2009年05月31日

超英語法 野口悠紀雄さんの英語勉強法

2009年5月31日追記:

下記のあらすじを書くために読んだのは2004年4月発刊の単行本だったので、iPodの活用について全くふれていなかった。iPod前の時代なので、やむをえないところだろう。

文庫本は2006年10月発刊なので、あるいはiPod、特にPodcastを活用しての英語勉強法について書いてあるかもしれないと思って、文庫本も読んでみた。

内容は変わりなく、気づいた唯一の変化は文庫版のあとがきだった。

iPodの活用については、「このような技術進歩の成果を最大限に活用することが重要だ」と書いてあるだけだが、そのほかに野口さんがスタンフォード大学客員教授として赴任して感じたことを書いているので、紹介しておく。

スタンフォードで痛感したのは、日本人学生の英語力の低さだと。

スタンフォードの留学生数を見ても、1990年代のはじめ頃は日本、中国、韓国それぞれ120名程度で、ほぼ同数だったが、現在は中国が400名、韓国も300名強に対して、日本は逆に減っており60名程度になっているという。

企業派遣の留学生が減ったこともあるが、スタンフォードで教えていて感じた一番の原因は日本人留学生の英語力の低下と考えざるをえないと野口さんは語る。

ITにより世界の経済構造は大きく変わり、アメリカで企業に電話すると、ほとんどの場合インドのコールセンターにつながるが、日本はこのようなITを使った変化から取り残されている。

インターネット上の世界言語は英語であり、日本人の英語力の低さにより、日本が大きな変化から取り残されているのだと。

単行本で述べていなかった「読む英語」の重要性にもふれている。

今や情報収集の主役はインターネットの検索であり、世界中のあらゆる情報を調べようとしたら、それは英語の文献が中心になる。今後の世界は日本語と英語の差がさらに広がり、「差が本質的なものになる」だろう。

野口さんがスタンフォードにいたときに、Googleのトラックが毎日大学図書館に横付けになり、本を搬送していたという。

本をロボットが撮影して電子化するのだ。それが現在ベータ版で提供されているGoogle book search(Googleブック検索)だ。

たとえばGoogleブック検索で「英語 夏目漱石」で検索してみるとヒットするのは122件だ。

Google book search





次に"English Soseki Natsume"で検索すると、ヒットするのは526件だ。

goo





もちろんコンテンツの数よりコンテンツの中身の方が重要だが、それにしても漱石の引用や作品ですらインターネット上の情報では英語の方が日本語より圧倒的に多いのがわかる。

このグーグルブック検索は本だけの検索で、著作権の関係から載っている本でも一部しか公開されていないし、検索にかからない本がまだ圧倒的に多いが、それでも何かのテーマについて書く時には大変便利なツールだ。

話が横道にそれたが、いずれにせよ英語を読めるかどうかで、その人の情報能力には本質的な差が生じることになる。英語の勉強は今後ますます重要性を高めているのであると野口さんは文庫版のあとがきで記している。

目的のPodcastの活用法については、別の本を読んだ方がよさそうなので、調べてまたあらすじで紹介する。

尚、野口さんの「超英語法」のサイトがあり、現役英語教授との対談とか、超英語法講演会レポートなどのコンテンツが載っていて参考になるので、紹介しておく。

noguchi ondemand college







2009年5月27日初掲:

「超」英語法 (講談社文庫)「超」英語法 (講談社文庫)
著者:野口 悠紀雄
販売元:講談社
発売日:2006-10-14
おすすめ度:4.5
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以前紹介した「英語ベストセラー本の研究」で2000年代、第三次英語ブームの時代の代表作として紹介されていたので読んでみた。

読んでみてあらためて「英語ベストセラー本の研究」が内容を的確にまとめていることがわかった。さすが元編集者が書いた英語の本である。

孫引きのようになるが、筆者の「英語ベストセラー本の研究」のあらすじのなかで、「超英語法」関連部分を引用すると次の通りだ。

+++++++++++++++++++++++++++++++

勉強法で数々のベストセラーを出している野口悠紀夫さんの英語法は、英語は単語帳で暗記せずに、文脈で覚える、そのためには有名な文章を暗記するのが一番というものだ。

ちなみに野口さんはジョージ・オーウェルのアニマルファームやケネディの就任演説全文を暗記したという。

Animal Farm (Signet Classics)Animal Farm (Signet Classics)
著者:George Orwell
販売元:Signet Classics
発売日:1996-04-01
おすすめ度:4.5
クチコミを見る




(注:ケネディの大統領就任演説で最も有名な"Ask not, what your country can do for you. Ask what you can do for your country. Ask not, what America will do for you but what together, we can do for the freedom of man"は、最後の12分20秒くらいにある。)

口語に関する限り、聞く練習がすべてで、話す練習は全く必要がないと野口さんは語る。「聞くことができれば、自動的に話すことができる」と。

語学のマスターには4,000時間が必要だ。中学から大学まで約3,000時間英語を勉強してきたので、あと1,000時間を社会人になっても継続することを野口さんはアドバイスする。

++++++++++++++++++++++++++++++++

簡単ではあるがほぼこの本の要点は抑えていることがわかる。


英語は聞くことができれば話すことができる

野口さんの英語勉強法の最大の論点は、「英語は聞くことができれば、ほぼ自動的に話すことができる」という点だ。

それが冒頭の部分で語られているので、その部分を引用する。

「多くの人は、実用英語とは英語を「話すこと」だと考えている。英語の能力があることを示すのに「英語を流暢に話せる」と表現することが、その証拠だ。

しかし、これは大きな間違いだ。実際の場面で必要なのは、「聞くこと」なのである。そして、聞くことができれば、ほぼ自動的に話すことができる(詳しくは、第一章の2を参照)。

だから、実用英語の訓練は、実際に話されている英語を聞くことに集中すべきだ。

英会話学校もテレビの英会話番組も、あるいは「こうした場合にこう話す」という類の参考書も、「実用英語は話すこと」としている点で、基本的に誤っている。」


聞ければ自動的に話せる例として、友人と野口さんが話している例を、"Coffee Break"というコラムで紹介している。

会話は「相手に助けられながら話す」のだと。相手が言っていることをそのまま繰り返すだけで会話が成立することもあるし、Yes, Noを挟んだり、簡単な返しの言葉"Yes, indeed"とか"Oh, really?"、"That's right"などを使っても良い。

相手に依存して、相手を真似するだけで自動的に話すことができる。

実際の会話はこのように相手のペースで進むことが多い。相手が言っていることを正しく理解できさえすれば、こちらが複雑な表現法をできなくとも、問題なく進行するのだと。

だから「聞く訓練に集中すべし」という観点からすると、多くの英会話学校でやっている授業や、ラジオ、テレビの番組の英語の勉強法は、間違っていると野口さんは語る。

聞く訓練においては、教師の役割は少ないため、英会話学校としては売り物にならない。「話せるように訓練します」というのは「供給者の論理」で、それにはまりこまないことが重要だと。

「英語は聞ければ話せる」というのは英語教育業界に真っ向から反発する内容なので、論議を呼ぶ意見だが、筆者自身の経験からしても正しい順番だと思う。

赤ん坊は親の話す言葉を聞いて言葉を覚えるわけだし、筆者自身、"R"と"L"の発音の違いがわかったのは、アルゼンチンの下宿でアルゼンチン人の友人とワインの話をしている時だった(白ワインをスペイン語ではvino blancoと言い、"L"の発音だ)。

友達の発音をまねてvino blanco(ビノ・ブランコ)と言えた訳だ。

ちなみにスペイン語では"L"と"R"の区別はあるが、"V"と"B"の区別はないのがややこしいところだ。だからヴィノ・ブランコではなく、ビノ・ブランコなのだ。


英語細胞説

英語を聞いたり読んだりするときは、脳の英語細胞を使うという「英語細胞説」があるそうだが、野口さんの英語勉強経験からも、この「英語細胞説」は納得できる点が多いという。

「英語細胞」という言い方が正しいのかどうかわからないが、米国駐在九年の筆者の経験からしても、「英語で考える」ことができる段階まで上達すれば、たしかに「英語細胞」は「日本語細胞」と別にあるという説も理解できる。

駐在が長くなると、英語の単語は出てくるが、日本語の単語が思い出せないということがある。筆者はアルゼンチンに駐在してスペイン語ができるので、スペイン語でも同様のことがあった。

これも「英語細胞」、あるいは「言語細胞」の例なのだろう。


ひとまとめで丸暗記する

野口さんのもう一つの主張は、「単語帳でばらばらに単語を覚えても使えない。丸暗記でひとまとまりのものとして覚える必要がある」ということだ。

このブログで紹介した多賀敏行さんの「外交官の『うな重方式』英語勉強法」でも「うな重方式」として紹介しているように、多くの英語勉強法の著者が、様々な表現で語っている通りだ。

外交官の「うな重方式」英語勉強法 (文春新書)外交官の「うな重方式」英語勉強法 (文春新書)
著者:多賀 敏行
販売元:文藝春秋
発売日:2008-11
おすすめ度:3.0
クチコミを見る


ちなみにコラムで、経済学の授業で”マルチンゲール”という言葉が出てきて意味が分からずに困ったという話を紹介している。筆者もこの言葉は知らなかったが、負ければ賭け金を倍にしていく賭けのことだ。


英語を聞く練習

この本を読んで、野口さんの勉強法は、かなり筆者の勉強法と似ていることがわかった。

第5章「聞く練習を実践する」では、次のサブタイトルで説明している。

1.通勤学習のすすめ

2.インターネットで演説を聞く

3.インターネットでニュースを聞く

4.オーディオブックで文学作品やビジネス書を聞く

5.映画は実用英語の勉強教材として適切か

通勤時間を利用して、英語を聞く点は筆者と同じだが、筆者の場合、「歩きながら本を読む」をモットーに、歩いている間にも英語を聞いている。

筆者が読んだ単行本は2004年4月の発刊で、まだiPodが広まる前の時代なので、iPodのAudible.comのオーディブックとの相性の良さPodcastでアメリカの有名大学などの講義が視聴できる便利さなどは語られていない。

Audible.comサイト:

audible






Podcastのスタンフォード大学のページ

Podcast Standford University






ちなみに筆者がiPod第3世代のiPodを買ったのは、2003年の冬頃だ。iTunesのWindows版が出たのが、2003年10月ということなので、たぶんその直後だと思う。

この本も、今改訂版が出れば、iPodを活用した英語勉強法に見直されることだろう。


野口さんは英語をどう勉強してきたか

最後の第7章「私は英語をどう勉強してきたか」のサブタイトルは次の通りだ。

1.中学生のときに見つけた丸暗記法
2.アメリカ留学
3.帰国後に英語を勉強

帰国後に英語を勉強とは、上記の通勤学習のことだ。

野口さんの英語勉強の目的は、「アメリカ人が普段の生活で使っている口語も聞けるようになること」で、象徴的に言えば「映画の英語がすべて分かること」だという。

これが野口さんに不足している能力で、それに加え、正式な英語を書くのは難しいと今でも思っていると語る。野口さんは留学中に大学の博士論文を書くときに、冠詞の使い方が悪いと指摘されたという。本当に冠詞は難しい。


日暮れて道遠し

この本で何度も引用されている故伊丹十三監督の「ヨーロッパ退屈日記」に、ヴァイオリンの奏者に三段階あり、1.全く奏することができない者、2.非常につたなく奏する者、3.非常に巧みに奏する者だという話が出てくる。

ヨーロッパ退屈日記 (新潮文庫)ヨーロッパ退屈日記 (新潮文庫)
著者:伊丹 十三
販売元:新潮社
発売日:2005-03
おすすめ度:4.5
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野口さんはこの第2段階だと謙遜する。この道50年で「日暮れて道遠し」だと。

64歳になってからも新しい外国語に挑戦したシュリーマンの例を取り上げ、映画の英語がすべて聞けるように今後も英語を楽しく勉強したいと締めくくっている。

古代への情熱―シュリーマン自伝 (岩波文庫)古代への情熱―シュリーマン自伝 (岩波文庫)
著者:ハインリヒ シュリーマン
販売元:岩波書店
発売日:1976-01
おすすめ度:4.0
クチコミを見る



まさに同感である。英語の勉強に終わりはない。筆者も通勤時間に英語のオーディオブックを聞き、車に乗るときはaudible.comでダウンロード購入してiPodに入れたチャーチルの「第二次世界大戦」を聞いている。

Audible.comのチャーチルの第二次世界大戦のページ

the second world war







Second World War (Second World War)Second World War (Second World War)
著者:Winston, Sir Churchill
販売元:Mariner Books
発売日:1986-05-09
おすすめ度:5.0
クチコミを見る




ノーベル文学書受賞作でもあり、チャーチルの英文が格調高いこともあって、まだまだわからないことが多い。

筆者の場合も、まさに、この道40年で「日暮れて道遠し」だ。


英語勉強の原点

野口さんは、英語で悔しい思いをした経験はないようで、中学の英語弁論大会で、(受賞はしなかったが)スピーチをした時が原点だという。

筆者の場合は、24歳でアルゼンチンに赴任したときに乗ったパンナム機で、米国人スチュワーデスに何度言っても"milk"が通じず、結局ビールを持ってこられた時の悔しさが、英語勉強の原点だ。

それからも何度も悔しい思いや失敗をした。

これからもあの悔しい思いを忘れずに、少しでも英語力向上に努力するつもりだ。


「聞くことができれば話せる」とは異論があるかもしれないが、まずはカンペキに聞いて分かることが英語の最大の上達法であることは間違いないと思う。

いろいろな意味で参考になる本だった。是非iPod時代にあわせて改訂版を出してもらいたいものだ。


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Posted by yaori at 21:38Comments(0)TrackBack(0)

2009年05月29日

Google Mapストリートビュー 削除画像が復活

Google Mapのストリートビューで、車のナンバープレートが写っていたため、昨年9月に自宅の画像を削除してもらったが、Googleの新技術でナンバープレートにぼかしを入れるようになったので、筆者の自宅の画像も復活している。

Google Map






どうやら今年の初め、冬に撮った写真のようだ。

筆者のハリアーハイブリッドが写っているが、こんどはナンバープレートにぼかしがはいっていて読めない。

あたらしい画像に入れ替えて、すべて復活したのだと思う。

ピッツバーグで住んでいた家も2台車が写っているが、ナンバープレートは読めないようになっている。アメリカの画像は以前と変わっていない。たぶん画像を入れ替えたのは日本だけなのだろう。

google map pittsburgh






ナンバープレートをぼかすプログラムを追加したのだろうが、それにしてもGoogleはやることが早い。さすがだと思う。

参考になれば次クリック投票お願いします。





2008年9月19日初掲:

Google Mapのストリートビュー機能が始まって、1ヶ月強がたった。

始まった時にそのすごさをブログに書いたが、実は日本の自宅については車のナンバープレートが読めるというプライバシーの問題があった。

そこでGoogle Mapストリートビューのヘルプで問題を報告してみた。

Streetview help1





このストリートビューヘルプをクリックすると次の画面が現れる。

Streetview help2





これに記入して送信すると、次のような確認メールが届く。

Google の記録によりますと、お客様から Google マップのストリートビュー
に、公開に適さない画像があるというご連絡を頂戴いたしました。 現在、ご報
告いただいたコンテンツを確認しております。確認が取れ次第、画像を削除する
など、適切に対応させていただきます。 ご協力のほどよろしくお願いいたしま
す。 今後ともよろしくお願い申し上げます。

Google マップ チーム

そこで削除してもらったのが次の画面だ。

Streetview





自分の家の住所を入れると、ストリートビュー表示されるのが「この画像はなくなりました」というメッセージだ。

自分の家の画像がなくなるというのは、ちょっと寂しい気もするが、人の顔はスクランブルをかけて自動的にぼかしが入るが、車のナンバープレートの数字だけを消すという芸当はできなかったようだ。

たぶんこれからポツポツと歯抜けが出てくると思う。

もし自分の家で、不適切な画像があればGoogleに連絡すると良い。数日で削除されると思う。


参考になれば次クリック投票お願いします。



  
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2009年05月25日

悩む力 姜尚中(カン・サンジュン)さんの自伝的読書感想文

東大情報学環教授の姜尚中(カン・サンジュン)さんの自伝的読書感想文。2008年のベストセラーだ。

悩む力 (集英社新書 444C)悩む力 (集英社新書 444C)
著者:姜 尚中
販売元:集英社
発売日:2008-05-16
おすすめ度:3.5
クチコミを見る


在日韓国人二世として生まれた姜尚中さんだが、熊本の両親が子どもに不自由な思いをさせまいと骨身を惜しまず働き、惜しみなく愛情を注いでくれたという。

この本では在日だからといった特別な体験は語らず、青春そして人生の悩みについて主に夏目漱石の小説とドイツの社会学者マックス・ウェーバーの著作を題材にして語っている。

従って漱石の小説を読んでいないと話が理解できず中途半端に終わってしまう。

漱石は筆者も好きな小説家で、学生時代も読んだが、最近、オーディオブックであらためて聞いている。

朗読 夏目漱石作品集
アーティスト:加藤剛/橋爪功
販売元:インディペンデントレーベル
発売日:2003-05-01
クチコミを見る



このブログでも「坊っちゃん」、「こころ」、「それから」のオーディオブックは紹介しているが、他にも「三四郎」、「門」、「吾輩は猫である」、「草枕」をオーディオブックで聞いた。

図書館で朗読のCDを借りたり、カセットしかないものは、アナログーデジタル変換ソフトで変換してiPodで聞いている。

漱石の小説は既に著作権が失効しているので、青空文庫でも公開されている。

青空文庫では漱石の101点の作品を読むことができるが、漱石の作品は文庫で出版されており、簡単に読めるし、オーディオブックにもなっているので、文庫本を買うか、もよりの図書館の朗読CDをチェックすることをおすすめする。


この本の目次

この本の目次は次の通りだ。

序章 「いまを生きる」悩み

第1章 「私」とは何者か

第2章 世の中すべて「金」なのか

第3章 「知っているつもり」じゃないか

第4章 「青春」は美しいか

第5章 「信じる者」は救われるか

第6章 何のために「働く」のか

第7章 「変わらぬ愛」はあるか

第8章 なぜ死んではいけないか

終章  老いて「最強」たれ


悩む人

最初にこのブログでも紹介しているヴィクトール・フランクルの「苦悩する人間は、役に立つ人間よりも高いところにいる」という言葉を紹介して、「悩む力」に、生きる意味(を追求すること)への意志が宿っている姜さんは語る。

漱石の作品にはたしかに悩む人が多く描かれている。この本では「こころ」の”先生”を詳しく取り上げているが、筆者は「門」の宗助が鎌倉の禅宗のお寺で修行するところが好きだ。

あの禅宗の坊さんの「父母未生以前本来の眼目」を考えてみろというのが、どうしても頭から離れない。

青空文庫からその部分を引用すると:

「さあどうぞ」と案内をして、老師のいる所へ伴(つ)れて行った。

 老師というのは五十格好(がっこう)に見えた。赭黒(あかぐろ)い光沢(つや)のある顔をしていた。その皮膚も筋肉もことごとく緊(しま)って、どこにも怠(おこたり)のないところが、銅像のもたらす印象を、宗助の胸に彫りつけた。ただ唇(くちびる)があまり厚過ぎるので、そこに幾分の弛(ゆる)みが見えた。その代り彼の眼には、普通の人間にとうてい見るべからざる一種の精彩(せいさい)が閃(ひら)めいた。宗助が始めてその視線に接した時は、暗中に卒然として白刃を見る思があった。

「まあ何から入っても同じであるが」と老師は宗助に向って云った。「父母未生(ふぼみしょう)以前(いぜん)本来(ほんらい)の面目(めんもく)は何(なん)だか、それを一つ考えて見たら善(よ)かろう」

 宗助には父母未生以前という意味がよく分らなかったが、何しろ自分と云うものは必竟(ひっきょう)何物だか、その本体を捕(つら)まえて見ろと云う意味だろうと判断した。それより以上口を利(き)くには、余り禅というものの知識に乏しかったので、黙ってまた宜道に伴れられて一窓庵へ帰って来た。


漱石の精神衰弱

漱石がロンドン留学中に神経衰弱に罹った話は有名だが、この本の漱石とウェーバーの関連年譜を見ると、漱石は東大英文科を卒業して大学院に進み、東京高等師範学校(現つくば大学)の英語教師となった28歳の頃に精神衰弱となり、鎌倉円覚寺で参禅している。

たぶんこの「門」の老師の問答はそのときの経験をもとに書いているのだろう。

その後漱石は文部省派遣留学生として34歳でロンドンに留学するが、精神衰弱に悩まされる。

留学当時の漱石の様子は、今度紹介する多賀敏行さんの「『エコノミック・アニマル』は褒め言葉だった」に紹介されている。多賀さんはケンブリッジ大学に留学し、法学修士号を取得している。

「エコノミック・アニマル」は褒め言葉だった―誤解と誤訳の近現代史 (新潮新書)「エコノミック・アニマル」は褒め言葉だった―誤解と誤訳の近現代史 (新潮新書)
著者:多賀 敏行
販売元:新潮社
発売日:2004-09
おすすめ度:4.5
クチコミを見る


多賀さんによると、漱石の留学は、大学など正規の高等教育機関に通って勉強したわけではなく、ひたすら生活費を切りつめ、余った金のすべてを書籍購入に振り向け、きたない下宿に籠城して朝から晩まで書物を読むふけるというネクラ生活だったという。

クレイグ先生に教導を得たと言われているが、クレイグ先生とは月に数回通って、英文学について質問するという程度の関係だったようで、江藤淳が「漱石とその時代 第二部」に次のように記していることを挙げている。

「Craigニ至ル。文章ヲ添削センコトヲ依頼ス。extra chargeヲ望ム。卑シキ奴ナリ。」(2月12日付け「日記」)

つまり師弟というよりもビジネスの関係だったようだ。

漱石とその時代 第1部 (新潮選書)漱石とその時代 第1部 (新潮選書)
著者:江藤 淳
販売元:新潮社
発売日:1970-08
おすすめ度:5.0
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漱石はこのような生活を続けて、今で言う「海外生活不適応症候群」のようになり、精神衰弱を再発させたようだ。

漱石は後に「倫敦に住み暮らしたる二年間は尤も(もっとも)不愉快の二年なり。余は英国紳士の間にあって狼群に伍する一匹のむく犬の如く、あはれなる生活を営みたり。」と「文学論」で記しているという。

多賀さんはイギリス留学中に江藤淳の「漱石とその時代」を読み、その後「ロンドンの夏目漱石ー漱石研究の一つの盲点」という元日経新聞ロンドン特派員の韮澤嘉雄さんが書いた論文を入手し、漱石がいかに爪に火をともすような生活を送っていたか知ったという。

漱石は倹約のために、一缶80銭のビスケットを水も飲まずに無理やりかみ砕いては生つばのみで飲み下して昼食としていたという。

文部省から支給されていたのは毎月150円で、当時の為替レートで約15ポンドだったという。ウェスト・ハムステッドの下宿は朝食・夕食込みで週2ポンドで、下宿代だけで留学費の半分以上かかっていた。

留学のみやげも持って帰らなければならないので、漱石は相当の倹約を強いられたようだ。

多賀さんは漱石の下宿だったウェスト・ハムステッドの素人下宿も訪問したが、中の下の階級の人が住むような古いレンガ作りの家だったという。(現在は文化財に指定されている)

漱石は50歳で亡くなっているが、その死因は胃潰瘍だった。精神衰弱になるほど悩みが深い漱石なので、胃潰瘍も併発したのだろう。

最近ではWBCに出場したイチローが打撃不振で胃潰瘍になっていたことが記憶に新しい。

イチローもメディアには哲学者のような独特の対応をしているが、いわゆる胃がきりきり痛むまで思い詰めるタイプの人なのだろう。


ウェーバーも精神病で入院

ウェーバーは政治家で資産家の家に生まれ、何不自由ない生活をしていたようだが、政治家であった父に反目する。

順調にキャリアを伸ばし30歳でフライブルク大学教授、33歳でハイデルベルク大学教授となった後、34歳で漱石と同じように精神疾患を発病し、34歳の時に精神病院に入院し、病気のため39歳で正教授の職を辞し、名誉教授となる。

40歳でセントルイスの国際会議に参加するため、アメリカを訪れ、そのときの経験もふまえて、41歳で「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を発表し、一躍有名になる。

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)
著者:マックス ヴェーバー
販売元:岩波書店
発売日:1989-01
おすすめ度:4.5
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今の学生がウェーバーの作品をどれほど読んでいるのか分からないが、筆者の学生時代は、ウェーバーが必読書とされていた。

そのウェーバーも精神病で入院していたとは知らなかった。


姜さんの主張

この本では姜さんは、特にああしろ、こうしろとは書いていない。

自分の体験と読書の感想を通して、次のような具合に例を提示し、読者に考えるきっかけを与えている。

「人は何を知るべきなのか、という問題は、どんな社会が望ましいかという事ともつながっています。

いずれしても、われわれの知性は何のためにあって、われわれはどんな社会を目指しているのかということを、考え直す必要があるのではないでしょうか」


老いて最強たれ

最後に姜さんは、「老いて最強たれ」ということで、老人力を発揮し、福沢諭吉の言葉のように「一身にして二生を経る」、つまり一人の人間で二つの人生を生きることを呼びかけている。

悩み続けて、悩みの果てに突き抜けたら、映画「イージーライダー」の主題歌"Born to be wild"のように"wild"=「横着者」で行こうと語る。



まだ見ていない人には、結末を教える様で申し訳ないが、筆者にはイージーライダーの最後の印象的なシーンが忘れられない。



漱石やウェーバーの本を読んでいない人は、是非この機会に本を手にとってみてほしい。100年前の作品とは思えない。必ずや得るものがあるはずだ。


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2009年05月23日

吉田茂 ポピュリズムに背を向けて 今なぜ吉田茂なのか?

+++今回のあらすじはすごく長いです+++

吉田茂 ポピュリズムに背を向けて吉田茂 ポピュリズムに背を向けて
著者:北 康利
販売元:講談社
発売日:2009-04-21
おすすめ度:4.5
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筆者が注目している元ビジネスマン作家、北康利さんの最新作。前作「白洲次郎 占領を背負った男」で取り上げた白洲次郎のボス、吉田茂の伝記だ。このあらすじブログは筆者の備忘録も兼ねているので、良い本だと筆者の思い入れも強く、あらすじがつい長くなってしまう。

この本の表紙は、50歳頃と思われる吉田茂の写真だ。これはロンドンの写真館で撮ったものということなので、1930年前後のものだろう。見慣れた次のような吉田茂の写真とは異なり、別人の様に見える。

Shigeru_Yoshida_1947










出典:Wikipedia

YouTubeには次のような吉田茂のドキュメンタリーがいくつか収録されているので、こちらも参照して欲しい。



筆者は神奈川県藤沢市出身なので、小学校の遠足などで箱根方面に行く途中で大磯を通る時には、バスガイドが大磯の吉田邸の話をしていたことを思い出す。

また横浜市戸塚区の横浜新道と国道1号線をつなぐバイパスは、筆者の子供の頃は「ワンマン道路」と呼ばれていた。

このバイパスができる以前は国道一号線の戸塚駅付近に東海道線の踏切があって、朝晩は「開かずの踏切」になるので、たびたび足止めを食らった吉田首相の鶴の一声で、バイパス建設が決まったという逸話がある。

吉田茂は高知県人の「いごっそう」で、神奈川県出身ではないが、大磯に長く住んでいたので、まるで神奈川県の偉人のように感じていたものだ。

北さんも本の中で記しているが、今年3月吉田邸が不審火で焼失したのは残念でならない。



筆者の子どもの頃に吉田元首相の国葬があったことをおぼろげに覚えているが、北さんが述べている様に、高校の日本史では、受験に出ないという理由で、現代史は自習だったので、ほとんど当時の吉田茂のことは知らないので、興味深く読めた。

400ページ弱の本で、吉田茂の生い立ちから、サンフランシスコ講和条約締結までで終わっている。最初読んだ時は、吉田茂の晩年のことが書いてないので、尻切れトンボのような印象を受けたが、あらすじを書くために読み直すと、北さんの真意がわかってきた様な気がする。

たぶん北さんはこの本のタイトルにあるように、小泉元首相などに代表される「ポピュリズム」政治へのアンチテーゼとして、ステーツマン(ポリティシャン=政治屋でなく尊敬できる政治家)吉田茂の伝記を書きたかったのだろう。だから1951年のサンフランシスコ講和条約で終わっているのだと思う。


吉田茂のおいたち

吉田茂は明治11年(1878年)高知県で竹内綱の5男として生まれ、すぐに横浜のジャーディンマセソン商会の横浜支配人吉田健三の許に養子として出された。実父の竹内綱は自由民権運動家として知られた実業家・政治家だ。

吉田の長兄の竹内明太郎は小松製作所の創業者であり、早稲田大学理工学部創設に貢献したことから、竹内記念ラウンジがある。友人の田健治郎、青山禄朗とともに改心社自動車工場を設立し、3人の頭文字を取って脱兎にかけたDAT CAR後のダットサンが生まれる。

養父の吉田健三は福井県出身で、英国船に密航してイギリスで2年間生活した強者だ。帰国後実業家となり、当時極東最大のジャーディンマセソン商会の横浜支配人を勤めた。ビールを最初に取り寄せたのも吉田健三だといわれている。

健三は大磯に住んでいたが、当時大磯には伊藤博文、西園寺公望、木戸幸一、樺山愛輔(白洲正子の父)などが住んでいた。

健三は40歳で病死する。死因は不明だが、インフルエンザだったといわれている。豚インフルエンザの流行が毎日報道されるこのごろだが、昔も今でもインフルエンザは死に至る病となるのだ。

吉田茂は11歳で吉田家の戸主として現在の金にすると25億円ほどの遺産を相続し、遺産の大半を戦前に使い切ってしまったという。

大磯の豪邸をさらに広げたとはいうものの、それにしても大変な金銭感覚の無さだ。もっぱら遊びに使ったのだろう。吉田茂の実母は竹内綱の妾だったようで、後に妻の雪子に「芸者の子は芸者が好きね」とため息をつかれたという。


外務省入省

吉田茂は藤沢の耕余義塾という漢学塾に学び、日本中学校、東京高等商業(現一橋大学)、正則中学、東京物理学校(現東京理科大)、学習院大学を経て28歳で東大政治学科を卒業し、1906年外務省に入省する。

外務省では謹厳実直なエリート広田弘毅と同期で親友となる。

入省翌年、はやくも奉天に1年間勤務する。その後帰国して有力者牧野伸顕の娘雪子と結婚する。翌1908年ロンドン、次にイタリアに勤務する。

1912年から1916年までは朝鮮と中国の国境の鴨緑江に面する安東県領事として勤務する。

1915年大隈重信内閣は、袁世凱政権に対して「対支21ヶ条の要求」を突きつける。吉田は在満州の領事に呼びかけて、対支21ヶ条に反対したが誰も賛同しなかったという。保身を考えず、信念で行動する吉田らしいエピソードだ。


多くの役職を歴任して外務次官に

帰国後寺内正毅首相に秘書官にならないかと誘われ「私は首相なら務まると思いますが、首相秘書官は務まりません」と断っている。当時の外務次官の幣原喜重郎は英語の達人として知られるが、吉田とはウマが会わなかったという。

1918年中国の済南領事となり、第一次世界大戦のパリ講和条約に義父の牧野の秘書官として参加し、西園寺公望に同行していた近衛文麿と出会う。パリ講和会議では日本は人種差別撤廃を主張し、賛成多数を獲得するが、アメリカ大統領ウィルソンが全会一致を要求し、日本案は葬られてしまう。

吉田茂はこのとき国際社会における日本の立場を思い知らされたという。帰国後吉田は1920年に再度イギリスに赴任する。

1922年天津総領事を経て、1925年奉天総領事として勤務する。

このとき、吉田を訪ねてきた来客に出くわし、「本人がいないと言っているんだ。こんな確かなことがありますか」と答えたという話が残っている。戦後記者に「諸君とは食べ物が違う。私は人を食っている」と答えたという吉田茂らしいエピソードだ。


済南、天津、奉天のこと

余談になるが、筆者は中国の済南、天津、奉天(現瀋陽)すべて行ったことがある。

奉天(現瀋陽)に最初に行ったのは今のように近代化される前の1986年で、当時中国のマグネシア原料を米国に輸入していたので、鉱山を訪問したのだ。

今のように高速道路などない時代なので、片側一車線の並木道が旧満鉄沿いに大連から奉天まで続いており、当時の中国人運転手(今もそうかもしれない)の特徴とも言える無理な追い越しで何度も怖い目にあった。

奉天では満鉄の主要駅前にあった旧大和ホテルで一泊した。旧式ではあるが立派なホテルだった。

天津は2002年に行った。天津は北京から近いので、車で十分日帰りでき、天津事務所の人との打ち合わせだけだったので、あまり記憶にない。

山東省済南へは、1998年頃米国向け鉄鋼原料の買い付けで行った。飛行機で北京から済南まで飛んで、車で済南から青島まで高速道路で移動した。

このあたりは石炭を燃料としている中小工場が多く、済南から青島までずっと途中スモッグがたちこめ、中国の大気汚染のひどさに驚いたものだ。

日曜日は済南に一泊したので、済南の近くの鍾乳洞を訪問した。本当は同じ山東省の孔子廟のある曲阜(きょくふ)に行きたかったのだが、片道5時間かかると言われ、1980年代(?)に発見されたという鍾乳洞を見学した。

すごい大規模な鍾乳洞で、たしかに一見の価値はあった。

山東省は筆者にとって忘れ得ない省だ。一つは最初に中国に出張した1983年に浙江省の杭州の相手方の総経理(社長)が山東省の出身ということで、山東省名産の汾酒というアブサンみたいなアルコール50%超のセメダインのにおいのする酒で何度も乾杯させられたのだ。

中国焼酎 汾酒 フェンチュウ 53度 500ml
中国焼酎 汾酒 フェンチュウ 53度 500ml


(今調べてみたら汾酒は山西省の名産ということで、筆者が山東省と聞き間違えたのかもしれない)

悪酔いして本当にもう死ぬかとおもったが、案外翌日仕事ができたのには自分でも驚いた。たぶん蒸留酒なので翌日には残らないのだろう。

翌日の宴会の乾杯は度数の低いブランデーで、コーラも一緒に用意してこちらのペースで進めたので、問題なかった。ちゃんと対策を取っていれば、中国の宴会の「乾杯攻め」も怖くないことを知った。

もうひとつは1998年に済南に行ったときの宴会料理だ。

料理の一つが大皿にずらっと並んだセミの幼虫だったのだ。筆者が主賓のため、主賓が食べないと他の人も食べられないので、やむなく2−3個取って食べてみた。味はほとんど覚えていない。食べられなくはなかったが、うまいものではなかった。

そうしたら12人ほどのテーブルで、中国人でも食べないやつがいるのには頭に来た。こっちはせっかく無理して食べたのに、なぜ食べないのかと聞くと、今は(冬だった)セミのシーズンではないと言っていたので再度頭に来た。

閑話休題。


戦争に向かう日本

短期間のスウェーデン公使のあと、帰国して1928年に外務次官となる。張作霖爆殺事件が起こり、関東軍の暴走を止められなかった田中義一内閣は昭和天皇の叱責を受けて総辞職し、田中は3ヶ月後狭心症で死去する。

当時28歳の昭和天皇は、田中を叱責したことが田中内閣を総辞職させ、田中を死に追いやる結果にもなったかもしれないということを深く悔やみ、以後は発言を極力控えるようになり、そのことが軍部の横暴に拍車を掛ける結果となる。

今度紹介する元竹田宮家の旧皇族の竹田恒泰さんの「旧皇族が語る天皇の日本史」に「昭和天皇独白録」の関係部分が引用されているので紹介する。

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「それでは話が違ふではないか、辞表を出してはどうか」

「こんな云ひ方をしたのは、私の若気の至りである(中略)この事件あって以来、私は内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持ってゐても裁可を与へる事に決心した」

吉田は1930年まで外務次官をつとめた後、イタリア大使として転出する。

1931年に満州事変が起こり、政府は不拡大宣言を出すが、軍を抑えられず若槻内閣は辞職し、犬養毅内閣が成立する。その犬養毅も翌1932年5.15事件で暗殺され、暗い時代に入っていく。

駐米大使の話もあったが、吉田はこれを断り、1932年に日本に待命待遇で帰国する。駐米大使は外交官として最高の栄誉なので、あり得ない話だが、関東軍の暴走を追認する内田外相への反感によるものだという。

日本では1932年から駐日米国大使となっていたジョセフ・グルーと家族ぐるみの親密なつきあいをする。グルーはボストンの名家出身で、モーガン財閥とは姻戚だ。ハーバード大学在学中に日本を訪問し、日本びいきとなったという。


外交感覚のない国民は必ず凋落する

多くの逸話がある吉田茂だが、外交で国を救うという姿勢は一貫しており、その一つがこのエピソードだ。

1933年、吉田の外務省同期の広田弘毅が外相になり、待命中の吉田に気を遣って外交巡閲使として吉田を欧米に派遣する。1933年は日本が国際連盟を脱退した年だ。朝鮮・中国からスタートして一年強掛けて世界を一周する。このとき同行したのが麻生太郎首相のお母さんで吉田茂の三女、旧姓吉田和子さんだ。

吉田はワシントンで岳父牧野伸顕の紹介で、ウィルソン大統領の親友で外交官のハウス大佐に会い、「外交感覚のない国民は必ず凋落する」という警句を聞いた。これが吉田の生涯忘れえない言葉となった。

1936年には2.26事件が起こり、義父の牧野伸顕は湯河原で襲われ、孫の吉田和子と一緒に、すんでのところで難を逃れる。この時遭難してれば、麻生太郎首相も生まれなかったわけだ。

牧野についておもしろいエピソードを北さんは紹介している。

吉田茂の息子の吉田健一は評論家として有名だが、吉田の仲間の小林秀雄は酒癖が悪く、ある時酔って牧野に抱きつき、頭をなでながら「お前みたいに記憶のいい爺イはメモアールを書いておけ!きっと書くんだぞ!」と怒鳴っていたという。

仲間の河上徹太郎が失礼をわびると、牧野は「いやなに、2.26の時は機関銃の弾の下をくぐりましたから」と答えたという。

筆者の年代の人は、小林秀雄というと、文芸評論家の神様の様な存在で、現代国語の問題によく引用され、その難解な文章には悩まされたものだが、まさか酒乱だったとは思わなかった。


駐英大使として赴任

1936年3月、広田弘毅内閣が誕生する。広田は吉田を外相にするつもりだったが、軍部の反対でやむなく断念し、吉田を駐英大使に任命する。

この頃は在外武官が武官府という独自の事務所を持ち始め、独自の外交を展開していた。そんな武官の中で最も力を持っていたのがドイツ大使館付きでドイツ語が堪能な大島浩少将だ。

大島はヒットラーとも親しく、リッペントロップ外相日独防共協定案をつくりあげる。1937年11月に日華和平交渉を仲介するなど、それまでドイツは親中国の立場を取っていたので、この協定は大島の自信作で、案が煮詰まるまで大島は一切外務省には知らせていなかったという。

外務省はあわててドイツ以外のイギリスなどにも参加させようとするが、吉田は防共協定自体に反対する。結局この年11月に日独防共協定は締結され、広田内閣も10ヶ月で辞職する。

吉田が駐英大使時代につきあいが深まったのが白洲次郎である。次郎が日本水産の貿易担当役員をしていた関係で、ロンドンにもしばしば立ち寄り、吉田の妻雪子からは娘の和子の結婚相手を探すように頼まれる。

次郎が見つけてきた相手が麻生太賀吉・麻生鉱業社長だ。たまたま次郎は麻生と同じ船に乗り合わせ、サンフランシスコから横浜までの2週間一緒にいて意気投合したのだという。

白洲次郎夫妻が仲人となり、吉田の帰国後の1938年12月に二人は結婚する。麻生太賀吉は実父を早く亡くしたこともあり、吉田茂を実の父親のように慕っており、セメントや石炭事業が絶好調の麻生鉱業が、巨額の政治資金を吉田茂に提供したのだという。

1937年には廬溝橋事件で日中戦争に突入し、近衛文麿が総理大臣となるが、有名な「蒋介石を相手にせず」声明を発表してしまう。

吉田は駐英大使として孤軍奮闘し、親日家のロバート・クレーギーを駐日大使に赴任させることに成功するが、外務省の実権は大島の息のかかった白鳥敏夫派に移り、吉田は本国の支援を失い、1938年9月帰国辞令が出る。

吉田の後任が重光葵であり、チャーチルは重光と頻繁に会って、日本の欧州戦争への参戦を思いとどまらせようとしていたことは、関栄次さんの「チャーチルが愛した日本」に詳しい。

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著者:関 榮次
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最後まで開戦回避に努力

吉田の帰国辞令と時を同じくして結ばれたのがチェンパレン英国首相の戦争回避策であるミュンヘン協定だが、ヒットラーはミュンヘン協定を破って領土をさらに拡大し、戦争に突入していく。

日本に帰国した吉田は、役職にはつかず、白洲次郎と一緒にグルー駐日米国大使としばしばゴルフに出かけたり、クレーギー駐日英国大使とも密接な関係を保っていた。このため吉田の周囲は、憲兵隊から「ヨハンセングループ」(吉田反戦グループ)とコードネームを付けられ、常時監視されることになる。

1939年9月ドイツのポーランド侵攻により第2次世界大戦が始まる。閉塞感が漂う中、1940年7月近衛が再び首相に就任した直後に、米国は対日航空ガソリン禁輸を決定する。日本はやむなく石油資源を求めて9月に北部仏印進駐、そして日独伊三国同盟が大島と白鳥駐伊全権大使の連携で締結される。

1941年に吉田の妻の雪子が亡くなった。雪子の死後数年は吉田はやもめ暮らしをしていたが、娘の和子のすすめで、長年の妾だった小りんを家に迎え入れる。小りんは故雪子に気を遣って、入籍はしなかったという。

1941年4月戦争回避のためホノルルで近衛首相とルーズベルト大統領が会談するという計画が持ち上がるが、ハル国務長官松岡洋右外相の反対で実現しなかった。7月には南部仏印進駐への制裁として、米国は在米日本資産の凍結を発表、8月には対日石油輸出を全面禁止とした。

近衛はグルーと直接会い、ルーズベルトとの直接会談を要望するが、10月に近衛内閣は総辞職に追い込まれる。東條英機内閣が成立し、11月末の強硬なハルノートを受け取り、日本は開戦に踏み切る。

吉田は12月始めにグルーの要請で東郷茂徳外相との会談を実現すべく最後まで努力するが、12月1日の御前会議で開戦決定が下されていたので、東郷はグルーに会わなかった。


太平洋戦争に突入

戦争中も吉田は、和平を結ばせるべく努力し、近衛や木戸幸一内大臣などと相談するが、即時停戦の近衛上奏文作成に加わったことで1945年4月に逮捕され、阿南惟幾陸相の口利きで5月末に釈放されるまで収監される。吉田邸の女中や書生としてスパイが送り込まれていたのだ。

一方グルーは1942年外交使節交換船で帰国するが、米国帰国後も駐日大使より格下の国務省の極東次官補にあえて就任し、次に国務次官に就任、皇居への直接爆撃を阻止するなど、早期戦争終結に努力するが、ルーズベルトの後任のトルーマンは原爆の威力に魅せられ、グルーを遠ざけた。

吉田はグルーを「真の日本の友」と呼んで感謝している。

グルーの努力も実らず、結局原爆が投下され、ソ連が参戦し、日本は降伏した。終戦を決定した鈴木貫太郎内閣は1945年8月15日総辞職し、皇族の東久邇宮稔彦殿下が首相となり、吉田は外相として67歳で初めて入閣し、さっそく外務省の人事を一新し、大改革に取りかかる。。


マッカーサーと吉田茂

吉田は1945年9月GHQを訪れ、はじめてマッカーサーと面談する。初対面で「ライオンの檻に入れられたような気がする」とジョークを飛ばし、それ以降マッカーサーとは終生良い関係を保った。

この二人は自尊心といい、他人の言うことを聞かない独善性といい、性格的にはそっくりで、犬好きという共通点もあったと北さんは評している。

外相就任してすぐに、天皇の希望で、天皇とマッカーサーとの会談が実現し、有名な写真が公開される。モーニング姿の天皇に対し、開襟シャツのマッカーサー。どちらが支配者か一目で分かるマッカーサーの政治傑作の一つだ。

Macarthur_hirohito






出典:Wikipedia

マッカーサーの予想に反し、昭和天皇は命乞いをするどころか「戦争の全責任は私にある。私は死刑も覚悟しており、私の命はすべて司令部に委ねる。どうか国民が生活に困らぬよう連合国にお願いしたい」と述べた。

マッカーサーは感動し、誰にも使ったことのなかった”サー”を口にして送り出した。マッカーサーは、引退後も日本の戦後復興の最大の功労者は、昭和天皇だと語っており、天皇に対する尊敬は終生変わりはなかったという。

このときの昭和天皇の帽子の裏地には、ほころびを繕った跡があったという。天皇の人柄と、いかに清貧な生活をしていたのかが偲ばれるエピソードだ。

内務省が会見写真の新聞公開を差し止めたことから、GHQは怒り、内務大臣と内務・警察官僚4,000人の罷免を要求する。これで東久邇内閣は総辞職し、54日という歴代内閣最短記録をつくる。このことが尾を引き、戦前「役所の中の役所」と呼ばれてきた内務省は、1947年に解体されてしまう。

東久邇宮内閣の次は幣原喜重郎内閣が成立し、吉田は引き続き外相として留任して、「終戦連絡事務所」を設立し、白洲次郎を終連中央事務局参与に任命する。近衛はマッカーサーから一時はおだてられるが、米国内で近衛に対する非難がわき上がると、近衛を切り捨て、近衛は戦犯容疑で収監される前日に青酸カリ自殺する。


GHQ民政局と対決

GHQの占領政策の中心は民政局のホイットニー准将(当時48歳)とその部下のケーディス大佐(当時40歳)だった。彼らはニューディールの申し子で、いわば理想主義者の集団だった。

吉田茂と白洲次郎のコンビはGHQの民政局を相手に、日本の国益を守るために必死に戦う。吉田は作戦として、自分はマッカーサーを交渉相手にすることを決め、それ以下のホイットニーなどは相手にしなかった。マッカーサーの部下との交渉を引き受けたのが、ケンブリッジ仕込みの英語の達人、白洲次郎だった。

民政局は20万人を公職追放し、「ホイットニー旋風」を起こすが、GHQの中でもG2の「バターン・ボーイズ」の一人のウィロビー少将は民政局の政策を好まず、吉田と白洲はウィロビーと接近する。

ソ連が極東委員会を通じて、対日占領政策に口だしする構えをみせたので、マッカーサーは1946年2月に憲法改正草案の作成を命じ、GHQ関係者25名が7日間で草案を作り上げ、吉田と次郎に手渡す。改正案を日本側が訳して4月に憲法改正案として公表され、国会決議を経て成立した。

憲法改正案が国家に上程されたときに、多くの議員が無念のあまり嗚咽を漏らしたという。

自国の憲法を批准するのに国会議員が涙を流したというのはおそらく日本だけだろうと北さんは語る。日本人は彼らが抱いた悔しさを今ではすっかり忘れ果ててしまっていると。


第1次吉田内閣成立

1946年4月の総選挙で勝利した鳩山一郎は、組閣準備を始めるが、GHQの民政局から公職追放を突きつけられ、やむなく組閣をあきらめ、吉田に首相就任を要請する。吉田は一旦は断るが、鳩山や周りの説得で1946年5月に首相就任を決意する。

このとき鳩山に出した条件が次だ。

*自分は金を作らない
*人事には干渉させない
*嫌気がさしたらやめる

鳩山は「追放が解除になったらすみやかに総裁を譲る」という約束があったと主張して、後に吉田茂と大げんかになる。鳩山の公職追放が解除されたのは1951年のことだ。


戦争に負けて外交で勝った歴史はある

この有名な言葉は、吉田茂が昭和21年5月、初めて総理大臣となったときの言葉だ。

「戦争に負けて外交で勝った歴史はある」

吉田茂は後に日本医師会会長となる甥の武見太郎に、首相になる自信はあるかと聞かれた時に、このように答えたという。

19世紀ナポレオンの没落後、ヨーロッパ中を敵にまわしながら、領土を守りきったフランスのタレーラン外相のことを思って言ったのではないかと北さんは語る。

1946年当時、日本は海外領土を失い、農業の働き手を失って深刻な食糧不足に悩まされていた。

吉田はマッカーサーと掛け合い、食料問題を解決するために450万トンの食料援助を依頼するが、実際は70万トンで国内に十分な食料がゆきわたった。

マッカーサーがそのことをなじると、吉田茂は「もし日本が正しい数字を出せる国だったら戦争に負けてなどいませんよ」といなし、これにはマッカーサーも笑い出したという。

吉田はGHQの指示で、六・三制義務教育(それまでは6年間が義務教育だった)、農地改革を実現する一方、組合を「不逞の輩(やから)」と呼んで舌禍事件を起こした。

また選挙嫌いも徹底しており、地元で「自分は高知から選出されたかもしれないが、日本国の代表であって高知県の利益代表ではない」と公言していたという。


残りは続きを読むに記載。


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2009年05月19日

新型プリウスの紹介

昨日新型プリウスが発表された。

prius2009_01






出典:Marklines自動車情報プラットフォーム

いろいろなサイトで紹介されているが、筆者が会員となっている自動車業界関係者の情報サイトMarklinesの紹介記事が最も充実していると思うので紹介する。

marklines






このMarklinesは会員制自動車情報サイトで、その情報の質と量は半端ではない。

たとえば世界の環境対応車のリストが紹介されている。

環境対応車






それぞれに説明とリンクがついており、大変参考になる。

ちなみに筆者のハリアーハイブリッドの最近4,500キロの平均燃費は9km/Lだ。

harrier fuel consumption




カタログでは10.15モードで17.8km/Lとなっているが、これはたぶん平坦地で理想的なコンディションでの燃費計測で、筆者の住んでいる町のようにアップダウンがある場所ではどうしても燃費が落ちる。

また季節によっても燃費は変わり、冬場の方が落ちる。

興味のある人は、実際の燃費の推移、当初の補助金、車の税金の優遇、有料道路の優遇などを紹介している過去のハリアーハイブリッドの記事も参照して欲しい。

新型プリウスだと納車まで半年くらいかかるらしいが、燃費が38キロというのは驚異的だし、EV(電気自動車)としても走れるようだ。

価格も旧型よりも安くなっているので、是非多くの人にハイブリッド車に切り替えを考えて欲しい。


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Posted by yaori at 12:51Comments(0)TrackBack(0)

2009年05月12日

雁の寺 水上勉の直木賞受賞作 ピーターは声優として天才!

雁の寺 (新潮CD)
著者:水上 勉
販売元:新潮社
発売日:2002-11
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小説はオーディオブックで読む(聞く)ことが多いが、最近は図書館でオーディオブックを借りて、週3冊前後のペースで通勤途上に聞いている。

日本の小説のオーディオブックの場合、朗読しているのは俳優が多いが、特に朗読がうまいとおもった俳優はいままでいなかった。

しかし今回水上勉の出世作で直木賞受賞作の「雁の寺」を聞いて、おもわずうなった。

池畑慎之介(ピーター)の朗読が非常に良いのだ。

ピーターは男役も女役もやれるので、登場人物が女性の場合は、女性の声色、男性なら男性の声色、そして京都弁や読経もこなし、まさにオールマイティだ。

Wikipediaによると、ピーターと作者の水上勉とはデビュー前からのつきあいのようだ。

筆者は小説のあらすじは詳しく紹介しない主義だが、この物語は京都のあるお寺が舞台となっており、水上勉自身が幼い頃お寺に修行にやらされた経験があるので、実感のこもった描写となっている。

「願の寺」は若尾文子主演で、映画化もされている。

雁の寺 [DVD]雁の寺 [DVD]
出演:若尾文子
販売元:角川映画
発売日:2005-09-23
おすすめ度:5.0
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ピーターが、和尚、小坊主、おかみさん(映画では若尾文子がおかみさん役)、その他登場人物すべてを声色を変え、かつ京都弁で吹き込んでおり、読経の場面では、あたかも本物のお坊さんのお経のCDを聞いているような感じだ。

ピーターは最近CMなどにも女装して出ることが多く、筆者は中性的なピーターにあまり良い印象を持っていなかったが、この朗読を聞いてぶっ飛んだ。

世の中には才能のある人はいるものだ。

つくづくそれを感じさせられた。


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Posted by yaori at 12:50Comments(0)TrackBack(0)

2009年05月08日

英語ベストセラー本の研究 日本人の英語本好きがよくわかる

英語ベストセラー本の研究 (幻冬舎新書)英語ベストセラー本の研究 (幻冬舎新書)
著者:晴山陽一
販売元:幻冬舎
発売日:2008-05-29
おすすめ度:4.5
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戦後60年間の10年ごとの英語教育ベストセラー本の特徴をまとめた本。

この本を読むと、いかに日本人が英語学習本が好きなのかがよくわかる。本だけ読んで実践が長続きしないダイエット本の様なことになっていなければ良いのだが…。

筆者の晴山陽一さんは、元々英語教材や経済雑誌の編集者を手がけ、学習ソフトと教本の販売のために独立し、自らもいくつかの英語教育本・教材を出している。

晴山さんのまとめる戦後60年の10年ごとの英語教育ベストセラー本は次の通りだ。

1940年代 第一次英語ブーム 「日米会話手帳」、「ジャック・アンド・ベティー」

1950年代 受験英語隆盛の時代 「和文英訳の修業」、「英文法解説」

1960年代 第二次英語ブーム 「英語に強くなる本」、「英語で考える本」

1970年代 逡巡の時代 「英語の話しかた」、「なんで英語やるの?」

1980年代 混迷の時代 「日本人の英語」、「起きてから寝るまで」

1990年代 英語本ブームの時代 「英語できますか?」、「これを英語で言えますか?」

2000年代 第三次英語ブームの時代 「ビッグ・ファット・キャットの世界一簡単な英語の本」、「”超”英語法」


これを見るだけで、時代の空気がよみがえってくるような気がすると晴山さんは語る。

この本の目次のサブタイトルでは23冊の英語学習本が取り上げられており、言及、引用された本を含めると50冊程度が紹介されている。


1940年代 第一次英語ブーム 「日米会話手帳」、「ジャック・アンド・ベティー」

太平洋戦争中は敵性語として一切禁止された英語だが、敗戦でアメリカ人GIが大挙して日本にやってくるとして、32ページの「日米会話手帳」が敗戦後一ヶ月の1945年9月15日に書店に並び、またたく間に360万部を売り上げた。

英語の会話をカタカナで表した簡単なものだが、その実用性には驚く。例えば:

Good evening! グ・ディーヴニン

I can't understand English アイ カーン タンダスタン イングリッシュ

当時のNHKのラジオ英会話のテキストもスゴイという。

Come on, Kitty. Come here. カ モァン キリー カメーァ

Can't you open it? ケーン チュー オウプネット

Wait a minute. ウェイラ メネット

「ジャック・アンド・ベティ」とは開隆社の中学英語教科書だ。筆者は使ったことはないが、中学校の代表的な教科書だ。

永遠のジャック&ベティ (講談社文庫)永遠のジャック&ベティ (講談社文庫)
著者:清水 義範
販売元:講談社
発売日:1991-09
おすすめ度:4.5
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1947年の指導要領の第一番目に「英語で考える習慣をつけること」を英語教育の目的としているのは瑞々(みずみず)しいと晴山さんは語る。「ジャック・アンド・ベティ」でも一切日本語が書かれていない、「直接教授法」に基づいた教科書なのだ。60年後の今こそ導入すべき指導要領なのではないかと思う。


1950年代 受験英語隆盛の時代 「和文英訳の修業」、「英文法解説」

筆者が大学受験勉強をしたのは、1970年代前半だが、使っていた参考書はここに紹介されているものばかりだ。

和文英訳の修業 4訂新版和文英訳の修業 4訂新版
著者:佐々木 高政
販売元:文建書房
発売日:1981-01
おすすめ度:4.5
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新自修英文典 (復刻版)新自修英文典 (復刻版)
著者:山崎 貞
販売元:研究社
発売日:2008-12-11
おすすめ度:5.0
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英文法解説英文法解説
著者:江川 泰一郎
販売元:金子書房
発売日:1991-06
おすすめ度:4.5
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筆者にはなつかしい参考書ばかりだが、この辺の本はいまでも読み継がれているという。


1960年代 第二次英語ブーム 「英語に強くなる本」、「英語で考える本」

1964年の東京オリンピックから1970年の大阪万博まで、時代を反映しての英会話ブームのベストセラーだ。

筆者は当時は小学生から中学生だったが、オリンピックで外人観光客がたくさん来るので、(筆者の家はヨット競技が行われた江ノ島の近くだったし、観光客の多い鎌倉も近い)英会話を習おうという機運が盛り上がっていたことを思い出す。

英語に強くなる本 改訂新版―教室では学べない秘法の公開 (カッパ・ブックス)
著者:岩田 一男
販売元:光文社
発売日:1961-08
おすすめ度:5.0
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試験にでる英単語―耳から覚える試験にでる英単語―耳から覚える
著者:森 一郎
販売元:青春出版社
発売日:2003-01
おすすめ度:4.5
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筆者も受験勉強の時は、「試験にでる英単語」にはお世話になった。いまだに売られており、最新版はCD付きである。最終刷数は1、856刷、公称部数1,488万部だという。

単語を試験に出た頻度順に並べるというのも画期的だし、当時は気が付かなかったが、単語の意味も試験で使われる意味の順番となっている。

たとえば"species"は通常「種、種類」という意味と憶えるが、試験では"the (又はour) species"と出題されることが多い。その場合は「人類」となるので、この本では”species 名詞 人類、種”となっている。今になってそのスゴさがわかった。

英語で考える本英語で考える本
著者:松本 亨
販売元:英友社
発売日:1968-02
おすすめ度:5.0
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筆者はこの本は記憶がない。

松本亨さんはNHKのラジオ英会話講座を20年以上担当した英語教育の第一人者だ。明治学院に進学し、アメリカ人教師が奥さんと立ち話しているのを聞いて、全く分からないことにショックを受け、中学のリーダーを丸暗記し、次に英語本の速読(初めは一日三ページ、最後は一日100ページで100冊読んだ)で猛烈に努力したという。

松本さんは英語には2つの文型しかなく、それはA=Bか、A→B(AがBを〜する)だという。

松本さんはさらに英語がいかに思考の順序に忠実な言語かを説明しており、次のようにも言っている。

「日本人は何を考え、何をいっているのか分からないという苦情をいう外国人が多い。われわれでさえ分かっていないのである」


1970年代 逡巡の時代 「英語の話しかた」、「なんで英語やるの?」

筆者はこの時代の本はほとんど読んでいない。既に大学に入学していたので、いまさら日本語で書かれた英語教育の本を読む気がしなかったこともあると思う。

英語の話しかた―同時通訳者の提言 (1970年)
著者:国弘 正雄
販売元:サイマル出版会
発売日:1970
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NHKのテレビ英会話の講師だった國弘正雄さんの本がこの時代を代表する英語教育本だという。

國弘さんは「只管朗読」(しかんろうどく)という造語をつくって、ひたすら朗読(音読)することをすすめた。國弘さんは中学生のとき、教科書を1,000回程度読んだという。

1970年発刊の本を約30年後に改訂したのが次の本だ。

國弘流英語の話しかた國弘流英語の話しかた
著者:國弘 正雄
販売元:たちばな出版
発売日:1999-12-25
おすすめ度:4.5
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1980年代 混迷の時代 「日本人の英語」、「起きてから寝るまで」シリーズ

筆者は既に大学を卒業していたので、1980年代の英語教育の本も読んだことがなかったが、以前紹介した多賀敏行さんの「外交官の『うな重方式』英語勉強法」で紹介されていたので、はじめて「日本人の英語」を読んだ。

外交官の「うな重方式」英語勉強法 (文春新書)外交官の「うな重方式」英語勉強法 (文春新書)
著者:多賀 敏行
販売元:文藝春秋
発売日:2008-11
おすすめ度:3.0
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日本人の英語 (岩波新書)日本人の英語 (岩波新書)
著者:マーク ピーターセン
販売元:岩波書店
発売日:1988-04
おすすめ度:5.0
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近々「日本人の英語」のあらすじを紹介するが、晴山さんは次のように表現している。

「ひとことで言うと、『英語で考える』というのはどういうことなのかを、日本語で岩波新書が掛けるほど日本語に堪能なアメリカ人の著者が、わかりやすく系統だてて説明した書物であり、これが面白くないわけがない(売れないわけがない)。そういう本である。」

「『日本人の英語』は怜悧な観察をユーモアの衣でくるんだ、英語本としては珍しい第一級の読み物であった」

有名な「名詞の前に"a"を付けるのではない、もしも『付ける』という言葉を使うなら"a"に名詞をつけるのだ、とまさに『目からウロコ』の説明をする」と晴山さんも評している。


1990年代 英語本ブームの時代 「英語できますか?」「これを英語で言えますか?」

英語バブルは止まらないというサブタイトルが付いているが、倒産したNOVAがテレビコマーシャルで知名度を上げ、全国展開したのが1990年以降だ。



TOEIC受験者も1990年には33万人だったのが、1999年には87万人に増加し、2006年には152万人になっている。

「これを英語で言えますか?」は立ち読みしたことがある。なんとかの2乗とかの言い方を知らなかったので、参考になった記憶がある。

これを英語で言えますか? デラックスこれを英語で言えますか? デラックス
著者:講談社インターナショナル
販売元:講談社インターナショナル
発売日:2008-12-10
おすすめ度:4.0
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ちなみにAの二乗+Bの三乗=Cの四乗は、"A squared plus B cubed equals c to the fourth power"と言う。


日本人のTOEFL平均点国際比較

日本人の英語力を国際比較する資料として、しばしば言われるのがTOEFLの平均点だ。個人特訓教室というサイトに紹介されているので、引用しておく。

TOEFLデータ:個人特訓教室_ページ_1












日本人の平均点が国際的に低いことについては、マーク・ピーターセンは、日本人の受験者数が多いので、平均点は低くなることを指摘している。たしかにそういう傾向はあるかもしれないが、それにしても世界でドベに近いというのは憂慮すべきことと思う。

ちなみに晴山さんはも受験者数が日本と同程度の韓国のTOEFL平均点は209点に対し、日本は188点だったので、少なくとも韓国に差をつけられていることは間違いないと語る。


2000年代 第三次英語ブームの時代 「ビッグ・ファット・キャットの世界一簡単な英語の本」「”超”英語法」

一億総グローバル時代のビッグ・ヒットというサブタイトルで30冊ほどの本を紹介しているが、筆者は一冊も読んだことがない。晴山さんは、まだ評価が定まっていないからと、次の3冊の内容だけ簡単に紹介している。

英会話・ぜったい・音読 【入門編】?英語の基礎回路を作る本英会話・ぜったい・音読 【入門編】?英語の基礎回路を作る本
著者:国弘 正雄
販売元:講談社インターナショナル
発売日:2001-04
おすすめ度:4.5
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この本の序文にある「英語習得の王道は『音読』」という言葉が、國弘さんの長年英語教育にかけてきた結論だ。

ビッグ・ファット・キャットの世界一簡単な英語の本ビッグ・ファット・キャットの世界一簡単な英語の本
著者:向山 淳子
販売元:幻冬舎
発売日:2001-11
おすすめ度:4.0
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読んだことのない筆者などは、「?」と思えるタイトルの本だが、さすが幻冬舎である。ネーミングがひと味違う。内容は、松本亨さんの英語はA=BかA→Bしかないという単純化発想の本だと。

晴山さんやマーク・ピーターセンさんが言う「語順は英語の命」(必ず小部分から大部分へ)という点を、この本の著者は簡単にかたづけているので、マーク・ピーターセンさんは「カリカリした」そうだ。

「超」英語法 (講談社文庫)「超」英語法 (講談社文庫)
著者:野口 悠紀雄
販売元:講談社
発売日:2006-10-14
おすすめ度:4.5
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勉強法で数々のベストセラーを出している野口悠紀夫さんの英語法は、英語は単語帳で暗記せずに、文脈で覚える、そのためには有名な文章を暗記するのが一番というものだ。

ちなみに野口さんはジョージ・オーウェルのアニマルファームやケネディの就任演説全文を暗記したという。

Animal Farm (Signet Classics)Animal Farm (Signet Classics)
著者:George Orwell
販売元:Signet Classics
発売日:1996-04-01
おすすめ度:4.5
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Ask Not: The Inauguration of John F. Kennedy and the Speech that Changed AmericaAsk Not: The Inauguration of John F. Kennedy and the Speech that Changed America
著者:Thurston Clarke
販売元:Audio Renaissance
発売日:2004-10-08
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口語に関する限り、聞く練習がすべてで、話す練習は全く必要がないと野口さんは語る。「聞くことができれば、自動的に話すことができる」と。

語学のマスターには4,000時間が必要だ。中学から大学まで約3,000時間英語を勉強してきたので、あと1,000時間を社会人になっても継続することを野口さんはアドバイスする。


究極の学習法の条件

最後に晴山さんは、これら数十冊の本を総括して究極の英語学習法の骨子を説明している。

(1)学習の抵抗感をなくす ー 英語に抵抗感を持っていたら、学習は続かない。

(2)音読と暗誦を繰り返す ー 体を使わない英語学習は身につかない。

(3)リスニングを他の三技能に先んじる ー 音の伴わない英語は、使いものにな
らない

(4)継続が不可欠 ー 一朝一夕に英語力がつくというのは幻想にすぎない

(5)まず盤石の基礎を築くことが肝要 ー 基礎を手抜きすると、どんなに勉強をしても砂上の楼閣になりかねない

筆者がこれに付け加えるとすれば、「なにくそ」精神、きれいな言葉で言えば、向上心だ。どの著者も英語で失敗した経験があり、それを糧に英語勉強によりいっそう力を注ぎ、英語力を向上させている。筆者も全く同じだ。

1978年、最初の海外赴任で乗ったパンナム機で、米人スチュワーデスに「ミルク」が通じずに、ビールを持ってこられた屈辱が筆者の英語上達の原点だ。

多くの本が英語教育について毎年出版されているということは、日本人には常に英語学習向上心があるということだと思う。それが一番大事なことだ。

ただし、英語教育本がコンスタントに売れるということは、ダイエットと同じように、ちょっと読んでその気になっても、長続きしないで、また違った英語教育本に飛びつく人がたくさんいるのだと思う。

是非この本を参考にして、紹介されている本の中から自分にあったような本を読んでほしい。

本によって言っていること、やり方は多少の違いはあるが、英語勉強法に「ベスト」はない。ただ「ベター」があるのみで、その意味ではどの本でも良いので、まずは実行してみることが大切だ。

最後に筆者の好きなBrian Tracyの言葉を紹介しておこう。

"Great American philosopher Michael Jordan said "Just do it!"


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2009年05月06日

B-29 日本爆撃30回の実録 東京空襲を行ったパイロットの証言

B‐29日本爆撃30回の実録―第2次世界大戦で東京大空襲に携わった米軍パイロットの実戦日記B‐29日本爆撃30回の実録―第2次世界大戦で東京大空襲に携わった米軍パイロットの実戦日記
著者:チェスター マーシャル
販売元:ネコパブリッシング
発売日:2001-05
おすすめ度:5.0
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中央区図書館で見つけて読んでみた。

東京裁判についての渡部昇一さんの「パル判決書の真実」を読み、いまさらながら、東京裁判は勝者が敗者を裁く復讐裁判で、勝者の「人道に反する罪」といえる原爆や東京空襲が不問に付されていることが気になったので読んでみた。

この本はB−29で日本爆撃を30回出撃し、無事生還した米軍のパイロットが当時の日記を元に爆撃の記録をつづったものだ。

以下写真の出典はすべてWikipedia。

Boeing_B-29_Superfortress_USAF






B−29は第二次世界大戦末期に投入されたボーイング製の4発の爆撃機で、レシプロエンジン(ジェットエンジンの対義語)では最高の爆撃機と言われている。

B−29は1万メートルを超える高々度で飛行していたので、日本軍の戦闘機も1万メートルまで上昇して攻撃することは容易ではなかった。

また日本軍の高射砲も一部を除いては1万メートルの敵機を打ち落とす能力はなく、ほんの一部のB−29を撃ち落としてたのみだった。

日本軍の高射砲弾は時限信管で、VT信管ではなかったことも、戦果が挙がらなかった原因の一つだ。

この本の著者がB−29で日本を爆撃したのは1944年11月から1945年6月までで、合計30回の爆撃ノルマをこなして、全クルーが無事米国に帰還している。

B−29はサイパンから日本を爆撃したが、1944年末当時はまだ硫黄島が米軍の手に落ちていなかったので、硫黄島からしばしば日本軍の戦闘機や爆撃機がサイパンの米軍基地を攻撃してB−29の損失も多かった。米軍は1945年2月に硫黄島総攻撃を開始し、3月に栗林中将を指揮官とする日本軍守備隊は玉砕した。

それ以降はサイパンに対する日本軍の組織的な攻撃はなくなり、硫黄島を基地とするP−51戦闘機が毎回数百機出撃し、B−29爆撃機を援護するようになり、日本本土上空でも日本軍戦闘機をB−29に寄せ付けなかった。

P−51

784px-P-51H






この本を読むと最初のうちは中島飛行機武蔵製作所や群馬県太田市の中島飛行機、名古屋の三菱などの飛行機工場を爆撃している。

ところが、3月9日になって急に東京への焼夷弾攻撃のブリーフィングが行われ、ほとんどの者が民間人攻撃の命令を受けて、信じがたい思いで座ったまま唖然としていたという。

合計334機のB−29で東京を火の海にしろという命令だ。

戦闘機の反撃はあっても圧倒的多数の護衛戦闘機に守られて軽微と予想されるので、弾丸は尾部銃塔のみに搭載し、焼夷弾を積めるだけ積んで出撃するのだと。

1個3キロ程度のM69焼夷弾を金属の帯で束ねて500ポンドの焼夷弾をつくる。

時限装置をつけ、地上に近づくと時限装置が作動して集束が解かれ、焼夷弾が広域にわたって散布されるしくみで、一機に24発の500ポンド焼夷弾を積み、横0.5マイル x 縦1.5マイルの範囲に散らばって落ちるという。

東京を焼き尽くし、民間人を攻撃するという出撃命令を受けてからはみんなふさぎ込んでしまったという。パイロットはこれが人道に反する攻撃だと知っていたのだ、

3月10日の東京大空襲では、高度2,000メートルで爆撃したので、がらくたや人肉の焼ける異臭がしたという。

日本軍の戦闘機は、屠龍、飛燕、鍾馗、月光などが迎撃し、このころから体当たり攻撃をするようになったこともあり、B−29のパイロットを恐れさせるが、実際には圧倒的多数の強力なP−51に守られたB−29まで到達する日本軍戦闘機はまれだったという。

屠龍

Kawasaki_Ki-45-1



飛燕

Kawasaki_Ki-61-14



鍾馗

Ki-44





月光

月光



この本の著者の属するB−29の25番クルーは30回、合計452時間の出撃を終えて米国に帰還する。

日本機撃墜10機、不確実7機、撃破2機というのが25番クルーの戦績である。

上記で紹介したように、東京空襲を行った米国人パイロット達も、民間人をターゲットとすることで落ち込んでいたのだ。

マッカーサーをフィリピンから追い落とした本間雅晴中将は、「バターン死の行進」の責任者として、戦後マニラ軍事裁判で死刑となり銃殺された。本間中将は銃殺される際に、自分はバターン死の行進の責任を取って殺されるが、広島や長崎に原爆を落とした張本人は罰せられないのかと発言したといわれる。

同じことが民間人をターゲットにした無差別爆撃の東京空襲にも言えると思う。(その意味ではドイツ軍のゲルニカ爆撃や連合軍のドレスデン爆撃、日本軍の重慶爆撃も同じことが言えると思う)

勝者が敗者を裁くのは戦争裁判の特質からやむをえないかもしれないが、民間人への攻撃を目的としたハーグ条約違反の行為は、たとえ軍事裁判にかけられなくても、「人道に対する罪」となると思う。

オバマ大統領は、チェコのプラハで核兵器廃絶をぶち挙げ、米国は唯一の原爆使用国として"moral responsibility"があると演説したが、東京やドレスデンなどへの民間人を対象とした無差別攻撃を命令した者についても、責任が明らかにされるべきだと思う。

そんなことを考えさせられる本だった。



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2009年05月04日

世界は感情で動く クイズ感覚で楽しく読める行動経済学第二弾

世界は感情で動く (行動経済学からみる脳のトラップ)世界は感情で動く (行動経済学からみる脳のトラップ)
著者:マッテオ・モッテルリーニ
販売元:紀伊國屋書店
発売日:2009-01-21
おすすめ度:4.0
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以前このブログで紹介した「経済は感情で動く」の姉妹編。

題材も基本的に同じで、クイズ感覚で楽しく読める。

経済は感情で動く―― はじめての行動経済学経済は感情で動く―― はじめての行動経済学
著者:マッテオ モッテルリーニ
販売元:紀伊國屋書店
発売日:2008-04-17
おすすめ度:4.0
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多くの論点は「経済は感情で動く」と共通なので、この本で印象に残った点を紹介しておく。


ヒューリスティック(heuristics)

元々アルキメデスが風呂でアルキメデスの原理を発見したときに、「ユーレカ」と叫んだことが語源となっていると言われる。意思決定したり、判断を下す時に、厳密な論理を積み上げる方法でなく、直感ですばやく結論を出すこと。

ヒューリスティック・バイアスの例として「代表性」が挙げられている。「代表性」とは、いわゆるステレオタイプのことで、国籍、出身地、職業、年齢などから思い浮かべる特徴でその人を判断してしまうことだ。

面白い例が紹介されている。

問15(選挙の候補者について)

3人の候補者の誰に投票しますか。

A.一番目の候補者は腐敗した政治団体との一件に巻き込まれたことがある。星占いに凝っている。愛人が2人。ヘビースモーカーで日に6箱から10箱開ける。

B.二番目の候補者は、二度役職を罷免されたことがある。抑うつ傾向(鬱病傾向)があり、お昼まで寝ている。毎日ウィスキーを一瓶空け、仕事中に居眠りする。

C.三番目の候補者は、愛国者で軍部から勲章を与えられた。菜食主義者で、タバコを嫌い、たまにビールを一本飲み、性生活はきわめて慎ましい。

A.はフランクリン・ルーズベルト
B.はウィンストン・チャーチル
C.がアドルフ・ヒトラーだという。


ハロー効果(ハローとは「後光がさす」の「後光」のこと)

商標とか価格などにまどわされて、判断をしてしまうことがある。これをハロー効果と呼ぶ。

たとえばブランドテイスティングでは、ペプシを選ぶ人が多いのに、商標が見えていると、圧倒的にコカコーラの方がおいしいと答える。

またワインのブラインドテイスティングの例では、5ドルと35ドルと90ドルの三本のワインが使われた。

値段を言われてテイスティングすると、5ドルのワインを45ドルと言われたときの方が、実際の値段の5ドルと言われた時よりもおいしいと感じる。

90ドルのワインも、90ドルと言われてテイスティングした時が最高においしく、同じワインを10ドルと言われてテイスティングするより断然おいしかったという。

この本では、「脳のなかで、味や香りが生み出す快感に密接に結びついた内側面前頭葉眼窩面皮質が、同じワインでも高い値段で試飲するときのほうが、見るからに活動的になるからである」と学説のように説明しているが、これは冗談半分・本気半分といったところだろう。

筆者もワイン好きなので、価格とか原産地、生産者、ブランドの魔法は気を付けなければならない。

実は一度だけテイスティングして、味がおかしいと感じて出すのをやめたことがある。アメリカに駐在していた時、取引先を自宅に招いて日本で買ったボルドーの第二級シャトーワインを出した時に、おかしいと感じたのだ。

1993年のシャトー・デュクリュ・ボーカイユだったが、日本で買ったのを普通のコンテナで引っ越し荷物の中に入れて持ってきたから劣化が激しかったのか、あるいは1993年のビンテージは元々良くないのか、ボルドー特有のタンニンの効いた味の深みが全然ないので、出すのをやめた。

ボルドーのシャトーワインは、良いビンテージと悪いビンテージと大きな差があり、同じワインの1993年のビンテージは、今でも値段は余り上がっていないようだ。

★送料無料★[1993]シャトー・デュクリュ・ボーカイユ/サン・ジュリアン(クール代別)
★送料無料★[1993]シャトー・デュクリュ・ボーカイユ/サン・ジュリアン(クール代別)


良いビンテージだと若い2005年のワインでも、1993年のものの倍以上の値段で売られている。

【クリアランス&円高還元セール】☆シャトー・デュクリュ・ボーカイユ [2005]!【dotou_0501】
【クリアランス&円高還元セール】☆シャトー・デュクリュ・ボーカイユ [2005]!【dotou_0501】



Wingdingsという記号フォント

どうでも良い話ではあるが、Wingdingsというフォント(特殊記号?)を選んで、”Q33NY”と入力すると次のシンボルが表示されるという。

wingdings



これは「2つのタワーに飛行機が激突し、イスラエルを巻き込んだ大惨事に発展した」と読むのだと。

"wingdings"というフォントがあることを始めて知った。閑話休題


「コノンの千里眼」

筆者は初めて聞く話だが、ギリシャの将軍コノンは、アテネ同盟軍でスパルタと戦い、紀元前394年のクニドスの海戦で、勝利を収める

アテネは同盟国と戦利品を分けることになり、コノンは捕虜を裸にして、捕虜の所持品と捕虜とを分けて、同盟国にどちらか選択させた。

同盟国は驚いたが、所持品を選んだ。スパルタ人は労働には向いていないと考えたのだが、後にスパルタの捕虜の身内が捕虜開放に莫大な金を払ったことを知り、「コノンの千里眼」を身をもって知ることになったという。

多くのクイズが出題されており、コラムも面白く、前作の「経済は感情で動く」と同様クイズ感覚で楽しめる本だ。


いずれかを手にとってみることをおすすめする。


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2009年05月02日

祝 天皇皇后両陛下ご成婚50周年

郵便局に行ったら天皇皇后両陛下ご成婚50周年記念切手を発売していたので、1シート買った。

筆者の子どもの頃は切手収集ブームだったので、昭和34年のご成婚の時の記念切手シートも持っている。

今上天皇と美智子様の似顔絵が切手になっている。ご結婚当時の美智子様の清楚な感じがよくわかる絵である。

ご成婚記念














楽天の切手ショップでもこの記念シートは販売されている。

皇太子(明仁)殿下御成婚小型シート(タトウ付き)
皇太子(明仁)殿下御成婚小型シート(タトウ付き)


そしてこちらがご結婚50周年の記念切手だ。

ご結婚50周年記念





今回の切手には似顔絵はないが、いかにも祝賀記念の切手らしいデザインだ。

郵便料金も昭和34年(1959年)はハガキ5円、封書10円だったのが、現在ではハガキ50円、封書80円となっている。ハガキは実に10倍、封書は8倍になっていることも時の流れを感じさせる。

筆者はご成婚の時は5歳だったので、ほとんど記憶がないが、あれから50年かと、感慨深い。

両陛下のますますのご健康を心からお祈り申し上げます。


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