2006年05月28日

リッツ・カールトンで学んだ仕事でいちばん大事なこと 『売れる』自分のつくり方

リッツ・カールトンで学んだ仕事でいちばん大事なこと


京都全日空ホテル社長で、リッツ・カールトンの大阪営業統括支配人を7年勤めた林田正光さんが語る、『売れる』自分のつくりかた。

リッツ・カールトンを題材にした最近のベストセラーは、本の帯の色で青と赤の2冊ある。

青の帯が以前紹介したリッツ・カールトン日本支社長の高野登さんの『リッツ・カールトンが大切にするサービスを超える瞬間』であり、こちらは赤の帯のリッツ・カールトンだ。


リッツ・カールトンが大切にする サービスを超える瞬間


感動を与えるサービスを作り出す仕組みのインサイダー情報(?)も興味深いが、この本の珠玉は第4章の「リッツ・マンに負けない魅力ある自分をつくる」という部分である。

林田さんは「自分の魅力づくり」というテーマで、しばしば講演の依頼を受けるそうだが、この本はリッツ・カールトンを経てパワーアップした林田さんが実践してきた「自分の魅力づくり」が紹介されており非常に参考になる。

青のリッツ・カールトンも良いが、赤のリッツ・カールトンも良い。一読をおすすめしたい本である。


林田さんの略歴

林田さんは熊本県出身で、高校卒業後、藤田観光の子会社の大阪の太閤園というレストランで32年間営業マンとして勤務したが、大病して退社。リッツ・カールトンが大阪で開業する際に応募し、営業支配人として就職する。

藤田観光はフォーシーズンズホテル椿山荘という合弁会社を持つが、フォーシーズンズホテル関係者が「リッツ・カールトンに見習え」としばしば言っていたことから、林田さんもいつかはクオリティの高いホテルで仕事をしたいという思っていたと。

林田さんは太閤園時代は3,000人を越えるお客様と、いつでも電話できる人間関係を保っていた。リッツ・カールトンに転職してからは人脈を4,500人に拡大した。

独立してサービス業のコンサルを一時していたが、現在は京都全日空ホテルの社長である。


リッツ・カールトン・ミスティーク

リッツ・カールトン・ミスティークについては、リッツ・カールトン日本支社長の高野登さんの『リッツ・カールトンが大切にするサービスを超える瞬間』で一部紹介したが、この本では、ミスティークと呼ばれるサービスを提供する仕組みがわかって面白い。

たとえばリッツ・カールトン・ミスティークの代表的なもので、以前一度宿泊しただけなのに、フロントが名前を覚えていたり、前回の宿泊目的がゴルフだったことを覚えていたりして感動した、というのがある。

これはドアマンが荷物の名札から名前を読み取り、インカムでフロントに連絡し、チェックインの準備を整えるとともに、素早くデータベースを参照しているのだ。

この様な接客はある意味、マネができるところだが、マネのできないところは営業時間が終了していても来た客には料理を出すとか、バーならせっかくだからと一杯出すとかいった、通常のサービスを超えた「ノーと言わない」サービスだ。

さらにお客の期待を上回り、感動を与えるサービスを提供するために、エンパワーメントという一人20万円までの決裁権限を全員が持ち、その場で最良の手配ができる仕組みとなっている。本物の顧客第一主義だからここまでやれるのだと。

お客のニーズをつかむために、従業員が心配りできる設定もしてある。

お客を部屋に案内したり、話をする機会をとらえてお客のニーズをいかに察知するかが決め手となるので、リッツ・カールトンでは自動ドアはないし、エレベーターやトイレは人目に触れにくくされ、表示もない。

これは「もう一つのわが家」というコンセプトからプライベートな空間を演出する意味合いもあるが、スタッフとお客様が接する機会を増やすという戦略でもあるのだ。


クレド(信条)を基軸として最高のサービスをつくる

リッツ・カールトンが感動を与えるサービスを提供できる仕組みは、リッツ・カールトン・クレドと呼ばれる信条が中心だ。

従業員には、入社時にクレドカードが配られ、これにはゴールドスタンダードと呼ばれるクレド、サービスの3ステップ、従業員への約束、モットー、ザ・リッツ・カールトン・ベーシックが記載されており、これがことあるごとに使われる。

このあたりは、青のリッツ・カールトン、高野登さんの『リッツ・カールトンが大切にするサービスを超える瞬間』に詳しい。

次に入社後2日間の、アルバイトやパートを含め全員が受けるクレドの思想・哲学の勉強で、紳士・淑女の行動はいかにあるべきかを一人一人が考える。

さらに入社1年目は300時間クレドを日常業務で実戦できるようトレーナーがマンツーマンで指導。定期的なテストもある。

これに加えてデイリー・ラインナップと呼ばれる15分間のミーティングで、クレドに基づいた勉強会を毎日全職場で行う。

クレドを根付かせ、補強する制度として3ヶ月に1度各ホテルで5人が選ばれるファイブスター制度、エンパワーメントなどがある。

林田さんは、お客様第一主義を掲げながら、多くの会社は自分たちの都合で動いていると指摘する。

それを限りなくお客様の都合にあわせる「ノーと言わない」会社にするために、リッツ・カールトンはクレドという経営哲学をつくっているのだ。

林田さんは、顧客満足向上のコンサルティングをするときは、必ずクレドを創るようにすすめていると。首尾一貫した心配り、顧客満足のアクションを起こすためにはクレドが必要なのである。尚、クレドつくりには必ず女性をいれよと林田さんはアドバイスしている。


仕事でいちばん大事なこと

林田さんは仕事でいちばん気を配らなければいけないことは、人間関係であると説く。

仕事上の仲間、上司、部下のみならず、お客様、取引先など、お互いの関係がうまくいかなければ、その仕事が成功する確率は極めて低いと。

林田さんはリッツ・カールトンに在籍してリッツ・カールトン・ミスティークと呼ばれる、お客様との人間関係を構築する手法にふれ、それを自分のものとする機会に恵まれたと語る。

モテる人になるのだ。そのために必要なのが、自分の魅力づくりだ

林田さんは「自分の魅力づくり」というテーマで、しばしば講演の依頼を受けるそうだが、魅力は『心配り』という土台の上に、『専門性』がのって成り立っていると語る。

心配りの最初は気配りで、マナーとコミュニケーション能力である。コミュニケーションのポイントは相手のことを理解しようとする姿勢とお互い妥協点を見つけあうことだ。

「なにごとも最初は人間関係から始めなくてはなりません。これは長年サービスや営業の仕事に携わってきた私の実感です」と林田さんは語る。「まずはマナーとコミュニケーション能力を身につけることから始めてください」と。

その上で自分の専門性を磨くのだ。

林田さんの『売り』は人脈づくり、顧客満足、イベントの仕掛けである。


林田さんの人脈づくり

林田さんは太閤園の営業マン時代は3,000人を越えるお客様といつでも電話できる人間関係を保っていた。名刺は名簿化して、2ヶ月に一回太閤園のイベント案内のDMを、必ず林田というハンコを押して送る。

リッツ・カールトンに転職してからは人脈を4,500人に拡大した。リッツ・カールトンを退職して、独立したときは、一介のサラリーマンの激励会にお客様400人が祝賀会を開いてくれたほどだ。

リッツ・カールトンを退社した後は、自分でイベントを考え、DMを出し続けていた。

林田さんの人脈づくりはこうした地道な努力と心配りの結果だ。

世代を越えたつきあいも意識してつくった。太閤園にいたときは、なるべく年上の人とつきあうことをこころがけ、ロータリークラブやライオンズクラブの人たちからはかわいがって貰ったと。

「頼み事をされたら絶対に断らない」し、心配りと情報で人脈をつくるのだ。

また入会金20万円を払い、自費で青年会議所(JC)に参加し、太閤園の勤務時間外にJC活動を積極的に行い、一月に10日はJC活動に充ていた。これで青年実業家を中心に人脈がどんどん広がった。

団体に所属する他に、自分でイベントを開くということも人脈づくりに有効である。

林田さんは42歳のとき、経営の為の勉強会『なにわ経済倶楽部』をつくり、現在は『ザ・フレンド倶楽部』という1,000人ほどの会となっている。

成功する異業種交流会の開き方についても、林田さんはノウハウを公開している。講師を呼んで講演会と交流会を行う。交通の便のいい場所で、参加者の1/3は女性とする。世話人会を作る等々。とにかく継続が大切である。

名刺交換御礼のファックス、フォロー、人脈つくりにはマメに心配りをというのが林田さんのメッセージだ。


リーダーシップと目標

最後に林田さんはリーダーシップと目標管理の重要さを説く。

リーダーには管理と感性の両方が必要であると。人間関係ができていれば、理屈抜きで人は動くと。

リーダーシップとともに、魅力ある人が必ず備えているものが目標である。個人版クレドを持とうと林田さんは説く。

林田さんの目標は、1.健康である、2.経済力をつくる、3.自己啓発をする、4.人脈づくりをする、5.家庭を大切にする、6.趣味を持つ、7.仕事、8.ボランティアの8つだ。

それぞれに3年先を見据えた長期目標、1年先を見た短期目標を定める。具体的な目標があれば、具体的なアクションプランが見えてきて、何をすればよいのかわかる。


トップ営業マンがリッツ・カールトンを経て、さらにパワーアップした『自分の魅力づくり』のノウハウを親切に説明してくれる。

さすがベストセラーになるだけのことはある。赤のリッツ・カールトンもおすすめだ。


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2006年05月23日

日本の戦争力 軍事評論家小川和久氏の事実に基づいた現状分析

日本の「戦争力」


テレビなどによく登場する軍事評論家小川和久氏の事実に基づいた日本の「戦争力」についての現状分析。

北朝鮮がテポドンの発射準備をしているというニュースもあり、タイムリーな話題である。

小川さんは、「はじめに」で政治家に提言する。「日本はどうして、国家の総力を挙げて世界の平和と日本の安全を実現しようとしないのか」と。

日本は十分な「戦争力」が備わっている。この本は『孫子』のいう「百戦百勝は、善の善なるものに非ず。戦わずして人の兵を屈するは、善の善なるものなり」という兵法の「戦わずして勝つ」ための極意について考えようという試みであると。

たしかにこの本を読むと、日本の「戦争力」を持ってすれば北朝鮮に「戦わずして勝つ」こともできると思えてくる。


自衛隊の「戦争力」

1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争については『戦略の本質』の中で紹介したが、自衛隊は朝鮮戦争勃発直後の7月8日に『警察予備隊』として誕生し、1954年7月に正式に防衛庁が設置され、陸・海・空自衛隊が発足した。

自衛隊の戦力については『その時自衛隊は戦えるか』で詳しく紹介した。

この本で小川さんは、よくいわれる「自衛隊の実力は世界第何位」という質問は意味がないと断じる。

軍事費比較では、GDPが世界2位で、人件費が高く、コストが何倍掛かっても国産兵器にこだわる自衛隊は必ずトップクラスになるのだと。実際、防衛費のうち、給料と食費が44%を占めている。

自衛隊は対潜水艦戦闘能力、掃海能力では世界トップクラスだが、他は大したことがない。水泳だけ得意なトライアスロン選手の様なものなので、諸外国軍隊とは比較にならないと語る。

ちなみにドイツは国防軍を持っているが、タイガー戦車以来の伝統で、世界最高のレオパルトII戦車を多数配備し、陸軍中心の構成で、旧共産圏からの侵略に対抗する防波堤となっている。

しかし戦時中のU-ボートの悪夢を断つということで、ドイツの潜水艦は500トン以下に制限されているので、ドイツ海軍はほとんど骨抜きのアンバランスな戦力となっている。

自衛隊は専守防衛なので、決定的に欠けているのはパワープロジェクション能力である。これは核兵器なら敵国を壊滅させることができる能力、通常兵器であれば数十万の軍隊を上陸させ敵国を占領できる能力であり、核攻撃あるいは侵略能力である。

小川さんは、日本は自衛隊にはパワープロジェクション能力がないと世界にアピールし、諸外国からの軍国主義の復活とかの批判にちゃんと反論すべきだと語る。


日米安保条約の片務性

日米安保条約では日本に対する武力攻撃への米軍の来援は明記されているが、アメリカに対する攻撃に対しては規定されていない。憲法9条の規定もあり、日本はアメリカを武力支援できない。

このことから、「片務的な日米安保は正常な同盟関係ではない。日本は成熟した同盟国としてちゃんと防衛分担を果たせ」という議論がでている。

しかし小川さんは日米安保条約があるから、アメリカは世界最大の補給基地を安心して置けており、日本抜きではアメリカの世界戦略は成り立たないのだと語る。

筆者はこれを読んで、以前、中曽根首相が、当時のレーガン大統領に言ったという「日本は浮沈空母(unsinkable aircraft carrier)だ」という言葉が、実は非常に当を得ていることを思い出した。さすが元軍人の中曽根首相だけのことはある。

まずは燃料備蓄だ。日本はペンタゴン最大の燃料備蓄ターミナルで、鶴見と佐世保の備蓄でアメリカ第7艦隊は半年戦闘行動ができる量である。

アメリカが引き揚げたフィリピンのスービックベイの備蓄能力は佐世保の半分以下だった。

次に武器弾薬だが、アメリカは広島に3箇所、佐世保、沖縄嘉手納に弾薬庫を持ち、広島県内の弾薬庫だけで、日本の自衛隊が持っている弾薬量を上回る。佐世保には第7艦隊用の弾薬庫。嘉手納にはこれらを上回る米軍最大の弾薬庫がある。

さらに通信傍受設備も世界最大級だ。『象のオリ』と呼ばれる電波傍受用アンテナは三沢にあるものは直径440メートル、高さ36メートル。周辺にも14基のアンテナ群がある。沖縄には直径200メートル、高さ30メートル。東京ドームと同じ大きさだ。

三沢にある世界最大級の設備は、英語圏5カ国以外には秘密とされているエシュロン活動の一端を担っているともいわれている。

アメリカ本土の延長のように、虎の子の燃料と弾薬を備蓄し、世界最大の第7艦隊の母港を置き、いざとなったら高度の補修ができ、最高機密の通信傍受設備も安心して置けるという国はアメリカにとって日本だけと言っても良い。

だからアメリカ政府の高官は「日本はアメリカの最も重要な同盟国である」としばしば発言するのだと。

前述の様に日本自体はパワープロジェクション能力はないが、日本が米軍のアジアにおけるパワープロジェクションプラットフォームになっているのだ。

日本で米軍が事件や事故をおこすと、アメリカはただちに最高の顔ぶれで謝罪する。他の同盟国ではありえないことだと。アメリカの側から見た日米同盟の重要性を象徴していると小川さんは語っている。

以前関榮次さんの『日英同盟』を紹介し、関さんが最も伝えたかったのは日米安保条約の再考ではないかと紹介した。

小川さんも「日米安保が片務だから、多くの日本人が錯覚から生まれた劣等感を抱いているが、日本列島に展開する米軍とは?その基地を置くアメリカの世界戦略は?と検証していけば、それが錯覚に過ぎないことが明らかになる」と説いている。

全世界でアメリカと対等な安保条約を結ぶ同盟国は存在しないのだと。

日本は毎年思いやり予算の2,000億円だけでなく、基地の賃借料、周辺対策費等各種費用もふくめて年間6,000億円を負担しているのだと小川さんは指摘する。

先日沖縄の海兵隊基地をグアムに移転する費用を6,000億円負担する政府間合意がなされたが、これは上記の年間6,000億円に加えての話であり、日米安保条約では日本が米軍基地移転費用を負担しなければならない義務はないという事実を知っておく必要がある。

日米はお互い不可欠のパートナーでもあり、関さんの指摘のように、日米安保体制を現在の世界情勢をふまえて、見直す必要があると筆者も考える。民主党の小沢党首に期待するところ大である。


北朝鮮の「戦争力」

小川さんは北朝鮮脅威論は木を見て森を見ない議論であると切り捨てる。

日本には日米安保条約という日本の安全保障を守るシステムがある。くわえて韓国には今も国連軍(400名ほどだが)が駐在しており、北朝鮮が先制攻撃を仕掛けてきたときには、1953年以来続いている休戦協定違反ということで国連軍が反撃できるのだ。

北朝鮮は国連軍からは先制攻撃はできないとタカをくくっていたが、イラク戦争以降、ブッシュ大統領がテロ支援国家には米軍は先制攻撃も辞さないと発言したことで、恐怖にかられ、それが2002年9月の小泉訪朝、日朝平壌宣言が実現する要因となった。

北朝鮮は核兵器を数個持っているにしても、ミサイルに搭載可能なほど小型化はできていないと見られる。今の北朝鮮のミサイルは通常弾頭だけだろうと小川さんは説く。

もし北朝鮮が日本にミサイルを撃ってきたら、米軍がそれの何十倍もの正確無比のトマホークミサイルを北朝鮮にぶち込むので、ミサイルを撃つ=国家の消滅となる。

そもそも燃料がなく、戦車も航空機も四世代前のものしかない北朝鮮は、兵器の数だけ揃えても、米軍の最新兵器には歯が立たない。

ミサイルを一発でも撃てば北朝鮮は一巻の終わりなので、ビビって虚勢だけなのだから、そのことをわかって、アメとムチの外交を進めるべきであることを小川さんは説く。

大前研一も『私はこうして発想する』のケーススタディで挙げていたが、金正日には選択肢はないのだということが、小川さんの議論からもよくわかる。

この本の帯に「目からウロコ!これが日本の実力だ!!」というキャッチがあるが、むしろ在日米軍、北朝鮮軍の実力がわかりやすく解説してあり、結果として日本の「戦争力」がわかるという構成だ。

さすがに売れっ子の軍事評論家だけのことはある。本の帯に「6万部突破」と書いてあるが、たしかに一読に値する防衛論だ。


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2006年05月21日

カリスマはいらない ベンチャーの『アニキ』 USEN宇野社長の挑戦

USEN宇野康秀の挑戦!カリスマはいらない。


フジテレビの持つライブドア株を約90億円で個人購入し、一躍ライブドア再建の救世主として世間の注目を集めたUSENの宇野康秀社長の履歴と戦略。

宇野康秀さんは、まさにベンチャーの『アニキ』と言える存在だ。

このブログではサイバーエージェントの藤田晋社長の『渋谷ではたらく社長の告白』とか、テイクアンドギブニーズの野尻佳孝社長の『史上最短で、東証2部に上場する方法』、フルキャストの平野岳史社長の『満点の星』、インデックスの落合正美会長の『当てるコンテンツ外すコンテンツ』など、ベンチャー経営者自身が語るリアルストーリーを書いた本を紹介してきた。

この本は宇野さん本人への取材を通して、和田勉さんというジャーナリストが書いた本だ。

宇野さんは昨年溜池山王ではたらく社長のblogという社長ブログを書いており、筆者は注目してよくブログチェックしていたのだが、年末頃から更新が止まってしまったのが残念だ。

この本の印象に残ったところを紹介しよう。


USENの戦略事業GyaO

USENの無料ブロードバンド放送局GyaOは2005年4月に開局し、スタートしてから1年で視聴登録者は1,000万人目前の950万人まで急成長した。

やることを決めたのが、2005年の正月、それから3ヶ月、ほとんど土日も休みなくUSENの役員・社員が働き、4月25日にサービスインさせた。

宇野さんの統率力と、後述する様に『子供のサッカー』とも呼ばれるUSENの社員一丸となった機動力を物語る、すごい話である。

いままでインターネットのビデオ配信サービスは、USENと宇野社長の盟友楽天の三木谷社長が一緒にはじめたショウタイムなどの、会員制有料サービスはあったが、完全無料ブロードバンド配信サービスはGyaOが初めてである。

ちなみに『GyaO』とはアイスランドにある大地の裂け目のことで、北米プレートとユーラシアプレートの境目が地上で見られる場所のことだと。インターネット通信とテレビ放送がぶつかったところに、GyaOは存在しているのだと。


「なんでもないけど、いいアイデア」

これが宇野さんが、舎弟ともいえるサイバーの藤田晋社長に相談した時の、GyaO事業についての藤田さんの答えだ。

「誰でも思いつくアイデアだが、宇野さんが本気でやるなら面白いと思う。タイミングもいい」と藤田社長は後に取材に応えて語っている。

USENはGyaOサービスを開始してすぐ、宇野社長自身が参加する独自コンテンツを作り上げた。

友人の村上ファンドの村上世彰社長、楽天の三木谷社長、サイバーエージェントの藤田社長、GMOインターネットの熊谷社長などと宇野社長との対談を『リアルビジネス』という番組で放送したのだ。

筆者もこの番組を見たくてGyaOの会員になったが、相当な強力コンテンツだと思う。

本書のなかで、宇野社長は「オンデマンド放送でCMをスキップができない様にすれば、広告主も興味を持ってくれるはず。テレビ局がなりたっているなら、無料ネット放送もなりたつはずです」と語っている。

ハードディスクレコーダーでCMスキップに慣れている筆者自身の経験からすると、無料で様々なコンテンツを見られるのは歓迎だが、はじめの数分間の映画の予告編やコマーシャルは苦痛だ。

映画館なら予告編は気分を盛り上げる効果があるので、むしろ歓迎だがパソコン放送となると、話は全然異なる。

どうせCMが入るなら、広告主の最新のCMを流すより、その広告主が過去流した評判の良く面白いCMとかを流し(たとえばアコムならクーちゃんとか、キンチョーなら沢口靖子シリーズとかゴン中山とか)てはどうか?

クーちゃんCMはテレビでは放送禁止になっていると思うが、GyaOなら可能なのではないか?

ちょっと脱線したが、いずれにせよ今後GyaOがどうなるのか注目して見守りたい。


宇野社長の経歴

宇野社長は大阪有線社長の故宇野元忠氏の次男として1966年に生まれる。明治学院大学を5年掛けて卒業、不動産業のリクルートコスモスに入社する。在学中はプロデュース研究会代表としてイベントやコンサートなどを請け負っていた。

会社をつくって社長になるというのが宇野さんの夢だったので、リクルートコスモスに1988年に入社したものの、翌年の1989年9月には退社し、友人でリクルートコスモス同期で現インテリジェンス社長の鎌田和彦さん、リクルートにいた前田徹也さん(現コンサルタント)、島田亨さん(現楽天球団社長)と4人でインテリジェンスを起業。

みんなに推されて宇野さんが社長となる。インテリジェンスの当初の業務は総合コンサルタント業で、そのうち人材派遣業に進出。創業メンバー4人を中心とする社員の会社に泊まることは当たり前という猛烈ながんばりで、業績は拡大し、2000年4月に店頭公開を果たす。

しかし宇野さんの父親の急病で大阪有線の社長となることを母親から頼まれ、1998年7月から宇野さんはインテリジェンスと大阪有線の社長を兼務することとなる。

1999年よりインテリジェンスでは会長となり、大阪有線社長職に比重を移し、『正常化活動計画』を打ち出し、全国の750万本にもおよぶ電柱の使用状況を調べ、過去分も含めてNTTや電力会社に電柱使用料を支払った。

その額は2000年8月期には240億円にものぼったが、これで電柱不正使用という汚名をそそぎ、晴れて普通の企業として正常化できた。

2000年4月には有線ブロードネットワークスと社名を変え、光ファイバーによるインターネット接続を月額5千円程度で提供するUCOMを設立。UCOMは50社の出資を受けてオールジャパンの事業としてスタートする。

しかし月額2,500円というソフトバンクのADSLの猛烈な売り込みに、日本全国展開を断念し、現在はマンション向けの光ファイバー一括請負を中心とした事業モデルに転換し、NTTと業務提携している。

有線ブロードワークスは資金調達力が弱く、UCOM設立時には宇野社長自身がインテリジェンスの株を担保に、りそな銀行から70億円の借金をして立ち上げた経緯がある。

そのため資金を得る目的で2001年4月にナスダックジャパンに上場を果たした。

初値が公募価格を大きく上回った前年のインテリジェンスの上場と異なり、ITバブルの崩壊で、初値は公募価格20万円を下回る13万円という展開ではあったが、なんとか切り抜け、2005年3月にはUSENに社名を変えて現在に至っている。


『オペラ座の怪人』と倖田來未

USENがGyaO事業に乗り出す前の布石が、映画配給会社のGagaコミュニケーションズと音楽事務所大手エイベックスへの出資だ。

USENは2004年10月にエイベックスに出資、筆頭株主となっている。創業者の依田名誉会長、現経営者松浦社長とのバランサーとして宇野社長が関与し、経営陣の対立でもめていたエイベックスの安定に寄与した。

Gagaは赤字が続き、2004年9月期には100億円を超す当期損失を計上した。エイベックスの依田名誉会長が宇野社長に話も持ち込み、依田氏が30億円、2005年1月にUSENが100億円出資した。Gagaは昨年『オペラ座の怪人』のヒットを飛ばし、赤字幅も縮小している。

宇野社長はGagaの社長も兼任し、GyaOを推進するうえで映画と音楽という自前のコンテンツを持つ優位性をいかんなく利用している。


仲間・同志を重視する宇野社長の経営スタイル

「カリスマ性だけが、成功するスタイルではないんじゃないか。自分に能力がないなら、能力のある人と一緒にやればいいじゃないか」と宇野社長は語っており、カリスマを否定している。

これがこの本のタイトルになったゆえんだ。

サイバーの藤田晋さんの本にも書いてあったが、藤田さんがインテリジェンス入社2年目で独立し、インテリジェンスと合弁会社をつくるときに、宇野さんは「何をやるかより、誰とやるかが大事だ」と語っていたそうだ。

マッキンゼーから宇野さんに引き抜かれた加茂副社長は、「一緒にとことん仕事をしよう」というUSENの仕事のスタイルを見て、『子供のサッカー』だと言っていたが、そのうちこれが新しい組織の形かもしれないと思い直したと。

『子供のサッカー』とは役職員全員で新規事業に取り組むやりかたのことだ。一つの夢を共有して、仲間として一体感を持ち、社員にチャンスを与え、みんなで実現に取り組むのだ。

筆者は高校時代にサッカーをやっていたのだが、当時はこの『子供のサッカー』を『百姓一揆』と呼んでいた。たぶん加茂さんは言葉を選んだのだと思うが、たぶん『百姓一揆』の方が感じが伝わると思う。

一つのボールをみんなで追いかける『子供のサッカー』精神で、情熱を持って起業する人は応援したいとして、宇野社長は資金面でも支援している。「そういう人が頑張る姿に対して素直に応援してあげたいと思って」個人で出資するのだと。

サイバーエージェントの藤田社長の独立を助けたのが良い例だ。


アンバランスをバランスさせる経営

インテリジェンスの鎌田社長は宇野社長の経営の特徴を『非連続性』と表現する。身の丈にあった経営をしていくのではなく、ときどき未知なところへジャンプするという意味だ。

社員30人の時に、日経新聞に1ページ大の求人広告を載せるといったジャンプを宇野社長は数々つくりあげてきた。

加茂副社長は「アンバランスをあえて作り出す」と表現している。

有線放送から、光ファイバー通信事業、GyaO事業とジャンプを続けているUSEN。USENのホームページに業績資料が公開されているが、業務用有線放送と通信カラオケ事業という成長性が見込めない分野から、ジャンプして新しい事業に進出し、業績を大きく伸ばしている。

ホリエモンや三木谷さんが言っていた、『インターネットと放送の融合』を単に言葉だけのイメージでなく、現実の事業として実現しているトップ企業と言っていいだろう。

阪神の金本知憲選手の活躍で『アニキ)』という言葉が、良いイメージを持って受け止められる様になってきている。社内で一番の働き者として尊敬され、寝る間も惜しんで仕事に没頭し、リスクを負ってもベンチャーを支援するUSENの宇野社長。

まさにベンチャーのアニキである。

宇野社長を応援したいという気持ちにさせる本だった。


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2006年05月17日

戦略の本質 近年の世界戦史から戦略を学ぶ

戦略の本質 戦史に学ぶ逆転のリーダーシップ


名著『失敗の本質』に続く20年ぶりの戦略研究と組織論。

前作と同じ、野中郁次郎一橋大学教授を中心とするグループの共著である。


失敗の本質―日本軍の組織論的研究


前作の『失敗の本質』は1984年出版の本ながら、いまだにコンスタントに売れており、まさにロングテールの好例で、日本軍の第2次世界大戦中の失敗作戦を詳しく研究し、これを経営学や組織論に役立てようというもので、戦略研究ではない。

今回の『戦略の本質』も同様の目的で、毛沢東の反包囲討伐から始まり、ベトナム戦争に至るいくつかの戦争の、逆転の流れをつくった事例に基づいて戦略の本質を突き詰めるとともに、リーダーシップの本質を洞察しようとしたものである。

この本で取り上げられている戦いは次の通りだ:

1.毛沢東の反『包囲討伐』戦

2.バトル・オブ・ブリテン

3.スターリングラードの戦い

4.朝鮮戦争

5.第4次中東戦争

6.ベトナム戦争

この中で印象に残った部分を紹介しよう。


バトル・オブ・ブリテン

バトル・オブ・ブリテンは第2次世界大戦初期の1940年7月ヒットラーがイギリス上陸の前哨戦としてイギリスの制空権を狙って始めた航空戦だ。

急降下爆撃機スツーカなどを持つドイツ空軍はブリッツ(電撃戦)の花形としてポーランド、フランスでは戦果を挙げ、敵に恐れられていたが、レーダーを初めて実戦に導入し、組織的に防衛するイギリス空軍に対し消耗を重ね、3ヶ月後の10月にヒットラーはイギリス上陸を断念する。

バトル・オブ・ブリテンの勝因として、著者はチャーチルと初代戦闘機兵団司令官のヒュー・ダウディング大将のリーダーシップを挙げる。

チャーチルはダウディングの進言を取り入れ、フランスへの戦闘機駐留を引き揚げ、来るべきイギリス防衛の為に戦闘機とパイロットを温存する。また航空機生産省を新設し、戦闘機の生産を1939年比4倍強の500機/月とした。

1940年7月時点でドイツ空軍の戦力は爆撃機等1,600機、戦闘機1,100機に対し、イギリス軍の戦闘機は旧式機を除くと700機のみだったので、チャーチルの増産決定がイギリスを救うことになる。

ダウディングは空軍の研究開発部門の責任者だった時から、レーダーの可能性を高く評価して開発を推進し、レーダーによる早期警戒ネットワーク、陸軍の高射砲部隊と迎撃戦闘機を連携させた防空システムをつくりあげた。

これらすべてをダウディングの戦闘機兵団の指揮命令下におき、さらに状況に即応して下部司令部が動ける様に権限移譲し、集中統制と現場の自主判断がうまくかみ合って柔軟に対処できる体制もつくり上げていた。

実際バトル・オブ・ブリテンが始まるとドイツ軍の戦闘機と爆撃機の能力不足が明らかになった。

急降下爆撃機のスツーカは速度が遅いので、使い物にならず、双発爆撃機が中心となったが、爆弾搭載量が少ない上に、迎撃機が来ると爆弾を捨ててしまうため、なかなか有効な爆撃ができなかった。

護衛戦闘機のメッサーシュミット109は航続距離が短いため、爆撃機の有効な援護ができなかった。

またドイツ機にはなかった、燃料タンクの防護装置とか戦闘機操縦席後部の装甲板など、防御重視の思想がイギリスの損失をくい止める効果もあった。

イギリスは450名のパイロットを失うなど、損害は少なくなかったが、戦力の絶頂にあったドイツ空軍と互角以上に戦い、自国の存亡の危機を切り抜けたのだ。

リーダーシップと綿密に考えられた防衛戦略が、バトル・オブ・ブリテンの勝利をもたらした。


スターリングラードの戦い

スターリングラードの戦闘は第2次世界大戦における最大規模の地上戦とも呼ばれ、1942年6月から1943年2月まで展開された。

ドイツ軍は1939年9月にポーランドを侵攻し、ソ連と分割協定を結んだ後、フランスなどの西部戦線に集中し、破竹の勢いで進撃していたが、バトル・オブ・ブリテンで挫折した。

ヒトラーはイギリスと裏で手を結んでいるソ連を屈服させれば、イギリスも手を挙げるだろうと考え、1941年6月にバルバロッサ作戦と呼ばれる300万人のドイツ軍によるソ連侵攻を開始した。

タイガー戦車などを主力にするドイツ軍に不意をつかれたソ連軍は敗戦に次ぐ敗戦を重ねたが、冬将軍のおかげで戦線膠着化に成功した。

1942年4月にヒトラーは膠着状態を打破し、カスピ海の油田を確保するとともに、米英からソ連への援助物資ルートを絶つ目的で、ソ連のアキレス腱ともいえる南部ロシア侵攻を決定した。

1942年5月にはドイツ軍の戦車を中心とする機動部隊がボロネシのソ連軍を撃破し、ソ連軍は急遽退却した。

ヒトラーはソ連軍の退却を見て、ソ連軍が瓦解しつつあると勘違いし、スターリングラードとさらに南のカスピ海への入り口カフカスの両方を攻めるために、機動部隊を分断して進軍した。

しかしソ連軍の退却はドイツ軍を分断して引き入れる作戦であり、ヒトラーはこれにまんまとはまり、兵站線を延ばされた。

スターリングラードには1942年8月に侵攻したものの、ソ連軍の市街戦に悩まされ、結局冬まで制圧できなかったところ、11月になりソ連軍は急遽反転、スターリングラードを包囲し、翌1943年1月にドイツ軍は降伏した。

包囲されたドイツ軍30万人のうち、生き残った将兵9万人はシベリアで抑留され、1万人のみがドイツに生還できたという悲惨な結果となった。

この戦いもソ連のスターリンとその部下フルシチョフ、現地の指揮官チェイコフ中将らのリーダーシップと戦略が勝利をもたらしたのだ。


朝鮮戦争

1950年6月から3年1ヶ月にわたって戦われた朝鮮戦争は、双方に犠牲ばかり多くて得るところのない戦いだった。

朝鮮戦争は、北朝鮮軍の韓国軍に対する奇襲攻撃で始まり、3日後にソウルを占領、一挙に南のプサン近辺まで攻め下る。これに対しアメリカ軍(国連軍)の参戦、中国軍の参戦とエスカレートし、何度も双方の勢力が38度線を越えたり、越えられたりするという攻防が繰り広げられた。

朝鮮戦争のハイライトは開戦直後プサン周辺まで押し込まれた韓国・国連軍が、マッカーサー指導の元、仁川上陸作戦で一挙に劣勢を挽回し、北朝鮮軍を挟み撃ちにして敗走された作戦である。

仁川はソウルから30キロのところにあり、ここを制圧すれば首都ソウル奪還は容易だが、干満差が7メートルあり上陸作戦には適しない場所である。

このため海兵隊はじめ、陸海軍首脳はマッカーサーの仁川上陸作戦に反対し、より安全な群山への上陸を提案したが、誰もマッカーサーを翻意させることができず、マッカーサーは仁川上陸作戦命令を出した。

北朝鮮軍の仁川の防備は弱かったため、国連軍は上陸を成功させ、ソウルを奪還し、南を制圧し、10月には北朝鮮の平壌を占領、敗走する北朝鮮軍を追撃して鴨緑江まで攻め上がった。

中国軍が義勇軍として10月に参戦し、300万人の兵士が参戦、60−90万人とも言われる多大な犠牲を払って国連軍を追い返し、一時はソウルを再度奪還した。

金正日が中国に頭が上がらない訳である。

2月には国連軍は再度盛り返し、ソウルを奪還、38度線付近まで攻め上がる。

原爆使用を求めるマッカーサーは4月にトルーマン大統領に解任され、それ以降戦線は膠着し、7月から休戦会議が始まり、2年後の1953年7月に休戦協定が板門店で結ばれて終結する。

朝鮮戦争でもきわだつのはマッカーサーの仁川上陸作戦を敢行したリーダーシップである。


第4次中東戦争

イスラエルは1967年の第3次中東戦争の圧倒的な勝利で、領土を3倍に増やし、ヨルダン川西岸とスエズ以東の地域を獲得して、アラブは軍事的に無力であるとの印象を世界中に植え付けたが、先制攻撃に対する世界の批判は強く、イスラエル支持国はアメリカのみの国際的孤立状態に陥った。

このためイスラエルは領土の現状凍結をめざして、卓越した情報能力、圧倒的に優勢な空軍と機甲師団、スエズ運河の水障害等により防御システムを構築し、アラブとの全面戦争は阻止できると信じていた。

エジプトの指導者サダトは1970年に死去したナセル大統領と士官学校の同期であるが、指導者としての能力はないと見られていた。

そんなサダトは1973年10月に第4次中東戦争を起こし、今度は3週間弱でイスラエルの戦闘能力の多くを無力化するという大戦果を挙げ、イスラエルとの関係を対等として1978年のキャンプ・デービッド会談を経て、エジプト・イスラエル平和条約調印を実現させるという政治力を発揮した。

サダトはソ連から大量に武器を購入する一方、アメリカにも接近したが、時の国務大臣キッシンジャーはエジプトを相手にせず、イスラエルに一矢報いないことには、和平交渉も進まないと判断したサダトは、対イスラエル戦の準備に入る。

1973年10月にシリア・エジプト連合軍はイスラエル軍の航空基地への攻撃を開始、同時に陸上戦も開始した。

エジプトはイスラエルに徹底的にやられた6日戦争の反省を元に、イスラエルの航空勢力、機動部隊、スエズ渡河作戦にいずれも新しい戦術で臨んだ。

イスラエルは圧倒的な航空戦力を誇っていたが、エジプトは各種ミサイルと対空砲火でイスラエルの航空戦力の23%を奪い、イスラエル空軍が支援行動に入るのを阻止した。

イスラエルは旧式のソ連製対空ミサイルの電波攪乱装置を開発していたが、エジプトは新型のミサイルを導入し、低空用と高空用のミサイルの組み合わせでイスラエル機を面白いように打ち落とした。

地上戦ではイスラエルの戦車を中心とする機動部隊が圧倒していたが、エジプトはこれに歩兵で対抗する作戦を取り、480台のイスラエル戦車を破壊した。この主要武器は携行式対戦車誘導ミサイルのAT-3サガーとロケット砲RPG-7Vである。

またスエズ運河をわたって攻め入り、重装備を輸送するには、スエズ沿岸にそびえ立つ高さ10−20メートルの堤防を崩して通路をつくる必要があったが、エジプト軍はドイツ製の高圧放水ポンプを購入して、放水で堤防を崩す作戦で成功し、短時間に60以上の補給・増援路をつくった。

サダトのリーダーシップのもと、エジプト軍のまさに臥薪嘗胆の思いがイスラエルをうち破ったのだ。


以上4つの戦いのあらすじを紹介したが、いずれもすぐれたリーダーの強い指導力によって勝利を得た例である。すぐれたリーダーがつくったすぐれた戦略、これが戦争でもビジネスでも勝つ組織の要因だ。


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2006年05月07日

満天の星 平野岳史フルキャスト社長の等身大サクセスストーリー

満天の星―フルキャスト物語


楽天球団の宮城球場のネーミングライトを買い、一躍知名度が上がった総合アウトソーシング受託業フルキャストの平野岳史(たけひと)社長の自叙伝。

貧困をバネにした若者の味方の等身大サクセスストーリーだ。

野村克也さんの履歴書『無形の力』を紹介した後だったので、野村さんの貧しい母子家庭からの生い立ちの再現を見る様だ。

ベンチャー経営者の本は、藤田晋さん野尻佳孝さん落合正美さんなどの著書を紹介してきたが、平野さんのストーリーは、テイクアンドギブニーズの野尻佳孝さんの話、インデックスの落合正美さんの話を思い起こさせる。


平野さんの生い立ちから学生時代まで

平野さんは1961年生まれで神奈川県横浜市出身。8歳の時に父親が病死、母親が工場に勤めながら、平野さんと弟を苦労して育てる。

ちいさな『マッチ箱のような家』を友達や先生にバカにされたこともあり、「貧乏はイヤだ!」「今に見ていろよ。必ず金持ちになってやる。マッチ箱をでっかいビルにしてやる」と決意する。

平野さんは人をもっとも成長させる感情は悔しさであると語る。

野村さんの『無形の力』と同様に、小さい頃からアルバイトを掛け持ちしてお金を稼ぎ家計を助け、また女手一つで働いた母親の大病で、兄弟が路頭に迷う危機に直面する。

中学では生徒会長を務め、統率力をつける。貧しいながらも公立高校に進学し、ラグビーとアルバイトに明け暮れながらも、出来高制のアルバイトを中心に、働き方のコツを体得する。

横浜市立南高校ラグビー部ではキャプテンとなり、部員が少ないながらも横浜市のベストフォーまで持っていく。平野さんのポジションも筆者と同じプロップだ。このときのラグビー仲間を後にフルキャストに引っ張る。

アルバイトで学資も貯まっていたので、神奈川大学に進学するが、どうしても出席が必要な科目以外はノートを借りて試験をクリアーし、もっぱらバイトに精を出すという学生生活を送る。

教材販売のアルバイトと平行して、家庭教師もやっていたが、引く手あまたで自分では対応できないため、教材を販売しながら家庭教師の斡旋を行い、販売マージンと紹介料を二重に稼ぐという、後の家庭教師センターの原型となる仕事をはじめ、かなりの収益をあげ、アルバイトの域を超える。

このときの教材販売会社で、社長はなにもしないで座っているだけで、1日10万円儲かると思い、「就職するより、自分で何かをやった方が何倍も面白い」と起業をこころざす。


いったんは就職

仲間と”交流会”と称する合コン企画などをやり、すでにサラリーマンの初任給の数倍の収入があったが、結局仲間は皆就職し、平野さん自身もやむなく三年経ったらやめるつもりで商品先物取引のハーベストフューチャーズ社に入社した。

卒業旅行でアメリカに行くが、この時知り合った仲間の一人がフルキャストテクノロジー社長の貝塚さんだ。

この三年間の起業準備期間に平野さんは次の3つの課題を自らに課した。

1.どんな職種で起業するか、アイデアをみつけること

2.そのアイデアに投資してくれる出資者をみつけること

3.一蓮托生できる仲間を見つけること

まさに起業の三要素だが、これらを見つけるために就職したのだ。

ハーベストフューチャーズ時代は、『ガチャ切り』が9割というハードな電話営業にもかかわらず、着実に実績を上げトップセールスマンとなりポジションも上がるが、慰留されながらも当初の予定通り退社する。


一時フリーター生活へ

会社を辞めたものの、起業に必要なアイデア、出資者、仲間が揃っていなかったので、今で言うフリーター、ニートの生活に突入する。

朝6時半からゴルフ練習場で球拾いのアルバイト、次はチラシ配り、住宅リフォーム業の飛び込み営業、夜は家庭教師派遣のテレホンアポインターで働いた。

営業力を見込まれ、家庭教師派遣センターの営業アルバイトを始めるが、その時出逢ったのがフルキャストファクトリー社長の石川さんだ。

アルバイトの浪人生ながらも、人なつっこく聞き上手な石川さんは子供やお母さん相手の営業に抜群の実績を残していた。「ドラクエの裏キャラの見つけ方知ってる?」などが石川さんの必殺技だ。

やがて平野さんと石川さんは家庭教師派遣センターでツートップといわれる優秀な営業マンコンビとなった。契約率は7割を上回っていたと。


家庭教師派遣で起業

一時プロゴルファーに憧れて練習場通いをするが、25歳からの転身は無理と、あっさりあきらめ、石川さんと後に奥さんとなる恋人の三人で『神奈川進学研究会』という家庭教師派遣センターを電話一本で起業する。平野さんが26歳の1987年のことだった。

最初は『家庭教師やります』のスーパーの張り紙を見て学生に電話をして、家庭教師登録をはたらきかける。まさに足で稼ぐというやり方だった。

資金はサラリーマン時代に貯めた300万円の貯金だったが、貸しオフィスを借り、テレホンアポインターを雇い、営業アルバイトも雇って、見る見るうちに減っていった。

給料も10万円程度にしかならず、何度もやめようと思ったが、負け犬にはならないという気概でなんとか踏みとどまる。

そのうち幻の創業メンバーの貝塚さんがジョイン。猪突猛進型の平野さんと誰からも好かれ、敵を作らず補佐役に回る貝塚さんはいいコンビになれる予感があったと。

4人となり、チラシをつくって営業した。チラシには一箇所しか事務所がないのに、本部、横浜事務局、XX事務局といくつもの連絡先を書き、転送電話で一箇所にあつめ、名刺には第四営業部などと書いて少しでも大きく見せようとした。

神奈川進学研究会を1989年に株式会社に改組し、五年目には売上高一億円を超えたが、もっと大きくするため次のビジネスモデルを考える。


人材アウトソーシング事業への進出

1992年にグッドウィルグループに吸収される株式会社ラインナップの佐藤修さんと知り合い、働く意欲は旺盛な4,000人の学生登録者がいるにもかかわらず、家庭教師としての稼働率が1割にとどまることを逆手に取り、彼らを軽作業請負スタッフとして派遣することを始める。

最初に引き受けた引っ越しのアルバイトで意外なクレイムを受け、これが平野さんにビジネスチャンスを実感させる。

約束通り5人そろえ、モーニングコールで念を押して時間通り行くと、なぜこんなに早く来るのかと、また5人も要らない、3人で十分だと言われる。

人材紹介業界はルーズで、約束しても遅刻・欠勤は当たり前、最初から余裕を持って人数や時間を伝えるのが習慣となっていると。普通のことを普通にやるだけで一歩も二歩もリードできると平野さんは勝機を見いだした。

これが軽作業人材アウトソーシング業フルキャストの事業化の瞬間である。

平野さんはみずからもアルバイトで現場で働き、ビジネスチャンスを研究するとともに、スタッフを送り出す事前調査も行った。

人は誰でも活躍したいと願っているが、その『場』と『役割』を見つけられず、足踏みしている人が大勢いるのだと

平野さんが始めようとしているのは、そんな場と役割を提供する手助けだ。


フルキャスト創業前の思わぬ災難

1992年フルキャスト設立準備中に車に置いたバッグの中から預金通帳と印鑑を盗まれ、創立資金1,200万円を盗まれる。

失意の中家に帰り、奥さんに一文無しになったことを告げると、奥さんは一言。

「しょうがないじゃない」

「だって、盗まれたものは考えてもしょうがないでしょ?まあ、またがんばればいいじゃない」

スゴイ!腹の据わった奥さんだ。

奥さんの一言に救われ、心を入れ替え、翌日から金策に走る。銀行からは逆に融資を返せと言われるが、保証協会の保証があったので、なんとか切り抜け無事フルキャストを創業する。


ブルーカラー派遣で急成長

広告で軽作業スタッフを募集すると予想の50倍の人数が集まる。日当日払いが武器となったのだ。

創業後数ヶ月で家庭教師センターの売上を抜く。

人がやりたがらない不人気業種を対象に人材派遣をやろうというねらいが成功したのだ。

日本の就労人口6,500万人のうち、ほぼ半数の3,000万人が工場、建設現場、物流関係で働くブルーカラーだ。また軽作業の99%は普通の仕事でブルーカラー=3Kというのは誤解なのだと。

フルキャストは1.スタッフの遅刻・欠勤が常識化している、2.発注してからスタッフが揃うまで時間が掛かる、3.料金体系が不明瞭、4.スタッフの質が悪いという人材派遣業界の悪しき習慣に挑戦し、これをうち破ることで急成長した。

通常人材派遣は前々日の昼までだが、フルキャストは前日3時まで発注OKというのを強みにしている。元々確保しているスタッフ数をベースにオーダーを受けるというやり方をしたからなのだ。

東東京支店を秋葉原につくり、二年目は一挙に売上が三倍に。

大阪への出店は阪神淡路大震災の直後で、復興の手助けで大忙しだった。平野さん自らも大阪に半年ほど単身赴任して復興を助ける。

フルキャスト創立四年目の1996年には売上35億円、渋谷に自社ビルを購入し本社を移転した。


上場を機にさらに拡大

ライバルのグッドウィルが上場を目指しているとの噂を聞き、フルキャストも上場を目指す。1998年の売上高は65億円、社員150名。ホワイトカラーの派遣もスタートし、売上高100億円に手が届きそうになった。

グッドウィルは1999年7月に上場し、ITバブルの真っ盛りでたちまち時価総額は一兆円を超えた。

フルキャストの業容は拡大しているのに、キャッシュフローはきつく、まずは第三者割り当て増資を実施し、同時に平野さん個人向けにワラントを発行。これにより平野さんの持ち株比率は80%超となる。

1999年に派遣法が改訂され、港湾運送業務、建設業務などを除いて軽作業の派遣が原則自由化され、追い風が吹いた。

野村総研はブルーカラーの軽作業請負マーケットは2,000年に800億円になると予測。

上場時期を2001年3月と設定していたが、新規上場バブル崩壊の余波を受け、主幹事証券が延期を提案してくる。

すでにワラントを行使していた平野さんは多額の借金を抱え、個人的にもギリギリの状態で、延期すると上場を夢見て猛烈に働く社員も平野さんも持たないと考え、幹事証券を外資系のHSBC証券に変え、上場を決行する。HSBC証券にとってもIPO案件の第一号だった。

69万円で上場した株価は160万円まで上昇したものの、すぐに急落一時は19万円まで落ち込む。日経新聞の2001年の最も失望した企業のトップ3となる。

しかし工場の製造ラインをまるごと請け負うフルキャストセントラルをトヨタ自動車と組んで立ち上げるなど、時代の流れはアウトソーシングに流れており、様々な業種でアウトソーシング事業が拡大し、事業はさらに拡大、株価も3年で回復する。

フルキャストの業績を見ても急成長しており、2006年度の予想売上高は1,000億円に届こうかという950億円で、純利益38億円を見込んでいる。

いまや押しも押されもしない人材アウトソーシングのトップ企業だ。


若者を応援する企業

2003年の厚生労働省の調査ではフリーターは217万人、ニートは52万人とも言われているが、若者を応援する企業になることがフルキャストの基本方針である。

平野さん個人が半分負担するフルキャスト奨学金や、フリーターズスクールも開校し、フリーターが自立できるような支援も始めており、あまり目立たないが社会的に意義のある企業活動をしている会社である。

楽天の三木谷さんは時々コースを一緒にまわる友人で、スコアも75前後、ハンディも8ということで良いライバル同士だ。地に足ついたストイックな経営者という雰囲気の人であると。

楽天がプロ野球に参入することが決まったとき、スタジアムのネーミングライト購入を申し出た。3年契約6億円だったが、宣伝効果はコマーシャルなどとは比較にならないほど大きかったと。

フルキャストスタジアムで始球式のあった後、『満天の星』を見上げ、星の一つ一つがフルキャストのスタッフの一人一人で、それぞれが独特な美しい輝きを放てるように最大限の努力をすることが自分の大切な仕事で、それを誇りにしたいと結んでいる。

気骨のあるベンチャー経営者の自叙伝。面白く読め、おおいに感心した。等身大の平野さんがわかる良い本だった。


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2006年05月06日

私はこうして発想する 大前研一の21世紀を生き抜く発想術

私はこうして発想する


大前研一氏のビジネスブレークスルー(BBT)大学院大学の紹介を中心とした21世紀に通用する人材育成の提言。

大前研一氏の設立したビジネスブレークスルー大学院大学は、MBA取得のためのコースとして1998年にスカパーを使った衛星放送チャンネルとして始まり、2005年に株式会社ビジネスブレークスルーとなった。

勝手連的に始まったアタッカーズビジネススクール一新塾とならぶ大前さんの組織的活動である

スカパーで多くのチャンネルが始まったが、結局現在はテレビ通販とアダルト程度しか採算がとれていないなかで、ビジネスブレークスルーは数少ない生き残りの一つである。

日本で例のない校舎のない大学院を目指し、CS放送とインターネットを駆使した遠隔教育の先駆者として4,000時間以上の膨大な教育コンテンツを蓄積しており、ビジネス基礎講座とか、経営者ライブ、大前研一ライブといった番組を放送している。

Aircampusというインターネットによる双方向授業のためのソフトウェアを開発して、遠隔教育でも対面教育に匹敵するクオリティの授業が行えると。

大前氏の発想の技術は次の6つのメソッドによる発想の積み重ねであると:

メソッド 1 先入観を疑う
メソッド 2 ネットワークから考える
メソッド 3 他ににはないものを目指す
メソッド 4 歴史から教訓を引き出す
メソッド 5 敵の立場で読む
メソッド 6 討論する

21世紀を生き抜くために最も重要なスキルが、発想する技術であると大前さんは語る。

それぞれのメソッドの印象に残った話を紹介しよう。


メソッド1 先入観を疑え

『少子化は大学の危機』とは先入観である。大学はOBに門戸を開けと提案する。

BBTの一期生の平均年齢は38歳、30代が54%、40代が34%で、44%が公認会計士、税理士、中小企業診断士などの資格を持ち、医師、薬剤師もいる。

経営について教えるなら、やはり数年以上の経験のある人たちを対象とすべきであると。

忙しい社会人のための教育ツールが遠隔教育システムのAircampusである。

人口減少に即効薬のクスリは移民を受け入れることであると。

一新塾の新刊書『一新力』で外国人との共生プロジェクトを紹介したが、大前さんの提唱する移民を受け入れるためには、外国人労働者との共生が機能しなければならない。

『一新力』の紹介でもふれたが、一新塾は単に口で言うだけでなく、地に足ついた意義ある活動をしているので感心する。


メソッド2 ネットワークから考える

大前さんのいうネットワークとは、顧客との接点の話だ。いわゆる『ラスト1マイル』とも言えると思う。

BBT大学院大学は、CS放送でUSC(南カリフォルニア大学)のMBA取得コースを始めたが、USCから放送では出席を取れないため、単位が付与できないと指摘された。そのためインターネットを利用した独自の視聴認証システムを開発して、ビジネスモデル特許を取得した。

インターネットの出現を見たときに、大前さんはこれで双方向の授業を実現できるネットワークができると考えたそうだ。

『放送とITの融合』といっても、自前のテレビ局を持てば、他の局のコンテンツは扱えず色つきのネットワークとなってしまうので、ホリエモンは本気でないと見破ったそうだ。

一番重要なのは「インターネットのユーザーは選択を好む」ということである。

さまざまなコンテンツを一箇所ですべて比較できることがベストであり、『無任所中立』というのが一番優れている。

流しっぱなしのテレビに対してケーブルテレビのような課金できるネットワークは強い。ITと放送の融合が実現していると大前さんは語っている。


メソッド3 ”他にはないもの”を目指す

大前さんはCNNの例を挙げている。アメリカの3大ネットワークは幕の内弁当で、CNNは一品料理で成功した。

余談であるが、マイクロソフトのXbox 360も恐るべき機械であると。大前さんはこれを見たときにソニーは次世代ゲーム機では負けるなと思ったと。CNETの記事も引用しておく。

「家庭において、いかに放送とITの融和を起こしていくか」という明確な戦略と哲学が詰め込まれているのだと。

今後ブロードバンドを使ってパソコンでビデオをダウンロードし、それをXbox 360に転送して、リビングのテレビで見るとか、パソコンに入っている旅行の写真をXbox 360に転送して、テレビで見るという、いわば21世紀のデジタル幻灯機(プロジェクター)なのだと。

筆者はこの説明を聞いてもまだピンとこないが、ゲーム業界がどうなるか注目したい。

ソニーはPS3をハイビジョン画質をウリにしようとしているが、子供たち用の小さなテレビでは、PS3のどこがすごいのか実感できないのだと。泥んこ道をフェラーリで走る様なものだと。


メソッド4 歴史から教訓を引き出す

昨年中国の反日デモなどが報道され、中国の若い世代は反日教育が刷り込まれており、問題の根は深いと言われ、日本の経済界でも悲観論が出ている。

これを歴史から教訓を引き出して、突破してみようと大前さんは語る。

中国のイデオロギー教育は、反日に転換する前は、反米、反資本主義であり、その時々で変わる。また中国は内政問題があり、『敵がいないと困る国』なのであると。

日本企業は1980年代にアメリカで起こった強烈なジャパン・バッシングを切り抜け、米国市場で成功した。

それは日本企業が「アメリカ市場抜きでは生きていけない」と不退転の決意を持っていたから切り抜けられたのであると。

台湾企業は「狭い台湾では生き残れない。中国で成功しなかったら未来はない」という意識で中国に大挙して進出している。

日本企業も同じことで、『今こそ中国市場に突っ込む』という発想を持って欲しいと語る。

トップで中国語を勉強している人がどれだけいるか?と。米国市場に対してと同様の熱意と信念で取り組むべきであると提言する。

大前さんはこの章の最後に靖国神社問題にふれている。

戦後30年以上A級戦犯は合祀されていなかった。昭和天皇はかつては、毎年夏に靖国神社にいっていたものが、A級戦犯が合祀されてからは行かなくなった。大前氏は昭和天皇の判断を正しいと思うと。

大前さんは20年近く前に書いた『新・国富論』で、A級戦犯の合祀をやめ、参拝のための場所を別につくるべきだと主張したが、それは今でも変わらないと。


大前研一の新・国富論



メソッド5 敵の立場で読む

この場合の敵とはビジネス上のライバルあるいは顧客などである。

『お客の立場になって考える』というのが大前さんの基本である。

『相手の立場になって考えてみる』ーこれはビジネスに限らず、言い古された言葉ではあるが、問題点を把握するためには不可欠の手段であると大前さんも語る。

練習問題として『あなたが金正日だったらどうする』をあげている。

また韓国経済人のホンネということで、北朝鮮と南北統一したら、人口7千万人の核保有国が東アジアに誕生するので、日本と中国との間のバランサーとなると指摘している。

日本では韓国がこのように変質したと認識しているマスコミはほとんどないが、日本の常任理事国入りに反対するのも、こういった南北統一後の核保有国としての韓国の方が常任理事国にふさわしいという未来像があるからであると。

21世紀は韓国の時代であると韓国人は思い始めていると。

『中国は日本を併合する』というエキセントリックなタイトルの本が最近出たので、近々あらすじを紹介するが、日本外交は本当に今のままでよいのか、筆者は大いに疑問に思っている。

小泉首相の靖国問題のミスハンドルで、どれほど貴重な時間を浪費し、国益を損ねたかわからない。

ゴールデンウィークにアフリカに行く前に、中国、韓国との関係を正常化しろと言いたいが、もはや小泉首相では無理だろう。小沢一郎に期待している昨今である。


メソッド6 討論する

BBT大学院大学はAircampusを使って、リアルタイム・オンライン・ケーススタディを行っている。

パワーポイントはもちろん、4,000時間にもおよぶBBTの過去の講義へのリンクを貼ることができ、事実に基づく議論ができるのだ。

いわばインターネット上の掲示板の様なものだが、一週間で千件の発言を呼ぶこともあると。

大前さんが教鞭を取る『新・資本論ケーススタディ』は、その時注目を集めているテーマで学生たちの集中力を高めている。

上記の金正日の質問もこのケーススタディで使った題材だ。他に「あなたが三菱自動車のトップならどうする?」など、最新の話題をケースにして研究している。

普通の大学院は、たとえばハーバードビジネススクールでも、会社を研究してケーススタディに取り上げるまでに平均9ヶ月、長いものでは数年かかっている。

これでは『死体解剖』であり、あらかじめ答を導き出すフレーム(枠組み)が決まっており、答えも決まっていると。

しかし経営の現実はそんな簡単なものではないので、枠組みを越えた発想が、新しい時代を切り開いていくのだと。


最後に

大前さんは松下幸之助の『とらわれない素直な心』で見ると、違う景色、違う発想ができると説く。

今の日本の最大の問題は少子高齢化でも、財政赤字でもなく、今の人材ではこれまでのような経済競争力を維持していくことはできないということであると。

『世界のどこに出しても恥ずかしくない』『どこに出してもリーダーシップがふるえる』21世紀型の人材をつくる教育がないことが最大の問題であると。

筆者も同感である。

トヨタが全寮制の中等教育学校を始めたが、これも同じ様な問題意識からだと思う。

簡単に世の中を変えることができるとは思わないが、しかし日本全体の意識を変えて行くには、マスコミなどに報道されない事実を知ることと、FAW(Forces At Work)背後で動いている力がなにかを考える姿勢を、一人一人が持つことが重要だと思う。

ウェブ2.0がすすみ、ブログなどを通して個人が自らの意見を発表する場は今後とも増えていくと思うが、筆者も大前さんなどの良書のあらすじを紹介することで、少しでも多くの人が問題意識を共有できるよう心がけたい。


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2006年05月05日

野村ノート 野球技術も扱った人間論・組織論

野村ノート


(野球技術論の部分は続きを読むに第三部として記載しました)

2005年10月に発刊された楽天球団監督の野村克也氏の野球技術も扱った人間論・組織論。

元々は野村氏が阪神時代に書き、選手に配った『ノムラの考へ』という100ページあまりのメモがベースだが、単なる野球本ではない。

その証拠に本書の各章のタイトルは次の通りだ。ビジネス書、稲盛和夫さんの本といってもいいくらいの章題が並ぶ。

1.意識改革で組織は変わる
2.管理、指導は経験がベースとなる
3.指揮官の最初の仕事は戦力分析にある
4.才能は学から生まれる
5.中心なき組織は機能しない
6.組織はリーダーの力量以上には伸びない
7.指揮官の重要な仕事は人づくりである
8.人間学のない者に指導者の資格なし

上記の各章の並び方とは一致しないが、内容を整理すると、この本は次の三つの部分から成り立っているので、前回紹介した『無形の力』からの補足も加えて、あらすじをまとめてみる。

第一部 人間論・組織論
第二部 個別選手評
第三部 野球技術論(続きを読むに記載)


第一部 人間論・組織論

野村氏が監督として成功したのは、プレイングマネージャーの南海時代ではなく、1980年に引退し、長い評論家生活で十分知識を拡充し、1990年にヤクルトの監督となってからといえるだろう。

しかしヤクルト時代の野村監督の戦績を見ても圧倒的に強かった時期はない。

1990年 ヤクルト 5位
1991年 ヤクルト 3位
1992年 ヤクルト 優勝 
1993年 ヤクルト 優勝(日本一)
1994年 ヤクルト 4位
1995年 ヤクルト 優勝(日本一)
1996年 ヤクルト 4位
1997年 ヤクルト 優勝(日本一)
1998年 ヤクルト 4位(この年の優勝、日本一は筆者のひいきの横浜だ)

1999年 阪神   6位
2000年 阪神   6位
2001年 阪神   6位

ひところの巨人の様な九連覇とかはありえず、連覇した1992年、1993年を除いてはヤクルトは日本一となった翌年は4位というパターンを繰り返している。

大きな補強もせず、FA引き留めにも弱いヤクルトが年々そこそこの成績を残せているのは、中心選手が持つヤクルトの野球は他より進んでいるという優位感に他ならないのだと野村さんは説く。

弱者の戦略は『無形の力』なのであると。それは野球知識であり、優位感も含め様々な心の持ち方である。

野球選手は野球博士であるべきだと。たしかにプロ野球を見ていてもルールを完璧に理解したクレバーな頭脳プレイはさすがプロと思わせるものがある。

選手に優位感を持たせることも重要だ。

「うちは他のチームより進んだ野球をやっている」と選手に思わせ、データをもとに具体的な攻略法を選手に授けると、監督に対する信頼が芽生え、他チームに対しては優位感を持ち、チームにとって大きな効果を生むのだと。


感謝の心から始まる人づくりが最も重要

ヤクルトの2軍グラウンドに「おかげさまで」と書いた紙が貼ってあったという出だしからこの本は始まる。

「親のおかげ、先生のおかげ、世間様のおかげの塊が自分ではないのか」

『無形の力』を読み、野村さんの生い立ちを知ると、この言葉がいっそう重みを持ってくる。

今の選手に最も欠けているのが感謝の心であり、感謝こそが、人間が成長していくうえで、最も大切なものであると野村さんは説く。そして個人の成長の集大成がチームとしての発展に繋がっていくのだと。

選手には「人生」と「仕事」とは常に連動しており、人生論が確立されていないかぎり、いい仕事はできないことを覚え込ませる。

そして『無形の力』をつけるのだ。技量だけでは勝てない。情報収集と活用、観察力、分析力、判断力、決断力、先見力、ひらめき、鋭い勘などが『無形の力』だ。

よい監督は、まずは選手たちの人づくりに励む。楽天の一年目を引き受けた田尾監督以下のチーム首脳は全く人づくりを行っていなかった。息子のカツノリ氏から楽天一年目のキャンプの話を聞き、これではダメだと予想していたと。

もともと監督と選手の立場は正反対で、監督はチーム優先で考えているのに対して、選手は個人主義である。

ところが、選手は自分の存在意義を知ってくれる人がいれば、「この人のために死んでもかまわない」と思えてしまうから不思議だと。

「士(さむらい)は己を知る者の為に死す」という言葉があるが、リーダーのためという思いから、チーム優先に変われるのである。それが強いチームをつくる為の人づくりなのだ。


決断と判断とは異なる

この話は筆者にとっては目からウロコという思いだ。

野村さんは監督になったばかりの頃は、『決断』と『判断』というふたつの言葉を混同していたが、二つは異なるものだと。

『決断』は賭けで、何に賭けるか根拠が求められ、責任は自分で取る度量がなければならない。

一方『判断』は基準に従って判断するものだ。知識量や修羅場経験がものをいう。

例えば投手の継投タイミングを決めるのが『判断』であり、完全に監督の判断能力が問われる。

いざという場面でどうしても情が出てしまうのが野村さんの欠点であると。「なんとか勝たせてやりたい」という気持ちが出てしまい失敗することが多いと。

ビジネスでも『決断』なのか、『判断』なのかを区別して考えれば、おのずと頭がきれいに整理できることが多いと思う。


理想のチームはV9時代の川上巨人

チームづくりの終着はまとまりであると。その意味でV9時代の川上巨人はまさに適材適所であると。

野村さんの頭のなかには常にV9巨人のオーダーがあり、それに自分のチームを近づけるにはどうしたらよいかと考えたと。ホームラン打者ばかりそろえてもダメなのだ。


野村監督は詰めが甘い?

野村さんが阪神の監督を三年で辞めるとき、次期監督は星野さんしかいないとフロントに進言して、阪神星野監督が実現した。

星野監督になって2年目に阪神がリーグ優勝したとき、阪神の久万オーナーからは、「野村君と星野君には決定的な違いがある」と言われたと、「野村君は詰めが甘いよ」と。

たしかに星野さんは金本をみずから口説き、フロントに伊良部を獲らせ、自分のパイプでムーアなど、外国人を獲得し、コーチ、選手もチームの3分の1近くを入れ替え、金もつかって別物と言ってもいい阪神を作り上げた。

野村さんは金を使わないという球団方針に真っ向から反対せず、藤本や赤星などドラフトの下位で獲れる選手獲得に口をだした程度であるが、星野さんは多額の費用を掛け、かつ自ら動いて投打の大物を集めた。

野村さんの本には書いていないが、星野さんがみずから口説いた金本が、阪神のチームリーダーとなったことが、阪神の意識改革の上で大きいとNHKなどのマスコミは解説している。

ストイックに練習に励み、38歳となった今もウェイトトレーニングで自分の体をいじめぬく姿を、他の選手は見ているのだ。

野村阪神時代にはいなかった金本というチームリーダーの存在に加えて、筆者は副官となるコーチやスタッフ陣の違いも大きいと思う。

野村さんには野村マフィア的な右腕、左腕となる副官がいないが、星野さんはそれがいて、『チーム星野』として阪神の建て直しにあたったことで、大きな差がついたのではないかと見ている。

現在の楽天監督の野村さんには阪神時代と同様、頼りとなるチームリーダーと副官が不足している。このままだと、また阪神の三年連続最下位の再現となるのでないか。

チーム建て直しも、会社建て直しも組織運営という意味では同じだ。いかに強力なリーダーであっても、ワンマンがどうこうできる時代ではない。それこそV9巨人の様な様々な持ち味を持った再建チームと、選手をまとめることができるチームリーダーができるかどうかが、楽天球団の浮上のカギとなると思う。


第二部 個別選手評

イチロー

イチローは最初に見たときから良い選手だと感じたので、なかなか土井正三監督が使わないのが解せなかったと。

イチローが天才であることは間違いないが、同時にすごい努力家である。イチローはマシン相手に一日中打っている。

野村さんの好きな言葉に「小事が大事を生む」というのがあるが、イチローも「頂点に立つということは小さなことの積み重ねだ」と言っていたと。イチローの発言はまさに野村さんの野球観に通じており、感銘を受けたと。

また「打席のなかで注意しているのはワンポイントだけ、常に左肩を意識している」という言葉にも感銘を受けたと。体が開かない様に、『打撃の壁』を意識しているわけだ。

イチローは、「ぼくは違います。変化球をマークして、真っ直ぐについていく、これがぼくの理想です」と語っていたと。すごいことだと。

たしかにイチローの天才的バットさばきを見ると、変化球をマークし、直球についていくということを実践しているのだと思う。

1995年ヤクルトがオリックスと対戦した日本シリーズでは、事前のスコアラーの情報では、イチローには全く弱点が見あたらないとのことだから、イチローの内角攻めの意識を高めるべく、野村さんはテレビや新聞のインタビューで「イチローは内角に弱点がある」と言い続けたのだと。

古田などは対策に困っていたので、もっと言ってくださいよと言ってきたと。

日本シリーズ中のイチローはシーズン中のイチローとは別人で、完全に壁を崩していたので、外角を中心に攻略し、2割6分に抑えることができた。ささやき戦術でヤクルトは優勝できたのだと。

もっとも筆者はこの野村さんの説明には異議がある。筆者の記憶では、この年の日本シリーズが始まる直前に、野村さんはたしか「イチローの振り子打法は打つ時に足がバッターボックスから出ているので、ルール違反だ」とマスコミでぶち挙げたはずだ。

これがイチローへのプレッシャーとなり、イチローを押さえ込むことができたのではないかと記憶している。ビーンボールの様なことをするなと当時感じたものだ。


古田敦也監督に対する複雑な感情

古田は野村さんに年賀状もよこさないと。つまり冒頭に出てきた『感謝の心』がないと、野村さんは言いたいのだろう。だから正直、古田が野村さんのことをどう思っているのかわからないと。

古田は過信家といってもいいほど自己中心的な性格をしているが、ことリードという点では探求心、向上心があった。なにより野球に対するセンスが良く、頭脳明晰であると。

筆者は古田がスポーツマンNo. 1決定戦などに出演したのを見たことがあるが、記憶力クイズなどでは抜群の強さだ。

野村さんは自分が古田を育てたという気持ちがある。

新人の古田に対し「8番キャッチャーのレギュラーをおまえにやる。バッティングは頑張って2割5分打て。だからその分配球術を勉強しろ」と、野村監督のすぐ前に座らせて勉強させ、ピンチの時はベンチから野村監督がサインをだすこともあったと。

人間教育以外にも全身全霊をこめてあらゆる指導をし、超一流まで育て上げたという気持ちがあるために、求めるものが大きいのかもしれないと。


現役選手への辛口批評

阿倍のリード、松阪の投球フォームと腕の振り、上原の自己中心的性格(古くは鈴木啓示、村山実がそうだったと)、石井一久のすぐキレる性格、城島のおおざっぱなリードなどを辛口批評している。


野村さんの呼ぶ三悪人

江本、江夏、門田。これが野村さんの呼ぶ三悪人だ。いずれも扱いにくい選手で、江本、門田とは腹を割ってうち解けることはなかったが、クセのある選手を悩みながら指導し、人間教育をしたのだと。

江夏は阪神で甘やかされ、南海に来たときはすねていたが、野村さんが言いにくいことも言い、厳しく接したり、叱ったりで愛情を持って接して、二人でストッパー革命を起こそうと奮起させた。

ひじを壊していた江夏に自分の経験から腕立て伏せが良いとすすめ、ひじの痛みをなくさせ、再起させたが、血行障害で50球しか投げられないとわかると、こんどはストッパーとして成功させた。

江本には身だしなみからはじまり、人間教育につとめた。

門田には「全部ホームランを狙う」という思い違いを、王選手に引き合わせることにより是正しようとした。

王さんは「門田君はいつもホームラン狙っているの? 自分の能力、自分のもっているものを出し切って、結果は神にゆだねる。その結果がホームランになったり、ヒットになったり、凡打だったり、バッティングとはそういうものだよ」と言っていたと。

門田はそれでも信じなかったそうだ。

ホームランは麻薬の様なもので、ホームランを打つとその後、体が無意識にホームランを欲しがるようになると。

韓国でホームラン王だった李スンヨプが、一年目、二年間は日本で全くダメだったのは、このホームランへの思いこみがあったからなのではないかと筆者は感じる。


野球は心理のスポーツ 間のスポーツ 

最後に野村さんは野球は『間のスポーツ』であると語る。しかし最近のテレビ中継や新聞報道では、こうした野球の妙が欠落していると。

解説者はただ選手を褒めちぎり、結果論だけで選手を評価する。評価の基準も根拠も見あたらないと。

野球が『心理のスポーツ』であるという本質を、この本を読むことで知って欲しいと野村さんは言う。

たしかにプロはこういう心理戦、配球の読みで戦っているのかとよくわかり、考えさせられる本であった。

付録についている81コマに区切ったストライクゾーンとそれからボール2個分はずれたボールゾーンを使っての配球説明といい、さすがプロは違うと思わせる。

野球の面白さをあらたに味わえ、ビジネス書としても参考になる良い本であった。


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2006年05月04日

無形の力 楽天を応援しようという気になる野村克也氏の私の履歴書

無形の力―私の履歴書


2006年から楽天球団の監督になった野村克也氏が日経新聞に連載した『私の履歴書』。

次回紹介する『野村ノート』が野球論をベースにしたビジネス書であるのに対して、こちらはまさに野村さんの経歴と野球観。

野村克也氏に関するウィキペディアの説明も非常に良くできているので、是非クリックしてご覧頂きたい。

この本のタイトルとなっている『無形の力』というのは楽天球団のスローガンで、宮城フルキャストスタジアムにも横断幕が掲げられている。

野村克也氏は監督経験も長いが、評論家時代も長かったので、野球関係者としては驚くほど多作だ。アマゾンで『野村克也』で検索すると、自らの著書中心に41件がヒットする。

たぶん次に多作と思われる野球評論家の『豊田泰光』でアマゾン検索すると12件なので、野球関係者の著作の多さではたぶんトップではないか。

ちなみに『長嶋茂雄』でアマゾン検索すると、長嶋さん自らの著作はほとんどないが、長嶋論的な本が多数出ており、ヒット数は80件にものぼる。やはり話題性では長嶋さんがトップなのだろう。

また『王貞治』では23件ヒットし、王さん自身が書いた『少年野球』という本も出てくる。いかにも少年野球育成に力を入れた王さんらしい。

アマゾン検索だけでも結構いろいろなことがわかるものだ。

ちなみに野村さんの著作の中には『女房はドーベルマン』という面白いタイトルの本もある。


女房はドーベルマン


サッチーで知られる奥さん野村沙知代さんが人生の伴侶として、野村さんの不可欠のパートナーであることが、この『無形の力』からもよくわかる。


野村さんの経歴

野村さんは天橋立に近い京都府網野町で生まれた。父親が野村さんが3歳の時に中国で戦死、母子家庭として貧困の中で育つ。イモや雑穀混じりのご飯が常で、コメのメシなどほとんど食べたことがなかったと。

中学卒業時に家庭が貧しいので、母親から就職するように頼まれるが、学業優秀だったお兄さんが、自分が大学進学を断念して就職するので、野村さんを高校に進学させてくれと頼んでくれ、峰山高校に進学することができた。

野球を本格的に始めたのは中学2年からで、キャッチャーで4番だった。大人顔負けの飛距離で中学でも高校でも頭角を現し、高校の野球部長の紹介でキャッチャーの弱かった南海の入団テストを受ける。

肩が弱かったので90メートルの遠投ができなかったが、審査員の温情で内緒で遠投ラインを5メートルほど越えて投げさせて貰い合格する。

なんとか入団したが、収入は驚くほど低かった。2年目で解雇されそうになるが、泣いて頼んで残して貰う。

必死に練習し、当時野球に悪影響があるという迷信のあった筋力トレーニングをひそかに実施して弱肩を克服、3年目から1軍のレギュラー捕手の地位を確保した。

母親を早く楽にさせたいという一念が、野村さんの成功の最大の原動力だ。

努力を重ね、弱点を克服する一方、観察力を磨き、テッド・ウィリアムスの『打撃論』を読んで、打てなかったカーブも投手の小さな変化、クセを見逃さないことで打てるようになる。

1960年からは『野村メモ』を取り始める。

それまで歯が立たなかった大投手稲尾も、クセを発見して3割近くまで打ち込むことができるが、同僚の杉浦がオールスターで3人一緒になった時に、稲尾にばらしてしまう。

『野村が投手のクセを見ている』といううわさはすぐに他チームに知れ渡り、投手が振りかぶる時にグラブでボールを隠すようになり、クセを封印したので、その後は配球の読みの勝負となった。

それ以来チームメートにも企業秘密は絶対に口にしないと心に決めたと。

南海での8年連続ホームラン王、6年連続の打点王、1965年の三冠王など、それからはサクセスストーリーだ。

この本ではその時々の対戦相手、同僚との逸話が紹介されており面白い。


南海プレイングマネージャー時代

1970年から南海でプレイングマネージャーとなり、1977年にサッチーの件で解任されるまで、優勝一回、在任八年間で、Aクラス六年という実績を残した。

監督を辞めるときの言葉が「長嶋や王はひまわり。自分は月見草」だ。

南海時代に影響を受けたのはヘッドコーチのブレイザーだと。

ブレイザーは後に『シンキング・ベースボール』を出版したが、大リーグではここまで考えて野球をしているのかと、南海の全員が驚いた。

たとえば「ヒットエンドランの時は、二塁手かショートのどちらが二塁カバーに入るか一塁ランナーはスタートを切るふりをして確かめろ。打者はそれを見て、ベースカバーに入る方へ打球を転がせ」といった具合だ。

今でこそ常識となっているが、当時は画期的なことで、自分たちは高度な野球をしているのだという自信になり、ブレイザーの教えがヒントとなって野村さんは野球哲学を確立した。

山内、江本、江夏を再生し、野村再生工場と言われたのも南海監督時代からだ。

監督退任後、ロッテ、西武で現役を続け、試合の締めくくりに登場し『セーブ捕手』という言葉ができるほどだったが、ある時8回1死満塁で代打を送られた時に「代打策が失敗するように」とチームの不幸を祈る自分に気がつき、引退を決意する。

1980年に引退した後は、解説者/評論家となり多くの本を読み、気に入った文章はノートに書き写すことで、『ノムラの考へ』を作り上げていった。

ストライクゾーンを9マスに区切った『野村スコープ』で配球をテレビ解説したのもこのころだ。

ヤクルト監督として返り咲き

評論家生活も9年めとなった1989年にヤクルト球団相馬社長が訪ねてくる。

「野村さんの解説を聞いたり、論評を読んだりして感心していました。うちの選手に野球の神髄を教えてやってくれませんか」と。

ヤクルトでは「一年目にまいた種を二年目に水をやり、三年目に咲かせる」という約束を見事実現する。

古田に対する英才教育を始め、チーム全員に野村ID(Important Data)野球を熱心に指導することにより、ヤクルトは考える野球、他より進んでいる野球をやっているという優越意識を植え付け、九年間で4回優勝、うち日本一3回を達成する。

ヤクルト監督を生え抜きの若松に譲り、辞任したあと、すぐに阪神から監督就任要請が来る。


阪神監督では成果があらわれず

阪神久万オーナーが出馬して「私が直接出てきて監督就任をお願いするのは野村さんが初めてです。」

「今タイガースはどん底にあります。来年、一からスタートするのに当たり、監督にふさわしいのは野村さんしかいない。野村さんは球界の第一人者。あなたの右にでるものはいません」と美辞麗句を並び立てる。

「すべて野村監督の言う通りにする」とのオーナーの言質を持って、万年最下位チームを立て直そうとするが、長年の甘やかされ体質を改善できず三年間最下位で監督退任。

しかし野村さんが次期監督に推薦した星野仙一監督が野村路線を引き継ぎ、戦力増強と熱血指導で選手をのせ、チーム改革に力をそそいだ結果、就任二年目で優勝。

野村さんはその後知人のシダックス志太会長に請われ、社会人野球の監督を3年勤めた後、2006年からは楽天に招聘され、監督となる。


今年は楽天監督だ

2005年に誕生した楽天球団ではあるが、全く『野球に対するチームの骨格』ができていない状態で、野村さんは『一からの出発ではなく、ゼロからの出発である』と語る。

優勝をねらえる球団にするにはまだまだ時間が掛かるが、野村さんの経験や知識を伝えていけば、チームとしての基礎づくりができると信じて火中の栗を拾うことにしたのだと。

野村さんは弱小球団に縁があると語るが、弱者の戦略。それが『無形の力』である。観察力、分析力、判断力、記憶力、決断力を磨いて活路を見いだすのである。

野村さんは阪神時代の失敗からも学んだ。リーダーには統率力、指導力の二つの力が必要だが、その根本にあるのが選手との信頼関係であると。

裸の王様ではどんな優れたリーダーでも力を発揮できないのだと語る。


母子家庭の貧困から出発し、ハングリー精神で必死に努力し、勉強して過去の失敗に学ぶ野村克也監督。2006年に楽天球団がどう変わるか、期待して見守りたいという気持ちにさせる好感の持てる野村さんの履歴書だった。

『ささやき戦術』にも長嶋さんは無反応だが、人の良い王さんとは会話がはずむなど、長嶋さん、王さんらしい逸話も載っている。面白く読める本だった。


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2006年05月03日

おりこうさんおばかさんのお金の使い方 ネットのパイオニア板倉さんの新境地

おりこうさん おばかさんのお金の使い方


ハイパーネット創業社長の板倉雄一郎さんのお得生活指南書。

板倉さんといえば、1991年にダイヤルQ2を使ったサービスでハイパーネットを創業。つづいて世界で初めて広告を見ることでインターネット接続料を無料とする広告モデルを開発し、ビルゲイツも注目した。

一時は飛ぶ鳥を落とす勢いがあったが、1998年クリスマスからのネット業界の急成長が起こる前の1997年12月にハイパーネットは倒産、板倉さん自身も自己破産した。

その時の体験が『社長失格』である。


社長失格―ぼくの会社がつぶれた理由


筆者は2000年にインターネット業界に移ったが、ちょうどその当時読んだ本がこの『社長失格』とクレイフィッシュの松島庸社長の『追われ者』だ。両方失敗談であることが、インターネットバブル後の時代を象徴している。

追われ者―こうしてボクは上場企業社長の座を追い落とされた


フェラーリを買い、恋人と都心の一等地に住んでいた板倉さんは、会社倒産とともに、自己破産し、一敗地にまみれたが、その時の経験を淡々と書く『社長失格』は面白い読み物だった。

ハイパーネットの副社長が現在ドコモの執行役員でiモード仕掛け人の夏野剛さんだ。

その後板倉さんは自らの失敗談を題材にコンサルタントとして復活し、バリバリ活動しており、この本は板倉さんの新境地ともいうべきものだ。

それにしても幻冬舎は売れる本をつくるのがうまい。

内容もわかりやすく、イラストも多く入れて軽いタッチの本に仕上げている。

『学校では教えてくれなかった目からウロコのお金講座』というキャッチが裏表紙にあるが、板倉さんは儲かるしくみはすべて頭のいい人がつくっている。だまされるなと警鐘をならす。

次が板倉さんのメッセージだ。

「僕は37億円の負債を抱え、自己破産しました。そんなぼくだからこそわかることがあります。それは、世のなかお金の仕組みは、経済的教養の高い一部の人々によってつくられ、経済的教養の低い人たちのお金が搾取されているということです。

そこで、ぼくがこの本を通じてお伝えしたいのは、お金のしくみ、そしてインチキを見破るための知識です」

軽いノリで読む本なので、堅苦しく考えることはない。

たとえば家電量販店のポイントを貯めることは店にお金を預けることだから、ポイントは使えとか、ゼロ金利ローンは結局儲けに織り込まれているとか、テレビ通販は本当に安いのかとかいったテーマが紹介されている。

ただポイントなどは日々進化している。楽天は頻繁に楽天が野球で勝つとポイント2倍セールをやっているし、ポイント残高がある人には期間限定ポイントなどを出している。

またヤマダデンキは手持ちのポイントを3割アップで使えるセールとかをやっている。

常に現金割り引きで買うことがポイントを貯めるよりメリットあるとは、必ずしも言い切れないほどポイントをめぐる動きは早いのだ。

持ち家より賃貸とか、保険は掛け捨てでとかいったテーマの後で、株式投資は美人投票という説が述べられている。

たしかに板倉さんの言うように株式に限らず、多くの人が投資する金融商品は美人(人気)投票といった面もある。

しかし筆者は商品のファンダメンタルズと商品そのものの需要と供給の差という基本的な面もあると思っている。

たとえば新規公開(IPO)市場だ。そもそもIPO株の売り出し総数が、購入希望者数より絶対的に少ないから、需要と供給の関係で、初値から高値がつくという面もあると思う。

また配当=株価上昇は間違いであると。ウォレン・バフェットのバークシャーハザウェイは過去1回しか配当したことがないが、株価上昇率は1,000倍以上で、配当せずに内部留保を拡大投資に当てることで、株式価値は最大化できるのだと板倉さんは説く。

投資商品は、専門家がうまみをエンジョイした後に一般投資家に売り出されるので、必ずしもおいしい投資にはならないと。

このように世の中のお金の仕組みは賢い人たちがつくっているので、だまされるなと板倉さんは呼びかける。

しかしそうはいっても、投資に踏み切らないとフルーツも得られないので、賢い人たちがつくった投資商品だからやめるということにはならないだろう。

板倉さんお久しぶりという感じで、あまり深く考えず、そんな面もあるな程度で読むべき本だと思う。


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2006年05月02日

ハリアーハイブリッド 自動車税は半額になります

2007年8月追記:

自動車税が半額になるのは、最初の2年間だけなので、ハイブリッド車の優遇金額は
58,000円で、以下記事の6年間17万円というのは間違いです。



ハリアーハイブリッド


購入してから1年たち、ハリアーハイブリッドの自動車税通知書が届いた。

税額が安いのでちょっと驚いた。

購入した時は補助金の21万円が大きいので、あまり気にとめていなかったが、自動車税も半額なのだ。

本来であればハリアーハイブリッドは3.3リッターなので、年間58,000円となるはずだが、17年☆☆☆☆優良低燃費車ということで半額の29,000円となる。

この自動車税差を所定の保有期間の6年で掛けると17万円となり、ガソリン車とハイブリッド車の価格差の半分の補助金21万円と足すと38万円となる。

これでガソリン車との値差はほぼ回収できることになる。

これに加えて燃費向上によるガソリン節約分が走行条件によって3割から5割あるので、結果的にハイブリッド車はガソリン車より割安となる。

あとは6年後(補助金交付の条件で6年間所有が義務づけられる)中古車価格がガソリン車より高ければ結果的に安い買い物となる。

現在ではハリアーハイブリッドの中古車の出物がほとんどないので、中古車は人気があり、価格は新車より若干低い程度だが、どうなるか楽しみである。


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