2007年05月21日

日米通貨交渉 80年代の日米交渉の推移がよくわかる

日米通貨交渉―20年目の真実
日米通貨交渉―20年目の真実


いままで資料が少なかった1980年代の日米交渉の推移を、交渉当事者の一人だった内海孚(うつみ まこと)元財務官の1983年から1986年までの駐米公使時代の応接録(面談記録)をベースに、当時の日米の通貨当局者へのインタビューや寄稿を加えて再現した興味深いレポート。

著者は日本経済新聞編集委員の滝田洋一さんで、財団法人鹿島平和研究所の評議員を務める高橋元さん(元大蔵事務次官)、大場智満さん(元財務官)、内海孚さん(元財務官)他の協力で編集された。

インタビューした米国政府関係者は次の通りだ:
リチャード・ダーマン(元財務副長官)
チャールズ・ダラーラ(元財務次官補)
ロバート・フォーバー(元財務省課長)
ポール・ボルカー(元FRB議長)
マニュエル・ジョンソン(元FRB副議長)
ハロルド・マルムグレン(元USTR次席代表)
リチャード・メドレー(投資ファンド経営)
ディビッド・スメック(雑誌インターナショナル・エコノミー主幹)

寄稿者は1983−85年に大臣官房調査企画課長だった大須敏生さん(モルガンスタンレー証券顧問)や、1987ー88年に国際機構課長だった黒田東彦さん(元財務官、アジア開発銀行総裁)、1990年当時国際金融局調査課長だった水盛五実さん(元印刷局長、オリックス生命保険社長)、日米構造協議当時大蔵大臣だった故橋本龍太郎首相などで、舞台裏がわかり参考になる。

この本では1983年から1990年までの日米交渉を次の3つの段階に分けて説明している。

1983ー85年 日米円・ドル協議
1985−88年 プラザ合意以降の円高
1989ー90年 日米構造協議


為替レート推移








日米円・ドル協議

1980年代初めのレーガン大統領時代のアメリカは、「強いアメリカ、強いドル」をスローガンに、高金利で世界中の金を集めていたが、産業界は強いドルのために競争力を失いつつあり、貿易収支の赤字は拡大していた。

このような環境下で1983年にキャタピラー社のリー・モーガン会長がまとめ、政府・議会関係者に配布したモーガンレポートは、円・ドル相場のミスアラインメント(不均衡)により米国産業界の競争条件を悪化させていると指摘した。

これを受けてシカゴ学派ミルトン・フリードマン教授の弟子であるスプリンケル財務次官は、円安是正のため、円の国際化を重視し、これが米国政府の要求となった。

円の国際化が進めば、日本からの資本流出で短期的には円安になる可能性があるが、日本の金融・資本市場が活性化すれば、円資産の魅力が増し、円高になるはずだというマクロ経済理論だ。

この要求は1983年11月のレーガン大統領と中曽根首相との日米首脳会談でも持ち出される。

レーガン大統領は、「日米間の貿易不均衡の問題や米議会の保護主義の動きを懸念している。日本市場へのアクセスの問題、市場開放の問題、円・ドルの問題、資本市場の問題、円の国際化の問題などについて日米間で緊密に協議、協力していきたい。」と語り、これに中曽根首相が応えて日米円・ドル委員会が始まった。

中曽根首相はステップ・バイ・ステップでは困る、もっと急いでくれと「ステップ・バイ・ステップ・ウィズ・ロングストライド」路線が決まった。

また中曽根首相は「工程管理表をつくれ」と指示したが、大蔵省の幹部は理解できず、海軍の言葉だと思ったそうだ。工場などで使う普通の言葉だと思うが、いかにも東大などの法学部・経済学部出身の文系エリート集団の大蔵省らしいエピソードだ。

そんな具合で日米円・ドル委員会はスタートし、円の国際化の道を本格的に歩み始める。

1973年からの円の対ドル相場の推移表は上の通りだ。1984年に日米円・ドル委員会が始まっても、為替相場にはあまり大きな変動はなかったが、1985年9月のプラザ合意から加速度的に円高が進んだことがよくわかる。

日米円・ドル委員会の結果、ユーロ円市場の拡充、定期預金金利上限の撤廃、外国銀行の国際ディーリング開始、外国金融機関の日本市場への参入など、米国側の主張はほとんど実現し、米国は非常に満足する結果となった。


ドル高是正についてのG5プラザ合意

日米円・ドル委員会による東京市場の自由化や円の国際化は、円安是正には役立たなかったので、G5諸国がドル売りの協調介入に合意する。これが1985年9月にニューヨークのプラザホテルで行われたプラザ合意だ。

米国政府の首脳も財務長官がメリルリンチ出身のリーガンからブッシュシニアの盟友、ジェームズ・ベーカーに代わり、補佐もスプリンケルからベーカーの腹心の部下ダーマンに代わった。これに伴い、市場に任すという考え方から、当局による市場介入に米国政府の方針が変わった。

サウジアラビア通貨庁の顧問を長く務め、ユーロ市場に精通していた資金運用のプロのマルフォード財務次官補は留任し、確実にユーロ円市場の自由化を進めた。

プラザ合意に参加したボルカー元FRB議長は、回顧録(日経新聞の「私の履歴書」)で日本の竹下登蔵相が円の10%以上の上昇を容認すると自発に申し出たことに驚いたと同時に、竹下蔵相の積極姿勢が会議の成功に非常に重要な影響を与えたと記している。

日米は10−15%ドルを弱くということで合意していたが、実際には市場は一旦弾みがつくと止まらなくなってしまったことは歴史が示す通りだ。

プラザ合意でドル安是正の裏に隠れて、あまり出てこないのが、日本の内需拡大で、地方公共団体の事業を拡大して内需拡大を図ることも同時に合意された。

ところが日本語の声明文と英語の声明文にはニュアンスの違いがあり、そのまま発表したところ、宮沢喜一氏のみが気づき、帰国次第、その点を指摘さたという。

ベーカーは内需拡大の成果に期待を掛け、成果が上がらないと日本に景気刺激を強く要求してきた。その原因がプラザ合意にあったことは間違いないと大場財務官は語る。

そして宮沢喜一氏が竹下蔵相の後任蔵相として、強烈な円高圧力と内需拡大要請の矢面に立つことになる。


止まらない円高

宮沢氏に滝田さんがインタビューしたときに、宮沢氏は「プラザ合意は日本にとって、二十世紀で最大級の経済的出来事だったと思います。日本企業の海外進出を通じてアジアの経済発展を加速させる一方、日本の経済構造を激変させました。つくづく為替は怖いものだと思います。ソサエタル(社会的)な変化をもたらすのですからね。」と語っていたという。

宮沢氏らしい頭の良いまとめ方である。

1986年6月に大場財務官は退官し、行天財務官となる。内海孚(まこと)氏も駐米公使から国際金融局長として帰任する。そしてこの年7月の衆参ダブル選挙で勝利した中曽根首相は、プラザ合意を批判していた宮沢氏を大蔵大臣に指名する。

宮沢氏は大蔵省のOBだが、ケインジアン(積極財政主義者)であり、財政再建を目指す当時の大蔵省幹部にはやりにくい大先輩だった。

宮沢氏はさっそく「ご説明」を受けたが、普通は課長連中をともなって局長ごとに説明するのだが、主計局長、主税局長、国際金融局長は一人で来てくださいと宮沢氏は指示する。

内海国際金融局長の説明では宮沢氏は「プラザ合意の際に、どこまで円高にするかということまで、しっかりときめないでやったことが失敗だったのではないですか」と聞いたという。

プラザ合意前は一ドル240円だった円相場が、1986年には200円を突破した。しかし為替調整は対外収支不均衡の是正には役立たないことがはっきりしてきて、プラザ合意の期待は幻想だったことが判明する。

実際の輸出が減る以上に速いピッチで円高・ドル安が進み、ドル建てでは日本の輸出額がかえって増えてしまうJカーブ効果が発生したからだ。


口先介入とドル安

業を煮やしたベーカーはトークダウン(口先介入)を繰り返し、ドル相場は顕著に下落したが、経常収支に与える影響は不十分だとして、日本や欧州に内需拡大のマクロ政策を要求した。

もはや為替レートによる調整は効果がないので、1986年10月にベーカーと宮沢蔵相は1ドル=160円程度になった現在の為替レートはファンダメンタルズに一致したと発表し、その後は内需拡大策が議題となる。日銀も公定歩合引き下げを繰り返し実施した、

1987年2月には参考相場圏という概念を取り入れたルーブル合意ができたが、円高は止まらなかった。

東京市場の6人の小鬼と呼ばれた、阪和興業、山一証券、シャープ、伊藤忠商事、三菱信託銀行、日本長期信用銀行が巨額の為替取引で利益を上げていたのもこのころだ。

6兆円の緊急経済対策が発表され、日本政府が毎回のように巨額の経済対策を発表したが効果は見られなかった。


ブラックマンデーでドルはさらに弱く

そして1987年10月19日のブラックマンデーでニューヨークの株価は史上最大の508ドルという下げ幅を記録、一日で22%も下落した。

ドル相場はさらに下落し、1987年末には120円台となり、むしろドル防衛が必要となる。

一方低金利と景気回復により、1988年から日本ではバブル景気が始まり、株価・地価がコントロールが効かない状態となって急上昇した。

米国の景気は低迷していたときに、日本だけが超活況で、「皇居の土地の価値相当で、カリフォルニア州全体の土地が買える」と言われた明らかに狂乱の時代だった。

日本は国際的にも影響力を増し、中南米の累積債務問題の解決のための宮沢構想が、米国のブレディプランの呼び水になったり、IMFの出資比率を5位から米国に次ぐ2位にしたり、欧州復興開発銀行の設立に協力したり、経済外交でも国力を上げた時期だった。


日米構造協議

プラザ合意後の急激な円高にもかかわらず、日米不均衡は是正されなかった。原因は日本市場の特殊性にあるというリビジョニストが台頭し、米議会の保護主義が強まった。

日本に対する制裁措置を政府に義務づける米通商法スーパー301条が、米国議会で制定されたことなどが呼び水となり、1989年7月の宇野・ブッシュ日米首脳会談で日米構造協議の開始が決まった。

どう見ても内政干渉に他ならないミクロの要求リストが米国から出てくるようになった。これが名前を変えて現在まで続く日米構造協議の始まりである。

米国は財務省・国務省・USTR、日本は大蔵省・外務省・通産省が共同議長となり、様々なミクロ分野での米国の要望が寄せられ、1989年末のリストは実に200項目を超えていた。

当時の海部内閣では、自民党の金丸信と小沢一郎が実権を持っており、米国側はミスターガイアツと呼ばれたアマコストが駐日大使で、10年間で430兆円の公共投資が発表された。

日米構造協議は1990年6月に最終報告を提出するが、その主な項目は次の通りだ:

1.公共投資10年間で430兆円。
2.低・未使用土地の有効利用
3.大店法改正着手
4.違法カルテルの監視と罰則強化
5.系列取引に対するガイドライン策定
6.内外価格差是正とフォローアップ
7.フォローアップ会合 初年度3回、以降年2回次官級協議
8.米国はスーパー301条は発動しない

これが現在の成長のための日米パートナーシップに基づく米国政府の年次改革要望書につながっているのだ。


米中通貨交渉とのアナロジー

滝田さんは円の国際化のプロセスが20年以上を経て、人民元相場の柔軟性の向上と、金融市場開放を求める米国の対中国要求と相似形となっていると指摘する。

プラザ合意がアジア経済とりわけ中国経済の発展を決定的にする要因となり、その中国が今や米国から人民元相場の切り上げを求められている。

いつか見た光景が日本から中国に登場人物が代わって起こっている。

しかし日本と中国の違いは軍事大国かどうかだ。日本は安全保障を米国に依存しているが、中国は違う。パワーアップした中国は、一筋縄ではいかないのだ。

中国は単に経済力だけではなく、軍事力も、核兵器も保有している。

もちろん米国のステルス戦闘機などの最先端軍事技術に比べれば、中国の軍事技術はまだ遅れているが、核兵器と宇宙開発でつちかったロケット技術を結びあわせれば、米国にも対抗できる軍事パワーとなりうる。

中国が宇宙空間で人工衛星を打ち落とす実験を行い、米国などの非難を浴びたことは記憶に新しい。

いずれにせよ人民元の対ドル相場上昇は長期的に見れば不可避と思われ、その意味で中国は今後とも有望な投資対象となるだろう。

日米通貨交渉を調べることで、米中通貨交渉の行く先を予測するという、まさに温故知新そのものという感じの本である。

事実を客観的に再現しようとしている姿勢には好感が持てる。

400ページ強の本で、読むのに1週間掛かった。まずはあらすじを読んでから挑戦して頂きたい。


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Posted by yaori at 23:37│Comments(1) ビジネス | 政治・外交
この記事へのコメント
5
素晴らしいまとめだと思います。
勉強になりました。
Posted by 通りすがり at 2008年01月28日 07:11