2008年11月13日

ロシアン・ダイアリー 暗殺された女性記者の取材手帳

ロシアン・ダイアリー―暗殺された女性記者の取材手帳ロシアン・ダイアリー―暗殺された女性記者の取材手帳
著者:アンナ・ポリトコフスカヤ
販売元:日本放送出版協会
発売日:2007-06
おすすめ度:5.0
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2006年10月に暗殺されたロシアの「ノーヴァヤ・ガゼータ」の記者アンナ・ポリトコフスカヤの取材手帳。

次の3部にわかれ、2003年12月から2005年8月までの記録となっている。暗殺される直前の2006年10月までの日記は含まれていない。

第1部 ロシア議会民主制の死 2003年12月〜2004年3月

第2部 ロシア流、偉大なる政治的欝状態 2004年4月〜2004年12月

第3部 ロシアの憂鬱な冬と春 2005年1月〜2005年8月

2002年10月に起こったモスクワドゥブロフカ劇場占拠事件(約40名のテロリスト全員殺害、約130名の人質死亡)、2004年9月の北オセチアのベスラン学校占拠事件(ロシア側発表約400名死亡、推定約700名死亡)などが取り上げられている。

KGBはソ連崩壊とともになくなり、現在はFSB(ロシア連邦保安局)という機関がKGBの後継となっている。

この本の中ではしばしばFSBが超法規的措置(誘拐、暗殺や破壊工作など)の黒幕として疑われているが、真相はわからないままだ。


ロシアの汚い戦争

この本を読んでいて、筆者が昔駐在していたアルゼンチンの「汚い戦争」を思い出した。

1974年のホアン・ペロン大統領の死以降、副大統領だった奥さんのイサベル・ペロンが世界初の女性大統領になったが、政治的混乱が深まり、1976年に軍事クーデターが起こり、ビデラ将軍が大統領となって軍事政権となった。

このころに、軍部や警察が共産主義者や反政府と思われる人物をかたっぱしから誘拐し、蒸発者の数は1万人とも3万人ともいわれている。

筆者がアルゼンチンに駐在したのは、地元アルゼンチンが優勝したサッカーのワールドカップが開催された1978年から1980年までで、「汚い戦争」のピークは過ぎていたが、それでも時々テロ活動はあり、経済大臣が襲撃されたりしていた。

1978年以前はテロが頻繁に起こっており、筆者の会社の事務所があった当時ブエノスアイレスで一番高層だったビルにもバズーカ砲弾が打ち込まれたが、不発だったという。

そんなテロ勢力に対抗して軍や警察が、テロリストや反体制派とみなされた人たちを、裁判なしに秘密裏に誘拐して葬り去ることが行われていた。それが「汚い戦争」だ。

ロシアで起こっている誘拐や暗殺は、まさにあの頃のアルゼンチンの「汚い戦争」と同じだと思う。


麻薬犯罪

ロシア出身力士の大麻所持事件が続出しているが、プーチンが再選されたときの公開質問会で、ドラッグの売人は終身刑にすべきではないかと問われ、最長20年の刑期に改正したと答えている。

ロシア人元力士たちは、日本では大麻所持で情状酌量で釈放されているが、ひょっとするとロシアではもっと重い刑になったのかもしれない。

シンガポールでは依然として麻薬犯罪は死刑だと思うが(昔は入国書類にも麻薬犯罪は死刑と明記してあったので、たぶん今も変わらないだろう)、日本ももっと刑を重くする必要があるのではないかと思う。

主婦や会社員などが、外人の売人からドラッグを買うところをニュース映像で流していたが、罪という意識が薄いこともこの背景にあると思う。


ロシアの現状

ロシア軍は、国防省軍、内務省軍、FSB(警察系)と3つに分かれており、それぞれ折り合いが悪いということもこの本を読んで初めて知った。

スキンヘッドの「ロシア人のためのロシア」が、移民や中央アジア系のロシア人、外国人労働者たちを襲撃して、リンチして殺すことも頻繁に起こっているという。

大手石油会社のユコスの創設者の新興企業家ホドルコフスキー社長は脱税容疑で逮捕され、有罪判決がでて服役中で、ユコスはプーチン側近がトップとなっているロスネフチに吸収された。

ちなみに2004年にプーチンが再選された選挙結果は、プーチン71%、ハカマダが4%、ハリトノフが14%、その他11%となっている。

日本では最近部隊を移る自衛官に「はなむけ」として15人対一人の格闘訓練を行い、自衛官を死亡させたという事件が起こっている。ロシアでも新兵虐待が起こっており、虐待で死亡する兵士が出ている。ロシアでは徴兵制がまだあるのだ。

チェスの名人ガルリ・カスパロフが暴漢にチェス板で頭を殴られたとき、「ロシア人がチェス好きでよかった、これが野球だったら...」とジョークを言ったという。そのカスパロフはロシア政界に転身したが、反政府デモに参加して秩序を乱したとして、罰金刑に処せられたという。


(余談ながら)筆者のロシア体験

筆者がロシアに行ったのは1993年、1994年なので、もう15年くらい前になる。モスクワに行った後、エカテリンブルグ経由セロフに行って、ウラル山脈沿いの重工業地帯の鉄鋼メーカーを訪問し、そして一旦またモスクワに出て、今度は重工業都市チェリャビンスクを訪問した。

当時のロシアの場合、中央集権なので航空路線も地方と地方を結ぶ線が発達しておらず、すべて一旦モスクワに戻ってから別の地方都市に行くという具合だった。

セロフでは工場のゲストハウスに泊まったが、事前に聞いていた通りトイレットペーパーが新聞紙の様な硬い紙だったので、持参したトイレットペーパーをあげたら喜ばれた。

みやげに持っていった日本製の女性ストッキングが喜ばれた時代である。

セロフにはオリンピック級の大きな室内プールがあり、高さ10メートルくらいの飛び込み台もあった。

夏行ったときは、工場の連中と一緒にプールのサウナで裸の付き合いをして、サウナの後プールに飛び込んでみんなで泳いだので、冬行ったときも、当然プールのサウナに行くと思ったら、誰もサウナの話をしない。

変に思って、聞いてみたらなんとあのオリンピック級の室内プールは温水プールではなかったので、冬は閉鎖されていると聞いて驚いた記憶がある。

食事は安くておいしかった。アルゼンチンで有名なロシア風サラダ(ポテトサラダにビーツが入ったもの)の本場物を食べた。ウォッカはモスコフスカヤとかストリチナヤなどのロシア産のウォッカが品切れで、ドイツ製のゴルバチョフ?とかいうウォッカを飲んだ。

チェリャビンスクで泊まった民宿(マンションの一室を民宿として貸していた)では、ボディーガードがピストルを持って、寝ずの番をして、さらに空港まで送ってくれた。犯罪が多発しているということだった。

ちなみにこのチェリャビンスクでは、チェルノブイリのような原子力発電所の事故が1957年に起こっている。しかし、当時ば鉄のカーテンの中の出来事だったので、一切西側には知らされなかった。

この民宿で、当時封切られたばかりのシュワルツネガー主演のアメリカ映画「ラスト・アクション・ヒーロー」をビデオで見た。封切り直後にもかかわらず、海賊版がロシアの田舎で出回っていたのだ。



えらい国である。

ソ連の時代は、軍と警察とKGBの3勢力が押さえつけていたので、犯罪発生率も低かったが、共産主義が倒れると、一気に重しがなくなり、誘拐、殺人、泥棒、強盗、麻薬、違法コピーなどが広まり、マフィアがはびこるようになった。

そのマフィアの出身地で多いのがチェチェンと言われている。

プーチンはマスコミもどんどん自分の影響下に収めているので、たとえばモスクワの劇場占拠事件も、北オセチアの学校占拠事件でも、正確な報道がされていない。

正確な報道をするために、アンナなど独立系の報道機関が頑張っていたが、反体制と目を付けられ、とうとうアンナはモスクワのアパートのエレベーターで射殺されたのだ。

冒険投資家のジム・ロジャースは、ロシアとカスピ海湾岸国には決して投資しないという。よっぽど悪い思い出があるのだろう。

エネルギー価格が下落した現在こそロシアの正念場である。

はたしてプーチン院政で乗り切れるのか。注目されるところだ。


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Posted by yaori at 00:05│Comments(0)TrackBack(0) 自叙伝・人物伝 | ノンフィクション

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