2009年08月31日

ミッドウェーの奇跡 元GHQ戦史室長がまとめた中立的戦史

ミッドウェーの奇跡〈上〉ミッドウェーの奇跡〈上〉
著者:ゴードン・W. プランゲ
販売元:原書房
発売日:2005-02
おすすめ度:5.0
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図書館で見つけて読んでみた。ミッドウェー海戦といってもあまりピンと来ない人もいるかもしれないので、あらすじとともにYouTubeの映像もいくつか紹介しておく。

原書房という知らない出版社だし、装丁もパッとしないので、あまり期待しないで読んでみたが、実は著者のゴードン・プランゲ博士はGHQの戦史室長として昭和26年まで日本に滞在し、旧軍人を中心に200人もの人を自宅に招いて何度もインタビューし、それをもとに3つの作品を残した人だった。

プランゲ博士の収集したプランゲ文庫は、ワシントンDC郊外のメリーランド大学に保管されており、1945年から1949年の日本のほとんど全ての印刷物を集め、中にはGHQの検閲で発禁になったものも含まれる貴重なコレクションとなっている。


ブレンゲ博士の3部作

プランゲ博士の残した3つの作品で最も有名なものは、日米合作映画「トラ・トラ・トラ」の原作となった「トラ・トラ・トラ」だ。



トラトラトラ〈新装版〉トラトラトラ〈新装版〉
著者:ゴードン・W. プランゲ
販売元:並木書房
発売日:2001-06-01
おすすめ度:4.5
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もう一つは日本経由でドイツの情報がソ連に流れていたゾルゲ事件を取り上げた「ゾルゲ・東京を狙え」。

ゾルゲ・東京を狙え〈上〉ゾルゲ・東京を狙え〈上〉
著者:ゴードン・W. プランゲ
販売元:原書房
発売日:2005-04
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そして今回の「ミッドウェーの奇跡」だ。


翻訳者の千早さんも戦史専門家

翻訳者の千早正隆さんは、終戦時の連合艦隊参謀で元海軍中佐、プランゲ博士が戦史室長を務めていた時にGHQ戦史室に勤め、資料収集に協力した。

千早さん自身も「日本海軍の戦略発想」という本で、敗戦原因について語っており、昨年末に新装版が発売されている。

日本海軍の戦略発想日本海軍の戦略発想
著者:千早 正隆
販売元:プレジデント社
発売日:2008-12
おすすめ度:5.0
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この本では、真珠湾攻撃に成功し、マレー沖海戦で英国艦隊に打撃を与え、セイロン沖海戦にも勝利して、米海軍に対し物量的にも優っていた日本海軍が、なぜアリューシャン列島攻撃ミッドウェー作戦という意味の無かった作戦を行い、敗れたのかを当時の日米関係者へのインタビューも含めて中立的に描いている。

YouTubeでも当時のフィルムをカラーにした記録映画が掲載されているので、紹介しておく。冒頭のシーンはドーリットル爆撃だ。



「ミッドウェー」という映画も作られている。




ミッドウェー海戦の本

ミッドウェー海戦はまさに太平洋戦争の転換点となったので、敗戦の理由は過去からいろいろ取り上げられ、様々な本が出版されている。


「運命の5分間」

真珠湾攻撃総隊長として戦果を挙げた淵田美津雄氏(戦後は宣教師となった)と大本営参謀の奥宮正武氏の「ミッドウェー」。

ミッドウェー (学研M文庫)ミッドウェー (学研M文庫)
著者:淵田 美津雄
販売元:学習研究社
発売日:2008-07-08
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ミッドウェー海戦では、日本軍空母が地上攻撃の爆弾から艦隊攻撃の魚雷に爆装転換していた「運命の5分間」に太陽を背にした米国急降下爆撃機が突如現れ、「赤城」、「加賀」、「蒼龍」に直撃弾を食らわせ、それが準備中の爆弾・魚雷に引火して大爆発を起こした。

それが直接の敗因で、あと5分あれば全機発艦して被害は免れていたというものだ。この「運命の5分間」についてはNHKがまとめたビデオで紹介されている。



これに対して「ミッドウェー海戦史に重大なウソを発見した」という澤地久枝さんは、「滄海よ眠れ」という全6巻のミッドウェー戦記を書いて「運命の5分間」に疑問を投げかけている。

滄海よ眠れ 1―ミッドウェー海戦の生と死
著者:澤地 久枝
販売元:毎日新聞社
発売日:1984-09
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澤地久枝さんの「記録ミッドウェー海戦」

澤地久枝さんは、集めた資料を一冊の本にして「記録ミッドウェー海戦」という本も出版している。

記録ミッドウェー海戦
著者:澤地 久枝
販売元:文藝春秋
発売日:1986-05
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実は筆者の亡くなった父からミッドウェー海戦で、いとこが空母の機関員として必死の操艦の末戦死したと、子どもの頃聞いたことがある。

この「記録ミッドウェー海戦」を調べてみると、たしかに「加賀」の機関員として「須山正一」という人が戦死している。筆者のおじさん(父の弟)から貰った昭和16年の戸籍謄本があるので確認してみたら、たしかにこの人は父のいとこで間違いない。

慰霊碑で親戚の名前を見つけた思いだ。19歳5ヶ月で戦死している。さぞかし家族は悲しんだだろうと思う。筆者もあたらめてショックを受けた。


ミッドウェー敗戦の根本原因

山本五十六大将は、ミッドウェー海戦後、部下に「敗戦は私の責任だ」と語ったそうだ。プランゲ博士もミッドウェー海戦の敗戦の真の責任者は山本五十六だと述べながらも、驕慢が海軍のみならず全国民に蔓延していたことを強調している。

「日本をこのように征服、驕慢、傲慢に駆り立てた歓喜に溺れた雰囲気の背景を見ることなくしては、ミッドウェーの史的ドラマの真相を理解することはできない。

「彼らが自信から生まれた幸福感にひたった過程を見ることなくしては、彼らが真珠湾で見せた綿密な作戦計画、徹底した訓練、細心な機密保持が、わずか6ヶ月足らずの間にどうして消え失せたのかを、知ることはできないであろう。」


ミッドウェー海戦の評価

この本でプランゲ博士はアメリカの海軍大学で教えている204SMEC方式という作戦評価方式で、日本軍のミッドウェー作戦を評価している。いかに成功の可能性が少なかったかがよくわかる。

1.目的
ミッドウェー島を攻撃し占領するのか、ニミッツの太平洋艦隊を撃滅するのか。プランゲ博士は日本の計画は最初から「双頭の怪物」だったという。そもそもアリューシャンとミッドウェーの両方をなぜ攻略しなければならないかったのか目的が不明だ。

2.攻勢
計画を成功率の高いものにするためには、"IF"に対する備えがなければならない。もしアメリカが察知していたら?もしアメリカが早く発見したら?もし第1航空艦隊が大損害を受けたら?日本は全く対策を立てていなかった。

もしリスクをきちんと考えていたら、敵がまだ発見出来なかった段階で空母4隻を一個所に集中させるような艦隊配置は取っていなかっただろう。

プランゲ博士が指摘する日本海軍のリスク認識欠如、慢心を示す一例が服装だ。空母の乗員の多くは半ズボン半袖で、防火効果がある長袖、長ズボンの戦闘服を着させていなかった。これがためやけどで命を失った乗員も多い。

3.交戦点における優勢
日本はこの時点では物量でアメリカを上回っていたのに、兵力を分散して集中効果を失った。アメリカ軍がほとんどいないアリューシャンを同時に攻めたり、戦艦を空母から300海里後方に配備したり、用兵を誤った。防御の弱い空母の代わりに戦艦を先頭に立てていたら、空母全部がやられることもなかっただろう。

4.奇襲
アメリカは日本海軍のJN25暗号を解読していた。日本側の通信の中で頻繁に出てくる"AF"がミッドウェーだということも知っていた。日本は潜水艦による策敵も飛行艇による哨戒も不十分だった。

ミッドウェー海戦前の暗合解読についてのNHKの番組がYouTubeに掲載されている。



5.機密保持
日本海軍は真珠湾の時のような機密保持の注意や綿密さは完全に消え失せた。ニミッツは事前に日本側の戦力をほぼ完全につかんでいた。

日本の空母にはレーダーが装備されていなかった。レーダーの試作機は戦艦伊勢と日向に装備されたが、この2戦艦はアリューシャンに向かっていた。レーダーが空母に装備されていたら、4空母が一度に沈められるということもなったろう。

6.単純性
山本長官は戦艦主義と航空主義の調整をつけられなかった。

戦艦は40センチ以上の主砲を持ち、陸上のいかなる要塞砲にも圧倒的に勝っているのに、ミッドウェー砲撃を主張する部下に、「君は海軍大学校の戦史の講義で、海軍艦艇は陸上兵力と戦うなということを習っただろう」と言ったという。

宇垣はさらに辛辣だったという「艦隊の砲力で陸上の要塞を攻撃することが、いかに愚かなことであるかは、十分に知っているはずではないか」

ミッドウェー島のどこに要塞があるというのだ。

彼我の戦力の徹底的な分析なしに、日露戦争の時の旅順攻撃の後遺症の「艦砲は要塞砲に敵し難い」という原則を忘れたのかと叱責する始末だった。

戦艦の艦砲射撃と航空攻勢を融合したのはニミッツだった。

7.行動性、機動性
山本長官は南雲部隊の空母4隻は失ったが、依然として4隻の空母、110機の航空戦力を持っていた。

アメリカ空母3隻のうち2隻が沈没あるいは大破だったので、日本は依然として強力な戦力を持っていた。それにもかかわらず、山本長官は空母を沈められ、艦載機の多くを失って、どうしたらよいかわからなくなくなって日本に逃げ帰った。

プランゲ博士は、山本長官はケンカ好きのテリアに追われて、しっぽを巻いて逃げ帰るセントバーナード犬のように大部隊を率いて本国に逃走したのだと評している。

8.戦力の最善活用
山本長官はあらゆる艦船を出撃させ、貴重な燃料を浪費した。さらにミッドウェー基地の空襲に使用した航空戦力は過大で、まだ見えないアメリカ機動部隊の反撃に備えるべきだった。

9.協同、統一指揮
山本長官は旗艦を連れて行ったばかりに、この重要な法則に違反することになった。無線封止を保つ必要から戦艦大和からは山本長官は指揮できなかったのだ。これに対してニミッツは真珠湾にいた。


血のつながった親戚が亡くなっているので、敵機がいつ現れないとも限らない戦場で、爆弾を積んだ飛行機をすべての空母の航空甲板上に並べていた日本海軍のリスク意識の欠如に憤りを感じるが、たしかにプランゲ博士が指摘しているように、当時は日本全体が戦勝に酔っており自らを失って慢心の極にあったことが根本原因だろう。

昭和天皇が「昭和天皇独白録」で、敗戦の第一の原因として挙げている通りだ。

「敗戦の原因は四つあると思う。
第一、兵法の研究が不十分であった事、即孫子の、敵を知り、己を知らねば(ママ)、百戦危うからずという根本原理を体得していなかったこと。
第二、余りに精神に重きを置き過ぎて科学の力を軽視したこと。
第三、陸海軍の不一致。
第四、常識或る主脳者(ママ)の存在しなかった事。往年の山縣(有朋)、大山(巌)、山本権兵衛、という様な大人物に欠け、政戦両略の不十分の点が多く、且軍の主脳者の多くは専門家であって部下統率の力量に欠け、いわゆる下克上の状態を招いたこと。」


ミッドウェー海戦は様々な教訓を残している。知識経営論の野中郁次郎教授も参加している日本軍の戦略の失敗を研究した「失敗の本質」は1984年発刊だが、いまだによく売れており、アマゾンでも540位のベストセラーだ。

失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫)失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫)
著者:戸部 良一
販売元:中央公論社
発売日:1991-08
おすすめ度:4.5
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あなたの親戚にも戦争で命を落とした人がいるはずだ。失敗から学ぶことが我々の使命だし、今なお学ぶべきことは多い。機会があれば、上記で紹介した本のどれかを読んで自分の参考にして欲しい。


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2009年08月28日

オバマ大統領がヒロシマに献花する日 戦中派ジャーナリストの献花外交のすすめ

オバマ大統領がヒロシマに献花する日 (小学館101新書)オバマ大統領がヒロシマに献花する日 (小学館101新書)
著者:松尾 文夫
販売元:小学館
発売日:2009-08-03
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元共同通信ワシントン支局長の松尾文夫さんの相互献花外交のすすめ。共同通信退社後、2002年にジャーナリストとして復帰、「銃を持つアメリカ」を日米両国で出版、この本は8月に発売されたばかりの最新作だ。

銃を持つ民主主義―「アメリカという国」のなりたち (小学館文庫)銃を持つ民主主義―「アメリカという国」のなりたち (小学館文庫)
著者:松尾 文夫
販売元:小学館
発売日:2008-03-06
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Democracy With a Gun: America and the Policy of ForceDemocracy With a Gun: America and the Policy of Force
著者:Fumio Matsuo
販売元:Stone Bridge Pr
発売日:2007-10
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松尾さんは1933年生まれ。小学生の時に新宿区の戸山小学校(当時は国民学校)でドーリットル隊のBー25が地上スレスレの超低空で東京を空襲したのを目撃する。

小学校の校庭から大きな鼻の操縦士をはっきり見たという。その大きな鼻の操縦士と再会し、2005年のドーリットル爆撃隊の年次総会に出席した話も紹介されている。

YouTubeにドーリットル爆撃の実写フィルムがミッドウェー海戦とともに掲載されているので紹介しておく。レーダーに捕捉されないため(当時日本ではレーダーは実用化されていなかったが)超低空で飛行していることがよくわかる。

これならパイロットの顔もわかるはずだ。



ちなみに松尾さんもドーリットル爆撃を、ミッドウェイでの敗北の遠因となった太平洋戦争の一大転機と位置づけている。

たしかに空母に爆撃機を積んで発進させ、レーダーに発見されないように超低空飛行を続け、日本を通って中国に着陸するまで合計13時間、3,500キロも飛ぶ。

そして日本初爆撃で日本の指導者と国民を震撼させる上に、生還した爆撃機は中国に渡そうという構想は、敵の裏をかいた一石何鳥もねらった優れたアイデアだと思う。(ちなみにパイロットたちは皇居は狙わないように注意されていたという)

日本戦府は9機撃墜と発表したが、実際は1機も打ち落とせなかった。

しかし16機すべて途中で燃料がなくなって不時着したり、着陸時に壊れたりして、結局中国に引き渡せた機体はなかったというが、それでもアメリカ国民の士気を鼓舞し、日本を震撼せしめる大きな効果はあった。

松尾さんは疎開先の福井で敗戦直前の1945年7月にB−29の夜間無差別焼夷弾爆撃を受け、たまたま近くに落ちた焼夷弾が不発弾だったので九死に一生を得る。

このような戦争体験を持つ松尾さんは、戦争を知る最後の年代として「何故アメリカという国と戦争したのか」、「アメリカとはどういう国なのか」にジャーナリストとしてこだわりたいと語る。


オバマ大統領に広島で献花を

自分の生きている間は無理かもしれないとしながらも、2009年4月のプラハ訪問の時に核廃絶を目標として発表したオバマ大統領に広島で献花してもらい、返礼として日本の首相が真珠湾のアリゾナ記念館で献花する献花外交を松尾さんは提唱する。

すでに2008年に米国ナンシー・ペロシ下院議長の広島献花と、河野衆議院議長のアリゾナ記念館での相互献花が実現している。

松尾さんは献花外交というアイデアを2005年8月のウォールストリートジャーナルの意見欄でも明らかにした。

オバマ大統領は2009年6月にドレスデンを訪問しており、広島訪問も決して実現性のない話ではないと思う。


ドレスデンの和解

1995年にドイツ大統領、エリザベス女王名代のケント公、イギリス、アメリカの軍人トップが集まった「ドレスデンでの和解」がまず取り上げられている。

この日のドイツヘルツォーク大統領の「命を命で相殺できない」という演説は松尾さんのサイトでも紹介されている。

和解の印として相互に献花を行い、不戦の誓いと結束を新たに相互に確認しているのだ。

様々な戦争記念日は特別のイベントとしてメディアにも注目され、自国民のみならず、近隣や関係諸国の国民にも与える影響が大きい。まさに象徴的な献花外交と言えるだろう。

松尾さんはドレスデンの他に、スペイン ゲルニカや英国コベントリーの他、南京、重慶なども訪れている。


独仏共通歴史教科書

日韓で共通歴史教科書をつくることが検討されているが、献花外交の成果の一つは独仏共通歴史教科書だ。

共通教科書構想自体は1920年代からあったが、2003年の両国青年会議での提案をシラク大統領とシュレーダー首相が受け入れ、2006年に第1部「1945年以降」が初めて出版された。

第1部は日本語にも翻訳されているので、今度読んでみる。

ドイツ・フランス共通歴史教科書【現代史】 (世界の教科書シリーズ)ドイツ・フランス共通歴史教科書【現代史】 (世界の教科書シリーズ)
著者:ペーター ガイス
販売元:明石書店
発売日:2008-12-15
おすすめ度:5.0
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2008年に第2部「ウィーン会議から1945年まで」が出版され、第3部の「ウィーン会議までの時代」が2010年までに出版される予定だ。

共通歴史教科書は、歴史評価がシンクロできて、相互の理解が深まる良い手法だと思う。日韓や、時間が掛かるかもしれないが、日中でも共通歴史教科書は検討すべきではないかと思う。


日本とドイツの戦後処理の際だった違い

この本では戦後処理に関するドイツと日本の大きな違いを明らかにしており、興味深い。

ナチスドイツが一党独裁で戦争を推し進め、ユダヤ人やポーランド人を虐殺したドイツと、国民のほとんど全体が戦争を望み、圧倒的コンセンサスで「鬼畜米英」を相手に戦争に突入した日本では事情が大きく異なり、単純な比較はできないが、参考になる事例ではある。

日本とドイツの差は次のような点だ。


戦争犯罪追求

ドイツではいまだに「ナチス犯罪究明各州合同法務センター」がナチス犯罪を追求しており、2007年末までに訴追件数11万3千件、有罪7千4百件、死刑12件、終身刑167件、懲役6千2百件が確定している。

これは連合国によるニュルンベルグ裁判とは全然異なり、ドイツ人自身がナチスの犯罪を許さないという確固たる国会意思によって支えられている。

日本では東京裁判で連合国によりA級戦犯などが裁かれた。東京裁判とA級戦犯についてはこのブログでも紹介しているので、参照して欲しい。

日本人自身が「満州事変、シナ事変、大東亜戦争を不可避ならしめた者」を反逆罪で裁く緊急勅令案が、戦争終結直後の東久邇宮内閣や幣原内閣では考えられていたが、GHQの指示で東京裁判が開催されることになり、日本人自身が裁く話はその後も持ち上がらなかった。

筆者はナチスドイツとは異なり、日本の場合には国民大多数のコンセンサスで戦争に突入したことから考えて、日本人自身が日本の戦争犯罪人を裁くというのは当てはまらないと考えている。

一方、松尾さんは「日本はこの幻の自主裁判案の挫折で、私が本書でドイツとの対比で言い続けている敗戦のケジメ、つまりその戦後の再スタート時につけるべき大きなケジメのチャンスを失ったということである」と書いている。

これは「進駐軍と呼ぶのはまやかしだ、占領軍とはっきり呼ぼう」との松本重治の記事を検閲で削除した事とつながるGHQの占領政策であり、日本人が自らケジメをつけることを望まない「日本占領」の素顔がのぞいていると松尾さんは語る。


戦争責任を認めた謝罪外交

ドイツでは政府指導者が、ゲルニカ爆撃謝罪や、ワルシャワでのポーランド人虐殺、ホロコースト謝罪など目に見える形で戦争責任の謝罪を行っている。

その一方でドレスデン爆撃を強く主張したアーサー・ハリスイギリス空軍司令官の銅像建立に際してはコール首相が抗議している。

人道に対する罪をドイツは国内外の区別無く糾弾し、ドイツ自身の場合は謝罪し、そして連合国の犯罪は糾弾しているのだ。

これに対し日本は1995年の村山談話を公式見解として、新たな指導者は戦争責任は公式には口にしていない。

また東京大空襲はじめ日本の都市に対する夜間無差別焼夷弾爆撃による焦土作戦を立案・実行したカーチス・ルメイ将軍に対して、日本は航空自衛隊を育成したという功績で「勲一等旭日大授章」を贈っているのだ。

昭和天皇はカーチス・ルメイへの勲一等授与ははっきり拒否している。

松尾さんがアメリカでドーリットル隊の元軍人にこの話をすると、みんな沈黙したという。アメリカではルメイが無差別殺人を命じた張本人と見られているのに、その人物に対して日本が勲章を贈ったことが信じられないという。

ちなみに東京を焼き尽くし民間人を攻撃するという出撃命令を受けた爆撃機パイロットは皆ふさぎ込んでしまったという話は「B−29 日本爆撃30回の実録」のあらすじで紹介した通りだ。


民間人の戦争被害補償

ドイツでは民間人に対しても空襲や地雷、艦砲射撃の被害を戦争の直接被害として国家補償がなされている。ドイツではすでに1870年の普仏戦争から一般市民の戦争損害を補償しており、この伝統が守られているのだ。

日本では2008年に国会図書館社会労働調査室の宍戸伴久氏が「戦後処理の残された課題ー日本と欧米における一般市民の戦争被害の補償」という論文を発表している。

旧軍人には恩給法、軍属にはいわゆる「遺族援護法」が沖縄戦犠牲者、原爆犠牲者、戦後引き揚げ者・シベリア抑留者に適用されてきたが、空襲で焼け出されたり、死亡した被害者は補償の対象となっていない。

2007年3月から東京大空襲訴訟が始まっており、近々東京地裁で判決が下される事になっているが、最高裁判所は1987年の名古屋空襲の被害者に対して、戦争は国民として受忍すべきで、補償するには国会の立法が必要として請求を退けており、これが現在の判例だ。

余談になるが、筆者の亡くなった父はたしか昭和18年に徴兵され、上海からベトナムを経て最後はインドネシアで終戦を迎えた。後に続く輸送船はことごとく米国の潜水艦に沈められ、父達のあとの新兵の補充はなかったので、ずっと二等兵のままだったという話をしていたことを思い出す。

父とは軍人恩給の話をしたことはないが、恩給をもらうには期間が足りないと、父と同居していた弟から聞いたことがある。軍人恩給がどういう基準でもらえるのか総務省のQ&Aがあるので、興味のある人は参照して欲しい。

戦地加算一覧表というのもある。普通は12年以上の軍務だが、戦地の1年は4年に換算される。

いずれにせよ本人が亡くなると相続はしないので、父が亡くなった以上今は関係ないが、どうやらもうすこしのところで父は期間が満たなかった様だ。


占領地での強制労働の補償

さらにドイツは2000年仲介役のアメリカの協力も得て、ナチス時代のドイツ支配地域での強制労働の被害者にも道義的補償と位置づけて「ナチス強制労働補償財団」をつくって補償に応じている。

2007年には166万人に対して44億ユーロ(5,700億円)が支払われたという。


日本の戦争被害の補償

日本の場合にはサンフランシスコ講和条約第14条B項で、「連合国及びその国民」の日本に対する賠償請求権放棄を明記しているが、これを見直すべきだとの意見もスタンフォード大学アジア・大洋州研究センター所長の申基旭(Gi-Wook Shin)教授などから出されているという。

申教授の考えでは、「アメリカは戦後ドイツに周辺国との和解を勧めた欧州での政策と対照的に、戦後日本に対しては、近隣アジア諸国に対する和解を勧めなかったのみならず、逆に冷戦の敵としての中国、北朝鮮との敵対関係を放置し、あおるような行動に出た。このアメリカの政策が現在の東北アジアで和解ができていないことの根源にある。」

「1951年のサンフランシスコ平和条約の締結国にも韓国や中国は入っていない。東京裁判でも欧米人捕虜虐待問題は裁かれたが、中国や朝鮮半島での日本の残虐行為は裁かれなかった。アメリカの強い意向で天皇が訴追から守られ、天皇制の維持が図られた。」

「こうした北東アジアの緊張を解き、和解を達成するために、アメリカはドイツの戦時補償問題解決で仲介役を果たしたのと同じように、サンフランシスコ平和条約の第14条B項にある賠償権の放棄を再解釈する努力に日本の協力も得て取り組むべきである」

というものだ。

申教授が編者となった"Colonial Modernity in Korea"(「韓国の植民地近代性」)という本で、韓国での日本の植民地政策の賛否両論をまとめているようなので、この九月に家族でソウルに旅行することでもあり、読んでみようと思う。

Colonial Modernity in Korea (Harvard East Asian Monographs)Colonial Modernity in Korea (Harvard East Asian Monographs)
販売元:Harvard University Asia Center
発売日:2001-09-01
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相互献花外交という点以外、ドイツを戦後処理の範とする松尾さんの理由付けが今ひとつ弱いような気がするが、いずれにせよ日本の近隣諸国との関係を考える上で参考になる本である。

オバマ大統領が出てくる部分はほんの一部なので、タイトルに惹かれて読むとがっかりするかもしれないが、ドイツの戦後処理を知るだけでも参考になると思う。

出たばかりの本なので、書店で手にとってパラパラめくってみることをおすすめする。


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2009年08月25日

カラマーゾフの兄弟 ロシアは時間の流れが超ゆっくりだ

カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)
著者:ドストエフスキー
販売元:光文社
発売日:2006-09-07
おすすめ度:4.5
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カラマーゾフの兄弟2 (光文社古典新訳文庫)カラマーゾフの兄弟2 (光文社古典新訳文庫)
著者:ドストエフスキー
販売元:光文社
発売日:2006-11-09
おすすめ度:4.5
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カラマーゾフの兄弟3 (光文社古典新訳文庫)カラマーゾフの兄弟3 (光文社古典新訳文庫)
著者:ドストエフスキー
販売元:光文社
発売日:2007-02-08
おすすめ度:4.0
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カラマーゾフの兄弟 4 (光文社古典新訳文庫)カラマーゾフの兄弟 4 (光文社古典新訳文庫)
著者:ドストエフスキー
販売元:光文社
発売日:2007-07-12
おすすめ度:4.5
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カラマーゾフの兄弟 5 エピローグ別巻 (5) (光文社古典新訳文庫)カラマーゾフの兄弟 5 エピローグ別巻 (5) (光文社古典新訳文庫)
著者:ドストエフスキー
販売元:光文社
発売日:2007-07-12
おすすめ度:4.5
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光文社の古典新訳「カラマーゾフの兄弟」を読んだ。

ドストエフスキーの作品は今まで何回か挑戦したが、カラマーゾフの兄弟はその圧倒的なボリュームに今まで手が出せないでいた。

新訳が出てベストセラーとなり話題になっていたので、いわば夏休みの読書として読んでみた。

カラマーゾフの兄弟は文庫版で全部で5巻、2,000ページの小説と300ページの解説から成り立っているが、最後の第12章の裁判の日を除くと、わずか4日間の出来事だ。

まさにロシアの大河の流れのように時間の流れは超ゆっくりだ。

筆者は1993−4年頃に2回ロシア各地に出張したので、当時のことを思い出した。この時の話は「ロシアン・ダイアリー」のあらすじに書いたので参照して欲しい。

ロシアン・ダイアリー―暗殺された女性記者の取材手帳ロシアン・ダイアリー―暗殺された女性記者の取材手帳
著者:アンナ・ポリトコフスカヤ
販売元:日本放送出版協会
発売日:2007-06
おすすめ度:5.0
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当時レアメタルなどロシア製品がいわば換金売りされていたので、北極圏にあるロシア最大のニッケル工場では、工場の従業員は何ヶ月も給料が遅配となり、食料や燃料などの生活必需物資を工場から配給されて生きているという話だった。

よく給料が払われずに暴動が起きないものだと感心していたが、ある人はロシアは農奴の歴史があるので、現金が無くとも住民は自給自足に慣れているのだと言っていたほどだ。

今はさすがにこんなことはなくなったのだろうが、当時は物資の不足がすさまじく、おみやげに日本のストッキングを持って行ったり、トイレットペーパー持参で出張に行き、帰りに使い残しを向こうの人にあげると喜ばれたものだ。

物質的には非常につつましいというか、貧しい生活をしていたが、それでも親の代から極寒の地に住んでいるウラル山脈の住民達はジョーク好きで、ボロ家ながらもセカンドハウスを持っていたりして、モノの豊かな日本とはまた違った生活を見た思いだった。

閑話休題。

小説のあらすじは、ポリシーとして詳しく紹介しないが、なにせ4日間の出来事なので、実はあらすじもコンパクトに次のようにまとめられる。

19世紀なかばの帝政ロシアで、地方の資産家で年老いても好色なフョードル・カラマーゾフ氏と、彼を憎む息子達の財産と愛人をめぐる争いがショッキングな事件を引き起こし、ロシア全土を揺るがせた大スキャンダル裁判へと発展した。この小説はその事件と裁判をめぐる様々な人間像を描いたものだ。

詳しく書くと読んだときに興ざめなので、この程度にしておくが、登場人物の細かい心理描写や芝居がかった発言を、現代風にわかりやすく訳している亀山東京外語大教授の新訳には脱帽する。

各巻の巻末についている亀山教授の解説も興味深く、最後の第5巻(エピローグ)には300ページほどのドストエフスキーの紹介、年譜、解題、訳者あとがきがついており、大変参考になる。

この本のあとがきで「蛇にピアス」の作家の金原ひとみさんの言葉が紹介されている。

蛇にピアス (集英社文庫)蛇にピアス (集英社文庫)
著者:金原 ひとみ
販売元:集英社
発売日:2006-06
おすすめ度:3.0
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「上巻半分を読むのに約3ヶ月。……中巻と下巻を私はほぼ3日ほどで読み終えたのだ。何だなんだこれはこんなに面白い小説があるなんて!」

ちょうどこんな感じだ。

最初は重苦しく、500ページ読んでも1日の出来事もカバーできない。なかなか話が進まないのでイライラしてくるが、流れ出すと一気に読み込んでしまう。

ドストエフスキーは初めから第2話を書くつもりでいたので、これは合計2,000ページもの小説だが、第1話のみで、全体として未完の作品である。

筆者はドストエフスキーの大作なら、どちらかというと「罪と罰」の方をおすすめするが、「一生に一度はドストエフスキーの大作を読むんだ!」という気概ならば、訳もわかりやすいので「カラマーゾフの兄弟」も良いと思う。

罪と罰〈1〉 (光文社古典新訳文庫)罪と罰〈1〉 (光文社古典新訳文庫)
著者:フョードル・ミハイロヴィチ ドストエフスキー
販売元:光文社
発売日:2008-10-09
おすすめ度:4.0
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罪と罰〈2〉 (光文社古典新訳文庫)罪と罰〈2〉 (光文社古典新訳文庫)
著者:フョードル・ミハイロヴィチ ドストエフスキー
販売元:光文社
発売日:2009-02
おすすめ度:5.0
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罪と罰〈3〉 (光文社古典新訳文庫)罪と罰〈3〉 (光文社古典新訳文庫)
著者:フョードル・ミハイロヴィチ ドストエフスキー
販売元:光文社
発売日:2009-07-09
おすすめ度:5.0
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新訳が出て、何十万人もの人がこの本を買っている。多くの人が挑戦している本でもあり、やる気さえあれば是非挑戦して欲しい世界の名作である。


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2009年08月22日

日本人の英語 20年間売れ続けているベストセラー

日本人の英語 (岩波新書)日本人の英語 (岩波新書)
著者:マーク ピーターセン
販売元:岩波書店
発売日:1988-04
おすすめ度:5.0
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20年前の出版ながら、いまだにアマゾンのベストセラーランキングで291位(2009年8月21日現在)となっているオバケ ロングセラー。

先日読んだ多賀敏行さんの「外交官のうな重方式英語勉強法」に紹介されていたので読んでみた。

2006年4月の時点で73万部売れたというから、現在はたぶん90万部近く売れているのではないだろうか。

この本の書評はアマゾンに現在59件寄せられて、ハンパではない。しかもほとんどが5という高い評価だ。ネイティブだからこそ書ける、まさに目からウロコの英語書である。筆者が読んでから買った本の一つだ。


著者のマーク・ピーターセンさんは米国ウィスコンシン州出身

著者のマーク・ピーターセンさんは現在は明治大学の教授だが、この本を書いた当時は明治大学の選任講師だった。

Mark Petersen





出典:http://www.i-osmosis.jp/interview/mark_petersen/profile.html

米国ウィスコンシン州出身でフルブライト交換留学生として日本に学び、東工大で「正宗白鳥」(!)を研究したという。

ウィスコンシン州、ミネソタ州などの北中央部の英語は、クセがなくて良いのかもしれない。

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出典は以下注記ない限りWikipedia

筆者は米国駐在時代にウィスコンシン州に、しばしば出張したが、寒冷地ということもあってかなぜか黒人が少なく、ドイツ系やポーランド系、ノルウェー系移民が多い地域で、ウィスコンシン州は自動車用などの鋳物産業が盛んな土地だ。

1980年代には、ブラジルからセントローレンス川を通って五大湖まで2万トン級の船(外航船としては小さい)のパートカーゴで(船全部でなく、いくつかの船倉を使う)木炭銑鉄を輸入し、ミルウォーキー港の埠頭倉庫に在庫して、ウィスコンシン州やイリノイ州の鋳物工場などに販売していた。

筆者の住んでいたピッツバーグからは、シカゴかデトロイトでコミューター飛行機に乗り換えてマディソン空港に行くか、シカゴかミルウォーキーまでジェット機で行って、そこからレンタカーで3時間程度走ってマディソンに行っていた。

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マディソンは小さい町だが、州議会やウィスコンシン大学(マスコットはバジャー=たぬき(アナグマでなくたぬきだと思う))があり、湖があってきれいな町だ。

ちなみに「マディソン郡の橋」のマディソン郡はアイオワ州にあり、ウィスコンシンの州都マディソンではない。

マディソン郡の橋 (文春文庫)マディソン郡の橋 (文春文庫)
著者:ロバート・ジェームズ ウォラー
販売元:文藝春秋
発売日:1997-09
おすすめ度:3.5
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日本人に多いミス

はじめに日本人に多い英文のミスを列挙している。

1.冠詞と数
  a, the, 複数、単数などの意識の問題
  ここに英語の論理の心があり、観念の上では、この二つ(冠詞と数)を別々に考慮することは不可能に近いという。

2.前置詞句
  英語には前置詞(to, at, in, on, about, aroundなど)が多い。微妙な差が付けられているが、その反面トラブルも多い。

3.Tense, 文法の「時制」
  日本語には時制の代わりに、「相(aspect)」があり、tense自体ないので、様々な奇妙な英語が生じる。

4.関係代名詞
  that, whatなど、用法は完全に論理的で、基本的には使いやすい。

5.受動態
  論文に目立つ受動態の使いすぎ。

6.論理関係を表す言葉
  因果関係をあらわす(consequently, becauseなど)から、もっと微妙な関係をあらわす(thereby, accordinglyなど)豊富にあり、英語と日本語の感覚の違いから使い方に問題が出てくる。

いわゆる"time-tested"、長年のベストセラーだけあって参考になる例が多い。印象にのこった例を紹介しておく。


ネイティブは名詞に a をつけるのではなく a に名詞をつける

「ネイティブは名詞に a をつけるのではなく a に名詞をつける」という発想は、たぶんこの本で最も有名な指摘の一つだろう。まさに目からウロコだ。

「a に名詞をつける」と言われても、何のことか、にわかには分からないかもしれないが、日本語で考えるのではなく、いわば”英語アタマ”で考えると、なるほどと納得できると思う。

「つまり、"a"というのは、その有無が一つの論理的プロセスの根幹となるものであって、名詞に付くアクセサリーのようなものではないのである」

まず言いたいこと=アイデアがありきで、そのモノが特定のものなのか、1つ2つと数えられるありきたりのものなのかで、論理的に a か the か、何も付かないかが決まり、次に適切な単語を探すということだ。

これは筆者の意見だが、スペイン語やフランス語、ドイツ語などの名詞に男性形、女性形(ドイツ語は中性も)がある場合を考えると、さらにひとひねり加わると思う。

まず言いたいこと=アイデアがありきで、そのモノが特定のものなのか、1つ2つと数えられるありきたりのものなのかで、スペイン語だと不定冠詞 unか una(女性形)か、定冠詞 elか laか決まる。

次に名詞を選ぶが、スペイン語の場合は una mesa や un escritorio(どちらも机だが、mesaは食卓、escritorioは勉強机の意味)の様に名詞と冠詞とセットになって覚えているので、女性形でも男性形でも名詞に冠詞がくっついて出てくる感じだ。

★a を付けてはいけない例
a を付けない例としてエビスビールのラベルを挙げている。

以前は、"YEBISU, the legendary character, brings you a good luck"と長年書かれていて、ピーターセンさんは英語の教育者として落胆していたそうだが、"87.07.下"の刻印のビールから a がなくなり、"YEBISU, the legendary character, brings you good luck"となったのだと。

エビスビールは自宅で愛飲しているので、缶のラベルを見たが、缶にはこの表記はない。ちなみに瓶にはラッキーエビスという魚が2匹とれたラベルの瓶もあるようだ。「当たり」の様なものだが、特に特典はないという。

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出典:http://web-box.jp/kohassan/yebisu.htm

★a の間違った用法
a の間違った用法として、次の文を挙げている。

"Last night, I ate a chicken in the backyard". これだと一匹のを捕まえて食べたという意味になる。

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チキンを食べたなら、"Last night, I ate chicken in the backyard."で、a は要らない。

これは間違いの英文としても傑作といってよいものだと。


日本人に多い間違い

★日本人はtheを使いすぎる
ある英文学術雑誌の各論文の冒頭の文、66を抜き出して調べると、余計なtheがあったものが24,Theの足りないのは7,aの足りないのは6,余分なaはゼロ、冠詞がカンペキなものが16あったという。

★Theの例
歴史上最も有名なセンテンスを挙げている。

In the beginning God created the heaven and the earth - Genesis 1:1(創世記1:1)

それぞれ一つしかないものだからtheが使われている。

★純粋不可算名詞も間違いやすい
information, equipment, knowledge, assistance, evidence, advice, help, health, dependenceなどが純粋不可算名詞(複数形がない)の例だ。

冒頭のエビスビールのラベルの英文が良い例だ。"YEBISU, the legendary character, brings you a good luck"と長年書かれていたが、1987年7月に修正されて a が取れたという。

★英語に訳せない日本語
「思いやりがなさすぎる」

たしかに逐語訳はできない。筆者の案では、"He is anythging but considerate"だが、これが正解かどうかわからない。


前置詞の使い方

★日本語で「〜で」という場合、常にbyとは限らない
The cranes were observed by binoculars"

ではなくて、

The cranes were observed with binoculars"だという。

by binocularsだと、「双眼鏡に観察された」という意味になるのだ。

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今や「ワープロ」は死語に近くなっているが、タイプライターは"written on a typewriter"というので、「ワープロ」も "written on(not by) a word processor"となる。

★inとonの論理
inとonは論理が一貫している。中に入るのinで、上に乗るのがonである。だからin timeとon timeも、一定時間の中に入るのがon timeで、ある一瞬とぴったり合うとon timeとなる。

また乗り物は、自分で操縦できる者はget in a carで、ただ運ばれるのはget on a trainとなる。

カツラはtake off, 髢(かもじ=付け毛)はtake outだ。髢(かもじ)なんて言葉知らなかった!これがアメリカ人の書いた日本語かと驚く。

★over/aroundの例
Why don't you come over sometime?

Why don't you come around sometime?

どちらも「いつでもおいでよ」という親しみを表しているが、ニュアンスの差は、come overの方が直接的で、come aroundの方がついでに寄る感じがでている。

この"Why don't you〜?"では苦い思い出がある。新入社員の時に外国のお客をアテンドした時、この言い方を知らずに、"Because〜"と答えてしまったのだ。そのお客を、えらく理屈っぽい奴だなと思っていたが、軽い呼びかけ方とは知らなかった。

★明治な大学
University of Meijiというのは英語ではありえず、Meiji Universityでしかない。

of地名が正式名称となっている国立大学はThe University of Tokyo"(東大)しかない。

YasudaAuditorium





★上野動物園のパンダは英語でどう言う
上野動物園のパンダは、the pandas of Ueno Zooか、Ueno Zoo's pandasか、それともUeno Zoo pandasかという疑問には、最も所有感の強いのはUeno Zoo's pandasだが、Ueno Zoo pandasという名詞並びでも良いという。

Ueno-zooLightmatter_panda






時制と相(aspect)

★点と線
ピーターセンさんは、"What are you always doing on Sunday?"と聞かれて何を聞かれているのかわからず、無気味に感じて、答えられなかったという。「日曜日に何ばかりしているのですか?」という感じだと。

これを聞くなら、"What do you usually do on Sundays?"となるだろう。

★英語は「時」日本語は「相」
典型例は日本語の「行く前に」だ。

英語だと行動の時間によって、"before I go; before I went; before I had gone; before I have gone; before I will have gone"といった時制が考えられるが、日本語では「行った前に」とは言わない。常に「行く前に」だ。

ピーターセンさんにとっては、最近のアメリカ人の時制の使い方が崩れてきて、ときどき恥ずかしい思いをするという。

"We have signed a contract"は現在も契約している状態で、"We signed a contract"は、正確に言うと現在では契約はない状態なのだと。


関係代名詞

★カンマの使い方
たとえば次の文だ。

The Nobel Prize which I received last year was a great honor.

The Nobel Prize, which I received last year, was a great honor.

最初の文だと、昨年受賞したノーベル賞ということで、前にもノーベル賞を受賞したことがある様なニュアンスとなる。2番めの文なら、正しく伝わる。

600px-NobelPrize








日本人に多い受動態

この本は雑誌「科学」の1986年1月から1987年12月までの2年間に"Mark Remarks"という名前の連載をまとめたもので、理系の人向けに元々書かれたものだ。

木下是雄さんという人が書いた「理科系の作文技術」というベストセラーもあり、「科学者の書く日本語は受身(受動態)の文が目につく」という。

客観的であるべき自然科学の論文は、英語でも"I"と言わず"the author"と言い、受身の形で書けと教わってきたからだというが、最近では英語国の学者の中でも受動態を排除する動きもあると木下さんは語っている。

理科系の作文技術 (中公新書 (624))理科系の作文技術 (中公新書 (624))
著者:木下 是雄
販売元:中央公論新社
発売日:1981-01
おすすめ度:4.5
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筆者はどちらかというと理系の審査員資格を持っているが、日本語でもやたら受動態が多いのに気が付く。だから筆者の場合は、報告書はすべて能動態で言い直している。

論文でよくあるのは次のような例だ。

"The following results of this experiment was obtained…”

これを英語らしく書くと、

"We obtained the following results in this experiment"とか"The results of this experiment are as follows"とすべて能動態になる。

主語と述語が離れすぎるのもわかりにくい。またピーターセンさんの最も嫌いなのは"was investigated"だという。

"The possibility of building a new hospital with funds provided by both private donation and governmental assistance under the new law was investigated"という感じだ。

これは、シンプルに

"We investigated the possibility of building a new hospital …"とすればわかりやすい。


どの「従って」を使うか?

accordinglyは、従ってというよりは、それに応じてという感じで、consequentlyはas a resultと同じく、結果として何らかの状態となることだ。

よく使われるthereforeは大げさすぎるという。

As, so, since, becauseについては、soは口語的なので、論文では使わない方が良いという。Asはbecauseともwhenともとれるので、意味が正確に伝わらないおそれがあり、科学論文には使わない方が良いという。

sinceとbecauseが、論文などにちょうど良い堅さなのだと。

ピーターセン氏が推薦するのは、therebyとthus、それに論文にふさわしいhenceだ。


この本を有名にしたmyの用法

★電子レンジは my で、冷凍庫は the?
この本を有名にしたもう一つの指摘は、この電子レンジは my で、冷凍庫は the という説明だ。

電子レンジと冷凍庫を比較すると、冷凍庫は一般家庭に普及しているので in the freezer だが、電子レンジは当時では珍しく、自分のモノという所有意識があるので、in my microwave なのだと。

20年前なら電子レンジも珍しかったが、今や1万円以下の電子レンジさえある時代なので、もはやmy microwaveという人は少なくなっていると思う。

シャープ 電子レンジ RE-T1-W5(ホワイト系/50Hz )
シャープ 電子レンジ RE-T1-W5(ホワイト系/50Hz )


なにはともあれ、所有意識によりmyが付くというのは優れた指摘だと思う。


20年前のベストセラーなので、上記のmy microwaveなどのやや古いと思われる例もあるが、それにしても目からウロコの英語本である。

楽しく読めるので、まだ読んでいない人には是非一読をおすすめする。


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2009年08月20日

政権交代で民主主義度がアップ? 国際ジャーナリストの英語術 

2009年8月20日再掲:

いよいよ衆議院選挙戦が始まった。8月30日の選挙では大方の予想通り、「山が動く」ような気がする。

政権交代が現実味を帯びてきている。

イギリスの雑誌"The Economist"は世界各国の民主主義度(Democracy index)を発表している。

2008年の民主主義度だと、日本は世界で17位で、米国は18位となっている。前回の2006年のデータでは日本は20位、米国は17位だった。

最低は北朝鮮なのは変わりない。

トップはスウェーデン、ノルウェー、アイスランドなど北欧諸国が占めている。

Democracy index




出典: Wikipedia

"The Economist"とは別に、米国国務省も各国の民主主義度を発表しているという。

米国国務省が発表している「民主主義度」で日本がトップグループに入れないのは、政権交代が起こっていないからだという。

このことは元朝日新聞ジャーナリストの村上吉男さんが「国際ジャーナリストの英語術」で書いているので、そのあらすじを再掲する。

今回政権交代が起これば、日本の「民主主義度」も上がり、トップグループに入れるだろう。

8月30日の総選挙が楽しみだ。


2009年4月3日初掲:

国際ジャーナリストの英語術 (朝日新書)国際ジャーナリストの英語術 (朝日新書)
著者:村上 吉男
販売元:朝日新聞出版
発売日:2008-05-13
おすすめ度:3.0
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先日読んだ「外交官のうな重方式英語勉強法」に紹介されていたので読んでみた。

著者の村上吉男さんは、朝日新聞顧問で、大学卒業後ジョセフ・グルー奨学金で米国フレッチャースクール法律外交大学院に留学し博士号を取得した後に帰国し、1965年に朝日新聞社入社。

バンコク、ワシントンに駐在し、1977年のロッキード事件の時にロッキード社のコーチャン副会長への単独インタビューに成功するなど、数々のスクープを挙げる。

村上さんの英語能力は、前述の「うな重方式」の著者で外交官の多賀敏行さんのお墨付きである。

村上さんは「英語は体育」と言い、積極的に口のまわりの筋肉を動かして発音しないと英語は上達しないと語る。米国駐在経験9年の筆者も目からウロコの指摘である。

筆者も日本人の少ないピッツバーグでアメリカ人相手に仕事をしていたので、自分ではそれなりに英語はうまいつもりだが、息子たちに言わせると「日本人(外国人)の英語」というのがわかるという。

ネイティブ並みの英語の発音をめざすには、やはり「体育」と思って、口をネイティブのまねをして動かすことが必須なのだろう。

この本では、発音のときのくちびるの形まで載せていて、大変わかりやすい。

英語は体育






前半では取材のコツ、ウラを取る、「スピン」=情報操作対策、機動力が勝負など国際ジャーナリストの仕事の進め方を簡単に説明している。マスコミの仕事の裏側の努力や駆け引きがわかって面白い。

後半の部分は「英字新聞は最高の先生」として、記事の構成、見出しの理解、ニュース・ソースなど英字新聞を読みこなすためのコツや、英字新聞読解のための200単語などを紹介している。

この本の目次

この本の目次は次の通りだ。

序章 ある英語学習者の体験

第1章 ジャーナリストと英語

第2章 英語は「体育」−「話聞読書」の学習法

第3章 それでは通じない!−和製英語からの脱却

第4章 英語の品格ーまずは"and, but, so"の卒業から

第5章 英語新聞は最高の先生ー読みこなすためのコツ

付録 英語新聞が読めるようになる200単語


筆者はTOEIC945点だが、この本の最後の200単語のうち1割くらい意味が分からなかったし、発音も間違って憶えていたものが多い。

特に"hose"や"post"の"o"(オー)の発音は、"ou"(オウ)となることは、この本を読んで初めて気が付いた(ホウズ、ポウst)。

上には上が居る。筆者の大学生の長男は(元)帰国子女なのでTOEIC975点だが、たぶん村上さんはTOEICだと990点(満点)なのではないか。TOEIC945点程度で満足している自分が恥ずかしく思えた。

この本では日本人の犯しやすい間違いと、どうやったらネイティブの英語を書けるか、どうやったら英語らしく聞こえるかがわかりやすく説明されていて参考になる。

英語があまりできない初級者から上級者までまんべんなく役に立つ実用書だと思う。

特に参考になるのが第4章の「英語の品格」だ。


「英語の品格」

次がこの章のサブタイトルだが、様々な観点から村上さんの豊富な経験に基づいた至れり尽くせりのアドバイスをしてくれている。英語の上級者にも参考になることがわかると思う。

・ただ「話せる」というだけではいけない

・感銘を与える英語

・くだけた物言いと流暢さは違う

・取り扱い注意の感動詞

・and, so, butからの脱却

・物や事象を主語にする

・品格ある英語

・good, wonderfulを別の語に

・badを別の語に

・単語の言い換えで会話の格を上げる

・英語らしい発音にするための微調整

・語尾の"n"と"m"をしっかり発音する

・子音をはっきりと。母音を勝手に付けない

・"f"、"v"の発音

・"wo"、"o"、"oa"の発音

・"i"(アイ)の発音

・さらに上を目指すなら

・フランス語の活用

・ラテン語の活用


その他、いくつか参考となる例を紹介しておく。


発音できなければ生活できない

そこそこ英語のできる日本人が米国に来て困るのが、自動音声対応装置とドライブスルーだ。

電話の自動音声対応装置は、ちょっとでも発音が悪いと通じないし、ドライブスルーも何回も聞き返されて、後ろに車の長蛇の列ができると焦ってしまってなおさら通じなくなるパターンが多い。

筆者もマクドナルドのドライブスルーでは冷や汗かいた思い出がある。なぜ通じないのかわからないのだ。

筆者がピッツバーグ日本語補習校の運営委員長をやっていた時に、このドライブスルーの件を、学校の卒業記念文集に書いたことがある。そうしたらアメリカ人と結婚した日本人の補習校の先生から「アメリカ人の夫も通じないことがある」となぐさめ(?)られたことがある。

アメリカでも方言があることも通じない原因の一つだ。

南部なまりは有名だが、東部のピッツバーグでもピッツバーグなまりがある。

たとえばピッツバーグでは”ファイリング”は”ファーリング”だし、”サンドイッチ”は”サムウィッチ”だ。

最初に秘書に”ファーリング”と言われた時は何のことか分からなかった。

アメリカ人でもドライブスルーは苦手の人がいるというのは、なまりとか人種による声帯の違いなどの事情もあるのかもしれない。


日本は民主主義度でトップグループではない

カーター政権の頃、米国国務省が「世界の民主主義国家リスト」を発表したことがあり、日本はトップグループでなく、第2グループだった。村上さんは国務省の担当にいきりたって電話を入れたが、理由を聞いて納得したという。

その理由は日本は長年政権交代が起こっていないので、第2グループなのだというものだった。

今年中には政権交代が起こる可能性が高くなってきたので、いまでもこの国務省のリストがあれば、来年は日本は初めてトップグループに入るかもしれない。


"Any government lies"(どんな政府もウソをつく)

2003年春の米国のイラク侵攻の時に、米国政府はメディアも使ってイラクが大量破壊兵器を持っているという情報を流したが、IAEAエルバラダイ事務局長は証拠はつかめていないと言っていた。

それにも関わらずアメリカはイラクに出兵した。

イラクの核開発について最後までアメリカと対立したIAEAのエルバラダイ事務局長とIAEAの組織全体が2005年のノーベル平和賞を受賞したことは、IAEAの立場が正しかったことが国際的に認められたものである。

次の2つは第4章「英語の品格」からだ。


パーティ用語の"byol"

村上さんはパーティの招かれた時に挨拶状に"byol party"と書いてあったのを見過ごして、恥をかいたという。

"byol"とは"bring your own liquor"のことで、飲み物持参パーティのことだ。

"byob"と呼ぶことも多い。"byob"とは"bring your own booze=酒"のことだ。


"and, so, but"からの脱却

次の2つの文を比べて欲しい。

"I went to school yesterday, and I saw a teacher. He said hello to me. But I don't like that teacher, so I didn't say hello to him"

"When I went to school yesterday, I say a teacher I didn't like. He said hello to me, but I didn't return a greeting"

どちらが説得力あるだろうか?

このように"and, so, but"から脱却することで、英文も小学生レベルの英文から、ピリッとしまった英文を書けるようになる。


英語の4大発音

村上さんは次の4つが英語の4大発音で、繰り返し練習が必要だという。("ae"と"з"は発音記号の代わり)

1."man"などの"ae"音

2."shirt","term", "worthy"などの"з:r"または"зr"音

3."learn"などの"L"音

4."think", "thank you"などの"θ"音

筆者はこれにアメリカ英語の特徴である"r"(アール)の発音を加えたらカンペキと思う。


アメリカ駐在のときに、当時幼稚園児と小学生の息子たちに「お父さんの英語は下手だ」と言われていた。

自分ではそれなりに英語がうまいつもりなのだが、当時の息子たちのようなネイティブと同じ発音と自分の発音が異なる理由がわかったような気がする。

「駐在のときにこの本を読んでいれば....。」と思うと残念だ。


英語の初級者にも上級者にもおすすめできる。読むだけでなく英語の発音も試して欲しい本である。


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2009年08月19日

8月納涼歌舞伎 勘三郎の四役早替わり最高!

八月納涼大歌舞伎を歌舞伎座に見に行ってきた。今の歌舞伎座は来年立て替えのために取り壊されるので、歌舞伎座さよなら公演と銘打っての出し物だ。

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6時からの第三部で、後半の「怪談乳房榎」での歌舞伎のスーパースター中村勘三郎の四役早替わりが見所だ。

歌舞伎座のホームページに様々な情報が載っている。

kabukiza





「怪談乳房榎」は板橋区にちなんだ三遊亭円朝の怪談噺なので、板橋区のホームページにもストーリーが載っている。

また「怪談乳房榎」のストーリーを詳しく解説したホームページもあるので紹介しておく。


歌舞伎の最後の場面では舞台に滝のセットをつくって水を流し、勘三郎が水の中で格闘するシーンまであった。水に濡れた姿でも早替わりしていた。

早替わりは驚くべき早業で、たとえば花道を暗くして、すれ違いざまに早替わりすることもあって感心した。歌舞伎は本当にエンターテインメントだと思う。

セリフもわかりやすく、イヤホンガイドで話の進行にあわせて日本語又は英語で解説が流れるサービスもある。外国人観光客も多い。

昨日も満席だった。今の歌舞伎座は来年取り壊されるので、首都圏に住んでおられる人は、その前に一度歌舞伎座に歌舞伎を見に行くことをおすすめする。

インターネットで予約できるサービスもあるので、歌舞伎座のホームページをチェックして欲しい。



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2009年08月17日

昭和天皇独白録 寺崎英成 御用掛日記 貴重な歴史資料

+++今回のあらすじは長いです+++

昭和天皇独白録 (文春文庫)昭和天皇独白録 (文春文庫)
著者:寺崎 英成
販売元:文芸春秋
発売日:1995-07
おすすめ度:4.0
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昭和天皇独白録・寺崎英成御用掛日記
著者:寺崎 英成
販売元:文藝春秋
発売日:1991-03
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外交官出身で、戦後すぐ昭和21年2月に昭和天皇の御用掛となった寺崎英成氏の記した昭和21年3ー4月の昭和天皇の独白録と寺崎さんの昭和20年から昭和23年までの日記。

寺崎氏は1900年生まれ。昭和天皇より1歳年上だ。兄太郎氏と英成氏の外務省の寺崎兄弟は、柳田邦男さんのノンフィクション「マリコ」の中心人物で、「マリコ」を日米交渉の暗号として連絡を取り合い、日米開戦を回避するために最後まで努力したことが知られている。

マリコ (1980年)マリコ (1980年)
著者:柳田 邦男
販売元:新潮社
発売日:1980-07
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上記に文庫版と単行本を紹介したが、1991年に単行本として出版されたときは、「昭和天皇独白録」(130ページ)、「寺崎英成御用掛日記」(230ページ)、寺崎さんの娘のマリコ・テラサキ・ミラーさんの寄せた「遺産の重み」等(40ページ)の3部作がセットになっていた(カッコ内は、それぞれのページ数)。

「寺崎英成御用掛日記」は元々かなりカットされているが、それでもページ数が230ページと多い。人に公開する前提で書いたものではなく、あまりに私的な部分が多いからだろうが、1995年の文庫版では収録されていない。

その代わり文庫版では半藤一利伊藤隆児島襄秦郁彦の4氏による座談会「独白録を徹底研究する」を解説代わりに付けている。

「昭和天皇独白録」は1990年12月の文藝春秋に発表されて、その存在が明らかになったもので、昭和21年3月から4月にかけて松平慶民宮内大臣、松平康昌宗秩寮総裁、木下道雄侍従次長、稲田周一内記部長、寺崎英成御用掛の五人の側近が、 張作霖爆死事件から終戦に至るまでの経緯を 4日間計5回にわたって昭和天皇から直接聞き、まとめたものだ。

昭和21年始めにマッカーサーは天皇の戦争責任を追及しないという方針を固めていた(この辺の事情は後述の「御用掛日記」の解説にもふれられている)。

なぜ天皇へのヒアリングが同年4月からの東京裁判直前に行われ、ヒアリングが何のために役立てられたのか、寺崎氏の筆記録以外に本紙があったのか、天皇の証言ははたして英訳されたのかなど、文庫版の座談会でも議論されているが不明なままだ。

こんな第1級の資料が1990年になるまで埋もれていたこと自体が信じられないが、寺崎英成氏が昭和26年に死去した後、遺品は米国在住の寺崎夫人グエンドレン(グエン)さんと、娘のマリコさんに引き取られた。

マリコさんの家族は日本語が読めないのでそのままになっていたところ、マリコさんの長男コール氏が興味を持ち、知り合いの南カリフォルニア大学ゴードン・バーガー教授経由日本の現代史研究家に紹介したところ、「歴史的資料として稀有なものである」というお墨付きを得て、文藝春秋に発表したものだ。ちなみに日本の現代史研究家とは座談会にも出席している伊藤隆東大名誉教授のことだ。

「昭和天皇独白録」は、寺崎氏特注の便箋に大半が鉛筆書きで記入され、上下2巻にまとめられたものだ。

出だしに「記録の大体は稲田(周一内記部長)が作成し、不明瞭な点については木下(道雄侍従次長)が折ある毎に伺い添削を加えたものである」

「昭和21年6月1日、本扁を書き上ぐ 近衛公日記及迫水久常の手記は本扁を読む上に必要なりと思い之を添付す」となっている。

この寺崎メモが発見される前に、同じく天皇のヒアリングに立ち会った木下道雄氏の「側近日誌」に断片的に記されていたので、ヒアリングがあったという事実はわかっていたが、克明な資料が残されていたことが、寺崎メモで初めて明らかにされたのだ。

側近日誌
著者:木下 道雄
販売元:文藝春秋
発売日:1990-06
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この「昭和天皇独白録」の重要部分は、このブログでも紹介している半藤一利さんの「昭和史」、小林よしのりの「天皇論」旧皇族の竹田恒泰さんの「皇族たちの真実」にも引用されているが、まさに昭和史のFAW(Forces at Work=原動力)を裏付ける証言となっている。

昭和天皇が崩御された1989年の翌年の1990年にこの本が出版されたことも、昭和という時代を振り返る上で良いタイミングであったと思う。

不勉強で恥ずかしい限りだが、実はこの本を読むまで「昭和天皇独白録」は、昭和天皇御自身が書かれたものだと思いこんでいて、御用掛の寺崎さんが記録したものとは知らなかった。


独白録の項目

この「独白録」には、ところどころに半藤一利さんの解説も付いているので大変理解しやすい。まずは各項のタイトルを紹介しておく(カッコ内は実際に起こった年で、原本とは異なる)。

<第1巻>
・大東亜戦争の遠因
・張作霖爆死の件(昭和3年)
・倫敦会議、帷幄上奏(いあくじょうそう)問題(昭和5年)
上海事件(昭和7年)
・天皇機関説と天皇現神説(昭和10年)
二二六事件(昭和11年)
・支那事変と三国同盟(昭和12年と15年)
・ノモンハン事件(昭和14年)
・阿部内閣の事(昭和14年)
・平沼と日独同盟(昭和14年)
・御前会議というもの
・米内内閣と陸軍(昭和15年)
・三国同盟(昭和15年)
・南仏印進駐(昭和16年)
・日米交渉(昭和16年)
・9月6日の御前会議(昭和16年)
・近衛の辞職と東条の組閣(昭和16年)
・開戦の決定(昭和16年)
・ルーズベルト大統領の親電

<第2巻>
・宣戦の詔書
・ローマ法皇庁に使節派遣(昭和17年)
・詔書煥発要望の拒否及伊勢神宮
・敗戦の原因
・東条内閣の外交
・東条内閣の内政
・東条という人物
・東条の辞職
・小磯内閣
・小磯の人物
・講和論の台頭
・御名代高松宮の神宮参拝
繆斌(ぼくひん)問題
・最高幕僚設置問題
・小磯の辞職
・鈴木内閣
・首相推薦の重臣会議
・外務大臣・陸軍大臣の任命
・沖縄決戦の敗因
・講和の決意
・6月8日の御前会議とX項
・ソビエトとの交渉
・ポツダム宣言をめぐっての論争
・8月9日深夜の最高戦争指導会議
・8月10日の重臣会議
・12日の皇族会議
・8月14日の御前会議前後
・結論

貴重な資料なので、どれもふれておきたいが、一々紹介していくときりがなく長くなりすぎるので、特筆すぺき発言の要点だけを記すと次の通りだ。(現代仮名遣いに修正済)


★大東亜戦争の遠因
この原因は、第一次世界大戦後の平和条約で、日本の主張した人種平等案は列国から認められず、差別意識は残り、青島還付やアメリカの排日移民法などが日本国民を憤慨させ、反米感情を決定的にした。このような反米国民感情を背景として、ひとたび軍が立ち上がると、これを抑えることは容易ではない。

これが独白録の冒頭文だ。昭和天皇の考える根本のFAW(Forces at Work)をあらわしていると思う。


★張作霖爆死事件の顛末
当時の田中義一首相がうやむやに葬りたいと言ってきたことに対して、「それでは前と話が違うではないか。辞表を出してはどうか」と天皇が言ったことが、田中義一内閣の総辞職と、2ヶ月後の田中義一首相の死去につながった。

実際には首謀者の河本大佐が軍法会議で日本の謀略をすべてバラすと言ったので、軍法会議が開催出来なかったという事情があったらしい。

「こんな言い方をしたのは、私の若気の至りであると今は考えているが、とにかくそういう言い方をした。」

「この事件あって以来、私は内閣の上奏する所のものは、たとえ自分が反対の意見を持っていても裁可を与えることに決心した。」

天皇は国家機関の一部であるとする美濃部達吉の「天皇機関説」は、一時は主流学説だったにもかかわらず、昭和10年に突如国体に反するとの声があがり、禁止された。しかし天皇自身はこのように内閣の上奏は拒否しないことで、絶対君主的な統治者ではないことをはっきり認識されていた。

ちなみにこの項でいわゆる「君側の奸」にもふれている。

原文を引用すると、

「田中にも同情者がある。久原房之助などが、重臣「ブロック」という言葉を作り出し、内閣のこけたは重臣達、宮中の陰謀だと触れ歩くに至った。」

「かくして作り出された重臣「ブロック」とか宮中の陰謀とかいう、いやな言葉や、これを真に受けて恨(うらみ)を含む一種の空気が、かもし出された事は、後々まで大きな災いを残した。かの二二六事件もこの影響を受けた点が少なくないのである。」


二二六事件
天皇は田中内閣の苦い経験があるので、必ず輔弼の内閣の進言通りにしたが、二二六事件と終戦の二回だけは積極的に自らの考えを実行させた。反乱軍には天皇自ら討伐命令を下した。

二二六事件以降軍事テロの恐怖が、常に昭和天皇や政府首脳の頭にトラウマとしてこびりつくことになる。


御前会議
枢密院議長を除く、内閣、軍令部のメンバーは事前に意見一致の上、御前会議に臨むので、反対論を言える立場の人は枢密院議長だけで、多勢に無勢、全く形式的なもので、天皇には会議の空気を支配する決定権はない。


★日独伊三国同盟
昭和15年9月7日、バトルオブブリテンでドイツの英国侵攻失敗が決定的になった日にドイツからスターマー特使が来日、9日後の9月16日、日独伊三国同盟締結が閣議決定された。

昭和天皇は同盟反対だったが、閣議決定には従わざるを得なかった。

この項の前にも昭和天皇は三国同盟締結を勧める秩父宮とケンカしたとか、私が味方にしていたのは、前には(第一次近衛内閣)米内、池田、後では(平沼内閣)有田、石渡、米内だったと語っている。

「この問題については私は、陸軍大臣とも衝突した。私は板垣(征四郎)に、同盟論は撤回せよと言ったところ、彼はそれでは辞表を出すという。彼がいなくなると益々陸軍の統制がとれなくなるので遂にそのままとなった」

さらに畑俊六陸軍大将を侍従武官に任命した時にも、日独同盟反対ということが確かめられたので任命したと語っている。

「宮中が極力親英米的であったという事は之でも判ると思う」と天皇は語っている。

日独伊三国同盟は、いずれソ連を入れて日独伊ソ四国同盟として、英米に対抗して日本の対米発言権を強めようという松岡洋右外相の空虚な発想のもとで締結されたが、松岡は吉田善吾海軍大臣をだまして日独同盟に賛成させたと天皇は語っている。

この部分を引用すると、

「吉田善吾が松岡の日独同盟論に賛成したのはだまされたと言っては語弊があるが、まあだまされたのである。日独同盟を結んでも米国は立たぬというのが松岡の肚である。松岡は米国には国民の半数に及ぶドイツ種がいるから之が時に応じて起つと信じていた、吉田は之を真に受けたのだ。」

「吉田は海軍を代表して同盟論に賛成したのだが、内閣が発足すると間もなく、米軍は軍備に着手し出した、之は内閣の予想に反した事で吉田は驚いた、そして心配の余り強度の神経衰弱にかかり、自殺を企てたが止められて果たさず後辞職した。」

「後任の及川(古志郎)が同盟論に賛成したのは、前任の吉田が賛成した以上、賛成せざるを得なかった訳で当時の海軍省の空気中に在ってはかくせざるを得なかったと思う。近衛の手記中に於て、近衛は及川を責めているが、之はむしろ近衛の責任のがれの感がある」

松岡洋右については、昭和16年2−4月のドイツ訪問後ドイツびいきになったことで、「それからは別人の様に非常なドイツびいきになった。恐らくは「ヒトラー」に買収でもされたのではないかと思われる」とまで語っている。

「一体松岡のやる事は不可解の事が多いが彼の性格を呑み込めば了解がつく。彼は他人の立てた計画には常に反対する、又条約などは破棄しても別段苦にしない、特別な性格を持っている」

さらに三国同盟については、天皇は近衛首相に、次のように言っている。

「ドイツやイタリアのごとき国家と、このような緊密な同盟を結ばねばならぬことで、この国の前途はやはり心配である。私の代はよろしいが、私の子孫の代が思いやられる。本当に大丈夫なのか」

そしてその結末については、

「日独同盟については結局私は賛成したが、決して満足して賛成した訳ではない。(中略)三国同盟は15年9月に成立したが、その後16年12月、日米開戦まできた三国単独不講和確約は結果から見れば終始日本に害をなしたと思う」

「日米戦争は油で始まり油で終わった様なものであるが、開戦前の日米交渉時代にもし日独同盟がなかったら米国は安心して日本に油をくれたかも知れぬが、同盟があるために日本に送った油がドイツに回送されはせぬかという懸念の為に交渉がまとまらなかったとも言えるのではないかと思う」


★近衛の辞職と東条の組閣
陸軍は主戦論、海軍は戦争はできないことはないが、2年後になると財政経済の国力の問題になるから、和戦の決定は総理大臣に一任するという立場だった。

近衛は信念と勇気を欠いたので、処理に悩み辞職した。

その後は陸軍を抑える力のあるものということで東条を首相とし、9月6日の御前会議の決定を白紙に戻して平和になるよう極力尽力せよということで条件を付けた。

天皇の東条の評価は高いことがこの「独白録」からもわかる。


★開戦の決定
天皇の言葉は次の通りだ。

「問題の重点は油だった。中略。石油の輸入禁止は日本を窮地に追い込んだものである。かくなった以上は、万一の僥倖に期しても、戦った方が良いという考が決定的になったのは自然の勢と言わねばならぬ。」

「もしあの時、私が主戦論を抑えたらば、陸海に多年錬磨の精鋭なる軍を持ち乍ら、ムザムザ米国に屈伏するというので、国内の与論は必ず沸騰し、クーデタがおこったであろう。」

「実に難しい時だった。そのうちにハルのいわゆる最後通牒が来たので、外交的にも最後の段階に至った訳である。」

尚、半藤一利さんも「昭和史」のなかでコメントしていたが、天皇の広田弘毅の評価は低い。「玄洋社出身の関係か、どうか知らぬが、戦争をした方がいいという意見を述べ、又皇族内閣を推薦したり、又統帥部の意見を聞いて、内閣を作った方が良いと言ったり、全く外交官出身の彼としては、思いもかけない意見を述べた」


★ローマ法皇庁に施設派遣
「開戦後法皇庁に初めて使節を派遣した。これは私の発意である。」

ローマ法皇庁が全世界に及ぼす精神的支配力を見込み、戦争を終わらせる上で好都合で、世界の情報収集にも便利という発想だったという。ただ日独同盟の関係から、ヒトラーと疎遠な関係にある法皇庁に十分な活動はできなかったという。


★敗戦の原因
天皇の言葉をそのまま引用する。

「敗戦の原因は四つあると思う。
第一、兵法の研究が不十分であった事、即孫子の、敵を知り、己を知らねば(ママ)、百戦危うからずという根本原理を体得していなかったこと。
第二、余りに精神に重きを置き過ぎて科学の力を軽視したこと。
第三、陸海軍の不一致。
第四、常識或る主脳者(ママ)の存在しなかった事。往年の山縣(有朋)、大山(巌)、山本権兵衛、という様な大人物に欠け、政戦両略の不十分の点が多く、且軍の主脳者の多くは専門家であって部下統率の力量に欠け、いわゆる下克上の状態を招いたこと。」

半藤さんの解説には、最近になって公表された昭和20年9月9日付けの皇太子(今上天皇)宛の天皇の手紙が引用されている。

「我が国人が、あまりに皇国を信じ過ぎて、英米をあなどったことである。
我が軍人は精神に重きをおきすぎて科学を忘れたことである。
明治天皇の時には、山縣、大山、山本等の如き名将があったが、今度の時はあたかも第一次世界大戦のドイツの如く、軍人がバッコして大局を考えず、進むを知って、退くことを知らなかったからです」


★戦況の分かれ目
「私はニューギニアのスタンレー山脈を突破されてから(昭和18年9月)勝利の見込みを失った。一度どこかで敵を叩いて速やかに講和の機会を得たいと思ったが、ドイツとの単独不講和の確約があるので国際信義上、ドイツより先には和を議したくない。それで早くドイツが敗れてくれればいいと思ったほどである。」


★沖縄決戦の敗因
「これは陸海作戦の不一致にあると思う。沖縄は本当は三個師団で守るべきところで、私も心配した。」

「特攻作戦というものは、実に情に於いて忍びないものがある。敢えてこれをせざるを得ざるところに無理があった。」

「海軍はレイテで艦隊のほとんど全部を失ったので、とっておきの大和をこの際出動させた、これも飛行機の連絡なしで出したものだから失敗した」


★本土決戦準備
「敵の落とした爆弾の鉄を利用してシャベルを作るのだという。これでは戦争は不可能ということを確認した」


★結論
「開戦の際東条内閣の決定を私が裁可したのは立憲政治下に於ける立憲君主としてやむを得ぬ事である。もし己が好む所は裁可し、好まざる所は裁可しないとすれば、これは専制君主と何ら異なる所はない。」

中略

「今から回顧すると、私の考えは正しかった。陸海軍の兵力の極度に弱った終戦の時に於いてすら無条件降伏に対し「クーデター」様のものが起こった位だから、もし開戦の閣議決定に対し私が「ベトー」を行ったとしたらば、一体どうなったであろうか。」

「日本が多年錬成を積んだ陸海軍の精鋭を持ちながらいよいよという時に決起を許さぬとしたらば、時のたつにつれて、段々石油は無くなって、艦隊は動けなくなる、人造石油を作ってこれに補給しようとすれば、日本の産業をほとんど、全部その犠牲とせねばならぬ。それでは国は亡びる、かくなってから、無理注文をつけられては、それでは国が亡びる、かくなってからは、無理注文をつけられて無条件降伏となる。」

「開戦当時に於ける日本の将来の見通しは、かくの如き有様であったのだから、私がもし開戦の決定に対して「ベトー」したとしよう。国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証できない。」

「それは良いとしても結局狂暴な戦争が展開され、今次の戦争に数倍する悲惨事が行われ、果ては終戦も出来かねる始末となり、日本は亡びる事になったであろうと思う。」

これが「昭和天皇独白録」の結論である。


寺崎英成御用掛日記

昭和20年8月15日から昭和23年2月15日までの寺崎英成氏の日記だ。寺崎家の日常のこともふれられていて、何を食べたとか、誰と会ったとかの記録がほとんどで、たとえば「昭和天皇独白録」のヒアリングについては一切ふれていない。

たぶん公の機密事項については、他人が読む可能性のある日記には書かなかったのだろう。

230ページもの日記だが、マリコ・テラサキ・ミラーさんが書いているように、この時代が寺崎氏のキャリアで最も充実した時代だった。戦前から米国には多くの知人があり、奥さんが米国人だったこともあり、GHQ,大使館にはフリーパスだったそうだ。

寺崎氏は日米開戦時にワシントンの日本大使館に勤務していたが、日米開戦後帰国し、待命状態が続き、一時は外務省を離れていたが、昭和20年11月に終戦連絡中央事務局(終連)連絡官として復職する。

このときの同僚が終連参与の白洲次郎だ。

吉田茂の引きで終連参与となった白洲次郎は、どうやら寺崎氏など外交官出身者には吉田茂の虎の威を借る狐のように思えた様で、

「白洲、新聞記者が部外者に自動車を出していて怪しからぬと言う。怪しからぬハ白洲なり。余を部外者とハ何ぞや。」

「陛下ハ吉田白須(白洲)のラインに疑念を持たるるなりと言う」

というような表現も見られる。

寺崎氏の戦前からの知己、ジョージ・アチソン氏がマッカーサーの政治顧問団団長だったり、マッカーサーの直属の副官部の軍事秘書で、いわゆるバターンボーイズの一人のボナ・フェラーズ准将が夫人のグエンさんの親戚だったりで、GHQへの食い込みは単なる知米派を超えるものがある。

この日記を見ると頻繁にGHQのアチソン、フェラーズ、バンカー(マッカーサー副官)、フィットネー(ホイットニー民政局長。白洲次郎の宿敵のケーディス中佐の上司)他の様々なスタッフと頻繁に会ったり、食事したり、ゴルフや鴨狩に行ったりして公私ともに親密なつきあいをして、それが日本のためにもなっていることがわかる。

マッカーサーの写真を見ると腰にピストルを持っている副官が必ず同行しているが、それがフェラーズ准将であり、小泉八雲に傾倒し、天皇についても「天皇裕仁はルーズベルト以上の戦争犯罪人ではない。事実、記録をよく調べてみたまえ。そうそればどちらが戦犯か明らかになる」と明言していたという。

このフェラーズ准将は、次のような天皇に関する覚書を昭和20年10月2日付けで作成していた。マッカーサーはこの覚書を常にデスクに入れ、時々読み返していたことをウィロビー少将などが認めている。

「…われわれアメリカ軍は天皇に協力を求め、日本への無血侵入を成功裡に遂行した。七百万余の日本軍将兵が武器を捨て、急速に陸海軍が解体されたのは天皇の命令による。この天皇の行為によって、数十万の米軍将兵は死傷を免れた。戦争も予期された時日よりはるかに早く終結した。」

「このように、いったん天皇を利用した上で、その天皇を戦争犯罪を口実に裁くならば、日本国民はそれを信義にもとるものと見なすであろう。…もし天皇を裁判にかけるならば、日本の統治組織は崩壊し、民衆の決起は不可避である。他の一切の屈辱に耐えても、この屈辱に日本国民は耐ええないであろう…。」

まさにアメリカの天皇に対する占領政策を決めた覚書である。

統率の取れた武装解除を物語るビデオがYouTubeに掲載されているので、紹介しておく。昭和20年8月30日厚木飛行場に到着したマッカーサー一行が移動する時に、沿道には日本の兵隊が50メートルおきに立ち、全員マッカーサー一行に背を向けて、不届き者が近づかないように監視していた。

日本軍から攻撃されるかもしれないと戦々恐々だったマッカーサー一行は、秩序だった警備に感動し、これが天皇には手を付けてはならないという確信に繋がったのだろう。



半藤一利氏も「この日記のなかで、いちばん注目せねばならないのは、何といってもフェラーズの名であろう。」と解説している。

頻繁に会っているのがワシントン時代からの旧知の仲で、国際検察局捜査課長として赴任してきたロイ・モーガンだ。その面談の頻度から、東京裁判の被告人選定などに寺崎氏から情報収集をしていたのではないかと思わせる。

昭和21年に寺崎氏は皇太子(今上天皇)の家庭教師、ヴァイニング夫人の選定にもかかわっており、着任したヴァイニング夫人ともよくコンタクトしていたことがわかる。


遺産の重み

最後のマリコ・テラサキ・ミラーさんの「遺産の重み」は「宿命的な母グエンの死」、「ある外交官の挫折と栄光」、「かけ橋(ブリッジ)こそ父母の遺産」の3部作で構成されている。

寺崎氏の生涯や夫妻の出会い、戦時中の生活などを紹介している。冒頭で紹介した柳田邦男氏のノンフィクション作品「マリコ」で描かれている寺崎兄弟の日米戦回避努力が”表側”の生活だとしたら、戦時中の”裏側”の苦労などが綴られていて興味深い読み物となっている。

マリコさんは日米間のかけ橋となって欲しいという父母の遺産の重みを感じており、毎年のように来日して各地で講演している。

その象徴はドテラだ。

寺崎氏が、グエンさんを抱いてドテラにくるまって、「こうすれば二人は”一人の巨人”で怖いものなしさ」と言っていたという。ただでさえ難しい国際結婚で、しかもお互いの国が戦争していたのだから、普通以上の苦労をした二人であった。

日本とアメリカが”ドテラ”にくるまってひとつになったときに、本当の巨人になれるというメッセージを伝え続けていきたいとマリコさんは語っている。

8月の終戦記念日を迎え、昭和生まれの人にも平成生まれの人にもおすすめできる本だと思う。

文庫本の方が手っ取り早く読むには適しているが、時間があれば単行本も読んで頂きたい。単行本には写真も多く掲載されており、寺崎さんの日記も参考になる。

文庫本の座談会は、調べてみたら全員東大出身の小説家、学者で、児島襄さんは、半藤さんの東大ボート部の3年先輩だった。自由闊達な座談会でないのがやや残念なところだ。


参考になれば投票ボタンをクリックして頂きたい。




  
Posted by yaori at 23:48Comments(0)TrackBack(0)

2009年08月13日

日本のいちばん長い日 事実は小説より奇なり 再掲

2009年8月13日再掲:


今年も8月15日の終戦記念日が近づいてきた。次回は「昭和天皇独白録」のあらすじを紹介するが、その前に今から64年前の昭和20年8月15日前後に何が起こったのかを振り返るために、半藤一利さんの「日本のいちばん長い日」のあらすじを再度掲載する。

おなじ半藤一利さんの「昭和史 1926年ー1945年)」とともに、昭和を今一度振り返って欲しい。


2009年6月5日初掲:

決定版 日本のいちばん長い日 (文春文庫)決定版 日本のいちばん長い日 (文春文庫)
著者:半藤 一利
販売元:文藝春秋
発売日:2006-07
おすすめ度:5.0
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司馬遼太郎亡きあとの歴史小説の第一人者半藤一利さんが、昭和40年(1965年)文藝春秋編集次長時代に、大宅壮一編として出版した名作。

大宅壮一氏死後、未亡人の了承を得て、森近衛師団長惨殺の実行者など、当時の事情で差し障りがあって隠蔽せざるを得なかった事実や、その後わかった史実を加えた「決定版」として、半藤さんの名前で30年後の1995年に再度出版したものだ。

「日本のいちばん長い日」は、阿南惟幾(あなみこれちか)陸相を演じる三船敏郎以下のオールスターキャストで映画化され大ヒットした。

日本のいちばん長い日 [DVD]日本のいちばん長い日 [DVD]
出演:三船敏郎
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発売日:2005-07-22
おすすめ度:4.5
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1945年(昭和20年)8月14日正午から8月15日正午に至るまでの24時間の出来事を、登場人物の発言を構成して濃密なドラマに仕上げている。

半藤さんのあとがきによると、この本の特徴は直接証言者にあたり、実地の踏査を重んじたことだという。戦後20年の昭和40年にはそれが可能だったのだと。

それゆえあとがきの謝辞に59名もの取材協力者の名前をクレジットとして列挙している。

当時の状況をおさらいすると、1939年9月ポーランド電撃占領で第2次世界大戦を始めたドイツは1945年5月に降伏し、唯一日本だけが全世界を相手に戦争を続けていたが、日本の敗北は時間の問題と思われていた。

この年2月には近衛文麿が終戦を求める近衛上奏文を提出し、吉田茂が近衛上奏文に関わったとして逮捕されたのは4月だ。

連合国は1945年7月26日にドイツベルリン郊外のポツダムで会議を行い、日本に無条件降伏を求めるポツダム宣言を出した。

ポツダム会議に参加した英アトリー、米トルーマン、ソ連スターリン

Potsdam_big_three






出典: Wikipedia

ルーズベルトが4月に死去したので、米国大統領に昇格したトルーマンとチャーチルが宣言案をつくったが、そのチャーチルはポツダム会議中にイギリスの総選挙でまさかの敗北を喫して、副代表として参加していたアトリー新首相に交代するというハプニングまで起こった。

スターリンは会議のホストだったにもかかわらず、チャーチルとトルーマンにより宣言からはずされ、激怒したという。日本には宣戦布告していないからという理由だった。

このあたりは以前紹介した「暗闘」に詳しい。

暗闘―スターリン、トルーマンと日本降伏暗闘―スターリン、トルーマンと日本降伏
著者:長谷川 毅
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発売日:2006-02
おすすめ度:5.0
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日本はスターリンが署名していないことから、ソ連による和平調停に一縷の望みをかけ、近衛文麿が訪ソすることでソ連と交渉した。しかし既に対日参戦を決めていたソ連は確答せず、日本ははぐらかされて、8月9日のソ連の対日参戦に至る。

この本のプロローグではポツダム宣言を「ただ黙殺するだけである」との鈴木貫太郎首相の発言がラジオで報道され、日本は拒絶したと受け取られる結果となり、その後の原爆投下とソ連参戦の口実にされたことを記している。

日本がポツダム宣言を即時受諾に踏み切らなかったのは、天皇制を中心とする国体護持の保証がなかったからだ。

そうこうしているうちに8月6日広島に原爆が投下された。内閣と天皇に原爆により広島市全滅という情報がもたらされたのは、その日の午後遅くだったという。

8月7日トルーマンはラジオで演説し、20億ドルを投じて歴史的な賭けを行い賭けに勝ったと原爆を賞賛し、日本が降伏しない限り他の都市にも投下すると警告する。

8月8日天皇は「このような武器がつかわれるようになっては、もうこれ以上、戦争をつづけることはできない。不可能である。有利な条件をえようとして大切な時期を失してはならぬ。なるべくすみやかに戦争を終結するよう努力せよ。このことを木戸内大臣、鈴木首相にも伝えよ」と東郷外相に指示する。

8月9日早朝ソ連が参戦する。鈴木首相は朝10時半から最高戦争指導会議を開催するが、その最中に長崎へ第2の原爆が投下されたことが報告される。

会議はまとまらず、深夜11時50分から御前会議を開いた。

Gozen-kaigi_14_August_1945





出典: Wikipedia

会議では天皇の地位を変更しないことだけを条件としてポツダム宣言を受け入れることを主張する米内海相、東郷外相、平沼枢密院議長と、さらに占領期間、武装解除、戦犯処理まで日本人の手で行うという合計4条件を求める阿南陸相、梅津参謀総長、豊田軍令部総長の3:3にわかれ、鈴木首相は自らの決定を辞し、天皇に聖断を頼む。

天皇は「それならば私の意見をいおう。私は外務大臣の意見に同意である。」と答える。

「ひとりでも多くの国民に生き残ってもらい将来再び立ち上がってもらうほか道はない。明治天皇の三国干渉の際のお心持をしのび奉り、私は涙をのんで外相案に賛成する」

会議が終わったのは8月10日午前2時半を過ぎていたという。

すぐに中立国スイスとスウェーデンの日本公使に「天皇の大権に変更を加うるがごとき要求は、これを包含しておらざる了解のもとに」ポツダム宣言を受諾する旨の電報が発信された。

8月10日午後首相経験者などを集めた重臣会議が開催され、ほとんどの重臣は賛成したが、元首相の東條英機と小磯国昭は反対した。

米国政府はそのまま受けろと主張する親日派スチムソン陸軍長官に、フォレスタル海軍長官、リーヒ大統領付幕僚長は同調したが、バーンズ国務長官は強硬で、日本側電報の回答として、天皇と日本政府の権限は、連合軍最高司令官に"subject to"と回答してきた。

外務省は”制限の下におかる”と名訳を出したが、陸軍は”隷属する”と訳して、態度を硬化させた。

8月12日午後から13名の各宮を集めた皇族会議が開催された。皇族の順位に従って高松宮からはじまって、竹田宮、朝鮮王室の李王垠李鍵公の順に座ったという。

敗戦で最悪天皇制廃止や退位などもありうると覚悟した天皇の心遣いだろう。

天皇は国体護持は譲れないと主張する阿南陸相に対し、「阿南よ、もうよい。心配してくれるのは嬉しいが、もう心配しなくともよい。私には確証がある」と諭したという。

しかし閣議ではまたも紛糾し、8月13日の最高戦争指導会議もまたも紛糾した。結局8月14日午後、御前会議で聖断を仰ぐこととなる。

陸軍省では、帰任した阿南陸相を徹底抗戦を訴えるクーデター計画が待っていたが、陸相は確答しなかった。

8月14日午前10時50分から最高戦争指導会議と閣僚全員の合同の御前会議が開かれた。このような合同の御前会議は開戦決定の1941年12月1日の御前会議以来だという。

8月14日の御前会議の絵

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出典: Wikipedia

御前会議で鈴木首相が報告し、天皇の聖断を求めると、天皇は立ち上がり、ポツダム宣言受諾を宣言する。自分のできることはなんでもする。マイクの前にも立つ。どこでも出かけて親しく説きさとすと語る。

長いので引用しないが、この本では参加者の手記をもとに鈴木首相にも確認の上で作成された下村宏国務・情報局総裁作成の天皇の発言全文を掲載しており、大変興味深い。

自らの身を投げ出しても戦争を終結させるとの天皇の強い意志だった。閣僚たちは皆慟哭したという。

陸軍省では青年将校達が依然として徹底抗戦を訴えるが、阿南陸相は「最後のご聖断が下ったのだ。悪あがきをするな。軍人たるものは聖断にしたがうほかない」とはねつける。

天皇自らラジオで放送することとなり、生放送でなく録音放送にきまる。天皇の声がラジオで放送されるのははじめてだ。

迫水書記官長が中心となって、安岡正篤の協力も得て終戦の詔勅案が作られ、ガリ版刷りの原案が閣議の了承を得て、14日午後6時に天皇の朗読が録音されることになった。

準備は遅れに遅れ、詔勅に天皇が御名御璽を印したのは午後8時半、実際に天皇が2回録音盤に吹き込んだのは夜中の午後11時50分だった。


終戦の詔勅 残虐なる爆弾のあとに”頻に無辜を殺傷し”という書き込みがある

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出典: Wikipedia


録音盤は徳川侍従が整理戸棚の書類入れの軽金庫に納め、書類をその上にうずたかく積んで隠した。

一方陸軍はとうとう行動を起こす。陸軍省軍事課員井田中佐、椎崎中佐、畑中少佐らが、どうせ明日は死ぬ身だからと近衛師団を使っての宮城制圧を計画する。海軍でも米内海相の暗殺をひそかに計画しているものがあったという。

8月14日午後5時頃近衛文麿が、近衛師団に不穏の計画があるがと木戸内大臣に伝えに来る。はたして不安は的中し、井田中佐、椎崎中佐他が、森近衛師団長に決起を促そうと談判する。午前1時まで粘るが、受け入れられないので、畑中少佐がピストルで森師団長を撃ち、上原大尉と窪田少佐が斬りつけ、森師団長と白石中佐を殺戮する。

そして偽の師団長命令をつくり、近衛師団を動員して、血眼になって皇居中を探し録音盤を見つけようとするが、結局見つからなかった。

玉音放送を録音したNHKの会長とスタッフは近衛師団の兵士につかまり、監禁される。木戸内大臣などは皇居内の地下室に隠れて難を逃れる。近衛師団は放送局にも押し入り、意見放送を要求するが、空襲警報中は放送できないと断られる。

反乱軍の首謀者の一人の井田中佐は陸軍省に行き、阿南陸相と最期の杯を交わす。阿南陸相は3時頃に森師団長が殺害されたという報告を受けたが、「このお詫びも一緒にすることにしよう。」と言うと、さらに「米内を斬れ」とぽつりと言ったという。阿南陸相は陸軍省で最期の酒盛りをしたあと、午前5時半陸軍省の廊下で割腹自殺する

このときの遺書が次の通りだ。義理の息子の竹下中佐が立ち会い、最後に介錯する。

「一死を以て大罪を謝し奉る 昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣 阿南惟幾
神州不滅を確信しつつ」

阿南陸相は三男を中国戦線で亡くしていたので、「惟晟(これあきら)は本当によいときに死んでくれたと思う。惟晟といっしょに逝くんだから、私も心強い」と語っていたという。

死んであの世で三男とあえるのを楽しみにしていると言っていたという。

午前3時東部軍が異変に気づき、参謀を近衛師団に派遣し、森師団長が殺害された現場を確認する。午前5時田中軍司令官が宮城に乗り込み、近衛師団を帰任させる。

この動きとは全く関係のない乱入劇もあった。

横浜警備隊長佐々木大尉が率いる学生四十名がトラックに分譲して軽機関銃などで武装して鈴木首相の私邸を襲い、官邸を焼き、平沼騏一郎邸も焼き、宮城に押し入り、機関銃を発射する。

午前6時天皇にも近衛師団のクーデターが起こったことが知らされる。兵に直接さとすと陛下は言われるが、その前に田中軍司令官が制圧し、騒ぎは収まった。

その日午前10時55分アメリカ航空部隊は戦闘中止命令をうけて途中で引き返したが、ソ連は猛進撃を続けていた。

玉音放送の直前に軍人が乱入しようとしたが、取り押さえられ正午から予告の通り玉音放送が流された。

11時半、天皇が放送を聞くために枢密院議場に姿を現したと同じ時刻に、反乱軍の首謀者の畑中少佐と椎崎中佐は皇居前で自刃した。

海軍厚木航空隊など、徹底抗戦を唱える一部のものもあったが、全体として日本軍は粛々と武装解除にすすみ、8月30日にマッカーサーは無抵抗の厚木基地に降り立つ。

厚木飛行場に降り立つマッカーサー一行

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出典: Wikipedia

これから後は「白洲次郎 占領を背負った男」に詳しい。


この本を読んで、いかに当時の日本政府、日本軍関係者全員が天皇を守ることに命をかけ、必死だったのかよくわかる。

「幕末史」のあらすじでも書いたように、阿南陸相の遺書の”大罪を謝し奉る”という言葉は、日本陸軍の最期の言葉にふさわしいと思う。

幕末史幕末史
著者:半藤 一利
販売元:新潮社
発売日:2008-12
おすすめ度:5.0
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まさに「事実は小説より奇なり」という言葉を地でいく、筋書きのないドラマである。DVDを借りて映画も見てみようと思う。

文庫本になっているので、半藤一利さんの代表作として、一度手に取ってみることをおすすめする。


参考になれば投票ボタンをクリックして頂きたい。


  
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2009年08月10日

断る力 久しぶりに読んだ勝間本

断る力 (文春新書)断る力 (文春新書)
著者:勝間 和代
販売元:文藝春秋
発売日:2009-02-19
おすすめ度:3.5
クチコミを見る

彗星のように現れた勝間さんに興味を持ち、「お金は銀行に預けるな」以外にも「効率が10倍アップする新・知的生産術」、「年収10倍アップ時間投資法」のあらすじを2008年3月から5月にかけて、このブログで紹介している。

しかし「お金は銀行に預けるな」のあらすじの最後に書いたように、いわば世間を甘く見ているような姿勢が感じられたので、あらすじの最後に松下幸之助の言葉を引用し、その後1年半ほど勝間さんの本は一切読んでいなかった。

この「断る力」は表紙の写真も興味をそそるものだし、勝間本は相変わらず売れていて、今月はNHK教育テレビで特集もされているので、最近はどうなのか読んでみた。

NHK勝間






林文子さんの「不思議なほど仕事がうまくいく「もう一言」の極意」のあらすじでも書いたが、本の目次を見ると大体著者のレベルがわかると筆者は思っている。

良くできた目次は著者の頭の中が整理されており、目次に本の内容がサマライズされていて、それこそ頭にスッと入る。

反対にやっつけ仕事で書いたような本は、目次が練れておらず、トピックを並べただけ、自分の言いたいことを書いただけで、読者のことを全く考えていない。このような目次の本は読んでも失望したり、疲れることが多い。

アマゾンのなか見!検索に対応しているので、まずはこの本の目次を見て欲しい。

次が最初の部分の目次だ。

断る力







出典:本書目次ページ


どう思われるだろうか?

筆者には、この目次を読んだだけでは本の内容が推測できない。雑誌などのコラムを編集した本で、時々この様な雑多な目次に出会うことがあるが、この本は書き下ろしだ。良い編集者が担当していないか、著者の頭の中が整理されていないことが一目で見て取れる目次だ。

たぶん上記の目次の88ページの「断らなくても嫌われることはゼロにできない」以下の項目は勝間さんが自分のことを書いているのだろう。


この本の要点をまとめると、次の通りだ。

「断る力」をつけて自立しないと、多くの人が「子供サッカー」をしていることに気が付かないまま定年を迎えてしまう。それでは使い捨てのコモディティ人生である。

(ちなみに筆者は高校時代にサッカー部に所属していたが、サッカーをやっている人は通常”子供サッカー”とは言わず、”百姓一揆”と言う。)

弱いチームや子供のサッカーはボールのところにみんな集まり、ボール展開ができていない。そんな”百姓一揆”サッカーのように、上司の言葉に右往左往して仕事をやったような気になっていると、それで一生終わってしまう。

だから勇気を持って、何でも引き受ける「優等生」から抜け出し、"Not to do list"をつくって、やらないことを決め、自己研鑽を積み、厳選した仕事のアウトプットを上げることに集中して、余人を持って代え難い唯一無二の人材になるのだ。


勝間さんが断る力をつけることができたのは、34歳ではじめての離婚をしたときだという。

筆者も以前ある会社の取締役をやっていたので、この「断る力」の重要性を身をもって体験した。"No"は"No"としないと経営を誤ることがある。"No"を妥協で"Yes"にしてはならないことを痛感した。

勝間さんも言っているように、「実力があるから断れる」という状態になるのは、卵と鶏の関係だ。「生兵法は大けがのもと」だし、勝間さんがやって成功したことと同じ事をやっても他の人では成功できない。目次を見ても分かるように、あまり万人向けでない例が並んでいる。

しかし、相手と機会をわきまえて断ることを考えれば、自分のキャリアアップにも繋がるだろう。


勝間さんの活躍に反感を感じる人には、突っ込めるスキだらけの様な本なので、アマゾンの”最も参考になったカスタマーレビュー”も☆一つが並んでいる。これは反感を持っている人たちが、意図的に☆一つのレビューを「このレビューが参考になった」と投票しているからだろう。

勝間さんは相変わらず「本を書く5倍以上の努力を本を売ることに費やしている」と思うので、その方向で書かれた本だと考えれば良いと思う。

万人向きとは思わないが、この本がぴったりくる境遇の人もいるだろう。

あまり先入観を持たずに読んでみることをおすすめする。


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2009年08月08日

一生懸命って素敵なこと 林文子さんの自伝的ビジネス論 再掲

2009年8月8日再掲:

またも「林文子」で検索して本ブログを訪問する人が急増している。民主党が横浜市長選挙の候補者の一人として林文子さんを検討しているというニュースが流れたからだろう。

先月2009年7月に会社で林文子さんの講演を聞く機会があったので、それを追記しておく。

筆記用具を忘れたので、記憶から感想を記すが、失礼ながら見かけはちょっと意地悪そうなおばさんという感じだったが、何ともいえないオーラがある。

最初のつかみがスゴイ。

たまたま前列に座っていた社員が林さんの知人で、その社員の名前を呼び、その社員の奥さんが小学生の頃に林さんの家の隣に住んでいて、鍵を忘れて家に入れないことがあり、林さんの家に呼んでご飯を食べさせて、お風呂もいれてあげたのだという話をいきなりしてきた。

「エーッ!」という感じで、聴衆を一気に引き込んでしまった。

話の内容自体は、以下で紹介する本とほぼ同じストーリーだが、みっともない話ではあるが、いい年して筆者も感動で涙がにじんできてしまった。

ホンダで初めての女性セールスマンだったため、男性ばかりの集合研修に参加できなかったので、林さんを採用した販売店の社長が、マンツーマンで指導してくれ、最後はゴム長靴を履いて自ら洗車指南をしてくれた話。「心を込めて車を洗うんだよ」と教えてくれたという。

毎日100軒を目標に始めた訪問セールスで、とても車を買いそうもない赤ん坊が居る若い夫婦のアパートを毎週の様に訪問して、奥さんに「女性のセールスマンってカッコイイ」とか言われ、お茶をごちそうになったりしていたら、そこの旦那が会社の同僚でホンダ車を買いたいという後輩を紹介してくれて最初の車が売れた話。

感性に訴えると言う話。たとえばショールームに来てくれたお客さんを男性社員は、遠巻きにして眺めて品定めし、脈がありそうだったら、声を掛けていたが、林さんは誰に対してもまず来店を感謝し、飲み物などを出してもてなす、そして褒める。

記憶から再現すると、こんな感じだ。

「旦那さんのスーツはとってもセンスが良いですね。奥さんの見立ての良さが現れていますね。ちょっとこの色のホンダ車の横に立ってください。スーツの色と車の色が合って、ひときわ引き立ちますね…。」といった具合だ。

まさに「褒め殺しの林」の本領を見た感じだった。

本でも紹介されているストーリーではあるが、本人の林さんから聞くととても感動を覚えた。

1時間半くらい、林さんは全くメモもなにも見ずに講演した。講演に慣れているのだろうが、人に感動を与える話はさすがだ。

特に強調していた点は、これからのビジネスは感性が大事なので、感性にすぐれ、ねばり強く話を聞く女性の良さをビジネスでもっと生かすべきだという話だった。

男性は部下の話を最後まで聞かずに、「それでは結論は?」とか切り上げることがよくあるが、女性は辛抱強く最後まで聞く。途中で結論をせかしたりしないのだと。

時間がなくなってしまい、質問できなかったが、筆者は林さんに「なぜそんなに人に感動を与えられるのですか?」というちょっとバカみたいなオープンエンドの質問をしてみたかった。

実はそれが筆者の本音なのだ。

何でかわからないが、ともかくカリスマ性がある人だ。

しっかりしたブレーンといわば親衛隊のように随所に配置するキーパーソンさえ確保できれば、横浜市長としても十分やっていけるだけの能力はあると思う。

もし選挙に出るようなら、是非当選して欲しいものだ。



2008年8月25日初掲:

一生懸命って素敵なこと


前ダイエー会長で、先日東京日産販売の社長に就任した林文子さんの自伝的ビジネス論。

林さんの三部作

このブログでは林さんの2005年7月発刊の「失礼ながら、その売り方ではモノは売れません」と2007年10月の「もう一言の極意」の二冊のあらすじを紹介している。

この本は2006年1月発刊で、ちょうど前述の二冊の本の間に書かれている。最初の「失礼ながら…」がダイエー会長CEO就任直後、この「一生懸命…」がダイエー会長CEO在任時、最後の「もう一言…」がCEOを退任し、ダイエー退社直前という三部作だ。

この本では他の本では詳しく述べられていない いわば水鳥の水の中のみずかきの部分の話が林さんの生き方、仕事術として明かされている。

林さんみずからは次のように書いている。

「働く女性たち、とくに若い女性たちに心からのエールを送りたい。私のこれまで歩んできた道のりが、少しでも働く女性たちの励み、ヒントになればと願っている」


この本の構成

この本の目次は次の通りだ。アマゾンのなか見検索で「一生懸命って素敵なこと」の目次がすべて見られるので、是非参照して欲しい。

第一章 私がダイエーでやっていること
第二章 幼い頃から人が好き
第三章 トップセールスマンへの道
第四章 経営の要点は「人」である
第五章 女性の力が企業を活性化する

林さんがダイエー再生に乗り出して、最初に行ったことは従業員用トイレの改修である。CS(Customer Satisfaction)の前にES(Employee Satisfaction)というのが経営者として林さんが言ってきたことだという。


林さんの経歴

林さんが最初にアルバイトをしたのは小学校五年の夏休みにお茶くみをしたことだった。それ以来夏休みになったらアルバイトをして、1965年に高校を卒業して東洋レーヨンのOLとなるが、結婚前の腰掛け的な仕事に飽きたらず、22歳で松下電器の部長秘書として転職する。

しかし、すぐに社内結婚したので居づらくなって半年で退社し、オムロンに転職する。その後31歳でホンダのセールスウーマンになるまで七つの職場を転々としたという。

林さんはOLと書いているが、昔はBG(ビジネスガール)と呼んでいたと思う。BGと言っていた時代の女性社員の仕事は、林さんが書いている通り、お茶くみ他のアシスタント業務で、女性の能力を全く生かせていなかった時代だ。


セールスパーソンに転身

林さん夫妻は二代目の車としてホンダのシビックを買ったが、その時のセールスマンがうだつの上がらない人ながら成績優秀だと聞き、自らホンダのセールスに飛び込んだ。これがセールスパーソンになったきっかけだ。

当時ホンダの集合研修には女性は参加できなかったので、営業所の社長が事務処理や最後に心のこもった洗車まで、3日間自ら林さんに教えて、外回りの営業を始める。

セールスの本を読んで一日百軒を目標にして、自分の顧客リスト・メモをつくった。林さんは「ご用聞き営業」に徹していたという。

林さんを訪ねて多くのお客が来訪するようになったので、それに応対するために営業所の内勤になった。他のセールスマンは客を品定めしてから応対するのに、林さんのやり方はまずお客をお迎えして、客の話を聞き、おもてなししてから車の話をする。

相手が子どもでも、ラフな格好の短パンサンダル履きの若者でも、若い女性でも心のこもった対応は変わらない。

お客にはこんな感じで声を掛ける。「奥様、お若いですし、良いお声ですね。」到底男のセールスマンには真似できないだろう。

そして必ずその日のうちに自宅を答礼訪問する。そのやり方ですぐに営業所のトップになった。

普通のセールスマンは年間40台くらいだが、ホンダに入った最初の年は80台、最高は140台で、毎日15−16時間働いていたという。


BMWに転職

40歳で営業所長になったが、半年で過労で倒れてしまった。医者からは「このままいったら、50代まで生きられないよ」と言われたという。

そこで転職を決意して、BMWの世田谷の営業所に直接電話を掛けたが、女性セールスは採用していないと、その場で断られたので、今度は自分を売り込む七ページのレターを送って面接の約束を取り付けた。

林さんを採用するといかにメリットがあるかという内容のレターである。まさにカーネギーの「人を動かす」で出てくるニューヨークからアリゾナに転居した女性銀行支店長の話そのままだ。

BMWに入ったら41歳の営業所長経験者の自分はヒラ、そして林さんの推薦で採用された男性セールスマンは最初から主任と差別を感じた。それに発憤し、BMWのトップセールスの人から名刺をもらい、来年は必ずその人を抜くとその人の名刺を見つめて誓った。

BMWでも「おもてなし」を大切にしたことから、翌年は林さんが九月まではトップになった。通年ではその人が102台でトップ、林さんが98台で二位だったが、その後は林さんがトップを五年続けた。

このBMW時代の話は、セールスの心得本としても役立つことが多いので、サブタイトルを紹介しておく

・最高の商談を演出すること
・お客を好きになるのも才能の一つ
・先入観でお客を選ばない
・クレーム処理は大事な仕事
・長くおつきあいするともっと素晴らしいことが
・説明でなく”感動”を伝えること

その後BMW初の女性所長として新宿支店を任せられ、業績を急回復させ、新川支店に移ってまた業績を向上させる。

林さんは「ほめ殺しの林」と言われていたという。ともかくセールスマンをほめまくる。人を育てることは本当の喜びであると。


再度転職

53歳の時にフォルクスワーゲングループジャパンの英国人社長から電話が掛かってきて、「社員を幸せにして欲しい」とファーレン東京の社長としてスカウトされる。

ファーレンではまず営業時間を短縮した。社員に生活のゆとりを与え、年功序列も廃止した。ほめ殺しでやる気にさせた結果、四年間で売り上げは倍増した。

そうすると今度はBMWからBMW東京の社長に呼び戻された。

「心を大切にする、人を大切にする、CSの前にESありきということを、是非BMWに戻ってきて実現して欲しい」と頼まれたのだという。

以前からやっていたBMWショールームでの能やコンサートなどのイベントも、お客の風間杜夫さんに頼んで、ショールームで「カラオケマン」という一人芝居をやってもらい、お客を招いて風間杜夫さんとの交流パーティを開いたという。

おもてなしもさらに充実させ、ショールームにはコンシェルジュを置き、ホテル並みのホスピタリティを提供した。さすがBMWだ。


トップセールス、そして女性へのエール

トップセールスには次のような性格の人が向いているという。

1.人にも物事にも好奇心がある
2.目標数字をプレッシャーと感じず、自分をレベルアップさせて達成感を得ることを喜びと感じられること。チャレンジ精神があること
3.明るくポジティブな性格であること

林さんは、イー・ウーマン代表の佐々木かをりさんが開いている国際女性ビジネス会議に毎年参加し、女性の社会進出を応援している。会議で講演したら、参加者一人一人と名刺を交換して話を聞くので、パーティでも全く食事できないという。

女性はオープンで、ビジネスに向いているというのが林さんの意見だ。女性こそ日本の企業を活性化できるのだと。

女性はあきらめてはいけない。いまこそチャンスだと林さんは呼びかけている。たとえばゴールドマン・サックス証券日本法人の社員の40%は女性だという。

女性に対する力強いエールだ。今の林さんがあるのも、これまでの努力の賜物であることがわかって参考になる本である。


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2009年08月06日

座して平和は守れず 田母神さんの国防放談 

座して平和は守れず―田母神式リアル国防論座して平和は守れず―田母神式リアル国防論
著者:田母神 俊雄
販売元:幻冬舎
発売日:2009-05
おすすめ度:4.5
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このブログでも紹介した「日本は侵略国家ではない」の著者、元航空幕僚長の田母神さんの国防論。

日本は「侵略国家」ではない!日本は「侵略国家」ではない!
著者:渡部 昇一
販売元:海竜社
発売日:2008-12
おすすめ度:3.5
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本の帯に「世界はみんな腹黒い アメリカも国連も役立たず 日本も核武装すべきである」というような過激な言葉が載っているが、実はこの言葉がこの本の内容をよく言い表している。

「日本は侵略国家ではない」でも提案していたが、ドイツ、オランダ、イタリア、ベルギー、トルコの5カ国が導入しているニュークリアシェアリングやクラスター爆弾についての主張は、国防を考える上で検討すべき意見だと思う。

ちょうど広島、長崎の原爆投下記念日前後でもあり、オバマ大統領が言うように、核兵器廃絶は人類共通の願いであり、筆者もそれを切に望む。しかし、それに至るまでの現実的なプロセスとしては、田母神さんの言うニュークリアシェアリングの考え方も有効ではないかと思う。


クラスター爆弾廃棄の誤り

クラスター爆弾についてはオスロ・プロセスというNGO中心のグループと、穏健な特定通常兵器使用禁止制限条約派(Convention on Certain Conventional Weapons=CCWグループ)の二派があり、日本は元々CCWに入っていたのだが、外務省主導でオスロ・プロセスに加入した。これは大きな誤りだと田母神さんは語る。

条約発行後8年以内にクラスター爆弾を廃棄しなければならないが、アメリカもロシアも中国も韓国も禁止条約を受け入れていない。

対人地雷が禁止されて以降は、クラスター爆弾ほど海岸線の長い日本には有効な防衛武器はない。

航空自衛隊と陸上自衛隊は相当数のクラスター爆弾を保有している。日本にとってクラスター爆弾は国を守る上で不可欠であり、だから石川県の石川製作所で製造しているのだ。

すべて外務省主導で決めたことだが、クラスター爆弾を廃棄するだけでも多額の費用がかかり、どれだけのカネがムダになるのか試算もしなかったのではないかと。

爆弾は整備しなくても何十年も性能は保たれる。抑止力として持っているだけだから、使用しないという前提であれば非常にコストパフォーマンスは高い兵器なのだ。


このクラスター爆弾についての意見は、使わない兵器ー抑止力という意味では、有意義な議論だと思う。しかし、それ以外は田母神さんの性格なのだろう、あまりにも無防備な発言が目立つ。


陸上自衛隊は兵員を削減してF−22を持て!?

田母神さんの話は論理矛盾が多い。

たとえば日本の軍備は海軍に集中し、空母を持つべきで、陸上自衛隊は人数を削るべきだと言う。

その一方で、陸上自衛隊が反対するなら、予算は減らさずに、減員した上で陸上自衛隊でもF−22を2個中隊と空母2隻を持つべきだという。

そもそもF−22は超高性能のステルス戦闘機ではあるが、アメリカ政府自身も調達を止めることが決定した戦闘機である。最高の軍事技術が使われているので、F−22は輸出禁止だし、機密情報がジャジャ漏れの日本に将来も輸出されることはないだろう。

F-22








写真出典:以下明示ない限りWikipedia

日本の航空自衛隊はF−22が欲しくてたまらないようだが、当のアメリカでさえ調達を止めることを決定しているのに、まさに無い物ねだりとしか思えない。

1機200億円ともいわれる超高価な買い物な上に、以前も書いたように、いまさら飛行機に人間が乗って防衛する時代ではないのではないか?

このブログで紹介した「日本に足りない軍事力」で江畑謙介さんが書いていたように、軍事衛星、無人飛行機、無人超高高度飛行船などとパトリオットミサイルやSAMー3ミサイルを組み合わせた無人防衛網がこれからの方向ではないかと思う。

日本に足りない軍事力 (青春新書INTELLIGENCE)日本に足りない軍事力 (青春新書INTELLIGENCE)
著者:江畑 謙介
販売元:青春出版社
発売日:2008-09-02
おすすめ度:4.5
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戦闘機を導入するにしても、多くの国の共同開発でコストが安く、様々なバリエーションがあるF−35や、ユーロファイターなどを検討すべきではないか?

F−35

F-35








ユーロファイター

ユーロファイター








ここまで書くにはF−22をもっと知らなければならないと思って、「F−22はなぜ最強といわれるのか」という本も読んだ。



たしかにF−22は様々な点で世界最高の戦闘機である。

・航空支配戦闘機(制空権を抑える)という新しいコンセプトを可能にする最高の軍事技術

・ステルス性 巨大な機体がレーダーにはなんと小鳥程度にしか映らないという

・搭載コンピューターの性能

・対巡航ミサイルも含めた多目標攻撃に適した統合火器統制システム

・フライバイワイヤーと呼ばれる最新のコンピューター飛行制御

・2基あるプラットアンドホイットニー製F−119エンジンの推力変向による超機動性

・燃費が悪いアフターバーナーなしでも超音速飛行ができる超音速巡航性(他の戦闘機はアフターバーナーという追加燃料噴射がないと超音速を出せない)

・すべての兵器を機体内部に格納できる徹底したステルスデザイン

対F−15,F−16,F−18などとの空戦シミュレーションで、144対0,241対2という圧倒的戦績を収めたことが、航空自衛隊がF−22に飛びついた理由なのだろうが、だからといって、いまさら人間が戦闘機を操縦して敵の航空機と空戦を行う時代でもないのではないか。

不用意な発言が目立つ本だけに、本音ともとれる発言が多い。

ジェット機はメインテナンスコストが大きい

田母神さんはジェット戦闘機はF−15でも1時間飛ばすと200万円かかり、燃料代は15%で、残り85%は部品代だと明かしている。飛行機はたとえば100時間で部品交換するなど予防整備を行っているのだという。

F−15で1時間200万円なら、もしF−22を買ったらその数倍はかかるだろう。

「ドイツ版最終決戦兵器」という本に、第2次世界大戦中に開発されたドイツの数々のジェット戦闘機やロケット戦闘機が紹介されているが、メッサーシュミットME262のジェットエンジンはたった50時間しか飛行できなかったという。

ドイツ版最終決戦兵器―連合軍を圧倒する恐るべき技術力の成果ドイツ版最終決戦兵器―連合軍を圧倒する恐るべき技術力の成果
著者:桜井 英樹
販売元:光人社
発売日:2002-11
おすすめ度:4.0
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メッサーシュミットME262ジェット戦闘機

Messerschmitt_Me_262




筆者は昔特殊鋼、超耐熱合金に使うクロム、マンガンなどの原料を輸入していたので、ジェットエンジンの寿命という話もよくわかる。第2次世界大戦中には当時世界最高と言われたドイツの超合金技術でも、ジェットエンジン部品は50時間しかもたなかったのだ。たぶんニッケル、コバルトが手に入らなかったからだろう。ドイツはニッケルの代わりにマンガンを使っていたが、やはり同じ性能は出せなかったのだ。

消耗する部品を壊れる前にどんどん換える必要がある。昔も今もジェット戦闘機は整備が大変なのである。

またパイロットの肉体的負担も大きい。急上昇したりすると飛行中はMAX 9Gという大変なGがかかる。ジェット戦闘機の飛行時間は1時間から2時間、パイロットが第一線で飛ぶのは45歳が限界だと。


アメリカは最先端技術は日本には売らない

F−22を導入すべきという話と矛盾しているのが、この話だ。

日本のF−15は機体は同じだが、レーダーやソフトはアメリカのお古を押しつけられているという。

アメリカは自分のところで新しいものをつくって、旧型の部品が余ったところで日本韓国に売るのだと。

またアメリカから購入する飛行機には暗号キーが設定されており、アメリカ自身に向けて兵器が使われないようにコントロールしている。

たとえばイギリスがイラク戦争の時にSLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)を発射しようとしたが、アメリカがGPSを使ってコントロールしていたので、発射できなかったという。

技術属国になった上で、高いものを買わされているのだと。

そこまでわかっているなら、F−22を買ったところで、最新鋭の航空・火器管制システムなどはついてこないだろう。

ナチスの幻の防空ロケット戦略

F−22の話が長くなったが、実は無人防衛網は別に新しいものではない。

ヒトラーお気に入りの建築家でナチスドイツの軍需相をつとめたアルベルト・シュペーアが「第三帝国の神殿にて」で書いている。

第三帝国の神殿にて〈上〉ナチス軍需相の証言 (中公文庫―BIBLIO20世紀)第三帝国の神殿にて〈上〉ナチス軍需相の証言 (中公文庫―BIBLIO20世紀)
著者:アルベルト シュペーア
販売元:中央公論新社
発売日:2001-07
おすすめ度:4.0
クチコミを見る


ドイツではメッサーシュミットME262ジェット戦闘機やV2弾道弾ミサイルが有名だが、シュペーアによるとジェット戦闘機以外にもリモコンで飛ぶ爆弾、ジェット機よりも速いロケット機、熱線追尾型ロケット弾、音響探知ホーミング魚雷、地対空ロケット弾の開発を1944年には終わっていたという。

ジェット戦闘機設計者のリピッシェは、当時の航空機製造の標準をはるかに超えるLi P13aなどのジェット機も開発していた。

リピッシュP13型機(模型)

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ところが開発計画が多すぎた。おまけにヒトラーは間違った優先順位を決定した。

せっかくのジェット機に爆弾を積ませてプロペラ機と変わらない速度の戦闘爆撃機としたことは有名だが、重さ3トンのV2ミサイルを月産900基生産させて英国に対して報復するつもりだった。

当時連合軍は平均4,100機の戦略爆撃機で、一日3,000トンの爆弾を降らせていたのに、一日30基のV2でたった24トンの爆薬をイギリスに投下することで報復しようというばかげた考えだったとシュペーアは語る。

地対空ロケット弾の代わりにヒトラーのV2生産の決定を支持したのはシュペーア自身の重大な誤りだったと語っている。

地対空ロケット弾はWasserfall(滝)と呼ばれ、ペーネミュンデロケット工場フォン・ブラウン博士の下で、大量生産できるほど十分に開発されていた。

長さ8メートルで、短波誘導で300キロの爆薬を高度1万5千メートルまでの敵機に命中させることができたという。

英語だがネットでWasserfallミサイルの情報があるので、紹介しておく。

wasserfall







出典:http://www.luft46.com/missile/wasserfl.html

ジェット機にはR4Mという直径わずか55ミリの空対空ロケット弾を開発していた。R4Mを24発搭載したME262は、1945年の2月の第4週だけで45機の戦略爆撃機と12機の戦闘機を撃墜したという。

r4ms








出典:Wikipedia

シュペーアは、月産900基のV2攻撃用大型ロケットの代わりに、費用の安い地対空ロケットを毎月数千基生産して、ジェット戦闘機と一緒に使えば、連合軍の戦略爆撃を崩壊させることができたろうと語っている。

仮定の話ではあるが、ありえないシナリオではなかったと思う。

閑話休題。


最高指揮官としての総理大臣の自覚欠如

この本は田母神さんの放談集の部分もある。

日本の総理大臣は最高指揮官としての自覚を持っていない。これは世界の標準から見て嘆かわしいことだと。

たとえば昨年9月の「自衛隊高級幹部会同」には全国から将官が集まり、最高指揮官たる総理大臣が訓示をすることが恒例となっているが、福田総理は辞任を表明したためか欠席した。士気が下がり、「こらっ、康夫!」と一喝したいくらいだったという。

文民統制が聞いてあきれると。

軍人は戦争をもっとも避けたがる人種であり、たとえばイラク戦争の時も、元軍人のパウエル国務長官は戦争に反対したがブッシュとチェイニーに押し切られたという。

ヒトラー、ムッソリーニ、毛沢東も皆文民だったと。

たしかに文民統制だから良いとかいった議論ではないかもしれないが、挙げる例が極端すぎないだろうか?

「世界があきれるほどスキだらけ、日本の国防」とは、この本の第1章のタイトルだが、意識も含めてたしかにその通りだと思う。


核戦力が最高の抑止力という現実

英国のサッチャー元首相の時に中距離核戦力が英国に配備され、イギリスに核兵器を置いたら攻撃の対象になるという意見が出たが、サッチャーは「日本がなぜ原子爆弾の攻撃を受けたか?それは、日本が原爆を持っていなかったからです。私は原爆のない世界よりは、原爆があっても平和な世界を選びます」と主張したという。

まさにこれが現実である。

核実験が成功した後の北朝鮮の強気の態度はまさにこの通りである。

核兵器を持った国同士が大規模な戦争をした例は一つもない。

サッチャーの言うように現代の防衛は抑止力を中心に考えるべきだろう。

田母神さんが「日本は侵略国家ではない」で主張していたニュークリアシェアリングも検討に値する提案だと思う。

現在はNATO五カ国で採用されているが、たとえば日米韓台の四カ国でニュークリアシェアリングは検討すべきではないかと思う。


北朝鮮のミサイルは脅威ではない

原爆さえ積んでいなければ北朝鮮のミサイルが運んでくる通常弾頭の弾薬量などたかが知れている。飛来したミサイルが身近に着弾する確率は交通事故に遭う確率よりもはるかに低い。

ミサイルの怖さで騒ぐなら、北朝鮮よりロシアや中国のミサイルの方がよほど怖いはずだと。


妄言のオンパレード

田母神さんはこんな事も書いている。

「アジア情勢や中国の情報に詳しいジャーナリスト・青木直人氏がブログに書いていますが、クリントン政権のとき、大統領夫妻は1980年代から1996年まで、中国共産党と人民解放軍のスパイ組織から繰り返し収賄をしていました」

とくにヒラリーはFBIが人民解放軍スパイ機関のエージェントだったと正式に認定されたバンク・オブ・チャイナ香港の副頭取だったジョン・ホアンから何回も収賄して、商務省の国際経済政策担当・次官補代理のポストを与えたという。

収賄などという重大な罪で、人を非難するならちゃんとした論拠を示す必要がある。フリージャーナリストの青木氏は中国通ということで有名なのかもしれないが、少なくとも筆者は初めて聞く名前だ。

筆者は米国に九年間駐在していたが、米国の公務員は20ドルを超える贈り物を受け取ることは禁止されている。そんな国の公務員に対して収賄していたなど、伝聞証拠でよくも言えるものだ。

それにしても、米人ジャーナリストを解放させるために北朝鮮を訪問した元大統領、妻は米国の国務長官を務めるクリントン夫妻が収賄していたというのなら、証拠を示さないと誰も相手にしない。

ジャーナリストがブログに書いたことを、そのまま真実だと思いこんで本に書いている田母神さんの無神経さはあまりにも危険だ。


石原慎太郎氏の発言?

田母神さんが石原慎太郎東京都知事と対談したときの話だという。

関連部分を引用すると:

「氏が以前アメリカの「湾岸戦争白書」のような資料を見たところ、そこには、

「我々はこの戦争で、日本の先端技術のおかげを被った。これは八万の兵士を送り、ともに血を流したイギリスの貢献よりも数十倍評価すべきだ」

と書いてあったというのです。

氏の説明によれば、ここで言う先端技術とは、ピンポイントミサイルの半導体で、バグダッド参謀本部の屋上の煙突から中に入り、内部で爆発したミサイルを指しています。…」

決めつけて申し訳ないが、もはや笑い話としか思えない。

こんなことアメリカが公式文書の中で、一緒にイラク戦争に出兵してくれて人的損害も被った英国に、口が裂けても言う訳がない。

石原氏でさえ「湾岸戦争白書のような資料」とはぐらかしているではないか。この爆弾が出てくるのは湾岸戦争ではなく、イラク戦争だろう。そんな白書はないのだ。

よしんばこの話が本当だったにしても、ミサイルの半導体はたしかに重要部品で必要不可欠な部品かもしれないが、巨大なミサイルという超音速飛行物体を、風があったり気圧が変わったりする自然条件のなかで、煙突の穴を通すような超高精度のコントロールを可能としたアメリカのGPSを使った遠隔精密操縦技術があくまで主役のはずだ。

さらに続けてFSXを採用するときも、アメリカはF−16をベースにした共同開発を押しつけた。自動車に続いて戦闘機でも、日本に追い抜かれることを警戒したのだと。

「アメリカにしてみれば太平洋戦争開戦の時の無敵のゼロ戦のトラウマがあるのではないか、という石原氏の洞察はさすがです。」

別にゼロ戦を貶めるつもりはないが、緒戦こそアメリカ軍はゼロ戦に手こずったが、アリューシャン列島でゼロ戦を捕獲すると徹底的に研究し、新型戦闘機や新戦法でゼロ戦を打ち負かした。特に戦争末期の最新鋭P−51マスタングにゼロ戦は全く歯が立たなかった。

P−51

784px-P-51H








アメリカにあるのはトラウマではなく、不屈の研究心ではないのか。


このブログはあらすじブログで書評ブログではない。

筆者は本の批判はしないポリシーだが、申し訳ないがこの田母神さんのノー天気ぶりにはあきれてものが言えない。

せっかく良い提案もあり、たぶん田母神さんは純な人であることは間違いないと思うが、本を書くのであれば、伝聞証拠に惑わされず、確実な情報と自らの徹底的な調査に基づいて発言して欲しいものである。


ともあれ参考になる本ではあった。


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2009年08月03日

天皇論 国民必読の天皇論

ゴーマニズム宣言SPECIAL天皇論ゴーマニズム宣言SPECIAL天皇論
著者:小林 よしのり
小学館(2009-06-04)
販売元:Amazon.co.jp
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このブログでも紹介した「靖国論」、「いわゆるA級戦犯」など、役に立つマンガ作品を多く書いている小林よしのりの作品。筋の通った主張とマンガとは思えない綿密な下調べには脱帽する。

アマゾンのランキングでも現在66位となっており、よく売れているようだ。

400ページ弱の作品だが、マンガとは思えないほど字が多く、ところどころ手書き風の感想をページの上に載せたりして大量の情報を凝縮しているので、読むのに3日ほどかかった。

たとえば99ページの上の感想は:

「4月10日、天皇皇后両陛下の御大婚50年をお祝いする集いに参加した。宇崎竜童のスピーチは素晴らしかった。あの緊張感ある中、巧みなユーモアを織り込みながら会場を和ませ、しかも品を落とさず、あんな見事な話が出来るとは!」

といった感じだ。


日本人は天皇についてもっと知るべき

日本人がもっと天皇について知るべきだという主張をこめて、小林よしのりはこの本を書いたのだと思うが、筆者自身もあまりに天皇について知らないことを思い知らされた。

その意味では大変勉強になった。

たとえば「三種の神器」。まずは読み方だ。

恥ずかしいことながら、いままでずっと「さんしゅのじんき」だと思っていた。

「さんしゅのじんき」で転換すると、「三種の人気」になってしまう。つまり間違いなのだ。

正しくは「さんしゅのじんぎ」である。これを転換すると「三種の神器」と正しく表示される。


三種の神器

三種の神器とは八咫鏡(やたのかがみ)、草薙剣(くさなぎのつるぎ、天叢雲剣=あめのむらくものつるぎ)、八尺瓊曲玉(やさかにのまがたま)のことだ。

てっきりすべて皇居にあるものと思っていたが、実は皇居にある鏡と剣は分身で、八咫鏡の本体は伊勢神宮に、草薙剣の本体は熱田神宮にある。

三種の神器は天照大神(あまてらすおおみかみ)から高天原(たかまがはら=神々の国)から豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに=地上)に降臨したニニギノミコトに授けられたものだ。ニニギノミコトのひ孫が神武天皇で、代々の天皇が受け継いできた。

天皇家の宝物であり、天皇の皇位継承権を裏付けるものだ。

これで終戦の直前に、天皇が米軍が伊勢湾あたりに上陸してくれば、伊勢神宮も熱田神宮も米軍の手に落ちるので、国体も護持できなくなると言われていたことが納得できた。

その部分を「昭和天皇独白録」から引用すると。

「当時私の決心は第一に、このままでは日本民族は亡びて終ふ、私は赤子を保護することが出来ない。

第二には国体護持の事で木戸も同意見であったが、敵が伊勢湾附近に上陸すれば、伊勢熱田両神宮は直に敵の制圧下に入り、神器の移動の余裕はなく、その確保の見込みが立たない。これでは国体護持は難しい。故にこの際、私の一身は犠牲にしても講和をせねばならぬと思った。」

昭和天皇独白録 (文春文庫)昭和天皇独白録 (文春文庫)
著者:寺崎 英成
販売元:文芸春秋
発売日:1995-07
おすすめ度:4.0
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祭日の本来の由来

祭日(祭祀を行う日)の本来の由来も知らなかった。

勤労感謝の日の11月23日は新嘗祭(にいなめさい)、春分の日は春季皇霊祭、秋分の日は秋期皇霊祭、つまり皇室の先祖を祀る祭日だった。

GHQの指令で祭日の呼び名が変わったのだ。

ちなみに天皇が即位して最初の新嘗祭が大嘗祭(おおにえのまつり、だいじょうさい)だ。


天皇は祭司王

この本では小林よしのりは、天皇は「祭司王」であり、祭祀(さいし)を行うことこそが天皇の本質であると力説する。天皇は国民の為に祭祀を行い、祈っているのだ。

天皇の祭祀と儀礼はこの本に簡単に紹介されているので、参考になる。

皇室祭祀

皇室祭祀












出典:本書151ページ


あらためて天皇皇后両陛下への尊敬の念を抱く

この本を読むと天皇皇后両陛下への尊敬の気持ちがあらためてわいてくる。

多くの感動を与える話が紹介されているので、小林よしのり自身も「泣いているのではない」と強がりをいいながらも、こんな絵をところどころに載せている。

小林よしのりの「涙管が塞がっている」図

小林よしのり感動






出典:本書150ページ


詳しくは是非この本を読んで欲しいが、いくつか紹介しておく。


皇后さまの失語症からの回復

1993年皇后陛下がマスコミのバッシングの心労から倒れられ、失語症になられたときがあった。

「どの批判も、自分を省みるよすがとしていますが、事実でない報道がまかり通る社会になって欲しくありません」とのコメントを翌年出されている。

そして皇后様が声を取り戻したときの第一声は、「もう大丈夫、私はピュリファイ(浄化)されました」だったという。

小林よしのりも語っているが、理不尽なバッシングから回復したことを、「清められた」と表現することが常人にできるだろうか?


社会的弱者支援への熱意

小林よしのりは平成20年12月19日の天皇陛下御即位二十年奉祝中央式典に参加したという。国会議員連盟と民間の委員会の共催で、149名の国会議員、99カ国の駐日大使、出席者4,000人が出席した。

そのときに小川榮一日本身体障害者団体連合会会長は、障害者支援の天皇陛下や皇室の熱意を、感謝を込めて語っている。

パラリンピックがオリンピックの翌年同じ都市で開催されるようになったのは、東京が最初で、その実現には当時の皇太子殿下、今上天皇陛下はじめ皇室の絶大なる支援があった。

「ハンディがあっても、国民の一人として尊重してくださり、障害者とその家族、関係者に勇気と自信を与えてくださっている皇室こそ、日本の素晴らしい国柄を代表されていると思っております」


沖縄県民への思い

今上天皇陛下は皇太子時代、本土復帰前から沖縄に心を寄せ続けておられた。そして沖縄の文化を学び、3,000首もの歴代琉球王が詠んだ琉歌をノートに書き写し、自分でも琉歌を作れるようになられたのだ。

琉歌はサンパチロクと言われる8+8+8+6語の琉球語の古歌だが、今や沖縄生まれの人でも作れる人は少ないという。

沖縄を訪問されて、自作の琉球歌を詠まれた。摩文仁(まぶに)と呼ばれるこの御製の琉歌は、毎年沖縄の慰霊祭の前夜祭で演奏されているという。摩文仁村は村民の半分が戦死した沖縄戦の最大の激戦地だ。

「フサケイユルキクサ ミグルイクサアトゥ クリカイシガイシ ウムイカキティ」
(ふさかいゆる水草 めぐる戦跡 くり返し返し 思ひかけて)

訳:かつての戦場跡には草木が茂っている。その草木の間を巡りながら繰り返し繰り返し戦争の当時のことを思う

今上天皇は独学で琉歌を覚え、この歌をつくった。

沖縄の遺族はこう語る:

「天皇陛下から直接お言葉を賜ったあの日の感激は、今なお私たち遺族の心の支えになっております。」

小林よしのりは語っている:

「これほど深く敬意を示した慰霊の姿勢が、他にあるだろうか!」

たしかにそう思う。

1975年の最初の沖縄訪問では真夏にもかかわらず、当時皇太子・妃殿下両だった陛下は正装のままで、流れる汗もぬぐおうとせずハンカチを一度も使わなかったという。

サイパンでもバンザイクリフスーサイドクリフに向かって深々と黙祷を捧げられた。日本の慰霊碑のみならず、米軍の慰霊碑、韓国人慰霊碑に黙祷を捧げられた。


天皇陛下の行幸

天皇の国内訪問は行幸(ぎょうこう)と言われているが、最大の目的は人に会うことだ。

基本的には各都道府県が提案する場所に行くが、まず福祉施設(障害者施設、老人ホーム、保育園など)、地方の文化施設で皆の誇りになっているところ、そして農業・漁業など地域の産業に関係するところを選んで欲しいと地元に伝えているそうだ。


天皇陛下が人に会うときには事前にその人のことを色々調べて、当人も驚くほどにその人のことを知っていると言われている。

超多忙な天皇陛下がそれだけまめに、会う人のことを調べているのは、感動を通り越して、驚異といった方が良いと思う。

あらためて感動を覚えるとともに、今上天皇皇后両陛下を国の元首として戴いていることに国民の一人として喜びを感じる。


文字情報が多いのでマンガだからといって、決して読みやすいわけではないが、天皇の歴史と実際の姿がわかる。

国民必読の天皇論だと思う。是非書店で手にとって見ることをおすすめする。


参考になれば投票ボタンをクリックして頂きたい。




  
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