無形の力―私の履歴書
2006年から楽天球団の監督になった野村克也氏が日経新聞に連載した『私の履歴書』。
次回紹介する『野村ノート』が野球論をベースにしたビジネス書であるのに対して、こちらはまさに野村さんの経歴と野球観。
野村克也氏に関するウィキペディアの説明も非常に良くできているので、是非クリックしてご覧頂きたい。
この本のタイトルとなっている『無形の力』というのは楽天球団のスローガンで、宮城フルキャストスタジアムにも横断幕が掲げられている。
野村克也氏は監督経験も長いが、評論家時代も長かったので、野球関係者としては驚くほど多作だ。アマゾンで『野村克也』で検索すると、自らの著書中心に41件がヒットする。
たぶん次に多作と思われる野球評論家の『豊田泰光』でアマゾン検索すると12件なので、野球関係者の著作の多さではたぶんトップではないか。
ちなみに『長嶋茂雄』でアマゾン検索すると、長嶋さん自らの著作はほとんどないが、長嶋論的な本が多数出ており、ヒット数は80件にものぼる。やはり話題性では長嶋さんがトップなのだろう。
また『王貞治』では23件ヒットし、王さん自身が書いた『少年野球』という本も出てくる。いかにも少年野球育成に力を入れた王さんらしい。
アマゾン検索だけでも結構いろいろなことがわかるものだ。
ちなみに野村さんの著作の中には『女房はドーベルマン』という面白いタイトルの本もある。
女房はドーベルマン
サッチーで知られる奥さん野村沙知代さんが人生の伴侶として、野村さんの不可欠のパートナーであることが、この『無形の力』からもよくわかる。
野村さんの経歴
野村さんは天橋立に近い京都府網野町で生まれた。父親が野村さんが3歳の時に中国で戦死、母子家庭として貧困の中で育つ。イモや雑穀混じりのご飯が常で、コメのメシなどほとんど食べたことがなかったと。
中学卒業時に家庭が貧しいので、母親から就職するように頼まれるが、学業優秀だったお兄さんが、自分が大学進学を断念して就職するので、野村さんを高校に進学させてくれと頼んでくれ、峰山高校に進学することができた。
野球を本格的に始めたのは中学2年からで、キャッチャーで4番だった。大人顔負けの飛距離で中学でも高校でも頭角を現し、高校の野球部長の紹介でキャッチャーの弱かった南海の入団テストを受ける。
肩が弱かったので90メートルの遠投ができなかったが、審査員の温情で内緒で遠投ラインを5メートルほど越えて投げさせて貰い合格する。
なんとか入団したが、収入は驚くほど低かった。2年目で解雇されそうになるが、泣いて頼んで残して貰う。
必死に練習し、当時野球に悪影響があるという迷信のあった筋力トレーニングをひそかに実施して弱肩を克服、3年目から1軍のレギュラー捕手の地位を確保した。
母親を早く楽にさせたいという一念が、野村さんの成功の最大の原動力だ。
努力を重ね、弱点を克服する一方、観察力を磨き、テッド・ウィリアムスの『打撃論』を読んで、打てなかったカーブも投手の小さな変化、クセを見逃さないことで打てるようになる。
1960年からは『野村メモ』を取り始める。
それまで歯が立たなかった大投手稲尾も、クセを発見して3割近くまで打ち込むことができるが、同僚の杉浦がオールスターで3人一緒になった時に、稲尾にばらしてしまう。
『野村が投手のクセを見ている』といううわさはすぐに他チームに知れ渡り、投手が振りかぶる時にグラブでボールを隠すようになり、クセを封印したので、その後は配球の読みの勝負となった。
それ以来チームメートにも企業秘密は絶対に口にしないと心に決めたと。
南海での8年連続ホームラン王、6年連続の打点王、1965年の三冠王など、それからはサクセスストーリーだ。
この本ではその時々の対戦相手、同僚との逸話が紹介されており面白い。
南海プレイングマネージャー時代
1970年から南海でプレイングマネージャーとなり、1977年にサッチーの件で解任されるまで、優勝一回、在任八年間で、Aクラス六年という実績を残した。
監督を辞めるときの言葉が「長嶋や王はひまわり。自分は月見草」だ。
南海時代に影響を受けたのはヘッドコーチのブレイザーだと。
ブレイザーは後に『シンキング・ベースボール』を出版したが、大リーグではここまで考えて野球をしているのかと、南海の全員が驚いた。
たとえば「ヒットエンドランの時は、二塁手かショートのどちらが二塁カバーに入るか一塁ランナーはスタートを切るふりをして確かめろ。打者はそれを見て、ベースカバーに入る方へ打球を転がせ」といった具合だ。
今でこそ常識となっているが、当時は画期的なことで、自分たちは高度な野球をしているのだという自信になり、ブレイザーの教えがヒントとなって野村さんは野球哲学を確立した。
山内、江本、江夏を再生し、野村再生工場と言われたのも南海監督時代からだ。
監督退任後、ロッテ、西武で現役を続け、試合の締めくくりに登場し『セーブ捕手』という言葉ができるほどだったが、ある時8回1死満塁で代打を送られた時に「代打策が失敗するように」とチームの不幸を祈る自分に気がつき、引退を決意する。
1980年に引退した後は、解説者/評論家となり多くの本を読み、気に入った文章はノートに書き写すことで、『ノムラの考へ』を作り上げていった。
ストライクゾーンを9マスに区切った『野村スコープ』で配球をテレビ解説したのもこのころだ。
ヤクルト監督として返り咲き
評論家生活も9年めとなった1989年にヤクルト球団相馬社長が訪ねてくる。
「野村さんの解説を聞いたり、論評を読んだりして感心していました。うちの選手に野球の神髄を教えてやってくれませんか」と。
ヤクルトでは「一年目にまいた種を二年目に水をやり、三年目に咲かせる」という約束を見事実現する。
古田に対する英才教育を始め、チーム全員に野村ID(Important Data)野球を熱心に指導することにより、ヤクルトは考える野球、他より進んでいる野球をやっているという優越意識を植え付け、九年間で4回優勝、うち日本一3回を達成する。
ヤクルト監督を生え抜きの若松に譲り、辞任したあと、すぐに阪神から監督就任要請が来る。
阪神監督では成果があらわれず
阪神久万オーナーが出馬して「私が直接出てきて監督就任をお願いするのは野村さんが初めてです。」
「今タイガースはどん底にあります。来年、一からスタートするのに当たり、監督にふさわしいのは野村さんしかいない。野村さんは球界の第一人者。あなたの右にでるものはいません」と美辞麗句を並び立てる。
「すべて野村監督の言う通りにする」とのオーナーの言質を持って、万年最下位チームを立て直そうとするが、長年の甘やかされ体質を改善できず三年間最下位で監督退任。
しかし野村さんが次期監督に推薦した星野仙一監督が野村路線を引き継ぎ、戦力増強と熱血指導で選手をのせ、チーム改革に力をそそいだ結果、就任二年目で優勝。
野村さんはその後知人のシダックス志太会長に請われ、社会人野球の監督を3年勤めた後、2006年からは楽天に招聘され、監督となる。
今年は楽天監督だ
2005年に誕生した楽天球団ではあるが、全く『野球に対するチームの骨格』ができていない状態で、野村さんは『一からの出発ではなく、ゼロからの出発である』と語る。
優勝をねらえる球団にするにはまだまだ時間が掛かるが、野村さんの経験や知識を伝えていけば、チームとしての基礎づくりができると信じて火中の栗を拾うことにしたのだと。
野村さんは弱小球団に縁があると語るが、弱者の戦略。それが『無形の力』である。観察力、分析力、判断力、記憶力、決断力を磨いて活路を見いだすのである。
野村さんは阪神時代の失敗からも学んだ。リーダーには統率力、指導力の二つの力が必要だが、その根本にあるのが選手との信頼関係であると。
裸の王様ではどんな優れたリーダーでも力を発揮できないのだと語る。
母子家庭の貧困から出発し、ハングリー精神で必死に努力し、勉強して過去の失敗に学ぶ野村克也監督。2006年に楽天球団がどう変わるか、期待して見守りたいという気持ちにさせる好感の持てる野村さんの履歴書だった。
『ささやき戦術』にも長嶋さんは無反応だが、人の良い王さんとは会話がはずむなど、長嶋さん、王さんらしい逸話も載っている。面白く読める本だった。
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