世界のどこにもない会社を創る!―セコム創業者の痛快な起業人生
セコムの創業者飯田亮(まこと)さんの自伝。
実は飯田さんは筆者の湘南高校の大先輩だ。同じ湘南高校出身の石原慎太郎氏は同級生だ。
飯田さんは1933年東京日本橋生まれだ。実家は東京で酒販卸だったが、戦災で焼け出され、葉山に疎開していたため、神奈川県藤沢市にある湘南高校に通ったのだ。
学習院大学に入学し、アメフト部を創設。卒業後は実家の酒販卸に勤める。まずは倉庫番で、4斗樽(72キロ樽)も一人で運べるほど腕っぷしが鍛えられたという。
次に営業で、酒販店のおやっさんに熱意を感じて貰おうと、店の何メートルも前から走ってきて、息せき切って店に飛び込むというパフォーマンスをやっていたという。三木谷さんの本にも同様の手法が出てきた。
浅草の鳥鍋屋で聞いた会話がきっかけ
学生時代の友人の戸田寿一氏と一緒に、誰もやっていない意義のある仕事を始めようと相談し、浅草の鳥鍋屋で飲んでいた時に、海外旅行帰りの人が外国では会社の財産をよその会社に守って貰っているという話を小耳にはさむ。
これが警備業を始めるきっかけだ。
国際警備連盟の存在を知り、コンタクトすると、会長のソーレンセン氏が出資を申し出、ソーレンセン氏が51%、飯田氏と戸田氏が49%で1962年に日本警備保障を設立した。資本金は400万円だった。
料金は3ヶ月前払で営業を始める。この点も楽天の6ヶ月前金と同様だ。
当時はほとんどの会社が守衛を置いていたり、社員が交代で当直していたりして、自分で自分の会社を守るという意識だった。
巡回警備と常駐警備の二つのサービスで売り出し、宿直をやめようと考えていた新橋の旅行会社が最初のクライアントになった。
警備員には不審者とはちあわせした時、大声で誰何することと、警棒の使い方を教えたが、護身術は教えなかったという。
生兵法は大けがのもとになると考えたからだと飯田さんは語る。
1964年の東京オリンピックの選手村や競技場の警備で知名度があがり、帝国ホテルからも受注した。
帝国ホテルでは当時77歳の社長の犬丸徹三さんにホテル内をくまなく案内してもらい、ホテルのセキュリティはどうあるべきか懇切丁寧に指導してもらったという。
「ザ・ガードマン」で知名度アップ
1965年には連続テレビドラマ「ザ・ガードマン」のモデルにという話がTBSから持ちかけられ、このシリーズは7年間350回も続いた人気シリーズとなり、警備業の知名度アップと事業の拡大に大きく貢献した。
「ザ・ガードマンとは、警備と保障を業とし、大都会に渦巻く犯罪に敢然と立ち向かう勇敢な男たちの物語である。」というナレーションを筆者も覚えている。子供の時に毎週見たものだ。
売上も1962年は7万5千円、63年898万円、64年9800万円、65年は1億8千万円と急増した。
機械警備導入がセコム躍進の要因
警備員の泥棒とか不祥事が数件起きて倒産を覚悟したこともあるが、1966年に機械警備のSPアラームを導入し、その後は巡回警備をやめ機械警備一本に絞る。
異常があれば中央官制所に電話線を使って連絡が行き、警備員が直行するというシステムだ。
これを導入したのは、人手不足で人手による警備は限界があると感じたからだ。
人感センサーはアメリカ製、コントローラーとダイヤラーは国産だった。セコムは昔から自前主義にこだわり、他社に丸投げで製造させたりすることはしなかった。
電話回線を使用するときは、当時の電電公社に交渉に行ったが、課長相手では全くらちがあかなかったという。電電公社では権限を持っているのはむしろ係長だという話を聞き、係長と交渉して了解を得てサービスを開始した。
このとき機器を売り切りかレンタルにするか悩んだが、結局レンタルにしたことが、その後のセコムの躍進につながった。最初の顧客は当時の三菱銀行だったという。
筆者もアメリカに駐在していたときに、警備システムを賃貸マンションに入れたが、やはり機器は買い取りだった。たしか2,000ドル程度だったと思う。
長嶋監督のCMで一躍有名に
1971年からは長嶋茂雄氏にコマーシャルに出演して貰うようになり、セコムの知名度は飛躍的に上がった。
1974年には東証2部に上場。1976年には42歳で社長を退任、会長となり長期的な事業戦略を考えることに専念する。
1977年には東電、関電、中部電力と合弁で日本原子力防護システムを設立したり、1979年にセコム科学技術振興財団を設立する。
自宅用セキュリティシステムを売り出し
自宅が泥棒に入られたらサマにならないという思いから、それまでは物音がすると木刀で見回っていたが、家庭用のセキュリティシステムを開発し、マイアラームの商標で売り出した。
当初は売れなかったが、長嶋氏の「セコム、してますか?」という有名なキャッチコピーによって売上は急増した。2007年3月現在でマイアラームの契約世帯数は、39万件だという。
海外では最初に台湾、韓国ではサムスンと合弁で現エスワンを設立。韓国ではセコムはセキュリティの代名詞になっているという。
自宅にセコムを入れているペ・ヨンジュン氏を、コマーシャルに起用している。
社名のセコムとは、セキュリティ・コミュニケーションの略だという。
京セラと一緒に第2電電に出資したり、植物工場、病院経営、在宅医療サービス、保険業などに事業を多角化し、成功も失敗も経験した。
最近のヒットは位置通知サービスココセコムだ。徘徊老人や子供の安全、盗難車の発見などに役立っている。
月々の契約金額を人の場合500円、車の場合900円と安く設定しすぎてしまったという。現在の契約数は30万件を超え、黒字化したそうだ。
生まれ変わっても事業家に
飯田さんは1997年に64歳で引退し、会長から代表権のない取締役最高顧問となった。
小泉政権時代には、政府のいくつかの有識者会議の議長を務めるなど、社会貢献もしたという。企業家ネットワークの依頼で、企業家賞の審査委員長を勤めて、ベンチャーの育成を支援している。刺激になると言う。
最後に飯田さんは「生まれ変わっても事業家に」という文で締めくくっている。90歳までは仕事をしたいと。今74歳なので、あと16年あれば大きな仕事ができるという。
現在は16年先を考えてグランドデザインを考えているという。どうせなら世界にインパクトある仕事をしたいという。
もう一度人生をやり直せるならという質問には、「アメリカで生まれたい。まずアメリカンフットボールの選手になり、次いで歌手になり、最後は事業家で締めくくりたい」と。
まさに事業家魂の権化のようなひとだ。
インデックスの落合会長も著書に書いていたが、起業家はいちどやったら辞められないということだ。
「会社どころか一つの産業を生み出した男」と、本の帯にキャッチが書いてあるが、まさにその通りだと思う。
平易な内容で、簡単に読める。日本を代表する事業家のおすすめの自伝である。
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