
著者:北 康利
販売元:講談社
発売日:2009-04-21
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筆者が注目している元ビジネスマン作家、北康利さんの最新作。前作「白洲次郎 占領を背負った男」で取り上げた白洲次郎のボス、吉田茂の伝記だ。このあらすじブログは筆者の備忘録も兼ねているので、良い本だと筆者の思い入れも強く、あらすじがつい長くなってしまう。
この本の表紙は、50歳頃と思われる吉田茂の写真だ。これはロンドンの写真館で撮ったものということなので、1930年前後のものだろう。見慣れた次のような吉田茂の写真とは異なり、別人の様に見える。

出典:Wikipedia
YouTubeには次のような吉田茂のドキュメンタリーがいくつか収録されているので、こちらも参照して欲しい。
筆者は神奈川県藤沢市出身なので、小学校の遠足などで箱根方面に行く途中で大磯を通る時には、バスガイドが大磯の吉田邸の話をしていたことを思い出す。
また横浜市戸塚区の横浜新道と国道1号線をつなぐバイパスは、筆者の子供の頃は「ワンマン道路」と呼ばれていた。
このバイパスができる以前は国道一号線の戸塚駅付近に東海道線の踏切があって、朝晩は「開かずの踏切」になるので、たびたび足止めを食らった吉田首相の鶴の一声で、バイパス建設が決まったという逸話がある。
吉田茂は高知県人の「いごっそう」で、神奈川県出身ではないが、大磯に長く住んでいたので、まるで神奈川県の偉人のように感じていたものだ。
北さんも本の中で記しているが、今年3月吉田邸が不審火で焼失したのは残念でならない。
筆者の子どもの頃に吉田元首相の国葬があったことをおぼろげに覚えているが、北さんが述べている様に、高校の日本史では、受験に出ないという理由で、現代史は自習だったので、ほとんど当時の吉田茂のことは知らないので、興味深く読めた。
400ページ弱の本で、吉田茂の生い立ちから、サンフランシスコ講和条約締結までで終わっている。最初読んだ時は、吉田茂の晩年のことが書いてないので、尻切れトンボのような印象を受けたが、あらすじを書くために読み直すと、北さんの真意がわかってきた様な気がする。
たぶん北さんはこの本のタイトルにあるように、小泉元首相などに代表される「ポピュリズム」政治へのアンチテーゼとして、ステーツマン(ポリティシャン=政治屋でなく尊敬できる政治家)吉田茂の伝記を書きたかったのだろう。だから1951年のサンフランシスコ講和条約で終わっているのだと思う。
吉田茂のおいたち
吉田茂は明治11年(1878年)高知県で竹内綱の5男として生まれ、すぐに横浜のジャーディンマセソン商会の横浜支配人吉田健三の許に養子として出された。実父の竹内綱は自由民権運動家として知られた実業家・政治家だ。
吉田の長兄の竹内明太郎は小松製作所の創業者であり、早稲田大学理工学部創設に貢献したことから、竹内記念ラウンジがある。友人の田健治郎、青山禄朗とともに改心社自動車工場を設立し、3人の頭文字を取って脱兎にかけたDAT CAR後のダットサンが生まれる。
養父の吉田健三は福井県出身で、英国船に密航してイギリスで2年間生活した強者だ。帰国後実業家となり、当時極東最大のジャーディンマセソン商会の横浜支配人を勤めた。ビールを最初に取り寄せたのも吉田健三だといわれている。
健三は大磯に住んでいたが、当時大磯には伊藤博文、西園寺公望、木戸幸一、樺山愛輔(白洲正子の父)などが住んでいた。
健三は40歳で病死する。死因は不明だが、インフルエンザだったといわれている。豚インフルエンザの流行が毎日報道されるこのごろだが、昔も今でもインフルエンザは死に至る病となるのだ。
吉田茂は11歳で吉田家の戸主として現在の金にすると25億円ほどの遺産を相続し、遺産の大半を戦前に使い切ってしまったという。
大磯の豪邸をさらに広げたとはいうものの、それにしても大変な金銭感覚の無さだ。もっぱら遊びに使ったのだろう。吉田茂の実母は竹内綱の妾だったようで、後に妻の雪子に「芸者の子は芸者が好きね」とため息をつかれたという。
外務省入省
吉田茂は藤沢の耕余義塾という漢学塾に学び、日本中学校、東京高等商業(現一橋大学)、正則中学、東京物理学校(現東京理科大)、学習院大学を経て28歳で東大政治学科を卒業し、1906年外務省に入省する。
外務省では謹厳実直なエリート広田弘毅と同期で親友となる。
入省翌年、はやくも奉天に1年間勤務する。その後帰国して有力者牧野伸顕の娘雪子と結婚する。翌1908年ロンドン、次にイタリアに勤務する。
1912年から1916年までは朝鮮と中国の国境の鴨緑江に面する安東県領事として勤務する。
1915年大隈重信内閣は、袁世凱政権に対して「対支21ヶ条の要求」を突きつける。吉田は在満州の領事に呼びかけて、対支21ヶ条に反対したが誰も賛同しなかったという。保身を考えず、信念で行動する吉田らしいエピソードだ。
多くの役職を歴任して外務次官に
帰国後寺内正毅首相に秘書官にならないかと誘われ「私は首相なら務まると思いますが、首相秘書官は務まりません」と断っている。当時の外務次官の幣原喜重郎は英語の達人として知られるが、吉田とはウマが会わなかったという。
1918年中国の済南領事となり、第一次世界大戦のパリ講和条約に義父の牧野の秘書官として参加し、西園寺公望に同行していた近衛文麿と出会う。パリ講和会議では日本は人種差別撤廃を主張し、賛成多数を獲得するが、アメリカ大統領ウィルソンが全会一致を要求し、日本案は葬られてしまう。
吉田茂はこのとき国際社会における日本の立場を思い知らされたという。帰国後吉田は1920年に再度イギリスに赴任する。
1922年天津総領事を経て、1925年奉天総領事として勤務する。
このとき、吉田を訪ねてきた来客に出くわし、「本人がいないと言っているんだ。こんな確かなことがありますか」と答えたという話が残っている。戦後記者に「諸君とは食べ物が違う。私は人を食っている」と答えたという吉田茂らしいエピソードだ。
済南、天津、奉天のこと
余談になるが、筆者は中国の済南、天津、奉天(現瀋陽)すべて行ったことがある。
奉天(現瀋陽)に最初に行ったのは今のように近代化される前の1986年で、当時中国のマグネシア原料を米国に輸入していたので、鉱山を訪問したのだ。
今のように高速道路などない時代なので、片側一車線の並木道が旧満鉄沿いに大連から奉天まで続いており、当時の中国人運転手(今もそうかもしれない)の特徴とも言える無理な追い越しで何度も怖い目にあった。
奉天では満鉄の主要駅前にあった旧大和ホテルで一泊した。旧式ではあるが立派なホテルだった。
天津は2002年に行った。天津は北京から近いので、車で十分日帰りでき、天津事務所の人との打ち合わせだけだったので、あまり記憶にない。
山東省の済南へは、1998年頃米国向け鉄鋼原料の買い付けで行った。飛行機で北京から済南まで飛んで、車で済南から青島まで高速道路で移動した。
このあたりは石炭を燃料としている中小工場が多く、済南から青島までずっと途中スモッグがたちこめ、中国の大気汚染のひどさに驚いたものだ。
日曜日は済南に一泊したので、済南の近くの鍾乳洞を訪問した。本当は同じ山東省の孔子廟のある曲阜(きょくふ)に行きたかったのだが、片道5時間かかると言われ、1980年代(?)に発見されたという鍾乳洞を見学した。
すごい大規模な鍾乳洞で、たしかに一見の価値はあった。
山東省は筆者にとって忘れ得ない省だ。一つは最初に中国に出張した1983年に浙江省の杭州の相手方の総経理(社長)が山東省の出身ということで、山東省名産の汾酒というアブサンみたいなアルコール50%超のセメダインのにおいのする酒で何度も乾杯させられたのだ。

中国焼酎 汾酒 フェンチュウ 53度 500ml
(今調べてみたら汾酒は山西省の名産ということで、筆者が山東省と聞き間違えたのかもしれない)
悪酔いして本当にもう死ぬかとおもったが、案外翌日仕事ができたのには自分でも驚いた。たぶん蒸留酒なので翌日には残らないのだろう。
翌日の宴会の乾杯は度数の低いブランデーで、コーラも一緒に用意してこちらのペースで進めたので、問題なかった。ちゃんと対策を取っていれば、中国の宴会の「乾杯攻め」も怖くないことを知った。
もうひとつは1998年に済南に行ったときの宴会料理だ。
料理の一つが大皿にずらっと並んだセミの幼虫だったのだ。筆者が主賓のため、主賓が食べないと他の人も食べられないので、やむなく2−3個取って食べてみた。味はほとんど覚えていない。食べられなくはなかったが、うまいものではなかった。
そうしたら12人ほどのテーブルで、中国人でも食べないやつがいるのには頭に来た。こっちはせっかく無理して食べたのに、なぜ食べないのかと聞くと、今は(冬だった)セミのシーズンではないと言っていたので再度頭に来た。
閑話休題。
戦争に向かう日本
短期間のスウェーデン公使のあと、帰国して1928年に外務次官となる。張作霖爆殺事件が起こり、関東軍の暴走を止められなかった田中義一内閣は昭和天皇の叱責を受けて総辞職し、田中は3ヶ月後狭心症で死去する。
当時28歳の昭和天皇は、田中を叱責したことが田中内閣を総辞職させ、田中を死に追いやる結果にもなったかもしれないということを深く悔やみ、以後は発言を極力控えるようになり、そのことが軍部の横暴に拍車を掛ける結果となる。
今度紹介する元竹田宮家の旧皇族の竹田恒泰さんの「旧皇族が語る天皇の日本史」に「昭和天皇独白録」の関係部分が引用されているので紹介する。

著者:竹田 恒泰
販売元:PHP研究所
発売日:2008-02-14
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「それでは話が違ふではないか、辞表を出してはどうか」
「こんな云ひ方をしたのは、私の若気の至りである(中略)この事件あって以来、私は内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持ってゐても裁可を与へる事に決心した」
吉田は1930年まで外務次官をつとめた後、イタリア大使として転出する。
1931年に満州事変が起こり、政府は不拡大宣言を出すが、軍を抑えられず若槻内閣は辞職し、犬養毅内閣が成立する。その犬養毅も翌1932年5.15事件で暗殺され、暗い時代に入っていく。
駐米大使の話もあったが、吉田はこれを断り、1932年に日本に待命待遇で帰国する。駐米大使は外交官として最高の栄誉なので、あり得ない話だが、関東軍の暴走を追認する内田外相への反感によるものだという。
日本では1932年から駐日米国大使となっていたジョセフ・グルーと家族ぐるみの親密なつきあいをする。グルーはボストンの名家出身で、モーガン財閥とは姻戚だ。ハーバード大学在学中に日本を訪問し、日本びいきとなったという。
外交感覚のない国民は必ず凋落する
多くの逸話がある吉田茂だが、外交で国を救うという姿勢は一貫しており、その一つがこのエピソードだ。
1933年、吉田の外務省同期の広田弘毅が外相になり、待命中の吉田に気を遣って外交巡閲使として吉田を欧米に派遣する。1933年は日本が国際連盟を脱退した年だ。朝鮮・中国からスタートして一年強掛けて世界を一周する。このとき同行したのが麻生太郎首相のお母さんで吉田茂の三女、旧姓吉田和子さんだ。
吉田はワシントンで岳父牧野伸顕の紹介で、ウィルソン大統領の親友で外交官のハウス大佐に会い、「外交感覚のない国民は必ず凋落する」という警句を聞いた。これが吉田の生涯忘れえない言葉となった。
1936年には2.26事件が起こり、義父の牧野伸顕は湯河原で襲われ、孫の吉田和子と一緒に、すんでのところで難を逃れる。この時遭難してれば、麻生太郎首相も生まれなかったわけだ。
牧野についておもしろいエピソードを北さんは紹介している。
吉田茂の息子の吉田健一は評論家として有名だが、吉田の仲間の小林秀雄は酒癖が悪く、ある時酔って牧野に抱きつき、頭をなでながら「お前みたいに記憶のいい爺イはメモアールを書いておけ!きっと書くんだぞ!」と怒鳴っていたという。
仲間の河上徹太郎が失礼をわびると、牧野は「いやなに、2.26の時は機関銃の弾の下をくぐりましたから」と答えたという。
筆者の年代の人は、小林秀雄というと、文芸評論家の神様の様な存在で、現代国語の問題によく引用され、その難解な文章には悩まされたものだが、まさか酒乱だったとは思わなかった。
駐英大使として赴任
1936年3月、広田弘毅内閣が誕生する。広田は吉田を外相にするつもりだったが、軍部の反対でやむなく断念し、吉田を駐英大使に任命する。
この頃は在外武官が武官府という独自の事務所を持ち始め、独自の外交を展開していた。そんな武官の中で最も力を持っていたのがドイツ大使館付きでドイツ語が堪能な大島浩少将だ。
大島はヒットラーとも親しく、リッペントロップ外相と日独防共協定案をつくりあげる。1937年11月に日華和平交渉を仲介するなど、それまでドイツは親中国の立場を取っていたので、この協定は大島の自信作で、案が煮詰まるまで大島は一切外務省には知らせていなかったという。
外務省はあわててドイツ以外のイギリスなどにも参加させようとするが、吉田は防共協定自体に反対する。結局この年11月に日独防共協定は締結され、広田内閣も10ヶ月で辞職する。
吉田が駐英大使時代につきあいが深まったのが白洲次郎である。次郎が日本水産の貿易担当役員をしていた関係で、ロンドンにもしばしば立ち寄り、吉田の妻雪子からは娘の和子の結婚相手を探すように頼まれる。
次郎が見つけてきた相手が麻生太賀吉・麻生鉱業社長だ。たまたま次郎は麻生と同じ船に乗り合わせ、サンフランシスコから横浜までの2週間一緒にいて意気投合したのだという。
白洲次郎夫妻が仲人となり、吉田の帰国後の1938年12月に二人は結婚する。麻生太賀吉は実父を早く亡くしたこともあり、吉田茂を実の父親のように慕っており、セメントや石炭事業が絶好調の麻生鉱業が、巨額の政治資金を吉田茂に提供したのだという。
1937年には廬溝橋事件で日中戦争に突入し、近衛文麿が総理大臣となるが、有名な「蒋介石を相手にせず」声明を発表してしまう。
吉田は駐英大使として孤軍奮闘し、親日家のロバート・クレーギーを駐日大使に赴任させることに成功するが、外務省の実権は大島の息のかかった白鳥敏夫派に移り、吉田は本国の支援を失い、1938年9月帰国辞令が出る。
吉田の後任が重光葵であり、チャーチルは重光と頻繁に会って、日本の欧州戦争への参戦を思いとどまらせようとしていたことは、関栄次さんの「チャーチルが愛した日本」に詳しい。

著者:関 榮次
販売元:PHP研究所
発売日:2008-03-15
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最後まで開戦回避に努力
吉田の帰国辞令と時を同じくして結ばれたのがチェンパレン英国首相の戦争回避策であるミュンヘン協定だが、ヒットラーはミュンヘン協定を破って領土をさらに拡大し、戦争に突入していく。
日本に帰国した吉田は、役職にはつかず、白洲次郎と一緒にグルー駐日米国大使としばしばゴルフに出かけたり、クレーギー駐日英国大使とも密接な関係を保っていた。このため吉田の周囲は、憲兵隊から「ヨハンセングループ」(吉田反戦グループ)とコードネームを付けられ、常時監視されることになる。
1939年9月ドイツのポーランド侵攻により第2次世界大戦が始まる。閉塞感が漂う中、1940年7月近衛が再び首相に就任した直後に、米国は対日航空ガソリン禁輸を決定する。日本はやむなく石油資源を求めて9月に北部仏印進駐、そして日独伊三国同盟が大島と白鳥駐伊全権大使の連携で締結される。
1941年に吉田の妻の雪子が亡くなった。雪子の死後数年は吉田はやもめ暮らしをしていたが、娘の和子のすすめで、長年の妾だった小りんを家に迎え入れる。小りんは故雪子に気を遣って、入籍はしなかったという。
1941年4月戦争回避のためホノルルで近衛首相とルーズベルト大統領が会談するという計画が持ち上がるが、ハル国務長官や松岡洋右外相の反対で実現しなかった。7月には南部仏印進駐への制裁として、米国は在米日本資産の凍結を発表、8月には対日石油輸出を全面禁止とした。
近衛はグルーと直接会い、ルーズベルトとの直接会談を要望するが、10月に近衛内閣は総辞職に追い込まれる。東條英機内閣が成立し、11月末の強硬なハルノートを受け取り、日本は開戦に踏み切る。
吉田は12月始めにグルーの要請で東郷茂徳外相との会談を実現すべく最後まで努力するが、12月1日の御前会議で開戦決定が下されていたので、東郷はグルーに会わなかった。
太平洋戦争に突入
戦争中も吉田は、和平を結ばせるべく努力し、近衛や木戸幸一内大臣などと相談するが、即時停戦の近衛上奏文作成に加わったことで1945年4月に逮捕され、阿南惟幾陸相の口利きで5月末に釈放されるまで収監される。吉田邸の女中や書生としてスパイが送り込まれていたのだ。
一方グルーは1942年外交使節交換船で帰国するが、米国帰国後も駐日大使より格下の国務省の極東次官補にあえて就任し、次に国務次官に就任、皇居への直接爆撃を阻止するなど、早期戦争終結に努力するが、ルーズベルトの後任のトルーマンは原爆の威力に魅せられ、グルーを遠ざけた。
吉田はグルーを「真の日本の友」と呼んで感謝している。
グルーの努力も実らず、結局原爆が投下され、ソ連が参戦し、日本は降伏した。終戦を決定した鈴木貫太郎内閣は1945年8月15日総辞職し、皇族の東久邇宮稔彦殿下が首相となり、吉田は外相として67歳で初めて入閣し、さっそく外務省の人事を一新し、大改革に取りかかる。。
マッカーサーと吉田茂
吉田は1945年9月GHQを訪れ、はじめてマッカーサーと面談する。初対面で「ライオンの檻に入れられたような気がする」とジョークを飛ばし、それ以降マッカーサーとは終生良い関係を保った。
この二人は自尊心といい、他人の言うことを聞かない独善性といい、性格的にはそっくりで、犬好きという共通点もあったと北さんは評している。
外相就任してすぐに、天皇の希望で、天皇とマッカーサーとの会談が実現し、有名な写真が公開される。モーニング姿の天皇に対し、開襟シャツのマッカーサー。どちらが支配者か一目で分かるマッカーサーの政治傑作の一つだ。

出典:Wikipedia
マッカーサーの予想に反し、昭和天皇は命乞いをするどころか「戦争の全責任は私にある。私は死刑も覚悟しており、私の命はすべて司令部に委ねる。どうか国民が生活に困らぬよう連合国にお願いしたい」と述べた。
マッカーサーは感動し、誰にも使ったことのなかった”サー”を口にして送り出した。マッカーサーは、引退後も日本の戦後復興の最大の功労者は、昭和天皇だと語っており、天皇に対する尊敬は終生変わりはなかったという。
このときの昭和天皇の帽子の裏地には、ほころびを繕った跡があったという。天皇の人柄と、いかに清貧な生活をしていたのかが偲ばれるエピソードだ。
内務省が会見写真の新聞公開を差し止めたことから、GHQは怒り、内務大臣と内務・警察官僚4,000人の罷免を要求する。これで東久邇内閣は総辞職し、54日という歴代内閣最短記録をつくる。このことが尾を引き、戦前「役所の中の役所」と呼ばれてきた内務省は、1947年に解体されてしまう。
東久邇宮内閣の次は幣原喜重郎内閣が成立し、吉田は引き続き外相として留任して、「終戦連絡事務所」を設立し、白洲次郎を終連中央事務局参与に任命する。近衛はマッカーサーから一時はおだてられるが、米国内で近衛に対する非難がわき上がると、近衛を切り捨て、近衛は戦犯容疑で収監される前日に青酸カリ自殺する。
GHQ民政局と対決
GHQの占領政策の中心は民政局のホイットニー准将(当時48歳)とその部下のケーディス大佐(当時40歳)だった。彼らはニューディールの申し子で、いわば理想主義者の集団だった。
吉田茂と白洲次郎のコンビはGHQの民政局を相手に、日本の国益を守るために必死に戦う。吉田は作戦として、自分はマッカーサーを交渉相手にすることを決め、それ以下のホイットニーなどは相手にしなかった。マッカーサーの部下との交渉を引き受けたのが、ケンブリッジ仕込みの英語の達人、白洲次郎だった。
民政局は20万人を公職追放し、「ホイットニー旋風」を起こすが、GHQの中でもG2の「バターン・ボーイズ」の一人のウィロビー少将は民政局の政策を好まず、吉田と白洲はウィロビーと接近する。
ソ連が極東委員会を通じて、対日占領政策に口だしする構えをみせたので、マッカーサーは1946年2月に憲法改正草案の作成を命じ、GHQ関係者25名が7日間で草案を作り上げ、吉田と次郎に手渡す。改正案を日本側が訳して4月に憲法改正案として公表され、国会決議を経て成立した。
憲法改正案が国家に上程されたときに、多くの議員が無念のあまり嗚咽を漏らしたという。
自国の憲法を批准するのに国会議員が涙を流したというのはおそらく日本だけだろうと北さんは語る。日本人は彼らが抱いた悔しさを今ではすっかり忘れ果ててしまっていると。
第1次吉田内閣成立
1946年4月の総選挙で勝利した鳩山一郎は、組閣準備を始めるが、GHQの民政局から公職追放を突きつけられ、やむなく組閣をあきらめ、吉田に首相就任を要請する。吉田は一旦は断るが、鳩山や周りの説得で1946年5月に首相就任を決意する。
このとき鳩山に出した条件が次だ。
*自分は金を作らない
*人事には干渉させない
*嫌気がさしたらやめる
鳩山は「追放が解除になったらすみやかに総裁を譲る」という約束があったと主張して、後に吉田茂と大げんかになる。鳩山の公職追放が解除されたのは1951年のことだ。
戦争に負けて外交で勝った歴史はある
この有名な言葉は、吉田茂が昭和21年5月、初めて総理大臣となったときの言葉だ。
「戦争に負けて外交で勝った歴史はある」
吉田茂は後に日本医師会会長となる甥の武見太郎に、首相になる自信はあるかと聞かれた時に、このように答えたという。
19世紀ナポレオンの没落後、ヨーロッパ中を敵にまわしながら、領土を守りきったフランスのタレーラン外相のことを思って言ったのではないかと北さんは語る。
1946年当時、日本は海外領土を失い、農業の働き手を失って深刻な食糧不足に悩まされていた。
吉田はマッカーサーと掛け合い、食料問題を解決するために450万トンの食料援助を依頼するが、実際は70万トンで国内に十分な食料がゆきわたった。
マッカーサーがそのことをなじると、吉田茂は「もし日本が正しい数字を出せる国だったら戦争に負けてなどいませんよ」といなし、これにはマッカーサーも笑い出したという。
吉田はGHQの指示で、六・三制義務教育(それまでは6年間が義務教育だった)、農地改革を実現する一方、組合を「不逞の輩(やから)」と呼んで舌禍事件を起こした。
また選挙嫌いも徹底しており、地元で「自分は高知から選出されたかもしれないが、日本国の代表であって高知県の利益代表ではない」と公言していたという。
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