2006年01月18日

告白 曽我ひとみさんの夫 ジェンキンスさんの自伝 謙虚な人柄がわかります 

告白


拉致被害者曽我ひとみさんの夫のジェンキンスさんの自伝。

読みやすく、自分の脱走を決心した理由なども含め、隠すことなく真実を語ろうという姿勢と人柄に好感が持てる。

波瀾万丈の自伝で、是非一読をおすすめする。詳しく紹介すると興ざめなので、印象に残った部分だけ紹介する。

ちなみに日本テレビでテレビドラマにもなるということだ。


ジェンキンスさんの生い立ち

ジェンキンスさんはアメリカノースカロライナ州東部の人口1,000人あまりのリッチスクエアー出身。1940年生まれなので、65歳だ。

アメリカのYahoo! Mapでノースカロライナの付近の地図を見つけておいたので、興味のある人は見て頂きたい。

リッチスクエアーはRocky Mountから東に行ったところ。

ジェンキンスさん自身が、小さな貧しい町の貧しい家の出だと語っている。

ジェンキンスさんの父親は製氷工場の現場監督だったが、製氷用のアンモニアガスを吸い込んで亡くなった。ジェンキンスさんが11歳の時だ。

出生証明書がなかったため、本来なら17歳以上の州兵に15歳で入隊、その後陸軍の歩兵となり、韓国、西ドイツ、韓国に駐留し、軍曹に昇進した。


脱走して北朝鮮へ

二度目の韓国駐留の時に、ベトナムに派遣されることになり、生きては帰れないと思って1965年にパトロール中に非武装地帯を越え、北朝鮮に入った。

北朝鮮に行けば、ロシアに行けると思って脱走したのだが、それが人生最大の誤りだったと。アメリカの片田舎出身者には驚くほど世界情勢にうとい人がいるので、ジェンキンスさんがこの様に信じてしまったこともうなずける。

先に脱走していた一人から「あなたは片足を煮え湯の鍋に突っ込んでいたのかもしれないが、ここへ来たら火の中に飛び込んだのも同然だ。」と言われたと。

筆者の学生時代にベトナム戦争は終了したが、当時『ベ平連』(ベトナム平和連合)というのがあり、脱走米兵をかくまって逃がす活動などをしていた。


ベ平連と脱走米兵


このように本になっているほどで、当時は脱走兵というのは結構いたのだと思う。

ただジェンキンスさんの問題は、よりにもよって北朝鮮に逃げたことだ。


曽我ひとみさんとの結婚

北朝鮮にはその後40年間とどまることになるが、常に朝鮮労働党(『組織』と呼んでいた)の指導員が付き、監視の元に置かれる生活を送ることになる。

他の3人の脱走兵との共同生活が始まり、1972年前後からそれぞれが、騙して連れてこられたレバノン人、ルーマニア人、タイ人女性と結婚した。

ジェンキンスさんは、『組織』が白人の工作員を育成するために、脱走兵を結婚させたのではないかと考えている。

曽我さんと結婚することになったのも、韓国では米兵との混血児は珍しくないので、生まれた子供を韓国に潜入させる工作員とするためだったのではないか。

ジェンキンスさんは40歳になるまで、ずっと一人でいたが、1980年に曽我さんと出逢う。曽我さんと初めて会った時はこんな美しい女性をそれまで見たことがなく、知り合って40日で結婚式を挙げた。

曽我さんは1978年に19歳で拉致され、1977年に拉致された横田めぐみさん(拉致当時13歳)と一緒に1年半生活し、横田めぐみさんより朝鮮語を教えて貰った。

曽我さんの朝鮮名はミン・ヘギョンと言っていたそうだが、横田めぐみさんが娘にキム・ヘギョンという名前を付けたのは、曽我さんの朝鮮名からではないか。

ジェンキンスさんは曽我さんとの間に2女をもうける。美花さんとブリンダさんだ。美花さんは北朝鮮のプロパガンダ教育のために、最後まで日本に行くことには難色をしめしていたそうだが、「日本に来て北朝鮮を離れたのは人生で最高の決断だった」と確信するようになった。


北朝鮮での生活

ジェンキンスさんは北朝鮮での生活についても詳しくふれている。北朝鮮の中でも『特権階級』であったはずだが、それでも食うや食わずの生活だった。とても日本では考えられない窮乏生活だ。

北朝鮮では冬が最悪だ。

毎年アパート4世帯分として20トンの石炭を配給されたが、自分で粘土と一緒にこねて安定して燃える燃料としなければならなかった。全身真っ黒となり、大変な重労働だった。

それでも暖房が効かないので、もし水の配管が凍結したりすると、それこそ最悪だった。

電気の供給もひどい。

1997年以前は夏のあいだは半日は電気が来ていて、冬は停電が多かったが、1997年以降は冬はほとんど停電、主要な祝日以外はまったくといっていいほど電気の供給はストップしていた。

水も不衛生で、沸かさないと飲めないが、ガスの配給が限られているので料理をすると風呂を沸かすガスが残らず、20年あまりの間で家で熱い風呂に入った回数は5本の指で足りる。

食料も配給(有償)だけでは足りず、自分たちでトウモロコシや野菜などをつくり、物々交換した。

昼食はいつもひとみさんと一緒にトウモロコシでつくった麺を食べていたので、もう
見るのも嫌だと。

娘さんの学校の給食も米を供出しなければならなかったが、持っていった米の半分はくすねられてしまった。

北朝鮮での最大の問題は盗難であり、軍も警察も全く当てにならない。生きるために彼らが盗むのだ。だからジェンキンスさんたちも交代でトウモロコシ畑を寝ずの番をしていた。

娘さんたちが通っていた外国語大学(付属高校)も、北朝鮮の政府幹部エリートの子女が行く学校だが、窃盗の温床だった。



曽我ひとみさん帰国

娘さんたちは外国語大学で工作員として教育され、やがては外国に送り込まれ、家族には消息不明となってしまうのだろう。そんなことを予感する毎日だったが、2002年9月17日に決定的な変化が起こる。

北朝鮮が小泉首相に渡した生存拉致被害者のリストに、曽我ひとみさんが含まれていたのだ。

曽我ひとみさんは日本政府の拉致被害者のリストに入っていなかった。母親のみよしさんと一緒に失踪したと思われていたのだ。

小泉首相が2002年に北朝鮮を訪問する際に、北朝鮮が生存拉致被害者の一人として発表したので、日本では寝耳に水だった。

筆者も覚えているが、手書きのハングルのメモがテレビで報道され、そのうち多くの人が死亡と書かれていたのだ。

それからは日本でも知られている展開だ。まずは曽我ひとみさんと他の拉致被害者合計5名が一時帰国し、北朝鮮に戻ることを拒否した。

北朝鮮では日本政府が曽我さんの帰朝を阻止していると伝えられていたので、曽我さんが日本に帰国してからは、ジェンキンスさんは落胆して酒浸りになっていた。

小泉首相の2度目の訪朝の際に、小泉首相がジェンキンスさんと会って、帰国を勧めるが、ジェンキンスさんは北朝鮮から誤った情報を伝えられていたので、小泉首相を激しく非難する。

そこで第三国で家族が会うことを小泉首相が提案し、インドネシアで再会し、その後一家で日本に来たのだ。


横田めぐみさんの消息

横田めぐみさんの娘、キム・ヘギョンさんは曽我さん達が帰国する際に、空港に見送りに来ていた。

ジェンキンスさんの推測では、キム・ヘギョンさんは陸軍のナンバープレートの車で来ていたので、横田めぐみさんは北朝鮮軍か工作員と結婚しているのではないか。

めぐみさんが海外で暮らしていることもありうるのではないか。

北朝鮮が北朝鮮人と結婚している日本人の帰国を認めるはずはないので、死亡したとされている拉致被害者の中には、北朝鮮人と結婚している人がいるのではないかと思うと。

もし横田めぐみさんの夫が現役の工作員だとすれば、北朝鮮はキム・ヘギョンさんをいわば人質として利用し、めぐみさんと夫が名乗り出ることができないようにしている可能性もある。


日本での永住を決意

日本で米国陸軍に復隊した後、軍法会議にかけられる。司法取引で脱走罪で25日間の禁固刑を終え、晴れて陸軍を除隊した。

今は曽我さんの故郷の佐渡で暮らしており、娘さん2人も日本に慣れ、新潟の大学に通っている。保育士になったり、音楽関係の仕事につきたいというのが娘さん達の願いだそうだ。

選択の自由がある社会で暮らしていることをありがたく思う。

カラオケではエルビス・プレスリーの歌が好きだそうだ。(ちなみに小泉首相もエルビスのファンらしい)

なにせ40年間も北朝鮮にいたので、財産は一切亡く、銀行口座も生まれて初めて日本でつくった様な状態だが、この本の出版契約がまとまったので、自費で故郷のノースカロライナに家族で行き、91歳の老母や親族とも再会を果たした。

日本の税金は一切使わずに行った。

現在は佐渡で畑仕事をしたり、英会話教室を手伝ったりしているが、免許を取り、普通の仕事につきたいと。ガソリンスタンドで働いても良いし、自動車修理や、大工仕事も得意だ。

もう65歳なのに、なんて素朴で謙虚な人なんだ!

重いストーリーではあるが、心が洗われる思いだ。一読をおすすめする。


参考になれば次クリックと右のアンケートお願いします


人気ブログバナー





Posted by yaori at 13:02│Comments(0)TrackBack(0) 自叙伝・人物伝 | 拉致問題

この記事へのトラックバックURL