2006年05月07日

満天の星 平野岳史フルキャスト社長の等身大サクセスストーリー

満天の星―フルキャスト物語


楽天球団の宮城球場のネーミングライトを買い、一躍知名度が上がった総合アウトソーシング受託業フルキャストの平野岳史(たけひと)社長の自叙伝。

貧困をバネにした若者の味方の等身大サクセスストーリーだ。

野村克也さんの履歴書『無形の力』を紹介した後だったので、野村さんの貧しい母子家庭からの生い立ちの再現を見る様だ。

ベンチャー経営者の本は、藤田晋さん野尻佳孝さん落合正美さんなどの著書を紹介してきたが、平野さんのストーリーは、テイクアンドギブニーズの野尻佳孝さんの話、インデックスの落合正美さんの話を思い起こさせる。


平野さんの生い立ちから学生時代まで

平野さんは1961年生まれで神奈川県横浜市出身。8歳の時に父親が病死、母親が工場に勤めながら、平野さんと弟を苦労して育てる。

ちいさな『マッチ箱のような家』を友達や先生にバカにされたこともあり、「貧乏はイヤだ!」「今に見ていろよ。必ず金持ちになってやる。マッチ箱をでっかいビルにしてやる」と決意する。

平野さんは人をもっとも成長させる感情は悔しさであると語る。

野村さんの『無形の力』と同様に、小さい頃からアルバイトを掛け持ちしてお金を稼ぎ家計を助け、また女手一つで働いた母親の大病で、兄弟が路頭に迷う危機に直面する。

中学では生徒会長を務め、統率力をつける。貧しいながらも公立高校に進学し、ラグビーとアルバイトに明け暮れながらも、出来高制のアルバイトを中心に、働き方のコツを体得する。

横浜市立南高校ラグビー部ではキャプテンとなり、部員が少ないながらも横浜市のベストフォーまで持っていく。平野さんのポジションも筆者と同じプロップだ。このときのラグビー仲間を後にフルキャストに引っ張る。

アルバイトで学資も貯まっていたので、神奈川大学に進学するが、どうしても出席が必要な科目以外はノートを借りて試験をクリアーし、もっぱらバイトに精を出すという学生生活を送る。

教材販売のアルバイトと平行して、家庭教師もやっていたが、引く手あまたで自分では対応できないため、教材を販売しながら家庭教師の斡旋を行い、販売マージンと紹介料を二重に稼ぐという、後の家庭教師センターの原型となる仕事をはじめ、かなりの収益をあげ、アルバイトの域を超える。

このときの教材販売会社で、社長はなにもしないで座っているだけで、1日10万円儲かると思い、「就職するより、自分で何かをやった方が何倍も面白い」と起業をこころざす。


いったんは就職

仲間と”交流会”と称する合コン企画などをやり、すでにサラリーマンの初任給の数倍の収入があったが、結局仲間は皆就職し、平野さん自身もやむなく三年経ったらやめるつもりで商品先物取引のハーベストフューチャーズ社に入社した。

卒業旅行でアメリカに行くが、この時知り合った仲間の一人がフルキャストテクノロジー社長の貝塚さんだ。

この三年間の起業準備期間に平野さんは次の3つの課題を自らに課した。

1.どんな職種で起業するか、アイデアをみつけること

2.そのアイデアに投資してくれる出資者をみつけること

3.一蓮托生できる仲間を見つけること

まさに起業の三要素だが、これらを見つけるために就職したのだ。

ハーベストフューチャーズ時代は、『ガチャ切り』が9割というハードな電話営業にもかかわらず、着実に実績を上げトップセールスマンとなりポジションも上がるが、慰留されながらも当初の予定通り退社する。


一時フリーター生活へ

会社を辞めたものの、起業に必要なアイデア、出資者、仲間が揃っていなかったので、今で言うフリーター、ニートの生活に突入する。

朝6時半からゴルフ練習場で球拾いのアルバイト、次はチラシ配り、住宅リフォーム業の飛び込み営業、夜は家庭教師派遣のテレホンアポインターで働いた。

営業力を見込まれ、家庭教師派遣センターの営業アルバイトを始めるが、その時出逢ったのがフルキャストファクトリー社長の石川さんだ。

アルバイトの浪人生ながらも、人なつっこく聞き上手な石川さんは子供やお母さん相手の営業に抜群の実績を残していた。「ドラクエの裏キャラの見つけ方知ってる?」などが石川さんの必殺技だ。

やがて平野さんと石川さんは家庭教師派遣センターでツートップといわれる優秀な営業マンコンビとなった。契約率は7割を上回っていたと。


家庭教師派遣で起業

一時プロゴルファーに憧れて練習場通いをするが、25歳からの転身は無理と、あっさりあきらめ、石川さんと後に奥さんとなる恋人の三人で『神奈川進学研究会』という家庭教師派遣センターを電話一本で起業する。平野さんが26歳の1987年のことだった。

最初は『家庭教師やります』のスーパーの張り紙を見て学生に電話をして、家庭教師登録をはたらきかける。まさに足で稼ぐというやり方だった。

資金はサラリーマン時代に貯めた300万円の貯金だったが、貸しオフィスを借り、テレホンアポインターを雇い、営業アルバイトも雇って、見る見るうちに減っていった。

給料も10万円程度にしかならず、何度もやめようと思ったが、負け犬にはならないという気概でなんとか踏みとどまる。

そのうち幻の創業メンバーの貝塚さんがジョイン。猪突猛進型の平野さんと誰からも好かれ、敵を作らず補佐役に回る貝塚さんはいいコンビになれる予感があったと。

4人となり、チラシをつくって営業した。チラシには一箇所しか事務所がないのに、本部、横浜事務局、XX事務局といくつもの連絡先を書き、転送電話で一箇所にあつめ、名刺には第四営業部などと書いて少しでも大きく見せようとした。

神奈川進学研究会を1989年に株式会社に改組し、五年目には売上高一億円を超えたが、もっと大きくするため次のビジネスモデルを考える。


人材アウトソーシング事業への進出

1992年にグッドウィルグループに吸収される株式会社ラインナップの佐藤修さんと知り合い、働く意欲は旺盛な4,000人の学生登録者がいるにもかかわらず、家庭教師としての稼働率が1割にとどまることを逆手に取り、彼らを軽作業請負スタッフとして派遣することを始める。

最初に引き受けた引っ越しのアルバイトで意外なクレイムを受け、これが平野さんにビジネスチャンスを実感させる。

約束通り5人そろえ、モーニングコールで念を押して時間通り行くと、なぜこんなに早く来るのかと、また5人も要らない、3人で十分だと言われる。

人材紹介業界はルーズで、約束しても遅刻・欠勤は当たり前、最初から余裕を持って人数や時間を伝えるのが習慣となっていると。普通のことを普通にやるだけで一歩も二歩もリードできると平野さんは勝機を見いだした。

これが軽作業人材アウトソーシング業フルキャストの事業化の瞬間である。

平野さんはみずからもアルバイトで現場で働き、ビジネスチャンスを研究するとともに、スタッフを送り出す事前調査も行った。

人は誰でも活躍したいと願っているが、その『場』と『役割』を見つけられず、足踏みしている人が大勢いるのだと

平野さんが始めようとしているのは、そんな場と役割を提供する手助けだ。


フルキャスト創業前の思わぬ災難

1992年フルキャスト設立準備中に車に置いたバッグの中から預金通帳と印鑑を盗まれ、創立資金1,200万円を盗まれる。

失意の中家に帰り、奥さんに一文無しになったことを告げると、奥さんは一言。

「しょうがないじゃない」

「だって、盗まれたものは考えてもしょうがないでしょ?まあ、またがんばればいいじゃない」

スゴイ!腹の据わった奥さんだ。

奥さんの一言に救われ、心を入れ替え、翌日から金策に走る。銀行からは逆に融資を返せと言われるが、保証協会の保証があったので、なんとか切り抜け無事フルキャストを創業する。


ブルーカラー派遣で急成長

広告で軽作業スタッフを募集すると予想の50倍の人数が集まる。日当日払いが武器となったのだ。

創業後数ヶ月で家庭教師センターの売上を抜く。

人がやりたがらない不人気業種を対象に人材派遣をやろうというねらいが成功したのだ。

日本の就労人口6,500万人のうち、ほぼ半数の3,000万人が工場、建設現場、物流関係で働くブルーカラーだ。また軽作業の99%は普通の仕事でブルーカラー=3Kというのは誤解なのだと。

フルキャストは1.スタッフの遅刻・欠勤が常識化している、2.発注してからスタッフが揃うまで時間が掛かる、3.料金体系が不明瞭、4.スタッフの質が悪いという人材派遣業界の悪しき習慣に挑戦し、これをうち破ることで急成長した。

通常人材派遣は前々日の昼までだが、フルキャストは前日3時まで発注OKというのを強みにしている。元々確保しているスタッフ数をベースにオーダーを受けるというやり方をしたからなのだ。

東東京支店を秋葉原につくり、二年目は一挙に売上が三倍に。

大阪への出店は阪神淡路大震災の直後で、復興の手助けで大忙しだった。平野さん自らも大阪に半年ほど単身赴任して復興を助ける。

フルキャスト創立四年目の1996年には売上35億円、渋谷に自社ビルを購入し本社を移転した。


上場を機にさらに拡大

ライバルのグッドウィルが上場を目指しているとの噂を聞き、フルキャストも上場を目指す。1998年の売上高は65億円、社員150名。ホワイトカラーの派遣もスタートし、売上高100億円に手が届きそうになった。

グッドウィルは1999年7月に上場し、ITバブルの真っ盛りでたちまち時価総額は一兆円を超えた。

フルキャストの業容は拡大しているのに、キャッシュフローはきつく、まずは第三者割り当て増資を実施し、同時に平野さん個人向けにワラントを発行。これにより平野さんの持ち株比率は80%超となる。

1999年に派遣法が改訂され、港湾運送業務、建設業務などを除いて軽作業の派遣が原則自由化され、追い風が吹いた。

野村総研はブルーカラーの軽作業請負マーケットは2,000年に800億円になると予測。

上場時期を2001年3月と設定していたが、新規上場バブル崩壊の余波を受け、主幹事証券が延期を提案してくる。

すでにワラントを行使していた平野さんは多額の借金を抱え、個人的にもギリギリの状態で、延期すると上場を夢見て猛烈に働く社員も平野さんも持たないと考え、幹事証券を外資系のHSBC証券に変え、上場を決行する。HSBC証券にとってもIPO案件の第一号だった。

69万円で上場した株価は160万円まで上昇したものの、すぐに急落一時は19万円まで落ち込む。日経新聞の2001年の最も失望した企業のトップ3となる。

しかし工場の製造ラインをまるごと請け負うフルキャストセントラルをトヨタ自動車と組んで立ち上げるなど、時代の流れはアウトソーシングに流れており、様々な業種でアウトソーシング事業が拡大し、事業はさらに拡大、株価も3年で回復する。

フルキャストの業績を見ても急成長しており、2006年度の予想売上高は1,000億円に届こうかという950億円で、純利益38億円を見込んでいる。

いまや押しも押されもしない人材アウトソーシングのトップ企業だ。


若者を応援する企業

2003年の厚生労働省の調査ではフリーターは217万人、ニートは52万人とも言われているが、若者を応援する企業になることがフルキャストの基本方針である。

平野さん個人が半分負担するフルキャスト奨学金や、フリーターズスクールも開校し、フリーターが自立できるような支援も始めており、あまり目立たないが社会的に意義のある企業活動をしている会社である。

楽天の三木谷さんは時々コースを一緒にまわる友人で、スコアも75前後、ハンディも8ということで良いライバル同士だ。地に足ついたストイックな経営者という雰囲気の人であると。

楽天がプロ野球に参入することが決まったとき、スタジアムのネーミングライト購入を申し出た。3年契約6億円だったが、宣伝効果はコマーシャルなどとは比較にならないほど大きかったと。

フルキャストスタジアムで始球式のあった後、『満天の星』を見上げ、星の一つ一つがフルキャストのスタッフの一人一人で、それぞれが独特な美しい輝きを放てるように最大限の努力をすることが自分の大切な仕事で、それを誇りにしたいと結んでいる。

気骨のあるベンチャー経営者の自叙伝。面白く読め、おおいに感心した。等身大の平野さんがわかる良い本だった。


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Posted by yaori at 09:55│Comments(0) ビジネス | 自叙伝・人物伝