2009年01月01日

読んでいない本について堂々と語る方法 書評ってなんだろう?

年頭の辞:

このあらすじブログで2009年の1月1日に紹介する本として不適当なタイトルではあるが、「本を読む」ということ、「書評」ということはどういうものなのか考えさせられる本である。

この本が説くように「書評」は本を読まなくても書ける。しかし「あらすじ」は本を読まないと書けない。

もともと読んだ本の内容を整理して、自分には備忘録、読者には「時短読書」として供しているこのブログである。

「書評」はいくら読んでもその本を読んだ様な気にはならない。逆説的ではあるが、これからも「書評」でなく「あらすじ」ブログを続けていこうと思う。そんなことを考えさせられた本である。

読んでいない本について堂々と語る方法読んでいない本について堂々と語る方法
著者:ピエール・バイヤール
販売元:筑摩書房
発売日:2008-11-27
おすすめ度:5.0
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「無税入門」同様気になるタイトルなので読んでみた。

パリ第8大学教授で精神分析家のバイヤール氏の作品だ。フランス本国では2007年1月の発刊、日本では2008年11月25日に発売されたばかりだ。

バイヤール氏はこの本の前に「失敗作をいかに改良するか」という本を2000年に出しており、気になるタイトルの本を続けて世に出している。

本の帯に”欧米で話題沸騰”とか”創造的読書への誘い(いざない)”とか書いてある。

結論から言うと、一見けしからん内容の本にも思えるが、次の3点から案外真実を含んでいる本ではないかと感じた。

1.実際は本を読んでもいないのに読んだような顔をしてコメントしたり書評を書いたりする批評家に対する痛烈なブラックジョーク。

2.”一冊の本を読むのに適した時間は10分である”とオスカー・ワイルドが語った(?)ことを引き合いに出し、本を読んで語るのは自分自身のことだという詭弁の様にも思えるが半面真理を含んだ指摘。

3.本筋とは関係ない部分を引用することにより、その本の印象を全く変えることができることを、漱石の作品からの引用で示している。本の引用とはどういうものなのか考えさせられる。


この本の目次

目次は次の通りだ。

I 未読の諸段階 

1.全然読んだことがない本 
2.ざっと読んだ(流し読みをした)ことがある本
3.人から聞いたことがある本
4.読んだことはあるが忘れてしまった本

II どんな状況でコメントするか

1.大勢の人の前で
2.教師の面前で
3.作家を前にして
4.愛する人の前で

III 心がまえ

1.気後れしない
2.自分の考えを押しつける
3.本をでっち上げる
4.自分自身について語る

それぞれの項目に対して具体例は1件だけの場合が多く、全く説得力がないが、これも筆者が意図してこういう構成をとっているのだと思う。


「愛する人の前で」とはいかにもフランスらしい

どんな状況でコメントするかの場面の一つに「愛する人の前で」というのがあるのが、いかにもフランスらしい。

ちなみにこの「愛する人の前で」という項では、ビル・マーレー主演の映画"Ground Hog Day"(邦題「恋はデジャヴ」)を取り上げている。

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出演:アンディ・マクドウェル
販売元:ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
発売日:2008-09-24
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Ground Hog Dayとは、ペンシルベニアのパンクスタウニー(Punxsutawney)という町で毎年2月2日にGround Hogというプレーリードッグのような動物が、冬眠から覚めるかどうかで、冬がさらにどれだけ続くのか占うイベントである。

テレビ局の取材で来たビル・マーレーが、毎日2月2日を繰り返す不思議な現象に陥ってしまう物語だが、この中でビル・マーレーが愛する人の前で、読んでいないにもかかわらずその人の愛読書の19世紀のイタリア文学の話で誘惑する場面があるのだ。


「共有図書館」を用いる方法

ムージルの小説「特性のない男2」に登場する目録さえ見れば個別の本を読む必要はないと主張する図書館司書を例に出している。

流し読みは詳細に迷い込まず本質を理解するのに効果的であると主張するポール・ヴァレリーの例を挙げて、書物の位置関係=全体の見晴し=「共有図書館」を把握することが、読んでいない本について語ることの決め手となると語る。

特性のない男 2特性のない男 2
著者:R. ムージル
販売元:松籟社
発売日:1992-12
おすすめ度:4.0
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ヴァレリーはプルーストの本をかろうじて1冊読んだだけだが、そのことは作家を正確に理解したり長々と意見を述べることの妨げにならないと主張する。


スクリーンとしての本

「スクリーンとしての本」とは、わかりにくい言い方だが、本の重要性は本そのものよりも、読んだ人がどういう理解をするかであるとバイヤール氏は語る。本は他人の評価を反映するスクリーンなのであると。

だから流し読みでも、他の本の評価を参考にしても、極端な場合読まずに評価しても、評価は評価だ。

我々が相手にするのは、現実の本でなく、これらの他人の言説や意見なのである。現実の本は遠くに追いやられ、永遠に仮定的なものになるのだと。


本筋とは関係ない部分の引用

1冊の本は何百ページもある。普通は本題と関係のある部分をその本の主題として引用するが、本題とは関係ない部分も特定の意図で引用される場合がある。

例としてなんと漱石の「我輩は猫である」と「草枕」が引用されている。

漱石の「我輩は猫である」からは、美学者迷亭が、ある席で自分が読んでいない本を話題に出して名文だと評したら、同席者がやはり名文だと同調したという話が取り上げられている。

「草枕」からは、山奥の旅館にこもる画家の主人公が旅館の娘に、本を適当に開いて目に入ったところを読むのだと説明している場面が取り上げられている。

青空文庫から「草枕」のその部分を引用すると次の通りだ。

「御勉強ですか」と女が云う。部屋に帰った余は、三脚几(さんきゃくき)に縛(しば)りつけた、書物の一冊を抽(ぬ)いて読んでいた。
「御這入(おはい)りなさい。ちっとも構いません」
 女は遠慮する景色(けしき)もなく、つかつかと這入る。くすんだ半襟(はんえり)の中から、恰好(かっこう)のいい頸(くび)の色が、あざやかに、抽(ぬ)き出ている。女が余の前に坐った時、この頸とこの半襟の対照が第一番に眼についた。
「西洋の本ですか、むずかしい事が書いてあるでしょうね」
「なあに」
「じゃ何が書いてあるんです」
「そうですね。実はわたしにも、よく分らないんです」
「ホホホホ。それで御勉強なの」
「勉強じゃありません。ただ机の上へ、こう開(あ)けて、開いた所をいい加減に読んでるんです」
「それで面白いんですか」
「それが面白いんです」
「なぜ?」
「なぜって、小説なんか、そうして読む方が面白いです」
「よっぽど変っていらっしゃるのね」
「ええ、ちっと変ってます」
「初から読んじゃ、どうして悪るいでしょう」
「初から読まなけりゃならないとすると、しまいまで読まなけりゃならない訳になりましょう」
「妙な理窟(りくつ)だ事。しまいまで読んだっていいじゃありませんか」

このように本題とはあまり関係ない部分でも、引用されたらその本の主題を代表する様に受け止められるという例だ。


読んでいない本について語ることは自分自身について語ること

そして、読んでない本について1.勇気を持って気後れせず、2.自分の考えを押しつけ、3.本をでっち上げ、4.自分自身について語れば良いのだと結論付ける。

書評は誰かが公式解釈をするわけでもないので、本をきちんと読まずに、流し読みだとか、他人の書評を参考にするとかで、勝手に本の内容を創作してして語っても良いのだと。これがバイヤールの言う、自分自身について語ることだ。

この本の翻訳者は、「本が読まないでも語れる」なら、「本は読まないでも翻訳できる」のではないかと考えたとジョークを飛ばしているが、翻訳者もある程度は「自分自身について語る」のだという。

突き詰めて言えば、「読まない方が書ける」のだと。

筆者の大学のときの日本近代法史(?)の石井紫郎教授の試験を思い出す。

1−2回しか石井教授の授業に出席せず、試験だけ受けて、自分の勝手な見解を長々と書いて自分ではよくできたと思っていたが、何のことはない石井教授が半年間掛けて説明していたことに全く触れていなかったので、「可」をくらった。

石井教授も答案を採点していて頭にきていたと思う。筆者の大学時代の唯一の「可」である。全く汗顔の至りである。


冒頭で書いたとおり、書評の危うさをブラックジョークを交えて指摘した本である。フランスでベストセラーになるだけの理由はあると思う。一度手にとってみることをおすすめする。


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Posted by yaori at 00:55│Comments(0)TrackBack(0) 読書 | 図書館に行こう!

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