2010年09月30日

プーチンと柔道の心 プーチン首相が書いた柔道の手引き

プーチンと柔道の心プーチンと柔道の心
著者:V・プーチン
販売元:朝日新聞出版
発売日:2009-05-07
おすすめ度:4.0
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ロシアのプーチン首相が友人2人と書いた柔道の手引き書。

山下泰裕さんと元NHKモスクワ支局長の小林和男さんが編集している。

山下さんの本の中でもプーチンとの交流はたびたび紹介されている。この本では、他の本では断片的に紹介されている山下さんのプーチンとの交流を、「『柔』の人、プーチン」という一文にまとめている。


ロシア大統領公邸の柔道場

プーチンの大統領公邸にある柔道場の写真も興味深い。

山下さんの本を読んで知っていたが、プーチンは柔道の創始者嘉納治五郎の座像を道場に置いている。この像は、ロシアの彫刻家の作品だという。

柔道場の更衣室には温水プールがあり、プーチンは毎日1000メートルは泳ぐようにしているのだという。

プーチン2






出典:本書70ページ


柔道着で講道館訪問

次はプーチンが大統領時代に訪日して講道館を訪れたときの写真だ。超多忙なスケジュールの合間に柔道着姿に着替えて講道館を訪問したプーチンに当時の森首相他は驚かされたという。

巴投げの模範練習まで見せている。

プーチン1












出典:本書13ページ


小林さんの制作したNHKの番組の中で、プーチンはこう言っている。

「柔道は私にとって単なるスポーツではない。哲学である。最初は、柔道で使う言葉も分からなかったし、相手の力を利用するという考え方も分からなかった。だが、懸命に稽古に励むうちに、日本語が理解できるようになり、相手の力を利用するということも、よく理解できるようになった。

柔道を通して学んだことは今の私の政治にも生きている。柔道を通じて、自分は今、日本文化というものに非常に関心を持っている」

山下さんが驚かされたのは、上記の写真の2000年に森喜朗首相との首脳会議のために来日した時の講道館でのスピーチだったという。

「講道館に来ると、まるでわが家に帰ったような安らぎを覚えるのは、きっと私だけではないでしょう。世界中の柔道家にとって、講道館は第二の故郷だからです。

私は今日、ゲストという形になっていますが、実はゲストではない。私と皆さんとは、同じ柔道の仲間です。だが、今、私の隣に座っている森さんはラグビーがお好きらしい。ということは、森さんこそが我々のゲストです。

日本の柔道が世界の柔道へと発展していくのはたいへん素晴らしいことですが、われわれにはもっと注目すべきことがあります。それは、日本人の心や考え方、そして文化が柔道を通じて世界に広まっていくことです」

日本の柔道家が言うならともかく、ロシアの大統領がここまで柔道の果たすべき役割を深く理解していることに山下さんは感銘を受けたと。


六段の赤白帯を辞退

プーチンは嘉納講道館長から贈られた六段の赤白帯を辞退する。日本人が一瞬何で?と思った瞬間、プーチンは次のように語った。

「私も柔道家です。この六段の重みはよく分かっています。私はまだこの帯を締められる立場にありません。ロシアに帰って、さらに稽古に励み、一日も早くこの帯を締められるようになりたい」

この瞬間、柔道関係者から拍手が巻き起こったという。

やはり政治家として大成する人はすごい。言葉を通じて、相手の心をつかむ術を知っていると、山下さんは舌を巻いたという。


テロで傷ついた北オセチアの中学生を日本に招待

2004年に日本で中学生国際柔道大会を開催したとき、山下さんはロシアからはサンクトペテルブルクと、テロ被害があった北オセチアのベスランから子どもを招待した。翌年プーチンが来日したときに、「ベスランからの子ども達を励ましてくれてありがとう」とお礼を言ったという。

山下さんはプーチンが、そんな小さな事まで知っていることに驚かされたという。


プーチンの柔道ビデオ

2005年にプーチンは山下さんを招き、サンクトペテルブルクで柔道教室を開催してビデオを撮った。これには当時の日本チャンピオンの井上康生も参加している。そのビデオがこれだ。



北方領土問題以外に日ロ間で問題はない

その時にプーチンが言っていた言葉を山下さんは忘れることはできないと。

「日本とロシアのあいだには、前々から難しい問題があります。でも、これ以外には問題はありません。これ以外の問題をつくろうという気持ちも全くありません。だから何も心配しないでください。安心してください。両国が知恵をしぼってこの問題が解決できたら、日ロのあいだには問題が何も存在しなくなります。さあ、乾杯しましょう」

その後、2008年に山下さんは幻のモスクワオリンピックの日本代表チームメンバーでロシアを訪問し、柔道の指導者講習会を開催した。プーチンは首相になったばかりにもかかわらず、その時も首相迎賓館で食事会を開いた。

このときの様子は山下さんの柔道教育ソリダリティというサイトで公開されている。

柔道教育ソリダリティ





プーチンは山下さんが、2016年東京オリンピック招致大使ということを知って、「ロシアも応援しますから頑張ってください。われわれはノウハウを持っているので、協力できることがあったら協力しますよ」と言ってくれたという。


プーチンの権力掌握術

元NHKモスクワ支局長の小林さんの一文は「謎に包まれたプーチン」という題だ。プーチンは1999年エリツィンに首相に突然抜擢された。年末にはエリツィンの辞任で大統領代行となり、翌年正式に大統領となった。KGB出身の47歳の大統領の誕生だ。

プーチンは代行就任早々、「エリツィン前大統領とその家族は生涯にわたって安全が保障される」という大統領令にサインした。まずエリツィンの安全は保障しておいて、エリツィン一家と組んだとりまきの利権財閥を次々に摘発していった。ベレゾフスキーグシンスキーホドルコフスキーなどが次々に海外に逃亡した。


プーチンと柔道

プーチンは1952年サンクトペテルブルク生まれ。小さい頃はいわば不良で、ほとんど通りでたむろしていたという。小柄だったから、ケンカに強くなりたくてボクシングやレスリングをしたり、12歳からサンボを習い、1964年からオリンピック種目になっていた柔道に転科した。

この本でもインタビューが取り上げられているセンセイのアナトリー・ラフリンの教えで、柔道の精神を身につけ、名門のサンクトペテルブルク大学法学部に進学する。

プーチンは、柔道のない人生は今は考えられないと語る。

1976年にサンクトペテルブルクの大会で優勝する。すでにKGBの将校となっていたので、その後ドイツなどの海外駐在も経験し、それ以降は柔道では目立った成績を挙げることはなかった。

しかしサンクトペテルブルク副市長の時に、日本の総領事の斡旋で1994年頃に日本を10日間訪問し、姉妹都市の大阪や京都、東京を訪問し、このときに初めて講道館を訪れ、稽古を上から見学した。

その時子どもたちの稽古に70歳くらいの老人2人が加わり、一緒に乱取りで稽古を付けていたことを見て驚いたという。その時、柔道は一生続けることができるし、また続けなければならないと思ったという。


「プーチンと学ぶ柔道」

「プーチンと学ぶ柔道」は2002年に出版された柔道の手引き書で、最初に柔道の歴史の解説がある。柔術の起源から、嘉納治五郎の柔道の創設まで興味深い読み物になっている。

元々手引き書なので、この本にはイラスト入りで柔道の様々な技が紹介され、技を掛ける時のコツも紹介されている。トレーニング法も専門的で、この本を読んだ東海大学のトレーニングの専門家はロシアのトレーニングの秘密をここまで公開していいのかと思ったと語っている。

イラスト入りの技の説明で特徴的なのは、技を細切れにせず、連続技として解説していることだ。これには山下さんが感心している。

山下さんは技が決まった段階で動きを止めて、逆に返し技で一本を取られてしまった井上康生、鈴木桂治らの日本選手の油断に警鐘を鳴らしてきた。

武術では投げられることも関節技をはずす等の防御の一つであり、投げられたら、投げられた相手の力を利用して投げ返すというのが本来の武術である。

だから山下さんは投げたら固め技につなげていったという。その基本の流れ技がこの本には取り上げられている。

柔道の心得がない人にも面白く読めるプーチン版柔道入門書である。


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2010年09月29日

戦争広告代理店 尖閣問題などで日本も学ぶべき国際世論のつくりかた

+++今回のあらすじは長いです+++

2010年9月29日追記:

尖閣列島付近での中国漁船拿捕事件関連で、小池百合子さんのツイッターに、韓国の中国漁船拿捕情報の出典が載っていたので、追加で紹介しておく。

尖閣漁船拿捕








元々は2008年10月14日付けのサーチナ情報のようだ。



2010年9月28日初掲:

ドキュメント 戦争広告代理店 (講談社文庫)ドキュメント 戦争広告代理店 (講談社文庫)
著者:高木 徹
販売元:講談社
発売日:2005-06-15
おすすめ度:4.5
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明石さんの本を読んだ関係で、ボスニア内戦関係の本を読んでみた。この本はボスニア内戦を扱った本の中で、最も売れた本の一つだろう。

1990年に起こったボスニア内戦での情報戦をNHKが特集にまとめ、2000年10月にNHKスペシャル「民族浄化 ユーゴ・情報戦の内幕」として放送した。放送では触れられなかった部分も含めて、担当したNHKディレクターの高木徹さんがまとめたのがこの本だ。

筆者は1980年に分裂前のユーゴスラビアに出張したことがある。その時は鉄鋼原料のメーカー訪問が主目的だったので、サラエボは訪問していないが、首都ベオグラード、アドリア海に面したクロアチアのスプリート、ダルマチア地方のシベニク、マケドニアのスコピエなどを訪問した。

ユーゴでは1日を3分割し、6時から2時までが労働、2時から10時までが余暇や農作業など、そして10時から朝6時までが休養と、労働時間も決まっていたことを思い出す。

美しい町、風景で、食事もワインもおいしかったことを思い出す。その美しい町、ベオグラードには、今やNATOの爆撃の跡があちこちに残っているという。残念なことだ。


尖閣漁船拿捕で露呈した日本政府のPR意識欠如

この本の中で高木さんもコメントしているが、日本の外務当局のPRのセンスはきわめて低い。

今回の尖閣列島周辺で領海侵犯した中国漁船の拿捕事件でも、日本政府のPR欠如を痛感した。中国政府にやられるままに拿捕船の船長を釈放した日本政府のふがいなさに多くの国民が失望したと思う。

誰かが書いていたが、なぜ領海侵犯の漁船が巡視艇に追い回された挙句、破れかぶれで意図的に体当たりするビデオを繰り返し流して、世界の世論を見方につけないのかと思う。それと尖閣列島が日本固有の領土であることを、中国も今までは争っていなかったことのPRも欠かせない。

自民党の小池百合子さんによると、韓国は領海侵犯をした中国漁船を2004年から2007年までの4年で2,000隻以上拿捕し、2万人の船員を拘束し、中国政府は213億ウォン?(20億円)の保釈金を払っているそうだ。(次のYouTubeのビデオの最後の1分間の発言)



筆者はまだ小池発言のウラ取りをしていないので、事実としてはまだ確認していない。なぜ2004年から2007年という4年間を選んだのか、小池さんがいいとこ取りしているような気もするが、それにしても中国漁船はいい漁場で操業するために領海侵犯で捕まることも辞さない常習犯であることは間違いない。

しかも小池さんによると中国は韓国には何も言わず、保釈金を払うが、日本は何でも言うことを聞くと見くびって高飛車に出ているという。

アメリカ政府も日本側に立った発言をしているのだから、なぜ世界の世論を中国船長=犯罪人とリードしないのか?

これでは領海侵犯の中国漁船や中国人活動家の船が大挙して尖閣列島周辺に集合し、そのうち海上保安庁の手には負えなくなるだろう。武力で撃退するということはできないなら、国際世論を見方につけることを考えるべきではないのかと思う。

話が横道にそれたが、この本で高木さんも「外務省の硬直的な人事制度では永遠に日本の国際的なイメージは高まらないだろう」と指摘している。

日本政府もアメリカのPR企業を雇うこともあるが、結局PR戦略を担当しているのは、大学を卒業してすぐに外務省に入り、一生外交官として生きていく役人ばかりである。

米国の高級官僚の”リボルビングドア(回転扉)”の様に、民間で活躍した人が官僚となったり、官僚となってからも民間へ出て経験をつみ、また官僚になる人はゼロである。

多少の人材を民間から登用しているが、量的にも質的にも彌縫策(びほうさく)にすぎない。

硬直した役所の人事制度を根本から改革しない限り、21世紀の日本の国際的地位は下がる一方になることは、はっきり予見できると高木さんは書いている。

残念ながら、高木さんの心配が現実化しているように思えてならない。

閑話休題。


NHKスペシャル「民族浄化 ユーゴ・情報戦の内幕」

番組は現在NHKアーカイブスにも収録されていないようだが、NHKの中高教育向けのDVD貸し出しサービスの対象になっている。

この本の主役であるボスニア・ヘルツェゴビナ共和国のハリス・シライジッチ外務大臣が、1992年4月14日に当時の米国のべーカー国務長官と一緒に会見している写真がNHKのサイトにも載っている。

NHKスペシャルボスニア









出典:NHKティチャーズ・ライブラリー


主役は人口3百万人の小国ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国

この本では1992年3月にユーゴ連邦から独立して誕生した人口3百万人の小国ボスニア・ヘルツェゴビナが、米国のPRのプロを使って、「民族浄化」というキーワードを広め、セルビア=悪、ボスニア・ヘルツェゴビナ=善という図式を欧米メディアに定着させ、わずか半年で国連でセルビア追放決議を成立させるまでの一連の流れを紹介している。

元々ボスニアの軍事力は戦車100台という具合で、セルビアには全く対抗できない軍事力だった。それにもかかわらず、ボスニアはPR代理店のアドバイスに従い、シライジッチ外相のハンサムな容貌と、テレビ・写真写りを意識した英語での演技力をフルに活用して、国際世論を味方につけた。

セルビアは国連から追放され、当時の指導者のミロシェヴィッチ大統領は、後に国際司法裁判所で裁かれ、獄中で死亡した。

ボスニアは戦わずして勝利したのだ。

それには経験豊富で用意周到、議会、各国政府、プレスなどあちらこちらにコネクションのある広報代理店のルーダー・フィン社のワシントン支社国政政治部長のジム・ハーフ氏のPR活動が不可欠だった。

この本の中心人物のジム・ハーフ(James Harff)氏は現在独立してGlobal Communicatorsという国際PR会社のCEOとなっている。


国際世論を味方につける

元々ルーダー・フィン社はクロアチア政府のPR担当を1991年から務めていて、バルカン半島には土地勘があった。

ボスニアが1992年3月に独立してすぐ、シライジッチ外相が一人で米国を訪問した。彼は幸運にも4月にジェームズ・ベーカー国務大臣と会談することに成功した。

べーカー国務長官は回想録に、この会談でシライジッチ外相から「セルビア人たちは、無辜の市民を動物のように殺しているのです」と聞かされ、彼の語り口に思わず引き込まれたと書いている。

「その率直な言葉は、他のどんな外交上の美辞麗句より雄弁に、ボスニアの人々が直面している苦しみを物語っていた」。

そしてべーカーはシライジッチには意外なアドバイスをする。

「私はタトワイラー報道官を通じて、シライジッチ外相に、西側の主要なメディアを使って欧米の世論を味方に付けることが重要だと強調した」

前掲の写真は、会談直後のシライジッチ外相とべーカー国務長官の会見のものだ。


泣かない赤ちゃんはミルクをもらえない

シライジッチはボスニアのことわざを思い浮かべたという。「泣かない赤ちゃんは、ミルクをもらえない」

国際社会に振り向いてもらうには、大きな声を出さなければならない。そして声の出し方には様々なテクニックがあるらしい、ということをシライジッチは知った。

会談の後、シライジッチは唯一の知人である米国人権活動家デビッド・フィリップス氏に相談した。元々シライジッチは、歴史学の教授でメディアなどのコネは全くなかったからだ。フィリップスがPR戦略の専門家として紹介したのが、ジム・ハーフだった。


PRのプロ、ルーダー・フィン社

ジム・ハーフは安易にホラーストーリーをでっち上げることは絶対しなかった。

というのは1990年の湾岸危機の時に、クウェート政府に起用された広告会社ヒル・アンド・ノールトンは下院公聴会でナイラという少女の証言をつくりあげた。

「病院に乱入してきたイラク兵が、生まれたばかりの保育器から赤ちゃんを取り出して床に投げつけました。赤ちゃんは冷たい床で息を引き取ったのです。本当に怖かった。」

実はナイラは在米クウェート大使の娘で、ずっとアメリカにいてクウェートに行っていなかった。保育器のストーリーはヒル・アンド・ノールトン社の創作だったのだ。

このことをニューヨークタイムズがすっぱ抜き、CBSの60ミニッツが特集を組んだ。クウェート政府とヒル・アンド・ノールトン社にはダーティなイメージが残った。


ファックスとレター 基本に忠実なPR作戦

ルーダー・フィン社のやり方は、「不正手段は用いず、基本に忠実」だった。

当時は電子メールはなかったので、ルーダー・フィン社はまずは主要メディアにファックスで「ボスニアファックス通信」を定期的に送りつけた。

記者会見の前にはシライジッチ外相の経歴、公式ステートメントの内容、シライジッチ外相が出した手紙のコピーなどをまとめて”プレスキット”をつくり、記者が記事を書きやすいように材料を提供した。

そして会見に来たジャーナリストにはすべて礼状をシライジッチ外相名とジム・ハーフ名で2通出した。

ジャーナリストのみならず、ジム・ハーフは共和党の大統領候補になったボブ・ドールなどの米国議会の大物や、大新聞の論説委員などにシライジッチ外相を引き合わせ、着々とボスニア支持の世論を形成していった。

ソフトな正攻法以外にも、ジム・ハーフは「両方の勢力が悪い」と正論を繰り返すサラエボ駐在のカナダ軍のマッケンジー将軍を、邪魔者は消せとばかりに失脚させるというパワーゲームまでやっている。


「民族浄化」というキャッチコピー

第2次世界大戦の時に、ナチスの傀儡政権だったクロアチアがセルビア人狩りを行い、「民族浄化=ethnic cleansing"」を行っていた歴史がある。それをルーダー・フィン社はボスニア紛争に使った。

民族浄化はホロコーストを連想させ、ジャーナリストには強烈にアピールし、ブッシュ(父)大統領もすぐに民族浄化という言葉を使ってセルビア人を非難した。まさにキャッチコピーの勝利だった。


バルカン半島にはボーイスカウトはいない

ボスニアの住民の4割はムスリム系、3割がセルビア系、そして2割がクロアチア系という民族構成だった。戦力ではセルビアの支援を受けたセルビア人勢力にはムスリムは対抗できなかったが、ムスリムも人権侵害を行っていた。

2度のユーゴスラビア駐在経験を持つイーグルバーガー国務副長官は「バルカンにはボーイスカウトなんていないんだよ」と語っていたという。

度重なるボスニアの武力支援の要請にも、ブッシュ(父)大統領は「アメリカは世界の警察官ではない」と語って、武力介入を避けていた。アメリカによる軍事行動が実現するのは、ブッシュに代わったクリントン政権となってからだ。


セルビアも対抗してアメリカ国籍の首相を選任

元々ユーゴスラビア時代は銀行の頭取だったセルビアのミロシェヴィッチ大統領も、国際世論対策の重要性を感じ、26歳でアメリカに移住してICN製薬を創業し、自家用飛行機で飛び回っている国際的経営者で大富豪のパニッチを1992年7月に首相に任命した。

パニッチは米国籍のままセルビア首相に就任する際に、ブッシュ(父)大統領の了解を取っている。しかし米国のユーゴスラビア、セルビアに対する経済制裁は実施された。

このためパニッチはルーダー・フィン社に対抗できるPR会社を雇おうとしたが、米国の経済制裁がすべてのサービスの輸出入を禁止していたので果たせなかった。

さらに「民族浄化」に次ぐもう一つのキーワードが国際世論に影響を与えていた。


「強制収容所」という新たなキーワード

1992年8月にボスニア北部のオマルスカに強制収容所があるというニュースを、ニューヨークのタブロイド紙「ニューズデイ」がスクープした。スクープした記者は後にピューリツァー賞を受賞している。

その後イギリスのテレビニュース制作会社ITNが現地を訪れ、捕虜収容所のニュースを収録した。これがその後多くのメディの表紙を飾った「やせさらばえた男」だった。NHKの番組紹介でもこの写真が載っている。

NHKスペシャルボスニア2









このやせさらばえた男=強制収容所というイメージが、世界中のメディで流され、世界のメディ界を掌握するユダヤ人達に強烈にアピールし、セルビアのイメージを決定的に悪くしたのだ。

このやせさらばえた男のフィルムが繰り返し流され、米国上下院は8月11日にセルビアを非難する決議を採択し、8月13日には国連安保理事会でもセルビア非難決議が採択された。


セルビアの起死回生の汚名挽回案が最悪の結果に

セルビアのパニッチ首相はサラエボを電撃訪問して、イゼトベゴビッチ大統領とトップ会談を行い、その一部始終を米国の3大ネットワークの一つのABCテレビが独占取材するというディールを決めた。

しかしABC取材陣がパニッチと一緒の飛行機でサラエボ入りしてすぐに狙撃され、ABCディレクターが死亡するという事件が起こり、セルビアが意図していたのと全く逆効果となってしまう。

実はサラエボ空港では国連軍の装甲車が2台しか手配できず、テレビ局のクルーは装甲車のピストン輸送を待ちきれず、普通のバンにガムテープでTVと貼って装甲車の後をおいかけた。その直後に狙撃兵がTとVのちょうど真ん中を打ち抜いたのだ。

首脳会談は中止され、パニッチの起死回生策は最悪の結果となった。


パニッチのロンドン会議での大立ち回り

1992年8月末にパニッチはミッテラン・フランス大統領の仲介で、英国メジャー首相主催によりロンドンで3日間の国際会議を設営する。参加国・団体27の大会議だった。

会議の場で、パニッチはミロシェビッチ大統領に公然と反発し、「この国を代表するのは私だ。お前はだまれ。」と罵倒し、ミロシェヴィッチ一人を悪者にして、辞任させる作戦に出た。

ところがジム・ハーフの手ほどきを受けたシライジッチはすでにアメリカ代表団とはファーストネームで呼び合う間柄となっており、アメリカとボスニアの関係は確固たるものとなっていた。

さらにシライジッチはボスニアから逃れてきた難民だというふれこみで、中年女性と二人の子どもを記者会見に登場された。女性はセルビア人から焼きごてで付けられたという腹のやけどをテレビカメラの前でさらし、記者が取材に殺到し演壇が壊れてしまうという事態になった。


国連のユーゴスラビア連邦(セルビア)追放決議

ボスニアの国際世論・国際政治での勝利はロンドン会議で確固たるものとなった。その最後の詰めは、ユーゴスラビア連邦(セルビア)代表団の国連からの追放だった。

ロンドン会議から1ヶ月後の1992年9月末の国連総会で、ボスニアは世界中の国、とりわけ米国に心地よく響く「多民族国家の樹立に務めているボスニア」というイメージを確立させた。

他方セルビアのパニッチはロシアと中国の支持を取り付け、国連本部からロシア国連代表部に常任理事国5カ国とパニッチの秘密会議を開催することに成功した。

なかば脅しのようにユーゴスラビア連邦が国連から追放されれば、独裁者ミロシェヴィッチ大統領の天下となるとフランスとイギリスを脅し、ユーゴ残留で内諾を取り付け、最後は米国を残すのみとなった。

ところがここでパニッチは決定的な失言をしてしまう。

米国代表のイーグルバーガーを「この11月には大統領選挙がありますね。もし私を支持しなければ、この選挙の行く末に影響するような何かを、私は言うことになるかもしれない。それでもいいですか?」と脅したのだ。

パニッチはアメリカ国籍を保持しながら、ユーゴスラビア首相になるというブッシュ大統領との約束のことを暗に言っているようだったが、いずれにせよ米国に対する脅しだった。

これに対してイーグルバーガーはキッパリ答えた。

「もし、私があなたの立場にいたら、そのようなことは絶対に言わないだろう」

世界唯一の超大国、米国がユーゴスラビアの脅しに屈することはない。パニッチの発言は墓穴を掘る結果となり、米国の強い主張により国連からユーゴスラビアは追放された。


ボスニア紛争を解決したのは国連でなく、米国の主導

ボスニア紛争当時の国連事務総長はエジプト出身のブトロス・ガリだった。

ガリはアフリカ出身なので、「世界にはサラエボより、もっと苦しい状態にある場所が10ヶ所はある。ボスニア紛争は所詮、金持ち同士が戦っている紛争だ」と発言して、国際的な大非難をあび、国連でただ一人の1期限りの事務総長となった。

この辺の事情はガリの部下だった明石さんの本には全く書かれていない。明石さんは、単にアメリカの圧力でガリは再任されなかったと、さらっと書いてあるだけだ。

ボスニア紛争に終止符を打つのは、国連ではなく、米国が主導して開いた1995年のオハイオ州デイトンのライト・パターソン空軍基地での缶詰交渉によってである。

ボスニアは欧州の一角なので、本来であればEUが介入してしかるべきである。にもかかわらず米国はクリントン政権になってボスニアに米軍を派遣するとともに、デイトン合意を成立させた。

その意味でボスニア紛争終結に対する米国の努力は並々ならぬものがあり、わずか300万人の小国のボスニアが米国をここまで動かしたのは、初期のPR戦略の成功によるものが大きい。


ルーダー・フィン社の得たもの

ボスニアのPRにこれだけ貢献したルーダー・フィン社がボスニアから得たものは、金額的には9万ドル程度だという。

ハーフは「ルーダー・フィン社は気が遠くなるほどの時間を、ボスニア政府のために費やしました。しかし、支払われた金額わわずかです」と語っている。

その支払いもシライジッチ外相が、トラベラーチェックや小切手で1万ドル程度づつ渡すだけだったという。

支払いを渋ったシライジッチ外相は最後に「これがお前らと仕事をする最後だ!」と言い放って、ドル小切手を投げよこして立ち去った。

採算的には全く見合わなかったが、ルーダー・フィン社はこの仕事で全米PR協会の「危機管理コミュニケーション」部門の年間最優秀賞を受賞した。

全米6千社あるPR企業のトップとして表彰されたので、ルーダー・フィン社とジム・ハーフのもとには多くの政府や企業から、ボスニアの危機を救ったPR企業と凄腕PRマンとして仕事の依頼が殺到したという。

この業界ではクチコミが最も良い広告になるのだと。


良い本のあらすじはどうしても長くなってしまう。大変面白い本だった。またNHKのボスニア内戦を取り上げた6日間の作品もBS1で先日見た。

最後にボスニアの絶妙なPR力を象徴する写真を紹介しておく。

オシム







出典:「オシムの言葉」133ページ

今度紹介する「オシムの言葉」に載っていた写真だ。サラエボオリンピックの時の競技場が墓地に変わっているという、サラエボ紛争で多くの犠牲者が出たことを物語る写真である。

しかし何もオリンピックの競技場を墓地にしなくても、土地はいくらでもあるはずである。あきらかに政治的な意図を持って墓地にしているとしか思えない。

ボスニアは人口3百万人の小国とはいえ、国際世論のリードがうまい国である。

冒頭に記したように日本も尖閣列島の漁船拿捕問題などでは、ボスニアの国際世論戦略を見習わなければいけないと思う。

NHKの取材はあまりにボスニア寄りだという非難もあるかもしれないが、広範な取材に基づき、わかりやすいストーリーに仕上げているのは、さすがNHKと言えると思う。

文庫版もでているので、是非一読をおすすめする。

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2010年09月24日

指導者の器 山下泰裕さんの柔道指導論

指導者の器 自分を育てる、人を育てる指導者の器 自分を育てる、人を育てる
著者:山下 泰裕
販売元:日経BP社
発売日:2009-11-30
おすすめ度:5.0
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1984年ロスオリンピック柔道金メダリスト山下泰裕(やすひろ)さんの近著。

山下さんはある時、インタビューアーから「どうして、あなたはこんなに恵まれた人生を歩めたと思いますか?」と聞かれたという。

この質問を受けて、2−3分の間考えていて、自分自身が恵まれた人生を送れるのは、「ありがたい」という感謝の気持ちを忘れなかったからではないかと思った。

順風の時は、周りが協力してくれたのに、感謝の気持ちがなかなか出てこない。「おれにはすごい力がある」、「協力してくれるのは当然」という傲慢な気持ちになってしまうこともある。

上手くいっている時に、支えてくれた人に対して「ありがたい」という気持ちを持てるかどうか、それができる人にはもっともっと支援が集まってくるのだと。

この事を気づかせてくれたインタビューアーには感謝しているという。

たしかに山下さんは恵まれている。東海大学2年の20歳の時、1977年の日本選手権で優勝。それから引退する1985年まで203連勝(引き分け7回)で、公式戦では一度も負けずに引退した。こんな戦績の選手は他にはいないだろう。1984年ロスオリンピックで、足に大ケガをしたにもかかわらず、金メダルを取った後、1984年に国民栄誉賞を受賞している。


現役引退後本を読み始める

山下さんは現役の時はほとんど本を読まなかったが、東海大学監督となって松下幸之助稲盛和夫、などの本を読み出したという。稲盛さんとは個人的にも親しく、稲盛さんの盛和塾にもメンバーとして参加させて貰っているという。

松下幸之助にも影響を受けた。松下幸之助は「自分は小学校しか行っていなくてよかった」と常に言っていたという。自分と異なる意見の人がいれば、まず「なぜ、この人はこう考えるのか」に興味を持つという。その背後には「自分の考えは絶対ではない。相手の考え方に学ぶべきところがあるはずだ」という信念があるからだ。

山下さんは伝記が好きだという。特に西郷隆盛が一番好きで、マザー・テレサの生き方にも大変感銘を受けたという。

選手時代は強くはなったが、人間としてはさほど成長していなかったと山下さんは語る。指導者として選手や学生と向き合うことで、初めて「人間・山下泰裕」が成長しはじめたという。

山下さんは学生にハッパをかけるときは、「おれの得意技は何か、知っているか?」と聞くという。

学生が「大外…、内股…、絞め技…」と答えると、どれも違うという。そしておもむろに、「自分の得意技は開き直りだ。勝負において、開き直ったときぐらい強くなれることはないのだ」と言うという。

山下さんはロスオリンピックの決勝戦は覚えていないという。開き直って無の心境だったのだ。


毛沢東も柔道の原理を応用

山下さんが中曽根元首相と会食した時に、中曽根さんが「毛沢東は、人民解放軍の戦術に柔道の原理を応用していたらしいよ」と言った。山下さんは、「引かば、押せ。押さば、引け」ではないかとその場では言ったという。

後で調べてみて、嘉納治五郎は中国からの留学生を私費で支援しており、その中に毛沢東の義父もいて、毛沢東自身も論文で嘉納治五郎の功績に言及していることがわかった。


全日本柔道の指導者に

全日本柔道男子は1988年ソウルオリンピックで惨敗した。オリンピック後、山下さんが強化コーチに就任して、まずやったことは他の分野の成功者に学んだことだ。

何かに成功したければ、既に成功している人から学ぶことだ。営業成績で一位になりたければ、トップセールスマンの下で働かせて貰うことが一番の早道だというのと同じだ。

オリンピックで好成績を収めていた水泳やスピードスケート、スキージャンプを研究して分かったことは、1.積極的に海外に出ていたことと、2.スポーツ医学を重視していたことの2点だ。

ちょうどJOC主催のコーチ向けセミナーで松平康隆さんが、開口一番「自分の力の限界を知れ!」と呼びかけたことに影響を受けたという。バレーボールの日本男子がミュンヘンで金メダルを取れたのは、自分の限界を知り、多くの専門スタッフの英知を結集したからだ。

柔道界では、サポートスタッフも柔道出身者のみだった。松平さんの講演に影響を受けて山下さんも明治製菓の栄養アドバイザーを採用した。栄養アドバイザーのおかげでバルセロナオリンピックの時に吉田秀彦古賀稔彦(としひこ)両選手は筋力を落とさずに減量でき、金メダルを取れた。

それまで柔道の合宿では相撲部屋の様な一日2回のドカ食いが習慣だったが、これを一日3回の食事に直した。

また1992年にヘッドコーチに就任してからは、筋力トレーニング、メンタルトレーニング、戦略分析の専門家をスタッフに加え、本格的なスポーツ医科学を導入した。

トヨタのように常にカイゼンを心がけたのだと。


日本食禁止令

ヘッドコーチとして最初に打ち出したのが、オリンピックと世界選手権を除いて、海外遠征時の「日本食禁止令」だった。自分の荷物で持って行く分にはかまわないが、チームとしては日本食は外食も含めて禁止した。

代表選考の基準も海外の戦績を最重要視した。それまで4月に行われていた講道館杯を11月に、5−6月に行われていた全日本体重別選手権を4月に変え、2−3月に海外で行われる国際試合の結果を最重要視した。

全日本柔道の基本方針は、「日本で一番強い選手」でなく、「世界で勝てる可能性の一番高い選手」となった。

人の意識を抜本的に変えるためには、人を評価する枠組みにメスを入れることだと山下さんは語る。

柔道界が主要大会のスケジュールや評価基準を変えたとは知らなかったが、やはり実力者の山下さんが改革に取り組めば、成果は上がるものだと感心する。


後継者選び

アトランタオリンピックでは日本柔道男子は、金2、銀2と健闘した。次男に自閉症の傾向があり奥さんも疲れていたので、山下さんは辞任を考えたが、後継者が育っていなかったため、奥さんの協力も得て、山下さんは東海大学の監督を辞め、全日本の監督を続けた。

後継者を育てる意味もあり、階級ごとにコーチを置いて、基本的にコーチに任せる体制にした。


シドニーオリンピック柔道代表

シドニーオリンピックでのメダリスト、81キロ級の瀧本誠、100キロ級の井上康生、60キロ級の野村忠宏、そして100キロ超級の篠原信一については、それぞれの知られざる内面の強さを書いている。

井上康生は色紙にいつも「初心」と書くのだという。井上選手の地震被災者やパラリンピック選手など、弱者への思いやりが紹介されている。大胸筋断裂という大けがに見舞われ、アテネでは惨敗したが、北京オリンピックの代表選考にも最後まで残った。

現日本男子柔道代表監督の篠原信一選手は、シドニーでは、内また透かしを決めて、一本勝ちしたと思ってガッツポーズを見せたとき、審判は逆に相手のドゥイエ選手に有効を宣言した。この疑惑の判定で銀メダルに終わったが、篠原選手は「自分が弱かったから負けた」と一切審判に対する批判を口にしなかった。

相手の「有効」になったときに、試合時間は3分半残っていた。「本当の実力があれば、逆転できたはずだ。」そう篠原選手は考えたに違いないだろうと。

山下さんも「試合の最中でもかまわず、すぐに抗議していれば、何かが違ったのではないか」と悩んでいたが、篠原選手の潔い態度に触れ、いつしか「篠原のメダルは銀じゃない。プラチナなんだ。だからもう、悩むのはよそう」考えるようになったという。


北京オリンピック

北京オリンピックでは強化委員長として臨んだが、結果はメダル2個の惨敗。しかも7階級中4階級が1回戦敗退。ベテランが多かったこともあり、選手の自主性に任せたことが失敗だった。

その中でも100キロ超級で金メダルを取った石井慧(さとし)選手は、「相手に実力を出させない」という戦い方で、21歳の若者とは思えない老かいな戦い方だった。石井は練習の虫と言われているが、単に練習量だけではなく、ビデオでの研究、頭脳を駆使した創意工夫でも優れている。

この本ではプーチン首相との交流も紹介されているが、これは次に紹介するプーチン前大統領(現首相)が書いた「プーチンと柔道の心」でまとめて紹介する。

プーチンと柔道の心プーチンと柔道の心
著者:V・プーチン
販売元:朝日新聞出版
発売日:2009-05-07
おすすめ度:4.0
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柔道ルネッサンス

柔道ルネッサンス」という活動があるが、そのきっかけになったのは、柔道関係者のマナーの悪さだったという。

大会で負けると、ふてくされて帰ってしまう。会場もゴミだらけのまま帰ってしまう。警察からも柔道の試合は振る舞いもだらしなく、ヤジが多いので、「もう柔道はやめて剣道だけにしてもいいのではないか」という意見が上層部で出されているという。

そんなことがきっかけとなり、山下さんは全日本柔道男子のコーチと男女選手だけで試合後の会場のゴミ拾いを始め、他の役員たちも続いた。

2001年には講道館長の嘉納行光さんが、「21世紀に向けて柔道が目ざすべきものは、やはり柔道を通した人づくりである」というメッセージを繰り返し発信され、その後講道館と全日本柔道連盟合同の「柔道ルネッサンス」運動が始まった。


国際柔道連盟(IJF)理事

最後に2007年まで務めた国際柔道連盟(IJF)の教育コーチング理事のことを書いている。

試合中でも審判に文句を付けるコーチ、試合に勝って大げさに喜び、柔道着を脱いでしまった選手、女子選手を殴ったコーチ、イスラエル選手との試合を体重オーバーで失格したイラン選手などの話が紹介されている。

2007年のIJFの理事選挙で、会長派の山下さんは、反会長派の多数派工作に敗れた。理事選挙後に、勝ったアルジェリア人候補に歩み寄り、祝福したという。アルジェリア人候補も一緒によく食事をした仲間だという。

海外の仲間との絆は山下さんの貴重な残産だということで締めくくっている。

IJF理事時代は海外の理解者を一人でも多くつくるために、「海外では日本人と食事しない」と決めていたという。山下さんらしいエピソードだ。

以前紹介したトヨタの奥田相談役との共著の「武士道とともに生きる」も面白かったが、この本も山下さんの人柄がよくわかる。

武士道とともに生きる武士道とともに生きる
著者:奥田 碩
販売元:角川書店
発売日:2005-04-25
おすすめ度:3.0
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他の本でも紹介されている東海大学時代の問題児の教え子の話や、プーチン大統領の話も紹介されている。山下さんの本で、これ一冊ということだと、筆者はこの本を選ぶ。

是非一読をおすすめする。


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2010年09月20日

小倉昌男経営学 ヤマト宅急便の発明者小倉さんの最初の著書

小倉昌男 経営学小倉昌男 経営学
著者:小倉 昌男
販売元:日経BP社
発売日:1999-10
おすすめ度:4.5
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宅急便の発明者、ヤマト運輸の故小倉(おぐら)昌男さんの書いた最初の経営書。昨年末出版された沼上一橋大学教授の「経営戦略の思考法」でも「優れた経営者が深く思考して書いた本」のトップで取り上げられている。

経営戦略の思考法経営戦略の思考法
著者:沼上 幹
販売元:日本経済新聞出版社
発売日:2009-09-26
おすすめ度:4.0
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沼上一橋大学教授の「経営戦略の思考法」で、高く評価されているのは、「サービスが先、利益が後」、「安全第一、営業第二」というスローガンだ。○○第一、××第二と言えるのが戦略的レベルのリーダーで、「○○第一」だけで、第二がないのは戦術的レベルのリーダーだと小倉さんも語っている。

経営者みずからが書いたケーススタディとも言える本で、需要予測と目論見の立て方は、新規ビジネスを考える上で参考になる。

最後に「私の経営哲学」として、「時代の風を読む」などを挙げている「経営リーダー10の条件」も参考になる。

ヤマト運輸の宅急便の成功を見て、一挙に35社が宅配便に参入してきて、さながら動物戦争が起こったが、1社を除いてすべて撤退した。小倉さんは自分の頭で考えないで、他人の真似をするのが、経営者として一番危険な人なのだと、この例を取り上げて語っている。

先日日通のペリカン便が撤退し、日本郵便のゆうパックに統合されたが、大量の配達遅れを発生させるとか、問題が起こった。やはり宅配便はシステムが鍵だと思う。


小倉さんの経歴

小倉さんは東京大学卒業後、父親の経営する大和運輸に入社するが、すぐに肺結核を患う。戦後すぐの時代で、空気感染の肺結核は死の病だった。京セラの稲盛さんもやはり、中学生の時に結核を患ったことを書いている。

4年半の療養生活の後、大和運輸に復帰し、子会社の静岡運輸を振り出しに、百貨店部長、営業部長と要職を経て、1971年に社長に就任する。ヤマト運輸は、戦前は関東圏のローカル運送で成功し、日本一のトラック会社となっていたが、戦後は、この成功体験が足かせとなり、長距離運送への参入が遅れた。

長距離輸送と百貨店の配送業務で、売上の半分以上を稼ぐようになったが、長距離運輸では本社が東京の大和運輸は、地方本社のライバル企業に比べて賃金コストが高かった。

また長距離運送参入が他社より5年以上送れたので、帰りの貨物の確保不十分で、帰りは空トラックで帰ることが続発し、他社が儲かっていても、ヤマト運輸だけが儲からないという状態が続き、商業貨物の輸送市場で負け犬となっていた。

このため小倉さんは、大和運輸は営業努力を重ねても業績が好転する見込みは薄いのではないかと考えるようになったという。

一方1923年から請け負ってきた三越の配送契約も、1972年に三越の社長が後に三越事件を起こす岡田茂氏に代わった頃から、押し込みセールス、設備使用料徴収、配送費用引き下げ等が繰り返されるようになってきた。いわゆる下請けいじめだ。

百貨店の配送業務は、かつてヤマト運輸のドル箱だったが、中元歳暮時期の出荷が異常に伸び、平常月との差が大きく、繁忙期にあわせて設備を増強すると、閑散期のコスト負担に耐えられないという状態が生じていた。

それに加えて三越の社長となった岡田氏の下請けいじめもあり、小倉さんは1979年2月末で三越との配送契約を解除すると三越に通告し、1978年の歳暮を最後の請負とした。

売上の約2割を占めていた三越向け配送契約を解除できたのは、その3年前にスタートさせた宅急便事業が順調に伸びていたからだ。

同じく1979年には松下電器産業との大口輸送契約も解除し、宅急便事業に背水の陣で臨むことを社内に説明し、社員から協力を得た。1979年度の利益は前年度比9割減となったが、宅急便に背水の陣で臨んだことから、1980年の決算は大幅黒字、経常利益率5.6%という好決算を記録した。

長距離輸送でトップシェアを取れず、三越との配送契約は赤字となり、ジリ貧となっていた経営環境の中で、他の役員すべてが反対する宅急便事業を、労働組合を味方につけて参入したのだ。


宅急便事業というケーススタディ

この本では、商業貨物での輸送市場では負け犬となっていたヤマトが、郵便局の牙城だった個人宅配市場にどのような仮説を立てて、商品化を決意したか、いかに試行錯誤して「宅急便」を発明したかをわかりやすく説明している。

小倉さんが「宅急便」仮説を確信に高めたのは、マンハッタンの十字路に4台のUPSの集配車が止まっているのを見たからだという。1台の集配車が1ブロックを担当するほどの貨物需要があったのだ。

この本では、運送という単純に見える業務でも、トラックのトレーラー化、貨物のパレット化、コンテナー化、運転手の乗り継ぎ制など様々な工夫を凝らし、新しい機材を投入して、多数の運送業者が競合する過当競争の長距離運輸に勝ち残ってきたことがわかる。

乗り継ぎ制とは、東京大阪間の運送だと、途中の浜松で下り・上りのトラック運転手が交代するものだ。つまりいずれの運転手も東京―浜松か、大阪―浜松の区間のみを担当し、東京―大阪を通して運転することはないので、運転手の拘束時間が大幅に減るのだ。


宅急便事業の苦心点

宅急便に参入する際に、どのように市場規模を推定したのか、酒屋や米屋を取次店に起用したこと、米国に学んだハブ・アンド・スポークの輸送ネットワーク構築、新サービスのゴルフ宅急便などで苦労した点はどんなところかなど、興味深い。

宅急便のサービスは、メニューを牛丼一本に絞った吉野家に学んだのだと。

百貨店の配送業務と宅配便とは、個人宅に届けるという意味では同じだが、実際は全く異なる。宅急便の商品化でヒントになったのは、JALのジャルパックだったという。

旅行は本来個人的なサービスなのに、ジャルパックはサービスを商品化して売り出している。宅急便も主婦が買いやすいようにサイズ(SとMだけ)、翌日配達、地域別料金など、徹底的に商品化したのだと。

たとえばゴルフ宅急便だけでも、同じような名前のゴルフ場がいくつもあり、プレーヤー本人がゴルフ場の名前をはっきり覚えていないとか、ゴルフバッグはプレーの前日に届くように、一旦保管が必要とかいう問題がある。

またバッグの引き取りは、どこか一社がゴルフ場にまとめて取りに行き、業者間でバッグを転送することで、どこか一社の宅配会社と契約していれば、すべての宅配便業者往復サービスができるように、宅配便各社で協力しているという。


宅急便ドライバーは「寿司職人」

経営感覚も鋭く、またわかりやすい言葉で語っている。宅急便は3万人のセールスドライバーが集配、営業、集金など様々な役割をこなす必要があり、マルチタスクのいわば「寿司職人」になる必要がある。

だから、現場が自発的に動く体制をつくる必要があり、そのためセールスドライバーには30万円までの荷物事故処理権限を与えているという。リッツ・カールトンの社員のクレイム処理権限2千ドルというのと同様の制度をヤマト運輸も持っているのだ。

小倉さんはヤマト運輸会長を辞任した後、自らの持つヤマト運輸の株をヤマト福祉財団に寄付して、自ら理事長となり、障がい者雇用促進のため、各地でスワンベーカリーを運営している。

経営はロマンだ! 私の履歴書・小倉昌男 (日経ビジネス人文庫)経営はロマンだ! 私の履歴書・小倉昌男 (日経ビジネス人文庫)
著者:小倉 昌男
販売元:日本経済新聞社
発売日:2003-01-07
おすすめ度:4.5
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道路運送法では、道路ごとに路線免許を取らなければならないという、まさに旧時代の規制行政の残滓を見る思いである。このため時には運輸省などの政府権力と行政訴訟まで起こして戦うなど、まさに気骨ある民間経営者の代表格である。

最後にマスコミに”自宅での取材は断りたい”と言ったら、日本経済新聞のY記者から、”経営者なかんずく上場企業の経営者は、マスコミの取材に応ずるのは義務だと思わなければいけない。積極的に対応するのが当然で、拒否するなどとはもっての他だ”と言われたという話を紹介している。Y記者(日経新聞顧問の山下啓一さん)とロンドンの会合で一緒になった時に、小倉さんの思い出を楽しく話されていたことを思いだす。

宅急便という世の中にない新サービスを広めるために、的確な分析と見通しに基づき、どういった工夫をしたのかが語られていて、経営者みずからが語るケーススタディは我々にヒントを与えてくれる。大変参考になる本である。


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2010年09月14日

タオバオの正体 中国のEコマースがわかる

中国巨大ECサイト タオバオの正体 (ワニブックスPLUS新書)中国巨大ECサイト タオバオの正体 (ワニブックスPLUS新書)
著者:山本 達郎
販売元:ワニブックス
発売日:2010-06-08
おすすめ度:5.0
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「アリババ帝国」に続いて、中国のEコマースの本を読んでみた。

アリババ帝国 ネットで世界を制するジャック・マーの挑戦アリババ帝国 ネットで世界を制するジャック・マーの挑戦
著者:張 剛
販売元:東洋経済新報社
発売日:2010-07-09
おすすめ度:3.5
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タオバオはアリババグループのCtoC,BtoCサイトで、アリババとソフトバンクのジョイントベンチャーとして2003年に誕生した。タオバオとは見つからない宝はないという意味だ。

taobao site






当時中国ではeBayが投資する易趣味が圧倒的シェアーを持っていたが、タオバオは少なくとも3年間は出店料、手数料を無料にすると発表、急速にマーケットシェアを奪っていく。

2003年10月にはアリペイという決済システムがスタート、中国Eコマースで最大の問題だった信用問題を解決した。現在中国Eコマース決済の2/3がアリペイだ。

2003年8月には5万人だったユーザーが、2004年末には350万人、2005年末には1400万人に拡大。2010年には1億8千万人にまで拡大した。中国のネットユーザーは3億人といわれているので、その6割がタオバオユーザーだ。

CtoCビジネスでは2009年のタオバオのシェアーは81.5%を占めている。


タオバオの拡張戦略=大タオバオ戦略

タオバオの拡張戦略はオーソドックスだ。まずは個人向けオークションで、先行するeBayの易趣網を追い抜き、次にタオバオモールでBtoCビジネスに展開した。

2008年9月からタオバオアフィリエイトサービスを開始、またたくまに40万ものサイトがタオバオの商品を飾るショップフトントとなった。

2009年3月からはタオバオモバイルを開始、携帯電話でもタオバオの商品を購入できるようになった。

チャットツールのアリワンワンや、SNSの淘江湖、クチコミの淘心得、タオバオQ&Aサイトという具合に事業を拡大してきた。

変わったところでは女性を中心としたユーザーが、ファッションなどを自ら身につけてネットショップとモデル契約を交わす、いわばモデルのマーケットプレースの淘女郎もある。

mmtaobao






タオバオの売れ筋商品

タオバオには現在250万もの個人ショップが出店しているという。この本では日本からタオバオに出店する場合の手続きを詳しく解説している。

タオバオの売れ筋商品は次の通りだ。

1.化粧品
2.レディースファッション
3.デジタル家電
4.レディースバッグ
5.韓国アクセサリー
6.日用品と家具

タオバオの成功モデルとして、2009年4月に出店したユニクロが取り上げられている。ユニクロの柳井社長は、「ユニクロの目的は世界最大のアパレル販売会社になることであり、その戦略の中でもタオバオは非常に重要な位置を占めている」と語っているという。

IBMのパソコン事業を買収したレノボ、スポーツ用品のKappa、通販のフェリシモなどの企業の成功例が紹介されている。

また成功した個人ECショップも紹介されている。タオバオナンバーワンの個人ECショップは「檸檬緑茶」というサイトだ。このサイトでは化粧品、ファッション、アクセサリー、時計などを販売している。

檸檬緑茶





この本では檸檬緑茶や日本人の経営する粉ミルクショップ「宝貝心願」についても詳しく説明している。

宝貝心願






日本製粉ミルクショップはちょうど中国で粉ミルクにメラミンを混ぜるという悪質な品質詐欺事件があったことから、大ブレイクした。

「宝貝心願」のオーナーの内田さんのコメントも興味深い。内田さんは、中国人には絶対に仕入を任せてはいけないという。すぐに独立して中抜きされたり、私腹を肥やしたりするケースが多いという。

その他タオバオで成功した泥パックのショップ「御泥坊」や、田舎町の産品を売っている「四川味道」など、様々な個人ショップが取り上げられている。

タオバオショップの成功の秘訣は、1.クチコミ、2.ユーザーへの対応/アフターサービス、3.商品説明のわかりやすさ、4.中国市場の研究他だという。

タオバオではニセモノ排斥運動に力を入れており、7日以内であれば理由を問わず返品、交換を保証したり、ニセモノがあった場合、3倍の賠償を保証している。

この本の著者の山本達郎さんの経営している北京ログラスなどの出店・運営代行サービスも紹介している。

これからはEコマースは日本のヤフーの運営するタオバオ購買サービスのYahoo!チャイナモールで中国製品を買ったり、タオバオ販売代行サービスを通じて、中国に日本の製品を売ったりする日中共通ECサービスの時代だという。

Yahoo!





タオバオで成功している店が詳しく紹介されていて参考になる本だった。一度中国製品のEコマースも体験してみようと思う。


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2010年09月07日

猛暑でも北軽井沢は涼しい 朝晩は寒いくらい

以前このブログでも紹介した友人が経営する北軽井沢のペンションに、昔のラグビー仲間で泊まった。

今回は新幹線「あさま」で行った。東京駅から軽井沢まで1時間10分程度。実に快適だった。車だと行きはともかく、日曜日の帰りは高速道路の渋滞で、北軽井沢から東京都内まで5時間程度掛かったらしい。新幹線の方が断然早い。

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これがプチホテルR&Tの看板。

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これがR&Tの全景。

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オーナーの塚田さんご夫妻。

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貸し切りなので、夜まで騒いだ。夜になると気温15度くらいになるので、半袖ではちょっと寒い。熱帯夜の続く猛暑の東京では考えられないほどの涼しさだ。久しぶりに見る満天の星空は感動的で、夏は流星観測もできる。

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塚田さんのペンションの特徴は、自家製の野菜と食材にこだわったおいしい食事と、アールデコの旗手、エルテの幻想的な版画だ。

これが玄関に飾られているエルテの作品。

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すべての部屋がエルテの作品で飾られている。

ヴィラR&T6





じゃらんの北軽井沢のペンション人気ランキングでも堂々トップだ。

じゃらんR&T





クチコミでも、5点満点のところ、なんと4.9というほぼ満点の評価を得ている。
じゃらんのクチコミを見て、宿泊する人が増えていると、オーナーの塚田さんが言っていた。

じゃらんR&Tクチコミ





塚田さんとは昔一緒にラグビーをやった仲間だが(塚田さんは成蹊大学陸上部の短距離走のOBなので、走力を買われて快速ウィングだった)、心からのホスピタリティがリピーターを呼んでいるようだ。

じゃらん経由ではなくとも、情報満載のホームページからも予約できる。

R&T HP





東京の猛暑を避けて、別天地でくつろぎたいという人には、絶対おすすめのペンションだ。


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2010年09月04日

生きることにも心せき 元国連事務次長明石康さんの回想記

生きることにも心せき―国際社会に生きてきたひとりの軌跡生きることにも心せき―国際社会に生きてきたひとりの軌跡
著者:明石 康
販売元:中央公論新社
発売日:2001-06
おすすめ度:4.0
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カンボジアとボスニアの国連事務総長特別代表として紛争解決のため国連PKOを指揮した明石康さんの自伝。

明石さんの対談「独裁者との交渉術」を読んだので、もっと明石さんのことを知るために読んでみた。


明石さんの経歴

明石さんは比内地鶏で有名な秋田県比内町に1931年に生まれた。渋谷の忠犬ハチ公は、明石さんのお母さんの実家の生まれだという。

東京大学教養学部アメリカ分科卒業後、1955年にフルブライト留学生としてバージニア大学大学院で学ぶ。東大の卒業論文のテーマだったジェファーソンが設計した大学だという。1年で修士号を取得した後、ボストンのタフツ大学の国際関係専門のフレッチャー大学院で学ぶ。学生数は60名だったという。

ちょうど1956年に日本の国連加盟が実現し、国連見学の時に重光葵外相の加盟演説を聴き、国連政務部長よりリクルートされ、フレッチャー大学院からコロンビア大学に移って博士研究を続ける条件で国連事務局に採用される。


明石さんの国連での仕事

ハンガリー動乱の事務総長報告書作成が最初の大きな仕事だったという。

明石さんの仕えた最初の国連事務総長は、アフリカの飛行機事故で亡くなったハマーショルドだった。次のビルマ出身のウ・タントの下で、明石さんは国連大学設立にあたった。

筆者も国連大学について理解していなかったが、学部レベルの国際教育を行うのではなく、国際的に緊急かつ重大な問題に関して各国の研究者や研究期間が協力するためのネットワークだという。

今は「国連大学」という名称は間違いだったと反省していると。


途中で外務省職員になる

明石さんは途中で、1974年に外務省に中途入省し、国連日本政府代表部に配属され5年間働き、また国連に戻った。当時は外務省の同期に比べて待遇は遜色があったという。当時の大河原官房長は人事院のせいと、すまながったという。

明石さんは1969年からニューヨーク郊外のスカースデールの一軒家に住んでいたという。


国連に復帰

ウ・タントの次がワルトハイム事務局長で、明石さんはワルトハイム事務局長の下で、1979年に広報担当の事務次長となる。それから18年間事務次長として、いろいろなポジションを経験してきた明石さんは、事務次長としてパキスタン出身の一人を除いて最高記録だという。

この頃からアメリカは国連総会に見切りをつけるようになり、決議を無視するようになったという。国連総会の2/3の多数といっても、世界の人口の10%で、国連拠出金の5%だけだったからだ。


国連カンボジア暫定統治機構のトップに就任

1991年にブトロス・ガリ事務総長の就任とともに、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)の事務総長に任命される。就任直後、日本の宮沢総理、渡辺美智雄外相、小和田外務次官などにも会い、日本政府からも支援を得た。

明石さんは在任中シアヌーク殿下、フン・セン首相、硬直的なポルポト派などと交渉し、紛争3派の武装解除を実施した。

国連PKOはショーウィンドーのようなものだと明石さんは語る。軽武装だから、簡単に武力では圧倒されるが、その際大きな音がするので、周りの人が集まってくるので、PKOに対して大それた事を試みる者が出てこないのだという。


カンボジアPKOでの邦人犠牲者

それでも命をなくす人は出てくる。カンボジアでは1993年に入り、選挙を予定通り実施すると発表してから、国連ボランティアやPKOが襲われる事件が続出した。選挙を妨害する目的である。

4月に国連ボランティアの中田厚仁さんが殺害され、5月にはコンボイが襲われ、高田晴行警部補が殉職し、4名の日本人文民警察官と5人のオランダ人兵士が負傷した。

これに対し宮沢首相は、旺盛な知識欲と分析能力を元に情勢分析をして、日本政府は自衛隊や警察官の撤退は考えていないと発表した。宮沢首相のからは会うたびに克明な説明を求められたという。

明石さんは中田さんの父親中田武仁さんの悲嘆にくれる姿を想像していたら、息子を誇りに思うと語り、その後勤務先の日商岩井を辞め、NGOとして働くことを決心した。親子が一つの理念に殉じるという戦後日本では稀有な出来事だったと明石さんは語る。

明石さんは中田さんの態度に芥川龍之介の小品、「手巾(ハンケチ)」を思い出したという。

大導寺信輔の半生・手巾・湖南の扇 他十二篇 (岩波文庫)
著者:芥川 龍之介
販売元:岩波書店
発売日:1990-10
おすすめ度:5.0
クチコミを見る


明石さんにも暗殺予告は届いていたが、1993年5月23日予定通りカンボジアの総選挙は実施された。明石さんは生涯で最良の日だったと語る。投票率は89%を超えたという。

総選挙の結果、シアヌーク殿下は、シアヌーク国王の王政を復活し、ラナリット、フン・セン両首相の内閣を構成することを発表し、暫定国民政府が樹立された。シアヌーク国王は国連のUNTACをインポッシブル・ミッションと讃える演説を行ったという。

その後はカンボジアの憲法を制定するプロセスが続いた。明石さんは「マッカーサー」にはなりたくなかったので、カンボジア人に憲法制定を任せ、1993年9月、560日のカンボジア勤務を終えた。

明石さんは帰途バンコクで日本公使にフランス料理店でシャトー・マルゴーをごちそうになり、肩の荷がおりたことを実感したという。

シャトー・マルゴー[2001](赤ワイン)
シャトー・マルゴー[2001](赤ワイン)


後でも述べるが、いまどき在外外交官からシャトー・マルゴーで接待を受けたなどと告白したら、それこそ公費のムダ使いと糾弾されるだろう。明石さんにズレを感じる点の一つだ。


ボスニアPKO

この本の後半部分は1994年から1995年11月までのボスニアPKOの話だが、前回紹介した「戦争と平和の谷間で」とかぶるので、詳しくは紹介しない。

カンボジアの経験と、カンボジアPKOにあたった職員を「カンボジアマフィア」として連れて行き、奮闘したが、結局内戦収集にはいたらず、1995年11月に国連事務総長特別代表を辞任した。

その後人道問題担当事務次長に就任した後、1997年末で国連を退職し、日本に戻る。1999年には都知事候に立候補するが、石原慎太郎に敗北する。


明石さんの本に足りないもの

このブログは書評ブログではないので、本の内容について論評を加えることはしないのが基本方針だ。

それでも明石さんの本については、あえて書き加えたほうが良いと思うので、以下筆者の感想を述べる。

明石さんの対談の「独裁者との交渉術」と著書「戦争と平和の谷間で」と今回の「生きることにも心せき」の3冊を紹介したが、明石さんの本を読んだ後、今度紹介する「オシムの言葉」を読んで、何が明石さんの本に足りないかがわかった。

オシムの言葉 フィールドの向こうに人生が見える (集英社文庫)オシムの言葉 フィールドの向こうに人生が見える (集英社文庫)
著者:木村 元彦
販売元:集英社
発売日:2008-05-20
おすすめ度:4.5
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明石さんの本では、指導者や政治家、将軍は出てくるが、一切「民衆」が登場しないのだ。

「オシムの言葉」では1992年3月末から1、395日にも及んだサラエボ包囲戦で、ユーゴスラビアが崩壊し、オシムの奥さんと娘がサラエボに閉じ込められ、オシム自身はギリシャのパラシナイコスの監督としてチームを率いる傍ら、アマチュア無線で奥さんと不定期に交信する姿が描かれている。

サラエボは260台の戦車、120門の迫撃砲、無数の狙撃兵に囲まれ、多くの住民が亡くなり、サラエボ冬季オリンピックのスタジアムは墓地になっていた。

オシムの奥さんは、特別に国連ヘリで脱出できるという誘いを断り、毎日8名だけという順番を守って、やっと2年半後にオシムが監督をやっていたオーストリアのウィーンでオシムと再会する。

オシムの奥さんは、2年半で体重は10キロ減ったという。

もちろんカンボジアでも多くの民衆が内戦の犠牲になっている。

明石さんが意図して民衆や紛争当事国の生活のことを書いていないとは思えないので、きれいさっぱり民衆のことを忘れているということは、明石さんはやはり国家間の交渉を仲介する国連職員であって、民衆のことを考える政治家ではないということを物語っていると思う。

ボスニア紛争のことをよく知らなかったが、この機会に明石さんの本、オシムの本、それから今後紹介する「戦争広告代理店」という様々な角度からボスニア紛争について学べて良かったと思う。

ドキュメント 戦争広告代理店 (講談社文庫)ドキュメント 戦争広告代理店 (講談社文庫)
著者:高木 徹
販売元:講談社
発売日:2005-06-15
おすすめ度:4.5
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自伝の情報のみでは判断してはいけないという教訓を与えてくれた明石さんの自伝だった。


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Posted by yaori at 00:31Comments(0)TrackBack(0)