2008年06月02日

愚直論 マイクロソフト新社長樋口泰行さんの自伝的ビジネス論

「愚直」論 私はこうして社長になった


元ダイエー社長で、4月1日にマイクロソフトジャパンの社長に就任した樋口泰行さんの日本HP社長時代の最初の著書。樋口さんの著書は、以前「変人力」のあらすじを紹介した。

2005年の本だが、いまだにビジネス書のベストセラーランキングに入っている。アマゾンではむしろ最新の「変人力」より売れているようだ。

「変人力」には、現場で人を動かすぎりぎりの戦いをしてきた人のみが持つ言葉の重みがあり大変良かったので、この本も読んでみた。

樋口さんは文才があり、わかりやすく頭にスッと入る。

この本は樋口さんの経験に基づく自伝的経営論だ。


ビジネスで成功するには

樋口さんはビジネスで成功するには、次の3つが重要だと語る。

1.ハングリー精神
樋口さんの家は裕福ではなかった。毎日食パンを買うだけのお金を持って、お使いに行っていたが、ある日余計にお金を貰ったので食パンと一緒に菓子パンを買ってきたところ、お母さんに「うちにはそんなものを買うお金はないのよ。早く返して来なさい!」と言われたという。

その時自分の欲しい物は自分で努力して手に入れるしかないと思ったという。

2.熱意と経験が成長を決める
仕事は苦しいからこそ、それを乗り越えた時の喜びも大きい。失敗であれ成功であれ、熱意を持って取り組んだ経験の積み重ねが成長につながる。

3.仕事のスコープを広げる
樋口さんは「T」型人間を目指せという。自分の専門分野を深く知っていながら、製造、開発、マーケティング、営業、経理、財務、人事などの様々な分野でも広く理解できることで仕事のスコープを広げるのだ。

樋口さんは自身の経験を、長い時間をかけて認められるような「愚直な」生き方と呼んでおり、ケーススタディとして活用して欲しいという。


社会人としてのスタート松下電器時代

樋口さんは1957年兵庫県生まれ。兵庫県出身だったことから、ダイエーの再建を引き受けた話は「変人力」で紹介した。大阪大学の工学部に進学したが、アルバイトに明け暮れた。ほとんど授業には出席していなかったが、教授推薦で松下電器に就職する。

松下電器では8ヶ月の新人研修の後、子会社の松下産業機器で溶接機事業部に配属され、パチパチっと火花が出るアーク溶接の電源装置を作っていた。業界シェアNO.1とはいえ、いわゆる3K(きつい、きたない、危険)の職場で、閉塞感を感じ技術者として焦燥を感じていた。

そのころ新人研修の時に聞いた「T」型人間になれという言葉を思い出し、技術者として専門分野を極める一方、自分の幅を広げるために休日を利用して英語や情報処理を学び、異業種交流会を開催するようになった。

専門を深く追求した成果が出て、特許を6件取得した。自分のスコープを広げ、なによりもコミュニケーションの重要性を溶接機事業部で学んだという。


コミュニケーションはなぜ重要か

仕事をする上でコミュニケーションの重要性を述べる人は多いが、樋口さんのコメントは秀逸なので紹介しておく。

樋口さんは典型的な理系人間で、答えは一つしかないという世界に慣れていたが、現実のビジネスの世界では多様な価値観の人がいて、答えは一つではない。

自分の出した「たくさんある中の一つの答え」に基づいて人を動かそうとするとコミュニケーションが非常に大事なことを樋口さんは学んだという。


その通りだと思う。所詮たくさんある中の一つの答えをみんなに納得して貰うにはコミュニケーションしかないという考えは、実に説得力がある。

松下電器ではすばらしい経験をさせてもらい、社会人としての基礎を教えてもらった溶接機事業部には感謝の気持ちで一杯であると。

溶接機事業部での5年間の後、IBMのOEMを担当している特別プロジェクト室に異動し、入社当時からあこがれていたデジタル技術の分野を担当する。

米国IBMの社員と仕事をし、技術者としてトラブルやクレームに対応する中で、コンピューター製品や技術の理解を深めると同時に、米国流のマネージメントや仕事の進め方を学ぶ。

樋口さんは、ビジネスの基本、企業人の基本はすべて松下電器で学んだと語る。米国でもIBMやP&Gの出身者は「企業人としての基本がでてきているから、転職後も活躍できる」という話を聞くが、大企業の長い歴史で培われた精神的・文化的な土壌にふれることで、学べることは多いのではないかと。

たしかに大企業でみっちり新入社員教育を受けた人材は基礎ができている。なるほどと思う。


MBA留学試験に挑戦

その後松下が毎年20名前後のエンジニアを派遣しているMITへの技術留学を考えるが、上司の薦めでMBA留学に方向転換する。集中的に英語を勉強して、最初550点だったTOEFLスコアをアップさせる(当時の満点は677点)。

このブログでも「ドラゴン桜」「レバレッジ時間術」などの受験技術を紹介しているが、樋口さんのTOEFL対策は次の3点だ。

1.問題のひっかけにはパターンがある。3択の過去問を勉強していくうちに、クセがわかったという。

2.音響設備の良い試験場を調査し、ヒアリング問題の聞きやすい試験場を選択した。

3.問題を朗読する人によって個性があるが、TOEFL本試験は毎年3人の朗読者だった。その3人の過去問のテープをできるだけ集めて、その3人の声ばかりを聴く様にした。

この3つの対策で、650点を取ったときはまさに「してやったり」という気持ちだったという。

ビジネススクールの合否を大きく左右するエッセーには自分史を書いて第一志望のMITの面接試験で合格し、ハーバードにも電話面接で合格する。松下はMITと技術留学で関係が深く選択に悩んだが、奥さんの「男なら挑戦しないと」とのひと言で、ビジネススクールのトップのハーバード留学を決心する。


ハーバードの人格改造講座

樋口さんは英語が得意ではなかったので、ボストンに着いていきなり自信喪失し、落第候補生になってしまう。しかし深夜の3時か4時に寝て8時に起きるという生活を毎日続け、ローソンの新浪さんなどの勉強会仲間の協力も得て、なんとか進級できる。

ハーバードが元祖のケーススタディを週13回こなす。それぞれが4ー5時間の予習と解答準備が必要なので、1日3ケースとすると毎日12時間の予習をしなければならなかった。結局1年次に学外に出たのは3回だけだったという。

ビジネススクールでは発言しないと評価されない。技術屋の樋口さんは授業での発言が苦痛だった。「今日は発言できた?」というのが仲間うちの挨拶だったという。

それまで完璧主義者の技術者だった樋口さんは、毎日限られた時間内に決断を迫られるケーススタディを大量にこなすことで、「ビッグ・ピクチャー」を捉え全体最適な解答を探す現実的なスタイルに転換できたのだ。

ハーバードの2年間は樋口さんにとって「人格改造講座」だったという。

MBA取得に価値はあるかと問われれば、就職や転職の通行手形になり、キャリアの選択肢が広がり、人的ネットワークができるというメリットがある。

しかし入社してしまえば結果がすべてだし、他に代替手段もある。樋口さんはやはりビジネススクールは2年間プレッシャーの中で、質の高い教育をうけることが価値だと語る。


実力主義の世界…ボストンコンサルティンググループ

松下に帰任した樋口さんは、松下が8,450億円をかけて買収したMCA事業を検討するAVソフト室に配属された。

しかしクリエイティブな世界に生きるMCAは「親会社の言うことを聞け」という資本の論理など通用しない相手だった。樋口さんは伝書鳩としての自分の限界を感じ、帰国半年で退社を決意し、ボストンコンサルティンググループ(BCG)に転職する。

BCGの面接では、面接官一人1時間の面接を連続して5回行い、樋口さんは疲れ切ったが、その場で内定を貰った。「やりがいだけはある」という面接官のひと言が決め手だったという。

BCGに入社し、製造業のプロジェクトに配属された。上司は8歳年下で20代半ばの大学卒のマネージャーだった。

ひとたび仮説を構築すると、事実とロジックをつなぎ合わせてプロジェクトを進行させていく彼の仕事ぶりには驚かされたという。

技術者である樋口さんは気になることがあるととことんまで追求してしまう追求癖があるので、アウトプットで評価されるアウトプット主義にはなかなか感覚がつかめなかった。

身体の限界まで頑張っているのに、アウトプットの質が高まらない苦しみを最初の1年強は味わったという。

徹夜が続き、会議で失神し、「過換気症候群」と診断されたにもかかわらず、病院からまたオフィスに戻って仕事をした時もあったという。

仕事に成功を収めるが、だんだんクライアントから「後は我々に任せて下さい」と言われ、提言だけして、あとはいなくなるコンサルタントの仕事に飽き足らないものを覚える。

BCGの仕事はいわば短い時間と大きな期待という圧力釜の中での仕事で、生き残り競争も過酷だったが、ハーバードで習った経営者としての疑似体験を、リアルなビジネスの現場で直接体験し、戦略立案の頭の使い方が骨の髄までたたき込まれたという。

自分の伝えたいメッセージを、1時間ならこう、20分ならこう、エレベーターで乗り合わせた相手ならこうと、自由自在に加工できるように、何がポイントで本質はどこにあるかを常に意識し、仮説に基づいて問題を構造化し、整理できていなければならない。いわゆるフレームワークだ。それが戦略立案の仕事であり、BCGで徹底的に鍛えられたという。

このブログで「仮説思考」を紹介しているBCGでの樋口さんの上司、内田和成さんが、当時の樋口さんのことをブログで書いているので、紹介しておく。


テクノロジー業界への回帰

BCGには「アルムナイ」というOB組織があり、現役組と強いつながりを持っている。BCGの平均在職年数は3年で、或る意味3年で卒業する学校の様な風土があるという。

BCGで2年ほど経験をつんだ樋口さんは、BCGを退社してアップルに入社した。パイオニア製などのマック互換機を日本市場で売り出すことをキヤノン販売の協力を得て成功させたが、互換機が売れるとアップル本体の製品が売れなくなると考える米国本社との板挟みという問題を抱えていた。

いわばパソコンのハーレーダビッドソンのアップルでの仕事は楽しかった。

アップルで2年間働き、いずれは社長になりたいという気持ちを抱き、転職先を考えていたところ、コンパックに転職していたアップルの元上司から誘われ、1997年当時売上No.1で世界シェア10%のコンパックに入社する。

しかしコンパックは米国では好調だったが、日本法人は苦戦しており赤字と黒字を行ったり来たりしていた。ビジネス向けは一定の売り上げがあったが、コンシューマー向けは年間3万台前後、シェア1%以下だった。

そういえばあのころのコンパックを思い出す。

筆者自身は1994年頃から1997年までコンパックに買収されたDECのラップトップ(ポインティングデバイスはトラックボールで大変使いやすかった)を使っていた。コンパックというとIBM PCとほぼ同価格で、高価格・高性能という印象があった。

DEC









出典:Wikipedia

日本コンパックの社員約200人のうち10名が樋口さんのコンシューマー部門の部下だったが、マニュアルの翻訳などを除くと自由に動けるのは5名程度だった。世界共通デザインの、つくりが大ざっぱなモデルの輸入販売で、日本コンパックはコンパックグループでも全く発言力がなく、覇気がなかった。

樋口さんは、アップル時代につきあいのあったキヤノン販売を実質エクスクルーシブの販売チャネルとして起用し、強硬な米国本社との間を玉虫色で調整し、1998年に新モデルを売り出し大成功を収めた。元々コンパックは世界NO.1PCメーカーなので、品質も良くコスト競争力もあったのだ。

続いてデザイン性に優れた日本独自仕様のPCをマス・マーケティングで販売するために、独自の台湾のOEM工場を見つけ、ヒューストン本社に乗り込み「YESと言うまで日本に帰らない」と宣言して交渉した。

3週間ほどで本社のOKが出た。本社は一切サポートしないことと、うまくいかなかったらすぐに撤退し、樋口さんがやめるという2つが条件だったという。

そうして生まれたのがスリムタワー型で、今までのモデルより体積比で60%小型化したプレサリオ3500シリーズだった。TOKIOを使ったTVコマーシャルを打って大ヒットし、2000年には販売台数が30万台を超えた。

TOKIOのCMは2000年のものなので、メンバーも皆若い。

マーケティングの4大要素といわれる製品、価格設定、広告宣伝、販売チャネルのすべてがそろっての成功事例だ。

イメージキャラクターがTOKIOに決まる前に、当時の高柳社長から茶髪とピアスはダメだぞと厳命が下っていたが、現場がTOKIOで行かせてくれというので、現場の意向に上層部のOKを取った。

みんなが能力を発揮しあって、楽しく働け、実績にも結びつくという職場づくりの理想型に近いものだったという。

この業績で樋口さんは日本コンパックの取締役に昇進した。


社長という職業

コンパックは大型コンピューターに強いタンデムコンピューター、企業向けワークステーションに強いDECを買収し、2001年9月にHPによる250億ドルという巨額の合併を発表する。

樋口さんはそのとき米国コンパック本社で10ヶ月のエクゼクティブトレーニングを受けている最中だった。HPの創業家は反対を表明し、コンパック社内でも動揺が走るが、すぐに"Business as usual"という指令が出され、翌2002年3月の正式合意、5月の正式合併に至る。

受付嬢からCEOになった女性経営者として有名なHPカーリー・フィオリーナと、コンパックマイク・カペラスの指導力の成果だ。フィオリーナはHPにスカウトされて着任以来、世界で87あった事業部を12に再編し、強力な中央集権体制をつくってHPを再建した。

両者の単純合計で売上高874億ドル、利益39億ドル、従業員14万5千人、世界160カ国の事業拠点を持つ巨大企業となった。両者の得意とする事業領域は異なり、理想的な合併といわれた。

HPの伝統的なクレド、HPウェイは「+HPウェイ」となった。

HPウェイは、1939年のHP設立時につくられたもので、「企業は社員によって成っており、両者は共有関係にある」という企業と社員の間の共有を柱としている。MBO(Management by Objective=目標管理)や「良き市民であること」というCSRの考え方など、現代にも十分通用する先進的なものだった。

樋口さんは米国研修から戻って新生HPのPCサーバーのラインを任される。新生日本HPは従業員6,000人で、樋口さんが入社したときの日本コンパックの24倍になった。

樋口さんのプロライアントPCサーバー部門はDELLの攻勢を受け、シェアを徐々に失っていった。そこで樋口さんは低価格サーバーと高付加価値サーバーの2本立ての商品構成とし、1ヶ月で2億円使った広告を打って一挙にシェアを盛り返し、5位だったシェアを2位にまで回復させた。

2003年3月にHP本社から日本の社長候補に選ばれたという連絡があり、3月末に寺澤会長から「君に内定したぞ。君に断るオプションはないからな」と言われる。

20人弱の日本HPの取締役会の中で2番目に若い45歳の平取締役が社長になったのだ。それまで最大で30人の部下しか持ったことのない樋口さんが社員6,000人の企業の社長となったのだ。

樋口さんは肩の荷が重いと感じたが、なぜ自分が選ばれたかを考えると、「正義感の強さ」と「馬力の強さ」だと思い、これまで以上に頑張ることを決意する。

まずは外見から揃えようと、社長就任後、分刻みとなったスケジュールの合間に、デパートに飛びこみメガネとオーダーメードのスーツ、シャツとネクタイそして靴、ワニ皮ベルトの時計と、それまで使ったことのなかったカフスボタンを買い、1時間で数十万円散財したという。

いかにも等身大の社長、樋口さんらしい話だ。折角買った30万円のメガネは誰にも気づかれなかったのでがっかりしたそうだ。

社長就任早々、樋口さんの出したビジョンは次の5点だ。

1.お客様第一主義
2.スピード
3.結果重視
4.オープン
5.日本市場に根ざす

樋口さんは「不謹慎な言い方だが、社長の仕事は皿回しみたいなものだ」と語る。両手に何本も棒を持って数え切れないほどの皿を落ちないように回す。すべての皿を見ながらバランス良く皿を回すのだと。

樋口さんは外資系企業の日本法人のトップだが、外資の最先端のテクノロジーを駆使して、日本の発展に貢献し、日本を素晴らしい国に変えていきたいと語る。


樋口さんは、大学卒業から今まで一貫してハードワーカーだった。熱心に働いてビジネスで自己実現するんだという志を持って努力することで、思い通りの人生が描けるのではないかと語る。成果は後からついてくると。

樋口さんの経験に基づき、次のように語っている。

1.仕事は自ら創るもの これが短期間に成長するコツだ 電通の鬼十則を思わせる
2.「現場百回」の姿勢を持つ 答えは現場にある
3.勝負どころを見極める
4.価値観の異なる人とあえて交わる
5.身近な助言者を見つける
6.普遍的な実力を身につける
7.「T」字型人間になれ
8.マインドがすべて マインドとは、.僖奪轡腑鵝↓▲ーナーシップマインド、コラボレーティブマインド、ぅ好圈璽百兇裡瓦弔世函

リーダーに求められる役割は、メンバー一人一人がやりがいを感じ、成長できるような環境を創造することであると。

そのためにはリーダー自身がどれだけビジネスの現場で格闘してきたかが重要である。経験に裏打ちされた言葉にメンバーは共感する。

リーダーには高いマインドも求められる。皆が自分たちの共通の目標として捉えることができる方針を、哲学を持って打ち出し、コミュニケートできなければならない。

リーダーは大変な役割だが、リーダー自身が困難を乗り越えて成長することで、その背中を見ているメンバーも成長していく。こうして良質な人材が育ち、組織は拡張するのだと。

樋口さんは自分は不器用で変わり者だという。樋口さん自身ももっと成長しないといけないと。

日本HPの社長といういわば雲の上の人が、身近に感じられる。等身大のビジネス奮闘記で、面白く参考になる。

是非一読をおすすめする。



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Posted by yaori at 18:10│Comments(0)TrackBack(0) ビジネス | 企業経営

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