2013年09月29日

【再掲】ロスジェネの逆襲 次の半沢直樹はこのストーリー

2013年9月29日再掲:

TBSドラマの「半沢直樹」が好評裏に9月22日に終了した。最終回の視聴率は関東地区で42%、関西地区では45%を記録したらしい。

大変面白いテレビドラマで毎週日曜日夜9時に見ていたので、今週からはなにか張り合いがなくなったような気持ちだ。

是非次作を期待したい。

「半沢直樹」シリーズの次作は、このブログで紹介した「ロスジェネの逆襲」になるだろう。再度紹介しておく。

2013年6月10日初掲:

ロスジェネの逆襲ロスジェネの逆襲
著者:池井戸 潤
ダイヤモンド社(2012-06-29)
販売元:Amazon.co.jp

「下町ロケット」で直木賞を受賞した池井戸潤さんの半沢直樹シリーズ第3弾。

7月7日からTBSの東芝日曜劇場で、「半沢直樹」としてドラマが放送され、次の2冊がドラマの原作となった。

オレたちバブル入行組 (文春文庫)オレたちバブル入行組 (文春文庫)
著者:池井戸 潤
文藝春秋(2007-12-06)
販売元:Amazon.co.jp

オレたち花のバブル組 (文春文庫)オレたち花のバブル組 (文春文庫)
著者:池井戸 潤
文藝春秋(2010-12-03)
販売元:Amazon.co.jp


池井戸さんによると、日本のビジネスマンには次の3つの特徴的な世代があるという。

団塊世代   : 1947〜1949年に生まれた第一次ベビーブーマー世代。バブル生みの親?

バブル世代  : 1980年代後半〜1990年代はじめに大量採用された人々。お荷物世代、穀つぶし世代ともいわれる。

ロスジェネ世代: バブル崩壊後、1994〜2004年の就職氷河期に社会に出た人たち。バブル世代の管理職にこき使われている。

この本ではバブル世代に銀行に入社した半沢直樹が、合併・統合を経てメガバンクとなった東京中央銀行の子会社の東京セントラル証券に、部長として出向し、IT業界の買収劇に巻き込まれるというストーリーだ。

ロスジェネとは、買収劇に巻き込まれた東京スパイラルの瀬名社長と、半沢の部下の東京セントラル証券のプロパー社員・森山のことだ。

瀬名と森山は私立の中高一貫校で一緒だったが、バブルがはじけて株価暴落のために瀬名の父親が破産して自殺したため、瀬名は私立高校を辞め、高卒でIT関連企業に就職した。

就職先が倒産した後、瀬名は自分のプログラム技術を生かして友人をさそって起業し、今やIT企業の社長として注目される人物となっていた。

対する森山は、就職氷河期にぶちあたり、なんとか東京セントラル証券に就職できたが、親会社の銀行からの出向者の上司にこき使われ、理不尽を感じている毎日だった。

瀬名の東京スパイラルは、経営陣の内紛から、敵対的企業買収が仕掛けられる。

半沢の東京セントラル証券は、当初その買収計画のアドバイザー契約を獲得する予定だったが、思わぬ展開でカヤの外に追いやられる。

そんな時に、森山は、旧友の瀬名に突然電話を掛ける…。

「やられたら倍返し」という半沢直樹のモットー通りの展開が心地よい。

楽しめる企業小説である。


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2013年09月14日

ブラック企業 若者を使い捨て、日本の将来を危うくする企業

ブラック企業 日本を食いつぶす妖怪 (文春新書)ブラック企業 日本を食いつぶす妖怪 (文春新書)
著者:今野 晴貴
文藝春秋(2012-11-19)
販売元:Amazon.co.jp

若者を使い捨て、日本の将来を奪うブラック企業についての本。

著者の今野さんは、中央大学法学部在籍中の2006年に学生や社会人を中心にNPO法人POSSEを立ち上げ、労働関係に関する相談を1,500件以上も受付けているという。

NPO法人POSSEでも「ブラック企業に負けない」という本を出している。

ブラック企業に負けないブラック企業に負けない
著者:NPO法人 POSSE
旬報社(2011-09-26)
販売元:Amazon.co.jp

あまり新しい情報はないが、ブラック企業に関する情報がよくまとまっている。大体の内容がわかると思うのでここをクリックして、目次を見てほしい。

このブログでは基本的に個別企業の例は挙げない。この本の目次を見ればわかるし、ブラック企業大賞というようなイベントも開催されており、これに名前が出てくるような企業がこの本でも取り上げられている。



今野さんが挙げるブラック企業のパターンは次の通りだ。

1.大量募集
初めから残業代を含んだ月収を公表して、報酬を誇張する手口や、「正社員」ということで学生を引き付け、実は「試用期間」の間に選別するという手口がある。

2.選別
入社後も選別が続き、資格を取れない者、店長になれない者は自発的に辞めざるを得ない環境に追い込む。選別に耐えられず自殺してしまった人もいる。そして選別からの脱落者を追い込む手口が、今野さんが「戦略的パワハラ」と呼ぶ、職場全体でパワハラを行い自発的に辞めざるをえないように追い込むものだ。

3.使い捨て
「営業手当」などという名目で、一定の手当てを払う代わりに残業代を払わない手口や、「裁量労働制」として年俸制にするなどで、残業代を払わない手口だ。マクドナルドなどで問題になった「名ばかり管理職」、「名ばかり店長」も同様だ。



36(サブロク)協定」の悪用で、異常な残業上限時間を決めるとか(たとえば月80時間以上で決めている例もあるという)で長時間労働を強いる。

そして「離職手続を取らせない」、「最終月の給与を支払わない」、「損害賠償請求で脅す」など、辞めさせないのもブラック企業の典型的パターンだ。

4.職場崩壊
セクハラがあったり、管理職がパワハラし放題。公私混同が激しい。整理整頓が全くできていないなど、職場崩壊もブラック企業の典型的なパターンだ。

ブラック企業の代表として取り上げられることが多いワタミの渡邉美樹社長の、「もう、国には頼らない」を以前このブログでは紹介した。



ブラック企業の代表格としてワタミが取り上げられるようになる前の2008年に書いたあらすじなので、渡邉社長以外の登場人物がほとんどいない等の変なサインには気づいているものの、従業員に対する姿勢は見破れていないところが残念に思う。

ただ渡邉社長の本はいろいろ読んだが、本に書いてあることは、まっとうで正しい主張が多い。しかし、会社経営理念は正しくても、働く人たちの福祉を考えない劣悪な労働条件では、世間からブラック企業と呼ばれることになるだろう。

たとえばワタミで早々に退社する人もいるが、順調に出世していく人も中にはいるはずだ。

この本を読むと、ブラック企業の実態がわかると同時に、なぜブラック企業が店長育成にこだわり、店長にふさわしくない者は早々にふるい落とすのか、ブラック企業側の理由もわかるような気がする。

結局外食産業や小売業などは、いわば「店長力」が企業の力なのだと思う。

現場の店長の接客、仕入れや販売促進キャンペーンなどの采配、アルバイトの使い方で、その店の収益や顧客満足度が変わる。その意味で店長は最も重要な役職で、店長にするために正社員を雇っていると言ってもよい。だから、店長にふさわしくない社員はどんどんふるい落とすのだと思う。

しかし、ふるい落とされる社員にとっては、堪ったものではない。人生が狂わされる結果となる。

企業は店長にとなれる人材を求め、社員はそこそこ働いて人並みの給料がもらえる待遇の良い職場を求める。企業と社員の期待のミスマッチ、それがブラック企業問題のすべてだろう。

今野さんを含め、マスコミなどがいくらブラック企業の実態を報道し、ブラック企業大賞などで、世間の注目度を上げても、ブラック企業とわかっていながら、それでも入社する若者はなくならないと思う。

成功したい、野心のある若者は店長、さらにはその上を目指す。実態がある程度分かった上で、入社するのであれば、もはや外部から言うべきことはないと思う。

この本に書かれているのは一部の実態だと思うが、若者がブラック企業に入社するのであれば、前もって、一部の実態は分かっておいてほしい。

その意味では、この本を読んだり、YouTubeで「ブラック企業」や「今野晴貴」で検索すると出てくる次のような映像を見て、その上で採用応募の判断をすることをお勧めする。




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2013年09月13日

【再々掲】 「トルコ 世界一の親日国」 次はイスタンブールを応援しよう!

2013年9月13日再々掲:

2020年のオリンピックが東京に決まった。筆者の最初の駐在地・アルゼンチンのブエノスアイレスで、東京開催が決定した時に、真っ先に祝福してくれたのは、最後まで東京と争ったトルコだった。

決選投票を会場で見守っていたエルドアン首相は安倍首相に近寄ってハグで祝福してくれた。

本当にトルコは親日国だと思う。



次は是非イスタンブールがオリンピック招致に成功して欲しいと思う。トルコに対する応援の気持ちも込めて「トルコ 世界一の親日国」のあらすじを再々掲する。


2013年5月3日再掲:


猪瀬直樹東京都知事の海外出張中のトルコやイスラム中傷発言で、オリンピック招致レースでの東京の立場がゆらぐ恐れがある。

本日トルコを訪問中の安倍首相は、トルコ政府と国民に、「どちらが勝ってもお互いに万歳しよう」と呼びかけ、修復を図っている。

時宜にかなったアクションだと思う。

トルコは世界一の親日国と言われている。

まさに安倍首相が提案するように、東京も招致レースではベストをつくすが、結果としてイスタンブールが勝ったら、日本も心からお祝いを言おう!

この意味を込めて「トルコ 世界一の親日国」のあらすじを再掲する。


2010年3月29日初掲:

トルコ世界一の親日国―危機一髪!イラン在留日本人を救出したトルコ航空トルコ世界一の親日国―危機一髪!イラン在留日本人を救出したトルコ航空
著者:森永 堯
販売元:明成社
発売日:2010-01
クチコミを見る

今年は「トルコに於ける日本年」とされており、日本とトルコ各地でイベントが開催されることになっている。

トルコに於ける日本年







大前研一さんの「衝撃!EUパワー」を前回紹介したが、その中でもトルコが将来EU加盟が認められると、EUの競争力の秘密兵器となることが説明されている。

またトルコが世界一の親日国であることも、大前さんの本で紹介されている。


トルコが世界一の親日国だともっと早く知っていれば…

筆者はこの本を読んで、「もっと早くトルコが世界一の親日国だった事を知っていれば…、。」と悔やむことがある。

実はピッツバーグ駐在時代に筆者の家の三軒隣に、フットボールのピッツバーグスティーラーズの昔の花形ディフェンスプレーヤーで、今はテレビのスポーツレポーターなどをやっているトーンチ・イルキン(Tunch Ilkin)の一家が住んでいたのだ。

Tunch Ilkin近影
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Tunch Ilkinの現役時代
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出典:いずれもWikipedia

Tunchのフットボールコーチング映像



最初その家に移った時に、トーンチと奥さんのシャロンが挨拶に来てくれて、「自分はトルコ人だ。なんでも困ったことがあったら言ってくれ。是非遊びに来てくれ。」と言ってくれたのだ。

当時はトルコ人が世界一の親日家だとは知らなかったので、なぜ「自分はトルコ人だ」などと言うのか不思議に思っていた。

トーンチの家の庭には子どもの遊び場もあったので、筆者の子どもたちはトーンチの家によく遊びに行っていたし、おやつもごちそうになったりしていた。

しかし家に招いたりというつきあいはしていなかったのだが、今になってこの本を読んで、なぜトーンチが「自分はトルコ人だ」と言っていたのかわかった。

トルコは世界一の親日国なのだ。そしてトーンチのような2歳でアメリカに移住して、言われなければトルコ人とわからない人でも、日本に対する親愛の情があったのだ。

実に悔やまれる。

もっと彼と彼の家族と親しくしていれば良かったと今更ながら思う。

そんなことを思い起こさせるのが、この本だ。


筆者の森永堯さんは元伊藤忠商事でトルコ駐在16年

この本の著者の森永堯(たかし)さんは、元伊藤忠商事で、トルコ駐在歴16年というトルコ通だ。

トルコにはアンカラとイスタンブールに駐在し、二度目のアンカラ支店長発令の時は、伊藤忠の当時の社長から「トルコは君に任せる」と言われたそうだ。

人脈も広く、とりわけトルコの故オザル首相(後に大統領)と彼の無名時代から親しく、オザル首相のいわば「私設日本関係補佐官」となって、いろいろ日本とトルコのビジネスと友好関係を促進したという経歴の持ち主だ。

筆者も商社マンではあるが、昔アルゼンチンでの研修生時代には、「その国の大統領になるような人材と親しくなっておけ」と言われたものだ。森永さんはまさにそれを実現しており、商社マンの鑑ともいうべき人である。

さらにビジネスの実績もスゴイ。日本の製造業のトルコ進出第一号のいすゞ自動車のトルコ工場建設を決めたり、日伊トルコのコンソーシアムで第2ボスフォラス大橋を受注したり、自分のコネをフルに活用してビジネスにつなげている。

社長から「トルコは君に任せる」と言われるだけの実績がある。


1890年のエルトゥールル号遭難事故

トルコ人が日本人に対して特別の感情を持っているのは、古くは1890年のオスマントルコの軍艦エルトゥールル号が台風のために和歌山沖で遭難し、串本町大島の住民の必死の救援で69名が助かった(600名弱が死亡)ことに端をを発するという。

明治天皇は串本町の住民の命がけの救援活動を高く評価し、助かったトルコ水兵を日本の軍艦でトルコまで丁重に送り届けた。

その後日露戦争で日本がトルコの長年の宿敵ロシアに勝ったので、アジアの同胞が憎いロシアを倒したということで、トルコ人の日本人への尊敬の気持ちがいよいよ強くなったのだ。

近代トルコ建国の父、ケマル・アタチュルク大統領の執務室には明治天皇の写真が飾られていたという。

このような明治時代の話を、日本人は忘れてしまっているが、先方の国民は覚えているという例は他でもある。

たとえば筆者の駐在していたアルゼンチンは、日露戦争の直前に「日進」、「春日」という自らがイタリアの造船所にオーダーしていた戦艦を日英同盟による英国の働きかけもあって日本にゆずり、その2隻が日本海海戦で活躍したという歴史がある。

昔の筆者も含めて日本人はこのことを知らない人が多いと思うが、アルゼンチンでは日本との文化交流などの機会には、この話が紹介されることが多い。

おまけに日本にはシニアを中心にアルゼンチンタンゴの愛好家が多いということで、文化面でもアルゼンチン国民は親しみを感じており、日本人のタンゴ歌手の藤沢嵐子(らんこ)さんやバンドネオン奏者(最近では小松亮太さんという人が有名のようだ)は有名だ。

今回のトルコが世界一の親日国であるということも含めて、世界の国民には親日派もいるという事実を日本人はもっと知っておくべきだろう。


1985年のトルコ航空機によるイラン在住日本人救出

そしてそんなトルコ国民の日本人への敬意が、1985年のイラン・イラク戦争の時のトルコ航空機によるイラン在住日本人の救出につながった。



1985年、イラン・イラク戦争末期の頃、イラクのサダムフセインは、イラン上空を飛ぶ飛行機は民間機でも攻撃の対象となると発表した。各国の駐在員は自国の飛行機で先を争って帰国したが、日本航空は「安全の保証がない」ということで、組合の反対もあり飛行機を飛ばさなかった。

当時は内閣専用機もなく、日本の駐在員とその家族は途方にくれていたときに、日本人向けに特別機を派遣してくれたのがトルコ航空だ。

その裏には、テヘランでトルコ大使に救援を要請した野村大使と、伊藤忠本社の指令を得て、懇意のオザル首相に頼み込んだ伊藤忠イスタンブール支店長の森永さんがいたという。

プロジェクトXでもこの話は第135回 「撃墜予告 テヘラン発最終フライトに急げ」(イラン・イラク戦争での邦人脱出劇・トルコ航空)ということで、2004年1月27日に放送された。

実は筆者の先輩の柔道部の三本松進さんが、当時通産省からイラン大使館に赴任しており、プロジェクトXで三本松さんが出てきた時にはびっくりした記憶がある。

ウィキペディアでは「七帝戦」>「超弩級」の項目で、三本松さんも紹介されている。

モントリオールオリンピック金メダルの上村春樹・現・全柔連会長に一本勝ちした(!)ことが紹介されている。さらにびっくりした。

筆者も含めてトルコに助けて貰ったことを日本人の多くは忘れているだろうが、小泉元首相は2006年1月のトルコ公式訪問にあたり、日本人救出の話を聞いて「感動し」、当時のトルコ航空関係者などトルコ側11人に叙勲を決めた。

普通は外国人の叙勲者は年間20名程度しかいないのだが、その20名に加えてトルコ航空関係者の11を叙勲の対象にしたのだ。

良い話だと思う。


今からでも遅くない世界一の親日国トルコ再認識

筆者が体験したトーンチ・イルキンの話のように、日本のことを心底好いてくれる国民は世界には少ない。

アルゼンチンも親日国だとは思うが、トルコのように実際に人命救助という行動で表してくれた国は他にはないのではないか。

大前さんの本にもあるように、トルコはEU加盟交渉を既に20年も継続して行っている。またEUの前身のEECには1963年に準加盟国として協定を結んでいる。

欧州の一員になることは建国の父ケマル・アタチュルクの国家戦略一つであり、いずれはEUに加盟する可能性が高いと思う。経済もBRICsに次ぐVISTAの一国として発展している。

伊藤忠商事がコンソーシアムの一員として参加した第二ボスフォラス大橋の工事は、予定より半年も前に完成したという。日本人とトルコ人の組み合わせは最強なのだと著者の森永さんは語る。

政治的にも経済的にも重要な国である。

冒頭に記した通り、2010年は「トルコに於ける日本年」だ。トルコ国内では様々な日本紹介イベントが予定されていると聞く。筆者はまだトルコには行ったことがないので、是非近い将来トルコに行きたいと思っている。特にカッパドキアは是非見たい。

Cappadocia






出典:Wikipedia

是非この機会に多くの日本人がトルコを訪問し、トルコの人たちとの交流を深めたいものだ。

まさに2010年、「トルコに於ける日本年」にふさわしい本である。簡単に読めるので、是非一読をおすすめする。


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2013年09月11日

【再掲】希望の祭典・オリンピック オリンピック成功の鍵はIOC委員の心をつかむこと

2013年9月11日再掲:

東京オリンピック2020が正式に決定した。お祝いにボランティアとしてオリンピック活動に長年携わってこられた原田知津子さんの「希望の祭典・オリンピック」を再掲する。

滝川クリステルさんの「お・も・て・な・し」のように、IOC委員個人の心をつかんだことが、東京オリンピック招致に成功した要因だと思う。




2012年9月10日初掲:

希望の祭典・オリンピック 大会の「華」が見た40年希望の祭典・オリンピック 大会の「華」が見た40年
著者:原田 知津子
幻冬舎ルネッサンス(2012-07-18)
販売元:Amazon.co.jp
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IOC委員の世話役のコンパニオンやオリンピック選手団役員を40年間勤めた原田知津子さんの本。実は原田さんは、筆者の友人のお母さんだ。

原田さんはオリンピック選手団役員として1960年のスコーバレー・オリンピックからオリンピックに参加し、1964年の東京オリンピックでは、国際オリンピック委員会=IOC委員の世話をするコンパニオンのリーダーとして約40名のコンパニオンを統率した。1998年の長野オリンピックまで実に40年間もコンパニオンや選手団の世話役としてオリンピック開催に貢献された経歴を持つ。

オリンピック以外でも、グッドハウスキーピング教室を自宅で開催されており、数百人の生徒を教え、「快速家事」など5冊の本を書かれているスーパーレディだ。

ゆとりの3Sライフ (快速家事)ゆとりの3Sライフ (快速家事)
著者:原田 知津子
文化出版局(1991-10)
販売元:Amazon.co.jp
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ちなみに原田さんのハウスキーピングクラスの教え子で、フルート奏者の山形由美さんが、ブログで原田さんのことを紹介しているので、参照して欲しい。


コンパニオン(アシスタント)の役割

国際オリンピック活動では、日本を訪れるIOC委員を心から歓迎し、多忙な日程のなかでも日本を理解し、日本に親近感を持ってもらうことが、将来のオリンピックの日本誘致やIOCにおける日本の発言力の強化につながる。

IOC委員や委員夫人にアテンドして日本滞在中の予定をスケジュール通りこなす一方、日本と日本文化の理解を深め、親しみを持ってもらうようにするのがコンパニオンの重要な役割だ。英語やフランス語などのバイリンガルであることは必要条件の一つで、あとは教養や人柄なども必要条件だ。

コンパニオン(現在はアシスタントと呼ぶ)はボランティアで、勤務条件は次のようなものだ。

1.報酬:無償
2.旅費:IOCメンバーと行動をともにした旅費は事務局が負担。それ以外は自費
3.宿泊:事務局が手配
4.食事:業務が食事時間にかかる場合は支給
5.被服:事務局が支給または貸与
6.期間:オリンピック開催期間、大体3週間程度
7.勤務地:空港出迎え→オリンピック会場移動→大会開催→閉会後空港見送り

東京オリンピックでは約40人、長野オリンピックの時は170人のコンパニオンが、IOC委員や委員夫人のアテンドにボランティアとして駆り出された。これらのコンパニオンは公募せず、すべて原田さん、元NHKアナウンサーの磯村尚徳夫人で、フランス語が堪能な磯村文子さんの二人の人脈で選んだという。

巨人軍の長嶋終身名誉監督の亡くなった奥さんの長嶋亜希子さんも、東京オリンピックの時からのコンパニオンの先輩として、長野オリンピックにもボランティアの助っ人として参加したという。

ちなみに長嶋亜希子さんは、「私のアメリカ家庭料理」という本を出している。亜希子さんは、ミネソタ州の聖テレサ大学というところを卒業している。米国中西部の料理が多いのかもしれないが、どんな米国料理を紹介しているのか興味があるので、一度こちらも読んでみる。

私のアメリカ 家庭料理私のアメリカ 家庭料理
著者:長島 亜希子
文化出版局(1991-04)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

原田さんの経歴

原田さんは1922年生まれ、お父さんの仕事の関係で11歳までカナダのトロントで過ごし、日本に帰国後、東洋英和女学院、聖心女子大学英文科を卒業してNHKに就職した。今年で90歳になるはずだが、文筆に年齢はまったく感じられない。原田さんがオリンピックのコンパニオンとして貢献された40年余りの経験とエピソードを淡々と、読みやすい文章で語っている。

原田さんの亡くなったご主人は原田敬策さんという元男爵で、西園寺公望の懐刀と言われた原田熊雄男爵の長男だ。原田熊雄は、吉田茂、近衛文麿、樺山愛輔などと一緒に「ヨハンセン・グループ」として、戦争の早期終結を模索した一人だ。

原田さんと夫になる原田敬策さんが知り合ったのは、1945年12月の友人のダンスパーティだったという。1947年3月に行われた結婚式の披露宴は日比谷の日本工業倶楽部で、ウェディングケーキとビュッフェ形式の食事、新郎の原田敬策さんのハワイアンバンドが演奏して、来客がダンスを踊り、それ以来、日本工業倶楽部はダンスパーティで有名になったという。終戦直後の食料危機を完全に超越している生活があったのだ。

原田敬策さんは、白洲次郎が設立した貿易庁に務めた後、三菱商事の前身の協和交易に入社し、それ以降三菱商事で勤務された。原田さん自身は結婚を機にNHKを退職し、その後は外務省の要請で英文同時速記者の資格を取って、パートタイムで国際会議の英文速記をやっていた。


竹田宮の依頼でオリンピック活動に参加

原田さんとオリンピックとのつきあいは、家族ぐるみで親しくしていたスポーツの宮・竹田宮恒徳(つねよし)王からの紹介で、JOC会長でIOC委員でもあった東龍太郎さん(後に東京都知事になる)に会い、1958年に東京で開催されたIOC総会にIOC委員や夫人にアテンドするコンパニオンを集めてくれないかという依頼を受ける。

原田さんはバイリンガルの良家の子女・夫人を20名ほど集めて協力した。この時のメンバーは山本権兵衛の孫の山本貴美子さん、重光葵元外相の娘・華子さん、道面味の素社長夫人、若杉元ニューヨーク総領事夫人、NHKのキャスターの磯村尚徳夫人の文子さんらだったという。

日本でのもてなしに感激したIOC委員たちが、翌年のミュンヘンIOC総会で、1964年の夏季オリンピック開催地を大差で東京に決定するという結果となった。

これがきっかけで、原田さんは日本オリンピック協会=JOCの依頼で、各地で行われるIOC総会やオリンピックなどの公式イベントにIOC委員のアテンド役やオリンピック選手団の正式な役員(シャペロン=世話係)として参加するようになった。


オリンピックに役員として参加

原田さんが最初にオリンピックに参加したのは、1960年のスコーバレー冬季オリンピックで、日本選手団の団長は、当時の日本スキー連盟会長で、種なしスイカの発明者の木原均さんだったという。スコーバレーオリンピックでは、ウォルト・ディズニーと近づきになれたのがうれしかったという。

その後インスブルック冬季オリンピックでもシャペロンとして参加、そして1964年の東京オリンピックではコンパニオンのリーダーとして大会の成功に貢献した。


ミスター・アマチュアリズム

原田さんがアテンドしたミスター・アマチュアリズム、当時のIOCブランデージ会長のエピソードも面白い。

ブランデージ会長は、開会式に天皇陛下に開会宣言をお願いするために、テープレコーダーを部屋に持ち込んで「謹んで(つつしんで)、天皇陛下に、開会宣言をお願い申し上げます」という日本語を必死になって覚えていた。

一切ショー的なものを嫌ったブランデージ会長は、開会式では浴衣姿の盆踊りや小学生のマス体操をショー的すぎるとして中止させたという。マス体操に参加する予定で、数か月前から練習していた原田さんの次男(筆者の友人)もこれにはがっかりしたという。

開会式、閉会式のショーが話題を集め、NBAのプロバスケットボール選手も参加する今のオリンピックとは全く別物の純粋アマチュアリズムの考え方だ。

東京オリンピックでは開会式でオリンピック賛歌を演奏し、これがそれ以降のオリンピックのならわしとなった。自衛隊のブルーインパルスが五輪の雲を描いたことも、それ以降のオリンピックでマネされるようになったという。




清川IOC委員の秘書役

東龍太郎氏の次のIOC委員の清川正二氏は、戦前のロスアンジェルスオリンピックの背泳の金メダリストで、IOC副会長と、競技大会へのIOC代表という要職をこなした。ブランデージ会長の後を継いだアイルランドのキラニン卿、その後のスペイン出身のサマランチ会長の信任が厚かったという。

清川さんはオリンピック開催中は、前日の競技報告書を2−3ページにまとめて、サマランチ会長はじめIOC委員に翌日届けるという仕事を毎日やっており、原田さんは秘書としてタイプとレター配布したという。


ロス五輪を黒字化したユベロスの手腕

1984年のロサンゼルスオリンピックでは、大会組織委員会のユベロス会長が極端なコスト削減策と、収益改善策を導入し、オリンピックとして初めて黒字になった大会となった。

建設費をかけずに既存の施設を改修して使い、選手村は夏の間空いているUCLAの大学寮を使った。巨額のテレビ放映料と、ボランティアの大量投入が黒字化のカギだった。ボランティアには制服が支給されたが、日当は昼食代の5ドルだけだったのには驚いたと原田さんは書いている。

そのほか、原田さんが参加したグルノーブル冬季オリンピック札幌冬季オリンピック、日本がボイコットしたモスクワオリンピックカルガリー冬季オリンピックソウルオリンピックなどのエピソードも興味深い。

原田さんが参加した最後のオリンピックは1998年の長野冬季オリンピックで、開会式で天皇陛下から「原田さん、東京オリンピックからずうっと、ですね」と声をかけられたときは恐縮したという。

原田さんの長年のオリンピックへの貢献に対して、IOCは原田さんと弟の平井俊一さんに2000年にオリンピックオーダー(五輪功労賞)を送った。


知っている人が出てきて親しみを感じる

実は筆者は山本権兵衛のひ孫の山本衛さんと、アルゼンチン駐在時代に知り合い、年賀状をやり取りしている。山本貴美子さんは山本衛さんの叔母さんだと思う。

東龍太郎さんは東大ボート部の出身だ。東一家は毎夏、西伊豆の東大戸田寮に来られていたので、寮委員の間では有名だった。

サッカー出身で元IOC委員の岡野俊一郎さんは、筆者が湘南高校のサッカー部に在籍していた時に、サッカーの指導で藤沢まで来られ、教えてもらったことがある。

サッカーのアクロバチックなプレーに、オーバーヘッドキックがあるが、岡野さんが体育館で手本を見せてくれたのには驚いた。湘南高校のサッカー部では誰もできなかったが、当時40歳くらいだった岡野さんはやすやすとこなしていた。



筆者の友人は原田さんの次男で、大阪オリンピック誘致事務局に出向していたことがある。オリンピック誘致のような活動では、筆者の友人は、お母さんの原田さんや叔父の平井さんの人脈が活用できたと思うので、まさに適材適所だったのではないかと思う。

この本を読むとIOC委員にアテンドしてお世話するとともに、日本の良さを知ってもらうコンパニオン活動の重要性がよくわかる。

個々のIOC委員との人と人のつながりが、日本のサポーターを増やし、それが結果として日本が東京、札幌、長野とオリンピックを3回開催することにつながったのだと思う。

前回、東京がオリンピック開催地に立候補したときに、石原都知事が将来のスタジアムを目の前に投影するバーチャルディスプレイゴーグルを視察団に見せて、日本の先進性と技術力を見せつけたと自慢していたが、筆者は何か違うのではないかと感じていた。

もちろん開催地決定はきれいごとばかりではない。政治的な思惑や、ソルトレークシティオリンピックで明らかになったように、過去には買収や過剰接待攻勢もあった。それでも原田さんの活動のように、ボランティアのコンパニオンが手分けしてIOC委員を心からもてなし、日本のサポーターとなってもらうというのが、本来あるべき姿だし、時間はかかるが、それが一番確実な道ではないかと思う。

いまどきそんな悠長なことはやれないのかもしれないが、もし東京が、あるいは日本のどこかの都市が本気でオリンピック誘致に乗り出すのであれば、少なくともIOCの有力委員には、原田さんたちのような人と人のアプローチが重要なのではないかと思う。

そんなことを考えさせられる本である。


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2013年09月07日

ライク・ア・ヴァージン リチャード・ブランソンの成功哲学



ヴァージングループ総帥のリチャード・ブランソンさんの成功哲学と、読者からの質問に答えるQ&Aをまとめた本。

ブランソンさんは現在でこそ「サー」・リチャード・ブランソンだが、バッキンガムの高校を中退して自分の雑誌を作り始めたころは、問題児だった。実は失読症と注意欠陥障害だったのだという。失読症(英語ではディスレクシア、Dyslexia)という病気の名前を初めて知った。

失読症とは、知的能力に異常がないにもかかわらず、読み書き学習に著しい困難を抱える障害である。トム・クルーズが告白して有名となり、レオナルド・ダヴィンチ、エディソン、アインシュタイン、ジャッキー・チェン、キアヌ・リーブスなども失読症だったという。

「マンガ・リチャード・ブランソン」という本にブランソンさんの子供のころの話が載っている。アマゾンの”なか見!検索”に対応しているので、ここをクリックして出だしのところを見てほしい。



ヴァージングループは現在世界に400社ある。ブランソンさんは高校を中退して「ストゥーデント」という雑誌の出版を始め、それからレコード店経営、レコード会社経営、さらには航空会社、フォーミュラ1レーシングチーム、宇宙旅行会社、失敗に終わったヴァージン・コーラなど様々な事業に乗り出していった。

この本では、自分の成功哲学を具体例を挙げて語るとともに、今まで受けた代表的な質問に対するQ&Aという形式で、ブランソンさんがヴァージングループの経営理念や、モーターボートでの大西洋横断、熱気球世界一周などの冒険に乗り出したことなどを自由に語っている。

この本はなんといっても翻訳がいい。いかにもブランソンさんが語っているような口ぶりで、頭にスッと入る。一部を引用しておこう。

「ぼくはだれかの下で働いたことがないので、この本は創業者の視点に立っている。でも、ここに書いたアドバイスは、企業で働くことの難しさに直面しているすべての人に当てはまるものだ。」

Q. 朝起きて、最初に考えることは?

A. 「普通の人と同じさ。『今何時かな?』って考えるよ。それから『どの国にいるんだっけ?』と。

Q. 朝、ベッドから起き上がる原動力となる言葉を一つ挙げると?

A. 「正確に言うと三つかな。『リチャード、いいかげん、起きなさい!』っていうグラスゴー訛りの妻の声だよ」

Q. 成功のカギとなる言葉を、三つ挙げてください。

A. 「ヒト、ヒト、ヒト」

Q. まだ手に入れたいものはある?

A. 「孫が欲しいよ。妻と一緒さ。どうか願いが叶いますように!」

Q. ヴァージン・ブランドを表現する単語を三つ挙げると?

A. 「革命的、おもしろい、お値打ち価格で質の高いサービス。最後のは単語じゃないけど、大目に見てもらえるかな」

というような具合で、テンポがよく軽妙だ。

参考になる話も多い。いくつか紹介しておく。


麻薬被害を減らす戦略

ブランソンさんは、もともと麻薬と戦うことが社会にとって最善の策だと思っていたが、「薬物政策に関する世界委員会」に加わったことをきっかけに考えが変わったという。

ポルトガルでは、2001年に薬物の使用と所持を非犯罪化し、ここ10年は麻薬犯を一人も刑務所に送っていない。ヘロイン使用者のための病院を設置し、注射や中毒治療用の合成麻薬剤メタドンを提供するとともに、医学的治療を施した。その結果、薬物使用者は大きく減少した。注射針を使いまわすことによるエイズも70%減少した。強盗の件数も大幅に減っている。

スイスも同様だ。通常は麻薬の使用者であり末端の売人でもあった中毒患者にヘロイン代替物を支給することにより、一般市民と麻薬組織とのパイプ役がいなくなったのだ。

ヴァージンでは他の国で成功した事例を研究し、どうすれば新しい市場に移植できるか考える。麻薬に対する戦いも同様だと。


CEOになりたいなら

CEOになりたいなら、会社のすべてを知り尽くす必要がある。ヴァージン・ブルー(今のヴァージン・オーストラリア)のCEOだったブレット・ゴドフレイは、幹部社員全員が航空会社のすべての業務を体験しなければならないというルールをつくった。ブランソンさんもチェックド・バゲージの積み込みをやって、整骨院に通うことになったという。

こうすることで、会社がどれだけ成長しても、適切な人材に仕事を任せられるようになる。部下が相談に来たときも、現場を直接知っていれば、適切なアドバイスができる。

それと、CEOは会社が振り出すすべての小切手に自らサインし、少なくとも6週間に1回はすべての発注書に目を通さなければならない。こうすることによって会社のお金の流れがわかる。

ブランソンさんはヴァージングループでも長年これを続け、半年のうち1か月はすべての小切手にサインする。グループ会社の社長にも同じことを求めているのだと。

会社のお金の流れをつかむというのは、基礎的だが重要なことだ。筆者の友人でも励行している人がいる。


量産可能な航空燃料プロジェクト

ブランソンさんは、工場のCO2を含む排ガスを利用して、航空燃料に変えるプロジェクトを紹介している。ニュージーランドのランザ・テックと開発しているのだと。

オーストラリアでは小型ユーカリ樹のマリーを使って、やはり航空燃料を生産するプロジェクトを推進している。これはヴァージン・オーストラリア、ダイナモーティブ・エナジー・システム、リニューアブル・オイルなどと組んでいる。


アップルのiPod, iTunesはエイプリルフールのジョークにインスパイアされた?

ヴァージンは世界各地にレコードショップのヴァージン・メガストアを経営していた。これの息の根を止めたのが、iPod, iTunesのアップル勢だ。

ブランソンさんは、ある年のエイプリルフールに、「イギリスに設置した巨大なコンピューターに、あらゆるレコード会社のあらゆる楽曲を保存し、音楽ファンがどこでも好きな音楽をダウンロードできるような”ミュージックボックス”という端末を発売する」と発表し、昼ごろにジョークだと発表した。

レコード会社の面々は真に受けて、「やめてくれ」と泣きついてきたという。ところが、スティーブ・ジョッブスはこれにインスパイアされて、数年後にiPod, iTunesをつくったのだという。

この話の教訓は、「エイプリルフールのジョークを仕掛けたら、最後まで自分でやれ」ということだと。

アップルのデザインやマーケティングはすばらしく、iPhoneによって携帯電話市場を席巻してしまった。それからiPadで出版業界に攻めてきた。


ヴァージンは新しいアイデアに対してオープンであり続ける

ヴァージン・レコードを始めたのは、マイク・オールドフィールドが、ほかのレコード会社に断られ続けた「チューブラー・ベルズ」を売り込みにきて、その価値に気が付いたからだ。マイクを助けるためにレコード会社をつくることにしたのだ。



ヴァージン・レコードは1990年代には世界最大の独立系レコード会社になった。今はヴァージンはレコード会社とレコード販売事業を売却してしまったが、音楽祭を主催するなど音楽との関係は保っている。



ヴァージン・メガストア事業からの撤退が遅れたことに関して、ブランソンさんは自分がタイムズスクウェアや、オックスフォードストリートなどの一等地に旗艦店を置くことにこだわったからだと語っている。

これらの旗艦店は知名度を上げるのに役立ち、グループの歴史にも深く結びついていたので、これらを失うことが怖かったのだと。


バーチャルネットワーク・モデルで事業展開

1990年代末には、携帯電話でTモバイルと組んでヴァージン・モバイルを立ち上げ、若者向けに割安な価格で提供し、同じモデルで世界各国でも事業展開した。

既存の会社と組んで、「ヴァージン」ブランドを冠したサービスを提供する”バーチャルネットワーク・モデル”がうまく機能した一例だ。


ABCD戦略

ブランソンさんはヴァージングループの戦略としてABCD戦略を挙げる。Always Be Connecrting Dots(ひたすら点と点を結べ)だ。故・スティーブ・ジョッブスの有名なスタンフォード卒業式スピーチを思い出させる。

次のスピーチの最初のテーマが"Connecting Dots"だ。ビデオの5分くらいから、"Connecting Dots"の教訓が語られている。



最初にヴァージン・アトランティック航空をスタートした時は、本業(ヴァージン・メガストア)と何の接点もなかった。

当時の航空会社のサービスはあまりにもお粗末だった。もっと質の高い仕事をすれば、大きなチャンスがあるはずだと思ったのが参入のきっかけだ。

実際に事業を始めて、機内エンターテインメントに最高の音楽と映画を持ちこみ、お客様の世話をするのが好きというスタッフを集め、居心地のよくモダンな内装を設計し、すべてを割安な値段で売り出すことにより、点と点がつながった。

ヴァージングループのカスタマーサービスで長年大切にしてきたルールは「最初に問題を知った者が、最初に対処する」というものだ。これの例が挙げられている。

サンフランシスコ空港でフライトの出発が遅れたとき、乗務員が飛行機から飲み物のワゴンを持ち出して、ゲートでお客様にサービスを始めた。数か月後、この乗務員にブランソンさんは年間優秀社員賞を授与したという。


事業化で考慮すべきポイント

最後にブランソンさんは事業化で考慮すべきポイントを挙げている。簡単だが参考になるので、紹介しておく。

1.価格は適正か?

2.設備が古くないか?

3.顧客になりそうな人々をリサーチしよう

4.サービスの幅を広げられないか?

5.収入の一部を地域の慈善事業に寄付しよう



翻訳が良いこともあり、スラスラ読める。本人は大変な努力をして、ヴァージングループを作り上げたのだろうが、労働者階級出身の人ではないので、底辺から這い上がったという感じはない。

気軽に読める成功哲学である。


参考になれば、投票ボタンをクリック願いたい。


  
Posted by yaori at 13:24Comments(0)TrackBack(0)

2013年09月02日

ロゼッタストーン解読 フランスが発見しイギリスが持ち帰った碑文をフランス人が解読

ロゼッタストーン解読 (新潮文庫)
レスリー・アドキンズ
新潮社
2008-06-01


成毛眞さんの「面白い本」に紹介されていたので読んでみた。

面白い本 (岩波新書)
成毛 眞
岩波書店
2013-01-23


成毛さんの本では、1ページ半で簡単に紹介されているだけだが、300ページ以上の本である。

ナポレオン・ボナパルトは1769年コルシカ島の小貴族の息子として生まれた。フランスで軍人となり、フランス革命の時に、市民革命の波及を恐れてフランスを攻めたオーストリアなどのヨーロッパ諸国を撃退して一躍名を挙げた。

ナポレオンは当面の敵・イギリスに攻め込むには、海軍力が不足しており、まずはイギリスのインド交易路を断って、イギリスの財源を断つという作戦に出た。

そして1798年6月400隻の船に乗った約4万人のフランス軍がエジプトのアレキサンドリアに到着した。この時ナポレオンは150人以上のフランス学士院会員の学者を伴っていた。

ナポレオンはアレキサンダー大王の後継者を目指していたので、アレキサンダー大王の東方遠征でヨーロッパ文化がアジアに伝わったことを意識していた。ナポレオンのエジプト遠征は文化的使命も担っていると考えていていたようだ。

このエジプト遠征時にアレキサンドリアの東のロゼッタでフランス兵が発見したのがロゼッタストーンだ。1799年8月のことだ。

ロゼッタストーンは高さ1.2メートル、重さ700キロ以上の大きさで、ヒエログリフ、ギリシャ語、それとデモティックと呼ばれる民衆文字(コプト古語)で紀元前204年から180年まで在位したプトレマイオス5世エピファネスの偉業をたたえるために紀元前196年に作られた神官の布告だった。

ヒエログリフを学ぶ本の表紙にロゼッタストーンの写真が載っているので紹介しておく。



フランス軍はエジプトに攻め入ってきたトルコ軍を打ち負かし、それなりに奮戦していたが、いずれ補給が絶えてしまう恐れがあった。

フランス国内では、王党派が王政復興を画策していた。反クーデターがあるとのうわさを聞きつけたナポレオンは、エジプト遠征を自ら放棄して、フランスに戻ってしまう。タイミングよく1799年11月のクーデターの主導権を握り、その5年後の1804年には皇帝に戴冠した。

ナポレオンがエジプトを去ると、全権を委ねられたクレベール将軍は、すぐにイギリスと交渉を始め、1800年初頭に現地で合意が成立した。

学者たちはロゼッタストーンなどの収集品を船に積み込んで出航を待っていたが、イギリス本国はフランスの無条件降伏以外は認めず、結局帰国は1年半も遅れ、ロゼッタストーンはイギリスに没収された。

大英博物館に行ったことがある人なら、みんなロゼッタストーンを見たことがあると思う。これがフランスが発見したロゼッタストーンが発見国のルーブル美術館でなく、大英博物館にある理由だ。

ロゼッタストーンの碑文は、すぐに拓本がつくられ。ヨーロッパ中の学者に配布された。

ヒエログリフは次のような文字で、象形文字(いろいろな鳥とかヘビなど)、表意文字、そして表音文字の3つの機能がある。さらに「決定詞」と呼ばれる冒頭について敵や外国人を表すものもある。

ヒエログラフ







出典:本書194−5ページ

古代エジプトで使われていたが、ローマ支配下ではヒエログリフは使用されなくなった。キリスト教台頭とともに、異教徒の寺院や碑文と結びついたヒエログリフは禁止され、紀元394年にエジプトのアスワン近くの神殿に記されたヒエログリフが最後だと言われている。

ヨーロッパ中の学者がロゼッタ碑文によりヒエログリフの解読を試みた。

最初に一部解読に成功したのはイギリス王立研究所の教授で医者・学者のトーマス・ヤングだった。ヤングは外国名のヒエログリフ解読にはある程度成功したが、エジプト名の解釈で多くの間違いを犯した。ちなみにヤングは物理学者としても有名で、力学の「ヤング率」に名前を残している。

この本では、ヤングが解読した「プトレマイオス」や外国人名と、正しい読み方の比較表を載せており興味深い。

一方、フランスの南西部の小さな町フィジャックで1790年に本屋の末息子として生まれたジャン・フランソワ・シャンポリオンは、フランス革命で学校が閉鎖されていたため、兄や家庭教師の教えを受けて、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語、アラビア語、シリア語などをマスターし、のちにはキリスト教徒が使うエジプト語であるコプト語もマスターした。

「シュリーマン旅行記」や、ヘッセの「車輪の下」のあらすじでも記したが、昔の人は本当にスゴイ。これだけの語学をマスターしている人がゴロゴロいたのだ。

シュリーマン旅行記 清国・日本 (講談社学術文庫 (1325))
ハインリッヒ・シュリーマン
講談社
1998-04-10


車輪の下 (集英社文庫)
ヘルマン・ヘッセ
集英社
1992-01-17


シャンポリオンは、フランス学士院のアカデミー会員に選ばれた。

グルノーブルの大学や図書館で働く兄のジャック・ジョゼフの力も借りて、シャンポリオンは天性の語学の才能を生かし、1808年からロゼッタストーンの解読に取り組んだ。

当初は簡単な仕事と見られていたロゼッタストーン解読だが、ヒエログリフは複雑な仕組みでできていることがわかり、解読開始から14年近く経った1822年9月、シャンピリオンはロゼッタストーンの解読にとうとう成功する。

解読に成功したことをグルノーブルのフランス学士院に勤務する兄に伝え、そのまま倒れて5日間寝込んだといわれている。

1822年9月27日にパリの碑文アカデミーの会合で、シャンポリオンはヒエログリフの解読に成功したことを発表した。その時たまたまパリに来ていたイギリスのトーマス・ヤングは、碑文アカデミーの会合でシャンポリオンの隣に座って、彼の発表に立ち会った。

それまでヤングを含む何人もの学者がヒエログリフの解読に成功したと発表していたが、シャンポリオンはそれまでの説を否定し、ヒエログリフの表音文字は、外国名のみに限定されるのではなく、エジプト語にも広く使われ、基本的に3つの機能があると発表した。

たとえば次のアヒルを示す象形文字は、アヒルを意味すると同時に、表意文字として「の息子」という意味もあり、また表音文字として「サ」という音にもなる。

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出典:インターネット検索

この論文は、のちに「ダシエ氏への書簡」というタイトルで出版され、シャンポリオンのヒエログリフ解読者としての地位を確固たるものにした。

いままで知らなかったナポレオンのエジプト遠征やヒエログリフ解読のいきさつがわかり、参考になった。330ページと長く、本題とあまり関係ない部分もかなりあるので、それらはスキップして読んでも良いと思う。

スフィンクスの鼻はナポレオンの軍隊が壊したという俗説があるが、どうやらそれはウソのようだ。

ヒエログリフの本物がYouTubeに載っているので紹介しておく。



興味のある人は、次の本を読んでヒエログリフをマスターしても面白いと思う。

ヒエログリフを書こう!
フィリップ アーダ
翔泳社
2000-06



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Posted by yaori at 12:15Comments(0)TrackBack(0)