2009年06月30日

俺は、中小企業のおやじ スズキの鈴木修社長の自伝

俺は、中小企業のおやじ俺は、中小企業のおやじ
著者:鈴木 修
販売元:日本経済新聞出版社
発売日:2009-02-24
おすすめ度:4.5
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2008年12月に世界経済危機を乗り越えるために8年ぶりに78歳で社長に復帰したスズキ鈴木修社長の回顧録。

鈴木さんは年齢は7掛けで見て欲しいという。昔の寿命は50歳、今は平均寿命は70歳超、だから7掛けで見るのが適当だという。

今年79歳だが、7掛けなら56歳だ。たしかに60歳前後と言ってもおかしくないハードな仕事漬けの生活で、唯一の趣味は週1回のゴルフだという。

この本の冒頭には、鈴木さんの言葉が掲げられている。

「俺は中小企業のおやじ。やる気、そしてツキと出会い、運とともに生涯現役として走り続けるんだ。」

まさに走り続ける鈴木さんのビジネス人生が描かれている。


スズキでの経歴

鈴木さんは1930年岐阜県下呂市生まれ、終戦の年海軍航空隊に入隊するが、すぐに終戦。中央大学法学部を卒業後銀行に就職するが、1958年2代目社長鈴木俊三さんの娘婿として、浜松にあった鈴木自動車に入社。

当時の売り上げは48億円で、義父の鈴木俊三社長は、なんとか売り上げを月間5億円、年間60億円に持って行きたいと言っていたという。エンジン付き自転車のスズキモペットや日本初の軽自動車セダンスズライトが新商品だった。

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スズライト 出典:Motor Magazine Medialog

実態は町工場で、あらゆる機械が天井のシャフトからベルトで動力を得ており、組み立てラインもベルトコンベアではなく、手押し車だったという。

最初に企画室に配属されるが、生産の実態をつかんでいない仕事ぶりに反発し、1週間で工程管理課という現場に移る。鈴木さんの仕事ぶりに企画室は反発し、3年後鈴木さんつぶしのため新工場建設チーム長として体よく追い出される。

鈴木さんは若い仲間を集めて愛知県の豊川市で1961年からスズキライトキャリイという2サイクル360CCの軽トラックの生産を始め、初年度は880台生産した。

スズキの工場は5万坪の本社工場が最初で、同様の小規模な豊川工場、10万坪の磐田工場、20万坪の湖西工場、15万坪の湖西第2工場、そして2008年7月には70万坪の相良工場が完成して生産能力を大幅に拡大した。

1963年には購買部長になり、零細企業ばかりのスズキの部品メーカーをオートバイで出かけて指導した。

取締役に就任。東京での営業を経て、輸出部長、1966年にUSスズキ社長としてアメリカに2年間駐在したが、2サイクルエンジンが主力のスズキのオートバイは売れず、10億円の赤字を出して帰国する。2サイクルは振動がひどく、バックミラーで後ろも見られなかったという。

辞表を出すが慰留され東京勤務となり、特徴ある自動車を生産していたホープ自動車から4輪駆動の製造権を買い、360CC2サイクルエンジンの軽自動車ジープ、ジムニーを売り出し大ヒットさせ、アメリカでの赤字を取り戻す。

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初代ジムニー 出典: Motor Magazine Medialog


社長に就任

常務、専務、代表取締役専務を経て1978年社長に就任。当時のスズキの売上高は3,232億円だった。

それが30年間で売り上げは3兆円超と10倍に増えたが、鈴木さんは、スズキは部品組み立て業であり、部品の仕入れ高を減算した付加価値は3ー5,000億円にすぎない中小企業なのだと語る。

スズキの危機は25年周期で来る。最初は1950年の労働争議、会社は倒産寸前まで追い込まれた。このころトヨタも同じように労働争議で倒産寸前になっていた。

次は1975年。石油ショック直後、スズキは新型エンジンの開発に成功したと発表していたにもかかわらず、実際には開発に失敗し、トヨタ自動車からエンジンを供給してもらい、なんとか生き延びた。

3度目が今回の金融危機を発端とする世界同時不況だ。スズキの問題は人材で、過去の危機を知っている幹部社員がほとんどないので、減産を経験したことがなく、とまどっている。しかし、この時期は外注先にコスト削減を強いるのはもってのほかで、カラーコピーをやめたり、不要不急の投資をやめるなど、内なるコスト削減をしなければならないと鈴木さんは語る。

苦境に立たされるほどファイトが湧いてくる。悔いや失敗の連続だったこれまでの経験と率直な思いをつづることで、最大の危機を乗り切る力とすべく、この本を書いたという。


アルト

先日タタ自動車のナノ(リンク先はインドの車比較サイト)が10万ルピー(27万円、約3,000ドル)車として話題になったが、鈴木さんが社長に就任して初めて1979年に売り始めた軽自動車アルトは、ライトバン仕様として商用車の安い物品税を利用して、当初全国一律47万円で売り出した。当時の為替相場で約2,500ドルだった。コストは35万円だったので、十分利益が出たという。

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タタ・ナノ 出典: Wikipedia

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初代アルト 出典:日本の自動車技術240選

5回のモデルチェンジを経て、累計477万台、2008年は8万台売ったという。インドでは800〜1,000CCの大きめのエンジンを搭載しているが、やはりアルトをベースとするマルチ800(リンク先はインドの車比較サイト)がトップシェアで、年間34万台売れているという。

タタがこれからやろうとしていることを、スズキは日本で30年前に実現しているのである。

アルトは鈴木さんにとって忘れられない車である。鈴木さんの考えたキャッチフレーズは次の通りだ。

あるときはレジャーに、あるときは通勤に、あるときは買い物に使える。あるとべんりな車。それがアルトです。」

一時は消える運命にあると見られた軽自動車がアルトの成功で、息を吹き返し、現在は新車市場の1/3、年間200万台を販売している。

またアルトの成功で、スズキはそれまでの2サイクルエンジンから4サイクルエンジンへの切り替え投資が出来たという。

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2サイクルエンジン 出典:Wikipedia

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4サイクルエンジン 出典: Wikipedia

現在は2サイクルエンジンはあまりないのかもしれないが、昔はオートバイは本田を除き、2サイクルエンジンが多かった。

筆者も中学の「技術」の授業でエンジンの構造を習ったが、2サイクルエンジンはオイル混合ガソリンを使い、簡単な構造だが、振動が激しく、排気ガスがオイルを含んでいるので白っぽく、においがするのが欠点だ。


オートバイのHY戦争

アルトを売り出して2年後の1981年にオートバイのHY戦争が起こり、ホンダとヤマハの激烈な値引き競争が起こる。発端はヤマハがホンダを抜き、世界1位になろうとシェア争いを始めたからだ。

シェアトップ1位、2位の争いなので、3位のスズキはなすすべがなく、5割減産に追い込まれた。もしアルトがなかったら、スズキはどうなっていたかわからないという。

一時はバイク1台1万円まで下がったHY戦争は、1983年ヤマハの敗北で終結する。


鈴木さんの経営手法

鈴木さんの経営手法がいくつか紹介されている。

★うなぎの寝床型工場 1キロくらいの長さの生産ラインとして、100メートルごとに資材の搬入口を付ける。フレキシブルに生産ラインを組み替えるためだという。

★重力と光はタダだ ベルトコンベアでなく、生産ラインに傾斜をつけて、重力で移動するような工場設計が特徴だ。光も極力自然採光を取り入れる。

★工場監査 鈴木さんは、1989年から年1回国内外の工場を丸一日かけて隅から隅まで歩き、ムダがないか目を光らす。「あの蛍光灯は必要なのか?」、「このスペースは空いている」というような指摘をする。工場監査は、VWの工場を見たことから始めたという。

★小少軽短美がモットー。

★工場にはカネが落ちている。野球の鶴岡一人元監督の「グラウンドにはゼニが落ちている」にならって。

★部品の共通化 VW元社長ハーン博士の教え。VWはモデルチェンジしても、ほとんど旧型車と同じ部品を使い続ける。VWはゴルフを17年で1,200万台生産しているのに対し、スズキのアルトは300万台弱の生産に留まる。このコストの差は大きい。

余談になるが、筆者が初めてのピッツバーグ駐在に赴任した1980年代後半にアメリカでも同じような話を聞いた。

そのときはGMとトヨタで、GMは乗用車部門は当時キャデラック、オールズモビル、ビュイック、ポンティアック、シボレーそしてサターンの6部門を持っていた。

GMがトヨタ車を買って、分解してみたら、カローラも上級車も、例えばワイパーモーターなどの部品は同じものを使っていたという。GMはそれぞれの部門で外見が似たような車をつくっていたが、内部は部門によってバラバラだった。

それに対してトヨタは、外見は違うが内部の使っている部品は同じだったという。見事に部品の共通化ができていたのだ。

筆者はアメリカで出張の時などにレンタカーを借りたが、GMの車は嫌いだった。別に性能とかシートの座りごこちなどはフォードもGMも変わりはないが、GMの車は、内装を車種ごとに変えているので、ワイパーやライトのスイッチが車種ごとに違っており、運転していて度惑うことが多かった。

特にポンティアックの車などは、スポーティな車が多かったせいか、内装のデザインがバラバラで、ワイパーやライトのスイッチが見つけにくく、閉口したものだ。

何もワイパーやライトのスイッチなど、車種ごとにレイアウトを変えることもないと思うが、内装デザインを変えるのが、当時のGMのやり方だった。


GMとの提携

1980年スズキは米国の某自動車メーカー向けに、新開発の1,000CCのエンジンを積んだカルタスをOEM供給する交渉をしていたが、契約は白紙となる。

そのとき既にGMと提携していたいすゞ社長の仲介で、GMとの提携が成立する。GMがスズキの5%の株式を取得し、小型車での3社提携が成立する。この時鈴木さんの言った言葉が、「蚊は鯨には飲み込まれない」だ。

カルタスを10万台/年輸出する契約を結ぶが、おりからの対米自動車輸出自主規制の延長に引っかかり、やむなくカナダオンタリオ州インガソルで合弁での現地生産を始める。この時のGMカナダのトップが後にGMのCEOとなるロジャー・スミス氏で、財務部長がその後のCEOで、今年解任されたワゴナー氏だ。生産したのはシボレースプリントという車種だ。

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シボレースプリント 出典: Wikipedia

1989年4月に第1号車を生産し、累計生産台数は200万台を超えている。

鈴木さんはクルマづくりはGMから学んだと語る。小型車の分野は主にGMのドイツ子会社オペルと共同開発したが、オペルの技術者は頑固で、基礎を積み上げるやり方を実直に守っていたという。この成果が2005年RJCカーオブザイヤーのスイフトで、年産30万台以上を生産している。

GMにはもう一つ助けられたという。1988年6月ジープ型の4輪駆動車サムライが横転しやすいとして、米国のコンシューマーズユニオンが道路交通安全局にリコールを要請した。

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1988年頃のジムニー 出典: Wikipedia

その数年前にアウディがオートマ車の急発進問題で欠陥車とされ、大打撃を受けたばかりだったので、鈴木さんはすぐに米国に向かった。消費者のクラスアクション(集団訴訟)に発展し、損害賠償額は1,400億円の規模だったが、GMの法務部長が道路交通安全局に話してくれ、クラスアクションに慣れている弁護士も紹介してもらい、9月にはサムライに安全性の問題はないとのお墨付きがでて決着した。

その後GMはスズキの持ち株比率を20%にまでアップされるが、昨年からの金融危機ですべて売却したことは記憶に新しい。

鈴木さんの、「私なら5分で決断できる」と「トップ・ダウンはコスト・ダウン」という言葉はGMのトップも使い出したという。


ハンガリー進出

1985年まだ共産党政権のハンガリーからスズキに自動車生産の話が伊藤忠商事経由持ち込まれ、スズキは1990年、ハンガリー49%、スズキ40%、伊藤忠商事11%の持ち株比率でマジャール・スズキを設立し現地生産を開始する。

スズキがハンガリーに進出を決めた当時の駐ハンガリー全権大使が、このブログで「日英同盟」「チャーチルが愛した日本」などの著書を紹介している関栄次さんだ。

現在はスズキの持ち株比率は97.5%にまで上昇している。

当初は5万台規模で生産していたが、現地調達比率が60%以上を超えていたので、EUへの輸出が本格化し、現在は30万台生産している。ハンガリー国内向けは3万台程度で、残りはすべて西欧への輸出だという。

2008年10月にはスプラッシュという車を日本に輸入販売したという。日本でも売れる車をつくれるほどの工場に成長したのだと。

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スプラッシュ 出典: Wikipedia


インド進出

鈴木さんは、「どんな市場でもよいからナンバーワンになって社員に誇りを持たせたい」と強く思っていたという。

スズキは1975年にパキスタンの自動車会社と技術提携契約を結んでいたが、1982年にインド政府がパートナー企業を募集するという情報を入手し、インド政府の訪日調査団を前に、どんな工場をつくらなければならないか鈴木さん自身が熱弁をふるった。

当時の日本メーカーは対米進出が最大の課題で、インドの話をまともに取り上げた自動車会社トップはなく、インド調査団の話を真剣に聞いてくれたトップは鈴木さんだけだったという。

1982年に話がまとまり、総工費2億ドル、資本金200億円のうち鈴木が26%出資して工場建設がスタートし、1992年に出資比率を50%に上げ、2002年に子会社化した。

日本的な経営でかまわないという条件だったので、カースト制を反映して幹部用の個室がある元のデザインを破棄し、すべて壁をぶちこわし、社員食堂も一緒にした。

グルガオン工場が出来たばかりのときは、鈴木さんも月1回はインドに行き、あれこれ指示していたという。工場のオープニングにはインディラ・ガンジー首相が、息子で国民車構想を打ち上げた故サンジャイ・ガンジー氏の悲願が実ったとスピーチした。

インドではマルチ800(2代目アルトと同じボディに800CCのエンジンを積む)を累計270万台生産しており、5代目アルトと4輪駆動のジムニーを生産している。

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マルチ800 出典: Wikipedia


スズキはニューデリー郊外にある第2工場のマネサール工場を2007年2月から稼働させ、生産能力を年間100万台に大幅アップさせている。もちろんトップシェアである。

インドではフィアットから技術導入して、燃費の良い小型のディーゼルエンジンを製造しているという。


ワゴンR

2003年から2008年まで連続して日本の車別の販売台数トップがワゴンRだ。国内累計販売は310万台である。

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ワゴンR 出典: Wikipedia

軽乗用車のワンボックスブームに乗り、それまで女性用の乗り物だった軽乗用車を、男性にも売り込める車にしたのだ。



この車のネーミングは、「スズキにはセダンもあるけど、ワゴンもあーる」ということで、ワゴンRとなったのだと。

鈴木さんは、小さな車を作ることに関しては誰にも負けないという自信があるという。


生涯現役宣言

鈴木さんは1979年に通産省に入省した浜松出身の小野さんを娘婿に迎え、いずれは後継者と考えていたが、小野さんは2007年にガンのために52歳で亡くなったのだ。2008年には津田社長が健康上の理由で退任し、鈴木さんみずからが社長としてカムバックした。

現在は月曜日と金曜日は役員昼食会、火曜から木曜は部門別の昼食会に鈴木さんも参加し、会社全体のレベルアップを図っているという。すごいエネルギーだ。


鈴木さんは中小企業のおやじ、生涯現役で走り続けるという。有給休暇は死んでから嫌というほどとれるからだと。

GEの元会長のジャック・ウェルチの自伝、"Straight from the Gut"(直訳すると、ガッツ(はらわた)からストレートに、腹蔵なしの意味)を現在オーディオブックで聞いているが、鈴木さんは日本の経営者のなかでも、最もガッツある、気骨のある経営者の一人だろう。

Jack: Straight from the GutJack: Straight from the Gut
著者:Jack Welch
販売元:Hachette Audio
発売日:2001-09-11
おすすめ度:4.5
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ビジネスの話中心で、他の話はほとんど書いてないが、面白く一気に読める。

是非一読をおすすめする。


参考になれば投票ボタンをクリックして頂きたい。


  
Posted by yaori at 01:33Comments(0)TrackBack(0)

2009年06月26日

皇族たちの真実 竹田宮末裔の語る皇族の話

語られなかった皇族たちの真実-若き末裔が初めて明かす「皇室が2000年続いた理由」語られなかった皇族たちの真実-若き末裔が初めて明かす「皇室が2000年続いた理由」
著者:竹田 恒泰
販売元:小学館
発売日:2005-12
おすすめ度:4.0
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終戦後11宮家の皇籍離脱で一般人となった竹田宮の末裔、竹田恒泰さんの本。竹田さんは昭和50年生まれで、環境学や孝明天皇を研究し、現在は慶應大学法学部の講師として「天皇と憲法」を担当している。中田現市長が勝利した平成14年の横浜市長選挙に出馬も考えたが、まわりからとめられたという。

竹田さんの祖父の竹田恒徳氏は「スポーツの宮様」として、昭和28年からJOC委員となり、後にJOC委員長として昭和39年の東京オリンピックと昭和47年の札幌冬季オリンピックの誘致に成功している。

竹田さんの父君の竹田恒和さんは恒徳氏の三男で、馬術でミュンヘン、モントリオールオリンピックの代表となり、現在はJOCの会長を務めている。

竹田宮は伏見宮の傍系で、明治になって伏見宮から北白川宮が分家し、さらに竹田宮が分かれた。明治39年に生まれた比較的新しい宮家である。

皇族の役割

この本では、皇族の役割として1.皇統の担保(血のスペア)と、2.天皇の藩屏(はんぺい)を挙げており、それぞれについて説明している。

第1章は万世一系の危機ということで、女帝を認めるかどうかの議論を旧皇族の立場から論じている。これが皇統の担保だ。

第2章以下は、天皇の藩屏として、つまり天皇の近親者として天皇を守る役割で、戦争に加わった皇族、皇族達の終戦工作や、終戦の際の東久邇宮内閣や11宮家の皇籍離脱を取り上げている。


男系継承の意義

皇族の第一の存在理由は、皇統が途絶えそうになったときに、皇族が皇位を継承することによって万世一系を維持することだ。

2006年に秋篠宮文仁親王に悠仁(ひさひと)親王が生まれる前までは、皇太子ご夫妻の唯一の皇子は愛子内親王だったので、女性天皇を認めるように皇室典範を改正しようという動きがあった。

小泉首相の私的諮問機関として「皇室典範に関する有識者会議」が吉川弘之元東大総長を会長とする10名の委員で設置され、2004年に男女を問わない長子優先の制度が適当であり、女性天皇も認めるべき、女王の配偶者も皇族とすべきという答申を発表している。

竹田さんは、日本の皇室は男系継承されてきた世界で最も古い王家である。歴史上何度かあった皇統断絶の危機も皇位は常に男系で継承されてきたように、今後も男系継承の伝統は守られるべきだと語る。

男系継承は皇室にとって絶対に変えてはならない伝統であると。ただし竹田さんの主張は、竹田家や旧皇族の統一見解でなく、個人的意見であると断っている。

英国など他の国の王室との違いについては、竹田さんの「旧皇族が語る天皇の日本史」に詳しいが、他国の王室は、ロイヤルファミリーを殺して、別の権力者のファミリーが王座を乗っ取ったという歴史がある。

これに対して、日本の皇室は単一ロイヤルファミリーが2,000年も続いているというのが大きな差だ。

旧皇族が語る天皇の日本史 (PHP新書)旧皇族が語る天皇の日本史 (PHP新書)
著者:竹田 恒泰
販売元:PHP研究所
発売日:2008-02-14
おすすめ度:3.5
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過去の皇統断絶の危機

今上天皇は第125代天皇にあたるが、過去109回は天皇の皇子、9回は天皇の皇孫、3回は皇曾孫が即位している。

このうち女性天皇は8方10代だが、すべて男系の天皇であり、女系の天皇はかつてない。

ここでは女系天皇と女性天皇を区別する必要がある。

女性天皇は既婚者の場合はすべて皇后または皇太子妃であり、夫が亡くなった後に践祚(せんそ)した。女帝が独身の場合は、生涯独身を貫くことが不文律としてあったという。

残り3例が皇統断絶の危機である。6世紀の第26代継体天皇と第25代武烈天皇は祖父同士がはとこ、10親等の隔たりがあるが、それでも男系継承が続けられた。

15世紀、室町時代の第102代後花園天皇は、皇統断絶の危機から伏見宮家よりの天皇が即位した。大宅壮一氏は、宮家とは血のリレーの伴走者であると評したそうだが、まさに”血のスペア”が現実となった事例だ。

最後の3例めは、江戸時代後期の18世紀末、第118代後桃園天皇が22歳で崩御した時だ。

御桃園天皇の子どもは2歳の欣子内親王で、近親に皇族男子がいなかったため、一時空位が生じたが、閑院宮家の8歳の祐宮を後桃園天皇の養子とした上で、第119代光格天皇として即位させた。

そして血縁を濃密にするために、欣子内親王は光格天皇の皇后となった。

光格天皇は在位38年と、昭和天皇の64年、明治天皇の46年に次ぐ歴代2位の在位期間で、院政の23年を入れると通算62年君臨し、明治維新につながる歴史の礎をつくった。


側室制度の意義

このように万世一系の皇統を維持するためには、世襲親王家と天皇の皇子を増やす側室制度が不可欠であったと竹田さんは語る。

昭和天皇の直系の先祖、大正天皇、明治天皇、孝明天皇、仁孝天皇は生母がすべて側室だが、だからといって皇位継承に何の問題もない。しかし昭和22年制定の現在の皇室典範は嫡子のみに皇位継承権があると明記され、庶子は皇族の身分が与えられなくなった。


天皇はなぜ尊いのか?

「旧皇族が語る天皇の日本史」では、竹田さんは学生から「天皇はなぜ尊いのか?」と聞かれて、その場では答えられなかったという話を紹介している。

竹田さんが男系継承にこだわるのは天皇家が2000年の伝統があるからに尽きると語る。天皇は初代天皇の血を受け継いできているから尊いのだと。

筆者も同感である。まさにそれ以外の説明はできないだろう。世界で唯一2000年続いてきたことに絶対の価値があるのだと思う。

このあたりは文化人類学者の竹内久美子さんの「万世一系のひみつ」のあらすじで紹介しているので、参照してほしい。

遺伝子が解く!万世一系のひみつ (文春文庫)遺伝子が解く!万世一系のひみつ (文春文庫)
著者:竹内 久美子
文藝春秋(2009-05-08)
販売元:Amazon.co.jp
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また女性天皇を認める場合には、神道では生理は”穢れ”ということになるので、過去の女帝の時代には、生理の期間中は神事は行えないという支障も出ていたことを考慮に入れなければならない。


天皇の分身としての皇族

この本では戦争と皇族、終戦と皇族、占領下の皇族の3つの切り口から皇族が天皇のいわば分身として機能した例を取り上げている。

昭和16年日米戦争が避けられない雰囲気となってきた時、9月6日の御前会議で昭和天皇は明治天皇の御製を2度朗誦された。

「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風の立ちさわぐらむ」

はっきりと開戦回避を命じられたのだ。

それにもかかわらず10月に海軍元帥の伏見宮博恭親王が開戦を強く進言したことにいたく失望されていたという。


戦争反対の高松宮他の皇族

これに対し避戦を主張されたのが、海軍中佐で大本営参謀だった弟宮の高松宮宣仁親王だ。

高松宮殿下は開戦決定の御前会議の1日前の11月30日に昭和天皇と話し、開戦をやめるべきだと主張したが、昭和天皇は「そうか」とだけ言われたという。

天皇はこのときの心境を「昭和天皇独白録」に、次のように書いている。

「私は立憲国の君主としては、政府と統帥部との一致した意見は認めなければならぬ、もし認めなければ、東條は辞職し、大きな「クーデタ」が起こり、却って滅茶苦茶な戦争論が支配的になるであらうと思ひ、戦争を止める事に付いては、返事をしなかった」

昭和天皇独白録 (文春文庫)昭和天皇独白録 (文春文庫)
著者:寺崎 英成
販売元:文芸春秋
発売日:1995-07
おすすめ度:4.0
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当時御殿場で、肺結核静養中だった秩父宮殿下は英国留学経験もあり、英米との開戦は絶対反対だった。

開戦後も、リスクを冒して外務省北米課長の加瀬俊一を米国・英国大使館に派遣して駐日米国大使のグルーと駐日英国大使のクレーギーに遺憾の意を伝えたという。

グルーが米国に外交官交換船で帰国後、格下の極東課長、つぎには国務次官に就任し、日本のために天皇制は残した方が良いと主張して回り、米国の占領政策に影響を与えた。


皇族の停戦工作

その後も高松宮はミッドウェーでの惨敗後、昭和天皇に手紙を送ったり、近衛文麿と細川護貞(もりさだ)と一緒に早期講和を訴え、昭和19年6月には昭和天皇と激論になったという。

この辺の事情は「高松宮日記」に詳しい。

高松宮日記〈第1巻〉高松宮日記〈第1巻〉
著者:高松宮 宣仁
販売元:中央公論社
発売日:1996-03
おすすめ度:5.0
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高松宮と秩父宮は東條英機とも対立した。

終戦直後の総理大臣に就任した東久邇宮稔彦王は、大正末期に7年間フランスに留学し、自由な生活を楽しんだが、当時親交のあった元首相のクレマンソーに次のように言われたという。

「アメリカが太平洋へ発展するためには、日本はじゃまなんだ。(中略)アメリカはまず外交で、日本を苦しめてゆくだろう。日本は外交がへただから、アメリカにギュウギュウいわされるのにちがいない。その上、日本人は短気だから、きっとけんかを買うだろう。

つまり、日本の方から戦争をしかけるように外交を持ってゆく。そこで日本が短気を起こして戦争に訴えたら、日本は必ず負ける。アメリカの兵隊は強い。軍需品の生産は日本と比較にならないほど大きいのだから、戦争をしたら日本が負けるのは当たり前だ。それだからどんなことがあっても、日本はがまんをして戦争してはならない」

やんちゃ孤独 (1955年) (読売文庫)
著者:東久邇 稔彦
販売元:読売新聞社
発売日:1955
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まさにクレマンソーがこう言って15年も前に予測していた通りの展開となったのだ。

東久邇宮は昭和16年9月の天皇が明治天皇の御製を詠んだ御前会議のあとに、陸軍大学同窓の東條英機陸相と激論を交えた。

クレマンソーの話も聞かせ、「アメリカの手にのって戦争をしないように我慢しなければならない」と説得したが、東條は「勝利の公算は2分の1である。危険ではあるが、このままで滅亡するよりは良いと思う」と答え、最後に「見解の相違である」と話を切り上げた。

東久邇宮は日中戦争を終わらせるために、右翼の巨頭で蒋介石が日本に亡命したときにかくまった頭山満を、蒋介石との交渉に派遣しようと昭和16年9月と改選後の12月にも画策するが、二度とも東條英機に「見解の相違」とかたづけられてしまう。


天皇の名代として日本軍の武装解除を説く

終戦の時も、昭和天皇は昭和20年8月12日に高松宮、三笠宮、賀陽宮、(かやのみや)、東久邇宮、梨本宮、朝香宮、東久邇宮、竹田宮、閑院宮、、朝鮮王室の李王垠、李鍵公の各皇族、王公族をよび、ポツダム宣言受託の旨を説明し、日本再建への努力を依頼した。

このあたりは、以前紹介した半藤一利さんの「日本のいちばん長い日」にも描かれている。

そして8月16日朝香宮はシナ派遣軍に、竹田宮は関東軍に、閑職院宮は南方総軍に天皇の名代として終戦と武装解除を伝達した。

竹田宮は満州国皇帝溥儀を亡命させる密命を受けていたが、ソ連軍が奉天飛行場まで迫ってきており、溥儀はソ連軍に身柄を拘束されシベリアに抑留されてしまう。竹田宮もあやうく難を逃れるが、護衛の戦闘機はソ連軍めがけて自爆した。

陸海軍あわせて789万人の武装解除を完遂するために、それからも各宮は厚木飛行場などに行って、天皇の指令で各地を訪問した。

その後10月10日に昭和天皇は伊勢神宮などにお参りし、自分がお参りできない120の天皇御陵にお参りすることを宮家の代表に指示した。

ちなみに半藤一利さんの対談集の「日本史はこんなに面白い」によると、天皇は10代の頃、すべての天皇御陵を訪問している。これは天皇が歴史の授業を受けた東京帝国大学教授白鳥庫吉の影響だという。

日本史はこんなに面白い日本史はこんなに面白い
著者:半藤 一利
販売元:文藝春秋
発売日:2008-07
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恐るべき米軍の諜報力

竹田宮はフィリピン侵攻の時に、参謀として飛行機でバターン半島を視察するが、後にGHQのウィロビー少将に会ったときに、「はじめてではない。1942年のはじめに、あなたは赤い吹き流しのついた飛行機でコレヒドール上空を飛んだでしょう。そのときにあなたに会いましたよ」と言っていたという。

マッカーサーは天皇のお使いがここまで飛んできたということは、日本軍がはっきり自信を持ってきた証拠だとみて、フィリピンを捨てて、豪州に退く決心をしたのだという。


東久邇宮内閣

戦後すぐの内閣として東久邇宮が総理大臣となる。近衛文麿と緒方竹虎をアドバイザーとして組閣するが、マッカーサーと天皇が並んで撮った有名な写真を掲載した新聞を、内務省が発行停止としたので、内務省解体をGHQは決意する。これが東久邇内閣が54日で総辞職するきっかけだった。

Macarthur_hirohito






出典: Wikipedia


皇室ねらいの高率財産税

昭和21年9月にGHQの指令により財産税が導入され、昭和21年3月3日現在の1,500万円を超える財産に、最高90%の財産税を課せられることとなったので、天皇家と皇族は大きなダメージを受けた。

日本全体の財産税税収が43億円だったのに対して、天皇家は資産評価額37億円で、33億円を納税した。まさにGHQの皇室をねらい打っての財産税導入だ。

ちなみに三井、岩崎、住友などの財閥家は3〜5億円程度の資産だったので、天皇家の財産がいかに大きかったのかがわかる。皇族では高松宮の納税額1千万円がトップだったという。


11宮家の臣籍降下

昭和21年11月に昭和天皇の兄弟の秩父宮、高松宮、三笠宮をのぞいて11宮家、51人に臣籍降下が命じられる。この本の表紙の写真は昭和22年に行われたお別れ会の時の写真だ。

昭和22年5月3日の新憲法施行時に華族制度も廃止され、490華族が爵位と財産上の特権を失い、皇族に準ずる待遇を受けていた朝鮮の李王家も廃止となった。

赤坂にあった李王家の本邸は現在の赤坂プリンスホテルとなり、高輪にあった竹田宮本邸は高輪プリンスホテルとなり、竹田宮洋館は現在でも貴賓館として残っている。

昭和22年の廃止後も、菊栄親睦会という皇室と旧皇族の親睦会が続けられている。


11宮家のその後

この本では11宮家のその後を紹介しており、巻末資料として11宮家の起源から簡単に解説している。

竹田さんのおじいさんの竹田恒徳さんが、秩父宮とともに”スポーツの宮様”として、スポーツ振興に取り組み、後楽園アイスパレス建設とか、JOC委員、後に会長として東京・札幌オリンピック招致にあたっている。

竹田さんのお父さんもミュンヘン、モントリオール両オリンピックに出場した馬術選手で、現JOC会長だ。

11宮家のうち、すでに断絶したのが、東伏見宮家、山階宮家、閑院宮家で、継嗣がなく当主で断絶が見込まれるのが、梨本宮家、伏見宮家、北白川宮家である。

ちなみに今上天皇の第1皇女,黒田清子さんが勤めていたのが、山階宮家ゆかりの山階鳥類研究所だ。

今後も継続が見込まれるのは、賀陽宮家、久邇宮家、朝香宮家、東久邇宮家、竹田宮家の5家だ。

旧皇族は大企業に勤めたり、必ずしも成功ばかりではないが、事業を開始したりしている。


皇族の使命

最後に竹田さんは、すでに皇族制度は廃止されており、皇籍を離脱しているが、11宮家は”血のスペア”として”ノーブレス・オブリージュ”の責任を感じ、皇統の危機にあたっては、ともに悩む責任があると語る。

男系継承の可能性がある現在、女系天皇を議論するというのは、あまりに時期尚早であり、万世一系を冒涜する考えであると。

皇族制度が廃止されてすでに60年以上も経っており、普段あまり意識することがないが、竹田さんは旧宮家の一員として、きっちり言うべき事は言っている。

文末に100冊以上の主要参考文献を紹介しており、きちんとした調査の上に書かれた本であることがよくわかる。

時代を代表する出来事も簡潔に織り込み、この本全体を通して歴史の流れも理解できる優れた構成となっている。

読みやすく、わかりやすい。

是非一読をおすすめする。


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2009年06月25日

エルテがテーマのプチホテルが検索でトップグループ入り!

2009年6月24日再掲:


アールデコの寵児エルテがテーマの北軽井沢のプチホテルヴィラR&Tが、Yahoo!検索でもGoogle検索でもトップページにランキングされるようになった。

R&T






Google検索か、Yahoo!検索で、”軽井沢 ペンション”と打ち込んで、検索しすると、時々変動するようだが、トップページにランキングされている。

きれいなプチホテルで、おいしい料理とリーズナブルな料金設定が人気だ。

ホームページも相当凝っている。

軽井沢か北軽井沢に旅行で行かれるなら、プチホテルヴィラヴィラR&Tもおすすめです。



2007年12月18日再々掲:


以前ご紹介した北軽井沢のプチホテルヴィラR&Tのホームページが、全面リニューアルされたので再掲して、お知らせする。

今は寒ブリの季節で、オーナーに頼めば冨山の寒ブリを取り寄せてもらうことも可能だと思うので、是非お試しいただきたい。

筆者も昨年訪問したときに寒ブリを食べたが、脂が乗って普通のブリとは全然味が違った。

平日なら一泊二食付きで、8,900円という一周年記念スペシャルレートもある。

近郊のパルコール嬬恋スキー場のリフト券は普通だと3,900円(平日)から4,300円(週末)するが、ヴィラR&Tのリフト券付きパックだと3,000円アップで、大変お得なので、スキーに行かれる人には是非おすすめする。



2007年11月15日再掲:


以前紹介した北軽井沢のファンタジックなプチホテルヴィラR&Tが、お得な一周年記念料金で宿泊できるので、再度ご紹介する。

11月から3月までの特別料金は、平日1泊2食付で8,900円/日・人で、クリスマスから正月シーズンでも1,000円アップで泊まれる。

11月1日からオープンしている人工雪で手軽な軽井沢プリンスのスキー場とか、もよりのスキー場がいくつかあるが、おすすめはパルコール嬬恋

ゴンドラも備えたスキー場で、リフトと違ってゴンドラなら風も受けず、寒い思いをしないで山頂に上がれ、途中きれいな樹氷も楽しめる。

コースは全長4.5KMで、下まで滑り降りるのに結構距離がある。

12月中なら通常4,300円の1日リフト券が、1,500円というお得なパッケージもプチホテルR&Tで利用可能だ。

軽井沢インターからプチホテルヴィラR&Tまで約1時間、都心から碓氷・軽井沢インターまで車で2時間半。新幹線でも行ける。

軽井沢ならスキーをしない人でも、プリンスのアウトレットモールとか、旧軽井沢の商店街、各種のミュージアムなど、いろいろ楽しめる。

ヴィラR&Tは食事も大変おいしく、手軽な旅行をお考えの方には、一周年記念パックのご利用を是非おすすめする。

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エルテ―幻想の世界を生きたアールデコの寵児 (六耀社アートビュウシリーズ)


アールデコの寵児と言われるエルテ(本名Romain de Tirtoff)をテーマにしたペンションを、友人が軽井沢に開いたので、エルテの作品集を読んでみた。

エルテの作品は、この本の表紙になっている「待つ女たち」など、幻想的で美しい女性を描いたものが中心で、まとまって紹介されている作品集を見たかった。

エルテはロシアの貴族階級に生まれ、父親はロシア海軍司令官だ。

代々ロシアの海軍高官の家族の出身だが、エルテ自身は海軍という男性らしい職業は忌み嫌っていた様だ。

当時のロシアの貴族階級はフランス語を話していた。エルテは8歳で1900年のパリ万博を見学して以来、フランス文化に惹かれていた。

1912年にエルテ20歳の時に、デザインの勉強のためにパリに移る。すぐにアールデコの大家ポール・ポワレに専属デザイナーとして雇われ、1915年からは"Vogue"と並ぶ世界的ファッション誌Harper's Bazar誌の表紙を22年間専属で描くことになる。

これがエルテの出世作となった。

アールデコの代表的アーティストとして版画やセリグラフの他、様々な劇の舞台衣装などもデザインする。

以前紹介した米国出身の黒人エンターテイナー、ジョセフィン・ベーカーがパリで活躍したのも、1925年からなので、ちょうどこの頃だ。

ヨーロッパが戦争に向かっている1930年代後半からは、アールデコは下火となり、エルテも1937年にHarper's Bazarの表紙画をやめることになる。

それから戦争をはさんで約30年間、アールデコとともにほとんど忘れ去られていたエルテが復活するのは、エルテが70歳となった1960年代だ。

一躍エルテを再度有名にしたのは、1967年から発表した数字やアルファベットを女性や動物などのポーズで美しく描いた作品だ。

アルファベットL

Erte L








エルテの作品が多く見られるインターネットのサイトは、Doubletake Gallary画廊のイメージライブラリーがおすすめだ。126点の作品が紹介されている。

日本だとギャラリーダッドアートというサイトで多くの作品が紹介されているが、ほとんどの作品が売却済みだ。手軽に買える点が人気を呼んでいるようだ。

エルテの作品は手軽に買える作品もあるが、筆者が気に入っている「自由の女神」は、レアもので、アメリカでも9,000ドル(100万円)である。

自由の女神 昼バージョン

Statue of Liberty Day2







自由の女神 夜バージョン

Statue of Liberty Night2








そのエルテをテーマにしたペンションが北軽井沢にある。

筆者の友人がやっているプチホテルヴィラR&Tだ。

エルテ作品を取り扱う横浜の画廊ARK COMでも、エルテの作品とともに、ヴィラR&Tが紹介されている。


客室が4室の小さなプチホテルだが、各部屋エルテの作品が飾られ、設備も高級感があふれ、リゾートの非日常感覚が満喫できる。そして、なによりもオーナー夫妻のホスピタリティが良い。

ヴィラR&T1







ヴィラR&Tの全景

ヴィラR&T2







ヴィラR&Tの玄関は美しいブルーの扉だ。

ヴィラR&T3







玄関を入ってすぐ、この本の表紙になっているエルテの「待つ女たち」に迎えられる。

ヴィラR&T4







庭ではブルーベリーも栽培していて、朝食には自家製のブルーベリージャムが出される。

ヴィラR&T5







室内にはエルテの作品が多く飾られ、ファンタジックな非日常感が味わえる。

ヴィラR&T6







庭の置物も凝っている。

ヴィラR&T7









ヴィラR&Tの”RT”はフランス語読みだとエルテだ。プチホテルの名前と、芸術家エルテの名前を掛けているのだ。

ランチとディナーもやっている。

青森県五戸(ごのへ)のシャモロック という鶏、富山から取り寄せる海の幸など、食材にこだわった食事も、大変美味しいうえに、価格がリーズナブル だ。

1泊2食付きで8,900円という冬季スペシャル料金もある。

筆者も昨年利用させて貰ったが、パルコール嬬恋スキーリゾートの”超”格安リフト券付きのパッケージもあるので、軽井沢に行かれる人、スキー好きな人には是非おすすめする。


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2009年06月24日

「エコノミック・アニマル」は褒め言葉だった 役に立つ英語のショートストーリー集

「エコノミック・アニマル」は褒め言葉だった―誤解と誤訳の近現代史 (新潮新書)「エコノミック・アニマル」は褒め言葉だった―誤解と誤訳の近現代史 (新潮新書)
著者:多賀 敏行
販売元:新潮社
発売日:2004-09
おすすめ度:4.5
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ケンブリッジ大学で法学の修士学位を持つ外交官で、東京都儀典長の多賀敏行さんの英語の本。

先日お目にかかる機会があったので、サインも頂いた。

多賀さんサイン






タイトルも含めて、次のような文を集めている。

第1章 「日本人は12歳」の真意

第2章 「エコノミック・アニマル」、「ウサギ小屋」は悪口か

第3章 アーネスト・サトウと山下将軍の無念

第4章 暗号電報誤読の悲劇 ー 日米開戦前夜

第5章 漱石の鬱屈、魯迅の感動

第6章 ダイアナ妃とブッシュ・シニアの文法

第7章 存在しない「グローバル・スタンダード」という言葉

第8章 ブッシュ・ジュニアの国連演説

第9章 騒動の中心はたったひとつの言葉

付録として1951年5月5日のマッカーサーの上院答弁の原文、1941年11月4日の日本の東郷外相から野村駐米大使宛ての電報(暗号が誤読された電報原文)、1979年のEC報告書(英語版)を紹介している。

「文藝春秋」などで公開された作品もあり、文学小品として大変興味深いものばかりだ。


マッカーサーの「日本人は12歳」発言

たとえばマッカーサーの「日本人は12歳」発言。筆者もマッカーサーが日本人のことを見くびった発言だとばかり思っていたが、この本の解説と原文を読むと、決して日本人をバカにした発言ではないことがわかる。

日本人をバカにした発言と思いこんでいる著名人の例が挙げられており、そのような評価につながった朝日新聞の報道や「天声人語」も紹介されている。

意に添わない受け止められ方をしてマッカーサーも残念だったことだろう。多賀さんも「あまりにも気の毒な感じがしてならない」と語っている。

マッカーサーの発言は、マッカーサーがトルーマン大統領に解任されて、帰国直後の1951年5月5日の上院の軍事・外交合同委員会の時のものだ。

ちなみにこの1ヶ月ほど前に、マッカーサーは上下両院議員を前に「老兵は死なず。ただ消え去るのみ」(Old soldiers never die; they just fade away.)という有名な言葉で締めくくった演説をしている。

日本の民主化の成功を得々と説明するマッカーサーが、つい「一旦自由を享受した国民が(平時に)自発的にその自由を手放したという事例は一つたりとも私は知りません。」と言い切ったのに対して、ロング議員が意地の悪い切り返しをした。

ロング委員はワイマールドイツの例を出し、一旦は民主化したのにファシズムに転換した例もあるではないかと鋭く突っ込んだので、とっさにマッカーサーが答えたのがこの発言だ。

ドイツやアングロサクソンは文化的にも45歳の成熟期といえ、ナチズムも国際道義を知っていながら侵略やホロコーストなどを確信犯的に犯したものだ。

これに対し日本は長い歴史がある民族ではあるが、社会の発達の度合いからも12歳の少年のように(they would be like a boy of 12)ナイーブで民主主義教育が可能だと言いたかったものだ。

多賀さんの総括の言葉を引用すると:

「日本人はドイツ人と異なり封建体制下でしか生きたことがなく、世界のことも十分知らず暮らしてきた。欧米の社会の発展の度合いでみると子供のようなものである。しかし子供であるからこそ、教育が可能だ。壮年期に確信犯として悪事を働いたドイツとは違う」ということを強調したかったのだろう。」

この本で紹介されている原文を読んでも、多賀さんの理解が正しいと思う。

ネガティブ発言として歴史に埋もれてしまったマッカーサー発言を、原典にまで遡って調査して、誤解を解消する多賀さんの地道な言論活動に敬意を表する次第である。

マッカーサーと、その良きカウンターパートの吉田茂も感謝していることだろう。


その他の話の要旨

詳しく紹介すると本を読んだときに興ざめとなるので、筆者の備忘録も兼ねて要旨だけ紹介しておく。


★「エコノミック・アニマル」、「ウサギ小屋」は悪口か
日本を「エコノミック・アニマル」と読んだのはパキスタンのブット元首相だが、多賀さんの外交官の先輩によるとブット氏は「自分は決して日本人を侮辱するつもりでエコノミック・アニマルと言ったのではないのに」と語っていたという。

ブット氏はUCバークレーとオックスフォード大学を卒業し、同大学で教鞭をとったこともあり、完璧なイギリス英語を話したが、この「○○アニマル」という云い方は、決して侮辱的ではないことが様々な根拠から論証されている。

★1979年のECの報告書に「日本人はウサギ小屋のような住居に住んでいる」と書かれたことを、フランス語の原文までたどって、決して侮辱的な意味ではなかったことをきっちり説明している。

フランス語では共同住宅のことを"cage a lapins"、と呼んでいるが、これは文字通り訳すと「ウサギ小屋」となるのだ。

★アーネスト・サトウと山下奉文(ともゆき)将軍の無念
アーネスト・サトウは幕末の日本を書いた「一外交官の見た明治維新」の著者として有名だ。アーネスト・サトウの話は、幕府との交渉の時に"The treaties"なのか"treaties"なのかで、あいまいに幕府側が説明したことにミスリードされたという話だ。定冠詞の有無で意味が全然異なる例である。

一外交官の見た明治維新〈上〉 (岩波文庫)一外交官の見た明治維新〈上〉 (岩波文庫)
著者:アーネスト サトウ
販売元:岩波書店
発売日:1960-01
おすすめ度:5.0
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山下奉文中将はシンガポール陥落の時の日本軍指揮官で、英軍パーシバル中将が降伏交渉でくどくどと条件交渉をはかったので、"Yes"か"No"かで答えを迫ったという話で有名だが、実はこれは通訳が悪かったのでしびれをきらしたのだという。

終戦の時、フィリピン方面軍総司令官の山下奉文大将の降伏調印式には捕虜収容所から出所したばかりのパーシバル中将がいたという。マッカーサーの報復である。

山下奉文―昭和の悲劇 (文春文庫)山下奉文―昭和の悲劇 (文春文庫)
著者:福田 和也
販売元:文藝春秋
発売日:2008-04-10
おすすめ度:4.0
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★暗号電報誤読の悲劇
太平洋戦争前からアメリカは日本の暗号を解読していて、ルーズベルト大統領は”マジック”と呼んでそれを読んでいたが、実は重要な部分に誤訳があってそれが日米交渉を終了に追い込んだ理由の一つになったという。

今度紹介する「真珠湾の真実」でも解読された日本の暗号文が数多く紹介されているが、この本では英文と和文が対照されているので、興味深くわかりやすい。

真珠湾の真実 ― ルーズベルト欺瞞の日々真珠湾の真実 ― ルーズベルト欺瞞の日々
著者:ロバート・B・スティネット
販売元:文藝春秋
発売日:2001-06-26
おすすめ度:3.0
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開戦当時、外務次官だった西春彦氏は「回想の日本外交」に、日米交渉の際に日本側が甲・乙両案を出したのに、アメリカ側は重大な譲歩を含む甲案に興味を示さなかったので不審に思ったことを書いている。

西氏が戦後、東京裁判の時に不思議に思って米国の暗号解読資料を読んでみると1941年11月4日の東郷外相から野村駐米大使宛の電報が、米国側に誤訳され、日本側は誠意がないと受け止められる内容となっていて、はじめて甲案に米国が反応を示さなかった原因がわかったという。

この傍受電報の誤訳が日米交渉が決裂した大きな原因の一つになったと思うと、西さんは、その晩は眠れなかったという。

回想の日本外交 (1965年) (岩波新書)回想の日本外交 (1965年) (岩波新書)
著者:西 春彦
販売元:岩波書店
発売日:1965
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★漱石の鬱屈(うっくつ)、魯迅の感動
ロンドン留学時代の夏目漱石が官費留学にもかかわらず金欠病で、海外生活不適応症候群となっていたのに対して、日本留学中の魯迅は「藤野先生」にも書かれている通り、大変熱心に指導を受け、文法の誤りも含めノートはすべて朱筆してもらったという。

阿Q正伝・藤野先生 (講談社文芸文庫)阿Q正伝・藤野先生 (講談社文芸文庫)
著者:魯迅
販売元:講談社
発売日:1998-05
おすすめ度:5.0
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多賀さんもケンブリッジ留学時代に教授から"I am slightly disappointed at your rather slow progress."という具合に「英国人的指導」を受け、それから論文を念入りに朱筆してもらって、有り難かったことや、英国での下宿生活の経験を書いている。

筆者もアルゼンチンで2年間、研修生として賄い付きの下宿で生活していたが、他に3人アルゼンチン人の同宿人がいた。

いまだに彼らとは文通しているが、土日(平日は朝・夕、土日は夕食はなかった)は彼らと一緒に食事したり、外出したりして楽しく過ごし、スペイン語漬けの生活を送ったので、帰国して社内スペイン語検定で1級が取れた。

同宿人はスペイン系アルゼンチン人とイタリア系アルゼンチン人だったが、一緒に町を歩くと、出会った若い女性には必ず声を掛けるので、閉口する部分もあったが、今から思えば楽しい思い出である。

多賀さんも書いているが、やはり良い下宿、良い環境で生活するというのは、語学を上達させる上で絶対に必要だと思う。


★ダイアナ妃とブッシュ・シニアの文法
湾岸戦争の時に、ブッシュ・シニアが「サダム・フセインがイラクからいなくなったらよかっただろうとは思う。これは超過去完了時制ですよ。」と言ったという。

原文では、"'Out of there' would be have been nice. This is ex-pluperfect past tense."と言ったという。「超過去完了」などなく、実際には仮定法過去だが、インテリらしく見せないブッシュ・シニア一流の切り返しだという。

ダイアナ妃は自分のことを"She won't go quietly"とインタビューで語り、強い女の一面をのぞかせた。


★存在しない「グローバル・スタンダード」という言葉 
よく「アメリカン・スタンダードはグローバル・スタンダードではない」という風に使われるが、これは和製英語のようだ。


★ブッシュ・ジュニアの国連演説
"We will work with the U.N. Security Council for the necessary resolutions"と最後が複数形になっているのは、フランスに配慮してのことだという。英語は奥が深い。


★騒動の中心はたったひとつの言葉
カナダのクレティエン首相の報道官がブッシュ大統領のことを"moron"と呼んで辞任。"moron"とはうすのろのことだ。その他"recalcitrant"とか難しい単語をめぐってのエピソードが紹介されている。


多賀さんの知性と教養があふれる英語のショートストーリー集である。楽しく読めてためになる。

簡単に読め、大変面白い本なので、是非手にとって見て欲しい。


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2009年06月19日

何で今、蟹工船ブームなの? プロレタリア文学をオーディオブックで聞く 

蟹工船・党生活者 (新潮文庫)蟹工船・党生活者 (新潮文庫)
著者:小林 多喜二
販売元:新潮社
発売日:1954-06
おすすめ度:4.0
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今なぜかベストセラーとなっているプロレタリア文学の代表作小林多喜二の「蟹工船」をオーディオブックで聞いた。

図書館でカセットを借りて、アナデジ転換ソフトでiTunesに取り込んで聞いたが、現在同じオーディオブックは売っていない様なので、アマゾンで載っている最近のものを紹介する。

[オーディオブックCD] 蟹工船[オーディオブックCD] 蟹工船
著者:小林 多喜二
販売元:パンローリング
発売日:2008-08-15
おすすめ度:4.0
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もう一つは低音の魅力の声優の若山弦蔵さんが吹き込んでいる。

蟹工船 (新潮CD)
著者:小林 多喜二
販売元:新潮社
発売日:2008-08-29
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筆者が聞いたオーディオブックは北海道帯広市出身の仁内達之さんが、吹き込んでおり、東北弁のセリフが本当にリアルで、労働歌なども良い。

アマゾンで売っているオーディオブックは聞いていないが、たぶん東北弁が話せる俳優が吹き込み、労働歌を歌わせていると思うので、本を読むよりも臨場感があって記憶に残ると思う。

ただ正直、本だったら最後まで読み通したかどうかわからない。それほど暗い内容で、読む者の気分を落ち込ませる。

小説のあらすじは筆者のポリシーとして詳しく紹介しないが、昭和初期、カムチャッカの海で蟹を捕っては缶詰に加工する、作業環境劣悪のいわゆる「たこ部屋」蟹工船を描いたものだ。

小説の中では、水産会社は儲かって、社長は代議士に立候補するほどいい生活をしているのに、労働者は最低の生活を強いられ、命の危険と隣り合わせの生活をしていることが描かれている。

老朽船の蟹工船が難破すると、むしろ保険料が入ってきて会社は儲かるので、SOSを聞いても助けに行かないごうつくばりの監督が労働者の敵として描かれている。

昭和初期の話だが、この本を読んで白洲次郎は戦前に日本水産の取締役を務めていたことを思い出した。白洲次郎はさしずめこの本で出てくる資産家の代表となるのだと思う。


余談になるが、筆者はロシアに2度出張したことがあり、毎回蟹缶詰をおみやげに買って帰った。

もう20年近く前の話だが、タラバガニの缶詰が5ドル程度だったと思う。

ロシアではキャビアも安いので(といってもワンオーダー30ドルくらいはしたが)、出張中は結構キャビアも食べていた。

ボルシチもおいしいし、アルゼンチンで”エンサラダ・ルサ”、ロシアンサラダというビーツ(赤大根)とポテトのサラダを本場で食べた。

ロシアの食事は安くておいしかった記憶がある。

もっともあれから20年近く経っているので、今やモスクワは車が増えすぎて飛行場に行くのもどれだけ時間が掛かるか読めないほどの大渋滞らしい。

閑話休題。

プロレタリア文学なので、資本家への反発が根本にあるが、ソ連に親近感を持っているのかどうかははっきりしない。

「赤化」という言葉が頻繁に出てきて、ソ連への好意と思えるところもあるし、工場監督の言葉ながら、「ロスケ」と呼んで共産主義をバカにした部分もある。

いずれにせよ、何で今、「蟹工船」がリバイバルしているのか、理由が分からない。

最後に労働者が立ち上がる場面があるが、それも単に集団サボタージュであり、別に労働者が良い労働条件を勝ち取る訳ではない。

蟹工船労働者の日常という以外に、ストーリーらしいストーリーはなく、気分が滅入るほど悲惨な蟹工船での労働者の生活を冷酷に描いた作品なので、あまりおすすめはしないが、話題の本という意味では一度読んでもよいかもしれない。

既に著作権が切れ、青空文庫で公開されているので、一度どんなものか、ざっと見る手もある。

テキストファイルと、XHTMLファイルの2種類があるが、XHTMLファイルの方が読みやすいと思う。


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2009年06月18日

コミュニケーションをデザインするための本 ガンバレ広告業界

コミュニケーションをデザインするための本 (電通選書)コミュニケーションをデザインするための本 (電通選書)
著者:岸 勇希
販売元:電通
発売日:2008-09-03
おすすめ度:4.5
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電通のカリスマ広告クリエーター杉山恒太郎さんが、先日のダイレクトマーケティングEXPOの基調講演で紹介されていたので読んでみた。

杉山さんといえばこのブログで紹介した「明日の広告」のさとなおさんの上司でもあり、サントリーのランボーとか数々のCMの名作で有名だ。

明日の広告 変化した消費者とコミュニケーションする方法 (アスキー新書 045)明日の広告 変化した消費者とコミュニケーションする方法 (アスキー新書 045)
著者:佐藤 尚之
販売元:アスキー
発売日:2008-01-10
おすすめ度:4.5
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広告理論については、「ホリスティック・コミュニケーション」という本で、伝統的なAIDMA(Attention Interest Desire Memory Action)に代わり、今はAISAS(Attention Interest Search Action Share)だと提唱している。

ホリスティック・コミュニケーション
著者:秋山 隆平
販売元:宣伝会議
発売日:2004-01
おすすめ度:3.5
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この本では電通の新進コミュニケーションデザイナーの岸勇希さん(新卒入社ではないが、2004年入社なので5年目!)が、将来に不安を感じている広告業界の人、広告クライアント、そして広告業界を目指す人のために自らのコミュニケーションデザイン作品を紹介している。

次の7例が取り上げられている。

CASE 1 永谷園 「ミス冷え知らず COLLECTION '08」

CASE 2 ワールド通商 「求ム、天才」

CASE 3 フマキラー 「一発命虫!バイラル・キャンペーン」

CASE 4 ロケットカンパニー 「漢字DS プロモーションキャンぺーン」

CASE 5 マリエール 「40人40色の恋愛模様」

CASE 6 メ〜テレ(名古屋テレビ) 「ウルフティッカー」配布キャンペーン

CASE 7 「新聞ブログ」開発プロジェクト


岸さんのブログにこれらの作品が紹介されている。


筆者はどれも知らなかったが、「ミス冷え知らず」は、冷え性の女性向けのカップスープで、OL予備軍の女子大学生をターゲットにキャンペーンを行った。

大学のキャンパスで、”タダコピ”という裏紙が広告となっている代わりに無料でコピーできる機械を大学に設置して、16大学のミスキャンパスの写真とサーモグラフィー写真を裏紙にして宣伝した。

そしてウェブサイトとモバイルサイトでは16人のミスを紹介した。

冷え知らず




冷え知らず2





現在はキャンペーンサイトは閉鎖されているが、CMをつくっているシーンがasahi.comで紹介されている。

さらにブロガーにサンプルを配って、ブログやSNSで紹介してくれるようにして盛り上げた。

結局期間中に目標売り上げの250%を達成し、期間中に100万食を売り上げたという。

その他いろいろなアイデアで消費者とのコミュニケーションを提案している。


電通は数年前から、自らの事業領域を「広告代理業」ではなく、「トータル・コミュニケーション・サービス」と定義しているという。

テレビや新聞などのマス広告の効果がどんどん落ちているので、広告業界もこれからは大変だろう。

若い広告マンの苦悩がわかる本である。

ガンバレ広告業界!


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2009年06月17日

日本は侵略国家ではない 田母神論文を収録

日本は「侵略国家」ではない!日本は「侵略国家」ではない!
著者:渡部 昇一
販売元:海竜社
発売日:2008-12
おすすめ度:3.5
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元航空自衛隊幕僚長田母神俊雄さんと、上智大学名誉教授渡部昇一さんの共著。

田母神さんは、昨年「日本は侵略国家であったのか」論文が、アパグループ代表、元谷外志雄さん主催の「真の近現代史観」論文コンテストで優勝したが、政府公式見解と異なる主張を公にした責任を問われて幕僚長を更迭された。

それからはマスコミにしばしば登場し、ひょうきんなキャラクターで人気となっている。

普通本を読む時には、著者の意見に同感できるか、新しい知識を得られないと良い本とは思わない。

その意味ではこの本はどちらも中途半端なので、おすすめはできないが、こんな意見の人もいて、たぶん主張には真実も含まれているのだろうとは思う。


信念の人 田母神さん

田母神さんは信念の人だと思う。

まだ現役だったころに中国に出張した時、日本は侵略国家だったという中国の軍人に対して、真っ向から日本は悪くないと反論したという。

それから日中防衛交流に影響が出る時期もあったが、しばらくしたら収まったという。


辞任の原因 村山談話からの乖離

平成7年の村山富市首相の、「戦後50年の終戦記念日にあたって」、いわゆる「村山談話」は次の通りだ。

「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。

私は、未来に過ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明致します。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。」

歴代首相は就任すると必ず、野党から「村山談話」を突きつけられ、踏襲するかどうか迫られる。まるで踏み絵だという。

麻生首相が「踏襲」(とうしゅう)を「ふしゅう」と読んでしまったため、マスコミの餌食になったが、麻生首相も例外ではなかった。


村山談話は言論弾圧の道具?

田母神さんは、前述の懸賞論文の件で航空幕僚長を解任された直後に、参議院の外交防衛委員会に参考人として招致された。

田母神さんの個人的な見解は封印され、文民統制違反としてやり玉に挙げられたという。

国会が終わったあと、田母神さんは「『村山談話』は原論弾圧の道具だ。自由な議論を追求することができないなら、日本は北朝鮮と同じだ」と記者に発言し、これまた火に油を注ぐ結果となる。


「日本は悪い国?」

「我が国は侵略国家であり、醜く悪い国」と表明する日本国とは、いったいどういう国なのかと田母神さんは語る。

田母神さんは、日本の戦後知識人が日本を「悪い国」にしたと語り、全面講和を主張した南原繁総長はスターリンの指示を受けて全面講和を貫いたとか、南原さんの後の矢内原忠雄総長は、戦前「神よ、日本を滅ぼしたまえ」という論文を書いており、一橋大学の都留重人名誉教授は、本物の共産党のスパイだったと言われているという。

こんな初めて聞く話がやたら出てくる。


日本のおわび外交は小和田恒さんから?

谷沢永一関西大学名誉教授は、日本がお詫び外交に変わったのは、昭和60年の皇太子妃雅子様の父君の小和田恒(ひさし)氏の、悪いのは日本だったという国会発言からだと語っていることを、渡部氏は紹介している。

国際司法裁判所所長の小和田恒氏は、東大の横田喜三郎教授(後に外務省顧問)の影響を受けているが、横田教授は、東京裁判を国際法上も有効で、アメリカの占領政策を擁護する発言をしていという。

前防衛大臣の石破茂氏は中国共産党系の新聞に、「靖国神社を参拝したこともないし、これからも絶対に参拝しない」、「大東亜戦争は日本の侵略戦争でした」、「南京大虐殺も事実です」などと答えており、売国的発言であると渡部氏は語る。

「日本は悪い国だった」と売国的発言をした当時現役防衛大臣の石破氏が追求されず、「日本はいい国だった」と正論を述べた田母神さんが更迭されるのは、どういうことだと。


航空自衛隊には最高の戦闘機が必要?

田母神さんの話で興味を惹くのは、「日本の航空自衛隊には、徹底的に世界最高の飛行機を与えなければなりません。そしてそれには、一番練度の高いパイロットがいなければなりません。空幕さえしっかりしていれば、敵は来ることができないのです。」という発言だ。

自衛隊は米国が機密が漏れるとして売りたがらないF−22が必要だと言いたいのだろう。以前も書いたが、いまさら人が飛行機に飛び乗って迎撃に行く時代なのだろうか?むしろミサイルや無人機・軍事衛星などの時代ではないのだろうか?

F-22






出典:Wikipedia

田母神さんは、戦前戦後を通じての航空のエース源田実さんの発言を引用して、零戦が勝てなくなって日本はダメになったので、終戦直前には最新鋭の「紫電改」を導入してアメリカ軍を苦しめたが、戦力集中でなく各地に戦力を散らばらせたので負けたのだと語っている。

ちなみに筆者は、ちばてつやさんのマンガ「紫電改のタカ」を子どもの頃読んでいたので、紫電改には親しみがあるが、実際は生産量も少なく、燃料も不足していたので到底戦局を変える力はなかったのが現実だ。

紫電改のタカ (4) (中公文庫―コミック版 (Cち1-4))紫電改のタカ (4) (中公文庫―コミック版 (Cち1-4))
著者:ちば てつや
販売元:中央公論新社
発売日:2006-07
クチコミを見る


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出典: Wikipedia


戦闘機さえ強ければ爆撃機は来られない。爆撃機が来られなければ、船も来られないのだと田母神さんは語っているが、およそあきれた話である。

第2次世界大戦は、石油確保とロジスティックス(兵站)が戦争に勝つための必須条件だという近代戦争の典型だと思う。

日本もドイツも戦闘機は残っていた。特にドイツは最新式のジェット戦闘機、ME262を2,000機以上も製造していたが、燃料が不足していたので、迎撃はおろかパイロットの訓練にも飛び立てず、連合軍の爆撃を許したのだ。

Messerschmitt_Me_262




出典: Wikipedia


紫電改も同じ事だ。全部で1,400機程度では数としても不足な上に、燃料がなくては、迎撃にも飛び立てない。


田母神論文

この本では問題になった田母神論文が原文で紹介されている。

渡部さんも書いているが、原稿用紙にすると18枚であり、これは論文ではなくエッセーである。

証拠も不十分で、言いっぱなしの感があり、論拠としてはきわめて薄弱と言わざるを得ない。

田母神論文の論点を抜き出すと。

★我が国は戦前中国大陸や朝鮮半島を侵略したと言われるが、実は日本軍のこれらの国に対する駐留は条約に基づいたものであることは意外に知られていない。

★日本は相手国の了承を得ないで一方的に軍を進めたことはない。(略)国際法上合法的に中国大陸に権益を得て、これを守るために条約に基づいて軍を配置したのである。

★この日本軍に対して蒋介石国民党は頻繁にテロ行為を繰り返す。邦人に対する大規模な暴行、惨殺事件も繰り返し発生する。(略)日本政府は辛抱強く和平を追求するが、その都度蒋介石に裏切られるのである。

★実は蒋介石はコミンテルンに動かされていた。(略)コミンテルンの目的は日本軍と国民党を戦わせ、両者を疲弊させ、最終的に毛沢東共産党に中国大陸を支配させることであった。

★我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者なのである。

★張作霖爆死事件もコミンテルンの仕業である。

★盧溝橋事件の仕掛け人は自分だと劉少奇自身が東京裁判中に語った。

★日本統治時代に満州の人口は1932年の3千万人が、1945年では5千万人、韓国は35年間で1千3百万人が、2千5百万人に倍増。日本統治時代は豊かで治安が良かった証拠である。

★朝鮮人出身の日本の将軍もいたし、朝鮮王室は日本の宮家となった。

★コミンテルンに動かされていたハリー・ホワイトがハル・ノートを書いた。

★日本はルーズベルトの仕掛けた罠にはまり真珠湾攻撃を決行した。

★日本があのとき大東亜戦争を戦わなければ、現在のような人種平等の世界が来るのがあと100年、200年遅れていたかもしれない。

★大東亜戦争を「あの愚劣な戦争」などという人がいる。戦争などしなくても今日の平和で豊かな社会が実現できたと思っているのだろう。

★今なお大東亜戦争で我が国の侵略がアジア諸国に耐え難い苦しみを与えたと思っている人が多い。しかし私たちは多くのアジア諸国が大東亜戦争を肯定的に評価していることを認識しておく必要がある。

★タイで、ビルマで、インドで、シンガポールで、インドネシアで、大東亜戦争を戦った日本の評価は高いのだ。そして日本軍に直接接していた人たちの多くは日本軍に高い評価を与え、日本軍を直接見ていない人たちが日本軍の残虐行為を吹聴している場合が多いことも知っておかなければならない。

★日本軍の軍紀が他国に比較して如何に厳正であったか多くの外国人の証言もある。我が国が侵略国家だったなどというのは正に濡れ衣である。

★日本は古い歴史と優れた伝統を持つ素晴らしい国なのだ。(略)嘘やねつ造は全く必要がない。個別事象に目を向ければ悪行と言われるものもあるだろう。それは現在の先進国の中でも暴行や殺人が起こるのと同じ事である。

★私たちは輝かしい日本の歴史を取り戻さなければならない。歴史を抹殺された国家は衰退の一途を辿るのみである。


「なんでもコミンテルン陰謀説」

それにしても田母神さんと渡部昇一さんの、いわば「なんでもコミンテルン陰謀説」には閉口する。

筆者が20年以上も前に当時はやっていた「なんでもユダヤ陰謀説」で大変な失敗をした経験があることは以前ブログで書いたが、今度は「なんでもコミンテルン陰謀説」である。

ユダヤが解ると世界が見えてくる―1990年「終年経済戦争」へのシナリオ (トクマブックス)
著者:宇野 正美
販売元:徳間書店
発売日:1986-05
おすすめ度:2.5
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米国政府財務省高官にハリー・ホワイトというコミンテルンのスパイがいたのかも知れないが、それにしてもコーデル・ハルは以前から対日強硬派の急先鋒で、強硬な対日要求を最終決定したのはルーズベルトである。

今度紹介する「真珠湾の真実」を読むと、たしかに日米開戦は厭戦気分が大勢を占めるアメリカ国民を戦争に向かわせるためにルーズベルトが仕掛けた疑いが強いと思う。

真珠湾の真実 ― ルーズベルト欺瞞の日々真珠湾の真実 ― ルーズベルト欺瞞の日々
著者:ロバート・B・スティネット
販売元:文藝春秋
発売日:2001-06-26
おすすめ度:3.0
クチコミを見る



しかし日米関係を決定的に悪化させたのは、1940年9月の日独伊三国同盟だと思う。

米国が全体主義国のドイツ・イタリアを敵国とみなし、民主主義を守るためとして英国に武器を「駆逐艦・基地協定」を結んで供給し、1941年3月からはロシア、それに中国の蒋介石政権にも最新兵器をレンンドリース法で無償貸与していたのは周知の事実であり、独伊と同盟を結べば、英国を支援する米国とどういう関係になるのかは自明の理である。


1986年頃、「なんでもユダヤ陰謀説」の本は、ベストセラーになったが、今回の「なんでもコミンテルン陰謀説」の本もよく売れているようだ。

歴史を判断するには、前後の動きと力学を大局的に見なければならない。一面の真実が含まれているのかもしれないが、この本については筆者はあえて「なんでもコミンテルン陰謀説」とレッテルを貼らせてもらう。


これでは決して歴史学のメインストリームとはなり得ないだろう。それでも興味ある人にのみおすすめする。



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2009年06月15日

ホームレス大学生 笑えて泣ける家庭の「解散」劇 お兄さん編

2009年6月15日追記:

ホームレス大学生ホームレス大学生
著者:田村 研一
販売元:ワニブックス
発売日:2008-10-09
おすすめ度:4.5
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ホームレス中学生で大ヒットした麒麟の田村君のお兄さん、田村研一さんの本。

ホームレス中学生と基本的には同じストーリーだが、お兄さんの目から見たホームレス生活のことを書いている。

田村君は「まきふん公園」だが、お兄さんとお姉さんは「たこ公園」だ。

田村君の本では兄弟がホームレス生活の後で、知人の好意で古家で一緒に生活できたことしか書いていないが、お兄さんの本ではどうやって生活費、家賃を工面したかが書いてある。

お兄さんは一家が「解散」した時には大学生だった。コンビニの深夜アルバイトで月12万円ほどの収入があったが、それだけでは3人が暮らすのは到底無理なので、「解散」後すぐに田村君は友達のところに行くと言って、実際には「まきふん公園」で、お兄さんとお姉さんは「たこ公園」でホームレス生活を始めた。

そして知人の好意で古家に兄弟3人で住めることになり、お兄さんは奨学金を受け、アルバイトし、お姉さんと田村君は生活保護を申請し、時にはアルバイトをして、なんとか家賃を工面した。

一時は毎日小遣い2,000円ということもあったが、生活保護がなくなると一日300円となった。このあたりは以下の田村君の「ホームレス中学生」に詳しい。

お兄さんはお父さんが蒸発したあと、家長として兄弟を支えたことがよくわかる。

お兄さんも吉本で芸人を目指したが、田村君がやはり芸人を目指すことになると、兄弟2人が芸人で、お姉さんの幼稚園教諭としての給料では3人生活できないとして、自分はきっぱり辞めた。

お兄さんのみが経験した話として、お父さんを追いかけていた借金取りに捕まり、怖い目にあったことが描かれている。

最後はテレビの企画で、逃亡していたお父さんが14年目に見つかり、お父さんが独りで住んでいる1DKを兄弟3人で訪問して、それから家族が一緒に暮らせるようになったことを書いている。

今や田村君は売れっ子芸人、妹さんは幼稚園教諭となって結婚し、あとは長男として弟妹をひっぱってきたお兄さんが自分の生き方を見つける番だ。

そんな将来の道を見つける決心をするための今回の出版かも知れない。

ホームレス中学生と同じストーリーながら楽しく読めた。


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2009年06月09日

南原繁の言葉 東大の8月15日

南原繁の言葉―8月15日・憲法・学問の自由南原繁の言葉―8月15日・憲法・学問の自由
著者:立花 隆
販売元:東京大学出版会
発売日:2007-02
おすすめ度:5.0
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「天皇と東大」という長編作品を書いた立花隆さんが中心になって、2006年8月15日に開催した「八月十五日と南原繁を語る会」の記録。

天皇と東大 大日本帝国の生と死 上天皇と東大 大日本帝国の生と死 上
著者:立花 隆
販売元:文藝春秋
発売日:2005-12-10
おすすめ度:4.5
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南原繁さんは、内村鑑三新渡戸稲造の薫陶を受けた政治学者で、戦後すぐに最後の東京帝国大学総長に就任、貴族院議員も兼任した。

総長在任は1945年12月から1951年の間なので、旧制東京帝国大学の最後の総長で、1947年からは新制東京大学の最初の総長でもある。

南原繁さんの出身校の香川県の三本松高校のホームページに、南原繁さんの年譜が紹介されている。


「八月十五日と南原繁を語る会」については、安藤義信さんという方のホームページで詳しくレポートされているので、紹介しておく。

南原繁を語る会





出典:安藤義信さんのホームページ

安藤さんという方は昭和33年の東大の卒業生だ。


このブログでは立花さんの「滅び行く国家」のあらすじを紹介しているので、立花さんが「天皇と東大」という上下1,500ページもの大作を出しているのは知っていた。

滅びゆく国家 日本はどこへ向かうのか滅びゆく国家 日本はどこへ向かうのか
著者:立花 隆
販売元:日経BP社
発売日:2006-04-13
おすすめ度:3.5
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立花さんが「天皇と東大」を書いた理由

立花さんが「天皇と東大」を書いた理由は、日本の近現代史を通じて”天皇という存在”と、”国民の側の天皇観”が社会を動かした「影の主人公」で、その天皇観をめぐる大きなドラマの中心舞台が東大だったからだと。

そのドラマの中で最も大きかったものは昭和10年(1935年)の「天皇機関説」問題だった。

「天皇機関説問題」とそれに続く「国体明徴運動」は、一種の無血クーデターで、当時の日本社会のありかたを根本的に変えてしまった。それをきっかけに、昭和十一年2.26事件が起こり、翌昭和十二年廬溝橋事件が起こり、日本は暴走過程に入っていった。

なぜ日本があれほどバカな戦争に突入してしまったのかの理由、国民感情のうねりのようなものの転回点とその背景、大転回のプロセスを知りたくて「天皇と東大」を書いたのだと。

「天皇と東大」を書いていくうちに、立花さんはその転回点が「天皇機関説問題」だったことがわかったのだと。

憲法学者美濃部達吉博士の「天皇機関説」は大正時代は主流の学説だった。ところが、貴族院を中心に急に「天皇機関説問題」が持ち上げり、反国体思想の元凶とされて、著書は発禁になり、美濃部博士は貴族院議員を辞任し、ついには右翼テロリストの銃弾を浴びることになった。

世の中が変わるときは、一挙に変わる。

立花さんは、もしかしたら似たような国民感情の大転回が現在の日本でも起きつつあるのではないかと危惧しており、それがこの「八月十五日と南原繁を語る会」を開催した心理的背景だと語る。


「八月十五日と南原繁を語る会」

前出の安藤義信さんのホームページで紹介されている当日のプログラムは次の通りだ。

南原繁プログラム





出典:安藤義信さんのホームページ

最初の二人、石坂公成さん(ライホイヤアレルギー免疫研究所名誉所長)、細谷憲政さん(東大名誉教授、人間栄養学)は、医学部出身。医学部は軍医養成ということで、学徒出陣の対象外だったので、南原繁さんが総長に就任してから毎月のように学生に対して「国を廃墟から復興させるものは学問と教育しかないのだ」と呼びかけていた言葉を現場で聞いている証言者だ。

細谷さんは、米国に2回滞在しているが、そのとき聞いた興味深い話を紹介している。

2度目に滞在したヴァージニア大学法科大学院は占領政策研究のメッカということで、教授数名から日本の占領政策は成功であったと評価されていると聞いたという。

なにせ脱脂粉乳やパン食など日本人の食生活を変えてしまったにもかかわらず、日本の一般国民からは感謝されたからだと。

また米国の占領政策は日本の歴史から学んだものだと言っていたという。

天皇家は渡来人であり、少数派の彼らが多数派の在来人に対してどのように対処していったのかを米国は研究したところ、統治の基本は栄養政策だとわかり、占領政策も栄養問題を柱にしたという。

天皇家に限らず、日本人はどこからかの渡来人の子孫のはずで、ことさら”渡来人”という征服者のように考える学説があるのかどうか知らないが、面白い見方である。


元法学部長石井紫郎さんは当時の東大事務局長の息子

次に元法学部長の石井紫郎さんが、南原繁総長時代に東大の事務局長だったお父さんの石井勗(つもむ)さんの著書「東大とともに50年」や、お父さんから聞いた東大の接収計画について語っている。

東大とともに五十年 (1978年)
著者:石井 勗
販売元:原書房
発売日:1978-04
クチコミを見る


最初は昭和20年7月の東部軍管区の東大接収計画で、隅田川、荒川を堰(せ)き止めて、米軍が本土上陸してきたら一挙に堰を開放して東京の下町を水浸しにして米軍をおぼれさせる計画で、そうすると上野・東大あたりが海岸線となるので、ここの「帝都防衛司令部」を設置したいという申し出だったそうだ。

次はGHQで、総司令部として東大に白羽の矢を立てているという話で、下見後、「終戦連絡事務局」を経由して申し出があった。

東大7教授の終戦工作にも参加し、アメリカに人脈を持つ高木八尺(やさか)教授などを介して押し返したところ、「日本最高の学部である東大を尊重し、接収しない」と返事があり、結局GHQは皇居前の第一生命ビルを接収した。

余談になるが、筆者は石井紫郎教授の日本近代法制史の授業を受けたことがある。当時石井さんは新進気鋭の教授で長身のすらりとしたハンサムガイだった。


「曲学阿世」論争

吉田茂と南原繁の両方を知る辻井喬(堤清二さん)が吉田茂の「曲学阿世」批判について一文寄せている。

「吉田茂 ポピュリズムに背を向けて」で紹介した通り、1950年日本が全面講和をめざすか、それとも西側だけとの講和を目指すべきかの議論が活発になったときに、吉田茂総理は、南原繁総長の全面講和論を「曲学阿世」と非難したのだ。

朝鮮戦争が起こる1ヶ月ほど前で、このときマッカーサーは「共産党は侵略の手先」と呼んで、共産党の非合法化を示唆したばかりで、日本の占領政策が逆コースに動くタイミングだった。

南原繁総長は、吉田発言を批判し、次のように語った。

「私に曲学阿世の徒という極印を押したが、これは満州事変以来、軍部とその一派が、美濃部博士をはじめ多くの学者に対して常用したもので、学問の冒涜、学者に対する権力的弾圧である。私が国際情勢をしらないと吉田首相は言うが、それは官僚的独善である。

「現実と理想を融合させるために、英知と努力を傾けるのが政治家の任務であるのに、全面講和と永世中立を空理空論ときめつけるところに日本民主政治の危機がある。」

吉田茂から再批判はなく、この論争はこれで終わった。

辻井さんは吉田茂、南原繁両方を知っているが、吉田茂は魅力のある人間だったが、敵対する相手への無愛想は極めつけだったという。一方南原総長は謹厳そのもで、相手の意見が自分と違っていても態度は変わらなかったという。

これは筆者の考えだが、結果論ではあるが、結局南原さんの主張した全面講和の道を選ばず、ソ連との講和条約を今の今に至るまで締結しなかったことが、現在の日本の国際的地位及び経済状況を決定づけていると思う。

この吉田ー南原論争の2ヶ月後に朝鮮戦争が始まっているので、吉田茂の西側との講和を優先するというのは、正しい選択だろうが、吉田茂もまさかサンフランシスコ講和条約締結から50年たってもロシア(旧ソ連)との平和条約が結ばれないという事態は想像もしていなかったと思う。

今年5月のプーチン首相の露払い来日もあり、メドべージェフ大統領の7月来日の機会を利用して、平和条約を締結してシベリアそして地球温暖化を利用した北極圏の経済開発に日本の活路を見いだ方向性を示すべきではないかと思う。


南原繁の言葉

この本に収録されている言葉は、南原さんが法学部長として終戦直前の1945年4月に入学式で語った「学徒の使命」と、終戦直後の1945年9月に同じ題で学生に呼びかけた同じタイトルの「学徒の使命」。

東京帝国大学総長に就任する直前の1945年11月、復員学生を歓迎する式での「新日本の建設」、そして翌1946年2月建国記念日の「新日本文化の創造」が第1部で取り上げられている。

次に第2部としては1946年3月の「戦没学生を弔う」、同じテーマの1963年12月の「戦没学生の遺産を嗣ぐもの」、1957年4月の著書「文化と国家」の序文、1946年9月の「祖国を興すもの」。憲法に関しては1946年11月の「新憲法発布」と1962年1月の「第9条の問題」が収録されている。

実に印象的な言葉が多い。


終戦直前の入学式での言葉

たとえば1945年4月の終戦直前の入学式での法学部長としての言葉だ。

戦時下でいつ最後となるかもしれない授業だが、大学や教授陣に何か「異常なもの」を期待してはならない。

われわれは特殊な「精神教育」をするものではなく、淡々と平常と変わりなく学問に従事する。燃えるが如く情熱を湛(たた)えつつ、それを抑制して学的作業に沈潜するところに、学徒の任務があるのだと。

「勝利は単なる『必勝の信念』によってもたらされるものでなく、必ずやそうした文化および自然にわたり、近代科学の知性に裏付けられてはじめてこれを獲得することができるであろう。」

この冷静な発言に続いて、法学部生は単に六法全書に取り組むだけではなく、「教養」を身につけろと訴える。

教養の核心は知性をもってする人間本質の展開または人間個性の開発にある。

事物を知るということは、それを通して自己を知ることであり、ソクラテスが「汝自身を知れ」と言ったのは、この意味で真理をついていると南原さんは語る。

3月10日の東京大空襲の後、ほとんど焼け野原になった東京で、毎日の空襲で明日をも知れない状況のなかで、実に冷静で教育者としての信念がこもった発言である。


終戦直後の言葉

終戦直後の1945年9月1日の言葉は、状況変化をふまえ、かつ学問の基本を押さえた発言となっているのが印象的だ。

「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」を目指すのではなく、勝敗を超えて列国と協力、進んで世界平和の建設に積極的に寄与すべきであり、それが天皇の終戦詔勅の「万世の為に太平を開かんと欲す」の聖旨であると。

原子爆弾ができた以上、戦争の再発を防止し、人類を滅亡から救うのは、世界の理性と良心に基づく公正な世論と組織に求める他に道はない。

そして旧来の我が国の大陸政策なるものを捨て、中国の近代国家の統一の達成に協力しなければならない。

両国の真の協力なくして東亜の安定と世界の平和は達成できないのだとまで言っている。

それを達成するためにも、猜疑と敵意を棄てて、人間としての信頼と尊敬を勝ち得るために、教養をつける。自己自身を絶えず内面的に向上し、純化する人間として自らを形成することが、教養の意義であると。

さらに戦いに倒れた護国の英魂も、我らとともにあり、これからの新たな戦いを祝福し、響導するであろうと。

まさに終戦直後の学徒を鼓舞し、日本の再建に向かわせる原動力を抱かせる印象的で力強い言葉である。


アカデミック・フリーダム

1945年11月の帰還学生歓迎会や、1946年2月、敗戦後最初の紀元節(建国記念日)では、学問の自由、アカデミック・フリーダムについて語っている。

これが憲法第23条の”学問の自由はこれを保障する”という条文に現れている。ちなみに憲法第23条の英語訳は"Academic freedom is guaranteed"だ。

憲法の権威、宮沢俊義さんの解説書、「コンメンタール日本国憲法」によると、「本条は、学問の自由を保障する。かつて滝川事件(1933年)や天皇機関説事件(1935年)のような学問の自由を否認する事件の再発を防ぐ趣旨である」と解説させている。

東大の総長経験者の佐々木毅さんによると、東大の総長になると「歴代総長演説集」が与えられるという。これを読んで自分の挨拶を考えろという意味なのだと。

南原さんの言葉は、これからも東大総長の挨拶の中で繰り返し引用されることだろう。


南原繁と靖国問題

ちょうど2006年8月15日は小泉元総理が総理退任前に現役総理大臣として靖国神社に参拝した日なので、「南原繁と靖国問題」というテーマの講演も含まれているが、南原繁の発言や著作には靖国神社に直接言及したものはなかったという。

南原繁の言葉の後半では、1946年3月の戦没並びに殉職者慰霊祭のときの「戦没学徒を弔う」や、9月の戦後最初の卒業式の挨拶、1946年11月3日の新憲法発布の時の言葉などが収録されている。


立花さんの解説

この本のところどころに立花隆さんの解説が織り込まれている。

たとえば終戦後すぐは東大を卒業しても就職口がない時代だったので、「諸君、われわれを取り囲む環境がいかに苛酷であろうと(略)、諸君は真理に対する確信を失うことなく、どこまでも自らの精神と魂をもった人間となれ!かような人間と人間性理想こそが祖国を興すものとなり…。」と語っていることを、紹介している。

また憲法9条の問題については、政治学の世界では無抵抗主義は成り立たない。国際連合に加盟したら、いずれは国際警察的な組織の一員として参加し、寄与する義務を免れることはできないだろうと語っていることが引用されている。

この本を通して立花隆さんの南原繁さんへの熱い思いが伝わってくる。

たしかに今読み直すと、まさにそのときの時代を反映していながらも、軸がぶれない姿勢は尊敬すべきだと思う。

単に歴史的な言葉として読むのでなく、今でも通用する自警の言葉として筆者も味わった。

南原さんの3代後の大河内一男総長は東大の卒業式で「太った豚より痩せたソクラテスになれ」と訓示したが、まさに南原さんは日本のソクラテスのような人だったと思う。

内容的にはちょっと堅いところがあるが、是非一度図書館などでパラパラとめくってみて欲しい本である。


参考になれば投票ボタンをクリックして頂きたい。


  
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2009年06月03日

幕末史 半藤一利さんの”賊軍的幕末史”

幕末史幕末史
著者:半藤 一利
販売元:新潮社
発売日:2008-12
おすすめ度:5.0
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歴史小説で数々の名作を書いている半藤一利さんの”賊軍的幕末史”。

このブログでは半藤さんの「ノモンハンの夏」を紹介したが、「日本のいちばん長い日」も読んだので、これも近々紹介する。

ノモンハンの夏ノモンハンの夏
著者:半藤 一利
販売元:文藝春秋
発売日:1998-04
おすすめ度:4.5
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「日本の一番長い日」というと、大宅壮一さんの作品だと思っていたが、実は当時文藝春秋の編集部次長だった半藤さんが書いたものを、事情があって大宅壮一編として発表したものだという。

決定版 日本のいちばん長い日 (文春文庫)決定版 日本のいちばん長い日 (文春文庫)
著者:半藤 一利
販売元:文藝春秋
発売日:2006-07
おすすめ度:5.0
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賊軍史観の幕末史

半藤さんは東京の生まれだが、お父さんの出身地の新潟県、旧長岡藩に毎年夏、からだを鍛えるために送り込まれて、おばあさんから”賊軍”史観を教わったという。

学校で教えている日本近代史は”薩長史観”に基づくもので、長岡藩のような”賊軍”から見れば、薩長はそもそも泥棒で、長岡藩に無理矢理けんかをしかけて、7万4千石のうち5万石を奪い取ったのだと。

だから東京生まれの夏目漱石、芥川龍之介、永井荷風などが”維新”と呼ばず、徳川家の”瓦解”と呼ぶのに、快哉(かいさい)を叫んでいたという。

そもそも明治初期は一般的に”維新”とは呼ばれず、”御一新”で通していたという。

革命で徳川家を倒したものの、当時の民衆は薩長で収まるとは思っていなかったようで、次のような狂歌もあるという。

「上からは明治だなどといふけれど、治まるめい(明)と下からは読む」

司馬遼太郎さんも「幕末にぎりぎりの段階で薩長というのはほとんど暴力であった」と書いているそうだが、半藤さんもその見方に同感で、「西郷は毛沢東と同じ」、「坂本龍馬には独創的なものはない」という見方をしているという。


慶應大学の特別講座

この本は慶應大学丸の内キャンパスの特別講座として2008年3月から7月まで、12回にわたって開催された講義をまとめたもので、漫談調で語っている。

慶應大学で講義していながら、福沢諭吉の著書を紹介するのに”あまり好きではない福沢諭吉”と付け加えていることからも分かるとおり、言いたい放題の講義で面白い。

半藤さんは1930年(昭和5年生まれ)なので、78歳だったはずだが、記憶力も含めて全く衰えるところが見られないのはさすがだ。

この本は1853年のペリー来訪から始まって、安政の大獄、和宮降嫁と公武合体、攘夷論、蛤御門の変、龍馬がフィクサーとなった薩長連合、大政奉還、江戸城の無血開城、五ヶ条のご誓文、版籍奉還・廃藩置県、国民皆兵、征韓論と西南戦争、そして1878年の大久保利通暗殺と参謀本部の設立でまで描いている。

「吉田茂 ポピュリズムに背を向けて」で著者の北康利さんも言っていたが、筆者の高校時代の日本史の授業では、昭和史は受験に出ないということで、自習にまわされていた。

一方幕末、明治の近代史は高校の日本史の授業でしっかり勉強したので、大きな流れはわかっているため、登場人物の細かい動きがわかって面白い。


なぜ幕末史が明治十一年の参謀本部設立で終わっているのか?

なぜ幕末史が山県有朋と桂太郎(当時は中佐)による明治十一年の参謀本部の設立で終わっているかは、半藤さんの考えがあってのことだろうが、半藤さんが最後に次のように述べて強調しているところから推測できると思う。

「芯から政略家である山県と桂のコンビのまことに巧妙な計画によって、軍隊指揮権ははやくも一人歩きをはじめたのです。

ですから明治二十二年に憲法ができたとき、すでに統帥権は独立していましたから、軍隊にかんする憲法の条項はたったの二条しかありません。

よろしいですか、国の基本骨格ができる前に、日本は軍事優先国家の道を選択していたのですよ。」

これと呼応するのが、半藤さんの「日本のいちばん長い日」に書かれている阿南惟幾陸相の自刃の時の遺言である。日本陸軍最後の大臣となった阿南陸相は「一死を以て大罪を謝し奉る」と書き残している。

その「大罪」について半藤さんは、阿南陸相の義理の息子の竹下中佐に次のように語らせている。

「大罪について私は特に大臣に質問はいたしませんでしたが、おそらくは、満州事変以後、国家を領導し、大東亜戦争に入り、ついに今日の事態におとしいれた過去および現在の陸軍の行為にかんし、全陸軍を代表してお詫び申し上げたのだろうと思います。」

半藤さんはつづけて:

「敗戦の罪はすべて陸軍が背負うべきであろう。統帥権の独立を呼号し、政治を無視し、自分の意のままに事後承諾の形であらゆることを遂行してきた陸軍こそ、罰せられてしかるべきなのであろう」

と書いている。

つまりこの幕末史の終わりで紹介されている参謀本部の設立から始まった軍事優先国家の終末が、「日本のいちばん長い日」なのだ。


孝明天皇と幕府

近々紹介する「皇族たちの真実」の著者の竹田恒泰さんは、孝明天皇の研究家だそうだが、明治天皇の父で和宮の兄、孝明天皇はこの本では超攘夷論者として描かれている。

語られなかった皇族たちの真実-若き末裔が初めて明かす「皇室が2000年続いた理由」語られなかった皇族たちの真実-若き末裔が初めて明かす「皇室が2000年続いた理由」
著者:竹田 恒泰
販売元:小学館
発売日:2005-12
おすすめ度:4.0
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幕府が諸外国との間で結んだ修好通商条約などに従って兵庫の開港が必要となり、徳川慶喜が上洛し、孝明天皇の裁可を求める。孝明天皇は外国人嫌いだが、皇統と国民のためということで、条約を裁可する。太平洋戦争終結時の昭和天皇も、皇統と国民のためと言われていたのと同じなところが皇室の同一性を物語っている。

先日終了したNHKの大河ドラマで一躍有名になった篤姫は孝明天皇の妹の和宮が嫁した徳川家茂の養母で、大奥を支配し、勝海舟の勧める江戸城の無血開城を支援した。


勝海舟や坂本龍馬が活躍した時代

この時代は桜田門外の変や坂本龍馬の暗殺などで代表されるように、テロが頻繁に起こっており、多くの人がテロに倒れている。

鎖国とはいえ、オランダと通商は続けていたので、幕府も案外世界の情報を入手していて、ペリーが来訪したがっているという情報もオランダ経由入手していたという。

勝海舟は神戸操練場をつくり、坂本龍馬を塾頭に採用する。西郷は勝の噂を聞き、神戸まで出向いて面談している。

その後龍馬は西郷に会いに行き、「西郷という奴は、わからぬ奴だ。少しく叩けば、少しく響き、大きく叩けば大きく響く」と勝に報告したことは有名だ。

1866年、龍馬の仲介で、桂小五郎と西郷隆盛の間で薩長同盟が成立する。長州は、長崎のグラバー商会を通じて元込め銃やアームストロング砲など最新兵器を購入し、幕府軍より優秀な武器を揃える。

ちなみにグラバーはジャーディンマセソン商会の長崎代理店を長くつとめた。吉田茂の父の吉田健三は、同じくジャーディンマセソン商会の横浜支配人で、若くして亡くなったので、吉田茂に莫大な財産を残したことは、北康利さんの「吉田茂 ポピュリズムに背を向けて」のあらすじで紹介した通りだ、

吉田茂 ポピュリズムに背を向けて吉田茂 ポピュリズムに背を向けて
著者:北 康利
販売元:講談社
発売日:2009-04-21
おすすめ度:4.5
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勝海舟は、西軍が江戸に進撃してきたら、ナポレオンのモスクワ進軍の時のように、江戸に火をつけて西軍を焼き殺し、慶喜は英国に亡命するという計画を英国パークス公使と話していたという。


薩長支配という現実

賊軍出身者は陸軍、海軍でも差別され、終戦の時の首相の鈴木貫太郎も賊軍出身ということで、差別を受けて3度も海軍をやめようと思ったという。

例として明治30年の陸軍中将の出身を挙げている。長州12人、薩摩13人、土佐2人、福岡4人、東京1名で、陸軍大将は全員長州出身だという。

「歴代首相 知れば知るほど」のあらすじで紹介した通り、歴代首相も薩長出身者のオンパレードだ。

歴代首相 (知れば知るほど)歴代首相 (知れば知るほど)
著者:小林 弘忠
販売元:実業之日本社
発売日:2008-02-01
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参考になるエピソードが満載

明治政府が成立してすぐの1871年に、岩倉具視を団長として、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文を含めた総勢46人の欧米視察団を派遣し、これに留学生42名も同行する。こうのうち5名が女子留学生で、津田塾大学創設者の津田梅子さんも入っている。

海外の進んだ技術を取り入れるために、政府のトップみずから進んで外国を視察し、どん欲に吸収していったことがわかる。

西郷は征韓論に負けたこともあって、権力闘争に嫌気がさして、鹿児島に帰る。そして不平士族に祭り上げられ、西南戦争を起こし、敗北して自ら命を絶つ。

山県有朋は陸軍の参謀本部を創設し、陸軍卿を西郷従道にゆずり、みずから参謀本部長に就任している。これで統帥権の独立が達成された。

半藤さんは明治政府はビジョンもなにもなく始まったと評しているが、筆者には5ヶ条のご誓文といい、国民皆兵で富国強兵をスローガンに欧米諸国に肩を並べる国際的地位を目指したことといい、廃藩置県、学制公布、徴兵制、地租改正、廃刀令など、時宜にあった政策を打ち出していることは高く評価できると思う。

その意味では筆者は司馬遼太郎さんの様な明治礼賛とまではいかないが、幕末・明治時代の人物には興味を惹かれる。

半藤さんは、靖国神社は戊辰戦争の死者をまつることから始まったが、逆軍の東軍の死者は一人として祀られておらず不条理だと訴えている。靖国神社には戊辰戦争以来の戦死者が祀られているという話を聞いていたが、幕府軍の戦死者は祀られていないとは初めて知った。

全体を通して半藤さんが言うほど”賊軍史観”だとは思わない。

面白い事実が満載の楽しい読み物である。

是非一読をおすすめする。


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Posted by yaori at 22:40Comments(0)TrackBack(0)

2009年06月01日

報道されない近現代史 田母神論文を選んだアパグループCEOの本

報道されない近現代史―戦後歴史は核を廻る鬩ぎ合い報道されない近現代史―戦後歴史は核を廻る鬩ぎ合い
著者:元谷 外志雄
販売元:産経新聞出版
発売日:2008-04
おすすめ度:4.5
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渡部昇一さんの本で紹介されていたアパグループCEOの元谷外志雄さんの本。

アパグループは昨年田母神元航空幕僚長が書いた「日本は侵略国家であったのか」を最優秀に選んだ「真の近現代史観」懸賞論文の主催社で、田母神さんが辞める直接の原因となったことは記憶に新しい。

本の帯に佐藤優氏が絶賛と書いてあり、佐藤さんの写真まで載っているが、推薦の言葉などは書かれていない。

アントニオ猪木と一緒にキューバのカストロ議長に会ったり、台湾の李登輝元総統、韓国の金泳三元大統領、モンゴル大統領、森喜朗元首相などと対談するなど、その交友範囲は一介の経営者の域を超えている。なにやら得体の知れない人だ。


報道されない真実

次のような真相が明かされたと語っている。

*北朝鮮の金正日は核武装主義者で、父の金日成が1994年のカーター元大統領との面談後、核開発断念に傾いていたので、父を排除して(正式には心筋梗塞で死亡したことになっている)トップの座に着いた。

昨今の北朝鮮の核実験や連続ミサイル発射実験など、核武装主義者の金正日であれば、さもありなんと思う。

*江沢民は中国の説得にも応ぜず核開発を続けた金正日を暗殺しようとして2004年龍川駅で列車を爆発させたが失敗し、表舞台から去った。

*北朝鮮は10発程度の核爆弾を保有しているとみられ、一旦手にした核は絶対に手放さない。

*アメリカの核開発は1939年アインシュタインがドイツが核兵器を開発するおそれがあるので、アメリカも急ぐべきだという書簡をルーズベルト大統領に送ったことがきっかけ。

核分裂を1938年に発見したオットー・ハーンや、物理学の最高権威だったハイゼンベルグがドイツにいたからだが、戦後ハイゼンベルグはヒトラーの手に原爆がわたったときの結果を憂慮して、原爆開発を遅らせたことがわかった。

アインシュタインは「このことがわかっていれば、アメリカに原爆を作らせようなどとはしなかった」と自らの行動を深く後悔していたという。

*ソ連の核兵器開発がアメリカに遅れることわずか四年で完成したのは、アメリカの核独占を憂慮した科学者が、アメリカが核兵器を使えないようにソ連にも核兵器を持たせるために技術をリークした。死刑となったローゼンバーグ夫妻が情報を流したという。

*ハルノートはソ連の謀略だった。ハルノートは元々ハルの穏健案と、ハリー・ホワイト財務省次官補が作成した強硬案の2つあり、ルーズベルトは強硬案を採用した。

戦後ハリー・ホワイトは、1948年にソ連(コミンテルン)のスパイだった疑惑が米国下院で暴露された直後、不可解な死を遂げる。最近公開されたソ連暗号解読史料「ベノナファイル」によって、ホワイトがソ連のスパイであることが明らかになった。

*「真珠湾の真実」で明かされたとおり、ルーズベルトは1941年11月末には日本艦隊が択捉島に集結していたことをつかんで、奇襲を予測していた。しかし欧州戦争には参戦しないと公約して選挙に勝ったために、アメリカを参戦に導くためにあえて日本の奇襲攻撃を利用した。

真珠湾の真実 ― ルーズベルト欺瞞の日々真珠湾の真実 ― ルーズベルト欺瞞の日々
著者:ロバート・B・スティネット
販売元:文藝春秋
発売日:2001-06-26
おすすめ度:3.0
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*韓国では有害図書の指定を受けている「親日派のための弁明」によると、韓国人の半日感情が強いのは、米国の意図によるものだ。

1910年の日韓併合以来、朝鮮の人口は30数年で一千万人から倍となり、未開の農業社会だった朝鮮が、日本からのインフラ投資により短期間のうちに近代的な資本主義社会へと変貌し、特に教育投資が重視された。

親日派のための弁明親日派のための弁明
著者:金 完燮
販売元:草思社
発売日:2002-07
おすすめ度:4.0
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*アメリカはユダヤ人が支配している。主なメディアや金融機関はユダヤ系だ。共和党がキリスト教政党なので、ユダヤ人は民主党寄りである。


ニュークリアシェアリング

この本で参考になったことはニュークリアシェアリングという考えだ。アメリカはNATO加盟国のドイツ、ベルギー、イタリア、オランダ、トルコに、戦時にはアメリカの核兵器を使えるというオプションを与えるというものだ。これによって核の拡散を防止しながら、バランスオブパワーを維持するというものだ。

元谷さんも言っているが、ニュークリアシェアリングについては日本のマスコミは一切報道していない。田母神論文ではこのニュークリアシェアリングを主張しているという。

日本に適するのかどうかわからないが、少なくとも自前の核兵器を開発して、2流の核保有国になるよりは、よほど妥当な考え方ではないかと思う。

特に北朝鮮が核兵器保有を切り札に難局を乗り切ろうとしている現状では、たとえば韓国と日本がアメリカとニュークリアシェアリングを導入するとかは実際検討すべきアイデアだと思う。

北朝鮮に対抗上、韓国も日本も独自に核兵器開発をするようなことになっては、それこそ核拡散が進んでしまう。「日本は原子爆弾をつくれるのか?」でも紹介したが、核兵器開発はそもそもやるべきでないと思う。

その意味ではニュークリアシェアリングは代替案として検討する価値があると思う。


福岡の飲酒運転の追突事故

それともう一点は、福岡の飲酒運転の追突事故で幼い兄弟三人が亡くなった事故があったが、あれは欄干の強度が問題だと語る。

金沢(アパグループの本社がある)でも車がスリップして橋から落ちるという事故があって分かったということだが、車道に面している橋の欄干は、総重量25トンの車両の衝突にも堪えられるように設計されている。

ところが車道との間に歩道が入ると、幅一メートルに体重60キロの大人四人が寄りかかっても壊れない程度の欄干強度と全然建築基準が違うという。

建築基準が、車が歩道を乗り上げて欄干に激突するいう想定では作られていないのだ。あくまで自転車や歩行者が欄干にぶつかる程度の強度しか求められていないという。


その他の提言として、日本再建のため大家族制復活に政治が動けとか、40年体制の清算をすべきだと主張し、不公平税制を直し、贈与税・相続税を廃止すべきだと言う。


ユダヤ陰謀説

この本で筆者の忘れたい過去の失敗を思い出させられた。

新婚時代の約20年前に、ピッツバーグに初めて駐在した時にアパートの前の部屋のアメリカ人若夫婦が引っ越しするので、彼らを招いて送別会を自宅でやったが、その当時日本で、はやっていたユダヤ陰謀説の本を話題にしてしまったのだ。

人の良い旦那は話を合わせて、自分もその本を読みたいと言ったが、奥さんは明らかに何を言うんだという雰囲気になり、彼らが自室に戻ったら、たぶん深刻な夫婦げんかが起こったと思う。

レイシストと言われてもやむをえない事態である。全く汗顔というか恥である。それからは絶対に人種とか宗教とかユダヤ人の話とかは一切しないと誓ったものだ。

当時ベストセラーになっていたユダヤ陰謀説の本は今は絶版となっているが、アマゾンで検索すると中古は売っているようだ。

ユダヤが解ると世界が見えてくる―1990年「終年経済戦争」へのシナリオ (トクマブックス)
著者:宇野 正美
販売元:徳間書店
発売日:1986-05
おすすめ度:2.5
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ともかく決して人種の話とか不用意にしてはならない。それを深く記憶に刻み込んだ経験だった。


世界でイスラエルに次いでユダヤ人人口の多いのは米国で、アルゼンチンは南米で最もユダヤ人人口が多く、世界では7番目である。

筆者はその米国に9年、アルゼンチンに2年間駐在した経験があり、ユダヤ人の友人や取引先も多い。その経験のある筆者は、ユダヤ人の陰謀なんてありえないと思う。

その意味では元谷さんとは考え方が違う。

未確認情報、憶測ばかりではないかという気がするが、”報道されない”というタイトル通り、たとえばニュークリアシェアリングなどは、興味ある考え方だし、英米によるソ連暗号解読研究の「ベノナファイル」というのがあることを初めて知った。

上記の通り、「ユダヤ陰謀説」では筆者は苦い失敗があり、この本も決しておすすめしないが、元谷さん(と一部の関係者)がある意味、筋が通った考え方をしているのは間違いないと思う。


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Posted by yaori at 12:59Comments(0)TrackBack(0)