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2016年09月24日
神の雫作者のノムリエ日記 さすがプロ?のワイン通
神の雫作者のノムリエ日記(1) [コミック]
亜樹 直
講談社
2009-01-22
ワインマンガ「神の雫」の原作者・亜樹直(あぎ・ただし)さん(実は姉弟の二人)が、asahi.comに2007年4月から毎週連載していたワイン日記の2008年4月までのものを集めたもの。ワイン日記自体は、それ以降も続き、2010年後半からは間隔が開いて1カ月ごととなった。2011年3月11日の東日本大震災後の
4月5日付の「いまこそ飲もう! 東北&北関東のワイン」という回で終了している。
「神の雫作者のノムリエ日記」
は今でもバックナンバーを閲覧できるので、興味のある人はクリックしてみてほしい。
神の雫はテレビドラマにもなっている。
神の雫 DVD-BOX [DVD]
亀梨和也
VAP,INC(VAP)(D)
2009-06-24
マンガの方は全44巻で完結している。
神の雫 コミック 全44巻完結セット (モーニングKC) [コミック]
オキモト・シュウ
講談社
2014-07-23
世界的なワイン評論家神咲豊多香(かんざきゆたか)が亡くなり、時価20億円のワインコレクションが残された。彼の遺言は、このコレクションの頂点に立つ1本=神の雫と、12本のワイン=12人の使徒の銘柄と生産年を1年以内に言い当てた者が、遺産を手に入れることができるというものだった。
豊多香の息子で仲たがいしていた神咲雫(かんざきしずく)と、豊多香死の直前に養子縁組をした天才ワイン評論家の遠峰一青(とおみねいっせい、実は豊多香の私生児)が、遺言の謎解きをめぐって争う。
という、いかにもマンガらしい荒唐無稽なストーリーだ。
テレビドラマでは、亀梨和也が神咲雫を演じた。このマンガは、韓国でも大ヒットし、遠峰一青のモデルといわれるペ・ヨンジュンが韓国でのドラマの版権を買い取って、テレビドラマ化を目指していたが、韓国ではドラマの中で特定の商品を宣伝する
プロダクトプレイスメント
を禁止しており、実現できなかったという。
神の雫は、ワインを紹介するというストーリー展開なので、
この漫画で取り上げられたワインは一躍有名になった。
その一例が、
シャトー・モン・ペラ
だ。
シャトー・モン・ペラ ルージュ 2012年 フランス ボルドー 赤ワイン フルボディ 750ml
シャトー・モン・ペラは、人気になっても価格は安いままなのはすばらしい。
作者の亜樹直さんも、ノムリエ日記で生産者のティボー氏の良心的な姿勢をほめている。
亜樹直さんが、ワインにのめりこむようになったきっかけは、
DRC
の
エシェゾー
の1985年物を飲んだからだという。
[1985] エシェゾー 【ラベル汚れ】 Echezeaux ドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティ DRC
今は到底高くて買えないが、10年ほど前までは、3万円程度ではなかったかと思う。当時は
ロマネコンティ
が、20万円弱だった。今はロマネコンティは、200万円以上する。
[1995] ロマネコンティ 【ラベル不良】Romanee Contiドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティ DRC[自社輸入]
中国と東南アジアの経済成長により、成金が増えて、金に糸目をつけずにワインを買いあさっているから、高級ワインの値段は10年ほど前の10倍となっていると言われている。
ちなみに、「神の雫」で第一の使徒とされたのは、
シャンボール・ミュジニー
のレ・ザムルーズ(2001年)だ。
ジョルジュ・ルーミエシャンボール・ミュジニー・プルミエ・クリュ・レ・ザムルーズ[2001] 赤 [750ml]
ちなみに
シャンボール・ミュジニー村
は人口わずか300人余りの小さな村だ。
普通の年の同じワインが2〜3万円程度なのに、この2001年だけは10倍の24万円もする。「神の雫」効果がいまだにあるのか、わからないところだ。
シャンボール・ミュジニー[2013]ジョルジュ・ルーミエ(赤ワイン)[Y][A][P][S]
まずは、ネットで
バックナンバー
を見て、興味のあるタイトルを読むことをお勧めする。
筆者も見た
「モンドヴィーノ」
のジョナサン・ノシター監督との対談も面白い。
「モンドヴィーノ」では、
ロバート・パーカー
の100点満点評価と、空飛ぶワインメーカーと呼ばれ世界中で同じタイプのワインをつくるワインコンサルタント・
ミッシェル・ロラン
が暗に批判されている。
ノシター監督は1時間半遅れて、雪駄姿で現れたという。
モンドヴィーノ [DVD] [DVD]
ドキュメンタリー映画
東北新社
2006-04-21
どのワイン日記も本にすると4ページ程度で、簡単に読める。気軽に読めるワイン読本である。
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書評・レビューランキング
Posted by yaori at
22:57
│
Comments(0)
│
2016年09月21日
碧素・日本ぺニシリシン物語 戦時下の日本の抗生物質生産
碧素・日本ペニシリン物語 (1978年) [−]
角田 房子
新潮社
1978-07
以前紹介した畑村洋太郎さんの
「技術大国幻想の終わり」
に、畑村さんが学究の道に入るきっかけとなった本として紹介されていたので読んでみた。
技術大国幻想の終わり これが日本の生きる道 (講談社現代新書) [新書]
畑村 洋太郎
講談社
2015-06-18
この物語の中心人物、陸軍軍医少佐稲垣克彦は、東京大学医学部在学中に陸軍の依託学生となり、軍医任官後は、旧満州などの勤務を経て、昭和17年に陸軍軍医学校の教官となった。
稲垣軍医少佐は、太平洋戦争の始まる前の昭和16年4月に設立された総力戦研究所に在籍していたこともあり、その関係で、各省庁に知人がいた。
総力戦研究所
は、日本のトップ頭脳を集めた研究所で、第1期生35名が太平洋戦争が始まる前に、「総力戦机上演習」で日本必敗という結論を出し、時の東条英機首相が激怒して、一切極秘を厳命したという経緯がある。この話は、猪瀬直樹さんの本に詳しい。
昭和16年夏の敗戦 (中公文庫) [文庫]
猪瀬 直樹
中央公論新社
2010-06-25
稲垣少佐は、米国から交換船で帰国した人が持ち帰った「フォーチュン」の記事で、当時治療薬として広く用いられていたサルファー剤(当時はドイツ語読みで「ズルフォン剤」と言われていた)が効かない病気にもペニシリンが奇跡的に効くと知った。
さらに情報を求めて、文部省の知己を訪問すると、ドイツから潜水艦で運ばれてきたばかりの医学雑誌を手渡された。この雑誌は英米のペニシリン研究に関するドイツの医学論文が掲載されていた。それにはカビから得られた抗菌性物質のペニシリンは、肺炎、膿胸、敗血症などを引き起こす肺炎双球菌、ブドウ球菌、連鎖球菌や、破傷風、ガス壊疽を起こすグラム陽性嫌気性細菌などの発育を阻止する力を持つと書かれていた。
ガス壊疽、破傷風、敗血症はいずれも軍陣医学にとって重要な感染症だ。
ドイツからの潜水艦による輸送については、
このブログで紹介した「深海の使者」
に詳しく紹介されている。この本では、様々な情報を総合して、ドイツの医学雑誌は、伊ー8号によって運ばれ、途中のシンガポールからは空輸されたのではないかという推測をしている。
深海の使者 (文春文庫) [文庫]
吉村 昭
文藝春秋
2011-03-10
ペニシリンはよく知られているとおり、英国の
アレクサンダー・フレミング
が、生育していたブドウ球菌のシャーレに青カビが発生していることを発見し、それから細菌を殺す効果のあるペニシリウムというカビを見つけたことから発明された。ペニシリンは最初の
抗生物質
だ。
アレクサンダー・フレミング(切手になっている)
出典:
Wikipedia
当初、ペニシリンはカビから得られる量が少ないことから注目されていなかったが、オックスフォード大学の
フローリー
と
チェイン
がペニシリンに再注目し、米国のロックフェラー財団の支援を得て研究を続け、臨床試験で非常な効果があることがわかった。
第二次世界大戦がはじまると、傷病兵の治療用に大量のペニシリンが必要となったので、1943年の後半から米英で大量生産された。
実用化されたペニシリンQ176株は、米国の北部農業研究所があった
イリノイ州ピオリア
に住む主婦が、研究所がカビを探していることを新聞で読み、カビの生えたメロンを届け、このメロンから採取されたカビにX線を照射し、さらに紫外線を照射して生き残ったカビから生育されたものだ。
戦争が終わった1945年12月にフレミング、フローリー、チェインの3人はノーベル医学賞を受賞している。
稲垣少佐の文献研究とちょうどタイミングを同じくして、当時中立国だったアルゼンチンの朝日新聞ブエノスアイレス支局から、「敵米英最近の医学界 チャーチル命拾い ズルホン剤を補ふペニシリン」という特派員報告が昭和19年1月27日の朝日新聞に掲載された。
これに衝撃を受けた陸軍省は、その日のうちに「ペニシリン類化学療法剤の研究」を昭和19年8月までにという期限付きで、陸軍医学校に命じた。
第1回ペニシリン会議が昭和19年2月1日に開催され、
七三一部隊
で有名な
石井四郎
軍医少将も出席して、積極的に質問していたという。石井中将(その後昇格)は戦後、戦犯とならず(米国に細菌戦の情報を提供したためといわれている)、米国に招かれ朝鮮戦争時に米国がひそかに行った細菌戦を指揮したという噂がある。
陸軍医学校では勤労奉仕の一高生を30名ほど受け入れ、一高生は翻訳などに取り組んだ。日本各地の大学、研究所、製薬メーカーではペニシリン培養用に最適な培地とカビを探すために、様々な努力をしていた。そのうちこんにゃくの培地に蛹の煮汁を加えたものが良好な成果を示したが、当時はこんにゃくは秘密兵器風船爆弾の糊に使われるために入手困難だった。
東北帝大では、試作ペニシリンのマウス実験に成功し、発見菌株は「ペニシリウム・ノターツム・クロヤ・コンドウ」株と名づけられ、次第に力価を高めていった。東北帝大では臨床試験も実施し、9月には新聞にも報道され、特効薬・ペニシリンを求める人が東北帝大に殺到したという。
当時のペニシリンは純度が低かったが、不思議とよく効いた。純度が低いため、体内にとどまっている時間が長かったので、よく効いたのではないかといわれている。
昭和19年10月にはドイツからペニシリン菌株と資料が中立国とシベリア鉄道経由届いたが、ドイツの研究は遅れており、日本の菌より力が弱かった。昭和19年の初めに、ヒトラーは自分の主治医をペニシリンの発見者として第一級鉄十字勲章を与えていた。しかし、この発表はねつ造であることが戦後発覚した。ヒトラーのあせりがうかがわれる。
日本のペニシリンの初期投与者には、南京に新日傀儡政権を樹立した後、日本に亡命していた
汪兆銘
がいる。汪兆銘は、名古屋帝大の附属病院に入院していた。
骨髄腫
だったので、ペニシリンの薬効はなく、昭和19年11月に死亡している。
この本では、東大医学部、東大農学部、伝染病研究所、東京女高師、海軍が依託した小林研究所(ライオン歯磨)、慈恵医大、慶応大学など、日本各地の研究機関で物資が乏しい中、一斉に研究が進められていた様子を描いている。
昭和19年11月には朝日新聞はじめ各紙が、「短期間に見事完成 世界一ペニシリン わが軍陣医学に凱歌」という題で大々的に研究成果を報じている。
しかし、物資不足に悩む日本では量産化できる工場はほとんどなかく、万有製薬、宇治化学、三共、帝国臓器などのメーカーが関心を示していたが、最終的に森永乳業の三島工場(当時は森永食糧工業の三島食品工場)で、試験生産が始まることになった。
牛乳からバターなどを取った残りのホエイを培地にして、森永ではペニシリンの生産が続けられ、陸軍病院や大学病院に送られた。当時の生産量の記録は残っていない。
戦時中のことでもあり、ペニシリンという名前は敵性語だということで、「碧素」という日本名がつけられた。この本では、昭和19年11月末にはB29による東京空襲が始まり、日本各地が爆撃を受ける中でのペニシリン生産と、負傷者に適用されたペニシリンの高い薬能を紹介している。
軍医学校も昭和20年5月に焼け落ち、疎開資料は東京帝大と山形県に送られた。東京帝大の寄託資料は、
東大紛争
の時に、学生が衛生学教室に乱入し、資料を焼いてしまった。もう一つの山形県に送られた資料は、戦後エーザイの創業者の
内藤記念くすり資料館
(岐阜県)に移され、日本のペニシリン研究資料として展示されている。
出典:
Wikipedia
この本の最後の方に、終戦直前の昭和20年7月に稲垣少佐が家族を疎開させていた沼津市近郊の志下(しげ)に行くために沼津駅から江梨行きの木炭バスを待っていた時のエピソードが載っている。稲垣少佐の軍服につけた軍医の胸章に気付いた客から、甥が敗血症で死にかかっており、どうしても碧素を手に入れたいという相談を受け、持っていたペニシリンを渡し、あとは森永の工場からもらうように伝えたという。
戦後30年経って、昭和50年に放送されたNHKのスポットライトという番組の「碧素誕生」という回に、稲垣さんが出演し、依頼を受けた大谷実雄さんと30年ぶりに再会し、ペニシリンで救われた川口隆次とも会っている。
ちなみに、この沼津駅発江梨行きのバスは今でも運行しており、筆者も西伊豆の戸田に行くときに利用している。山本コータローの「岬めぐり」のバスのような、海と山の間を走るバスだ。
戦後は「ペニシリンは儲かる」という話が広まり、昭和22年にペニシリン協会に加盟していた会社は80社を超え、製薬メーカーはもちろん、台糖、菓子メーカー、合繊メーカー(東洋レーヨン(東レ))まで種々雑多な業種が参入していた。
昭和21年1月にGHQは突然日本のペニシリンの販売を禁止した。そして5月に突然販売禁止が解除された。なんの理由も発表されなかったが、日本のペニシリンは世界の水準に達していないというのが理由だったという。
GHQは昭和21年8月にペニシリン研究の権威、テキサス大学のJ.W.フォスター教授を招いて、日本各地でペニシリン生産上の秘訣を公開講演し、日本各地の工場を積極的にまわって指導した。フォスターは「日本ペニシリンの恩人」と感謝されている。
日本のペニシリン生産は、昭和21年3万単位、1万1千本が、昭和22年10万単位、6万5千本、昭和23年には10万単位、25万6千本と加速度的に増加し、昭和23年からペニシリンが広く一般に使われるようになった。日本で広く使われたのが前述のピオリア市の主婦が届けてきたメロンから採集したQ176株だ。
昭和24年には国内需要を満たし、昭和25年には朝鮮戦争が起こったために、米軍が買い上げて、日本の薬品が外貨を獲得した最初となり、ペニシリン生産額はさらに増大した。
昭和10年の日本人の平均寿命は50歳で、明治20年ころからほとんど変わっていなかったが、ペニシリンが広く使われるようになった昭和23年から日本人の平均寿命は急に延びはじめ、昭和26年からは
ストレプトマイシン
が使われるようになって日本人の結核による死亡者は激減し、昭和30年に65歳に達した。
今や様々な抗生物質が市場に出ている。
この本にも登場する稲垣さんの東大医学部の同窓で、東大伝染病研究所に勤務していた梅沢浜夫さんが書いている「抗生物質の話」も読んだので、今度あらすじを紹介する。
1962年の発刊だが、日本の抗生物質研究の第一人者が書いた本なので、抗生物質の基本がわかり参考になる。
抗生物質の話 (1962年) (岩波新書) [新書]
梅沢 浜夫
岩波書店
1962
筆者自身も5歳の時に
骨髄炎
にかかり、たしか
アクロマイシン
という抗生物質で完治した。左腕に手術跡があるが、今はなんともない。
そんな体験があるので、興味深く読めた。
古い本だが、大きな図書館なら置いているところがあると思うので(筆者も港区図書館から借りて読み、大変気に入ったのでアマゾンのマーケットプレースで買った)、最寄りの図書館をチェックしてみてほしい。
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書評・レビューランキング
Posted by yaori at
07:38
│
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2016年09月10日
パワーリフティングはパラリンピックの正式種目
パワーリフティング(通常はベンチプレス、スクワット、デッドリフトの三種目)はオリンピックの正式種目とはなっていないが、パラリンピックでは正式種目として採用されている。
大会前の東京の都営大江戸線の地下鉄の各駅に、パラリンピック種目が紹介されていた。
筆者の利用する麻布十番駅ではパワーリフティングを紹介していた。
オリンピックでは足の不自由な選手向けにベンチプレスのみの記録で競う形となっている。
上記の写真は
パワーリフティング88キロ級に出場する大堂秀樹選手
のものだ。
すでにリオ・パラリンピックの競技ははじまっており、
54キロ級に出場した西崎選手
は、試技を3回とも失敗して、残念ながら記録なしにおわってしまった。
テレビで見た限りでは、3回目は成功しているように思えたが、失敗の理由がよくわからない。あるいは審判の指示が出る前に、バーベルをラックに戻すとかいったことなのかもしれない。
筆者もここ数年、年に1回、大学の現役の記録会にOBも参加する形で、ベンチプレスのみ参加しているが、直近の記録会では、3回失敗して記録なしに終わってしまった。
練習では一度も失敗したことのない重量だったが、どういうわけか腕が伸びきらなかった。
筆者は40年ほど前は学生のパワーリフティング大会にも出場していた。
学生大会では一度も3回連続失敗というのはなかっただけに、ショックだったが、来年の記録会で雪辱をすべく今はトレーニングの種目構成を変えて、ウェイトトレーニングに励んでいる。
ベンチプレスではパラリンピアンのほうが、健常者より重い重量を挙げるということが起きる。
西崎選手も、東京パラリンピックまでにさらに記録を上げて、ぜひ雪辱をしてほしいものである。
次は
88キロ級の大堂秀樹選手
の活躍も期待したい(
大堂選手の結果はこちら
。東京大会を期してまたトレーニングに励んでほしい)。
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書評・レビューランキング
Posted by yaori at
22:06
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