2009年03月25日

カーネル・サンダース 65歳で起業したKFCの創業者 何歳でも起業はできる

カーネル・サンダースカーネル・サンダース―65歳から世界的企業を興した伝説の男
著者:藤本 隆一
販売元:産能大学出版部
発売日:1998-09
おすすめ度:5.0
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道頓堀でカーネル像が25年ぶりに引き上げられたからではないが、何年か前に読んだケンタッキー・フライド・チキンの創始者カーネル・サンダースの伝記を読み返してみた。

カーネル・サンダースはインディアナ州に生まれ、6歳の時に父親が病死。母は再婚するが、カーネルは義父と折り合いが会わず14歳で家をでる。

それから農場の手伝いや鉄道関係の仕事など転職を繰り返す。

学歴は小学校卒だが、その後も通信教育などで勉強し、アーカンソー州のリトルロックで弁護士として働いたこともある。

しかし納得のいかない判決に怒り、州議会に提訴して判決を覆すが、その後依頼が来なくなり弁護士を辞めてインディアナ州に戻り、鉄道で再度働く。

カーネルは人一倍働き者だったが、妥協できず、すぐかっとする性格から仕事を頻繁に変えている。

22歳の時にインディアナ州のジェファソンビルという町でフェリーボートの経営に参加し、ロータリークラブに入会する。

そのときのロータリークラブの”4段階テスト”がカーネルのその後の仕事の指針となる。

1.そのビジネスに嘘偽りはないか
2.そのビジネスは関係するすべての人に公平なものか
3.そのビジネスは良好な人間関係を作っていくものか
4.そのビジネスは関係するすべての人にとって有益なものか

その後もいろいろな仕事を転々とし、30歳になる前の1920年代の終わりにケンタッキー州のニコラスビルでガソリンスタンドを始める。

カーネルは自分で”ケンタッキーで自動車の窓をサービスとして洗った最初の人間だ”と自慢しているそうだが、サービス精神旺盛でガソリンスタンドは繁盛した。

ところが大恐慌で売り上げは急減、1930年にニコラスビルのガソリンスタンドを手放し、シェルオイルの紹介で同じケンタッキー州のコービンという町でガソリンスタンド経営を始める。

そしてガソリンスタンドに隣接した物置で、テーブル一つといす6席のサンダース・カフェを始める。

カーネルの”人が喜ぶ料理を真心をこめて作る”という姿勢からサンダース・カフェはおいしい料理を出すということで有名になり、規模も拡大して24時間営業を始めた。その後、カーネルはガソリンスタンドを手放してサンダース・カフェの経営に専念するようになる。

45歳になった1935年にはケンタッキー州からカーネルという名誉称号を与えられている。

サンダース・カフェに隣接してモーテルのサンダース・コートを開き、順調に拡張していたが、1939年にカフェとモーテルは火事で全焼したので、1941年に142席という大レストランをコービンに再建する。

カーネルは料理の味とともに、Q=quality、S=service、C=cleanlinessにこだわり、現在のファーストフードチェーンの基本コンセプトをつくったのだ。

ケンタッキーフライドチキンの原型はカーネルが11種類のスパイスを配合し、母親ゆずりの調理法の圧力鍋で調理するやり方を考え出したことで誕生した。

当初はフライパンに鉄のふたで調理していたので調理時間が30分以上かかっていたが、圧力鍋で調理することによって7分に短縮でき、現在の「オリジナル・レシピ・イレブンスパイス・フラインドチキン」が誕生した。

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出典:日本ケンタッキーフライドチキンホームページ

普通のフライは肉が固くなってしまうが、カーネルの方式で調理したチキンは肉が柔らかでジューシーなので、またたく間に評判になっていった。

順調に推移していたサンダース・カフェだが、1950年代のハイウェー建設ブームでハイウェイ75号がコービンの町を迂回して建設されてからは、カフェの売り上げは激減した。

カーネルは60歳を超えていたことでもあり、カフェビジネスを人に売って、引退しようと考えるが、受け取る年金額が月に105ドルしかもらえないことを知り愕然とする。

カーネル自身は”もしハイウェイが建設されなかったら、おそらく私はケンタッキー・フライド・チキンを始めなかっただろう”と語っている。

カーネルは自分の秘伝のフライドチキンの作り方をレストランに教えるビジネスを思いつき、まずは以前からの友人だったソルトレークシティのピート・ハーマンの自宅を訪れ、ピートの家族に食べてもらう。

"Finger lickin' good"(指をしゃぶるほどおいしい)の始まりだ。ピートが”ケンタッキー・フライド・チキン”と命名する。米国南部のいわゆるサザンホスピタリティを思い起こさせるネーミングだからだ。

カーネルは”60歳を過ぎてからの自分の人生を、大きく変えた出来事が2つあった。一つはハイウェイの建設で、もう一つはピート・ハーマンと出会ったことだ”と語り、ピートへの感謝を自伝に書いている。

1956年、サンダース・カフェをオークションで売却し、カーネルはケンタッキー・フライド・チキン”のレシピ販売に専念することになる。サンダース・カフェはハイウェイから離れていることもあり、一時の評価額の16万ドルを大きく下回り、7万5千ドルでしか売れなかった。

カーネルはそれから自分の車にスパイスと圧力釜を乗せて、レストランの訪問販売を始め、車の中で寝ては、知らない土地のレストランを訪問するという生活を続けた。

カーネルを支援したのはピートだった。ソルトレークシティに120もの看板を出してケンタッキー・フライド・チキンを宣伝し、ラジオコマーシャルも流した。

カーネルはピートのレストランをモデルレストランにして、どんどんフランチャイズ契約を拡大していった。カーネルの白い上下のスーツにひもネクタイというスタイルはこのころ始まった。

ピート自身もその後西海岸で200店舗以上を経営し、ケンタッキー・フライド・チキンの最大のフランチャイジーとなった。

1年目で7件の契約を獲得し、カーネルは移動に便利なケンタッキー最大のルイビルに移る。

カーネルの秘伝のスパイスは当初はカーネル自身が自宅の工場で調合し、フランチャイジーに送っていた。今でも秘伝のスパイス調合法はケンタッキー・フライド・チキン本社の金庫に厳重に保管されているという。

1960年にはアメリカで200店、カナダで6店、1963年には600店、イギリスでも1店舗と一挙に拡大していった。

フランチャイジーのトレーニング用に400ページものマニュアルが社内用に作られ、フランチャイジーにはそのうち40ページほどを渡して、同じサービス、同じ品質を保つ様にした。

カーネルは70歳を超え、後継者がいなかったので1964年1月ジョン・ブラウン・ジュニア(にその後ケンタッキー州知事となる)とジャック・マーシーに、ピート・ハーマンのテリトリーや娘のテリトリーフロリダ、カナダなどを除いたケンタッキー・フライド・チキンの経営権を売った。

起業してから8年後のことだ。

売った金額は200万ドルと生涯にわたっての年間4万ドルの給料、これからもビジネスの発展に関わる仕事に携わるという条件だった。

それから5年後の1969年、フランチャイジーは3500店を超え、ケンタッキー・フライド・チキンはニューヨーク株式市場に上場し、最初の100株がカーネルにプレゼントされた。

そしてケンタッキー・フライド・チキンは、1971年に2億7千万ドルでペプシコに売却されている。

三菱商事が1970年に始めた日本ケンタッキー・フライド・チキンは、カーネルが、”自分の思想を最も忠実に受け継いでくれる日本のケンタッキー・フライド・チキンを一番気に入っている”と言っていたほどだ。

神奈川県座間市のケンタッキー・フライド・チキン第1号店である相武台店では、カーネルの3度目で最後の来日の1980年に記念植樹されたポプラの木があるという。

当時の日本ケンタッキー・フライド・チキンの大河原社長は、カーネルが"The easy way becomes harder and the hard way becomes easier"とよく言っていたことを思い出すという。

カーネルは1980年に90歳の生涯を終えている。この年フランチャイジーは全世界48カ国、6,000店に広がっていた。

カーネルは65歳で起業し、フランチャイズビジネスのさきがけとなった。ビジネスを始めるには何歳でも遅いということはない。元気づけられる伝記である。

古い本なので、普通の書店では置いていないと思うので、是非図書館かアマゾンのマーケットプレースで探してみて欲しい。


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Posted by yaori at 01:17│Comments(0)TrackBack(0) ビジネス | 起業

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