2009年07月31日

「20円」で世界をつなぐ仕事 ダイエットメニューを食べてアフリカの子どもに給食を

“想い”と“頭脳”で稼ぐ 社会起業・実戦ガイド 「20円」で世界をつなぐ仕事“想い”と“頭脳”で稼ぐ 社会起業・実戦ガイド 「20円」で世界をつなぐ仕事
著者:小暮 真久
販売元:日本能率協会マネジメントセンター
発売日:2009-03-21
おすすめ度:4.5
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大手企業を中心に100社以上が賛同しているTable for Two Internationalの事務局長小暮真久さんの本。表紙のすばらしい笑顔に惹かれて読んでみた。

Table for Twoとは、ダイエットメニューに、アフリカの子どもへの給食補助20円をオンして社員食堂で提供し、メタボ対策とアフリカの貧困支援の一石二鳥を狙おうという日本発のNPO運動だ。

現在はウガンダルワンダマラウィの3カ国の子どもを支援している。


Table for Two運動のコンセプト

TFT business model













出典:本書45ページ


次が筆者の会社の社員食堂に置いてあったTFTのパンフレットだ。

table for two











会社によって社員食堂の単価は変わるが、筆者の会社の社員食堂ではTFTメニューを500円で提供し、20円の寄付金をつけて520円としている。

この本では全体の10−20%がこのメニューを選ぶと書いてあったが、たしかに2割前後という感じだ。


著者の小暮さんは元マッキンゼー

著者の小暮さんは1972年生まれ。早稲田高等学院から早稲田大学理工学部を卒業し、オーストラリアのスインバン工科大学で人工心臓を4年間研究、その後知人が就職しているマッキンゼーの面接を受ける。

人工心臓には全くのしろうとのはずのマッキンゼーの面接官が、おどろくほど理解が早く、小暮さんの話を聞いて、こうしたらどうだというような改善の提案をその場でしてきたことに驚き、是非入社させてくれと希望し採用が決まる。

同じマッキンゼー出身の大前研一さんもMITの博士課程に留学した日立製作所出身の原子力のプロだが、いろいろなタレントを持った人材をつかいこなすところはさすがだ。

マッキンゼーではニュージャージー支店駐在の1年間も含めて6年間充実した仕事をしたが、結局他人のために仕事をしても、報われない感じを持ったという。

特にニュージャージーに駐在し、日本の製薬会社の米国オペレーションを立て直し、心底尽くしてクライアントの社長の全幅の信頼を得たと思っていたのに、1対1の慰労会で「でもね、君は民間企業に勤めたことがないでしょう。だから、私たちの気持ちの本当のところはわからないよ」と言われて非常なショックを受け、コンサルタントという仕事の限界を知る。


松竹からTFTへ

実業がやりたくて2005年に松竹に転職し、経営企画と事業開発を担当するが、マッキンゼーの先輩でTFT代表理事をやっていた近藤正晃ジェームズ氏(現東京大学先端科学技術研究センター特任准教授)と出会い、メタボと貧困対策の一石二鳥というコンセプトに賛同する。

さらに近藤氏と一緒にニューヨークで、ジェフリー・サックス教授と面談して社会起業に感銘を受け、2007年8月に事務局長としてTFT運動に参加する。

当時TFTは伊藤忠商事の社員食堂を皮切りに、ファミリーマート、日本IBM,日本航空、NEC,横浜市などで導入が進んでいたが、NPO法人としての認証登録もしていなかったので、まずは認証登録のために2年間の事業計画やビジネスモデルをつくった。


NPOもビジネス

小暮さんがこの本で強調するのは、NPO法人のやっていることもビジネスであり、小暮さんがマッキンゼーで徹底的に仕込まれたフレームワークや、ロジックツリー、ピラミッド思考などの考え方が生かせたということだ。

NPOだからといって、トップから鶴の一声で事務局に指示してもらうと逆にうまくいかない。むしろ普通のビジネスと同じく、ボトムアップの営業が必要で、お金をかけない広告や宣伝も重要だ。


NPOでも競争力ある賃金を

NPO法人だから無給のボランティアで働けというのは間違いで、欧米のNPOなどは優秀な人材を確保するために、大手企業やコンサルと変わらない賃金を払っているという。

マッキンゼーもビル&メリンダゲイツ財団やクリントン・グローバル・イニシアティブなどの大きな財団とビジネスがあり、マッキンゼーの元代表のラジャ・グプタはHIV撲滅のための世界最大のグローバルファンドの理事を務めている。

実際にアメリカの大手NPOではマーケティング、ファイナンス、営業、広報、事業開発など、各分野の専門家が集団となって仕事をしている。

NPO活動に精一杯頑張るためには、家族を含めた生活の安定も必要であり、運営費の中からスタッフに適正な給料を払うことは必要なのだと。


キーワードは想い

NPOが普通のビジネスと違うのは「想い」によるつながりを作ることだという。

各社で集めた個人からの寄付で成り立っているNPOなので、寄付には心を込めて感謝状や名誉会員称号を送って感謝の意を表しているという。

2008年4月からのメタボ検診スタートで、導入企業は一気に増え、現在は100社を越える規模になってきており、社員食堂のない企業は、自動販売機に20円寄付するメニューを加えたCup for Two運動を導入してくれたところもある。

目標は3−4年後に1,000社の社員食堂での導入だと。

最後に、想いはきっと社会を変える、小さなしくみで革命を起こすと、社会起業のおもしろさを語っている。

前述の当初からの賛同企業を含め、オイシックス、三國シェフ、スリーエフなど、企業やパートナーの名前は出てくるが、具体的な成功事例が紹介されていないので、今ひとつ記憶に残る事例がない。

あるいは企業との取り決めがあるのかもしれないが、もっと具体的事例を紹介すれば、読む人に感動を与え、導入を考える企業の担当者もイメージがわいて、さらに良かったのではないかと思う。

世界から貧困をなくすという目標を持ちノーベル平和賞を受賞したバングラデシュのグラミンバンクのムハマド・ユヌス氏が社会起業家としては有名だが、是非TFTの小暮さんも日本発の社会起業家として成功して欲しいものだ。


簡単に読めるので、書店で手に取ってみることをおすすめする。


参考になれば投票ボタンをクリックして頂きたい。



  
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2009年07月29日

ワインと戦争 知られざるドイツ占領下のフランスワイン

ワインと戦争―ヒトラーからワインを守った人々ワインと戦争―ヒトラーからワインを守った人々
著者:ドン クラドストラップ
販売元:飛鳥新社
発売日:2003-10
おすすめ度:5.0
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ドイツ占領時代の1941年6月から1945年までのフランスの主要ワイン産地での生活をまとめたノンフィクション。

著者のドン&ペティ・クラドストラップ夫妻は、フランスに住むアメリカ人ジャーナリストで、3年間かけて各地のワイン生産者に取材してこの本を書いたという。

「ヒトラーからワインを守った人々」というサブタイトルがつけられているが、まずは次の質問に答えて欲しい。

これは以前紹介した「世界は感情で動く」の中の質問だ。

(選挙の候補者について)3人の候補者の誰に投票しますか。

A.一番目の候補者は腐敗した政治団体との一件に巻き込まれたことがある。星占いに凝っている。愛人が2人。ヘビースモーカーで日に6箱から10箱開ける。

B.二番目の候補者は、二度役職を罷免されたことがある。抑うつ傾向(鬱病傾向)があり、お昼まで寝ている。毎日ウィスキーを一瓶空け、仕事中に居眠りする。

C.三番目の候補者は、愛国者で軍部から勲章を与えられた。菜食主義者で、タバコを嫌い、たまにビールを一本飲み、性生活はきわめて慎ましい。

答えは次の通りだ:

A.フランクリン・ルーズベルト

B.ウィンストン・チャーチル

C.アドルフ・ヒトラー

世界は感情で動く (行動経済学からみる脳のトラップ)世界は感情で動く (行動経済学からみる脳のトラップ)
著者:マッテオ・モッテルリーニ
販売元:紀伊國屋書店
発売日:2009-01-21
おすすめ度:4.0
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ヒトラー自身はワインは飲まなかったが、ヒトラーの仲間のゲーリング国家元帥はボルドーワイン、ゲッペルス宣伝相はブルゴーニュワイン、ワイン商の経歴もあるリッベントロップ外相はシャンパーニュ愛好家として有名で、ナチスドイツがフランスのワインに目をつけたのも当然の成り行きといえる。

この本では、フランスワインの主な産地、ボルドー、ブルゴーニュ、ロワール、アルザスそしてシャンパーニュの各地方でワインの生産者がドイツ占領時代をどう乗り切ったかが取り上げられている。

ちなみに1935年にフランスでAOC法(原産地統制呼称法)が制定された。それまでは輸入ワインを混ぜてもフランスワインとしてまかり通っていたのだ。

1939年9月1日のドイツによるポーランド電撃占領で幕を開けた第2次世界大戦は、その後"twilight war"と呼ばれるにらみ合いの時期を経て、1940年5月10日のドイツ軍のベルギー・オランダ・フランス侵攻で一機に動く。

フランスは第1次世界大戦の時の経験から、ドイツ国境にマジノ線という要塞を築いていて難攻不落を誇っていたが、戦車が通れないと見られ要塞がなかったベルギー国境のアルデンヌの森を踏み台にしたナチスドイツの攻撃で、ドイツよりも多くの戦車を持っていたにもかかわらずフランスは6週間で降伏した。

飛行機と機甲部隊を使った電撃戦という戦略は、もともと1930年代にドゴール将軍が2冊の著書で主張していたもので、フランスでは無視されたままだったが、皮肉にもドイツはドゴールの戦略を忠実に実行して、フランスを占領したのだった。

1940年6月21日第1次世界大戦の英雄で84歳のペタン将軍を元首とするヴィシー政権が成立し、ドイツの傀儡政権となる。


1940年当時のヨーロッパ情勢 フランスは占領地区と自治地区に分かれている

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出典: Wikipedia


さすが世界第1位、第2位のワイン生産国だけに、フランス兵にもドイツ兵にもワインは必需品で、さらにホットワインは医療効果もあるとされていた。

ドイツが調達したシャンパーニュをどこに出荷するかで、ドイツ軍が次どこを攻めるのか予想できた。ドイツが侵攻する前にワインをルーマニアに送る算段をしていたという。

ナチスドイツは、もはやドイツに売るしか売り先のなくなったフランスワインを安く調達するために、通貨フレンチ・フランの価値を1/3に切り下げ、ドイツ経由で第三国に売って戦費を稼ぐために、ボルドー、ブルゴーニュ、シャンパーニュの主要ワイン産地にフランス語で「ワイン総統」と呼ばれるワイン調達責任者を置いた。

ボルドーにはドイツ最大のワイン商社長のハインツ・ベーマース、ブルゴーニュには1859年創業のワイン商を経営し、ロマネ・コンティ社の代理店社長でもあるアドルフ・セグニッツ、シャンパーニュにはリッベントロップ外相の義弟で、やはりワイン商のオットー・クレービッシュが「ワイン総統」として就任した。

ボルドーのベーマースは、長年ドイツでフランスワインを扱い、第1次世界大戦まではボルドーでシャトー・スミス・オー・ラフィットを持っていた一族の出身だった。

2000 (750ml)シャトー・スミス・オー・ラフィット(赤) 2000 (750ml)
2000 (750ml)シャトー・スミス・オー・ラフィット(赤) 2000 (750ml)


ベーマースは、「いつか ー 5週間後か5年後かはともかく ー この戦争は終わるだろうし、フランスは相変わらずドイツの隣にあるだろう。私たちは依然として一緒に生きていかなければならないだろう」と言っていたという。現にベーマースは戦後シャトー・デュ・グラン・ムエスのオーナーとなった。

パリ農業コンクール 、ブライ・ブールコンクール金賞のダブルタイトル受賞!シャトー・デュ・グラン・ムエス 2007白〔750ml〕
パリ農業コンクール 、ブライ・ブールコンクール金賞のダブルタイトル受賞!シャトー・デュ・グラン・ムエス 2007白〔750ml〕


ベーマースはヒトラーの取り巻き、特にゲーリングを嫌っていた。

ゲーリングはとりわけシャトー・ムートン・ロートシルトを好んでいたが、ある時ゲーリングからムートンを数ケース送れというオーダーが来たときに、ベーマースは普通のワインにムートンのラベルを貼らせてゲーリングに送った。

シャトー・ムートン・ロートシルト[2003](赤ワイン)
シャトー・ムートン・ロートシルト[2003](赤ワイン)


ゲーリングからは何の質問もなかったという。しかしこれ以外の場合には、ボルドーの取引業者にはきちんとした品質のワインを送らせるようにきびしく言っていた。

こんな具合にベーマースは、「ワイン総統」、つまりワイン調達係という仕事をきちんとこなし、ボルドーのワイン生産者からは、一部で起こっていたドイツ兵によるワインの略奪を止めさせ、きちんと代金を払うようにしてくれたと評価されている。

ブルゴーニュのアドルフ・セグニッツはシャトー・シャス・スプリーンとシャトー・マレスコ・サン・テグジュペリを保有し、完璧なフランス語を話し、ベーマースと同様にナチスを嫌っていた。

シャトー・シャス・スプリーン [2005] 【あす楽対応_関東】
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漫画「ソムリエール」に登場『星の王子様』サン・テグジュペリのワイン★送料無料★[1995]シャトー・マレスコ・サン・テグジュペリ/マルゴー
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セグニッツはワイン生産者の友人として、ドイツ人で唯一戦時中の1943年の”オスピス・ド・ボーヌ”の500年祭に招かれたという。

ブルゴーニュのワイン商(ネゴシアン)大手のルイ・ラトゥールは「彼は話の通じる唯一のドイツ人でした。というのも、彼はわたしたちと同じ世界の出身だったからです」と語っている。

ルイ・ラトゥール ジュヴレ・シャンベルタン 2006 750ml (ワイン)【PUP090713MJ10】
ルイ・ラトゥール ジュヴレ・シャンベルタン 2006 750ml (ワイン)【PUP090713MJ10】


シャンパーニュのオットー・クレービッシュもドイツでシャンパーニュの輸入商をやっていたが、彼は他の「ワイン総統」と異なり、軍服を着て、城を接収してそこに住んでいた。

シャンパーニュ地方ではドイツ兵のワイン略奪がひどかったが、「ワイン総統」に着任すると略奪を止めさせ、シャンパーニュのワイン生産者を安堵させた。しかし悪い品質のシャンパーニュを送ろうとしていた業者を摘発すると、容赦なく投獄し、いわば支配者として振る舞っていた。

「よくもわれわれにこんな泡立つ下水のようなものを送りつけられたものだな!」

ほとんどすべての業者が罰金を払わさせられ、モエ&シャンドン社は経営陣トップのほぼ全員が強制収容所か刑務所送りになってしまった。

モエ&シャンドン社のド・ヴォギュエ社長は強制収容所に入れられるが、やせ細りながらもなんとか帰還した。

クレービッシュは義兄のリッベントロップ外相の引きで「ワイン総統」に就任したので、リッベントロップがヒトラーの信認を失うと、ロシア戦線に送られるのではないかと心配していたという。


ヴィシー政権はナチス以上にワイン業界の敵だった

フランスの第2次世界大戦中のワイン生産高が載っている。

年       生産量         ヘクタール当たり収穫高
1939年   6,901千リットル  4.62
1940年   4,943千リットル  3.36
1941年   4,759千リットル  3.27
1942年   3,502千リットル  2.44

天候不順に加えて労働力不足、ガソリンなどの燃料不足、農薬などの不足で生産量と単位当たりの収穫量は戦前に比べてほぼ半減していることがわかる。

ヴィシー政権はドイツから課せられている占領経費をまかなうために、20%のワイン税を課し、ワイン検査官を各地に派遣した。

ドイツは深刻な燃料不足に対処するために、ワインの生産量の半分を工業用アルコールとして蒸留することを求めていたため、ヴィシー政権の検査官達は検査を終えると、ワインを飲めないようにするためワイン樽にグラス一杯ずつの灯油を流し込んだ。

樽は何十年も使い込んで初めて、価値がでてくるのに、一旦灯油のにおいが付くとワイン樽は二度と使えなくなる。各地のワイン生産者は心底憤り、これがワイン生産者たちのレジスタンス支援の意欲を盛り上がらせる要因の一つになったという。


ワイン産地を避けてドイツ軍追撃

連合軍がノルマンディー上陸に続いて地中海側のコート・ダジュールから上陸し、ドイツ軍をフランスから追い出す作戦では、フランスのワイン生産地帯のローヌ渓谷やブルゴーニュを通った。

シャンパーニュ作戦と称せられるこの作戦は、1870年の普仏戦争ロマネ・コンティラ・ターシュ、リシュブールなどの世界一のブドウ畑がドイツ軍に蹂躙されたことをふまえ、そんなことがあってはならないと用意周到に準備された。

ローヌ川西側の最上級のブドウ畑がある地区はフランス軍、東側はアメリカ軍が担当した。ブルゴーニュで最も重要なコート・ドールではドイツ軍の陣地はすべて質の劣る東側のブドウ畑側に置かれていたので、フランス軍は最上級のブドウ畑を無傷のまま解放した。

フランス軍はアメリカ軍に感謝のしるしに最高級のブルゴーニュワインジープ一台分送り、常温で飲むのだと教えた。アメリカ軍は軍医がワインの取扱いを知っているから問題ないと答えた。

フランス軍とアメリカ軍の祝勝会で、アメリカ側はそのワインを提供したが、それは医療用アルコールで暖めたホットワインだったという。

フランス軍の将軍はそのままホットワインで乾杯すると、ひそかに「解放よ。汝の名の下にどんな犯罪が行われてきたことか!」とつぶやいたという。


アルザスの特異性

アルザス地方はフランス領になったり、ドイツ領になったりを繰り返した。アルザスで300年以上もワインをつくっているリクヴィールのユーゲル家の家長は4回も国籍が変わったという。

生まれた時はフランス人だったが、1871年の普仏戦争後はドイツ人、第1次世界大戦が終わるとフランス人、1940年にアルザスがドイツに併合されてドイツ人になり、第2次世界大戦後はフランス人に戻った。

フランスの他の地区では徴兵されることはなかったが、アルザス地方ではドイツ人として徴兵され、ユーゲル家の息子達はドイツ兵としてロシア戦線やイタリア戦線に送られた。

アルザス地方ではアメリカ軍とドイツ軍の戦闘も行われ、ワイン畑も爆撃や砲撃で打撃を受けた。


ヒトラーの山荘ベルヒテスガーデン

戦争の最終局面の1945年4月にはベルリン一番乗りを目指すレースと、バイエルン地方のヒトラーの山荘ベルヒテスガーデンを目指すレースが連合軍間で争われていた。

ベルヒテスガーデンにはヒトラーの山荘ベルクホーフ鷲の巣と呼ばれるゲストハウスがあった。

ここには各国から集められた財宝や美術品、そしてフランスから持ち出されたボルドー、ブルゴーニュなどの50万本以上のワインやシャンパン、コニャックなどが貯蔵されていた。

フランス軍が一番乗りしたが、山頂に行くエレベーターが破壊されていたので、担架にワインを載せて下ろした。

フランス軍戦車隊の一員にシャンパーニュのワイン生産者ノナンクールが居て、一家の所蔵していた1928年物のシャンパーニュを見つけた。戦争がはじまってゲーリングの部下が運び出したものだったという。

兵士達の中には水筒にラフィット・ロートシルトなどのシャトーワインを詰めるものもいたという。

シャトー・ラフィット・ロートシルト[2002](赤ワイン)
シャトー・ラフィット・ロートシルト[2002](赤ワイン)



対独協力者の処罰

戦後すぐに戦争中の対独協力者の裁判が行われ、ボルドーでワイン総統のベーマースに協力していたボルドー最大のワイン商ルイ・エシェナウワーが裁判にかけられた。

全フランスで対独協力者が告発され、ドイツ人とつきあった女は”44年スタイル”と呼ばれる丸刈りにされた。

16万人を超える人々が裁判にかけられて有罪となり、7千人以上が死刑を宣告されたが、実際に処刑されたのは800人ほどで、3万8千人に懲役刑が宣告された。

ルイ・エシェナウワーも不当利得の罪で有罪となり、禁固2年と6200万フランの罰金が課せられた。財産を没収され、ボルドーで商売をすることを禁止され、市民権も剥奪された。

あまりにも多くの人が有罪とされたので、ドゴール大統領は1951年に恩赦法を成立させ、エシェナウワーも1952年に恩赦を受けた。


ボルドーのワイナリー

ボルドーでシャトー・シランシャトー・パルメールシャトー・ピション・ロングヴィル・コンテス・ド・ラランドシャトー・デュクリュ・ボーカイユシャトー・クーフランを持つミエール家では、不作とウドンコ病対策の硫酸銅不足で、戦時中は16歳の息子ジャンに学校を中退させベルギーからの密輸の銅で硫酸銅をつくって自給自足したという。

[2005]シャトー・ピション・ロングヴィル・コンテス・ド・ラランドCH.PICHONLONGUEVILLECOMTESSE DE LALANDE
[2005]シャトー・ピション・ロングヴィル・コンテス・ド・ラランドCH.PICHONLONGUEVILLECOMTESSE DE LALANDE


 【パーカー97!スペクテイター95!】[2005] シャトー・デュクリュ・ボーカイユ / サン・ジュリアン フランス ボルドー / 750ml / 赤
 【パーカー97!スペクテイター95!】[2005] シャトー・デュクリュ・ボーカイユ / サン・ジュリアン フランス ボルドー / 750ml / 赤


この2つのワインは筆者も飲んだことがあるが、いずれも1855年の2級格付けでボルドーを代表する世界でも最高級のシャトーワインだ。

シャトー・ムートン・ロートシルトもドイツ軍に占領されたが、ラフィット・ロートシルト同様にヴィシー政権が差し押さえたため、ドイツはユダヤ人資産として没収できなかった。

フィリップ・ド・ロートシルト男爵は1942年にフランスを脱出してドゴールの自由フランス軍に参加していた。妻はユダヤ人ではなかったので、戦争中の大半は無事に乗り切ったが、パリ解放の直前に娘フィリピーナの目の前でゲシュタポに連れ去られ強制収容所のガス室で殺された。

シャトーはドイツ軍が通信指令センターとして使っていたので、内部は荒らされていたが、戦争が終わって、ドイツ軍の捕虜を使って現状回復させたという。


戦後のフランスワイン

欧州統合の父ジャン・モネがシャンパーニュのコニャック生産者出身ということもあり、ブドウの木を植え替える資金をフランス政府が提供することになった。これを歓迎したのは、アルザスのワイン生産者だ。

アルザスがドイツ領になっていた時代にヒトラーユーゲントの若者が乗り込んで交配品種を排除していたので、アルザス本来の品種の植え替えができる環境がそろっていたのだ。

この本の最後は1963年にドイツのアデナウアー首相がパリを訪問してドゴール大統領と握手を交わす場面で終わっている。

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出典: Wikipedia


知られざる占領下のフランスでの生活がどうだったのか、そしてフランス解放の時も、ワイナリーにダメージを与えないために連合軍がいかに注意を払ったかがわかって面白い。

ちなみに戦争の終わった1945年は、20世紀のフランスワインの最高の当たり年の一つと言われており、60年以上経った今でもこの年のワインは売られている。

1945 (750ml)シャトー・ラフィット・ロートシルト 1945 (750ml)
1945 (750ml)シャトー・ラフィット・ロートシルト 1945 (750ml)


1945年のムートン・ロートシルトは戦勝記念のラベルだ。

シャトー・ムートン・ロートシルト[1945](赤ワイン)
シャトー・ムートン・ロートシルト[1945](赤ワイン)



ワイン通であってもなくても楽しく読める。もっと写真が載っていたらさらに良かったと思う。2003年出版の本だが、書店や図書館で探して一度手にとって欲しい本である。


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2009年07月28日

2020年のHEV(ハイブリッド車)需要予測

以前紹介した自動車業界関係者向けのサイトマークラインズで、JPモルガン証券が作成した2020年のHEV(ハイブリッド車)需要予測が紹介されている。

MarkLinesHV






2020年までのハイブリッド車需要予測

JPMorganHV1




これによると、2009年には75万台程度の全世界でのハイブリッド車の生産が、2020年には1128万台にまで増えることが予想されている。


地域別には日本が圧倒的に高く、世界をリードして、段々にその他の地域が追いついてきて、2020年までには北米のハイブリッド車比率が日本のハイブリッド車比率を抜くことが予想されている。


地域別のハイブリッド車販売シェア予測

JPMorganHV2




ハイブリッドシステムの生産コストは当初7,000ドル程度だったのが、2009年に大幅に低下し、4,000ドルを切る水準となり、以降段々に低下して2020年には2,000ドルを切る水準となることが予想されている。


ハイブリッドシステムの1 単位当りのコスト予想

JPMorganHV3




世界のハイブリッド車市場が急増するので、ハイブリッド車のモーターや電池などの関連業界の規模は2008年推定の約2,900億円から、2015年には1兆1千億円、2020年には2兆2千億円まで拡大するとJPモルガンは予想する。


ハイブリッド車関連業界の規模予測

JPMorganHV4




出典:いずれもマークラインズ社2020年のHEV(ハイブリッド車)需要予測


筆者のハリアーハイブリッドは5年目に入るが、どこも問題ない。現在の平均燃費は燃費計の数字で9.6キロ/Lといったところだ。

プリウスは今から注文すると来年の納車になるようだが、自家用車の買い換えの際にはこのブログのハイブリッド車関係の過去の記事も参考にして、ハイブリッド車も検討されることをおすすめする。


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2009年07月26日

世界の名酒事典 オールマイティのワイン入門書

検索CD-ROM付き 世界の名酒事典 2008-09年版検索CD-ROM付き 世界の名酒事典 2008-09年版
販売元:講談社
発売日:2007-11-29
おすすめ度:4.5
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筆者は今まで何十冊もワインの入門書を読んできた。

田崎真也さんや国際ソムリエ協会長の小飼一至(こがいかずよし)さんなど、ソムリエの書いた本。

ワイン生活―楽しく飲むための200のヒント (新潮文庫)ワイン生活―楽しく飲むための200のヒント (新潮文庫)
著者:田崎 真也
販売元:新潮社
発売日:2009-05-28
おすすめ度:4.0
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漫画家の弘兼憲史さんのワインの本。

知識ゼロからのワイン入門知識ゼロからのワイン入門
著者:弘兼 憲史
販売元:幻冬舎
発売日:2000-12
おすすめ度:5.0
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川島なお美さんなどのタレントの書いた本。

フルボディ―恋して、ワインして。フルボディ―恋して、ワインして。
著者:川島 なお美
販売元:マガジンハウス
発売日:1999-06
おすすめ度:5.0
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世界的に有名なワイン評論家ヒュー・ジョンソンのポケットワインブック。

Hugh Johnson's Pocket Wine Book 2010: 33rd EditionHugh Johnson's Pocket Wine Book 2010: 33rd Edition
著者:Hugh Johnson
販売元:Mitchell Beazley
発売日:2009-08-15
クチコミを見る

ポケット・ワイン・ブック (ハヤカワ・ワインブック)ポケット・ワイン・ブック (ハヤカワ・ワインブック)
著者:ヒュー ジョンソン
販売元:早川書房
発売日:2007-06
おすすめ度:5.0
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日本のワイン評論家では山本博さんなどの本だ。

ワインが語るフランスの歴史 (白水uブックス)ワインが語るフランスの歴史 (白水uブックス)
著者:山本 博
販売元:白水社
発売日:2009-05
クチコミを見る


どれも特徴があり、それぞれ読んで楽しいが、これ一冊ということになるとやはりこの本をおすすめする。

5千円近くする本だが、内容はあまり毎年変わらないので、数年前の中古をアマゾンマーケットプレースなどで買うのもおすすめだ。

この本では8,800種類のワインの他、世界のウィスキー、ブランデー、リキュール、中国酒、焼酎、ビールまでも取り上げられていて、全部で11,200銘柄が紹介されており、載っていないのは日本酒くらいのものだ。


この本を薦める理由

この本をワインの入門書として薦める理由は、まずはわかりやすいことだ。

ワインについては、300ページにわたりそれぞれの産地の主要ワイン8,800銘柄についてボトルの写真と標準小売価格を紹介しており、ビジュアルでわかりやすい。

自分がレストランで飲んだワインを、家に帰って調べるのにも適している。

フランスワインについては格付けと年代ごとの価格も表示してあり、単に古いだけでは価格には影響しないことが一目でわかる。

そしてどこのワインが日本で売られているのかもすぐにわかる。実に全体の40%以上、130ページがフランスワインだ。

フランスワインの中でも、日本で販売されている銘柄が最も多いのがブルゴーニュワインの48ページ、次にボルドー30ページ、シャンパーニュ16ページ、南部フランス他14ページという順番だ。

ちなみに1ページには25本前後の銘柄が紹介されているので、おおざっぱにいってブルゴーニュが1,200本、ボルドーが700本程度紹介されている。

フランスの他の地域では:

ローヌ      8ページ
ロワール     8ページ
アルザス     6ページ

他の国ではイタリアが最も多く、南北イタリアの様々な地区のワインを45ページにわたって紹介している。そのほかは:

ドイツ     24ページ
アメリカ    18ページ
スペイン    16ページ
オーストラリア 12ページ
チリ      12ページ
日本       6ページ

という順番だ。

多くのワイン入門書の難点は、フランスの主要ワイン産地からはじまって、多くの国のワインをそれぞれ数ページずつで紹介しているので、フランスワインとその他の国のワインとの圧倒的な差がわかりづらい点だが、現実はフランスワインが圧倒的、そしてその中でもやはりボルドーとブルゴーニュが圧倒的なのだ。


近年ではニューワールドワインの躍進が目立つ

筆者はここ15年くらい毎年図書館でリクエストしてこの本を読んでいるが、当初はヨーロッパのワインが中心で、ニューワールド(新大陸)のワインは少なかった。

それが年を追うごとに新大陸や、従来ワイン生産国でなかった国のワインまでも紹介されるようになってきており、世界のワイン産業の発展が目に見えてわかる。

たとえば米国のワインといえばカリフォルニアワインが有名だが、カリフォルニアワインはこのブログでも紹介している「パリスの審判」の1976年パリでのブラインドテイスティングで、フランスのシャトーワインに勝ったということで、世界的に注目されたので、いまや品質に比して価格が高くなりすぎているきらいがある。

そこで急速に拡大してきているのがワシントン州やオレゴン州のワインだ。気候もカリフォルニアより寒冷で、フランスなどに似た気候のこともあり、日本でも多くのワインが紹介されるようになってきている。

本家本元のフランスなどはワイン消費量が減少しており、ユーロ高で輸出の採算も悪く、中小のワイナリーは閉鎖に追い込まれているところが続出している。ついにワイン生産量でもNo.1の地位をイタリアに奪われた。

世界ワイン生産2005






出典:Wikipedia

ちなみに日本のワイン生産量は9万トンで、世界第28位だ。

一方チリ、アルゼンチン、オーストラリアなどのニューワールドワインは、価格も安いし、品質も良いので急速にシェアを伸ばしている。

この事典でもこれらの国のワイン紹介ページは毎年増える一方だ。変わったところでは、中国、インド、ベトナム、タイなどのワインも紹介されている。


日本のワイン産業の発展がわかる

この事典では日本のワインも取り上げられている。

日本では山梨ワインが有名だが、その山梨でも割合新しい中小ワイナリーが力をつけており、日本特有の甲州ブドウをつかった白ワインなどは、寿司や煮魚などの和食にも合うワインとして世界的にも注目されている。

日本のワインのページが毎年拡大していくのも見て楽しい。

米国のワシントン州のワイン協会は日本に事務所を持っており、日本語ホームページも開設しているが、ワシントン州のワイナリーの数は1981年の19から、2006年には400超となり、25年間で20倍以上に増えている。

ワイナリー関係の従業員の雇用が増えるのみならず、ワイン生産地を訪問する観光客も増え、旅行産業も大きく伸びる。

是非日本のワイナリーもがんばって数を増やし、日本の食糧自給率を上げるとともに、ワイン産業を起爆剤に地元の経済を拡大して欲しいと思う。


基礎知識も覚えられる

ブドウの銘柄や、白ワイン・赤ワインの製法、フランスの1935年に制定された原産地法などの基礎知識の解説もあり、それぞれの産地の地図もある。

ソムリエは1855年のパリ万博の時のボルドーワインの格付けで、いわゆるシャトーワインと呼ばれる5級以上のワインの銘柄をすべて暗記するそうだ。

ボルドーはともかく、ブルゴーニュは地区で細かく畑が分かれており、生産者とネゴシアン(仲買人)それぞれが銘柄を持っているので、単に銘柄の名前だけでは、とても覚えきれないと思うが、ボトルの写真と価格がセットで表示されているので、何年もののこのワインはいくらぐらいすると覚えると、情報が頭に入りやすいと思う。

時々ボルドーやブルゴーニュの当たり年を覚えているワイン通がいるが、この本を読めば、同じシャトーワインでも当たり年のワインと不作の年のワインでは価格が倍以上も違うことが一目瞭然でわかり、年表などを覚える必要がなく、自然と頭に入る。


日本酒をのぞきビールまでいれて、ほとんどの酒についてボトルの写真と価格を紹介しているので、ワイン以外の酒についても参考になる。

この本で紹介されているワイン以外の飲み物の銘柄数は次の通りだ。

ウィスキー   550銘柄
ブランデー   540銘柄
スピリッツ   290銘柄
リキュール   600銘柄
焼酎      370銘柄
中国酒     170銘柄
ビール     370銘柄

ウィスキーなどの解説では製法やスコットランドの醸造所の地図なども紹介されており、ウィスキーの知識としても役立つ。他の酒についても数ページの解説がついており、楽しく覚えられる。


お酒を飲む人にも、あまり飲まない人にもオールマイティのワイン・名酒紹介本として是非手にとって欲しい一冊である。


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2009年07月22日

幼稚園バス運転手は幼女を殺したか 今、脚光を浴びる2001年のレポート


幼稚園バス運転手は幼女を殺したか幼稚園バス運転手は幼女を殺したか
著者:小林 篤
販売元:草思社
発売日:2001-01
おすすめ度:5.0
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1990年5月に発生した足利市幼女殺人事件の犯人とされ、自白やDNA鑑定などの証拠から最高裁で無期懲役が確定したが、2009年5月のDNA再検査で冤罪だったことが判明した菅家利和さんの事件を様々な角度からレポートした本。

2001年出版の本だが、書店に平積みになっていたので興味を持った。

400ページにも及ぶ犯行現場や犯行状況、菅家さんの私生活と家族環境、DNA鑑定の概要などを含んだ、あまりにも重い内容だが、もし裁判員に指名されたらこの程度のレポートは読み込んでおく必要があるだろうと思って読んでみた。

この裁判では最高裁がはじめてDNA鑑定を証拠として採用したが、結果的に当時のDNA鑑定の精度は低く、試料の状態が決定的に悪かったため誤った結果が出ていたことが判明した事件だ。

この本の他、足利市幼女殺人事件のDNA鑑定に疑問を投げかけた別の本も出ている。

魔力DNA鑑定―足利市幼女誘拐殺人事件魔力DNA鑑定―足利市幼女誘拐殺人事件
著者:佐久間 哲
販売元:三一書房
発売日:1998-09
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あきらめずに再審請求を繰り返してついに冤罪を証明した「菅家さんを支える会」の人たちの地道な努力に心から敬意を表すとともに、やりきれない怒りがこみ上げてくるのを覚える。

この本ほどあらすじを書くことが不適当と感じた本はない。

詳しく書けば、菅家さんの最も人に知られたくない私生活や診察記録、学校の成績など機微な情報をネットで公開することになり、ある意味菅家さんへの個人攻撃にもなってしまう。それは筆者の意図するところではない。

「自分ではやってはいないんですが、信じてもらえなかったんです。ですから、誘導とかはなくても、やったと言うしかないわけです。自分でも馬鹿だとは思うんですが…」 これが著者の小林さんに語った菅家さんの言葉だ。

それ以外にも「なんで?」という言動は多い。


もちろん非難されるべき人は多い。

・高圧的で菅家さんを犯人と決めつけた一審の弁護人(一審の弁論要旨はわずか原稿用紙13枚だった)

・菅家さんを犯人と疑って、逮捕される前にクビにした幼稚園経営者

・足利市で3件も(菅家さんの2審裁判が終わった直後、群馬県大田原市で同様の幼女失踪事件発生)同様の事件が起こったのに、無罪の菅家さんを逮捕して、真犯人には時効を成立させてしまった栃木県警

・菅家さんを初めから有罪と決めつけ、傍聴人から「能力が低いのはどっちだと思う」と捨てぜりふを浴びせられた宇都宮地方裁判所の判事

・マミちゃんを亡くした親に「何でパチンコ屋に連れてきたんだ」という罵声を浴びせ、自殺を考えるまで思い込ませたもはや犯罪的といえるほど無神経な栃木県警課長

・菅家さん逮捕につながった家宅訪問が手柄となり1階級特進が決まり、「ジャンボ宝くじが当たった気分」と言った警官

・試料が少なく、何度もDNA鑑定不能と回答していながらも、不正確なDNA鑑定を実施し、自らは警察を辞めて競馬会にトラバーユしたDNA鑑定の科警研技官

・たった3回の面談で菅家さんを「代償性小児性愛」と呼んでレッテルを貼った精神鑑定医


一方で頭が下がるプロもいた。

・殺害されたマミちゃんの写真を手帳に挟んで、不休で捜査にあたった栃木県警の現場の警察官たち

・この事件を解決するために幼女連続殺人事件(宮崎勤事件)を解決させた敏腕警察官を栃木県警本部長として送り込んだ警察庁

・やる気のない一審の弁護人の弁論要旨はわずか原稿用紙13枚分だったのに対し、2,320枚もの弁論要旨を提出した2審の弁護団

・400ページもの大作レポートを書き、菅家さんを信じて証拠を集めたこの本の著者でジャーナリストの小林篤氏

・菅家さんの無実を信じて最後まで支援した友人や支援者

・冤罪事件の本は売れないと言われる中で、あえて2001年に本書を出版した草思社


前述の理由であらすじは詳しく書けない。

読んで感動を覚える本であることは間違いない。裁判員制度に関心のある人には必読書と思う。

2001年発刊の本だが、あらためて書店には並んでいると思うので、是非一度手に取ってみて欲しい。


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2009年07月19日

昭和史 1926−1945年 半藤一利さんの「あたまにスッと入る昭和史」

昭和史 1926-1945 (平凡社ライブラリー は 26-1)昭和史 1926-1945 (平凡社ライブラリー は 26-1)
著者:半藤 一利
販売元:平凡社
発売日:2009-06-11
おすすめ度:3.5
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みずから「歴史探偵」と語る現代最高の歴史小説家の一人半藤一利さんの歴史講釈。

半藤さんの「幕末史」のあらすじを以前紹介したが、本としてはこの「昭和史」の方が先に出版された。

編集者の「学校でほとんど習わなかった昭和史のシの字も知らない私たち世代のために、手ほどき的な授業をしていただけたら、たいそう日本の明日のためになるのですが」という説得から、4人のスタッフを相手に1回2時間弱、月1回程度、寺子屋的に行った昭和史の講義を編集したもの。

少人数の講義という意味では「幕末史」も同様だが、最近の作品の「幕末史」の方が歌あり、漫談ありでリラックスしてきた感じだ。


昭和史のFAW

さすが「昭和史の語り部」と呼ばれているだけあって、非常にわかりやすく昭和史を解説している。まさに「頭にスッと入る昭和史」だ。

なぜわかりやすいかというと、コンサルがFAWと呼ぶ(Forces at Work)出来事の根っこにあるトレンド、歴史を作った原動力が明確に示されているからだ。

この本で挙げられている昭和史のFAWの最も重要なものを、筆者なりに抜き出すと次の通りだ。

1.張作霖爆殺事件処理をめぐる昭和天皇の田中義一首相譴責 ー 「沈黙の天皇」誕生

「昭和天皇独白録」に収録されている天皇と田中義一首相とのやりとりは次の通りだ。

「それでは話が違ふではないか、辞表を出してはどうか」、「こんな云ひ方をしたのは、私の若気の至りである(中略)この事件あって以来、私は内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持ってゐても裁可を与へる事に決心した」

昭和天皇独白録 (文春文庫)昭和天皇独白録 (文春文庫)
著者:寺崎 英成
販売元:文芸春秋
発売日:1995-07
おすすめ度:4.0
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これ以降内閣の一致した意見ならば、天皇はたとえ不賛成であっても裁可を下すことになり、まさに天皇機関説通り、最高権力者としての天皇でなく、一国家機関になった。「沈黙の天皇」の誕生である。


2.統帥権という「魔法の杖」 内閣と統帥権の分離

1922年海軍大臣が認めたワシントン軍縮条約を軍令部が拒否し、「統帥権干犯」問題が発生した。

これ以降、軍の統帥権は天皇の不可侵の権利とされる。内閣と軍令部の二重構造が常態化したのだ。

司馬遼太郎さんが「魔法の杖」と呼ぶ統帥権分離を思いついたのは2.26事件で銃殺になった北一輝といわれている。


3.戦争をあおって売り上げを急増させた新聞などマスコミ

今は朝日新聞などは左派リベラルのようになっているが、戦前はマスコミ全部が戦争に大賛成していた。

昭和6年の満州事変以来、朝日新聞、東京日日新聞(毎日新聞)の各社は関東軍を支持、売り上げを伸ばす。

戦争中の大本営発表自体が戦果を誇張、というよりも戦果をねつ造していたもので、それに輪を掛けてマスコミ各社は戦争を賛美していたのだ。

これはいわゆる知識人も変わらない。ほとんどが戦争賛成だったのだ。

半藤さんは「真珠湾の日」で小説家や評論家などの発言を多く載せているが、この本でも当時の第一級の知性といわれた小林秀雄亀井勝一郎横光利一中島健蔵などの民族主義的発言を紹介している。

“真珠湾”の日 (文春文庫)“真珠湾”の日 (文春文庫)
著者:半藤 一利
販売元:文藝春秋
発売日:2003-12
おすすめ度:4.0
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そんな中で敗戦を予想して、東京都鶴川村に隠棲した白洲次郎の生き方は自分のプリンシプルを鮮明に打ち出していて、いかにも次郎らしい。

白洲次郎 占領を背負った男 上 (講談社文庫)白洲次郎 占領を背負った男 上 (講談社文庫)
著者:北 康利
販売元:講談社
発売日:2008-12-12
おすすめ度:4.0
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4.2.26事件が残した軍事テロの恐怖

松本清張は「2.26事件」で、次のように書いている。

「これ以降の日本は、軍部が絶えず”2.26”の再発をちらちらさせて、政・財・言論界を脅迫した。かくて軍需産業を中心とする重工業財閥を軍が抱きかかえ、国民をひきずり戦争体制へ大股に歩き出すのである。この変化は、太平洋戦争が現実に突如として勃発するまで、国民の眼にはわからない上層部において、静かに、確実に進行していった」

昭和史発掘 (5) [新装版] (文春文庫)昭和史発掘 (5) [新装版] (文春文庫)
著者:松本 清張
販売元:文藝春秋
発売日:2005-07-08
おすすめ度:4.5
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「昭和天皇独白録」でも天皇はこう語っている。

「私がもし開戦の決定に対して”ベトー(拒否)”したとしよう。国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証できない、それはよいとしても結局狂暴な戦争は展開され…」

山本五十六は「内乱では国は滅びない。戦争では国が滅びる。内乱を避けるために、戦争に賭けるとは、主客転倒もはなはだしい」と語ったという。

これも2.26事件の大規模なテロの恐怖がもたらしたものだろうと、半藤さんは語る。


広田弘毅内閣の3大失策

これらの4つが戦争までの昭和史の大きなFAWだが、それ以外にも小さなFAWがあった。

特に戦争につながったという意味では、広田弘毅内閣の軍部大臣現役武官制復活、日独防共協定、「北守南進」政策(南進論)という3大失策を挙げている。

・軍部大臣現役武官制が復活したので、これ以降軍部が内閣の生殺与奪の権を握ることになった。

・日独防共協定は、日独伊防共協定、そして1940年9月の日独伊三国同盟につながり、枢軸国側につくことで英米との対決を決定的なものにし、結果的にアメリカが第2次世界大戦に参戦する理由となった。

「昭和天皇独白録」で天皇はこう語っている。

「三国同盟について私は秩父宮と喧嘩して終わった」

1940年9月16日に三国同盟を上奏する近衛首相に対して天皇は物資不足や図上演習の結果などを示し反対する。しかし近衛は松岡の日独伊ソ4国同盟の可能性も説き、天皇は結局自説をまげて了承する。

・南進論は日米関係を決定的に悪化させ、日米戦争を引き起こした。

1940年9月日本は北部仏印に進駐する。本来平和的に進駐する予定が、現地のフランス軍と戦火を交えてしまい、武力進駐と世界から非難される。

「統帥乱れて信を内外に失う」とは現地指揮官が東京に打電してきた言葉だ。

南進論に反応しアメリカは一連の対日制裁を発動する。

1940年1月に日米修好通商条約廃棄、1940年9月にくず鉄輸出禁止、1941年8月には石油を全面禁輸とする。ABCD包囲網の完成だ。

広田弘毅は城山三郎さんの「落日燃ゆ」でヒロイックに描かれているので人気があるが、非軍人として唯一東京裁判で死刑になった元首相であり、日米開戦の直接の原因を作ったのも広田内閣である。

落日燃ゆ (新潮文庫)落日燃ゆ (新潮文庫)
著者:城山 三郎
販売元:新潮社
発売日:1986-11
おすすめ度:4.5
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国際情勢のFAW

筆者なりに日本をめぐる国際情勢のFAWを整理すると次の3つとなる。

1.国防、経済発展の生命線「赤い夕陽の満州」

結局日本が明治以来40年掛けて獲得した海外領土、海外権益を戦争ですべて失うことになるが、戦争に至った背景には、日本の生命線は満州であり、満州の権益は絶対に失えないという思いがあった。

終戦までに満州移民は150万人いたと言われており、このうち一般民間人で戦争で亡くなったのは18万人だ。

大日本帝国領土






2.アメリカの巧みな外交による日英同盟の廃棄、日本封じ込め


アメリカは1922年のワシントン軍縮会議の時に、英国にプレッシャーをかけて日英同盟を廃棄させる。

それ以降は日本人を目の敵にした日系移民排斥法などを成立させる他、蒋介石の中国を支援し、日本が必要なくず鉄や石油などの資源を禁輸にして日本を封じ込め、兵糧攻めをはかる。

前回紹介した「真珠湾の真実」で詳細に検証されていたルーズベルトが対独戦に参戦するために、日本に先制攻撃を仕掛けさせたという「ルーズベルトの陰謀説」も根強い。


3.ナチスドイツが先に原子爆弾を開発してしまうという恐怖

「真珠湾の真実」のあらすじでで、筆者の個人的見解を書いたが、半藤さんも1938年にドイツのオットー・ハーンが核分裂実験に成功し、翌1939年8月にはアインシュタインがナチスドイツが先に原子爆弾を開発してしまう恐れがあることをルーズベルトに直言したことを紹介している。

アインシュタインからルーズベルト宛のレター

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ルーズベルトは「マッチ箱一つで戦艦を吹き飛ばせる」原子爆弾を開発するため20億ドルを投じてマンハッタン計画をスタートさせ、原子爆弾を完成させた。


なぜ海軍は日米開戦賛同に変節したのか

元々英米協調路線で、日米開戦に絶対反対、日独伊三国同盟反対だった海軍がなぜ変節したのかというのは、多くの人が抱く疑問だ。

米内光政山本五十六井上成実の海軍良識派トリオは親米派で、開戦忌避努力を続けた。

特に山本五十六は同郷(半藤さんは長岡藩の系譜)の先人でもあり、いろいろな機会で開戦回避努力をしたことを半藤さんは紹介している。

親米路線だった海軍が日独伊三国同盟に賛同したのは、親米良識派トリオをはずした内部抗争とカネの問題だった。

ワシントン軍縮条約の16インチまでという主砲サイズ制限を破って、ひそかに46センチ主砲を持つ超大型戦艦大和・武蔵の建造を進めていた海軍の及川海軍大臣、豊田次官は、軍事予算の分配で陸軍に恩を売るために(?)日独伊三国同盟に賛同した。半藤さんは「カネのために魂を売った」とまで言っている。

それでも山本五十六は航空兵力不足を訴え、三国同盟締結に異を唱えるが、1940年9月14日及川海軍大臣、豊田次官以下の海軍首脳は三国同盟に正式賛同する。

皮肉にも翌日の9月15日に英国はバトルオブブリテンで最大の戦果を挙げる。

敵機195機撃墜、見方損失26機と発表された。その後撃墜数は少なかったことがわかるが、それでも大打撃を与えたことは間違いない。



バトルオブブリテンの時の有名なチャーチルの言葉が、"Never in the field of human conflict was so much owed by so many to so few"(人類の戦争の歴史の中で、これだけ多くの人が、これだけ少ない人によって、かくも多くの恩義を受けたことはない)。だ。

9月15日の敗北でドイツは英国侵略をあきらめ、対ソ戦の準備を始める。もはやナチスの勢いは落ちてきていたのに、世界の情勢を日本は全く掴まずに9月に日独伊三国同盟を結んだのだ。


あだ花の「日米諒解案」と松岡の日独伊ソ四国同盟構想の愚

翌昭和16年、日独伊ソ四国同盟案を提唱していた松岡外相は4月にヨーロッパ訪問後、モスクワを訪問する。

このときチャーチルは松岡宛に鉄鋼生産高など事実を示して日本を参戦させないようにレターを書く。

このときのレターの内容は関榮次さんの「チャーチルの愛した日本」のあらすじで紹介しているので、参照して欲しいが、おどしでも何でもなく、冷静に事実を考えてみようというレターだ。

しかし松岡は侮辱ととり、「日本の外交政策は偉大な民族的目的と八紘一宇の実現を意図し、周到に考慮して決められたものだから、余計な心配するな」と回答する。

松岡はドイツがひそかにソ連攻撃を準備していたことを全く知らず、スターリンの「お互いアジア人同士だ」という言葉にコロッと来て、スターリンがドイツ戦の準備で日ソ中立条約を結びたがっているという事情を全く理解しないまま。日ソ中立条約を結ぶ。

その後ウォルシュ司祭とドラウト神父の2神父が仲介してルーズベルトと近衛が太平洋のどこかでサミットミーティングを持って、事態を打開するという日米諒解案が野村大使とハル国務長官との間で詰められ、日本側は陸海軍すべて賛同したが帰国した松岡外相の反対でついえる。

ヨーロッパから帰ってきた松岡がやたらドイツの肩を持つので、松岡はヒトラーに買収されたのではないかと天皇が疑うほどだった。

「松岡は二月の末に独逸に向い四月に帰って来たが、それからは別人の様に非常な独逸びいきになった。おそらくはヒトラーに買収でもされてきたのではないかと思われる」

その後6月に独ソが開戦すると、松岡の日独伊ソ四国同盟案は雲散霧消し、松岡は一転してソ連を叩くべきだと言い出したという。

その後9月の御前会議で、昭和天皇は明治天皇の御製「四方の海みなはらからとい思ふ世に など波風の立ちさわぐらむ」を2回詠み、戦争に反対した。

ちなみに「公文書で見る日米交渉」という日本の国立公文書館アジア歴史資料センターのサイトに日本の公文書の情報が公開されており、興味深い。

国立公文書館






真珠湾攻撃で始まる太平洋戦争

山本五十六は反対論が強いなかで、ハワイ作戦を立案する。

「結局、桶狭間とひよどり越えと川中島とを併せ行うのやむを得ざる羽目に、追い込まるる次第に御座候」。戦争を早く止めるための作戦だったという。

開戦期日を昭和16年12月上旬に決めたのは、海軍戦力がアメリカの7割になるのがそのときで、それ以降は差はどんどん拡大するからだという。

ルーズベルトは暗合解読で事前に日本の開戦を予期していたが、日本とドイツに先に宣戦布告させるために日本に真珠湾攻撃をしかけさせ、大義名分を得て参戦する。

早くも17年6月に敵の空母を叩くつもりが、逆に6隻の正規空母のうち4隻を失うミッドウェー海戦の大敗で勢いは決した。

ミッドウェー海戦の敗戦は、作戦のせいではない、敵の待ち伏せを予期して、半分の飛行機は即時待機とし、あらゆる機会を捉えて敵空母部隊を攻撃しろという連合艦隊命令を南雲指揮官が無視した驕慢の結果だったと元参謀は語っていたという。

はるかニューギニアのガダルカナル島で日米両軍の主力が激突する戦争が起きたのは、米国からオーストラリアの補給ルートを日本が絶とうとしての作戦だった。

ガダルカナル敗退、山本長官戦死、アッツ島玉砕、インパール作戦敗退、サイパン喪失、神風攻撃にもかかわらず沖縄戦敗戦、そして原爆投下、ソ連参戦と続き、日本の敗戦となる。

日本の終戦交渉をすべきだと主張するラルフ・バード海軍次官は原爆投下に反対し、1945年7月に次官を辞任する。


太平洋戦争の死者数

「日本のいちばん長い日」のあらすじで紹介した最後の陸軍大臣阿南陸相は「一死を以て大罪を謝し奉る」と書いて、8月15日に切腹した。

決定版 日本のいちばん長い日 (文春文庫)決定版 日本のいちばん長い日 (文春文庫)
著者:半藤 一利
販売元:文藝春秋
発売日:2006-07
おすすめ度:5.0
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最後に半藤さんは310万人と言われる太平洋戦争の死者の数を列挙しているが(以下は概数)、到底阿南陸相一人が切腹して済む問題ではない。

・ガダルカナルで戦死8千人、餓死・病死1万1千人

・アッツ島で2,500人

・ニューギニアで病死も含め戦死15万7千人

・タラワ島で戦死4千7百人、マキン島で700人,ゲゼリン島で3,400人

・グアム島で戦死1万8千人

・サイパン島で戦死3万人、市民の死亡1万人

・インパール作戦で戦死3万人、戦病死4万2千人

・インパール作戦の一つで中国本土で戦死2万9千人

・ベリリュー島で1万人

・フィリピンで戦死47万7千人

・硫黄島で戦死2万人

・沖縄で戦死11万人、市民の死亡10万人

・日本本土空襲で30万人

・日中戦争で41万2千人(日ソ1週間戦争の死者8万人も含む)

・特攻で4千6百人

全て合計すると310万人が太平洋戦争で亡くなった。


5つの教訓

昭和史の教訓として半藤さんは次の5つを挙げている。

第1に国民的熱狂をつくってはいけない。

第2に最大の危機に於いて日本人は抽象的な観念論を非常に好み、具体的な理性的な方法論をまったく検討しようとしないこと。希望的観測が、確信になってしまう。「ソ連は攻めてこない」というような。

第3に日本型のタコツボ社会における小集団の弊害がある。陸軍大学卒が集まった参謀本部作戦課が戦争の全権を握るのが良い例だ。

第4にポツダム宣言受諾は意志の表明にすぎず、降伏文書の調印をしなければ完璧なものにならないという国際常識の欠如。これがためソ連に満州侵攻をゆるし、戦死者8万人を出し、シベリアで抑留された人が57万人、このうち帰還者は47万人で、10万人以上がシベリアで亡くなっている。

そのうちの一人が「プリンス近衛殺人事件」のあらすじで紹介した近衛文麿の長男、近衛文隆だ。

プリンス近衛殺人事件プリンス近衛殺人事件
著者:V.A. アルハンゲリスキー
販売元:新潮社
発売日:2000-12
おすすめ度:4.0
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第5に対症療法的なすぐに結果を求める短兵急な発想。大局観のない複眼的な見方の欠如した日本人のありかた。


結論としてまとめると、政治的指導者も軍事的指導者も根拠なき自信過剰と「大丈夫、アメリカは合意する」などの底知れぬ無責任が、日本を敗戦の危機に追いやったといえる。日本人に多くの教訓を与えてくれた昭和史だと締めくくっている。

500ページもの大作だが、テンポが良いのですぐ読める。文庫本が最近出たことでもあり、是非一読をおすすめする。



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2009年07月15日

シャープなリンゴとルーズなトマト 英語でストリートスマートになる手引き

シャープなリンゴとルーズなトマト―イギリス英語散歩シャープなリンゴとルーズなトマト―イギリス英語散歩
著者:多賀 敏行
販売元:小学館
発売日:1999-07
おすすめ度:4.0
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本日付でチュニジア大使に発令された多賀敏行さんが、英国生活で気が付いた英語の用法をまとめたエッセー。

大前研一さんの「マネー力」などでは資産を増やし、守るために日本人よ"Street smart"になれ、というようなことを書いているが、この本はいわば"英語版Street smart"のすすめだ。

多賀さんはイギリス公使を勤めた外交官であり、ケンブリッジ大学に留学したほどの英語の使い手だが、それでもわからなかった町中での英語の用法が紹介されていて参考になる。

この本で紹介されている英語の用法は大まかに整理すると、次の4パターンとなる。


1.よく使う英単語だが、イギリスでの用法はあまり知られていないもの

たとえば本のタイトルとなっているシャープな(すっぱい)リンゴ、ルーズな(バラ売りの)トマトだ。「よく旅をする"travel extremely well"菓子パン」など、このパターンは結構多い。

信号機のアンバーも知らなかった。日本語だと青、黄、赤だが、英国だとRed, Green, Amberなのだ。

多賀さんも苦労したそうだが、英国の運転免許試験は30分ほどの市中運転の実技と、停車して10問ほどの口頭試問ということなので、これは難しいと思う。

米国、特にピッツバーグなどの田舎は車が運転できないと死活問題にもなるので、運転免許は高校生から取れるし、問題も易しい。

筆者の最初の駐在の時は、日本の免許は他州の免許扱いだったので、領事館で作ってもらった日本の免許の証明付き翻訳を持って行くと、実技は免除で、画面がスライドになっているテスト機で25問だったかの試験にパスするとその場で仮免許をもらえた。

スライド式のテスト機は、たしか合格点が8割とか決まっており、25問中5問以上間違えるとその場でストップという形式だった。

日本の学校の標識はいかにも子どもが歩いている感じだが、アメリカのSchool Zoneの標識は、大人が歩いているので、唯一これを間違えたが他は問題なかったので、事前勉強もせずに一発で合格したが、そのうち日本で免許を持っていても、実地試験が免除されなくなり、後の駐在員は数ヶ月は国際免許で運転していた人が多かった。

また文盲の人は付添人が認められていたので、スライドの設問を他の人に読んでもらっている人もいたが、本当に文盲なのか、あるいは知人に教えてもらうカンニングの一種なのかよくわからない。

School-Zone








日本と違うので注意が必要なのは"No turn on Red"と"Yield"のサインだ。

"No turn on Red"は米国は車は右側通行なので、このサインがない交差点では赤信号でも左から車が来なければ右折して良い。

noturnonread









ニューヨークなどの大都市や、カリフォルニア州などをのぞいて多くの州ではこのサインを取り入れているが、州によってはそもそも"No turn on Red"を認めていないので、レンタカーカウンターなどでチェックが必要だ。

もう一つの三角形のサインは"Yield"つまり、道をゆずれ、向こうの車の方が優先というサインだ。

yield








2度目の駐在の時は、前回の駐在から5年経っていたが、とっくに失効している前の免許を持っていったら、その場で新しい免許を発行してくれた。アメリカは車社会なので、免許は生活に不可欠なのだということがよくわかった。

日本人の多いニュージャージーとかは(カリフォルニアも?)、日本語で運転免許の試験が受けられるという話だった。

それに比べて英国の運転免許試験は難しい。国によってずいぶん違いを感じる。

たぶん外国人にとって日本の運転免許を取るというのも、非常にハードルが高いことなのではないかと思う。

閑話休題。

巻末に「こんなに違うイギリス英語とアメリカ英語」という付録が付いているので大変参考になる。


2.英国ではよく使われているが、日本で目にすることはあまりない単語

筆者もこの本で初めて知った単語に"alight"がある。乗り物から降りるという意味だ。地下鉄のストリートパフォーマーの"busking"という単語も知らなかった。


3.アクセントや発音が違うので通じにくい単語

マクドナルドがこの手の単語で有名だが、(「まくーな」という感じだ)、この本では、コストレル、ーモグロビン、ウディアム(塩分)などが紹介されている。アクセントが違うと全く通じないことがあるので、要注意だ。

この本の付録でも紹介されているが、ロンドンの中心地のピカデリーも日本語風に発音すると通じないと思う。ピカディリーなのだと。

筆者は米国でレンタカーを電話で予約しようとして、Arkansasアーカンソー)で苦労した覚えがある。アーカンサスではないのだ。


4.なんと読むのかわからない地名

なんと読むのか分からない地名が多いのもイギリスの特徴だ。ウィンストン・チャーチルが生まれたブレナム宮殿はBlenheim Palaceだ。

実はこのBlenheimは元々ドイツの町で、チャーチルの先祖のJohn Churchill、Marlborough(モールボラ)卿が勝利を勝ち取った戦いの場所で、ブレナム宮殿は時のアン女王から初代Marlborough卿に与えられたものだという。

現在「21世紀イギリス文化を知る事典」を読んでいるが、実はチャーチルの祖先の話は、この事典に載っていたので紹介したものだ。

800ページの大作だが、イギリス文化の奥深さがわかる話が多く参考になる事典だ。

21世紀 イギリス文化を知る事典21世紀 イギリス文化を知る事典
著者:出口保夫
販売元:東京書籍
発売日:2009-04-04
クチコミを見る


Marlboroughもタバコなら日本語ではマールボロと言っているが、チャーチルの場合はモールボラだ。魚のボラを皿に盛ると覚えると良いと多賀さんはコメントしている。

読めない地名はいくらでもあるので、この本では付録にまとめられている。

例えばReadingなどはアメリカのペンシルバニア州にもあり(発音も同じ)、筆者は何度も行ったので忘れないが、初めての人ではディングとは読めないだろう。


英語のなまりから出身がわかる

最後に英語のなまりから出身地、出身階級がわかる話が紹介されており、多賀さんは1.有名パブリックスクールからオックスフォード大学・ケンブリッジ大学に行った人、2.パブリックスクール出身ではないが、オックスフォード大学・ケンブリッジ大学を卒業した人、3.どちらでもない人、の3パターンを聞き分けられるという。

サッチャー元首相は、2.で、メージャー元首相は3.だ。

マイ・ファア・レイディのヘップバーンのコックニー(ロンドンの下町のスラング)を直すヒギンズ教授の話も出てくる。YouTubeでも英語矯正のシーンがある。



ヒギンズ教授は6マイル内の誤差で、その人の出身地を当てることができ、ロンドンでは2マイル以内、時には通り2本の精度で言い当てることができると言っている。

多賀さんは、自らの経験からして、この「通り2本」というのもあながち誇張ではないと語っている。

筆者は仕事で昨年ロンドンに行ったが、そのとき個人情報の話になり、英国の郵便番号(アメリカではZip code、英国ではPostal code)の精度の話を聞いた。

日本の郵便番号は7桁にもかかわらず、一つの町で一つの郵便番号というように全く有効利用されていないが、英国の郵便番号は建物、ビルディング?ごとについているので、その人の郵便番号がわかれば社会的階級までわかるという話をしていた。

さすが階級社会イギリスだと思う。


詳しく紹介すると本を読んだ時に興ざめなので、あらすじはこの程度にしておくが、12チャンネルのワールド・ビジネス・サテライトの小谷真生子(こたにまおこ)さんが推薦していると本の帯に写真入りで紹介されている。

簡単に読めて役に立つ。是非一読をおすすめする。


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2009年07月14日

回想の日本外交 開戦時の外務次官西春彦さんの外交回想

回想の日本外交 (1965年) (岩波新書)回想の日本外交 (1965年) (岩波新書)
著者:西 春彦
販売元:岩波書店
発売日:1965
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第1次世界大戦中に東京帝大を卒業して外交官となり、ニューヨークでの外交官補研修後、中国に2回(長春、青島)、ソ連には3回駐在し、開戦時には東郷外相の下で外務次官を勤め、戦後はオーストラリア大使、英国大使などを歴任した西春彦さんの回想録。

7月14日付けでチュニジア大使に発令された多賀敏行さんの「エコノミック・アニマルは褒め言葉だった」で紹介されていたので読んでみた。この本は多賀さんが高校時代に出版され、むさぼり読んだそうだ。

「エコノミック・アニマル」は褒め言葉だった―誤解と誤訳の近現代史 (新潮新書)「エコノミック・アニマル」は褒め言葉だった―誤解と誤訳の近現代史 (新潮新書)
著者:多賀 敏行
販売元:新潮社
発売日:2004-09
おすすめ度:4.5
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日米交渉の時に日本の暗号電報が誤訳され、日本側は交渉の誠意がないと見なされ、強硬なハルノートが出される引き金となった話がこの本の中で紹介されている。

外交官の回顧録は多く出されているが、読むのはこの本が初めてだ。

やはり外交の当事者が語る実話は面白い。

西さんは開戦当時の東郷外務大臣の下で外務次官を務め、東京裁判では東郷さんの弁護側証人として証言したこともある。

大学受験に出ないとして昭和史は高校時代に勉強しなかったが、北康利さんの白洲次郎の本を読んでから、昭和史の本をいろいろ読みはじめた。

このブログではいままで450回以上投稿しており、1回に数冊紹介することもあるので、たぶん紹介した本は1,000冊くらいだろうと思う。

アーカーブのインデックスを見ると大体傾向がわかり、趣味・生活に役立つ情報ビジネスがそれぞれ100回を越えており、歴史政治・外交はそれぞれ15程度と少ないが、最近図書館から借りたり、読書家の会社の友人から借りる本は歴史の本が多い。

歴史の本は、読み出すと面白いし、その本の中で紹介されている本を読み出すと芋づる式に、どんどん広がっていくので、気が付くと現在図書館から借りたり、リクエストしている本は半分くらいは歴史の本になっている。

昨年の世界経済危機以来、世界経済は不況に陥っているので、興味をそそるビジネス書が少なくなっていることもあるかもしれない。

今週読むのは次の2つのの大作で、これらを読むために実は2日ほど休暇を取った。

マオ―誰も知らなかった毛沢東 上マオ―誰も知らなかった毛沢東 上
著者:ユン チアン
販売元:講談社
発売日:2005-11-18
おすすめ度:4.0
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マオ―誰も知らなかった毛沢東 下マオ―誰も知らなかった毛沢東 下
著者:ユン チアン
販売元:講談社
発売日:2005-11-18
おすすめ度:4.0
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21世紀 イギリス文化を知る事典21世紀 イギリス文化を知る事典
著者:出口保夫
販売元:東京書籍
発売日:2009-04-04
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ひょんなことから、自分の読書傾向を見直す機会ができた。

閑話休題。


西さんはモスクワ駐在3回のソ連外交のエクスパート

西さんの本を読むと外交とインテリジェンスとは表裏一体だということが痛感させられる。

「戦後日本はインテリジェンスについて全く鈍感だ」と最近有罪が確定した佐藤優さんと手嶋龍一さんが「インテリジェンス 武器なき戦争」の中で語っていたが、その話が今更ながら正しいことがわかる。

西さんはモスクワに3度駐在した対ソ連外交のエクスパートで、何度も日ソ漁業交渉を経験し、西さん達が苦労して結んだ日ソ漁業協定が1945年まで結局17年間続いた。

まさに蟹工船で働く人の生死を握る交渉だ。

蟹工船・党生活者 (新潮文庫)蟹工船・党生活者 (新潮文庫)
著者:小林 多喜二
販売元:新潮社
発売日:1954-06
おすすめ度:4.0
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ソ連大使は重要ポストで、後に外務大臣や首相になった広田弘毅、重光葵、東郷茂徳は皆ソ連大使経験者だ。

日本陸軍の仮想敵国は常にソ連だったが、この本を読むと日ソ関係は特に険悪ということもなかったことがわかる。

しかし1936年に日独防共協定が締結された後は、ソ連側は日独を仮想敵国とみなして断交に等しい厳しい態度を取り、西さんたち外交官は常にGPU(後のKGB)により尾行された。尾行は徹底的で、水泳やスキーにまで一緒についてきたという。まるでジョークの様に思えるが、本当の話だ。

戦前でもソ連とは漁業交渉や、日本が採掘していた北樺太の石油、石炭開発など、様々なビジネスがあったが、日独防共協定以降、ソ連は日本からの物資輸入に許可を出さないなど様々な妨害を加えてきて、石油も一時は20万トンくらいとれたが、2−3年後には4−5万トンに減少し、採算がとれなくなってきた。

日独防共協定コミンテルンの破壊工作に対処するもので、ソ連は防共協定自体には抗議しないが、その裏にある秘密協定に抗議するのだと言っていたという。

西さんは知らなかったそうだが、日独の一方がソ連から攻撃を受けた場合には、もう一方の国はソ連攻撃義務まではないが、少なくともソ連の負担を軽くすることはしないという秘密協定があり、その情報がソ連に漏れていたのだ。


英米との戦争に向け枢軸派で固めた人事の流れ

半藤一利さんの「昭和史」を読むと、2.26事件で陸軍の統制派と皇道派の争いに決着がついて統制派が主流となり、海軍でも穏健派の”条約派”とあくまで艦船建造に固執する”艦隊派”の抗争にけりがつき、”艦隊派が主流となったことが書いてある。

昭和史 1926-1945 (平凡社ライブラリー は 26-1)昭和史 1926-1945 (平凡社ライブラリー は 26-1)
著者:半藤 一利
販売元:平凡社
発売日:2009-06-11
おすすめ度:3.5
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外務省でも同様に英米協調派が追いやられ、枢軸国派が主流となっていった動きが、西さんの本でも書かれている。

外務省には1930年代の終わり頃に「革新派」と称するグループがあり、陸軍の親独派と連絡していて、リーダーの一人は局長で、白鳥イタリア大使もメンバーだったという。

白鳥イタリア大使は、1934年から駐独在外武官としてドイツに駐在し異例の昇進で駐独大使になった大島浩中将と連携して1940年9月に日独伊三国同盟を締結した。

そして1940年に松岡洋右が外相に就任すると「バスに乗り遅れるな」というスローガンのもと「松岡人事」で、それまで外務省の本流の外交官、特に在外大公使の大部分が辞めさせられた。

日独伊枢軸政策を支持するもので外務省の首脳部は占められ、在外公館や外務省の業務にも大きな影響が出たという。

陸軍が外務省人事に口だしするようになり、西さんもソ連公使として外に出された。駐ソ大使は東郷茂徳から代わった元陸軍中将の建川美次大使だった。このとき日ソ中立条約を締結する。1941年4月のことだ。

ちなみに半藤さんの本では、阿部信行内閣の時の1939年9月ー1940年1月に外相に就任し、その後1941年4月に駐米大使に就任した野村吉三郎海軍大将と外務省官僚との人事や貿易省設立案を巡る不仲にもふれている。

戦後白洲次郎が初代長官となって設立した貿易庁(後の通商産業省、現経済産業省)の原案が野村外相の時代に出され、外務省キャリア130人全員が辞表を出したという事件だ。


開戦直前の日米交渉

この本の白眉ともいうべき部分が開戦直前の日米交渉だ。

西さんは1941年10月東條内閣の外務大臣として復活した東郷茂徳外相のもとで外務次官に就任し、日米交渉をまとめあげるために、さっそく外務省内の「革新派」数名を辞めさせた。

東郷外相もなんとか日米交渉をまとめるべく、大本営政府連絡会議(首相、陸相、海相、外相、蔵相、企画院総裁、参謀総長、軍令部総長がメンバー)で中国駐兵期限を25年をメドとすることで米国への提案をまとめ甲案とした。

甲案がうまくいかなかった時に、日本資産凍結解除を条件に南仏印から撤兵するという乙案も用意された。

西さんは1941年11月1日の大本営政府連絡会議に参加し、会議の様子を書いている。この会議の焦点は日米交渉が1ヶ月ほどの間に妥結しない場合は臥薪嘗胆で行くか、開戦を決意するかだった。

永野修身軍令部総長が開戦を最も強く主張した。海軍はこのままいけば石油不足で身動き取れなくなり、その後は英米の要求に屈せざるを得ないという「ジリ貧論」だが、開戦決断は政府の責任だと。

陸軍には即戦論もあった中、東郷外相は交渉の期限を切るべきでなく、全局にわたる見通しがなくして開戦してはならないと強く主張したが、ジリ貧論が大勢を占めた。

西さんも発言し、開戦しなければ石油の不足はあっても無傷の軍艦を温存して平和の時期を迎えられると説いたが、効果はなかった。

東郷外相は賀屋蔵相の賛同を得て、かろうじて結論を1日延ばすこととしたが、結局翌日二人とも東条首相に従うことになり、12月上旬までに交渉が妥結しなければ開戦を決意するとの「第2次帝国国策要領」が決定された。

ルーズベルトと旧知の仲だった前外相の野村吉三郎海軍大将大使の補佐として交渉の専門家の外交官出身の来栖三郎大使も派遣され、甲案から交渉を始めた。

西さんは交渉が甲案でまとめる見込みは五分五分だと思っていたが、ハル国務長官は口頭では甲案を評価したものの対案も出さないので、日本側はやむなく乙案を出した。

しかし議論はかみ合わず結局11月26日にアメリカから出されたのは仏印からも中国からも撤兵を求めるハルノートだったので、時間切れで日本は開戦を決意する。

ハルノートの主要部分は次の通りだ。

BlogPaint











出典:公開されているハルノート原文

日本側が既に甲案で中国からの撤兵を期限付きで提案していることから考えて、筆者が今ハルノート原文を読むと、最後通牒ではなく、まだまだ交渉の余地があるような印象を受けるが、このブログを読む人はどう感じられるだろうか?

いずれにせよ日本側は時間切れで開戦を決定し、戦争に突入した。


日本側暗号解読誤訳の悲劇

西さんはなぜ甲案が受け入れられなかったのか疑問に思いながら、ずっと過ごしていたが、東京裁判の時に弁護側証人として証言した時に、日本側電報の暗号解読文の英訳文にひどい誤訳・曲訳があるのを発見し、合点がいったという。

苦心惨憺の末作った甲案、乙案の妥協案も、この傍受電報一つで蹴飛ばされたと言ってもいいほどだと西さんは悔しがる。

この話を日本側電報原文と暗合解読文の両方をつきあわせて解説したのが、多賀敏行さんの「エコノミック・アニマルは褒め言葉だった」に収録されている「暗号電報誤読の悲劇」だ。

どこがどう曲訳、誤訳、おまけに付け加えられたのか詳しく解説されていて興味深く、わかりやすい。

これでは日本側は誠意がないと受け止められるだろう。

「エコノミック・アニマル」は褒め言葉だった―誤解と誤訳の近現代史 (新潮新書)「エコノミック・アニマル」は褒め言葉だった―誤解と誤訳の近現代史 (新潮新書)
著者:多賀 敏行
販売元:新潮社
発売日:2004-09
おすすめ度:4.5
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西さんは1986年に亡くなっているが、西さん没後に出てきた新発見として、「真珠湾の真実」で明らかにされた、日本を挑発して先制攻撃させて、それを理由に対独戦に参戦しようとするマッカラム米国海軍極東課長の”裏口からの対独参戦計画”がある。

なぜ電報が意図的に曲訳されたのかも、”裏口からの参戦”のためと考えると、つじつまがあう。このことをもし知ったら西さんはどう思っただろうか?


1965年に書かれた本なので、ロシアがソ連だったり、中国が中共だったりして、古い部分はあるが、在野時代も含めて46年間も外交に携わった西さんだけに、裏話も含めた回想録は面白い。

日米安保改訂反対、「完全軍縮」、世界の核兵器廃絶を訴える姿勢は、今は逆に新鮮ささえ覚える。

絶版となっているようだが、アマゾンのマーケットプレースで購入もできるし、岩波文庫なので、多くの図書館でも置いていると思う。

さらに興味が増すので、誤訳された電報解読文が載っている多賀さんの本と一緒に読むことをおすすめする。


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2009年07月10日

真珠湾の真実 ルーズベルトの対独参戦シナリオに組み込まれた日本

真珠湾の真実 ― ルーズベルト欺瞞の日々真珠湾の真実 ― ルーズベルト欺瞞の日々
著者:ロバート・B・スティネット
販売元:文藝春秋
発売日:2001-06-26
おすすめ度:3.0
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ルーズベルト大統領は、事前に真珠湾攻撃を知っていたにもかかわらず、あえて日本に奇襲攻撃を仕掛けさせたというルーズベルト陰謀説の根拠を、1995年に発見された内部メモや暗合解読文などを丹念に調べ検証した本。

田母神さんの本に引用されていたので読んでみた。

この本は渡部昇一さんや、中西輝政さん、櫻井よし子さんなどの多くの本に引用されているが、真珠湾攻撃をアメリカが予期していたことを、「情報の自由法」により明らかにされた多くの暗号電報解読文で立証しているのみならず、なぜルーズベルトが日本の奇襲攻撃を現場の指揮官に知らせなかったのかという疑問まで解明している点で画期的な作品だ。

英語版は次の通りだ。英語版Wikipediaにも要約が載っている。

Day Of Deceit: The Truth About FDR and Pearl HarborDay Of Deceit: The Truth About FDR and Pearl Harbor
著者:Robert Stinnett
販売元:Free Press
発売日:2001-05-08
おすすめ度:3.0
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日本の一部で受け入れられたような「決定版」的な扱いを米国で受けているのかどうかわからないが、日本の翻訳本は90,000位なのに対して、米国では現在でも全体で45,000位程度なので米国でもそこそこ売れているようだ。


10年間の調査の成果

著者のロバート・スティネット氏は、第2次世界大戦中はブッシュ・シニア元大統領と一緒に海軍に従軍した元軍人(従軍カメラマン?)だ。戦後はオークランド・トリビューンの記者(カメラマン)として働き、退社後10年以上掛けて資料を調べ上げこの本を1999年に出版した。

田母神さんの本のあらすじで根拠不足と書いたが、歴史上の史実を立証しようとするのであれば、これくらい資料を揃えなければならないという見本の様な本だ。

脚注の多さは半端ではない。600近い原注に加えて訳注も数十あり、日独伊三国同盟を奇貨として「裏口からの参戦」を説いた1940年10月の米国海軍情報部極東課長のA.マッカラム少佐の「戦争挑発行動8項目覚書」の原文表紙と和訳、数々の日本側暗号電報の英訳が紹介されている。


日本の暗号はすべて打ち破られていた

この本ではPHPT(Pearl Harbor Part、1941年から1946年までの間にアメリカが行った公式調査)、PHLO(上下院合同真珠湾攻撃調査委員会、1945年から1946年までに実施された調査)、無線監視局USの文書、カーター大統領が1979年に公開した太平洋戦争中の日本海軍電報の解読文書約30万点を調査し、当時無線傍受局に勤務していた人へのインタビューなども実施して、膨大な資料を元に書かれている。

アメリカが日本の暗号解読に成功していたことは、東京裁判の証拠としても採用され今や公知の事実だ。その暗合解読作業を実際に行っていたのが、米軍が太平洋のあちこちに配置していた”見事な配置”と呼ばれる無線傍受網だ。

見事な配置

見事な配置






出典:本文134−135ページ

米国は1940年10月前後に日本の外交暗号のパープル(97式印字機)と、日本海軍の5桁数字暗号を特別の解読機を導入して打ち破っていた。

日本領事館を盗聴したり、商船に乗っていた海軍通信士官から暗号書を買い取ったり、あらゆる手段を使って米国は日本の暗号解読に成功したのだ。

パープル暗号が解読されているという情報がドイツから寄せられ、1941年5月に当時の松岡外相が、駐独大使の大島少将に詳細をドイツから聞き出すように頼んでいる暗号電報も、米国に解読されているのはジョークを越えて、お寒い限りだ。

実際ルーズベルトはヒトラーのロシア侵攻計画を、駐独大島大使の日本へのパープル電報の暗号解読で侵攻1週間前の1941年6月14日に知ったという。ドイツが気にする訳だ。

日本海軍の5桁数字暗号の解読情報は、今でも秘密扱いで公開されていないという。

ちなみに「日本軍のインテリジェンス」という防衛省防衛研究所戦史部教官小谷賢さんの書いた本のあらすじに、日本軍の諜報能力についてまとめてあるので、参照して欲しい。

日本軍のインテリジェンス なぜ情報が活かされないのか (講談社選書メチエ)日本軍のインテリジェンス なぜ情報が活かされないのか (講談社選書メチエ)
著者:小谷 賢
販売元:講談社
発売日:2007-04-11
おすすめ度:4.5
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この本の3つの論点

なにせ脚注と解説まで入れると500ページを越えるボリュームの本なので、整理すると次の3つが論点だ。

1.ルーズベルトは米国民が反対していた欧州での戦争に”裏口から”参戦するために、日本に戦争を仕掛けさせた。つまり日本はルーズベルトにはめられたのか?

この本の主題の一つは、1940年10月7日に上奏された海軍情報部極東課長のアーサー・マッカラム少佐の作成した覚書だ。著者のスティネット氏は、1995年に無線監視局USのアーサー・マッカラム少佐の個人名義ファイルの中から、この覚書を見つけたという。

マッカラムメモ

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出典: Wikipedia

マッカラム少佐は、宣教師の両親のもとに1898年に長崎で生まれ、少年時代を日本のいくつかの町で過ごした。日本語が喋れたので米国の海軍兵学校を卒業すると駐日アメリカ大使館付海軍武官として来日した。昭和天皇の皇太子時代に米国大使館のパーティでチャールストンを教えたこともあるという逸話のある知日派だ。

このメモが書かれた当時のことを補足しておくと、ドイツは1939年9月にポーランドを電撃占領し、第2次世界大戦が始まった。その後"Twilight war"と呼ばれる小康状態の後、ドイツは1940年5月にフランスに侵攻・占領し、英国はダンケルクから撤退して戦力を温存した。

その直後からバトルオブブリテンでドイツが英国侵略の前段階として航空戦を挑み、英国が新兵器レーダーと英国空軍の大車輪の活躍で、1940年10月頃にはドイツ空軍の英国侵攻をほぼ撃退したところだった。

ソ連とドイツは独ソ不可侵条約を結んでいたので、ヨーロッパでは英国のみがドイツと戦っているような状態で、チャーチルの名著「The Second World War」第2巻は、"Alone"というタイトルが付けられているほどだ。

第二次世界大戦〈2〉 (河出文庫)第二次世界大戦〈2〉 (河出文庫)
著者:ウィンストン・S. チャーチル
販売元:河出書房新社
発売日:2001-07
おすすめ度:4.5
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ドイツの戦勝を見た松岡洋右などの日本の親ドイツ派は、「バスに乗り遅れるな」のかけ声の下、それまで欧州戦争には中立の立場を取っていたにもかかわらず、日独伊三国同盟を結び、海軍などが反対したにもかかわらず急速に枢軸陣営に加わっていった。

一方ルーズベルトは英国を助けるために、「隣の家が火事になったら、無償で消防用ホースを貸すでしょう?」という国民に対する説明のもとに、英国への武器無償貸与を1939年開始しており、マッカラムメモの後の1941年3月には「レンドリース法」を制定し、英国に武器を無償で大量供与した。

ルーズベルトは既にユダヤ人の殺害を始めていたナチスドイツがヨーロッパを支配することは重大な脅威と感じ、今や英国だけとなった反ドイツ勢力を支援していたが、米国内の共和党を中心とする戦争反対勢力は強かった。

第2次世界大戦が始まる1年前の1938年11月に「水晶の夜」事件が起こり、ナチスがドイツ国内のユダヤ人商店・工場やシナゴーグを襲うという事件が起きており、この事件はスピルバーグの「シンドラーのリスト」にも描かれている。



当時の米国民の8割以上は、欧州の戦争に参戦することに反対しており、ルーズベルトも「息子さんを欧州の戦争には生かせない」と公約して1939年の大統領選挙に勝利したことから、たとえヨーロッパをドイツが占領し、英国が風前の灯火となっていた状況でも米国の参戦を、表だって国民に受け入れさせることはできなかった。

マッカラムメモでは、日本との戦争は不可避であり、米国にとって都合の良い時に、日本から戦争を仕掛けてくるように挑発すべきだと考え、蒋介石政権への援助や、ABCD包囲網での石油禁輸、全面的貿易禁止など8項目の行動計画を提案している。

ルーズベルトがマッカラムメモを読んだことは確実で、もっけの幸いにマッカラムメモにある8項目を順次実施し、日本を挑発し、日本に最初に攻撃させることで、厭戦気分がある米国民を日本とドイツに対する戦争に巻き込む”裏口から参戦する”計画を練って、実行に移したというのがスティネット氏の見解だ。

これで日米交渉では米国側は妥協を一切示さず、結果的に日本を開戦に追い込んだ理由がわかる。


余談となるが、以前紹介した多賀敏行さんの「エコノミック・アニマルは褒め言葉だった」で紹介されていた話を思い出した。

「エコノミック・アニマル」は褒め言葉だった―誤解と誤訳の近現代史 (新潮新書)「エコノミック・アニマル」は褒め言葉だった―誤解と誤訳の近現代史 (新潮新書)
著者:多賀 敏行
販売元:新潮社
発売日:2004-09
おすすめ度:4.5
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開戦当時の外務次官だった西春彦さんの「回想の日本外交」に、1941年後半の日米交渉で日本は大幅な譲歩案である甲案を出したのに、アメリカが全く乗ってこなかったのは、暗号解読電文の誤・曲訳が原因の一つだったことが、東京裁判の証拠調べの時にわかり、その晩は眠れなかったと書いている。

ちなみに東京裁判の時にはブレークニー弁護人がこの誤訳を題材にして大弁論を展開したが、結局判決では誤って英訳していある電文をそのまま判決理由に載せた。唯一パール判事は、少数意見でこのことを詳細に取り上げて鋭く論評したという。

回想の日本外交 (1965年) (岩波新書)回想の日本外交 (1965年) (岩波新書)
著者:西 春彦
販売元:岩波書店
発売日:1965
クチコミを見る


しかし実際にはルーズベルトは日本を挑発して裏口からの参戦を決めていたことが真相かもしれない。

元皇族竹田恒泰さんの「語られなかった皇族たちの真実」に、東久邇稔彦親王の自伝「やんちゃ孤独」で東久邇宮が元フランス首相クレマンソーから聞いた話が紹介されている。

語られなかった皇族たちの真実-若き末裔が初めて明かす「皇室が2000年続いた理由」語られなかった皇族たちの真実-若き末裔が初めて明かす「皇室が2000年続いた理由」
著者:竹田 恒泰
販売元:小学館
発売日:2005-12
おすすめ度:4.0
クチコミを見る


「アメリカが太平洋へ発展するためには、日本はじゃまなんだ。(中略)アメリカはまず外交で、日本を苦しめてゆくだろう。日本は外交がへただから、アメリカにギュウギュウいわされるのにちがいない。その上、日本人は短気だから、きっとけんかを買うだろう。

つまり、日本の方から戦争をしかけるように外交を持ってゆく。そこで日本が短気を起こして戦争に訴えたら、日本は必ず負ける。アメリカの兵隊は強い。軍需品の生産は日本と比較にならないほど大きいのだから、戦争をしたら日本が負けるのは当たり前だ。それだからどんなことがあっても、日本はがまんをして戦争してはならない」


アメリカの戦略はその意味ではクレマンソーの予言通りだったと言えると思う。

閑話休題。


2.真珠湾攻撃は事前に察知されていたのではないか?

日本が対米開戦を決意し、択捉島の単冠湾(ヒトカップ湾)に機動部隊を集結させ、それからハワイに向かって移動していたことは、暗号が解読され米国側に事前に察知されていた。

この本の解説で中西輝政さんも驚いたと書いているが、ヒトカップベイという暗合解読文が原文で紹介されている。

暗号電報解読文の一例

hitokappu bay






出典:本文96−97ページ

さらに開戦を命じた1941年12月2日のニイタカヤマノボレの日本語電報原文と暗号解読された英文も掲載されている。

ニイタカヤマノボレ電文と暗合解読文

Niitakayama cable






出典:本文380−381ページ

"Top Secret-Ultra"に格付けされたこの電報は、打電されたのと同じ日の12月2日に解読されており、"Climb Niitakayama"とは"Attack on Dec. 8"のことだと断言しているのが印象的である。

この暗号解読情報は、1979年にカーター大統領の情報公開に基づいて公開された1941年7月から1945年秋までの30万通にものぼる日本の電報の解読情報の一つだ。

日本側は厳しい無線管制を敷いていて、アメリカ側は事前に察知できなかったとされているが、実際には艦隊への通信が行われており、それが傍受されて機動部隊の動きは米国に捉えられていた。

この本では日本艦隊が実際には頻繁に電報を打っていたことが数々の暗号解読電報から明らかにされており、少なくとも129通の電報が証拠としてあげられている。もっとも”おしゃべり”だったのが、南雲司令官からの電報60通で、司令官みずから無線管制を破っていたことがわかる。

またハワイの日本領事館で森村正こと、吉川猛夫海軍少尉は、日本のスパイとして真珠湾の艦船の停泊情報を調べ日本に送っていた。森村の行動を米海軍は監視はしたが、泳がせていた。これも真珠湾が攻撃される可能性が高いことを事前に知っていたという証拠の一つだ。


3.暗合解読により日本の攻撃は察知されていたのに、なぜ現地の司令官には何も知らされていなかったのか?

これがルーズベルト陰謀説の最大の謎だ。

上記のように”ニイカタヤマノボレ”の電報は、すでに12月2日に解読されており、これが現地の司令官に伝わらなかったのは、意図があってのことだと思わざるをえない。

スティネット氏は、マッカラムメモの筋書き通りに日本を挑発して先制攻撃を仕掛けさせるために、現地のハズバンド・キンメル海軍大将とウォルター・ショート陸軍中将には1941年11月27日に「合衆国は、日本が先に明らかな戦争行為に訴えることを望んでいる」という事前の大統領命令が出されていたことを指摘する。

両将軍は真珠湾攻撃を事前に察知できなかった責任を問われて、降格されているが、実は両将軍とも事前の大統領指令を忠実に履行し、日本側の出方を待っていたのだ。1995年と2000年には両将軍の遺族から名誉回復の訴えが出されている。

スティネット氏が直接インタビューした当時HYPO(真珠湾無線監視局)に勤めていたホーマー・キスナー元通信上等兵の証言によると、彼が毎日HYPOに届けていた書類の中には、無線方位測定による発信源データ(RDF)報告書が含まれており、10月まではキンメル将軍とホワイトハウス向けの両方に入っていたのに、1941年11月からキンメル将軍宛には入っていない。

このことを知らされたキスナー氏は、”誰が抜き取ったんだ?”と仰天した。

キスナー氏が完全な報告をHYPOに届けてから、しばらくたって誰かがRDF記録を抜き取った。1993年に国立公文書館真珠湾課長の専門官は、HYPOからキンメル大将宛の通信概要日報のうち、1941年11月と12月分65通以上に手が加えられているのを確認した。

1945年の議会公聴会前に提出された時には、既にページの下半分が切り取られていたという。

日本機動部隊の無線封止神話はここから始まったとスティネット氏は語る。

誰かが操作したことは間違いないようだ。

チャーチルもコベントリー市へのドイツ軍の空襲計画を事前に知りながら、予防措置を出動させれば、英国がドイツの暗号を解読していることがドイツに知れることを恐れ、コベントリー市民にはなんの警告も出さずに、多くの生命を犠牲にしたという。

ヒトラーというより大きな悪に立ち向かうためには、必要な犠牲だったとスティネット氏は語る。苦痛に満ちていたがルーズベルトの決定は、枢軸国に対して連合国を最終勝利に導くために戦略的に計算しつくされたものだったのだと。


蛇足ながら、スティネット氏は、日本軍の戦略性の無さも指摘している。

真珠湾に停泊していた旧式戦艦や艦船などを攻撃せずに、真珠湾に大量に備蓄されていた500万バレルの船舶用石油タンクとか修理ドック、高圧送電線網などの米海軍のロジスティックス設備を徹底的に攻撃していたら、米軍の反撃は数ヶ月は遅れたのではないかと。

チャーチルの「第2次世界大戦」でも書かれていたが、英国の船舶損失の90%は大西洋で、太平洋での損失はわずか5%程度だ。日本の潜水艦はドイツのUボートのような商船の攻撃はほとんど行っていないので、撃沈トン数も低い。

Wikipediaによると、Uボートは1,131隻が建造され、敗戦までに商船約3,000隻、空母2隻、戦艦2隻を撃沈したという。ほとんど戦闘艦船は撃沈していないのだ。Uボート自身の損失は743隻だという。

武士道精神なのかもしれないが、日本の潜水艦は武装艦船ばかりねらって非武装の商船はほとんど攻撃していないのだ。

相手の息の根を止めるにはなにをすべきか、相手が困るのはなにかという発想が欠けている。兵站思考のなさ。それが日本軍の最大の欠点であり、すでに真珠湾攻撃の時から、その弱点は露呈していたのだ。


後日談

1999年の執筆や2000年の追補時点でも米国海軍の暗号解読情報は未だ公開されていない。この異常とも思える秘密主義は、ルーズベルトが真珠湾攻撃を知っていたという疑惑を遠ざけるためだと著者のスティネット氏は語る。

いまだに開戦時の情報は公開されていないものがあり、すべては状況証拠ではあるが、この本を読むとルーズベルトが日本に先制攻撃を仕掛けさせることによって、米国民の8割が戦争に反対していたアメリカ世論を一挙に変える賭けに出たと思わざるを得ない。

メキシコとの戦いの時、「アラモを忘れるなーRemember Alamo"」のスローガンが米国民を一つにした故事にならい、"Remember Pearl Harbor"のスローガンのもとに、米国民が一致団結したのはまさにルーズベルトが望んだ通りの結果だったろう。

また米国の日独伊との戦争への参戦は、同盟国のイギリスのチャーチルも中国の蒋介石も望んだ結果なので、その意味でもルーズベルトはマッカラム計画に従って進めやすかったのだろうと思う。


本件に関する筆者の個人的見解

以下は筆者の個人的見解だが、ルーズベルトが日本をけしかけて、裏口からでも対独参戦したかった理由の一つは、ドイツの核開発疑惑ではないかと思う。

アインシュタインがルーズベルトにレターを送って、ドイツの原爆開発の可能性について警告したのは、1939年8月のことだ。

ルーズベルト宛のアインシュタインのレター

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出典:Leo Szilard Online

その後1941年には英国からMAUDレポートと呼ばれる原子爆弾の製造は可能という報告もあり、ルーズベルトはウラン資源を持ち、核分裂研究で世界のトップだったナチスドイツが原爆を持てばアメリカのみならず人類の重大な脅威になると感じていたのは間違いない。

MAUDレポート

MAUDPageLarge












出典:Wikipedia

だからルーズベルトが米国民の8割を越える反対にもかかわらず、欧州の戦争に参戦したがっていた背景には、ドイツが原爆を世界に先駆けて開発して、世界を支配するのではないかという恐れがあったように筆者には思える。

この裏付けにも思えるが、ルーズベルトはアメリカの原爆開発計画を勧める科学者ヴァネヴァー・ブッシュの1941年11月のレターを、日本が真珠湾攻撃を仕掛けてくるまで手元にそのままキープしていた。

そして日本の真珠湾攻撃を受けて、アメリカが第2次世界大戦に参戦した直後の1942年1月に、自筆メモで原爆開発計画にOKを与えているのだ。

「このメモを金庫にしまっておけ」と原爆開発計画を承認するルーズベルトの手書きメモ

VBOKLarge












出典:The Manhattan Project

これが1942年にスタートしたマンハッタン計画のさきがけだ。

マンハッタン計画の中心人物Groves将軍と科学者オッペンハイマー博士

458px-Groves_Oppenheimer











出典: Wikipedia


掲載されている数百の暗号解読文だけでも著者のスティネット氏が導き出したルーズベルトは真珠湾攻撃を知っていたという仮説は正しいと思う。

まだ公開されていない暗合解読文などの資料が将来公開されれば、現在は状況証拠の寄せ集めに過ぎないスティネット仮説も実証される時が来るのではないかと思う。

もっともルーズベルト陰謀説が正しいからといって、それで歴史が変わる訳ではないし、スティネット氏が語るようにルーズベルトの評価が落ちる訳でもない。開戦を決断したのは、昭和天皇と東條英機他の当時の日本の指導者だという事実に変わりはないのだ。

田母神さんのように、日本はルーズベルトにはめられて戦争に引き込まれた被害者だと胸をはって主張するのは無理があると思う。マッカーサーの言うように日本は自己防衛の為に戦争をしたにせよ、戦争を始めたのは日本なのだ。

資料からの引用が多く読みにくいが、日本人として一度は目を通しておくべき資料だと思う。一読に値する本だ。


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2009年07月07日

なにを食べたらいいの? 続・食品添加物の世界

なにを食べたらいいの?なにを食べたらいいの?
著者:安部 司
販売元:新潮社
発売日:2009-01
おすすめ度:4.5
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「食品の裏側」が60万部超というベストセラーとなった元食品添加物セールスマン、安部司さんの近著。

食品の裏側―みんな大好きな食品添加物食品の裏側―みんな大好きな食品添加物
著者:安部 司
販売元:東洋経済新報社
発売日:2005-10
おすすめ度:4.0
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「食品の裏側」と同様に、食品添加物でくず肉を使ってハンバーグや肉団子をつくったり、明太子をおいしそうに保ったりという加工食品の裏側を紹介しており、手首を使って手に取った食品の裏側の成分表に注意して食品を買うことを勧めている。


「合成保存料不使用」の怪

特にこの本で印象に残ったのは、保存料の話だ。

保存料はソルビン酸とか安息香酸などがあるが、これらは国により使える食品と、分量も決まっているので、簡単には使えない。

ところがいろいろな添加物を配合すると話は別だ。

たとえばサンドイッチなどにはリンゴ酸、酢酸ナトリウム、メタリン酸ナトリウムなど6種類から10種類の添加物を配合して「PH調整剤」と一括表示すれば良い。

「合成保存料」ではないので、たとえ実際には保存料と同じ効果のある「PH調整剤」でも、表示の義務はなく、逆に「合成保存料不使用」と表示が出来るという。

合成保存料的な成分を含んでいても、「PH調整剤」とか「調味料(アミノ酸など)」と一括表示すれば良いのだ。

常温で2−3日日持ちがするパック入りのサンドイッチは、保存料がなくてはありえない商品だが、冷蔵ケースに置くよりも、オープンケースの棚で売る方が売り上げが上がるというニーズに合わせたヒット商品だという。

実際に手にとって見てみたが、常温(5月ー10月は最高30度)で賞味期限が3日間となっている。たしかに「保存料」とかは一言も書いていないが、「PH調整剤」や「調味料」は入っている。

たぶんパックは密閉で、酸化を防止するガスなどが封入されているのだとは思うが、保存料無しで30度の環境で3日持つのはありえない話だ。


有機食品は売れない

安部さんは、有機農業のJAS判定員資格を持っているそうだが、日本の有機JASは大変厳しく、隣の田んぼで虫が大量発生しても、殺虫剤も撒けないという。除草剤、殺虫剤は使えず、堆肥にも厳しい基準がある。

無農薬・無化学肥料の安全な食品だが、コストが高いので、まったくといって良いほど日本では売れていないという。

安部さんは北九州市に住んでいるので、知り合いがやっているくまもと有機の会から、有機野菜のセットを送ってもらっているという。

栄養価も高く、「ハマる」おいしさだという。無数の外敵を生き抜いてきた野菜には力強さまで感じるという。


添加物を減らす努力

添加物なしの食生活を送ることは、大変難しいと思うが、たとえばポン酢のかわりに丸大豆醤油と100%果汁を使うとか、添加物を使っていることを意識するとか、ちょっとした工夫で添加物を減らすコツを紹介している。

ちなみに筆者の住んでいる町田市には「日本一醤油」という昔ながらの醤油を造っている岡直三郎商店という会社がある。

価格は一本1,000円前後と高いが、まさにこの本で紹介されている原料:丸大豆、有機小麦、天日塩だけを使った純粋な醤油だ。

楽天でも出店している。

人気商品!いい品をさりげなく贈ろう・・・日本一醤油の贈り物【02P25Jun09】
人気商品!いい品をさりげなく贈ろう・・・日本一醤油の贈り物【02P25Jun09】


ベストセラーの「食品の裏側」の様な強烈な印象はないが、特に保存料については消費者には気が付かない、いわば世間の非常識・食品業界の常識のようなものが紹介されていて興味深い。

今年出た本でもあり、書店等で一度手に取ってみて欲しい本である。


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2009年07月05日

生涯ソムリエ 国際ソムリエ協会会長小飼さんの自伝

生涯ソムリエ生涯ソムリエ
著者:小飼 一至
販売元:エフビー
発売日:2008-12
おすすめ度:5.0
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日本ソムリエ協会会長で、2007年からは国際ソムリエ協会会長もつとめる小飼一至(こがいかずよし)さんの自伝。

ソムリエが書いた本としては、ソムリエの教科書ともいえる浅田勝美さんの「ワインの知識とサービス」がある。

ワインの知識とサービス





新版 ワインの知識とサービス―仏・独のワインを中心に
著者:浅田 勝美
販売元:柴田書店
発売日:1991-09
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筆者はソムリエの友人に勧められて、15年ほど前に浅田さんの本を買って大事にしているが、フランスワインの解説などは今でも参考になる。小飼さんの本でも浅田さんの本が引用されている。

ワインの知識や、サービスについては浅田さんの本にまかせ、この本では、ソムリエやソムリエ、ワインエクスパートを目指す人に向けた小飼さんの実戦的アドバイスが書かれている。


小飼さんの略歴

小飼さんは長野県茅野市出身。日本のマキシム・ドゥ・パリに1969年に入社し、すぐにシェフ・ソムリエとなり、1973年にフランスのマキシムでソムリエとして1年間修業した。

当時フランスのマキシムはミシュラン3つ星で、JFKの未亡人ジャックリーンと結婚した海運王オナシスなどの超VIPが常連だった。

マキシムのオーナーの厚意で、師匠のシェフ・ソムリエ、ジュリアンと一緒にボルドーやブルゴーニュのワイナリーを歴訪して歓待を受け、普通では教えてもらえないような情報まで知ることができた。

日本に帰国後、1981年に日本のソムリエコンクール優勝。翌1982年にマキシムからプリンスホテルに転職。そのときはマキシムのオーナー、ソニーの盛田さんの奥さんからもプリンスホテルへに口添えしてもらい、温かく送り出されたという。


世界ソムリエコンクール予選

1988年にはパリで行われた世界ソムリエコンクールに日本代表として出場。

この世界ソムリエコンクールの日本代表を決めるために、小飼さん、田崎真也さん、そして渋谷昭さんの過去の国内ソムリエコンクールの優勝者3人で、決戦が行われた。

結果は小飼さんと田崎さんが同票で、二人ともいわばプレイオフの問題を要求したのに、審査員はあみだくじを提案。二人が拒否すると、当時29歳の田崎さんは自ら辞退し、当時41歳の小飼さんが世界ソムリエコンクールの日本代表となった。

小飼さんは1988年の世界ソムリエコンクールを最後にコンピティションからは引退し、その後は田崎さんが出場し、ついに1995年の東京大会で優勝する。



1988年の日本代表を譲ってもらった時に、小飼さんは「田崎さんをライバルとは考えない。一生の友と考える」と決心したことを、この本で告白している。


世界ソムリエコンクールで3位入賞

小飼さんが3位に入賞した世界ソムリエコンクールでは、筆記問題と利き酒問題が出題された。

最後の利き酒では、第1問はブルゴーニュのシャンボール・ミュジニー1983年を、小飼さんはシャサーニュ・モンラッシュの1983年と答えた。ブルゴーニュのコート・ドール県の北と南の違いだった。

★送料無料★[1996]シャンボール・ミュジニー/ドメーヌ・ミシェル・グロ(クール代別)
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シャサーニュ・モンラッシュ[2002]ブランショ・デュス
シャサーニュ・モンラッシュ[2002]ブランショ・デュス


筆者はシャンボール・ミュジニーは飲んだことがある。女性的な名前だが、ブルゴーニュの赤ワインらしく、力強さも持った特級から第一級のワインだ。

第2問のカルバドス8年ものは、カルバドス6年物と答え、ほぼ正解だった。小飼さんは優勝を確信していたところ、3位になり、観客席で応援していた田崎さんに申し訳ない気持ちで一杯だったという。

ちなみにこの時の1位は利き酒が抜群に強かったアメリカ代表のソムリエだった。地元フランスのソムリエは第2位となり、彼は次の1992年のブラジルで開催された世界ソムリエコンクールで優勝し、リベンジを果たしている。


ソムリエに必要な知識

小飼さんは1993年からは国際ソムリエ協会の技術委員として、コンクールの問題作成と審査にあたり、2007年に国際ソムリエ協会の会長に就任する。

マキシムでの人脈と、国際ソムリエコンクールに参加することで築いた世界のソムリエとの交友関係の広さが、小飼さんの強みだ。

一流のソムリエには、まずはワインの知識が要求されている。トリビアのような問題でも徹底して覚えるのだ。

たとえば世界ソムリエコンクールのフランス予選では、次のような質問が出されたという。

★ロマネ・コンティが造られなかった年は何年か?

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答えは1946年〜1951年だ。これに答えられた選手がフランス代表となった。こんな事は暗記するしかない。


小飼さんの勉強法

小飼さんは片道40分の通勤時間を利用して、電車を勉強部屋にしたという。小飼さんがソムリエとして知識を憶えたのは次の本だ。

Larousse Encyclopedia of WineLarousse Encyclopedia of Wine
販売元:Larousse Editions
発売日:2001-10
クチコミを見る


フランス語の辞書で有名なLarousse社が出しているワインの事典だ。アマゾンに載っているのは英語版だが、小飼さんはフランス語の原典で勉強したという。

ラルース ワイン通のABCラルース ワイン通のABC
販売元:日経BP社
発売日:1998-01
クチコミを見る



小飼さんがサーブした有名人

この本では、小飼さんがサーブした海運王オナシスユル・ブリンナー、などの有名人の逸話が紹介されている。オナシスは「ルージュ」としか言わないのだという。オナシスがルージュと言うと、1937年か1951年のシャトー・ラフィット・ロートシルトをよく開けたという。

1937 (750ml)シャトー・ラフィット・ロートシルト 1937 (750ml)
1937 (750ml)シャトー・ラフィット・ロートシルト 1937 (750ml)


ユル・ブリンナーはマキシムを自分のキッチン代わりに毎日使っていたという。大体ボルドーのメドックのワインを飲みながら、その日のおすすめ料理を食べていたという。

ジョン・ウェインはワインは飲まず、ウォッカ・マティーニ一本槍。

セルジオ・メンデスは、いつも女性と一緒に来て、途中で女性が泣き出し、しょうがないなという感じで、メンデスがバンドのピアノを借りて演奏し、女性が歌うというパターンだったという。毎回40−50分の即興演奏で、お客は大喜びだったという。

セルジオ・メンデスは、DRCの”ラ・ターシュ”、”リシュブール”、”グラン・エシェゾー”をよく飲んでいたという。ロマネ・コンティなんかは飲まないという主張が感じられたという。

パーカーポイント90点!【送料無料】[1985] DRC ラ・ターシュ 750ml【No.11036】[1985] DRC La Tache 750ml
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ジョン・レノンオノ・ヨーコと来て、蚊の泣くような声で「オレンジジュース」と頼んだという。


日本で一番カッコイイ男、白洲次郎

小飼さんが日本人で一番カッコイイと思ったのは、白洲次郎で、最初の印象からただ者ではないというオーラを放っていたという。既に70歳を過ぎていた頃だが、上背がありすらりとして姿勢がよく、ワイシャツとネクタイの接点をこれほどきれいにしている人はいなかった。

いつもスーツ姿で、男でもほれぼれするようなカッコイイ人だった。

小飼さんがサーブすると、まるで長年の知り合いのように会話を楽しみ、ワインは何にするかと聞くと、「そうだな、何にするか」と小飼さんの手を握ってくれたという。普通の人がやったら、まるで様にならないと思うが、様になる上に、相手に感動を与えるのはさすが白洲次郎だ。

小飼さんは最初は外人かと思ったと。決していばらない、まさにジェントルマンだった。

目の下に少しソバカスがあったが、目が熱っぽく、老人だったが、目が子供のようにかわいらしかった。とにかくあれほどカッコイイ人はいなかった。

小飼さんは当時白洲次郎のバックグラウンドを知らずにサーブしていて、情けないと語る。後にNHKテレビで白洲次郎特集を見て、非常に感激したと語る。




ソムリエの命は利き酒

ソムリエはワインの売り上げを上げなければならないので、高品質のワインを手頃な値段で仕入れる事が重要で、そのためには利き酒能力を磨く必要がある。

自分で利き酒をして、良いワインを格安の値段で買って、リーズナブルな価格で売るのがソムリエの仕事だ。

たとえば、今回筆者のソムリエの友人からわけてもらったワインは次のワインだ。

“バッド・ボーイ”[2005]年・ジャン・リュック・テュヌヴァン・AOC・ボルドー“Bad Boy”[2005] Jean-Luc-Thunevin AOC Bordeaux
“バッド・ボーイ”[2005]年・ジャン・リュック・テュヌヴァン・AOC・ボルドー“Bad Boy”[2005] Jean-Luc-Thunevin AOC Bordeaux


ワイン評論家のロバート・パーカーが、醸造家のテュヌヴァン氏を"Bad boy"と呼んだことから、それを銘柄としたボルドーワインで初めて英語の名前がついたガレージワインだ。2005年が最初のビンテージで、熟成は2010年以降、2025年頃までと予想されている。

まだ出たばかりなので、価格は安いが、いずれ評判が上がれば、同じテュヌヴァン氏のシャトー・ヴァランドローの様に価格も上昇することが見込まれる。

[1997] シャトー・ド・ヴァランドロー 750ml
[1997] シャトー・ド・ヴァランドロー 750ml


ソムリエは、定評のあるワインを揃える他に、このような知られざるワインでも積極的に試飲して評価し、良ければ店の在庫として確保し、常連客に出すのだ。

ワインは色、香り、味の3つの点で判断するが、小飼さんが最も強調するのが、ワインの香りだ。

ワインの香りにはアロマとブーケがある。

言葉で言い表しにくいが、小飼さんは、若いワイン、たとえばボジョレー・ヌーヴォーの香りがアロマで、熟成した良いワイン、たとえばモンラッシュの10年ものの香りがブーケだという。


ワインの評価には香りが不可欠

利き酒の能力を伸ばすには利き酒につぐ利き酒しかない。コンクールなどでの利き酒での決め手は香りだと小飼さんは語る。

ワインの試飲で香りが重要な理由は、味だけでは、そのワインがどんなワインなのかを理解出来ない、つまり当てられないからだと。

グラスに注いで香りをかぐ練習が良い。

筆者の友人のソムリエは、ワインを一旦グラスに注いで、すぐにグラスを空にして香りをチェックする。こうすると熟成した時の香りがわかるのだという。

ソムリエはそこまで香りに真剣になる。利き酒というと、味を見るのかと思っていたが、プロのソムリエは香りをいろいろな角度から評価する。今まで疑問に思ってきたことがこの本を読んでわかった。

香りを記憶するために、フランスでは”ネ・デュ・ヴァン”という、香りのエッセンスを入れた小瓶54本セットのワインテスターがある。

【送料無料】ルネデュヴァン54種LES060ALワインの香エッセンス 取り寄せ品
【送料無料】ルネデュヴァン54種LES060ALワインの香エッセンス 取り寄せ品


香りを表現していくには、”グー・デュ・ヴァン”というワインの香りを系統的に分けている本が良いという。


この本にはソムリエなどのプロの読者も想定して、小飼さんの「接客の心構え」9ヶ条、よいソムリエの5つの条件、「人を育てる心得」11のポイント、最後に国際ソムリエコンクールで出題される問題の傾向について説明していて興味深い。

この本を読むまで国際ソムリエ協会の会長が日本人だとは知らなかったが、日本のソムリエ業界を小飼さんと、田崎さんの二人で世界トップクラスにもり立てているようだ。

ソムリエコンクールの質問の傾向など、舞台裏も描かれていて面白い。

ワインに興味がある人に、是非おすすめする。


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2009年07月02日

モデル失格 押切もえさんの最大の長所はコンプレックス?

モデル失格 ?幸せになるためのアティチュード? (小学館101新書 24)モデル失格 ?幸せになるためのアティチュード? (小学館101新書 24)
著者:押切 もえ
販売元:小学館
発売日:2009-02-03
おすすめ度:3.5
クチコミを見る


ティーン誌"CanCam"のお姉さん版"AneCan"の専属モデルとして活躍する一方、テレビの英語番組、”英語でしゃべらナイト”のパーソナリティを務めるなど、積極的に才能を磨いているトップモデル押切もえさんの本。



「おっさんがこんな本読むな!」と言うことなかれ。いわゆる「タレント本」と思ってはいけない。

アマゾンのなか見、検索に対応しているので、是非目次のところを見て欲しい。

共感出来る点も多く、もえちゃんの芯の強さ、そしてなによりも生きることすべてにポジティブな性格には敬意を表する次第である。

もえちゃんはNHKの英語番組にレギュラー出演しているので、他のモデルとは違うなと以前から思っていたことが、この本を読んだきっかけだ。



この本を読んで、プロダクションが倒産して、仕事のない時は日雇いアルバイトをしていた不遇の時代があったり、CanCamの専属モデルとなってからもハワイで首を複雑骨折したり、コンプレックスと苦労を乗り越えて、もえちゃんの現在の姿があることを初めて知った。

この本の主題をもえちゃんは、第1章第3節のタイトルとしている。いわく:

「最大の長所は、コンプレックスです」

コンプレックスは人間を伸ばすバネとなる良い実例だと思う。

次がもえちゃんのコンプレックスだ。今では克服し、逆に特徴と転じて、現在のもえちゃんがある。

★顔がファニーフェイス

★モデルとしては身長が低い(といっても169センチ)

★読者モデルというスタート

★ティーンを過ぎた20歳になってからのティーン誌モデルスタート

★ティーン誌出身モデルというハンディ

★「臆病、あきらめが早い、人見知り」という三重苦の性格

★字が汚い、新聞が読めないというハンディ


筆者もコンプレックス克服が発端

余談になるが、筆者はあらすじブログを5年近く書いているので、先日知人から、昔からあらすじをまとめるのが得意だったのだろうと言われた。

実は全然そうではない。

むしろあらすじをまとめることは不得手だった。

恥ずかしい思い出だが、大学1年生の時に政治学の大森 彌(おおもり わたる)先生の教養のゼミを取った。

タイトルは「組織と人間」だったか、外国人の学者の論文の抄訳をまとめた本が教材で、学生2人が一組となり、それぞれが担当する章の要約を発表するというゼミだった。

自分の番が来たときに発表したあらすじは、本の引用をコピペしたようなもので、「○○教授は”○○である”と語り、その理由については”△△である”と語っている」というような、コピペあらすじだった。

一方、たしか開成出身のいかにもスマートな学生は、きちんと自分の言葉で担当の章を要約しており、自分の頭が整理されていないことを痛感させられた。

筆者は学生時代は1日1冊本を読むことをノルマにしており、それこそ漱石や芥川の小説から、政治学、哲学の本まで幅広く読んだ。

しかし、これまたページをめくり、字を追っていただけで、ゼミでの要約と同様に、本を読んでも自分の頭で理解していないものだから、単に「読んだ」というだけで、内容はほとんど憶えていなかった。

この度重なる「自分の頭が整理されていない」という発見は、強烈なコンプレックスを自分に抱かせることになった。

それから人の話や、本のあらすじを要領よくまとめることを目標としてきた。いまだに満足していないが、このブログを書くことで、自分の頭の中を整理するトレーニングをコンスタントに続けているのだ。

英語にしてもそうだ。会社に入った時は社内検定3級で、TOEICでいえば700点台だったが、米国駐在の時も含めてコツコツ向上を心がけ、TOEIC945点にまでなった。

これも、最初の海外駐在の時にパンナム機でスチュワーデスに"milk"を頼んだら、ビールを持ってこられたという屈辱があったから、発憤して英語能力アップに取り組んだのだ。

だからもえちゃんの「コンプレックスが最大の長所」というのは、まさに実感できる。


押切流、幸せになるための処方箋

押切流、幸せになるための処方箋として、「こころ」をポジティブにする方法、「からだ」をポジティブにする方法、「仕事」をポジティブにする方法、幸せをつかむ「姿勢=アティチュード」のつくり方を、それぞれいくつかの項目に分けて説明している。

なか見、検索で目次
を見て欲しいが、いくつか抜き出すと、次のような処方箋を書いている。

★自分を好きになれないとき

★ここぞの勇気が欲しいとき

★どうしようもなく落ち込んだとき

★きれいになりたいとき

★ダイエットについて

★評価してもらいたいとき

★何をしていいかわからないとき

★行き詰まったとき

★どんなときでも「夢」に向かえ

★常に負けず嫌いたれ

★幸せに向かって、走れ

「『幸せになりたい』が、すべての原動力」で締めくくっており、「おばあちゃんになっても、現役モデルを続けていること」が将来の夢だという。

もえちゃんは太宰治の「人間失格」を繰り返し読んでいるので、この本のタイトルも「モデル失格」となっている。

人間失格 (集英社文庫)人間失格 (集英社文庫)
著者:太宰 治
販売元:集英社
発売日:1990-11
おすすめ度:4.0
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「私はモデル失格だ」、そしてそれを認めたときから、私のモデル人生は始まったのだと。


もえちゃんも図書館でパワーアップ

この本のなかで、もえちゃんは参考になることを数多く書いているので、是非読んで欲しいが、そのなかでも筆者が注目したのは図書館についてだ。

仕事のモチベーションは家族だともえちゃんは語るが、仕事が無いときも、ただ家にいることを両親は許さなかったという。「働かざる者食うべからず」の精神だ。

そのおかげでもえちゃんは図書館に足を運ぶことになった。現状打破の方法が見つからないなら、先人に聞けということで、モデルや俳優で活躍している人の本を読み漁るようになったという。


前半は自分のコンプレックス克服法、後半は人生相談のような内容だ。筆者がいわゆる「タレント本」とは違うというゆえんである。

図書館について書いていることも好感を持った。「タレント本」とバカにせず、是非一度手にとって見て欲しい本である。



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Posted by yaori at 00:40Comments(0)TrackBack(0)