2008年12月02日

1984年の篠塚一太君の遭難事故

2008年12月2日再掲:

あるところに、篠塚君の遭難事故について書いたので、この記事を再度掲載する。いつ思い出しても、篠塚君のあの人なつこい笑顔が浮かぶ。

本当にいい奴だった。20代の若さで亡くなってしまったことが残念でならない。



2008年10月25日初掲:

1984年8月5日にバングラディッシュのチッタゴン空港で、ビーマン航空の飛行機が墜落して、住友商事の社員が2名なくなった。そのうちの一人が筆者の後輩の篠塚一太君だ。

住友商事の長い歴史の中で、飛行機事故で社員が亡くなったのは後にも先にもこのお二人だけだ。飛行機事故のリスクはそれほど小さい。そんな飛行機事故で、お二人が亡くなられたのは本当に残念なことだ。

28歳の若さで亡くなった篠塚君の冥福を祈って、友人が出版した本がある。

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篠塚君の学生時代の友人や会社の友人が集まって、講談社で本を作ったのだ。

その最初のページに在りし日の篠塚君の姿がある。

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ちょうどホンダのオデッセイのコマーシャルが、テレビでガンガン流されているが、あの音楽は昔の映画"Saturday Night Fever"のテーマ曲、ビージーズの"stayin' alive"だ。



その"Saturday Night Fever"の主演ジョン・トラボルタの有名な場面を真似たのがこの篠塚君の写真だ。

もうあれから25年近く経って、インターネットで「篠塚一太」で検索すると、筆者のブログしか出てこない。また「ビマン航空 事故」で検索しても、情報は限られている。

1984年といえばインターネットなど影も形もなかったときで、当時はまだテレックスの時代だった。だから当時の情報がネットには載っていないこともやむをえないかもしれない。

しかし、それではさびしすぎるので篠塚君の思い出を記録するために、当時の駐バングラ日本大使の小林俊二大使が、この事故について「日本・バングラデシュ交流メールマガジン」(第 10号・2004/06/24)に寄稿されているのを見つけたので紹介する。

【4】駐バングラデシュ歴代大使の証言・第5回(第5代大使:小林俊二氏)

「ダッカ電話網整備計画とビマン航空機の遭難」

バングラデシュの8月は雨期の最中であり、乾期には顔を出している国土の何割かが水中に没します。1984年8月5日の午後、チッタゴン発ダッカ行のビマン航空ターボ・プロップ機がダッカ空港着陸寸前に沼に突っ込んで水没し、乗客乗員約50名全員が死亡する事件がありました。朝方からの豪雨は上がっていましたが、滑走路を含む空港一体が水浸しであったため、滑走路の位置を見誤って手前の沼に着水したのが事故の原因でした。乗客には住友商事の職員2名が含まれていました。1名は東京本社から出張した邦人職員、他の1名はロンドン支店から派遣された英人職員という説明を受けたように記憶しています。

この事故と日本の資金援助によるダッカ電話網改善事業との間に少なからぬ関わり合いがあったことを承知している人はほとんどいないのではないかと思います。犠牲となった住友商事の職員のためにもその事情を書き残しておきたいと考えたのはこのためです。

パキスタンの電話設備は東パキスタン(バングラデシュ)の分離独立前から西独シーメンス社の独壇場でした。このためバングラデシュの電話設備への進出を企図したわが国の電気通信業界はダッカ電話網改良計画を作成し、バングラデシュ政府に提案することを企画しました。83年12月、ダッカのホテルに担当閣僚であるカーン通信相(海軍参謀長兼戒厳副司令官)その他の関係者を招き日本側購送についての説明会が開催されました。次いで翌84年2月には業界団体派遣の調査団がダッカを来訪して所要の調査に従事しました。

この動きに警戒の念を深めたシーメンス社は急遽西独政府を動かして電気通信担当相をダッカに派遣し、カーン通信相との間でひざ詰め談判を行わせました。その結果両閣僚間にバングラデシュにおける電話交換機は引き続きシーメンス社製品を使用するという趣旨の覚え書きが取り交わされたと伝えられ、日本側は計画の推進が容易でないことを覚悟せざるを得ませんでした。

しかし6月初旬、突然カーン通信相が更迭され、オバイドゥラ・カーン農業相と交代しました。オバイドゥラ・カーン氏は詩人でもある文化人であり、私が接触したバングラデシュ側指導層の中でも特に親日的な印象の強い人物でした。

通信相の交代がシーメンス社の工作と関係があったのかどうか定かではありませんが、この交代は悪い報せではないように思えました。6月14日、私は調査団の報告書提出のため来訪した業界団体の幹部を伴って新通信相を往訪し、ダッカ電話網改良計画調査報告書を手交して検討を求めました。通信相は積極的な関心を示し、至急検討すべき旨を約しました。

その後私は通信省当局と次官レベルで接触を維持し、前向きの結論を促し続けましたが、シーメンス側も前通信相を巻き込んで種々画策していた模様であり、事態は円滑には前進しませんでした。7月末、事務当局の結論は交換機を除く部分についてのみ日本の提案を受け入れるという結論に傾き、電気通信担当次官はその趣旨の書簡を発出するという意向を私に表明しました。

その矢先に発生したのが冒頭のビマン航空機水没事故でした。犠牲者の救出ないし遺体の回収のため海軍のフロッグマンが多数投入され、徹夜の作業が行われました。カーン前通信相(農相)は海軍参謀長として現場に駆けつけ、夜を徹して陣頭指揮に当たりました。ところが徹夜作業の疲労が祟ったのでしょう、同参謀長は翌朝、心臓発作を起こして急死してしまったのでした。

8月8日にはダッカの仏教寺院で邦人犠牲者のための法要が行われ、続いてヒンズー教徒用の火葬場で遺体が荼毘に付されました。火葬場といっても露天の河原に鉄の枠組みを設けただけの設備であり、この殺風景な設備での荼毘は余りに生々しく、遺族の参列を差し控えてもらっていましたが、私も途中でいたたまれなくなって大使館に逃げ帰りました。翌9日には遺族数名が住友商事の支店長に伴われて大使館を訪れました。

母親という婦人は私から何をお話しても目を見開いたままにこりともせず、凍りついたような表情を変えなかったのを忘れることができません。その表情はわが子の死を断じて諦めきれないと訴えているかのごとくであり、母にとって息子という存在のかけがえのなさを今更の様に思い知らされたのでした。年末には住友商事の伊藤社長が殉職した職員の慰霊のためダッカを来訪されました。

事故の後、バングラデシュ当局による日本提案の処理はオバイドゥラ・カーン通信相の支持を得て順調な進展を見せ、9月初旬には経済企画庁に付託されたとの説明を受けましたが、同月中旬、同氏が駐米大使に任命され、通信相の任を解かれたことで問題は再び複雑化する気配となりました。しかし翌年1月20日には私自身が帰朝のため離任することになり、新任のスルタン・アーメド通信相(海軍参謀長)に日本側提案の採択を重ねて慫慂した上で後事を後任の田中大使に委ねなくてはならなくなりました。

この問題をめぐるその後の推移は東京で風の便りに耳にするだけでした。しかし田中大使の努力もあったのでしょう、ダッカ電話網改善計画はやがて日本側提案が全面的に採用され、交換機を含めNEC製品を中心とする包括的改善工事が円借款により実施されただけではなく、引き続き追加円借款により拡大計画も実現を見たと承知しています。

施工契約の担当商社は住友商事でした。殉職した住友商事の職員はこの計画のためにバングラデシュに出張したわけではなかったのでしょうが、事故から派生したカーン前通信相の急死が日本側提案の全面的採用を促進する結果になったことには疑問の余地がありません。

ダッカの電話施設に日本製品が中心的な役割を果たすようになった事実の陰に住友商事職員の遭難という犠牲があったことをダッカ在留邦人その他関係者の皆さんが記憶に留めて下さる事を願って筆を置く次第です。

(小林俊二大使は1983年9月から1985年1月まで当地在勤)


同じ飛行機事故でなくなったもう一人は英国住商の社員ホームズさんだ。ホームズさんはたしかオックスフォード出身で、日本の貿易大学で教鞭をとり、帰国して英国住友商事の社員になった。

ホームズさんの死後、奥さんのホームズ・恵子さんが「入鹿(イルカ)ボーイズ」について日経新聞の最後のページの文化欄に何度か書かれていたので、ご記憶の人もいるかもしれない。

入鹿(イルカ)ボーイズとは、戦時中和歌山県の入鹿の捕虜収容所に入れられていた英国人を中心とする連合国側捕虜の話だ。戦後来日して地元の人と交流ができている。

恵子さんはこのことをまとめて"A little Britain"という本を出されている。


この文を捧げて、篠塚君そしてホームズさんのご冥福をあらためてお祈りする。


合掌





Posted by yaori at 00:36│Comments(1) 自叙伝・人物伝 | 篠塚一太
この記事へのコメント
実に久々に一太(あえて君とかさんは書きません)の事を
思い出して検索したらここにたどり着きました。
当方50年以上前に小学校(大田区赤松小学校)
にて数年同クラスで一緒させていただいたものです。
当時は一太はかなりおデブで給食のパンは持って帰っていました。
今考えると非常に包容力がありリーダーでは有りませんが
クラスの人気者でした。
当時当方は二十日鼠を飼っていたんですが増えすぎたため
クラスでいる人がいるかと聞いたところ一太が欲しいといい
家まで取りに来た事を思い出します。
#その後逃げられてしまったとの事・・
今でもあのふっくらとした(大人になってからは違うようですが)
体型を思い出します。
Posted by 身ばれ防止 at 2017年03月27日 07:21