2007年11月25日

サンディ・ワイル回顧録 シティグループを築いたM&Aの巨人の自伝

サンディ・ワイル回顧録―世界最大の金融帝国を築いた男 (上)


シティコープとトラベラーズ・グループを1998年に合併させ、世界最大の金融グループのシティ・グループを創り上げたサンディ・ワイルの自伝。

この本ではサンディがいかにして一介の証券ブローカーから、幾多の企業買収を経て、世界最大の金融グループを築き上げたかが、時系列的に語られている。

2007年の"Forbes"によるとサンディ・ワイルは資産19億ドル(約2,100億円!)の億万長者で、カーネギーホールの理事長をつとめるほか、自分の名前を冠したワイル・コーネル医科大学の監督委員長などを勤め、今まで数百億円(!)の寄付を行ってきた篤志家(とくしか)でもある。

シティグループ成立後は、シティコープのジョン・リード会長とともに、共同CEOとなったが、両雄並び立たず、ジョン・リードは合併後の2000年にシティグループを離れ、サンディ・ワイルが唯一のCEOとなった。

サンディ・ワイルは2003年にシティグループのCEOを引退し、次のCEOとなったのが、この11月始めにサブプライムローンによる巨額損失で退任したチャック・プリンスだ。

サンディ・ワイルは1933年生まれ、ニューヨークのユダヤ人家庭に生まれるが、サンディが大学生のときに父親は家庭を捨てる。今はないピークスキル士官学校を卒業後、コーネル大学で学ぶ。1955年の卒業直前に結婚し、卒業後証券業界に入り、ベア・スターンズで証券ブローカーとして働き始める。


必ずしも順調でないスタート

証券ブローカーとしてはすぐに頭角を現したわけではなく、自分や奥さんのジョーンの親類縁者に株投資をしてもらったが、相場でみんなに損失を出させたことで、落ち込んで引きこもろうとするのを、奥さんのジョーンが、顧客に電話するようにハッパをかけたという弱い面もあった。

創業者タビー・バーナムが率いるバーナム&カンパニーでブローカーとして頭角を現し、当時としてはトップクラスの収入を得る。タビー・バーナムはサンディ・ワイルが師と仰ぐ人物である。

自信を得て、1960年に仲間4人と証券会社のカーター・バーリンド・ポトマ&ワイル(CBPW)を創設する。

米国の株式市場は1960年のダウ平均600ドルから、現在の13,000ドルまで50年弱で上昇した。

下がり相場もあったが、長期的には順調に拡大しており、サンディ・ワイルも証券市場のアップトレンドにそって自分のキャリアと資産をアップしてきた。


買収で企業規模を拡大し続ける

サンディ・ワイルの経歴で際だっているのがM&Aの実績と、友人・同僚との仲違いである。

サンディの買収の特徴は、単なる会社合併でなく、バックオフィスやシステムなどのオペレーションの合理化を行って合併効果が必ず出るようにしている。だからこそ買収が成功し続けているのである。

友人、同僚との仲違いは、サンディの性格によるものかもしれないが、アメリカのトップは自己主張が強く、トップエクゼクティブの転職市場も完備しているので、会社を変えることが簡単にできる。だから、みずから権力を握ろうとして、妥協することなく、ぶつかりあうからかもしれない。

最初のCBPWでも、2人が方針の対立で退社し、新たに2人を加えて1968年には社名がコーガン・バーリンド・ワイル&レビット(CBWL)となった。

このときに法律問題で世話になったのが、サンディの生涯の友となる弁護士ケン・ビアルキンである。

サンディの最初の買収対象は、1970年に経営危機を迎えていた大手証券会社のヘイドン・ストーンだ。これによって支店数は2から30カ所に増え、口座数も5,800から51,000に増えた。

ベトナム戦争の影響もあるが、ダウ平均は1970年には、1961年末の水準と同じ725ドルに下落し、多くの証券会社が赤字を出していたことが背景だ。

証券会社はそれまで非公開のパートナーシップが大半だったが、1970年にDLJが公募を行い、1971年にはメリルリンチが最初に株式を公開し、株式公開がブームとなる。

CBWLヘイドン・ストーンも、メリルリンチに続いて株式を公開し、パートナー達はみんな億万長者となった。

1973年に証券取引と商品取引のヘンツ&カンパニーを買収、規模を拡大した。ここでパートナーのマーシャル・コーガンが退社、サンディが初めてCEOとなる。

この時代にピーター・コーエンをアシスタントして重用する様になる。


シェアソンを買収

1974年にシェアソン・ハミルと合併し、社名をシェアソン・ヘイドン・ストーンとする。一挙に売上が倍以上になり、ブローカー数も1,500人となる。

今まで弱かったオペレーション部門のトップに20代のピーター・コーエンを据えて、シェアソンのオペレーション部門に統一し、強みとする。

最初からのパートナーのロジャー・バーリンドが趣味の作詞・作曲で生きたいと退社し、次に3人の経営陣が脱落する。アーサー・レビットがアメリカ証券取引所の会長となり、CBWLはいよいよW=ワイルのみが残った。

1979年にはローブ・ローズ・ホーンブロアーを買収、またもや会社の規模が倍になり、社名をシェアソン・ローブ・ローズに変え、支店270、ブローカー3,500人という第3位の規模となった。

1981年にはジム・ロビンソンが率いるアメリカン・エクスプレスと合併した。


不遇のアメックス社長時代

アメリカン・エクスプレスは社内の順序や秩序にうるさい古い体質の会社で、ビジネス文化の違いにも悩まされ、また当初ねらっていたアメリカン・エクスプレスの顧客名簿を、クロスセルのためシェアソンでも共用することは結局実現しなかった。

サンディが「仇敵」と呼び、その後IBMに転じたルー・ガースナー(このブログでも紹介している「巨象も踊る」の著者)の抵抗にあったためだ。

サンディはアメリカン・エクスプレスの社長になったが、名目だけの社長で、実権はなかったので、メインの消費者向けビジネスは手がけなかった。

まずはバックオフィスサービスのアレゲニーインダストリーズのIDS(インベスターズ・ダイバーシファイド・サービスズ)社を買収、オペレーション重視の戦略をさっそく発動した。IDSはアメリカン・エクスプレスの最も成功した買収例になった。

アメリカン・エクスプレスでは、ピーター・コーエンがシェアソンのトップとして、トレード・ディベロプメント銀行の買収を進め、次にレーマン・ブラザースを高値で買収したが、社長のサンディはつんぼさじきに置かれていた。

ある時ピーター・コーエンに電話した時に、ピーターの息子が電話に出て、父親を呼ぶときに「サンディ・ワイルからだよ。お父さんの嫌いなやつでしょう。」と言うのを聞き、いたく傷つけられたという。

アメックスでサンディが担当していたファイアマンズ・ファンド保険の売却が決定され、サンディは伝説の投資家ウォレン・バッフェトの協力を得て買収を試みるが失敗し、失意のもとに1985年にアメリカン・エクスプレスを去る。

1982年にカーネギー・ホールの理事になっていたが、浪人時代はカーネギー・ホールの募金活動にも力を入れ、自らも250万ドル寄付し、全体で6,000万ドルの募金を集め1986年にカーネギーホールをリニューアルオープンする。

名バイオリニストでカーネギーホールの運営者であるアイザック・スターンの熱意にほだされたのだと。

アイザックはサンディの最初の寄付への謝意を示すために、カーネギーホールの新劇場にジョーン&サンフォード・ワイル・リサイタル・ホールという名前を付けた。

浪人中にバンカメリカの買収を検討するが、失敗。その後の片腕となるジェイミー・ダイモン(現JP Morgan銀行CEO)がアメックスを辞めて、サンディのアシスタントとなった。


ボルチモアのコマーシャルクレジット社から再出発

サンディの再出発は1986年のボルチモアのコマーシャル・クレジットという地方の中規模消費者金融会社の経営者だった。これが破竹のM&Aサクセスストーリーの始まりだ。

アメリカの消費者金融事業は年収15,000ドルから45,000ドルの4,500万人の中産階級向けのビジネスで、コマーシャル・クレジット社は、注目に値するリスクリターンの会社であることがわかったので、IPOを実現させた。

コマーシャル・クレジットでは人脈をフルに利用し、フォード元大統領、ハーバードビジネススクールの教授、元国防長官、ウェスティングハウスの会長などが関わっていた。サンディの人脈を物語る豪華な顔ぶれだ。

サンディを継いでシティグループのCEOとなり、今年11月始めに退任したシティグループのトップ、チャック・プリンスはコマーシャル・クレジットの法律顧問をしていて、サンディと知り合ったものだ。

コマーシャル・クレジットのリストラ、ノンコア事業譲渡を行い、格付けはAマイナスへ4段階アップして、順調に再建した。

コマーシャル・クレジットは証券会社のスミス・バーニーや、ALウィリアムズなど数社の保険会社、ホテル、小売りチェーンなどを持つプライメリカ(旧アメリカン・キャン)を15億ドルで買収し、社名をプライメリカに変更した。

時間は掛かったが、資産売却、自己資本増加、格付けアップなどで、株価も高騰し、1990年7月には37ドルまで上昇するが、すぐにS&Lクライシス、ジャンクボンド崩壊、クウェート侵攻などで金融不安が広がり、株価は3ヶ月で18ドルにまで下がった。

しかし1991年から市場は回復し、1992年には最高の利益を上げる。

このころ別荘としてニューヨーク州北部のアディロンダックに17万坪の別荘地を買った。この地方には、ザ・ポイントというリゾートホテルもある。

その後はシェアソンの買い戻しや、GEからキダー・ピーボディの買収などを試みたが、成立しなかった。


トラベラーズグループを合併 証券・保険の一大グループに

次の大型案件は不動産に過剰投資し、弱体化していた保険業界の大手トラベラーズグループとの経営統合だ。まずは1992年に27%の株を取得した。

つぎにCEOジム・ロビンソンが経営不振で退任したアメリカン・エクスプレスから古巣のシェアソンをほぼ簿価の21億ドルで買収し、証券部門をシェアソン・スミス・バーニーとする。

このときリーマンを買収しなかったことは、間違いだったとサンディは語っている。

アメックスの提示額は、後のリーマンのすばらしい業績を考えるとべらぼうに安かったが、投資銀行業務やトレーディング部門について理解が不足していたと語る。

そして1993年末にはトラベラーズと完全合併し、保険・証券の一大グループをつくり上げる。

モルガン・スタンレーから投資銀行のスーパースターであるボブ・グリーンヒルを破格の条件で雇い入れるが、うまくいかず、彼は1994年末に退社する。

1996年には保険業界No. 2のエトナをほぼ簿価の42億ドルで買収し、保険業界トップの座を揺るぎないものにした。

保険業界は成熟した業界かもしれないが、タイミングの良い合併と、優れた経営陣を活用すれば、すばらしい投資収益を上げることができるのだと。

10年間で売上は10億ドルから210億ドルへ、利益は4,600万ドルから23億ドルへ急増し、1996年の資産1,510億ドルは31倍、アメリカン・エクスプレスグループを時価総額で上回った。

多角経営の巨大金融サービスグループの先行きを疑問視する一般の見方を覆して、成功を収めたのだった。


名門ソロモン・ブラザースを買収

トラベラーズグループのCEOとなったサンディは、JP Morgan銀行との合併を画策するが失敗したので、次の合併のターゲットとしてソロモン・ブラザースを選び、1997年に90億ドルで買収する。

1997年当時のソロモン・ブラザース、ロンドンのヘッドトレーダーが伝説のトレーダー、シュガー明神(明神茂)だ。サンディは、ソロモンのデューデリジェンス中にシュガー明神によるソロモン・ブラザースの自己勘定取引分析を聞き、感銘を受けたという。

このシュガー明神はその後、松本大さんのマネックス証券設立時にチューダーというベンチャーキャピタルとしても活躍している。

ソロモン買収直後にいわゆるアジア通貨危機が起こり、ソロモンの業績が足を引っ張り、トラベラーズグループの収益も急落するが、時価総額400億ドルという巨大企業になったことから、次の戦略ターゲットとしてシティコープを選ぶ。


世界最大の金融機関シティグループの誕生

シティコープのジョン・リードCEOとは25年来の知己であったこともあり、1998年に入ると秘密裏に交渉し、トラベラーズグループとシティコープの合併により、世界最大の金融グループ、シティグループが成立する。

片腕だったジェイミー・ダイモンは旧シティコープの経営陣と権力を分担することを拒み、コントロール不能となり結局退社する。

インターネットバブルの波に乗ろうと設立したeシティを巡って、ジョン・リードとあらそいとなる。

サンディの目から見ると、ガレージで仕事をしているインターネットのオタク連中と張り合うのに、eシティはマンハッタンの一流オフィスにいて、社員の報酬も莫大だったという。巨額の損失を出し、ちゃんと経営されていないとサンディはジョンを突き上げた。

ジョン・リードのお気に入りの「シックス・クオーター・ローリング予算」やGEばりの「シックス・シグマ」などの経営手法も、官僚主義をはびこらせるとして、サンディは葬り去る。

結局ジョンとサンディの二人の権力闘争は、デュポンのエド・ウーラード前会長が仲裁に乗り出し、2000年にジョン・リードが共同CEOを退くことになった。

退任の時に、ジョンはサンディに幸運を祈ると電話をよこしたが、その翌日に、持ち株をすべて売却したという。完全な決別だ。

1999年にはクリントン政権の財務長官だったボブ・ルービンが副会長として入社。投資銀行と商業銀行の合併を禁じた大恐慌時代の遺産のグラス・スティーガル法を廃止することに成功し、新たにグラム・リーチ・ブライリー法が成立し、金融サービスの構造が現代化された。

シティグループはその後も買収を続け、2000年に日本などに事業を持つ消費者向け金融のアソシエイツ・ファースト・キャピタルを310億ドルで買収、2001年にはメキシコのバナメックスを125億ドルで買収。

保険事業は2001年にトラベラーズをIPOで会社公開した後、9.9%を残して全部持ち株を売却した。但しこれは、保険の「製造」をやめただけで、クロスセルのアイテムとして保険の「販売」はやめたわけではない。もっと資本効率の良い資産運用に変えただけであると。


シティグループCEO在任時代の最後は司法対策に忙殺

その後エンロン事件や、インターネットバブル後の株の急落に関連して、証券スキャンダルでサンディは追求されることになり、スミス・バーニーの株価操作のケースなどで、CEO時代の最後は司法対策に忙殺され、結局3億ドルの罰金を払って和解に合意することになる。

そして、サンディは法律家であるチャック・プリンスを後任CEOに選び、2003年10月に引退する。

それからは、イタリア製の全長45メートルのクルーザーに奥さんのジョーンと乗ったり、のんびり本を読んだりしてほぼ50年ぶりに自由な時間を使い、慈善事業にも従来以上に力をいれている。

慈善事業の関係でゲオルグ・ショルティの指揮研究会に参加した時に、ショルティがたった45分のうちに、それまで縁もゆかりもなかった人たちを、一致団結した集団に変わらせたことを見て、音楽でも仕事でもリーダーシップに変わりはないと感じたという。


この本を読んで、改めて感じたことは、サンディはじめアメリカのエクゼクティブは昇進や転出に関わる重大な出来事の時には、奥さんに必ず相談することで、部下の配偶者も入れての私的なつきあいがビジネスの重要な部分を占めていることである。

ここまで奥さんが関与しているので、離婚訴訟などになった場合には、奥さんが数億ドルという財産分け前を得るという判決が出たりするのだろうと思う。

他人のことをぼろかすに言っているので、必ずしも格調がある内容ではないが、MBAも持たない一介の証券ブローカーから、世界最大の金融グループを誕生させ、2,000億円もの個人資産をつくったサクセスストーリーの鍵は、戦略=目の付け所と、実行=人の使い方、だと改めて感じた。

会社合併も広い意味での人の使い方だと思う。

上下2冊の本で、それぞれの買収イベントを時系列的に長々と述べているので、必ずしも読みやすい本ではないが、参考にはなる本である。


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Posted by yaori at 23:32│Comments(0)TrackBack(0) ビジネス | 自叙伝・人物伝

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