2006年05月17日

戦略の本質 近年の世界戦史から戦略を学ぶ

戦略の本質 戦史に学ぶ逆転のリーダーシップ


名著『失敗の本質』に続く20年ぶりの戦略研究と組織論。

前作と同じ、野中郁次郎一橋大学教授を中心とするグループの共著である。


失敗の本質―日本軍の組織論的研究


前作の『失敗の本質』は1984年出版の本ながら、いまだにコンスタントに売れており、まさにロングテールの好例で、日本軍の第2次世界大戦中の失敗作戦を詳しく研究し、これを経営学や組織論に役立てようというもので、戦略研究ではない。

今回の『戦略の本質』も同様の目的で、毛沢東の反包囲討伐から始まり、ベトナム戦争に至るいくつかの戦争の、逆転の流れをつくった事例に基づいて戦略の本質を突き詰めるとともに、リーダーシップの本質を洞察しようとしたものである。

この本で取り上げられている戦いは次の通りだ:

1.毛沢東の反『包囲討伐』戦

2.バトル・オブ・ブリテン

3.スターリングラードの戦い

4.朝鮮戦争

5.第4次中東戦争

6.ベトナム戦争

この中で印象に残った部分を紹介しよう。


バトル・オブ・ブリテン

バトル・オブ・ブリテンは第2次世界大戦初期の1940年7月ヒットラーがイギリス上陸の前哨戦としてイギリスの制空権を狙って始めた航空戦だ。

急降下爆撃機スツーカなどを持つドイツ空軍はブリッツ(電撃戦)の花形としてポーランド、フランスでは戦果を挙げ、敵に恐れられていたが、レーダーを初めて実戦に導入し、組織的に防衛するイギリス空軍に対し消耗を重ね、3ヶ月後の10月にヒットラーはイギリス上陸を断念する。

バトル・オブ・ブリテンの勝因として、著者はチャーチルと初代戦闘機兵団司令官のヒュー・ダウディング大将のリーダーシップを挙げる。

チャーチルはダウディングの進言を取り入れ、フランスへの戦闘機駐留を引き揚げ、来るべきイギリス防衛の為に戦闘機とパイロットを温存する。また航空機生産省を新設し、戦闘機の生産を1939年比4倍強の500機/月とした。

1940年7月時点でドイツ空軍の戦力は爆撃機等1,600機、戦闘機1,100機に対し、イギリス軍の戦闘機は旧式機を除くと700機のみだったので、チャーチルの増産決定がイギリスを救うことになる。

ダウディングは空軍の研究開発部門の責任者だった時から、レーダーの可能性を高く評価して開発を推進し、レーダーによる早期警戒ネットワーク、陸軍の高射砲部隊と迎撃戦闘機を連携させた防空システムをつくりあげた。

これらすべてをダウディングの戦闘機兵団の指揮命令下におき、さらに状況に即応して下部司令部が動ける様に権限移譲し、集中統制と現場の自主判断がうまくかみ合って柔軟に対処できる体制もつくり上げていた。

実際バトル・オブ・ブリテンが始まるとドイツ軍の戦闘機と爆撃機の能力不足が明らかになった。

急降下爆撃機のスツーカは速度が遅いので、使い物にならず、双発爆撃機が中心となったが、爆弾搭載量が少ない上に、迎撃機が来ると爆弾を捨ててしまうため、なかなか有効な爆撃ができなかった。

護衛戦闘機のメッサーシュミット109は航続距離が短いため、爆撃機の有効な援護ができなかった。

またドイツ機にはなかった、燃料タンクの防護装置とか戦闘機操縦席後部の装甲板など、防御重視の思想がイギリスの損失をくい止める効果もあった。

イギリスは450名のパイロットを失うなど、損害は少なくなかったが、戦力の絶頂にあったドイツ空軍と互角以上に戦い、自国の存亡の危機を切り抜けたのだ。

リーダーシップと綿密に考えられた防衛戦略が、バトル・オブ・ブリテンの勝利をもたらした。


スターリングラードの戦い

スターリングラードの戦闘は第2次世界大戦における最大規模の地上戦とも呼ばれ、1942年6月から1943年2月まで展開された。

ドイツ軍は1939年9月にポーランドを侵攻し、ソ連と分割協定を結んだ後、フランスなどの西部戦線に集中し、破竹の勢いで進撃していたが、バトル・オブ・ブリテンで挫折した。

ヒトラーはイギリスと裏で手を結んでいるソ連を屈服させれば、イギリスも手を挙げるだろうと考え、1941年6月にバルバロッサ作戦と呼ばれる300万人のドイツ軍によるソ連侵攻を開始した。

タイガー戦車などを主力にするドイツ軍に不意をつかれたソ連軍は敗戦に次ぐ敗戦を重ねたが、冬将軍のおかげで戦線膠着化に成功した。

1942年4月にヒトラーは膠着状態を打破し、カスピ海の油田を確保するとともに、米英からソ連への援助物資ルートを絶つ目的で、ソ連のアキレス腱ともいえる南部ロシア侵攻を決定した。

1942年5月にはドイツ軍の戦車を中心とする機動部隊がボロネシのソ連軍を撃破し、ソ連軍は急遽退却した。

ヒトラーはソ連軍の退却を見て、ソ連軍が瓦解しつつあると勘違いし、スターリングラードとさらに南のカスピ海への入り口カフカスの両方を攻めるために、機動部隊を分断して進軍した。

しかしソ連軍の退却はドイツ軍を分断して引き入れる作戦であり、ヒトラーはこれにまんまとはまり、兵站線を延ばされた。

スターリングラードには1942年8月に侵攻したものの、ソ連軍の市街戦に悩まされ、結局冬まで制圧できなかったところ、11月になりソ連軍は急遽反転、スターリングラードを包囲し、翌1943年1月にドイツ軍は降伏した。

包囲されたドイツ軍30万人のうち、生き残った将兵9万人はシベリアで抑留され、1万人のみがドイツに生還できたという悲惨な結果となった。

この戦いもソ連のスターリンとその部下フルシチョフ、現地の指揮官チェイコフ中将らのリーダーシップと戦略が勝利をもたらしたのだ。


朝鮮戦争

1950年6月から3年1ヶ月にわたって戦われた朝鮮戦争は、双方に犠牲ばかり多くて得るところのない戦いだった。

朝鮮戦争は、北朝鮮軍の韓国軍に対する奇襲攻撃で始まり、3日後にソウルを占領、一挙に南のプサン近辺まで攻め下る。これに対しアメリカ軍(国連軍)の参戦、中国軍の参戦とエスカレートし、何度も双方の勢力が38度線を越えたり、越えられたりするという攻防が繰り広げられた。

朝鮮戦争のハイライトは開戦直後プサン周辺まで押し込まれた韓国・国連軍が、マッカーサー指導の元、仁川上陸作戦で一挙に劣勢を挽回し、北朝鮮軍を挟み撃ちにして敗走された作戦である。

仁川はソウルから30キロのところにあり、ここを制圧すれば首都ソウル奪還は容易だが、干満差が7メートルあり上陸作戦には適しない場所である。

このため海兵隊はじめ、陸海軍首脳はマッカーサーの仁川上陸作戦に反対し、より安全な群山への上陸を提案したが、誰もマッカーサーを翻意させることができず、マッカーサーは仁川上陸作戦命令を出した。

北朝鮮軍の仁川の防備は弱かったため、国連軍は上陸を成功させ、ソウルを奪還し、南を制圧し、10月には北朝鮮の平壌を占領、敗走する北朝鮮軍を追撃して鴨緑江まで攻め上がった。

中国軍が義勇軍として10月に参戦し、300万人の兵士が参戦、60−90万人とも言われる多大な犠牲を払って国連軍を追い返し、一時はソウルを再度奪還した。

金正日が中国に頭が上がらない訳である。

2月には国連軍は再度盛り返し、ソウルを奪還、38度線付近まで攻め上がる。

原爆使用を求めるマッカーサーは4月にトルーマン大統領に解任され、それ以降戦線は膠着し、7月から休戦会議が始まり、2年後の1953年7月に休戦協定が板門店で結ばれて終結する。

朝鮮戦争でもきわだつのはマッカーサーの仁川上陸作戦を敢行したリーダーシップである。


第4次中東戦争

イスラエルは1967年の第3次中東戦争の圧倒的な勝利で、領土を3倍に増やし、ヨルダン川西岸とスエズ以東の地域を獲得して、アラブは軍事的に無力であるとの印象を世界中に植え付けたが、先制攻撃に対する世界の批判は強く、イスラエル支持国はアメリカのみの国際的孤立状態に陥った。

このためイスラエルは領土の現状凍結をめざして、卓越した情報能力、圧倒的に優勢な空軍と機甲師団、スエズ運河の水障害等により防御システムを構築し、アラブとの全面戦争は阻止できると信じていた。

エジプトの指導者サダトは1970年に死去したナセル大統領と士官学校の同期であるが、指導者としての能力はないと見られていた。

そんなサダトは1973年10月に第4次中東戦争を起こし、今度は3週間弱でイスラエルの戦闘能力の多くを無力化するという大戦果を挙げ、イスラエルとの関係を対等として1978年のキャンプ・デービッド会談を経て、エジプト・イスラエル平和条約調印を実現させるという政治力を発揮した。

サダトはソ連から大量に武器を購入する一方、アメリカにも接近したが、時の国務大臣キッシンジャーはエジプトを相手にせず、イスラエルに一矢報いないことには、和平交渉も進まないと判断したサダトは、対イスラエル戦の準備に入る。

1973年10月にシリア・エジプト連合軍はイスラエル軍の航空基地への攻撃を開始、同時に陸上戦も開始した。

エジプトはイスラエルに徹底的にやられた6日戦争の反省を元に、イスラエルの航空勢力、機動部隊、スエズ渡河作戦にいずれも新しい戦術で臨んだ。

イスラエルは圧倒的な航空戦力を誇っていたが、エジプトは各種ミサイルと対空砲火でイスラエルの航空戦力の23%を奪い、イスラエル空軍が支援行動に入るのを阻止した。

イスラエルは旧式のソ連製対空ミサイルの電波攪乱装置を開発していたが、エジプトは新型のミサイルを導入し、低空用と高空用のミサイルの組み合わせでイスラエル機を面白いように打ち落とした。

地上戦ではイスラエルの戦車を中心とする機動部隊が圧倒していたが、エジプトはこれに歩兵で対抗する作戦を取り、480台のイスラエル戦車を破壊した。この主要武器は携行式対戦車誘導ミサイルのAT-3サガーとロケット砲RPG-7Vである。

またスエズ運河をわたって攻め入り、重装備を輸送するには、スエズ沿岸にそびえ立つ高さ10−20メートルの堤防を崩して通路をつくる必要があったが、エジプト軍はドイツ製の高圧放水ポンプを購入して、放水で堤防を崩す作戦で成功し、短時間に60以上の補給・増援路をつくった。

サダトのリーダーシップのもと、エジプト軍のまさに臥薪嘗胆の思いがイスラエルをうち破ったのだ。


以上4つの戦いのあらすじを紹介したが、いずれもすぐれたリーダーの強い指導力によって勝利を得た例である。すぐれたリーダーがつくったすぐれた戦略、これが戦争でもビジネスでも勝つ組織の要因だ。


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Posted by yaori at 00:22│Comments(0)TrackBack(0) 野中郁次郎 | ビジネス

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