2012年01月29日

蒋介石が愛した日本 親日家・蒋介石を敵にした日本軍部の愚

蒋介石が愛した日本 (PHP新書)蒋介石が愛した日本 (PHP新書)
著者:関 榮次
PHP研究所(2011-03-16)
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以前紹介した「チャーチルが愛した日本」に続く、元外交官作家関榮次さんのシリーズ第2弾。日本に留学、陸軍勤務を経験し、辛亥革命に参加するために中国に帰国後もたびたび日本の支持者を訪れ、日本に親愛の情を感じていた親日家の蒋介石像を見事に描いている。

実は大先輩の関さんには大変失礼をしてしまった。この本は出版当初の2011年3月にいただいていたが、あらすじを紹介するのが大変遅れてしまった。

一度読んだものの、蒋介石は大変毀誉褒貶が激しい政治家なので、蒋介石についてもっと本を読まなければ、きちんとしたあらすじは紹介できないと考えて、次のような本も読んだ。

蒋介石と日本 友と敵のはざまで (東アジア叢書)蒋介石と日本 友と敵のはざまで (東アジア叢書)
著者:黄 自進
武田ランダムハウスジャパン(2011-01-20)
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蒋介石 (文春新書 (040))蒋介石 (文春新書 (040))
著者:保阪 正康
文藝春秋(1999-04)
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(蒋介石に言及した部分はないが)台湾研究として:

街道をゆく (40) (朝日文芸文庫)街道をゆく (40) (朝日文芸文庫)
著者:司馬 遼太郎
朝日新聞社(1997-05)
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蒋介石秘録〈1〉51nSS9BVXhL__SL500_AA300_悲劇の中国大陸 (1975年)
著者:サンケイ新聞社
サンケイ新聞社出版局(1975)
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「蒋介石秘録」は日中国交回復以降、唯一台北に支局を置くサンケイ新聞社が総力を挙げてまとめた蒋介石の伝記で、全15巻の作品である。


「以徳報怨(いとくほうえん)」演説

蒋介石で最も有名なのは、終戦が決まった1945年8月14日に放送した日本に対しての「以徳報怨(いとくほうえん)」演説だろう。

満州や朝鮮から工場の設備など根こそぎ持ち帰った火事場泥棒のようなソ連のスターリンに対して、蒋介石の態度は実に立派で、関さんが書いているように多くの日本人は道義的にも敗れたことを痛感させられた。

最後のシナ派遣軍総司令官の岡村寧次大将は「この演説を当時ソ連のスターリンが『日露戦争の仇を討った』と声明したのに較べてみれば、まるで較べものにならない高邁寛容な思想といわねばなるまい。この思想、この大方針が、接収において降伏手続きにおいて、戦犯問題において、すべて中国側官民の日本人に対する態度の基礎になったのだと思う」と述べている。

蒋介石がこのような方針を打ち出したことから、日本人の中国からの帰国がスムーズにはかどり、結果として命を救われた日本人が多数いることは間違いない。満州で終戦を迎えた日本軍人が50万人以上もシベリア抑留されたことを考えると、大変な違いである。

蒋介石が日本の恩人の一人であることは間違いない。


蒋介石の経歴

蒋介石は浙江省の寧波の近くの渓口鎮で1887年に生まれた。蒋介石の生家は代々農家で、商才もあって塩の売買も行っていたが、蒋介石が8歳の時に祖父と父を相次いで亡くし、母親の手で育てられた。15歳の時に母がいうままに結婚したが、後日「早婚という悪い慣習に自分は苦しめられた」と書いているように、最初の結婚はうまくいかなかった。1910年に長男蒋経国が誕生し、1921年に母が亡くなると最初の妻と離婚している。

蒋介石は軍人を志し、満人の習慣である弁髪を切り落とし、日本留学をめざして、1906年に半年間日本を訪れたが、中国陸軍の推薦が得られず一旦帰国した。1908年に河北省の保定軍官学校の留学生として日本に留学し、3年間の予備的訓練の後、1910年12月に新潟県の高田野戦砲第19連隊に配属された。

1911年に中国本土で辛亥革命が始まると、孫文の仲間で同郷の先輩・陳基美の求めにより、高田連隊を抜けて帰国した。蒋介石は後日「新潟は第2の故郷のようである」、「日本の伝統精神を慕い、日本の民族性を愛している」と語っている。

1911年に帰国してからは上海を活動のベースとし、日本の頭山満などの支持者を頻繁に訪れ、孫文と行動をともにしていた。訪日の回数は10回を超えている。1916年にメンターの陳基美が暗殺されてからは、孫文のもとで蒋介石の責任は重くなった。

1923年に孫文はソ連と協定を結び、蒋介石は孫文代表団の団長としてソ連を訪問し、帰国後ソ連の軍事顧問を招いて広州に軍官学校を開設し、みずから校長として就任する。後に毛沢東と並ぶ中国共産党の二大指導者の周恩来は1917年から2年間の日本留学の後、フランスにも留学し、帰国後、第1次国共合作のため、軍官学校の副主任として蒋介石を助けている。蒋介石と周恩来は立場を超えて、双方が尊敬しあっていた仲だという。


国民党主席に就任

孫文は1925年に亡くなり、1926年に蒋介石が国民党主席となった。蒋介石は当時、二番目の妻・陳潔如と結婚していたが、浙江省の宋財閥を後ろ盾にする宋三姉妹の政治力・経済力、それと三姉妹の末妹・宋美齢の天性の能力、米国仕込みの教育と教養、美貌に魅せられ、陳潔如に別れを言い渡す。

陳潔如は翌1927年にアメリカに向け旅立ち、その後は蒋介石とは連絡は取りつつも、距離を置き、最後は周恩来の手配で香港に移住して亡くなっている。

1924年からの第1次国共合作で共産党と国民党は各地の軍閥に対して共同戦線を張り、北伐を続けてきた。

1927年3月に北伐軍が南京の各国の領事館を襲い、居留民を殺傷するという「南京事件」が起きたが、日本は幣原喜重郎が仲介して英米の武力行使をひっこめさせて、蒋介石に謝罪・弁償による解決をすすめて事件を解決した。幣原喜重郎は蒋介石による中国統一に期待していたのだ。

蒋介石が1927年4月から共産党を抑圧し、国共合作は瓦解した。しかし国民党内部の勢力争いで、蒋介石は国民革命軍主席を辞して、故郷に帰って下野してしまう。


日本の支持者を訪問

1927年10月に日本に行き、当時有馬温泉に滞在していた宋姉妹の母に宋美齢との結婚の許しを乞い、キリスト教に改宗することを条件に結婚を認められる。

この時には中国からの留学生が蒋介石を東京駅で青天白日旗を振って出迎え、蒋介石は帝国ホテルで「日本国民に告げる書」を発表し、日中両国は兄弟の国として「唇歯輔車」の関係にあり、目先の利益に惑わされて軍閥を利用して革命による中国の発展を妨げることなく、中国の革命運動を支援してくれるよう訴えた。

孫文が父と呼んだ頭山満と旧交を温め、88歳の渋沢栄一にもあって私淑している。関さんは懇談の内容を「竜門雑誌」から引用しており大変興味深い。渋沢栄一は若き指導者の蒋介石に日中の共存共栄を託そうと考え、支援を約束した。

しかしその後、田中義一首相と面談すると、田中首相はあきらかに中国革命軍が北伐後、中国統一を成し遂げることを好まず、蒋介石に対して誠意を見せなかった。蒋介石は中日合作の可能性はないと日記に記している。

日本には多くの支援者がいたにもかかわらず、この1927年の訪日が蒋介石の最後の訪日となった。

蒋介石は1か月半の訪日を終え、1927年11月に帰国してすぐに宋美齢と結婚した。新婚旅行は浙江省の行楽地莫干山(ばくかんざん)だったという。結婚後蒋介石はキリスト教に入信し、以後経験なクリスチャンとして信仰心を深めている。

結婚直後、蒋介石は国民革命軍総司令に再任され、70万人の大軍を擁して北伐にあたった。1928年6月の張作霖爆死事件で軍閥は総崩れとなって北伐は完了した。


日本軍部の暴走

張作霖爆死事件が息子の張学良に与えた影響は大きく、これがのちの西安事件につながる。張学良は自分の誕生日に張作霖が殺されたので、自分は誕生日を祝う気になれないとNHKのインタビュ−で語っている。

この間の1928年5月に日本が居留民保護のために出兵した済南事件が起こり、中国は屈辱的な賠償を払わさせられた。この事件は蒋介石の痛恨事となり、これ以降日本は蒋介石のあきらかな敵となった。

蒋介石は1928年10月に中国を統一した国民党政府主席に就任した。欧米政府は祝電を寄せたにもかかわらず、田中義一内閣の日本は南京総領事が口頭で祝辞を述べたにすぎなかったという。蒋介石はその時の日記に「日本の狭隘(きょうあい)なる嫉忌の心はこの通りだ。私はますます自強自奮しなければ」と書いている。

日本は関東軍が暴走を続け、1931年9月に奉天郊外の柳条湖で満鉄の鉄道を爆破して満州事変を起こし、日本政府の事態不拡大宣言を無視して関東軍は戦火を拡大した。翌1932年3月には清朝最後の皇帝の溥儀を擁立して傀儡政権の満州国を建国し、張学良は東北部からはじき出された。


西安事件

蒋介石は日本軍に対抗するには、まず国内の統一を保って軍備を整えるのが先決という「安内攘外」策を取り、張学良は共産軍の討伐にあたっていたが、蒋介石には共産軍と提携して日本の侵略に対抗すべきだと進言していた。しかし蒋介石が取り上げなかったので、張学良が蒋介石を監禁して、国共合作を承認させるという西安事件が1936年12月に起こった。

西安事件の首謀者である張学良みずからが語るNHKのインタビューは1991年のもので、張学良は西安事件そのものについては、「迷惑が掛る人がいる」として口を閉ざしているが、その他のことについてははっきり語っており、大変興味深い本だ。

張学良の昭和史最後の証言 (角川文庫)張学良の昭和史最後の証言 (角川文庫)
角川書店(1995-05)
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関さんは西安事件で蒋介石が脱出しようとした驪山(りざん)の岩穴や監禁されていた部屋を訪れた写真をこの本で紹介していて興味深い。西安事件はスターリンにも伝えられ、蒋介石を殺すつもりでいた毛沢東に対して「連蒋抗日」策をとるように指示し、毛沢東は怒りのあまり真っ赤になったという。

宋美齢や彼女の兄の宋子文、顧問のオーストラリア人・ドナルドなどが蒋介石解放交渉にあたり、クリスマスの日に蒋介石は解放された。張学良はそれから軍法会議で有罪となったが、蒋介石の特赦で自宅監禁となり、1990年まで自宅軟禁されていた。上記のNHKのインタビューは自宅軟禁が解けた直後のものだ。


日中戦争拡大

1936年2月26日に日本で2.26事件が起こり、日本の内政は混乱し、1937年7月の盧溝橋事件を経て日本は中国の成長を理解できないままに日中戦争、太平洋戦争へと突き進んでいく。

1937年3月に林銑十郎内閣の佐藤尚武外務大臣は幣原外交の流れを汲んで、戦争を回避し、中国と平等の立場で国交を調整することを含む平和外交4原則を打ち出したが、林内閣は4か月の短命に終わった。その後の近衛内閣の広田弘毅外務大臣が、満州国黙認を打ち出したので、蒋介石との対立は決定的となった。

1937年7月7日に盧溝橋事件が勃発し、その10日後第2次国共合作が成立し、中国が抗日で統一された。近衛内閣は大規模な武力行使で国民政府を屈服させる方針を決定し、戦火は北京、天津、上海と拡大し、日中間の全面戦争に発展した。12月には南京入城後、大規模な虐殺暴行事件が発生し、全世界の非難を浴びた。

翌1938年1月に近衛首相は「爾後国民政府を対手(あいて)とせず」との声明を出し、中国との外交関係を断絶させた。蒋介石にとってこれは国際的にも前例のない「狂気の沙汰」に思え、近衛も後々後悔したという。

最近日中戦争と太平洋戦争を、”アジア・太平洋戦争”と呼びなおそうという動きが出ている。

一般的には太平洋戦争と呼ばれてきたので、なにかフィリピンとかビルマなどでの死者が多いような印象を受けるが、実は日中戦争で中国・満州で亡くなった兵士の数が最も多い。

以前靖国神社の遊就館を訪問した時に、軍神として祀られている戦死者は、中国戦線で亡くなった人が多いことに驚いた。日中戦争を拡大した当時の指導者・軍部の「狂気の沙汰」の犠牲になって、70万人もの人が戦死しているのだ。


蒋介石の日本国民への呼びかけ

盧溝橋事件から1年後の1938年7月7日に、蒋介石は「日本国民に告ぐるの書」を発表し、「中日両国はもともと兄弟の邦(くに)であって」で始まる文は、日本軍の毒ガス攻撃や人道にもとる残虐行為を非難しながらも、日本の軍部は中国と日本国民の公敵であり、日本国民に対して軍部の侵略政策を変更させ、「平和と秩序を恢復(かいふく)し、中日相互親睦を実現し、東亜永遠の平和を樹立するよう切望する」と呼びかけている。

ちなみに三笠宮殿下は「若杉参謀」という変名で、太平洋戦争中の1943年1月に中国に赴任し、1年後離任するときに「蒋介石が従来日本軍閥云々と宣伝しているのは、無理からぬことだと感じた」と後に語っている。


蒋介石の対日戦略

蒋介石の対日戦略は、1.広大な国土を利用して持久戦、消耗戦に持ち込むこと、2.国際世論を味方につけること、3.外国の支援を獲得し、夷(外国)を以て夷を制することだった。

妻の宋美齢の米国コネクション、蒋介石の抜群の情報収集力がこの戦略の実現を可能にした。前回のあらすじで紹介したゾルゲが入手したドイツが独ソ不可侵条約を破棄してソ連を攻撃するという情報も蒋介石は入手して、ルーズベルトに教えていたという。

蒋介石の対日戦略は日独伊三国同盟で、日本が米英と敵対することが明白となって確立し、1941年12月8日の真珠湾攻撃で完成した。

日中戦争中は米国が義勇軍ということでフライング・タイガースなどの軍事援助を行い、蒋介石に大量の武器を供与した。

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出典:Wikipedia

中国滞在経験が10年で中国語に堪能なスティルウェル将軍が派遣され、ルーズベルトはスティルウェルに全中国軍の指揮権を与えるように蒋介石に指示したが、蒋介石は反発し、スティルウェルは召喚された。

談笑する蒋介石・宋美齢夫妻とスティルウェル将軍

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出典:Wikipedia

この辺はバーバラ・タックマンの「失敗したアメリカの中国政策」が取り上げている。

失敗したアメリカの中国政策―ビルマ戦線のスティルウェル将軍失敗したアメリカの中国政策―ビルマ戦線のスティルウェル将軍
著者:バーバラ・W. タックマン
朝日新聞社(1996-02)
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戦後処理での蒋介石の役割

第2次世界大戦の大勢は決し、蒋介石は1943年11月のカイロ会議に参加する。

カイロ会議ではチャーチルは蒋介石と宋美齢に好感を持ち、「スターリンは人のへそを見て話すが、蒋介石はまっすぐに自分の目を見て話す」と印象を記している。

もともと米英中ソ4か国会議を予定していたが、スターリンの反対でまずカイロで米英中3カ国会議が行われ、その後テヘランで米英ソ3カ国会議が開かれるという変則開催となった。スターリンはその後のヤルタ会談でルーズベルトから対日参戦の代償をしっかり取り付けて、戦後の中国の役割は無視された結果となった。

宋美齢は1943年に訪米し、上下両院で演説し、抗日戦での中国への支援を訴え、米国民の同情を得た。


「以徳報怨」演説と戦後処理

蒋介石は終戦が決まった1945年8月14日にラジオで「抗戦勝利にあたり全国軍民および全世界の人々に告げる演説」として有名な「以徳報怨」を放送した。

中国政府は日本軍将兵を俘虜と呼ばず、「徒手官兵」と呼んで、日本軍105万人、居留民80万人の早期送還を実現した。しかし北支方面では共産軍が武器引き渡しを要求し、共産軍の攻撃により戦後7,000名もの兵士が戦死した。国民党と共産党の争いがもう始まっていたのだ。

蒋介石はA級戦犯リストを48名から12名に削り、近衛文麿も軍部の操り人形として戦犯リストから外した。日本占領軍に中国が派兵しないのでソ連も派兵の機会を失う結果となった。

中国は対日賠償請求も放棄し、日本の経済復興を助けた。フィリピンのキリノ大統領にも働きかけ、対日賠償請求を80億ドルから5億5千万ドルに減額させた。


台湾に退去

アメリカの仲介で、終戦直後から蒋介石と毛沢東は国共共同政府樹立のため会談を重ねたが合意に至らず、トルーマンが中国への余剰武器輸出を禁止する一方、ソ連は満州の日本軍の武器を共産軍に引き渡したため、次第に国民党軍は劣勢となった。

1948年末には中共軍は満州、華北を制圧し、蒋介石は1949年1月に国民政府総統を辞任し、4月に台湾に移った。

台湾では1947年2月28日に規律ある日本の統治に慣れていた本省人(台湾人)の騒擾を国民党軍が武力弾圧し、3万人近い犠牲者を出す惨事となった。これが2.28事件である。

台湾行政長官の陳儀は蒋介石と同郷で日本の陸軍大学まで卒業した知日家だったが、共産側への寝返りを計画して捕えられ、2.28事件の責任も問われて1950年に公開銃殺された。


台湾の孤立化

1950年1月に英国の労働党アトリー政権が自由圏の大国としては最初に中共政府を承認した。その直後の1950年6月に北朝鮮の侵攻で朝鮮戦争が始まった。蒋介石も軍隊の派遣を申し出たが、トルーマンは蒋介石の派兵提案を拒否し、大陸侵攻をあきらめることも約束させられた。

朝鮮戦争については、ディヴィッド・ハルバースタムの「ザ・コールデスト・ウォー」のあらすじを紹介しているので、参照願いたい。スターリンという虎の威を借りたキツネとしての金日成の姿が良く分かる。

ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争 上ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争 上
著者:ディヴィッド・ハルバースタム
文藝春秋(2009-10-14)
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トルーマン政権の後のアイゼンハワー政権は台湾積極支援に転換し、1958年の金門・馬祖島の砲撃戦を軍事援助した。


旧日本軍人の軍事顧問団

蒋介石は1949年に終戦時のシナ派遣軍総司令官だった岡村寧次元大将に協力を求め、富田直亮元陸軍少将を団長とする17名の旧日本軍人の軍事顧問団がひそかに台湾にわたって国府軍の訓練を指導した。

蒋介石の後を継いだ蒋経国は、後任総統に李登輝を起用した。国民党政権下で台湾は経済発展を遂げ、世界でも有数の外貨準備高を誇る国となった。

日本との関係は1972年の田中角栄首相の日中国交回復から正式な外交関係はなくなったが、台湾は世界で最も親日国であり、東日本大震災の時も最も多額の民間義捐金を集め日本の復興を支援している。

蒋介石は1960年代から健康が悪化し、数度の心筋梗塞を経て、1975年87歳で亡くなった。

関さんは最近の周辺国との領土問題における居丈高な中国政府の姿勢を見るとき、西安事件以降、中国との関係調整に失敗し、中国共産党の大陸制覇に結果的に力を貸した日本の軍閥と為政者の愚を思うことしきりだと書いている。

「蒋介石の挫折に加担しなかったら、日中関係ははるかに友好的で円滑なものとなり、あるいは欧州共同体に匹敵するようなものがアジアに実現していたかもしれない」と結んでいる。

歴史にIFはないが、蒋介石という親日的指導者が中国を統一していれば、戦後の世界情勢は全く違ったものになっただろう。

筆者は1983年に湖南省の毛沢東の生家を訪問したことがある。今度は淅江省や台湾の蒋介石ゆかりの場所を訪問してみようと思う。

他の本も読みこんで、このあらすじを書いたが、関さんの表現は中立的であり、偏った点は見られない。一冊で蒋介石と20世紀前半の日中関係をコンパクトにまとめた良書である。


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Posted by yaori at 00:53Comments(0)TrackBack(0)

2012年01月23日

国際スパイ・ゾルゲの真実 NHKが制作したドキュメンタリー

先日紹介した映画「スパイ・ゾルゲ」を見たので、それの原作となったNHKがつくったゾルゲに関するドキュメンタリーを読んだ。



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国際スパイ ゾルゲの真実 (角川文庫)
角川書店(1995-05)
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アマゾンだと表紙の写真が紹介されていないので、表紙写真を紹介しておく。

ゾルゲ表紙












この本はもともと1991年に放送されたドキュメンタリー番組の取材を基にしている。

NHKBS2で再放送された時の映像がYouTubeで10編にわたって紹介されている。最初はこんな出だしだ。



YouTubeで視聴したが、全10編、約1時間半もドキュメンタリーを見るのはよほど興味がある人に限られると思うので、最後の10/10の法政大学教授の下斗米伸夫教授の解説を紹介しておく。



20年も前の作品だが、広範囲にわたる取材と資料の深掘りは、さすがNHKと思わせるできばえだ。


ソ連の機密情報公開がきっかけ

このドキュメンタリーが生まれたのは、1991年にソ連が崩壊して旧ソ連時代の機密資料約3,000万点が、1992年3月から公開されたからだ。国家的な重要決定に関する文書は除かれているが、それでも公開された文書の中にはゾルゲが日本から無線で送った電報の原本も含まれており、電報が誰に配布されたのかも記載されている。スターリンもゾルゲの電報を読んでいたことがわかる。

1991−2年の取材なので、ゾルゲを尋問した特高の警部、ドイツ大使館員、ソビエトの赤軍諜報部員、ゾルゲの日本人妻、スターリンの通訳などが存命で、関係者に直接事情を聴けたことが、このドキュメンタリーの質と情報量を圧倒的なものにしている。


ゾルゲの経歴

ゾルゲは1895年生まれ。ドイツ人の父とロシア人の母の間で、石油掘削技師だった父が勤務していた現アザルバイジャンの油田で有名なバクーで生まれた。その後一家はドイツに移住して、ゾルゲもドイツで教育を受ける。

ゾルゲは第1次世界大戦でドイツ陸軍に志願して従軍、3度負傷する。その時の傷で足はずっと不自由だったという。戦争の悲惨さを体験し、世界平和を実現するためにドイツ共産党に入党し、のちにソビエト共産党員となる。

第一次世界大戦の悲惨さは映画「西部戦線異状なし」を見てほしい。



コミンテルン(国際共産党)に勤務し、上司の赤軍第4部ベルジン大将から命を受けて諜報部員となり1930年に上海に行き、作家アグネス・スメドレーの紹介で大阪朝日新聞の上海特派員の尾崎秀実と知り合う。

スメドレーは中国共産党のシンパとして中国共産党の宣伝本を多く書いている。エドガー・スノウの「中国の赤い星」と並んで、彼女の作品はたぶんに宣伝本という要素はあるが、初期の中国共産党の活動がわかる貴重な資料だ。

中国の赤い星 (1964年) (筑摩叢書)中国の赤い星 (1964年) (筑摩叢書)
著者:エドガー・スノウ
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偉大なる道 下―朱徳の生涯とその時代 (岩波文庫 青 429-2)偉大なる道 下―朱徳の生涯とその時代 (岩波文庫 青 429-2)
著者:アグネス・スメドレー
岩波書店(1988-05)
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ゾルゲの諜報活動

ゾルゲの情報源だった尾崎秀実は共産主義革命に心酔しており、共産主義革命でアジアを解放するという理想を持っていた。上海勤務後日本に帰国して満鉄調査部や内閣嘱託で近衛文麿のブレーンが集まる「朝飯会」のメンバーになって、日本政府の内部情報をゾルゲに提供した。

他にもアメリカ帰りで、軍人の肖像画を描いて情報を収集していた画家の宮城与徳などがゾルゲの情報ソースだった。

ゾルゲは1933年から日本に住み、ドイツのフランクフルターの寄稿者として働き、駐日ドイツ大使のオイゲン・オットの親しい友人としてドイツ大使館に部屋を持っていたほどだった。

ゾルゲがどうやって情報を収集したかなどの事情はドキュメンタリーに詳しく紹介されており、ゾルゲの「獄中記」にも書かれている。

ゾルゲ事件獄中記 (1975年)
著者:川合 貞吉
新人物往来社(1975)
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バツグンのゾルゲの分析力

この本ではゾルゲの日本発の情勢分析レポートのいくつかを紹介している。

たとえばノモンンハン事件(1939年5〜8月)が起こる前に、日本は中国と戦争をしているので、南方に展開してイギリスと戦争することはあっても、ソ連までも加えた両面戦争はできないと分析し、しかし関東軍が独立性を高めているので、大規模な軍事衝突の可能性はいつでもあると正確な分析をソ連に提供している。

ゾルゲが日本の国力の限界を正確に把握していることには驚く。


ドイツのソ連攻撃も事前察知

独ソ不可侵条約をヒットラーが結んだ9日後の1939年9月1日に、ポーランドに攻め込み第2次世界大戦がはじまった。

スターリンはじめソ連首脳はヒットラーが両面作戦の愚を犯さないとタカをくくっていたが、ゾルゲはドイツの「バルバロッサ作戦」をつかんで、1940年末からモスクワに注意を喚起していた。しかし、その情報を信じないソ連首脳部にゾルゲのトップスクープは無視された。

このあたりの理由はこの本では紹介されていないが、ゾルゲ事件を詳しく取り上げた元GHQ戦史室長のゴードン・プランゲ博士の三部作の一つ「ゾルゲ・東京を狙え」によると、無線係が手を抜いてゾルゲの原稿を勝手に割愛していたので、モスクワにドイツ軍の集結状況などの情報が正確に伝わっていなかったことを紹介している。

ゾルゲ・東京を狙え〈上〉ゾルゲ・東京を狙え〈上〉
著者:ゴードン・W. プランゲ
原書房(2005-04)
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この本ではドイツのフライブルクの連邦軍事資料館に保存されている1940年12月18日付け「バルバロッサ作戦」の命令書現物を紹介している。さすがNHKと思わせる広範な取材と、フットワークの軽さである。

ドイツがソ連に攻め込む1941年6月22日の前にも、5月ころからゾルゲはドイツが対ソビエト攻撃に130個師団を準備しているという情報をタイに赴任途中の友人のドイツ駐在武官から入手して、さかんにモスクワに無線で連絡するが、ゾルゲの報告を信じないモスクワではゾルゲの忠告は無視された。

ゾルゲはドイツ人の血を引いていたので、スターリンはゾルゲを二重スパイではないかという疑惑を持っていたことも理由の一つとして挙げられている。


スターリンは日本の対ソ参戦を懸念

その後ゾルゲの情報が正確であったことを知ったモスクワは、今度は独ソ戦開戦により今度は日本がソ連を攻撃しないかどうかが最大の関心事となった。

関東軍は1941年7月に85万人を動員する大規模な演習(関特演)を行ったが、当時ソ連は独ソ戦に兵力の大半を注入し、極東の軍備は手薄だった。

この点に関するゾルゲの「問題外」という報告がモスクワを安心させ、ソ連は20個師団を西に移動して独ソ戦に投入することができ、独ソ戦に勝利することができた。


ゾルゲ逮捕

ゾルゲ一味逮捕のきっかけは、日本共産党の伊藤律が逮捕され、アメリカ共産党員だった北林ともの名前を自白、そのルートからやはりアメリカ共産党員だった宮城与徳が逮捕された。

宮城与徳は取調室の窓から飛び降り自殺を図ったが失敗し、それから宮城はスパイ活動の一切を自白し、ゾルゲ・尾崎の一味が芋づる式に逮捕されたのだ。


ゾルゲの予言

ゾルゲは死刑判決を受けるとは思っておらず、取調官に「いま戦争に勝った、勝ったといっているけど、英米は強い。いずれ日本は困難な状況になる。そうなると日本は講和しなければならないが、講和条約を橋渡しするのはソ連以外にない。だからその時は俺は日本のために働く」と言っていたという。

これはまさに「夢顔さんによろしく」で紹介した近衛文隆が、ゾルゲが処刑されたことを知らずに、てっきりソ連に生還したと思ってゾルゲにシベリア抑留からの解放を期待していたストーリーとつながる。

夢顔さんによろしく (上) 最後の貴公子・近衛文隆の生涯 (夢顔さんによろしく) (集英社文庫)夢顔さんによろしく (上) 最後の貴公子・近衛文隆の生涯 (夢顔さんによろしく) (集英社文庫)
著者:西木 正明
集英社(2009-12-16)
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日本政府はソ連にゾルゲを送還することを提案したが、スターリンは無視した。ゾルゲと尾崎は1943年に死刑判決を受け、1944年に死刑が執行されている。

スターリン死後10年たち、フルシチョフ時代にゾルゲは国家英雄として復活した。フルシチョフがフランスでつくられたゾルゲを主人公とした娯楽映画を見て、これこそ祖国の英雄であるとゾルゲに対する再調査を命じたからだという。

NHKの上記のYouTubeの10/10のビデオでは、モスクワの赤軍博物館にゾルゲの功績がたたえられていることが紹介されている。

モスクワにはゾルゲ通りもあるそうで、そこにはコートを着て壁を突き抜けて出てきたようなゾルゲ像が飾られている。

ゾルゲ像





出典:本書256ページ


さすがNHKと思わせる、よくまとまった一見の価値があるドキュメンタリーである。参考になった上に、大変面白かった。

YouTubeの映像をパソコンで見るのは疲れるので、筆者はパソコンをテレビにHDMIケーブルでつなぎ、テレビで見た。まずはYouTubeの映像を見て、興味がわけば、図書館で借りるか、アマゾンで中古品を買って読んでみることをおすすめする。


1990−1995年ころNHKでは第2次世界大戦について多くのドキュメンタリー番組を制作しており、本にもなっている。このシリーズの「張学良の昭和史最後の証言」も大変参考になったので、いずれ紹介する。

張学良の昭和史最後の証言 (角川文庫)張学良の昭和史最後の証言 (角川文庫)
角川書店(1995-05)
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2012年01月20日

Yahoo!創業者 Jerry Yang Yahoo!退社 Yahoo!創業時の様子

Yahoo!の創業者Jerry YangがYahoo!から退社した。

最近は"Chief Yahoo!"というタイトルだったJerryだが、Yahoo!をめぐる買収の話が高まるにつけ、現経営陣との意見の調整がつかなかったようだ。

Yahoo!創業時の様子を、筆者の友人の米国のアナリスト・ベンチャー投資家のSteve Harmonが自身のウェブサイトで公開しているので、紹介しておく。

Yahoo!創業時の様子を伝えるSteveのサイト:

SteveHarmon







初期のYahoo!の画面:

First Yahoo!







出典:いずれもsteveharmon.com

ビル・ゲイツは慈善活動に専念。今度伝記を紹介するスティーブ・ジョッブスは亡くなり、現役でバリバリはアマゾンのジェフ・ベソスくらいか。

一つの時代が終わったという感じだ。


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2012年01月13日

MI4 ゴースト・プロトコル 文句なく楽しめる娯楽大作 

正月休みに MI4ゴースト・プロトコルを見た。昔の007シリーズのように、アクションシーンの連続で、最高に楽しめる娯楽大作だ。



MI(ミッション・インポッシブル)は昔「スパイ大作戦」というタイトルでテレビ放映された人気ドラマのリメークというか、発展版だ。なつかしい映像がYouTubeに収録されている。



MI4の中には昔のMIの定番の変装シーンもあるが、全編にわたって強烈なアクションシーンの連続で、まさに息をつく暇もないという感じだ。

若干勢いは落ちたが、一時のドバイ経済の発展を反映して、今回はドバイの世界で最も高いホテルで130階のサーバー室に潜入するというアクションシーンをトム・クルーズが演じている。

そのメイキング映像も予告編として公開されている。



またBRICS経済の伸びを反映して、今回はボリウッドとの共演ということで、インドでのロケや、インドの有名俳優も出演しているのも特徴の一つだ。

このブログで紹介した「スラムドッグ★ミリオネア」にクセのある司会者役で出演していたボリウッドの大スター アニール・カプールがインドの富豪役で登場している。



映画のあらすじは、いつも通り詳しくは紹介しない。文句なく楽しめる映画で、時間を忘れてしまうとだけ言っておく。

一見の価値がある娯楽大作である。


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2012年01月01日

野球人 落合博満が現役引退後すぐに書いた本

野球人野球人
著者:落合 博満
ベースボールマガジン社(1998-12)
販売元:Amazon.co.jp
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近々あらすじを紹介する落合の最新刊「采配」を読むにあたり、落合の書いた他の本も読んでみた。この本は1998年12月の発刊。落合が現役を引退したのが1998年10月だから、現役を引退してすぐに書いた本だ。

落合が長嶋巨人軍終身名誉監督に憧れて野球を始めたことは有名だ。この本では長嶋さんに対する敬意と感謝の念、王貞治さんへの尊敬が感じられる。


落合の現役時代

落合は昭和28年12月・秋田県生まれ。筆者と同学年で、同じ学年には梨田がいる。秋田工業高校を卒業後、東洋大学に入学したが、下級生を鉄拳制裁する野球部の体質に嫌気がさして野球部を退部。大学も中退して、秋田に帰ってボウリングのプロボーラーを目指していたが、社会人野球の東芝府中にさそわれて入社する。

東芝府中はあまり強いチームではなかったが、それでも都市対抗野球3回出場、アマ全日本代表で活躍し、1979年ロッテにドラフト第3位で指名される。

プロに入って1年目、2年目はたいした活躍ができなかったが、3年目にパリーグの首位打者となり、それ以降首位打者争いの常連となり、1982年、1985−6年と3度、三冠王を獲得する。

1987年にロッテが稲尾監督を解任し、嫌気がさしていたところ、星野監督が落合をどうしても欲しいと言いだし、1対4のトレードで中日に移籍。中日で7年間プレーした後、長嶋監督が周囲の反対を押し切って落合を獲得、3年間巨人の4番としてプレーする。巨人の最初の年こそ3割を割ったが、そのあとの2年間は打率は3割を超えていた。

長嶋監督からは、「数字的な成績はいいに越したことはないが、あまり気にしていない。それよりも、巨人の選手たちに戦う姿勢を植え付けてくれ」と言われたという。

この言葉ではじめて「自分の成績はどうでもよい。チームの勝利が第一です」という言葉がはじめて本心から言えるようになったのだと。

落合が巨人に移籍してきた1994年は落合自身はケガに悩まされたシーズンだったが、優勝を決める試合でホームランを打って、渡辺恒雄オーナーは「あのホームランは一本で何億円という価値があった。やはり落合君を獲得したことは正解だった」とコメントしていたという。

西武から清原が移籍してきて、落合か清原かで長嶋監督が悩む顔を見たくないとして、自ら日本ハムに移籍した。2年間プレーして1998年のシーズン限りで引退した。

この本の末尾に落合の現役時代の記録が載っている。

落合記録






出典:本書260ページ

日本ハムを引退したのは、落合の起用法について首脳陣と野球観の違いに苦しんだためだと語る。そして選手としてユニフォームを脱ぐことになるが、いずれまたユニフォームを着ることがあると思うので、「野球人 落合」は引退しないと宣言している。


落合十番勝負

この本では「落合十番勝負」ということで、転機となった勝負を紹介している。そのいくつかを紹介しておく。

十番勝負その1.一流の道は、小さなチャンスから始まる

落合がロッテに入団して1年目に、アッパースイングを酷評され、ロッテの山内監督から指導を受けた。ところが落合は「自分の思い通りにやって打てなかったらクビで結構ですから、俺のことは放っておいてください」とタンカを切って、山内監督の指導を断ってしまった。

そもそもプロ野球に入った時の目標は3年間はユニフォームを着ることだったので、フォームを変えてゼロからやり直す時間はないという切迫感からの言葉だったのだろう。

2軍でくすぶっている落合の転機となったのは、2年目のキャンプで先輩の手首の使い方を真似たことと、イースタンリーグの試合で、2軍で調整していた佐藤道郎投手のキレのある球をホームランにしたことだったという。

筆者も記憶にあるが、落合は「神主打法」といわれた体の前にバットを構える独特のフォームで、右にでも左にでも打ち分けられる、やわらかい手首の使いかたが印象的だった。

落合の現役時代のことを知っている人も少なくなってきているので、YouTubeの落合の現役時代のホームラン映像を紹介しておく。



一流投手と対戦したいという気持ちがモチベーションとなり、それ以来5試合連続ホームラン、一軍に昇格してすぐに鈴木啓示から代打ホームランを打って一軍に定着した。

落合の原点はこの佐藤道郎さんからのホームランなのだと。


10番勝負その2.タイトルや格は選手を育てる。

落合は1981年の3年目のシーズンは一軍スタートで、セカンドのポジションを狙って必死に練習し、試合でも4打席で1フォアボール、3打数1安打を目安に、安打を積み重ね、石毛、島田との競争に勝って首位打者のタイトルを獲得した。

阪急の山田久志からは一本もヒットを打てていなかったが、ロッテが前半戦に優勝し、オールスターに選ばれ、パリーグの4番として起用された勢いもあって、後半戦は山田久志から連続してヒットを打ち、首位打者に躍り出た。

山田久志のシンカーを下からすくうように打つのをやめて、上からたたくよう打ったら打てるようになったという。

ちなみにこの年の落合の年俸は540万円。ラーメンライスばかり食べていたので、心身ともに疲れがピークとなり、一時は打率を落としたが、ライバルも打率を落とし、最初の首位打者のタイトルを獲得した。

タイトルや格は選手を育てるのだと。


10番勝負その3.三冠王とトレードが、プロでの生き方を決めた

1986年はプロ野球選手としての評価は年俸で示してもらうことを決意した重要なシーズンだったという。

落合の年俸は次の通りだ。(カッコ内は前年の成績)

1981年          540万円
1982年(首位打者)  1,500万円
1983年(三冠王)   5,400万円
1984年        5,900万円
1985年(タイトルなし)5,900万円
1986年(三冠王)   9,700万円、
1987年(三冠王、中日移籍)1億3千万円(日本人初の1億円プレーヤー)

落合が三冠王を獲得できるという自信をつけたのは、ホームランを量産するコツをつかんだからだという。

落合がポール際に大きなフライを打つ場面をみたことがあるかと落合は問う。最近、横浜のGMに就任した元巨人の高田はポール際の大ファールで有名だったが、たしかに落合のポール際の大ファールはあまり記憶がない。実はレフトへはスライスボール、ライトへはフックボールを打つ打法を身につけたからホームランが増えたのだと。

いろいろな角度でバットを出す練習を繰り返し、このような打球になる角度を体に覚えさせた。野球には感性を磨くことも必要なのだと。

ホームランが量産できるようになったもう一つの理由は奥さんの何気ない言葉だったという。ブーマー、ソレイタ、門田などのホームランバッターはみんな太っている。「だからあなた太りなさいよ」と、毎回食べきれないほどの料理が出で、体重はすぐに75キロから80キロを超えたという。


10番勝負その4.たったひとつの結果が打撃を狂わせた

この告白が一番面白い。

3度目の三冠王となった1986年のポストシーズンではメジャー・リーグ選抜が来日し、落合が4番を打つ全日本と対戦した。

その第3戦で、21勝を挙げたデトロイト・タイガースのジャック・モリスと対戦し、ストレートをバットの真芯でとらえた打球は手ごたえも十分で、スタンド入りすると思ったが、フェンスの前で急に失速し、センターフライになってしまった。

メジャーは力対力の勝負なので、全力で打ち返すが、日本野球は10のうち5の力で打ち返す。力いっぱいスイングするより、無理のないスイングでボールをとらえた方がいい打球を飛ばせる可能性は高いからだ。

落合はメジャーとの試合で、完全にペースを崩され、それ以降10の力で打つようになってしまい、日米野球は2割6分、長打は2塁打1本だけという結果に終わった。

翌期から中日に移籍したが、これ以降の12年間は落合本来のバッティングを取り戻す戦いで、結局引退するまで取り戻すことはできなかったという。長い時間をかけて築き上げてきたものが、たった1週間で崩れてしまう。技術の奥深さと人間のもろさを感じたという。

やはり力みすぎるとプロでも結果は良くないのかもしれない。


10番勝負その6.試合の流れを読んで奇跡を起こす

評論家が「落合は打席の中での読みが鋭い」と解説しているのをよく聞いたが、落合は「ヨミ」は一度もしたことがない。そんな努力をする時間があれば、すべてバットを振ることのために割いてきたという。

こんなコースにこんな種類のボールが来たら、こう打てばよいということを体に覚えさせたのだ。9,000打席以上投手と向かい合ってきたなかで、次は間違いなくこのボールが来ると思ったことは一度もない。もしそんなことをしようとしていたら、幾度となく頭部を襲ってきたボールに当たって、野球人生はとっくに終わっていたはずだと。


10番勝負その10.節目の記録を本塁打で決める理由

落合が節目になる記録をホームランで決めたのは偶然ではなく、落合のバッティングはすべてホームランを狙っているからだと。

落合がすべての打席でホームランを狙っているというのは、スラッガーの使命のようなものだという。投手との戦いを熟知して、どんなボールでも確実に打ち返せるように精度を高め、少しでも捉えやすいボールを投げされるための構え、呼吸、間の取り方を研究してきた。

その結果ホームランにできるスイングのバリエーションを多く持つことができた。ホームランの打ち損ねがヒットになるというバッティングをするのだと。

プロ野球でスラッガーと呼ばれた人はほぼこの考え方で打席に入っていたと確信しているという。王貞治さんは「ヒットの延長がホームラン」と言っていたが、それは表現の違いだと思っているという。


落合の理想のチーム

最後に落合は「理想のチーム」ということで書いている。その項目だけ紹介しておくと。

・ファンにストレスを与えない野球をやる
 ちなみに長嶋さんの野球は試合を見に来るファンを大切にして、135試合すべて勝つという采配だったという。しかしこれでは選手、とくに投手のスタミナが持たないという。

・相手の嫌がる野球ができるチームにしたい

・1点を大事にする野球

・セオリーを大事にする野球ー外人以外は外角低めに投げる

・野手はできるだけ固定して戦う

・勝つ野球をやるか、お客さんが喜ぶ野球をやるか

・ヘッドコーチはいらない

・1軍と2軍のコーチの役割はまったく異なるから2軍には優秀なコーチを置きたい

・4番には日本人の頼れる打者を据えて打線を組む

・捕手は固定する


今季リーグ優勝した中日が理想のチームにかなり近いと思う。しかし、リーグ優勝していながら中日と契約更新できなかったのは、上記の「勝つ野球をやるか、お客さんが喜ぶ野球をやるか」の問題にうまく対処できなかったことが原因だと思う。

もっと言うと、落合監督の中日では人気が出ず、観客動員数も2008年をピークに年々落ちていたことから、球団側がもっと観客の呼べる監督に変えたがったのだと思う。

ネットで調べたら12球団の観客動員数のグラフを載せているブログがあったので、紹介しておく。

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出典:新プロ野球観客動員ランキング速報

いずれ落合はまたユニフォームを着ることになると思うが、(筆者が懸念しているのは、落合が中国のナショナルチームの監督にスカウトされることだ)。次も理想のチームをつくれるのか、今から楽しみである。


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Posted by yaori at 23:08Comments(0)TrackBack(0)