2007年07月05日

歌姫あるいは闘士ジョセフィン・ベイカー アフリカン・アメリカン研究の荒教授の力作

歌姫あるいは闘士 ジョセフィン・ベイカー
歌姫あるいは闘士 ジョセフィン・ベイカー


アフリカン・アメリカン研究が専門の荒このみ東京外国語大学教授の近著。主にフランスで活躍した米国出身のアフリカン・アメリカンのエンターテイナー、そして反人種差別の闘士ジョセフィン・ベイカーの伝記。

実は先日外国記者クラブで行われた関榮次さんのbook reviewの際に荒教授とご一緒した。

本書は荒教授の日頃の研究活動に加え、日本学術振興会からの2年連続の研究補助金と、フルブライト研究員として5ヶ月間ハーバード大学デュボイス研究所で研究した成果である。

デュボイス研究所にはアフリカン・アメリカン研究の第一人者ヘンリー・ルイス・ゲイツ・ジュニア教授がいる。

ジョセフィン・ベイカーの生い立ちからパリでの公演生活、世界各国での公演、そして日本のエリザベス・サンダース・ホームから孤児2人を養子として引き取ったことなど数々のストーリーが紹介されている。

この本を読んでみて、豊富な資料をもとに数々のショートストーリーを組み合わせ、バックボーンのしっかりした伝記として構成された作品であることがよくわかる。

興味深い写真も多く、文章も読みやすい。まさに「頭にスッと入る」伝記である。

実は筆者は、ジョセフィン・ベイカーの名前を知らなかったが、この本を読んで、マーチン・ルーサー・キング牧師らの公民権運動のずっと前に、米国の人種差別と戦った有名人がいることを、はじめて知った。


ジョセフィン・ベイカーの生い立ち

ジョセフィン・ベイカーは1906年、米国ミズーリ州セントルイス生まれ。幼い頃から人種差別を経験しており、ミッシッシピ川を挟んで対岸のイリノイ州イーストセントルイスでは1917年に黒人暴動・虐殺事件が起こっている。

筆者は米国駐在中にしばしばセントルイスに出張したことがあり、イーストセントルイスの近くのグラナイトシティも製鉄所があったので、訪問したことがある。

グラナイトシティは白人人口が95%なのに対し、イーストセントルイスは黒人が人口の97%を占め、全米でも最も犯罪率が高い町の一つとなっている。

ジョセフィン・ベイカーが生まれたミズーリー州などの南部の英語は特徴があり、筆者も当初理解するのに手こずった思い出がある。ミズーリはどう聞いてもミゾーラとしか聞こえなかったものだ。


パリでの成功

ジョセフィン・ベイカーは1925年にパリに渡り、1937年にフランス人と結婚してフランス国籍を取得している。フランスで世界的なエンターテーナー、歌って踊れる歌手として一躍有名になった。

半裸体でおどるダンスは人種偏見のブラック・エクゾティシズムを逆手に取り、野性味にあふれ、衝撃的で、パリの観衆を魅了した。初期の代表作は男女で踊るダンス・ソバージュ(野生のダンス)とバナナの腰飾りの踊りだ。

エリザベス・サンダース・ホームの澤田美喜さんとのつきあいは、1932年に澤田さんの夫の外交官の澤田廉三氏がパリの日本大使館参事官として赴任してからだ。

1935年に米国に凱旋帰国するが、ニューヨークのホテルで差別を受け、憤る。このときフランスから米国に移っていた澤田さんは、アトリエとして使用していたアパートをジョセフィンに貸して助けた。

ジョセフィン・ベイカーは生涯四度の結婚をするが、恩人であるマネージャーのペピート・ダルベルティーニとは結婚を発表したものの、米国滞在中にケンカ別れをして、ペピートはパリに戻り、その後病死してしまったので、結局結婚はしなかった。

ペピートはフランス語、声楽、バレエ、ダンスなどの家庭教師をつけジョセフィンを教育する。この教育がジョセフィンのキャリアーアップに大いに役立った。


レジスタンスへの協力から反人種差別へ

第2次世界大戦中はフランスのレジスタンスに協力し、後に1961年にフランス最高の名誉であるレジオン・ドヌール勲章を受ける。

1940年代初めには北アフリカで暮らし、レジスタンスに協力するかたわら、連合軍のアメリカ兵を慰問している。このころは病気で入退院を繰り返していた。

戦後1947年にアメリカ公演を行うが、そのときも差別に会っている。

4度目の結婚相手である白人バンドリーダーのジョー・ブイヨンと一緒に訪米しているが、ニューヨークでは36軒のホテルに宿泊を断られているのだ。

フランスに帰国後、1951年にはLICRA(反ユダヤ差別・反人種差別組織)のメンバーとなった。

1950年代のアメリカでは、人種差別にもとづく黒人虐待、黒人殺害事件が起こっており、しかも裁判で黒人を殺した白人が無罪となったり、白人から暴行で訴えられた黒人が、無実の罪にもかかわらず処刑されるという様な事件が多発していた。

ジョセフィン・ベイカーはこのようなアメリカの人種差別事件に抗議して、パリで人種差別反対運動を起こしている。


アメリカ再訪で反人種差別運動を尖鋭化

1951年には再度アメリカを訪問し、各地で公演して成功を収めているが、この年の終わりにニューヨークのプライベートクラブのストーク・クラブで事件が起こっている。

白人専用のナイトクラブ、ストーク・クラブに友人に招かれて訪問したジョセフィン・ベイカーは、黒人とわかると給仕拒否にあい、他の人には食事は提供されたにもかかわらず、一切飲食物は提供されなかった。

ジョセフィン・ベイカーは怒り、ニューヨーク市警察の黒人トップに訴えるとともに、たまたまクラブにいた演劇評論家でコラムニストのウォルター・ウィンチェルにも矛先を向けた。

それまで評論では黒人の味方であることを公言していながら、ストーク・クラブでは見て見ぬふりをして本性を明らかにしたからだ。

この事件は大波乱を呼び、法廷闘争にも発展した。反人種差別団体はストーク・クラブでピケを張り、マスコミもこぞって取り上げた。ジョセフィン・ベイカーはニューヨーク市長との面会を求めたが、実現しなかった。

ローザ・パークスがアラバマ州モンゴメリーで黒人差別のバスに乗車して、公民権運動のきっかけとなるのは1955年であり、それに先立つこと4年のニューヨークの事件だった。


アルゼンチンでの舌禍事件

ストーク・クラブ事件の翌年、ジョセフィン・ベイカーはエビータをなくしたばかりのペロン大統領のアルゼンチンを公演のため訪れ、次のようなアメリカ批判発言をして舌禍事件を起こしてしまう。

アメリカを「ナチの様な欺瞞の民主主義による野蛮な国」と呼び、「ヤンキーデモクラシーの元ではニグロには何の権利もないのです。これまで何度も個人的にリンチや、獣のように黒人が殺されるのを私は見てきました。」

さらに「アイゼンハワー政権では黒人はこれまで以上にひどく苦しむことになるでしょう」とまで言ってしまった。

筆者は1978年から1980年までアルゼンチンに駐在していたが、アルゼンチンは2度の世界大戦で富を築き、今世紀の初頭は世界の先進国の一員だった。

例えばブエノスアイレスの地下鉄はロンドン、パリに続き世界で3番目に建設されたものだ。

筆者の間借りしていたアパートのオーナーは、50年間同じ電話番号を持っていると言っていたが、逆に言うと50年間ほとんど電話システムが進歩していなかったのだ。

当時のアルゼンチンは米国への対抗意識が強く、第2次世界大戦直後に大統領となったペロン大統領の政治宣伝に、ジョセフィン・ベイカーは使われてしまったのだ。

このアルゼンチン舌禍事件のあと、ジョセフィン・ベイカーはカストロ政権となる直前のキューバを訪問し、テレビ局から入館を断られるという事件を起こしている。


反体制主義者としてFBIから目をつけられる

ストーク・クラブ事件のあと、FBIからジョセフィンは共産主義者ではないかと目をつけられ、キューバでも常に行動は監視され、アメリカの入国阻止の動きはさらに厳しくなった。

FBIはジョセフィン・ベイカーの各国での行動を監視しており、結果的にジョセフィン・ベイカーの行動を知る良い資料がFBIに残されている。

荒教授は当時のFBIファイルを丹念にあたって、この本でジョセフィン・ベイカーの生涯を語る貴重な資料として紹介している。


虹の部族とレ・ミランド城

ジョセフィン・ベイカーはフランス南西部のドルドーニュ地方にある15世紀末につくられたレ・ミランド城を4番目の夫のジョー・ブイヨンと購入し、1968年まで所有している。

この近辺にはスペインのアルタミラ洞窟のように、先史時代の壁画が残っているラスコー洞窟などもある。

このレ・ミランド城はジョセフィン・ベイカーが虹の部族と呼ばれる12人の様々な人種の養子達と一緒に住んだ家である。

ジョセフィンはレ・ミランド城を「世界のキャピタル」として観光用に開発する計画を持っていた。

この12人の養子のことを絵本にした「虹の部族」という絵本もある。

荒教授は数年掛けてヨーロッパからアメリカまで探し、シカゴのノースウェスタン大学の図書館で実物を見つけ、この本でも写真入りで紹介している。


金銭感覚ゼロで破産宣告

ジョセフィン・ベイカーには金銭感覚がなく管理能力がなかった。契約を守ると言う点でもいいかげんなところがあった。

人気が落ちてきている上に、高い公演料がとれる米国での入国ビザが制限されていたので、公演での収入も往事の様なものではなかった。

それでもジョセフィン・ベイカーはレ・ミランド城からテレビに出演し、フランスの有名俳優ジャン・ポール・ベルモンドやブリジッド・バルドーらの寄付も得て、なんとかレ・ミランド城を維持しようとするが、結局資金が集まらず城は1969年に競売に掛けられてしまう。

ちなみにレ・ミランド城はその後数人の持ち主を経て、現在はジョセフィン・ベイカー博物館として公開されている。

その後モナコのグレース王妃が虹の部族12人を引き取り、一家はモナコで暮らす様になる。


最後のパリ公演

ジョセフィン・ベイカーはモナコの赤十字のための公演を行った後、自信を取り戻し、1975年にパリのボビーノ・シアターで公演を行った。

初日にはグレース王妃はじめ、アラン・ドロン、ミック・ジャガー、ミレーユ・ダルク、ソフィア・ローレンなど著名人・俳優が集まった。

初日から拍手喝采のカムバック公演だったが、ジョセフィンは3日めに脳梗塞を起こし、病院に運ばれるがそのまま息を引き取った。69歳の生涯だった。

ジョセフィンの葬式はマドレーヌ寺院で行われ、2万人が最後の別れを告げたのである。



丹念な資料調査にもとづいたジョセフィン・ベイカー伝である。

今であればノーベル平和賞の対象にも挙げられたであろう平和主義者、博愛主義者の波瀾万丈の生涯を読みやすくまとめた、おすすめの一冊だ。


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Posted by yaori at 23:28│Comments(0)TrackBack(0) 自叙伝・人物伝 | 趣味・生活に役立つ情報

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