」が放送された。
見ていてストーリーが北さんの本と違うなと思っていたら、最後に「実話に基づくフィクション」という字幕が表示されて納得した。
冒頭に白洲次郎が自宅で、戦後の極秘文書を焼却する場面がある。白洲正子は中谷美紀だが、70歳台の白洲次郎は本人にそっくりの老俳優が演じていたのでびっくりした。
なかなかおもしろく、次回におおいに期待を持たせる内容だった。次の放送は3月7日、そして最後の3回目は8月に予定されている。
次回が楽しみだ。
2009年2月27日追記:
いよいよ明日(2月28日夜9時からNHK総合でドラマ「白洲次郎」が放送される。NHKも相当力が入っているようで、放送は全3回。2月28日、3月7日、そして最後の3回目は8月に予定されている。
大変期待しているドラマなので、テレビ放映にあわせて原作の北康利さんの「白洲次郎 占領を背負った男」のあらすじを再掲する。
2008年12月13日追記:
このブログで紹介して著者の北康利さんからもメッセージを頂いた「白洲次郎 占領を背負った男」が文庫になって講談社文庫から上下2巻で発売された。
白洲次郎 占領を背負った男 上 (講談社文庫)著者:北 康利
販売元:講談社
発売日:2008-12-12
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白洲次郎 占領を背負った男 下 (講談社文庫)著者:北 康利
販売元:講談社
発売日:2008-12-13
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文庫本になって買い求めやすくなったので是非一度は手にとってみて欲しい。
年間250冊読む筆者の今年一番のおすすめのノンフィクションである。
2008年5月20日追記:
筆者は読んでから本を買う主義だ。世の中には本当に手元に置いておきたい本は少ない。筆者の場合、読んでから買う本は年間5−10冊程度だ。
その筆者がこの本をアマゾンで注文して購入した。
買ってみて驚いたが、なんと筆者が買った版は第25刷だった。1刷何万部かわからないが、仮に1万部とすると既に25万部が売れている計算になる。
推薦文も図書館で借りて読んだ本は城山三郎氏の推薦文のみだったのが、第25刷では、城山三郎氏の他に、渡部昇一、朝日新聞、山崎洋子、福田和也、佐高信、舛添洋一、甘糟りり子、河内厚郎、読者2人の推薦文が本の帯に載せられている。
また北康利氏は、NHKの「その時歴史が動いた」の2006年4月の白洲次郎特集にも出演している。
大変よく売れている本で、いまだにベストセラーでもある。これは買っても良い本だと思う。
2008年5月17日追記:
本日あらすじをアップしたら思いがけず著者の北康利さんからコメントを戴いた。
いろいろなブログで取り上げていただきましたが、こんな気合の入ったものは初めてです。感激しました。Posted by 北康利 at 2008年05月17日 11:41
元気の出るコメントで、こちらこそ感激です。
+++今回のあらすじはすごく長いです+++
白洲次郎 占領を背負った男著者:北 康利
販売元:講談社
発売日:2005-07-22
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吉田茂の腹心の部下として、戦争直後の対GHQ対策を担当し、日本国憲法が生まれる現場に立ち会った異色の実業家白洲次郎の伝記。
筆者は東京の町田市に住んでおり、小田急線の鶴川駅が最寄り駅だ。その鶴川駅から歩いて5分程度の場所に白洲次郎・正子夫妻の武相荘(ぶあいそう)があって、現在は記念館になっている。
一般的には白洲正子がエッセイストとして有名だが、白洲次郎もここ数年で数冊の本が出て、一躍有名になった。この本も2005年の発行だ。
白洲次郎は「日本で初めてジーンズをはいた人物」と呼ばれているが、次の本の表紙写真にあるようにジーンズ・Tシャツ姿も決まっている。
風の男 白洲次郎 (新潮文庫)著者:青柳 恵介
販売元:新潮社
発売日:2000-07
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鶴川の書店では白洲正子コーナーがある。その一部に白洲次郎に関する本も少しだけ置いてあったが、最近では白洲次郎の本もかなりの数になっている。
この本の表紙の写真は白洲次郎が一目惚れした樺山正子、後の白洲正子に送った若き日のポートレートだ。ハンサムガイである。
白洲次郎は身長180センチを超え、当時の日本人としては非常に背が高く、外人の中に入っても見劣りしない体格と、ケンブリッジ大学出身の英語力で、戦後直後のGHQと渡り合い「マッカーサーをしかりとばした日本人」と言われている。
この本の著者の北康利氏は、東大法学部出身で銀行系の証券会社に勤務する傍ら、兵庫県三田市の郷土史研究家として九鬼隆一、川本幸民など三田市出身の名士の伝記を出版している。
また近々紹介する「国を支えて国を頼らず」も、九鬼隆一と浅からぬ縁がある福沢諭吉の伝記だ。
福沢諭吉 国を支えて国を頼らず著者:北 康利
販売元:講談社
発売日:2007-03-30
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白洲次郎の祖先も三田出身だ。それにしても現役のビジネスマンながら、綿密な資料調査に基づき内容に全く手抜きのない400ページもの力作を何冊も出版している北さんのエネルギーには敬服する。
筆者も見習いたいものだ。
城山三郎氏の推薦文
あらすじが長くなってしまったので、この本の帯に載せられている城山三郎氏の推薦文を紹介しておく。この本の内容を簡潔に言い表している。
ある超名門ゴルフ・クラブのテラス。その大長老ともいえる人物に声をかけられ、私はその隣の椅子に。著名な政治家や財界人などが会釈するのに対して、その人物は軽くうなずくだけ。それに見合う不思議な存在感の持ち主。それが、白洲次郎氏であった。
この人の出自も結婚も、華やかそのもの。平然と官界、政界、財界、それに軍とも闘う。よく見て、監督し続ける。トヨタのトップには、「かけがえのない車を目指せ」とアドバイスし、政府に対しては、「何で勝手に勲何等とか決めることができるのか」と。
その人物がどんな風に育ち、人格を形成していったのかを、話題豊かに展開していく快著である
白洲次郎という人の経歴を一口で言うと、次のようになる。
白洲次郎は、神戸の豪商の家に生まれ、ケンブリッジ大学を卒業し、作家の白洲正子と結婚、戦前は吉田茂の「ヨハンセングループ」に協力し、戦時中は東京都下の鶴川村に隠棲、戦後は吉田茂の側近としてマッカーサーのGHQと日本国憲法制定交渉にあたる。数々の民間企業の経営に携わった他、初代貿易庁長官、通商産業省設立、東北電力会長就任、軽井沢ゴルフ倶楽部理事長就任という華やかな経歴を持った日本の戦後を創った功労者の一人である。
1985年に白洲次郎氏が亡くなったときは、総理大臣の中曽根康弘氏が弔問に駆けつけたという。
北さんが「占領を背負った男」と表したのも、実に的確と思う。
この本の最後に北さんは次のように記している。
白洲次郎の痛快なエピソードに触れると誰しも、高倉健主演の仁侠映画を見たあとの観客が、肩で風切りながら映画館をでてくるのにも似た精神の高揚感に包まれるはずである。しかしその一時的な興奮の後に、信念を持つ人間のみが身にまとえる真の意味での「格好良さ」に思いを致していただけるならば、作者冥利に尽きるというものである。
たしかに良い映画を見終わって映画館から出てくるような読後感のさわやかな作品である。この本に触発されて、筆者も白洲次郎に関する本を何冊か買ったので、いずれあらすじを紹介していく。
北さんは「司亮一」というペンネームで、兵庫県三田市出身の官僚九鬼隆一、蘭学者川本幸民の伝記を書いているが、ペンネームからも司馬遼太郎を意識していることがうかがえる。
この本も司馬遼太郎の作風を思わせる様に、あたかも見てきたように著述している。
筆者の住む町の有名人で、同じ旧大洋ホエールズファン、ストーリー性が高い人生を送った白洲次郎氏の伝記と言うこともあり、400ページ弱の大作だが、つい引き込まれてしまい、あらすじが大変長くなってしまい続きを読むにまでかかってしまった。
白洲次郎は強烈な人柄の人物なので、敵も味方も多く居たと思うが、この本ではもっぱら良い面だけが書かれている。その意味ではやや片手落ちの感もあるが、一度読んだら白洲次郎のファンになること請け合いだ。
このあらすじを読んだら、ほとんどこの本を読んだような気になるかもしれないが、是非手にとって読んで欲しい本だ。
それでは、この本の目次に従ってあらすじを紹介する。筆者は良い本は目次を見れば分かると思っているが、その典型の様な良くできた目次だ。日本国憲法制定以降は続きを読むに記した。
稀代の目利き
これは白洲正子、つまり白洲次郎の妻のことだ。昭和を代表する目利き青山二郎や昭和を代表する評論家小林秀雄、河上徹太郎などと親しくつきあい、著述家、目利きとして白洲正子は成長していく。
白洲正子は、プリンシプルを重んじる白洲次郎のことを「直情一徹の士(さむらい)」と表している。
エピソードには事欠かない。
白洲次郎はマッカーサーをしかりつけた日本人として有名だ。「戦争に負けたけれども奴隷になったわけではない」が次郎の口癖だったという。日本人離れした体躯と英国風のエレガンス・英語力を身につけていた次郎はGHQ高官とも堂々とわたりあった。
次郎は、うるさ方として音に聞こえた存在で、まず相手を威嚇して、その度量を図るという悪い癖があった。初対面の相手はそれだけで震え上がったという。青山二郎からは「メトロのライオン」(MGM映画の冒頭の吼えるライオンのこと)というあだ名を付けられたほどだ。
育ちのいい生粋の野蛮人
白洲次郎は1902年生まれ。兵庫県三田藩で代々儒官をつとめた白洲家で生まれ、祖父白洲退蔵は家老職を勤めた。白洲次郎は母よしこ似だったという。
父の白洲文平(ふみひら)にはなじめなかったが、芦屋の北の4万坪の屋敷に住み、何不自由ない少年時代を過ごした。家には美術館があり、雪舟や狩野派、土佐派の日本画、コロー、モネ、マティスといった洋画のコレクションがあったという。
神戸一中時代には親から米国車を買って貰って、自動車運転を始めている。同級生の作家今日出海は、「育ちのいい生粋の野蛮人」と呼んでいる。
ケンブリッジ大学クレア・カレッジ
旧制高校に行くだけの学力がなかった次郎を、父文平は「それならいっそのこと留学せえ」と、ケンブリッジ大学クレア・カレッジに送る。
次郎は生涯を通じ「プリンシプルが大事だ」と口にしたが、これはケンブリッジの"Be gentleman"(紳士たれ)という教育が元になっている。ケンブリッジ時代に生涯の友、後のストラッフォード伯爵、通称ロビンと出会う。
次郎への仕送りは1回で現在の金で3,000万円ほどという高額で、留学時代はベントレーの3リッターとブガッティタイプ35という超高級車2台を持っていたという信じられない生活をしている。
ケンブリッジの仲間からは、「オイリーボーイズ」と呼ばれ、サーキットに入り浸ったり、大陸へのグランドツアー(卒業旅行)をロビンと二人で2週間行っている。
孫の著述家白洲信哉氏の「白洲次郎の青春」は、このグランドツアーの旅程を現代のベントレーで巡った旅行記で、こちらも読み物として面白い。
白洲次郎の青春著者:白洲 信哉
販売元:幻冬舎
発売日:2007-08
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そんな次郎の元に昭和の金融恐慌で白洲商店が倒産したという知らせが届き、次郎は8年間の留学生活にピリオドを打ち帰国する。帰国してからは「ジャパン・アドバタイザー」という英字新聞で働いた。米国の女学校への留学帰りの樺山伯爵家の娘正子と出会い、一目惚れして結婚する。樺山家には黒田清輝の「湖畔」と「読書」が客間と食堂を飾っていたという。

次郎はセール・フレーザー商会を経て、35歳で日本水産の取締役に就任する。
近衛文麿と吉田茂
次郎はカンパクと呼ぶ近衛文麿と親しくなり、近衛に頼まれて長男近衛文隆の面倒を見た。近衛文隆はソ連軍にシベリアに抑留され、とうとう1956年にシベリアで亡くなる。次郎は「ソ連の野郎、絶対にゆるさねえ!」と叫んだという。
正子の父樺山愛輔は、吉田茂の義理の父の明治の元老牧野伸顕と同じ薩摩出身で親しかったことから、次郎も吉田と知遇を得る。
昭和10年当時、樺山愛輔、牧野伸顕、吉田茂は「ヨハンセングループ」(吉田反戦グループ)と呼ばれ、軍部から目を付けられていた。
次郎は吉田や吉田の妻雪子にも可愛がられ、吉田の三女、和子の麻生太賀吉への縁組みをまとめ上げる。政治家麻生太郎氏の両親だ。
吉田は戦争回避に尽力するが、流れは食い止められず日本は戦争に突入する。次郎は日本の敗戦を予測し、間違いなく食糧不足になるとの見込みのもとに、東京都鶴川村で5,000坪の農家を買って移り住み農業を始める。これが鶴川にある武相荘だ。
牛場友彦、細川護貞などがこのころの次郎の友達だ。
吉田は近衛の依頼を受け、天皇に終戦の上申書を提出しようとしていたことから、軍部に逮捕され、昭和20年4月に収監されるが、阿南惟幾陸軍大臣(あなみこれちか)の口添えで不起訴となり釈放される。
終戦連絡事務局
1945年(昭和20年)、次郎が43歳の時に日本はポツダム宣言を受諾した。マッカーサーが進駐してきて、GHQを設立する。GHQは第一生命本社ビルを接収して事務所として使った。

当時65歳だったマッカーサーの様々なエピソードが紹介されていて、面白い。マッカーサーは演出効果、アナウンスメント効果を常に考えて行動する名優だったという。天皇との写真の演出などはその最たる物だ。

正装の天皇と略服のマッカーサー。日本国民はこの写真を見て衝撃を受けたという。
出典:Wikipedia
次郎は近衛に対して吉田を外相として起用するよう進言する。吉田は外務省の部長以上を辞めさせ、次郎をGHQとの折衝を担当する終戦連絡事務局参与として抜擢する。
GHQの窓口は民政局(Government Section)であり、局長はホイットニー准将、局次長はユダヤ人でハンサムガイのケーディス中佐だった。
北さんは宮澤喜一元首相にも取材しているが、「白洲さんはとにかくよく進駐軍に楯ついていましたよ」と語っていたという。
英語の喧嘩はお手のもので、ホイットニーが「貴方は英語がお上手ですな」とお世辞を言ったら、「閣下の英語も、もっと練習したら上達しますよ」と切り返した話は有名だ。次郎のあだ名は"Mr. Why"とも"Sneaking eel"(岩の間に入り込むうなぎ)とも言われた。次郎の行動をよく示しているあだ名である。
憤死
マッカーサーは近衛と会い、「近衛公は世界を知り、コスモポリタンで、年齢も若いのだから、自由主義者を集めて帝国憲法を改正するべきでしょう」と促す。近衛はこれに基づき、京大時代の恩師の佐々木惣一をヘッドとする憲法調査会を内大臣府に編成した。しかし戦犯容疑のある近衛を重用するマッカーサーへの批判がアメリカ国内で強まると、マッカーサーは近衛を切り捨てる。
GHQは日本側案を一顧だにせず黙殺、ついには近衛を戦犯指名する。近衛は逮捕前日に親しい友人を夕食に招待したが、勘の鋭い次郎は招待を断る。予想通り近衛は青酸カリ服毒自殺を遂げる。
その直後、次郎が天皇のクリスマスプレゼントをマッカーサーの部屋に届ける時に、マッカーサーが「その辺にでも置いておいてくれ」というと、次郎は「いやしくもかつて日本の統治者であった人からの贈り物を、その辺に置けとは何事ですかっ!」と叱りとばし、マッカーサーはあわてて謝り、新たにテーブルを用意させたという事件が起こる。
次郎がマッカーサーをしかりつけた唯一の日本人と云われるゆえんだ。
「見ていてくれましたか?カンパク、あの野郎に一矢報いてやりましたよ」、近衛を憤死させた義憤があったからこそ、絶対権力者に対して大胆にも声を荒げて怒ったのだ。
"真珠の首飾り"ー憲法改正極秘プロジェクト
マッカーサーは絶対権力者として、欲しいままに日本を荒療治する。自分をフィリピンで破った本間雅晴中将に対しては43の罪で戦犯として銃殺刑を科した。
本間は、刑の執行の前に「私はバターンにおける一連の責任を取って殺される。私が知りたいのは、広島や長崎の無辜の市民の死はいったい誰の責任なのか、という事だ。それはマッカーサーなのか、トルーマンなのか」と語ったが、その声は無視される。
GHQの民政局を実質支配していたケーディスは昭和21年1月に公職追放を発表し、1年半ほどの間に20万人の有力者が追放され、指導者を失った現場は大混乱した。
近衛死後日本側で新憲法案を検討していたのは、国務大臣で法学者の松本烝治ただひとりだったが、昭和21年2月に憲法問題調査委員会試案が毎日新聞記者の西山柳造によりすっぱ抜かれ、毎日新聞の1面にスクープされたのだ。
ちなみに西山記者が情報入手ソースを明かさなかったため、この世紀のスクープの真相は50年近く不明だったが、死の直前の1997年に西山氏は真相をあかしている。
日本側案は明治憲法を微調整したものだったので、毎日新聞スクープの2日後にマッカーサーはホイットニーに象徴天皇、戦争放棄、封建制廃止の3つの原則を柱とする憲法改正草案の作成を命じる。これがコードネーム"真珠の首飾り"の新憲法案作成プロジェクトだ。
GHQが憲法を制定することは、そもそも国際法に違反する行為だった。国際法の基本であるハーグ条約には次のような規定がある。
「国の権力が事実上占領者の手に移りたる上は、占領者は、絶対的の支障なき限り、占領地の現行法律を尊重して、なるべく公共の秩序及び生活を回復確保する為施し得べき一切の手段を尽くすべし」(ハーグ条約付属書規則第43条)
しかしソ連が日本の占領がアメリカ軍だけで行われていることに不審を抱き、GHQを監視する極東委員会が設置されることが決まったことが、マッカーサーに憲法改正案をつくらせる引き金となった。ソ連が口出しする前に先手必勝というわけだ。
ホイットニーはケーディスにリンカーンの誕生日(2月12日)までに憲法改正案を創るように指示する。ケーディスは民政局から25名のメンバーを選び、いわゆるマッカーサー草案を期限前の2月10日に完成させる。
25人のメンバーの構成は、陸軍将校11名、海軍士官4名、軍属4名、秘書を含む女性6名だった。弁護士資格を持つものこそ3名いたが、憲法の専門家はゼロだった。
マッカーサー草案は予定通り2月13日に吉田外相、松本烝治国務大臣、次郎、外務省嘱託長谷川元吉にホイットニー、ケーディスらから伝えられた。天皇象徴制、一院制が骨子だ。当時GHQ民政局には共産主義者が多かったといわれているが、それを反映した土地国有化条項も織り込まれていた。
日本側がマッカーサー草案を見ている間、ホイットニーらは席を外す。戻ってきた時に次郎に言った言葉が"We have been enjoying your atomic sunshine"だった。次郎は憤慨し、それを聞いた吉田が、GHQなんて"Go Home Quickly"だと怒る。
ジープウェイ・レター
次郎は、マッカーサー案は日本の固有の事情を顧みない"Airway letter"(空路)であり、日本側の案は曲がりくねった山道を行く"Jeepway letter"で、日本の伝統と国情に即したものだと反論したが、全く功を奏さなかった。
次郎がホイットニーと交渉するが、48時間以内に回答しないとGHQ側でマッカーサー案を発表し総選挙の争点にするとおどされる。
幣原首相がマッカーサーと会談し、天皇に関する規定や戦力不保持といった基本原則以外は修正を加えても良いとの一応の言質を取り付け、回答期限の2月22日に天皇に上奏し了承を得た。
2月26日の閣議にマッカーサー案の外務省訳が閣僚に配布され、3月4日を期限としてマッカーサー案を土台にして日本案を作る作業にかかることが決定される。
ソ連が動き、極東委員会が活動を開始したので、マッカーサーは早急に憲法改正案をつくる必要が出てくる。
「今に見ていろ」ト云フ気持抑ヘ切レス
3月4日に法制局の佐藤達夫部長、松本烝治、次郎と外務省の担当者他でGHQのホイットニー以下と30時間におよぶマラソン翻訳会議を開始する。ベアテ・シロタというロシア系ユダヤ人で日本に10年間滞在して日本語が堪能なメンバーが通訳として加わる。
彼女が加わったことで、女性の権利を保障する日本国憲法第24条などが織り込まれた。
ベースとなるのは3月2日案と呼ばれる松本案だった。マッカーサー案から大幅に修正されていることがわかり、ケーディスと松本の激論が始まったが松本は途中で官邸に戻るとして退席し、次郎と佐藤、外務省スタッフだけが残って交渉を続ける。
結局修正が認められたのは一院政と土地所有くらいで、松本修正案はほとんど徒労に終わった。
ソ連の呼びかけで極東委員会が3月7日にワシントンで開催されることが決まったので、ケーディスは3月5日までにファイナルドラフトをつくると宣言する。次郎は松本を呼ぶが、松本は病気を口実に拒否し、次郎と佐藤がケーディス、シロタ他と徹夜で外務省訳をもとに3月5日朝までにドラフトを作成する。
次郎はそれまで何度も官邸に途中報告し、できあがった英文の「憲法改正草稿要項」を官邸に持ち込み、3月5日午後4時半からの閣議にかける。松本は引き延ばしを主張するが、幣原首相は涙ぐみ「もう一日でも延びたら大変なことになる」として受諾を決意する。
その後皇居に幣原と松本が参内、「敗北しました」と天皇に閣議決定を報告する。天皇は皇室典範の天皇の留保権と、堂上華族を残せないかと2点につき要望を述べられるが、そのままになった。
翌3月6日に「日本政府による憲法改正案」として世間に公表される。完全な「出来レース」だ。極東委員会はこれが日本人によるものでないことを見抜いたが、マッカーサーは押し切る。
大日本国憲法の改正だったので、枢密院可決を経て、帝国議会で承認、貴族院でも可決され、昭和21年11月3日日本国憲法は公布され、翌22年5月3日に施行された。
GHQは憲法案成立直後に松本烝治を公職追放した。次郎は「監禁して強姦されたらアイノコが生まれたイ!」と言っていたそうだ。
次郎が汚れ役になってGHQの矢面に立ったおかげで、吉田茂は憲法案成立の数ヶ月後に首相になれたと指摘する歴史家もいる。
屈辱を堪え忍んだ次郎だが、近々紹介する自著の「プリンシプルのない日本」の中で「戦争放棄の条項などプリンシプルは実に立派なので、押しつけられようが、そうでなかろうが、いいものはいいと率直に受け入れるべきではないだろうか」と冷静な意見を言っているのは注目に値すると北さんは指摘する。
プリンシプルのない日本 (新潮文庫)著者:白洲 次郎
販売元:新潮社
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