2007年10月18日

子育てキャッチボール 古田政界入り説の火ダネとなった本

子育てキャッチボール―ボールひとつから始まる教育再生


古田敦也






最近このブログを「野村スコープ」というキーワード検索で訪問する人が増えている。

Googleの「野村スコープ」検索で20位台に、このブログで紹介した野村さんの「無形の力」がでてくるからだ。

この本はその野村監督の愛弟子、監督退任と選手引退が決まったばかりのヤクルト古田敦也氏と、民主党で7月の参議院選挙の東京都選挙区で2選を果たした鈴木寛氏の対談だ。

古田氏が政界に転身するのではないかという噂の火ダネともされている本だ。

古田氏、鈴木氏が自らの子育ての経験について語るのかと思ったが、予想していたのとは違う内容で、子育て・教育一般についての雑談集だ。

子供とキャッチボールすることで、相手のことを考える子供を育てようと語る。

ただ公園は大体ボール遊び禁止だし、学校の校庭には部外者は入れないとなると、実際問題どこでキャッチボールやるんだ?という気もしてしまう。

鈴木氏と古田氏は共通の友人のラグビーの平尾誠二氏を通じて知り合ったそうで、二人とも子供好きで、野球教室などのスポーツやコミュニティ・スクールなどの活動を通して一緒に活動してきたという。

この対談は2007年4月19日、古田氏が2,000本安打達成した後で監督として初めて退場になった試合後に行われた。

6月に発刊されたことといい、ところどころに「すずかん式」なるコラムがあり、鈴木寛氏の7月末の参議院選挙を意識した選挙対策本という感じがある。


古田氏の生い立ち

古田氏は、以前筋肉番付のスポーツマンNo. 1決定戦などに出演して、頭脳バトルのランダム数字暗記などに抜群の強さを発揮していた。

地頭の良さを感じさせるクレバーなキャッチャーで、筆者が好きな野球選手の一人だ。下で働きたい上司のトップに毎年あげられ、国民的人気もある。

そつがない受け答えに好印象を持っていたが、この本を読んで古田氏の生い立ちがわかり、非常な苦労人だと初めて知った。

古田氏の父親は格闘家で、柔道で国体も出ているが、「格闘技は銭にならん」というのが口癖だった。

宇和島出身で、山口県の宇部に稼ぎに出たが仕事がなくなり、やむなく大阪に出てきた。苦労の連続で、共働きで家はずっと貧乏だったと。

お父さんから、「野球選手が一番儲かるので、野球をやれ」と言われ、野球で両親を楽にさせたいと思ったことが、古田氏が野球を始めた理由だ。

古田氏は中学時代に、ひどいいじめにあう。(鈴木氏も小学校5,6年生で先生の遅刻や勤務態度を壁新聞で批判したら、先生にいじめられた経験を持つ)

貧乏ななかで、お母さんに無理して買って貰った真新しいスパイクを先輩に上納し、毎日先輩の汚れたスパイクを磨かせられていた。

お母さんはてっきり古田氏がスパイクを大事にしていると思っていたそうだ。古田氏がこの話をすると、いまだにお母さんは泣くという。


高校は進学校で甲子園予選は1回戦負けばかり

古田氏の出身校は新設の進学校なので、5時半には一斉下校しなければならなかった。授業が4時までだったので、野球部は1時間しか練習できなかった。

しかもグラウンドは共用なので、バッティング練習は週に2回、30分ずつしかできない。

PL学園は朝から夜10時まで練習しているのに、甲子園なんか目指せる訳がない。
ちょうど同地区で市立尼崎高校の池山隆寛というスーパースターが居たという。

古田氏は大学は自力で受験勉強して、15校くらい受験して、立命館と関大に受かった。

家が貧乏なので、自宅通学できる関大に行こうと思っていたところ、立命館の監督から是非にと勧誘され、立命館大学に進学した。

古田氏の高校は弱かったが、たまたま監督が試合を見ていて、古田氏の印象が残っていたという。


大学では指名を逃すが、社会人2年目でヤクルトが指名

大学では2年生からレギュラーとなり、4年の時は数球団から2−3位でドラフト指名すると言われ、記者会見場まで準備していたが、結局どこの球団も指名せず、恥をかいた。メガネをかけたキャッチャーは大成しないという判断だった様だ。

古田氏は乱視でコンタクトが合わないので、メガネをかけて野球をやらざるを得なかったのだ。

「絶対に見返したる」と気持ちを切り替えて、トヨタに就職し、ソウルオリンピックでは銀メダルを獲得、2年後にヤクルトに2位指名される。

しかし古田氏のお母さんは「トヨタのほうが良いと思うよ」と言っていた。一流企業だし、大卒で入ったので、普通に出世すれば生涯賃金がこのくらいで、プロになるより良いという話だ。

プロになってもそんなに稼げないぞ、よく考えろとみんなに反対された。


プロの球を全く打てず、投手のクセから球を予測する観察力をつける

プロに入ってから、実際プロの球を全く打てなかったので、いつも人のフリーバッティングを見て研究した。

投手のクセを必死に見つけ、投げてくるボールを予想し、なんとか打てるようになった。

打撃開眼して、ボールが飛び出したのは、中西太コーチからの又聞きで「ボールの外側を打て」と言われたことだという。ボールにストレートスピンが掛かって、よく飛ぶ様になったと。

それからの活躍はウィキペディアに詳しい。

2,000本安打を達成した初めての大卒、ノンプロ出身選手である。


古田氏が国民的英雄になった2004年のプロ野球ストライキ

古田氏が一躍男を上げたのは、2004年のプロ野球始まって以来の選手ストライキの時だ。選手会長として選手会をまとめあげ、巨人の渡邊恒雄オーナーから「たかが選手がなにをいうか」と言われながらも、ねばり強く交渉し、ついにオーナー側の1チーム減の11チーム、1リーグ制案を葬り去る。

さらに新規参入も決まり、近鉄がなくなった代わりに楽天が新規参入し、2リーグ制は存続し、長年の懸案だった交流戦も決まった。

オーナー側にファンのことを本当に考えて、プロ野球を興行として成功させるマインドを持たせ、現在行われているクライマックスシリーズなど、多くのプロ野球改革の誘因となったとも言えると思う。

ピンチがチャンスになり、ストライキがベストの結果を生んだのだ。


恩師野村監督の教え

このブログでも野村監督の著書は2冊紹介しているが、野村監督から、観察眼を磨き、投手のクセを見抜くことを習った。

例えばフォークボールを投げるときは、どうしてもセットに時間が掛かるので、不自然に見せまいとしてボールを持つ位置があがる。

こういうクセを見逃さず、球種を予想してその通りの球が来れば、ヒットになる確率は高くなる。それがプロの打ち方だ。

「幸いにして、野球選手で頭を使っている奴は少ない。おまえらだけ頭を使えば勝てるじゃないか」と野村さんは言っていたという。


トヨタと野村監督は真逆

社会人として働いたトヨタではイエスマンになるなと教えられたのに、野村監督からは、反論すると「おまえ、トヨタに行って何してたんや。社会人の2年間を無駄に過ごしやがって、このやろう」と怒られたという。

「おまえなぁ。俺はおまえの何や?」「監督です」「監督と言えば上司やろ。部下は上司の言うことにハイと言っていればいいんや」と。

トヨタの教えとノムさんの教えは真逆だったと。

野村監督はお歳暮を贈らないと怒るという。入団してすぐ「この中にお歳暮を贈ってない奴がおる」と、ミーティングで説教された。

監督を観察して、何が好きかリサーチして、お歳暮を贈った選手がほめられたという。

古田氏は、最初の年ははやっていた入浴剤を送って、門前払い同然だったが、3年目に監督の好みをリサーチして、パパイアを送り、まあ、うちに入れと合格を貰ったという。

古田氏に実績がついてきたら、話をきいてくれる態度をみせてくれる様になったというが、トヨタの教えと「野村の考へ」が真逆だったことが、二人の名キャッチャー出身の監督の間に溝がある理由の様だ。


野村監督の古田評

ちなみに野村監督の方は、古田氏のことを次のように評している。(野村ノートより)

古田は野村さんに年賀状もよこさない。だから正直、古田が野村さんのことをどう思っているのかわからない…。

古田は過信家といってもいいほど自己中心的な性格をしているが、ことリードという点では探求心、向上心があった。なにより野球に対するセンスが良く、頭脳明晰である…。


王監督は、日本でも台湾でも野球教室を開き、リトルリーグ支援でも有名だった。古田氏も、野球の古田塾をつくり、専門的に野球をやりたい子供達に直接教えたいと語る。

当分古田氏の動向から目を離せない。これだけの人材と人気なので、いずれは政界入りという選択肢もあるのだろう。是非明晰な頭脳を日本の為に役立てて欲しいものだ。


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Posted by yaori at 23:36│Comments(0)TrackBack(0) スポーツ | 野球

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