2008年03月24日

チャーチルが愛した日本 関榮次さんの新作

チャーチルが愛した日本 (PHP新書 513)


第二次世界大戦前の知られざる外交史を描く元外交官の関榮次さんの新作。簡潔な表現の中にも、ストーリーが流れるように展開するので思わず引き込まれてしまう。

先週3月20日の朝日新聞にもPHP新書として大きな広告が出ていたので、気づかれた人もおられると思う。

この本の発売前に関さんと昼食をご一緒させて頂き、親しくお話をうかがう機会が持てた。

この本の帯に「名宰相と母の物語」と銘打っている様に、今回はチャーチルとチャーチルに大きな影響を与えた母ジェニー・チャーチルの2人が主人公だ。


ランドルフ・チャーチル卿夫人

チャーチルが日英同盟を通して日本に親近感を持っており、太平洋戦争直前には戦争突入を避けるために松岡洋右外相に手紙を託したことは、関さんの以前の作品の「日英同盟」「Mrs. Ferguson's Tea-set]で紹介されていたので知っていたが、チャーチルの日本への親近感はチャーチルのお母さんの影響が強いことを初めて知った。

チャーチルのお母さん、ランドルフ・チャーチル卿夫人(ジェニー・チャーチル)は、英語のWikipediaによると1854年1月9日生まれということなので、ちょうど筆者の100歳年上だ。

Jennie Churchil












出典:Wikicommons

チャーチルのお母さんは米国の実業家の娘で、母方の先祖を通してイロコイ族の血を引いていたと言われる。13歳の頃からパリで生活して、パリの社交界の花形だったところをチャーチルのお父さんのランドルフ・チャーチル氏と出会う。

ジェニーは20歳で議員に当選したばかりのランドルフと結婚し、翌年1874年に長男のウィンストンが誕生する。しかし20年続いたランドルフとの結婚生活は、必ずしも幸福なものではなかった。

ランドルフは結婚2年目でジェニーの誕生日に欠席する様になり、その後も頻繁に旅行に出かけて、すれ違いの生活を続ける様になった。

この原因はランドルフが梅毒に罹っていたので、奇行が目立ったからだと言われているが、真因はわからない。

ジェニーは自身の回顧録を1908年に出版しており、ランドルフを政治家として出世させるために尽力し、ランドルフは大蔵大臣にまでなったが、結果的に職を投げ出してしまい、ふがいないランドルフは彼女の期待に添うことができなかったことを記している。

ジェニーは写真でもわかるとおり、美貌に加えピアニストとしても一流、幼い頃からパリの社交界で磨かれた社交術、そして文才もあり、多芸多才な女性だった。ランドルフの議会演説の原稿も彼女が代筆することも多かったと言われている。

美貌とたぐいまれなる才能から、ランドルフと結婚していてもロマンスも多くあり、ランドルフの死後も1921年に67歳で亡くなるまでに20歳ほど年下の相手と2回結婚している。

関さんはジェニーの回顧録を読んで、そのディテールにわたる鋭い観察眼と描写に感銘を受けたと語っておられた。

このような恋多き、美貌かつ多才なアメリカ人女性なので、いまだにジェニーに関する研究が発表されており、昨年もアン・セバさんが"American Jennie"という本を出版している。関さんは出版記念会で、セバさんにも会われたそうだ。

American Jennie: The Remarkable Life of Lady Randolph Churchill


巻末に史料一覧が載っているが、いつもながら関さんの広範で勢力的な取材と膨大な資料からストーリーを構築していく力には敬服する。


ジェニー・チャーチルの日本紀行

ジェニーはランドルフが亡くなる直前の1894年に、主治医や召使いたちを伴ってランドルフと世界一周旅行に出発し、米国経由で日本にも9月から約1ヶ月滞在した。

横浜港に入港し、箱根、東京、日光、京都と滞在、神戸から次の寄港地の上海に向けて旅立った。

1894年6月に日清戦争が始まっており、チャーチル夫妻が日本を訪れたのは、日清戦争の真っ最中の頃だった。

ジェニーの「日本紀行」は1904年に雑誌「パルメル」に掲載され、1908年のジェニーの回顧録にも詳しく書かれている。

ジェニーの「日本紀行」は貴重な資料で、当時の写真とともに、この本のなかで40ページにわたり引用されていて大変興味深い。

ジェニーは日本の美しい風景と、明治時代中期のつつましいながらも規律正しい日本人の生活に大変感銘を受けたようだ。

何回も観劇に出向き、芝居を楽しむ人々の様子が詳しく紹介されている。

いろどりあざやかな幕の内弁当に興味を引かれ、当時の既婚女性のおはぐろには衝撃を受けたようだ。

箱根の描写も楽しい。当時の東海道線は丹那トンネルが開通していなかったので、現在の御殿場線の線路を走っており、チャーチル夫妻は横浜から国府津までは東海道線、国府津から箱根湯本までは1888年に開業した小田急の箱根登山鉄道の馬車電車で移動している。

途中の茶店で紅白のぱさぱさした菓子が出されたが、義理にもおいしいとは言えない代物だったそうだ。これが落雁なのか最中なのかなんだったのかが興味があるところだ。

今も残るホテルが描写されている。箱根富士屋ホテルは外人で一杯でがっかりしたそうで、1890年開業の東京の帝国ホテルは窓から蚊や3インチもあるバッタなどが飛び込んできたという。

日光では東照宮を訪れ、家康と家光の両方の神社を訪れることができたという。筆者も小学校の修学旅行で日光に行ったきりで、陽明門や眠り猫、三猿ははっきり覚えているが、家康と家光の両方の神社があるとは知らなかった。

ジェニーの日本紀行には、東照宮の内宮で行われた儀式も鮮明に描写されており、不勉強の筆者には大変参考になった。

京都には10日ほど滞在し、名所旧跡を訪問する他、骨董店や七宝、陶磁器、絹織物などの工房も訪れ、保津峡下りも行ったという。ジェニーの行動力には大変驚く。焼失して今はない京都の也阿弥(やあみ)ホテルからの眺望はすばらしかったという。

関さんは、ジェニーの明晰な頭脳、公平で包容力のある態度、審美眼もさることながら、彼女がフランスの小説家ピエール・ロティの著作("Japoneries d'Automne" (1889))などを通じて日本の歴史、文化、政治などについて相当の知識を事前に蓄えていたことを指摘する。

たしかに単に観光だけの旅行者の紀行文とはものが違う感じだ。

このようにジェニーは日本について忘れがたい強い印象を持って帰国する。


チャーチルと日本

チャーチルは1874年生まれで、当時の英国の上流階級の習慣で乳母に育てられ、その後は寄宿舎制の学校に入れられた。

幼少時は劣等生で陸軍士官学校も二度目の受験で合格したが、成績が悪かったので歩兵科に入れず、騎兵科に進んだことで父親ランドルフの不興を買っていたという。

チャーチルは士官学校を卒業した後、1900年に26歳で国会議員に当選、1902年の日英同盟締結の時には賛成票を投じている。第1次世界大戦中は海軍大臣、軍需相などを歴任した。

日英同盟は1921年に終結するが、その後1936年にチャーチルは「コリヤーズ」誌に「日本とモンロー主義」という題で寄稿し、次のように述べている。

「私は第1次世界大戦での日本の英国に対する忠実な協力を熱心に見守ってきた。ミカドの政府と長年協力してきて私の心に残る印象は、日本人がまじめで堅実であり、重厚で成熟した人々であるということ、彼らが力関係やいろいろな要因を慎重に考える人たちであると信じてよいこと、また理性を失ったり、よく考えないで無鉄砲な、計算を度外視した冒険に飛び込んだりしないということである。」

このような日本感は、彼が母から受け継いだ日本の姿であったと関さんは指摘する。

チャーチルは日英同盟条約への郷愁を披露しているばかりでなく、温情を込めて日本への忠告を披露している。それはその後日本がたどった太平洋戦争への道と、その結末を的確に予言したものであると関さんは語る。


太平洋戦争の本質ー大国の権益争い

第1次世界大戦では海軍相だったチャーチルは、日本の協力でドイツ艦隊を太平洋から一掃でき、日本海軍に感謝状を贈っている。

チャーチルは1929年に大蔵大臣を辞め、その後「荒野の10年」と呼ぶ下野の時代をすごす。

1932年にコリヤーズ誌にチャーチルは、次のような日本の植民地支配に好意的な一文を寄せている。

「自分は日本帝国と国民に憧憬と長年の敬意を持っている。精力的で進取的な日本の国民が格調の余地を必要とするのを認めるものである。我々は朝鮮で日本がしてきたことをみている。それは厳しいけれども良好であった。満州で彼らがやったことをみてきている。やはりそれは良好なものであるが、厳しいものであった。」と述べている。

さらに前記の1936年のコリヤーズ誌への論文でも、日本と英米諸国の植民地支配について指摘している。

「中国で永年にわたり合法的に手に入れた利権を暴力で根こそぎにされ、抹消されることに我々は耐えられないであろう。

いわんや、「日本人のためのアジア」を意味する「アジア人のためのアジア」という標語が実行されるときに、英語圏諸国は反発しないではいないであろう。」

これがまさに太平洋戦争の本質であり、「日本人のためのアジア」は実現しなかったが、「アジア人のためのアジア」は実現したことは、多くの人が指摘する通りである。


戦時下のチャーチル

1939年9月のヒットラーのポーランド侵攻とともに、チャーチルはチェンバレン内閣の海軍大臣として復帰し、1940年5月にドイツ軍がオランダ・ベルギー侵攻を開始した時に首相に就任する。

マジノ線が陥落してフランス軍が崩壊直前となったので、チャーチルはフランスに急遽飛んでフランス首脳と会談しているが、帰国した当日に予定通り日本大使館での重光葵大使主催の午餐会に夫妻で出席している。

このことでもわかる通り、チャーチルの最大関心事の一つは日本の参戦を防ぐことだった。

重光はチャーチルの行動に感激し、翌1941年前半にかけて日英関係の改善のための努力を尽くした。

チャーチルが首相に就任したての英国の対日政策は、中国への援助物資輸送用のビルマルート閉鎖に応じたり、日本への船舶建造発注案を検討したりと、かなり柔軟なものだった。

しかし1940年7月の第2次近衛内閣で松岡洋右外相によって日独提携が進められ、9月に日独伊三国同盟が結ばれてからは平和への機会が失われてしまったと関さんは指摘する。

1941年になってもチャーチルは日本を参戦から思いとどまらせるために、重光と頻繁に会い、ドイツ・ソ連を訪問した松岡宛にレターを書いたり、レターを松岡が握りつぶさないようにコピーを近衛に届けたりした。

ところが松岡はドイツ・ソ連出張後、極端なドイツびいきとなり、帰国後の天皇への報告会では、天皇にドイツに買収されたのではないかと思われたくらいで、チャーチルのレターにまともに対応する気はなかった。

そのレターは事前に米国国務省と内容をすりあわせたもので、次のような呼びかけとなっている。

☆ドイツが本当に英国侵攻が可能なのか見極めるのが日本の国益にかなうのではないか?

☆米英連合軍はヨーロッパでドイツと戦い、日本にも立ち向かうのが可能ではないか?

☆イタリアはドイツにとって負担ではないのか?

☆米英の鉄鋼生産量は合計9,000万トン、これに対して日本は700万トンで単独では戦うのは不十分ではないのか?


今から思えば、チャーチルの呼びかけは当然の内容であり、誰もが米英相手の戦争など無謀の極だと思うだろう。

日本の近衛内閣は無責任で、結局内閣を投げ出し東条英機内閣への道を開いた。近衛の責任は極めて重いと関さんは指摘する。

重光は結局1941年6月に離任し、その直後の7月には日本軍が仏印進駐で米英諸国との対立が決定的となった。それにもかかわらず、チャーチルは1941年11月、まさに太平洋戦争の勃発まで1ヵ月となった時に、マンションハウス演説と呼ばれる演説で日本へ最後の警告を出している。

「私は日本の最も賢明な政治家がもっており、すでに明らかにされている願望にそって、太平洋の平和が保存されることを希望する。」

しかし日本は戦争に突入し、1945年に無条件降伏するに至る。


戦後のチャーチルと日本

チャーチルは第二次世界大戦を陣頭指揮し英国を戦勝に導くが、1945年の総選挙で敗れ退陣する。

1951年には首相の座に返り咲き、当時皇太子だった今上天皇を英国でエリザベス2世の戴冠式にお迎えする。

戦後すぐでもあり、英国民の反日感情は高かったが、チャーチルは歓迎を陣頭指揮して、皇太子を格別にもてなした。

皇太子歓迎のレセプションでは、慣例を破って女王への乾杯の前に皇太子殿下への乾杯を行い、母ジェニー・チャーチルが日本から持ち帰り、チャーチルも愛用している青銅の馬の置物を取り上げて、「日本はこの置物のような美術品を生む文化と美術の長い歴史をもちながら、西欧諸国にまともに扱われず、軍艦を2,3隻もつようになってはじめて一流国として認められた」というジェニーが日本で聞いた話を皇太子殿下へのスピーチとした。

また吉田茂首相の訪英も反対論を押し切って受け入れ、吉田首相のレセプションでも皇太子殿下のスピーチで語った趣旨を繰り返し、第一次世界大戦中に日本の協力で、ドイツ軍艦を拿捕でき、太平洋での作戦がうまくいったこと、吉田首相が平和愛好家として戦前戦中を通して努力していたことをたたえた。

吉田首相は、チャーチルに10年来の旧友のように行き届いた心遣いをして貰ったことに感服したと回顧録に記している。

チャーチルの母がかつて日本に旅行したことがあり、幼少の時に母から日本の景色の優れていること、特に富士山のきれいなことを聞かされたということを聞いて、吉田首相は同じ大磯に住む安田靫彦(ゆきひこ)画伯に富士山の絵を描いてもらってチャーチルに贈ったところ大変喜ばれたという。

チャーチルは1965年に90歳で亡くなり、世界中、日本でも逝去が悼まれた。


指導者の質の差が出た太平洋戦争

関さんは、戦前戦後を回顧するときに、日本の指導者の資質の問題に思い至ることは避けられないと語る。

1970年代に防衛庁の防衛研修所と自衛隊幹部学校でチャーチルの戦略と戦争指導についての研究と集中講義を実施したところ、結論は連合国の勝因はチャーチルやルーズベルトらの資質が日独伊枢軸国側に比べて卓越していたことは忘れてはならないというものだった。

彼らは確固とした必勝の信念と透徹した先見性を持ち、世界戦略に立ってお互いに協力し、政治指導者としての地位権力の立場から軍の首脳と腹蔵なく協議しつつ、政戦両略の一体化をなしとげたということであった。


チャーチルの母の手

最後に関さんがチャーチルの生まれたマーバラ公爵家の壮大なブレナム宮殿、チャートウェルのチャーチル旧邸宅を訪問した時の話で締めくくっている。

この本に写真が載っているので筆者も気になっていたのだが、関さんはチャートウェルでチャーチルの母の左手のブロンズ像を見学したそうだ。

いかにもしなやかそうな美しい手で、チャーチルはこの左手の像をいつも書斎に置いていたという。チャーチルの母に対する愛惜の想いが伝わってくるようであったと記している。

まさにこの本のテーマを象徴するジェニーの手の像である。


綿密な資料調査に基づいていることがよくわかる作品で、特にケンブリッジ大学チャーチル史料図書館とチャートウェル財団に協力を得たと謝辞で記している。

さらにチャーチルの孫シーリア・サンズさんとは直接会って話を聞き、ヒュー・コータッチ元駐日英国大使とロンドン経済大学のニッシュ名誉教授の協力を謝辞に記している。

関さんの広範で緻密な調査にはいつもながら敬服する。大変格調高い文章でストーリー構成が秀逸である。

2002年BBCが行った「偉大な英国人」投票で1位に選ばれた偉大な政治家チャーチルの知られざる日本への想いがわかって面白い。是非一読をおすすめする。



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Posted by yaori at 00:49│Comments(1)TrackBack(0)ノンフィクション | 関榮次

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この記事へのコメント
5
大チャーチルのような得難い知日家をもてたことは日本にとってたとえようもない幸運でした。チャーチル母君はエドワード7世英国王の愛人として有名だったので、日英同盟や日露戦争における英国の日本支援もチャーチル母君の影の援護射撃がかなりあったのでは・・・。しかしそれは決して歴史の表舞台で語られることはなかったでしょうが・・・。こうしてみると女性の力は誠に偉大であるということですね。チャーチル母君にはアメリカインディアンの血が流れているということですから、日本人に人種的親近感のようなものが、ひょっとしてあったんでしょうかね?。しかし大チャーチルが本当に親日家だったかというと、?ですね。日本は非基督教徒の有色人種として始めて近代的陸海軍を組織してロシア帝国のような欧州の大国を撃破して、領土を割譲させました。とりわけ日本海海戦で日本艦隊がロシア艦隊を全滅させたことは全世界にたとえようもない衝撃を与えました。こうしたことからくる当時の日本(特にその強大な軍事力)への畏怖の念があったことは確かでしょうね。
Posted by ツシマ at 2008年10月04日 21:54