2007年07月19日

ノモンハンの夏 スターリンの術中にはまった日本

ノモンハンの夏
ノモンハンの夏


第2次世界大戦直前の日本について、「日本軍のインテリジェンス」や、関榮次さんの「Mrs. Ferguson's Tea-Set」で紹介されていたので、当時の重大事件であるノモンハン事件について書いた定番とも言える1冊を読んでみた。

日本陸軍のインテリジェンス(情報活動)は、巨額の予算を使って優秀な人員も集め、IBM製の統計機も持っていた。その仮想敵国は米英でなく、ソ連だった。

ソ連の脅威は陸軍首脳を常に悩ませた。

その理由の一つが、ノモンハンでの関東軍のソ連軍に対する壊滅的な負け戦だ。

1939年5月(第一次)と7ー8月(第二次)ノモンハンでの負け戦の原因としてよく挙げられるのは次の点だ:

1.日露戦争時の戦術から進歩していない精神論中心の日本陸軍と、世界でトップクラスの戦車を持ち、戦術も20世紀型に進歩させているソ連軍の差 例えば第一次事件ではソ連戦車は火炎瓶攻撃に弱かったが、第二次では弱点をすぐに修正した

2.師団数で関東軍の11師団に対し、ソ連軍は30師団、戦車も200両に対し2,200両、航空機560機に対し2,500機という圧倒的な物量の差(実際に動員された戦車、航空機はそれぞれ500−600という説もある)

3.兵站の差。最寄り駅から750キロ離れているソ連軍に対し、日本軍は200キロだったが、ソ連には豊富な輸送力があり、距離の差は意味をなさなかった。むしろ日本軍には輸送手段のトラックが不足しており、歩兵は歩いて戦場までたどり着く始末で、武器・弾薬・食料・飲料が決定的に不足していた。

4.数だけでない兵器の質の差。たとえばソ連軍の短機関銃に対し、日本の三八式歩兵銃が中心兵器だった。日本の戦車は対戦車戦用の武器を持っていなかった等。

5.辻政信らの関東軍参謀が、東京の陸軍参謀本部の「侵されても侵さない。紛争には不拡大を堅守せよ」という不拡大方針を無視して、戦いを進めたこと


1939年は世界の運命の分かれ道

この本を読むと、よく挙げられる上記の点の他に、1939年当時の国際関係を反映し、スターリンがドイツと日本の両面作戦を避ける為に、一度日本を全力で叩いておく目的でノモンハン事件に臨んだことがよくわかる。

1939年当時の日本は、陸軍は同じ仮想敵国ソ連を持つドイツ(+イタリア)との軍事同盟を主張していたが、海軍は参戦義務のある軍事同盟を(ほとんど海軍力のない)ドイツと結ぶことは、全く勝算のない米英戦に巻き込まれるとして反対していた。

煮え切らない日本をなんとか引き込もうとして、ドイツのヒトラーはソ連と手を結ぶことを考える。

一方ソ連のスターリンは英仏と三国安全保障会議を申し出、ドイツと両天秤に掛ける。

そんな中で5月に関東軍とソ連・蒙古連合軍との間で、戦闘が勃発する。ソ連外相モロトフは、駐ソ大使東郷茂徳を呼び、これ以上の侵略行為は許さないと警告する。

同じく5月にドイツとイタリアは軍事同盟を結ぶ。スターリンは独伊の接近と、関東軍の好戦的活動に危機感を抱き、関東軍を完膚無きまでに叩いておくことを決意する。これがノモンハン事件の背景だ。


ソ連の術中にはまった関東軍

6月にスターリンは、腹心の部下ジューコフを満州国境に派遣し、戦車、飛行機を中心に大兵力増強を行い、着々と準備を整える。

日本にいるソ連のスパイゾルゲを使って、日本は対ソ連と本格戦争をする準備をしていないことがわかったことも、関東軍を痛撃する決意を固めた要因だ。

そんなこととはつゆ知らず、関東軍の辻と服部参謀は、ソ連軍を先制攻撃する「牛刀作戦」を計画、東京の参謀本部も不拡大方針を出していながら、一個師団程度であればと黙認してしまう。

まずは6月末に日本軍による空襲が行われた。

天皇はこの空襲を統帥権違反ととらえ、今後このようなことが再び起こらないようにと、厳重注意したが、陸軍はなにか隠しているのではないかと感じていた。

天皇の不安は的中し、7月1日から関東軍はソ連軍への攻撃を開始する。第2次ノモンハン事件の2ヶ月にわたる戦闘が開始された。

関東軍の主力戦車は八九式中戦車で、短砲身戦車砲はBT戦車を中心とするソ連の戦車には全く役に立たない。元々戦車対戦車の戦いは日本軍は想定していないのだ。


欧州の新情勢と時を同じくしたソ連軍の総攻撃

ノモンハンで戦闘が続いている間に、欧州では大きな動きがあった。

8月に入ってヒトラーはスターリンに不可侵条約を結ぶ用意があると伝え、8月23日に独ソ不可侵条約が締結される。

大島駐独大使に対して8月21日深夜に独ソ不可侵条約締結が伝えられ、日本にも伝達される。平沼内閣は、「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じましたので」という名文句で辞職する。

欧州の政治情勢が急展開する一方、ソ連軍は8月20日から総攻撃を開始する。

圧倒的に優勢なソ連軍により関東軍は壊滅的打撃を受け、8月29日には現地で撤退命令が出され、翌8月30日には戦闘終結の天皇命令が出される。

一方ソ連と結んだヒトラーは9月1日に電撃作戦でポーランドを占領すると、ソ連と一緒にポーランドを分割した。第2次世界大戦のはじまりだ。


第二十三師団の損耗率は実に76%

日本軍の損失は第六軍出動人員約59千人に対して、戦死・戦傷・戦病・行方不明合計約20千人。

第二十三師団については損耗率は76%だった。ガダルカナルでも損耗率は34%なので、日本軍の歴史の中で最悪の結果となっている。

ソ連蒙古軍も損耗は24千人。圧倒的な戦力を持ちながらソ連軍もこれだけの犠牲を出さなければならなかった。

司令官のジューコフはスターリンに報告する。

「日本軍の下士官兵は頑強で勇敢であり、青年将校は狂信的な頑強さで戦うが、高級将校は無能である」

現地で指揮した部隊長などは、自らの意思であるいは強要されて自決した人が多かったが、辻、服部のコンビはいったんは左遷されるものの、すぐに参謀本部作戦課に復帰する。

過去から学ばない人物の典型が日本を米英との戦争に追いやり、そして戦後も長らえ、辻にいたっては国会議員にまでなった。

半藤さんは戦後国会議員になった辻政信に会ったことがあるという。

「絶対悪」が支配した事実を書き残しておかねばならないという考え、この本を書いたと半藤さんは語る。「人はなにも過去から学ばない」と。


米英と組むという選択

1939年には日本には米英と組む選択肢もあった。天皇もそれを望んでいた。実際米英と組むか、独伊と組むかを政府、陸海軍で議論していた。

それが日独伊三国同盟に向かうのは、関榮次さんがMrs. Ferguson's Tea-Setで紹介したドイツによる日本への英軍秘密情報の提供も一つの要因だろう。

また独ソ不可侵条約ができれば、日独伊ソ四国同盟ができるかもしれないという希望的観測もあった。

ドイツのポーランドに続くフランス占領、ソ連侵攻など、第二次世界大戦初戦での勝利の勢いも要因の一つだろう。

他にも要因はあるが、それにしても1939−1940年の日本の日独伊三国同盟・そして開戦に至る政策決定は、あり得ない選択である。

これからもこの時期の日本を取り上げる作家は出てくると思う。後世の人間にはいくら調べても理解ができない話題ではある。


ノモンハン事件を詳しく知らなかった筆者には、この本を読んで新しい発見がいくつもあった。

「入学試験に出ない」という理由で、昭和以降の現代日本史を高校であまり教わっていない筆者の年代前後の人に、特におすすめの一冊である。


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Posted by yaori at 12:58│Comments(0) 半藤一利 | 戦史