2015年05月18日

うなぎ 一億年の謎を追う 学研の小学生向けの本だが面白い



たまたま仕事で五反田の学研ビルに行く用事があった。その時に学研の受付に置いてあったので読んでみた。

うなぎの研究一筋の元東京大学海洋研究所教授の塚本勝巳さんが小学生向けに書いた本だ。

漢字に読み仮名を振ってあり、平易な表現で書いてあるが、内容は大人でも十分楽しめる。

筆者も子供のころ藤沢の引地川の河口などで、よくシラスウナギを取った。大人も網を持ってきてシラスうなぎを取っていた。

取った後、シラスうなぎどうしたのかはっきり覚えていないが、友達が集めて、漁師の人に買ってもらっていたような記憶がある。

当時はシラスうなぎ=シラス(イワシとかの雑魚の稚魚)と思っていたので、そんなに価値のあるものとは思っていなかったが、いまやシラスうなぎはうなぎ養殖用に高く売れる貴重な稚魚となっている。

シラスうなぎ漁に関して書いているサイトによると、キロ250万円らしい。1匹=35円くらいになる換算だ。

うなぎは1億年ほど前の白亜紀から生息していたようで、白亜紀には恐竜が絶滅したK-T境界(6,500万年前)が起こっている。

日本では昔から食用として愛され、ヨーロッパでも特にスペインなどは、シラスうなぎをにんにくオイルで煮たアンギラス・アル・アヒージョが有名だ(いまやヨーロッパでもシラスうなぎは貴重なので、日本の水産会社がかまぼこの材料から、シラスうなぎもどきを作って、これがレストランで出されている)。

anguilas al ajillo






















出典:市場魚介類図鑑

余談になるが、筆者の年代の人は、アンギラスというと、怪獣を思い浮かべるかもしれない。

220px-Anguirus_1955


























出典: Wikipedia「アンギラス」

筆者もアンギラスと聞いた時に、怪獣の名前はここからつけたんだなと思った。

閑話休題。うなぎの一生は次のようになっている。

ウナギ



















出典:本書2〜3ページ

卵で生まれる点は、他の魚と同じだが、何度か変態を繰り返して、うなぎの稚魚のシラスうなぎになる。

それからは見かけは同じような細長いヘビに似た形で、だんだん大きく成長し、10年くらい経った成魚は体長1メートルにもなるものがあるという。

うなぎはもともとは赤道付近のボルネオで誕生し、海流でヨーロッパにも運ばれ、そこで根付いた。

日本のうなぎは、この本で明らかになった通り、マリアナ海山あたりで産卵する。

ヨーロッパのうなぎは、船の墓場として有名なサルガッソ海で産卵する。

しかし、その産卵場所は、長年不明のままだった。

産卵場所を突き止めたのは、まさに塚本さんのグループだ。

1991年に、うなぎの卵からかえったばかりの幼生を見つけ、これは「NATURE」の表紙を飾った。

次に産卵に向かうオスうなぎ、メスうなぎを捕まえ、2005年に体長2ミリの生まれて2日の幼生を見つけた。

そして2009年5月にうなぎの卵を見つけた

発見場所はマリアナ海嶺だ。

img_1


























出典:ブログ セピアおじさんのランダム・ストーリー

その時のニュースがYoutubeに載っている。



また、DailymotionというサイトにNHKのニュースが収録されている

塚本さんは東大の後に、日大の教授となっているので、日大がうなぎのルーツ探求のビデオをUtubeに公開している。



つまり、うなぎはマリアナ海域の海嶺(海底山脈)で産卵し、卵はすぐ孵化して幼生となり、赤道付近の海流に乗って西に流され、次に黒潮に乗って日本まで流される間にシラスうなぎに成長する。

シラスうなぎは、川の河口付近で落ち着き、一部はそこで暮らすが、一部は川の上流に行き、そこで5〜10年暮らし、成魚となってからオスもメスも産卵のためにマリアナ海嶺まで行き、そこで一生を終えるのだ。

なんとダイナミックな生涯なんだろう。

日経が図にわかりやすくまとめて、クイズ形式で出題しているので最後に紹介しておく。クイズの答えは、日経の記事の最後に載っている。

日経問題












































出典:日経こどもニュース


参考になったら、投票ボタンをクリック願いたい。




  
Posted by yaori at 00:16Comments(0)TrackBack(0)

2015年05月13日

草の花 西伊豆戸田を描いた福永武彦の小説

草の花 (新潮文庫)
福永 武彦
新潮社
1956-03-13


筆者は西伊豆の戸田(へだ)に毎年夏に行く。夏休みに戸田に行きたくて1年間働いているようなものだ。大学4年生の時は戸田で20日以上過ごしたし、卒業後も独身時代は毎夏数日行っていた。

結婚して家族ができると、なかなか一人で戸田に行くのは難しくなったが、子供が大きくなるにつれ、また一人で行けるようになった。

毎年戸田には沼津から船で行っていたが、戦前から続いた伝統ある定期船も残念ながら昨年で廃止された。

筆者の場合、行きか帰りに沼津港に寄って「双葉寿司」で食事するというのが、戸田に行く楽しみの一つだ。

しかし、定期船がなくなると、修善寺からバスで行かざるをえず、そうなると沼津港に寄るのはかなり寄り道となる。今年は「双葉寿司」にも行けなくなるかもしれない。

戸田に行くのは、そこに大学の保健体育寮があり、昔の寮委員の仲間が集まるからだ。

戸田寮は創設120年ちかい伝統ある寮だ。そんな寮での戦前の弓道部の合宿生活が取り上げられている小説が福永武彦の「草の花」だ。

学生時代に読んで、もう読んだこと自体も忘れていたが、先日寮委員のOB会があり、後輩から教えてもらって読んでみた。

福永武彦は1979年に亡くなっているので、すでに没後36年も経つが、この3月に福永武彦の経歴をまとめた「『草の花』の成立―福永武彦の履歴」という本が出版されている。

独特な描写は病的ともいえるほど繊細で、依然として人気のある作家である。



物語は戦争が終わって間もない昭和20年代の結核病棟(サナトリウム)でスタートする。

6人部屋で恢復中の「私」と、近くのサナトリウムから転院してきた大学同窓生が知り合い、その同級生は成功の確率の低い肺の摘出手術を自ら志願し、術中死する。

私に託された2冊の大学ノートを開くと、彼の2つの物語が綴られているという展開だ。

最初の物語は、戦前の旧制第一高等学校の弓道部が、春の合宿を西伊豆の戸田寮で行うところからスタートする。

文庫本の表紙絵にもなっている和船がなつかしい(表紙の絵は艪(ろ)が流されて漂流している時のものなので、艪は書いていない)。

艪で漕ぐ和船の操船は難しいが、筆者は戸田寮にいたおかげで和船の操船はお手の物だ。 伝統的な和船の操船風景がU-tubeに載っている。



弓道部の先輩・後輩で惹かれあう、今でいうとボーイズラブの苦悩が繊細なタッチで描かれている。

2番目のノートに綴られた物語は、その弓道部の美しい後輩が若くして病死し、残された妹を愛するというストーリーだ。

戦時中の話で、いずれ来る召集令状(赤紙)の恐怖、キリスト教の信仰心、純粋な愛などが中心テーマだ。

漱石の「こころ」は「先生」からの手紙だったが、「草の花」では術中死した友人のノートが物語を伝える。

こころ (新潮文庫)
夏目 漱石
新潮社
2004-03


やはり青春時代に読む小説で、オッサンの筆者が読むのは、やや場違いという感じもあるが、ともあれ、夏の戸田で過ごした学生時代のことなどが思い出されて楽しめる。


参考になったら、投票ボタンをクリック願いたい。


  
Posted by yaori at 22:56Comments(0)TrackBack(0)

2015年05月07日

キングオブオイル マーク・リッチ伝

キングオブオイル
ダニエル・アマン
ウェイツ
2010-11-05


原油のスポット市場を作り上げ、イランやナイジェリアなどの原油を、イスラエルやアパルトヘイト時代の南アフリカに販売して巨額の富を得たが、米国でイランとの禁輸の網をくぐったとして訴追され、クリントン大統領の特赦により免罪されたトレーダー マーク・リッチの物語。

マーク・リッチという名前は、一般の人にはあまりなじみがないかもしれないが、筆者は鉄鋼原料の商売を20年ほど担当していたので、まさに同時代のビッグショットとして知っていた。

Marc Rich













出典:ネット検索で取得

米国政府からイランとの禁輸を破り、巨額の脱税をしたという罪で訴追されるまでは、マーク・リッチの会社のマーク・リッチ+Co. AGが世界最大のコモディティトレーダーとして君臨していた。

訴追後、マーク・リッチ+Co. AGはグレンコアと名前を変え、マーク・リッチが持ち株を売却すると、エクストラータがスピンアウトして石炭などのコモディティトレードで大きく成長した。

2013年には、グレンコアがそのエクストラータを合併して、グレンコア・エクストラータとして世界最大のコモディティ・トレーダーとして君臨している。

筆者はマーク・リッチとは取引したことはないが、マーク・リッチがトレーダーとして頭角を現したフィリップ・ブラザースとは取引したことがある。入社して初めての仕事が、フィリップ・ブラザースからの鉄鋼原料の輸入商売だった。

いままでマーク・リッチはメタル・トレーダーだと思っていた(「メタル・トレーダー」というマーク・リッチの伝記も出版されている)。



しかし、この本を読んで、実は巨額の富を築いたのは、もっぱら原油のスポットトレード、それもアラブ諸国から石油の禁輸措置を食らって、「油断」状態だったイスラエルに、シャーの時代はもとより、ホメイニが復帰してからもイラン原油を売っていたためだということがわかった。

この本によると、マーク・リッチは1973年から20年間、イスラエルの石油必要量の1/5を供給し続けた。

マーク・リッチは同様に、アパルトヘイトで国連から禁輸措置を受けていた白人政権時代の南アフリカにも、イラン産原油やナイジェリア産原油などを売って、こちらでも巨額の利益を上げている。サダム・フセイン時代のイラクともマーク・リッチは取引があった。

もともと原油は長期契約で取引され、原油のスポット市場は存在していなかった。そのスポット市場を作り上げたのが、マーク・リッチだ。

マーク・リッチはベルギーに生まれ、幼少の時に、一家はナチスを逃れて、カサブランカ経由で米国に逃れる。外国語が達者だったお父さんは、南米からのジュート(麻)の輸入会社を立ち上げて成功し、マークはニューヨークの私立ローズ高校から、ニューヨーク大学に進み、19歳からフィリップ・ブラザースの見習いとして働き始める。

マーク・リッチは最初に水銀の取引で大儲けして、頭角を現した。

次にマーク・リッチは「石油は武器になる」と予想して、イランと原油100万トンの固定価格(5ドル)での長期取引を決めた。この買持取引は、フィリップ・ブラザースのトップの了解を得ておらず、当時の公定価格3ドルよりも高かったため、マークはその原油を米国のアシュランドオイルに転売するはめとなった。

これがマーク・リッチがフィリップ・ブラザースから独立することを決心するきっかけとなった。

その直後に、第4次中東戦争が起こり、イスラエルが軍事的には勝利したが、アラブ諸国はイスラエルと親イスラエル国に対する石油の禁輸で対抗し、第1次オイルショックが起こり、原油価格は12ドルまで急騰した。

マーク・リッチが予想していた通り、「石油は武器になる」ということが明らかになったのだ。

ちなみにこの本では、トップシークレットとして、第4次中東戦争前にイランとイスラエルは共同でパイプラインを運営して、イラン原油をパイプラインでイスラエルまで輸送していたことが明かされている。

マーク・リッチは1979年1月にシャーが追放され、イラン革命が起きてからもイラン革命政府との取引を続けた。

1979年11月にイランによるアメリカ大使館人質事件が起こって、米国はイランと断交してからも、マーク・リッチはイランとの取引を続け、イランから原油を買って、イスラエル等に販売していた。

イランは原油の向け先がイスラエルであることを知っていたが、何も言わなかったという。

この取引はマーク・リッチのスイスのツーク(Zug)にある本社が行った取引で、スイス法ではイランとの取引は合法だった。(Zukは法人税が約10%と安く、フィリップ・ブラザースなど多くの企業が本社を置いていた)

しかしこの取引に目をつけて、政治問題化しようとたくらんだ人物がいた。後にニューヨーク市長となり、一時共和党の大統領候補ともなったルドルフ・ジュリアーニ連邦検事だ。

マーク・リッチは1982年に米国籍を離脱して、スペインに帰化していたが、米国政府はこれを認めず、1983年にイランとの禁輸破りと脱税で起訴した。

マーク・リッチは「逃亡者」となったのだ。

逃亡者 製作20周年記念リマスター版 [Blu-ray]
ハリソン・フォード
ワーナー・ホーム・ビデオ
2013-10-02


筆者には、デビッド・ジャンセン主演のテレビドラマシリーズの方が親しみがある。

逃亡者 SEASON 1 (全30話収録) [DVD] 2TF-4500
デビッド・ジャンセン
株式会社イーエス・エンターテインメント/キープ株式会社
2010-04-30


マーク・リッチの元妻のデニーズ・リッチは民主党の支援者として知られ、100万ドル以上を民主党に寄付していた。イスラエルのバラク首相からの頼みもあり、ビル・クリントン大統領は2001年の任期満了の数時間前にマーク・リッチに対する大統領特赦にサインした。

この行為は金で特赦を買った行為として非難され、政治問題となったが、覆されることはなかった。

しかしマーク・リッチは特赦後も、米国を訪問したり、スイス国内でスイス法を平気で無視する米国官憲に捕まると、また訴追されかねないとして警戒し、死ぬまで米国には足を踏み入れなかった。

そして2013年、稀代のトレーダー、マーク・リッチは79歳でスイスで死去した。

筆者はマーク・リッチと会ったことはないが、この本は興味深く読んだ。

マーク・リッチのスイスの豪邸には、モネ、ルノワール、ピカソなどの絵画が飾ってあったという。

巨額の富を築いたトレーダーの先輩ではあるが、尊敬する気にはなれない。

1980年前後は「コンプライアンス」という言葉はなかった。「コンプライアンス」が単に法令順守以上のものを意味するようになったのは、割合最近のことだ。

マーク・リッチの行為は、マーク・リッチ本人が言うように、形式からすればスイス法では違法ではないということになるのだろうが、実質的には米国の対イラン禁輸の網をかいくぐった、まさに「コンプライアンス」違反である。

今でいう「コンプライアンス」意識がなかったのが、マーク・リッチの致命傷になったともいえる。

同時代史としても楽しめる。

マーク・リッチの名前を憶えている人には、是非一読をおすすめする。


参考になったら、投票ボタンをクリック願いたい。




  
Posted by yaori at 23:35Comments(0)TrackBack(0)

2015年05月05日

異端児たちの決断 日立製作所 川村隆前会長が日経「私の履歴書」に登場

2015年5月5日追記


日経新聞の「私の履歴書」に、この本の主人公の日立製作所の前会長 川村隆さんの連載が始まったので、最初の部分だけ紹介しておく。

日本経済新聞 印刷画面_ページ_1































出典:日経新聞(電子版)2015年5月1日「私の履歴書」


日経IDに会員登録してログインしないと、読めないかもしれないので、その場合には登録して読んでほしい。

ちなみに、川村さんの前の「私の履歴書」はニトリの似鳥昭雄ニトリホールディングス社長だった。連載中は時々読んでいたが、この休みに1か月分まとめて読んだ。ひさしぶりに超面白い履歴書だった。こちらもおすすめである。


2015年4月29日初掲



リーマンショックの直後、日本の製造業では最大規模の8,000億円弱の最終赤字を計上した日立製作所の経営を立て直した川村隆さん他の経営改革の本。

川村さん自身も「ザ・ラストマン」という本を書いているので、今度読んでみる。



日立製作所の2005年から2014年までの業績推移は次の表の通りだ。

img001











出典:日立製作所IRデータ

川村さんは2009年4月に庄山会長、古川社長の後を継いで日立製作所の社長兼会長に就任し、1年間社長と会長を兼務した後、中西さんを社長として引き入れ、川村・中西体制で日立製作所の復活の舵を切った。

川村さんは2014年に会長職を中西さんに譲り、自らは相談役となって取締役も退任した。中西さんは川村さんを引き継いで2014年に会長兼CEOに就任している。

川村さんは日立製作所では重電畑をずっと経験し、中西さんも重電畑出身だ。日立工場では一緒に働いたこともある。川村さんは1999年に日立製作所の副社長に就任した後、4年後の2003年に、日立本体の副社長を退任し、子会社の日立ソフトウェアエンジニアリング(現日立ソリューションズ)会長に転出、その後は日立マクセルなどのグループ会社の会長職についた。いわゆる「上がり」の人事だ。

そんな「上がり」の川村さんを呼び戻した日立製作所の人事は当時評判になった。

この本では、川村さん自身がちょうど乗り合わせた1999年の全日空機ハイジャック未遂事件が、ちょうど乗り合わせた非番(デッド・ヘッド)のパイロットが、機長を包丁で刺し殺した航空マニアのハイジャック犯がいる操縦室に突入し、かろうじて機体を墜落から救った話を紹介して、川村さんをはじめとする員数外の人間が日立を救ったと紹介している。

筆者はあまり日立製作所に注目してこなかったが、この本で紹介されている日立製作所の取締役会のメンバーを見て驚いた。

ソニーの取締役会は20年ほど前から、国際性とバラエティに富んだ人材で構成されていて有名だが、今の日立製作所の取締役会メンバーも、ソニーと比べても遜色のない多彩な人材をそろえている。

img114
























出典:本書

取締役がそろった写真も本書に載っている。

img115






































出典:本書

筆者は総合商社に勤めているが、日立製作所の取締役会の構成をみると、最も事業のグローバル展開が進んでいるはずの商社が、経営体質では全然グローバルでないことを痛感させられる。

この本を読んで、日立製作所が川村体制下、素晴らしい強靭な体質の会社に生まれ変わったと思ったが、日立OBの大前研一さんは、厳しい評価をしている。

大前さんの「BIZトピックス」というメルマガ?を紹介しているサイトから引用すると。

「このようにV字回復を果たした日立ですが、「本当の復活と呼べるかどうかはまだわからない」と大前研一は指摘します。近年の日立の業績推移をよく見ると、利益は回復しているのに、売り上げが伸びていないことに気づきます。

これが何を意味しているのかといえば、日立が新しい成長産業を見出して、大きな利益を挙げているわけではないということです。既存事業の取捨選択だけでは巨大企業の将来戦略としては不十分というわけです。

「赤字事業をどんどんリストラする一方で、グループに儲かっている会社があれば本体に取り込むという形で、数字の見栄えをよくしてきただけに過ぎない」というのが大前研一の見方です。」

たしかにセグメント別の2009年から2014年までの売上高推移をみると、あまり大きな変化が見られない。

img007

















出典:日立製作所IRデータ

しかしそうはいっても、鉄道車両事業で英国で工場を建設して英国のみならずEU向けを狙ったり、火力発電部門は三菱重工の火力発電部門と経営統合して、三菱65%、日立35%で三菱日立パワーシステムズを発足させたり、大変ダイナミックな動きをしているのは間違いない。

子会社の本体への吸収や、日立金属と日立電線の合併など、日立グループの子会社改革も進んでいる。

大前さんは単に「数字の見栄えをよくしてきたにすぎない」と手厳しいが、筆者には、日立製作所のシンボルツリーである、ハワイオアフ島のモンキーポッドのように日立グループが有機的な成長を続けているように思える。

monkeypod





















従業員30万人以上の日立グループの総帥・日立製作所がここまでグローバル経営に体質改善しているとは、まったく気が付かなかった。大前さんは手厳しいが、筆者はやはりすごいと思う。

日立製作所の現会長兼CEOの中西さんは料理が趣味だという。中西さんの米国駐在時代の来客用のメニューがこの本に載っているので、最後におまけで紹介しておく。プロの料理人の域に達していて、すごいとしかいいようがない。

img008
































出典:本書

大変面白い読み物となっており、読んでいて元気がわいてくる。お勧めの本である。


参考になったら、投票ボタンをクリック願いたい。

  
Posted by yaori at 23:17Comments(0)TrackBack(0)