2020年07月30日

李登輝訪日 日本国へのメッセージ

2020年7月30日再掲:

台湾の元総統・李登輝さんが97歳で亡くなった。日本と台湾の関係が良好なのも、李登輝さんの力によるところが大きい。李登輝さんのご冥福をお祈りして、李登輝さんの著書のあらすじを再掲する。

2008年4月3日初掲:

李登輝訪日日本国へのメッセージ 完全保存版―2007旅と講演の全記録


3月22日(土)の選挙で馬英九氏が当選し、台湾で8年ぶりに国民党が政権を奪還した。

馬英九氏のまえに2000年まで国民党党首で台湾総統だったのが李登輝氏だ。

李登輝氏は台湾生まれ。日本の京都大学に学び、22歳までは日本人だったと公言してはばからないほどの日本好きの指導者だ。

2000年に国民党を離脱してからは台湾団結連盟に加わり、台湾独立を訴えている。

今まで小林よしのりの「台湾論」での対談などで李登輝氏のことを知ってはいたが、さらに深く知るためにこの本を読んでみた。

新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 台湾論


李登輝氏は2007年に日本を訪問し、長年の希望だった奥の細道の行程をたどるとともに、1945年にフィリピンで日本軍人として戦死した兄李登欽氏(日本名岩里武則命)が祀られている靖国神社に参拝した。

台湾総統を退いてからの李登輝氏の訪日は、毎回中国から政治問題化され、心臓病の診察のため岡山のみを訪問するとか(2001年)、名古屋、京都、金沢のみとか限定されてビザが発給されていた。

2005年から観光目的の台湾人の訪日にはビザが廃止されたこともあり、2007年の訪日は大きな政治問題とはならず、中国政府は靖国神社訪問を非難しただけだった。

2007年の訪日では11日間かけて、夫人と2人で次のようなスケジュールをこなした。とても84歳とは思えないエネルギッシュな行動だ。

来日直後に国際研究交流大学村訪問

台東区の芭蕉庵あとの芭蕉記念館

岩崎小弥太記念ホールで台湾にゆかりのある後藤新平賞の授賞式出席

新幹線にて仙台から松島に出て奥の細道めぐり

山形立石寺

平泉中尊寺

岩手県水沢の後藤新平記念館

田沢湖

角館で武家屋敷

象潟蚶満寺

秋田市の国際教養大学で特別講義

帰京して靖国神社訪問

拓殖大学

歓迎レセプション

日光東照宮

有楽町の外国特派員クラブで記者会見

これらは主なものだけを抜き出したもので、この他にも各地で行われた歓迎会や県知事、市長をはじめ地元の人との交流会などが多く開催された。

李登輝氏の人気の高さがわかる。

筆者も実は東北はほんの数回しか行ったことがない。それも出張とスキーのみなので、場所も八戸、仙台と蔵王だけだ。上記の名所旧跡も奥の細道などのWikipediaのリンクをクリックして、今更ながら勉強し直しているところだ。

新潟は出張でよく行ったが、今回は奥の細道の前半部分ということなので、李登輝氏は新潟は訪問していない。

この本には各地での歓迎風景や名所旧跡を訪問する李登輝氏の写真が多く載せられており、写真紀行といっても良いくらいだ。

紀行記の他に、日本李登輝友の会のメンバーの塩川正十郎氏や前拓殖大学学長の小田村四郎氏、国際教養大学学長の中嶋嶺雄氏、作家で李登輝氏の靖国神社訪問に同行した曽野綾子氏、評論家の櫻井よしこ氏らが寄稿している。

李登輝氏自身の序文や講演も収録されている。

1.今回の訪日で叶えられたこと

2.後藤新平と私

3.日本の教育と台湾

4.2007年とその後の世界情勢

5.日本外国特派員協会における記者会見

靖国神社宮司南部利昭氏の寄稿文も掲載されている。李登輝氏は靖国神社に祀られている兄の遺影にも対面し、「祭神之記」をしっかりと胸に抱かれていたという。

李登輝氏の父親は兄李登欽氏の戦死を信じなかったため、台湾には墓も位牌もない。

祭神之記には次が記載されているという。筆者も2人のおじさんが戦死している。たぶんおじさん達の祭神之記も靖国神社にあるのだと思う。

・英霊の御名前
・階級
・所属部隊
・死歿年月日
・死歿場所
・死歿時本籍
・死歿時御遺族
・靖国神社合祀年月日

外国特派員協会での記者会見では、李登輝氏は日本政府の弱腰外交を批判し、「中国や韓国などが自国の問題を処理できないため(国民の関心をそらすために)、靖国問題を作り上げた」、「国家のために命を落とした若者を慰霊するのに、なぜ外国に批判されなければならないのか」と語ると、記者団から期せずして拍手がわいたという。

拓殖大学は明治33年日清戦争によって割譲された台湾の開拓植民にあたる若い人材を育成するために、桂太郎公によって設立された台湾協会学校が母体で、後藤新平は第三代学長で、新渡戸稲造も学監を勤めたという。

後藤新平は1898年から7年間児玉源太郎台湾総督の民政長官として働き、疫病・匪賊の未開発地だった台湾を、美しい豊かな蓬莱の地と生まれ変わらせたとして、台湾開発の基礎をつくったといわれている。

また新渡戸稲造も二年間台湾の民政局で働いている。

李登輝氏の国際教養大学で行われた「日本の教育と台湾 ー 私が歩んだ道」という講演も面白い。

李登輝氏は22歳までは日本の教育を受けた。

日本は台湾統治を教育から始めたほど教育に力を入れ、台湾総督府ができた1895年に早くも国語学校を開校し、公学校(小学校)を各地に開設し、台北高校、台北帝国大学が設立された。

植民地でありながら、内地と変わらない教育を与えられたが故に、それまで匪賊と疫病の地だった台湾に、非常に近代化した文明社会が作られたのだという。

李登輝少年も禅に魅せられ、岩波文庫などを通じて東洋・西洋の文学や哲学に接することができたという。

李登輝氏は新渡戸稲造の「武士道」を解題して書き直した「「武士道」解題ノーブレス・オブリージュとは」という本も書いているほどで、武士道精神、日本人本来の精神的価値感、伝統を再評価しようと呼びかけている。

武士道 (岩波文庫)


「武士道」解題―ノーブレス・オブリージュとは (小学館文庫)


「天賦の才に恵まれた日本人がそう簡単に『武士道の精神』や『大和魂』といった貴重な遺産や伝統を捨て去るはずはない、と私は固く信じています」と李登輝氏は語る。

「武士道」も「大和魂」も今やほとんど死語となったように思える筆者には、考えさせられてしまう李登輝氏の言葉だ。

李登輝氏を評して台湾大学の教授は「日本の大正時代に生まれ、徹底的に日本教育の薫陶を受け、忍耐、自制、秩序を重んじ、公のために奮闘、努力する精神を身につけた人である」と言っているそうだ。

李登輝氏は、この表現は不十分で、日本教育の長所である「実践躬行(じっせんきゅうこう)」を付け加えなければならないと語る。

「私は、すべての原点を哲学に置き、すなわち『人間とは何ぞや』というところから出発したのです」 

「この日本的教育によって得られた結論は『私は誰だ』という問いについて、『私は私でない私』なのです。」

「この答えは、私に正しい人生の価値観への理解を促してくれました。いろいろな問題に直面するときにも「自我」の思想を徹底的に排除して、客観的立場での正しい解決の方法を考えました。これが日本の教育を通して私に与えられた人生の結論でしょう。」

英語で言うと"Who am I?" "I am not that I am"となる。

李登輝氏は日本語が一番得意で、次に台湾語、英語、最後に北京語だと言われている。

何ヶ国語かできる人の場合、頭の中は何語で考えているかという質問がなされることがよくあるが、筆者の推測では李登輝氏は日本語で考えているのではないかと思う。

つまり自我は日本人、しかし肉体は台湾人という状態を表現したのが、「私は私でない私」という言葉ではないかと思う。

筆者の理解が正しいかどうかわからないが、いずれにしても李登輝氏の講演はとても外国の指導者が書いたものとは思えない。まさに文人政治家だ。日本の政治家でも、これだけ中身の濃い講演はできないのではないだろうか。

最後の2007年の世界情勢分析も面白い。

ロシアは旧ソ連地域の覇権を目指しており、野心は旧ソ連地域にとどまらないとか、中国経済は不良債権がGDPの4−6割に達しており、すでに崩壊寸前で、国内外の関心を経済問題からそらせるために、宇宙開発、北京オリンピック、日本との歴史問題などを使っているのだと語っている。

台湾の新総統にも中国からの圧力や挑発が寄せられ、台湾の安全保障問題が2008年から数年間は最重要事項になると予想している。

日本李登輝友の会が、(有)まどか出版という小さな出版社から出した本だが、内容はすばらしい。

日本の京都大学で学び、米国コーネル大学で農業の博士号をとった哲人政治家の李登輝氏。日本語で話してくれる数少ない世界的指導者でもある。

本屋や図書館で見つけたら、是非手にとって見て欲しい本である。


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Posted by yaori at 22:31│Comments(0) 自叙伝・人物伝 | 李登輝