2009年06月09日

南原繁の言葉 東大の8月15日

南原繁の言葉―8月15日・憲法・学問の自由南原繁の言葉―8月15日・憲法・学問の自由
著者:立花 隆
販売元:東京大学出版会
発売日:2007-02
おすすめ度:5.0
クチコミを見る


「天皇と東大」という長編作品を書いた立花隆さんが中心になって、2006年8月15日に開催した「八月十五日と南原繁を語る会」の記録。

天皇と東大 大日本帝国の生と死 上天皇と東大 大日本帝国の生と死 上
著者:立花 隆
販売元:文藝春秋
発売日:2005-12-10
おすすめ度:4.5
クチコミを見る


南原繁さんは、内村鑑三新渡戸稲造の薫陶を受けた政治学者で、戦後すぐに最後の東京帝国大学総長に就任、貴族院議員も兼任した。

総長在任は1945年12月から1951年の間なので、旧制東京帝国大学の最後の総長で、1947年からは新制東京大学の最初の総長でもある。

南原繁さんの出身校の香川県の三本松高校のホームページに、南原繁さんの年譜が紹介されている。


「八月十五日と南原繁を語る会」については、安藤義信さんという方のホームページで詳しくレポートされているので、紹介しておく。

南原繁を語る会





出典:安藤義信さんのホームページ

安藤さんという方は昭和33年の東大の卒業生だ。


このブログでは立花さんの「滅び行く国家」のあらすじを紹介しているので、立花さんが「天皇と東大」という上下1,500ページもの大作を出しているのは知っていた。

滅びゆく国家 日本はどこへ向かうのか滅びゆく国家 日本はどこへ向かうのか
著者:立花 隆
販売元:日経BP社
発売日:2006-04-13
おすすめ度:3.5
クチコミを見る



立花さんが「天皇と東大」を書いた理由

立花さんが「天皇と東大」を書いた理由は、日本の近現代史を通じて”天皇という存在”と、”国民の側の天皇観”が社会を動かした「影の主人公」で、その天皇観をめぐる大きなドラマの中心舞台が東大だったからだと。

そのドラマの中で最も大きかったものは昭和10年(1935年)の「天皇機関説」問題だった。

「天皇機関説問題」とそれに続く「国体明徴運動」は、一種の無血クーデターで、当時の日本社会のありかたを根本的に変えてしまった。それをきっかけに、昭和十一年2.26事件が起こり、翌昭和十二年廬溝橋事件が起こり、日本は暴走過程に入っていった。

なぜ日本があれほどバカな戦争に突入してしまったのかの理由、国民感情のうねりのようなものの転回点とその背景、大転回のプロセスを知りたくて「天皇と東大」を書いたのだと。

「天皇と東大」を書いていくうちに、立花さんはその転回点が「天皇機関説問題」だったことがわかったのだと。

憲法学者美濃部達吉博士の「天皇機関説」は大正時代は主流の学説だった。ところが、貴族院を中心に急に「天皇機関説問題」が持ち上げり、反国体思想の元凶とされて、著書は発禁になり、美濃部博士は貴族院議員を辞任し、ついには右翼テロリストの銃弾を浴びることになった。

世の中が変わるときは、一挙に変わる。

立花さんは、もしかしたら似たような国民感情の大転回が現在の日本でも起きつつあるのではないかと危惧しており、それがこの「八月十五日と南原繁を語る会」を開催した心理的背景だと語る。


「八月十五日と南原繁を語る会」

前出の安藤義信さんのホームページで紹介されている当日のプログラムは次の通りだ。

南原繁プログラム





出典:安藤義信さんのホームページ

最初の二人、石坂公成さん(ライホイヤアレルギー免疫研究所名誉所長)、細谷憲政さん(東大名誉教授、人間栄養学)は、医学部出身。医学部は軍医養成ということで、学徒出陣の対象外だったので、南原繁さんが総長に就任してから毎月のように学生に対して「国を廃墟から復興させるものは学問と教育しかないのだ」と呼びかけていた言葉を現場で聞いている証言者だ。

細谷さんは、米国に2回滞在しているが、そのとき聞いた興味深い話を紹介している。

2度目に滞在したヴァージニア大学法科大学院は占領政策研究のメッカということで、教授数名から日本の占領政策は成功であったと評価されていると聞いたという。

なにせ脱脂粉乳やパン食など日本人の食生活を変えてしまったにもかかわらず、日本の一般国民からは感謝されたからだと。

また米国の占領政策は日本の歴史から学んだものだと言っていたという。

天皇家は渡来人であり、少数派の彼らが多数派の在来人に対してどのように対処していったのかを米国は研究したところ、統治の基本は栄養政策だとわかり、占領政策も栄養問題を柱にしたという。

天皇家に限らず、日本人はどこからかの渡来人の子孫のはずで、ことさら”渡来人”という征服者のように考える学説があるのかどうか知らないが、面白い見方である。


元法学部長石井紫郎さんは当時の東大事務局長の息子

次に元法学部長の石井紫郎さんが、南原繁総長時代に東大の事務局長だったお父さんの石井勗(つもむ)さんの著書「東大とともに50年」や、お父さんから聞いた東大の接収計画について語っている。

東大とともに五十年 (1978年)
著者:石井 勗
販売元:原書房
発売日:1978-04
クチコミを見る


最初は昭和20年7月の東部軍管区の東大接収計画で、隅田川、荒川を堰(せ)き止めて、米軍が本土上陸してきたら一挙に堰を開放して東京の下町を水浸しにして米軍をおぼれさせる計画で、そうすると上野・東大あたりが海岸線となるので、ここの「帝都防衛司令部」を設置したいという申し出だったそうだ。

次はGHQで、総司令部として東大に白羽の矢を立てているという話で、下見後、「終戦連絡事務局」を経由して申し出があった。

東大7教授の終戦工作にも参加し、アメリカに人脈を持つ高木八尺(やさか)教授などを介して押し返したところ、「日本最高の学部である東大を尊重し、接収しない」と返事があり、結局GHQは皇居前の第一生命ビルを接収した。

余談になるが、筆者は石井紫郎教授の日本近代法制史の授業を受けたことがある。当時石井さんは新進気鋭の教授で長身のすらりとしたハンサムガイだった。


「曲学阿世」論争

吉田茂と南原繁の両方を知る辻井喬(堤清二さん)が吉田茂の「曲学阿世」批判について一文寄せている。

「吉田茂 ポピュリズムに背を向けて」で紹介した通り、1950年日本が全面講和をめざすか、それとも西側だけとの講和を目指すべきかの議論が活発になったときに、吉田茂総理は、南原繁総長の全面講和論を「曲学阿世」と非難したのだ。

朝鮮戦争が起こる1ヶ月ほど前で、このときマッカーサーは「共産党は侵略の手先」と呼んで、共産党の非合法化を示唆したばかりで、日本の占領政策が逆コースに動くタイミングだった。

南原繁総長は、吉田発言を批判し、次のように語った。

「私に曲学阿世の徒という極印を押したが、これは満州事変以来、軍部とその一派が、美濃部博士をはじめ多くの学者に対して常用したもので、学問の冒涜、学者に対する権力的弾圧である。私が国際情勢をしらないと吉田首相は言うが、それは官僚的独善である。

「現実と理想を融合させるために、英知と努力を傾けるのが政治家の任務であるのに、全面講和と永世中立を空理空論ときめつけるところに日本民主政治の危機がある。」

吉田茂から再批判はなく、この論争はこれで終わった。

辻井さんは吉田茂、南原繁両方を知っているが、吉田茂は魅力のある人間だったが、敵対する相手への無愛想は極めつけだったという。一方南原総長は謹厳そのもで、相手の意見が自分と違っていても態度は変わらなかったという。

これは筆者の考えだが、結果論ではあるが、結局南原さんの主張した全面講和の道を選ばず、ソ連との講和条約を今の今に至るまで締結しなかったことが、現在の日本の国際的地位及び経済状況を決定づけていると思う。

この吉田ー南原論争の2ヶ月後に朝鮮戦争が始まっているので、吉田茂の西側との講和を優先するというのは、正しい選択だろうが、吉田茂もまさかサンフランシスコ講和条約締結から50年たってもロシア(旧ソ連)との平和条約が結ばれないという事態は想像もしていなかったと思う。

今年5月のプーチン首相の露払い来日もあり、メドべージェフ大統領の7月来日の機会を利用して、平和条約を締結してシベリアそして地球温暖化を利用した北極圏の経済開発に日本の活路を見いだ方向性を示すべきではないかと思う。


南原繁の言葉

この本に収録されている言葉は、南原さんが法学部長として終戦直前の1945年4月に入学式で語った「学徒の使命」と、終戦直後の1945年9月に同じ題で学生に呼びかけた同じタイトルの「学徒の使命」。

東京帝国大学総長に就任する直前の1945年11月、復員学生を歓迎する式での「新日本の建設」、そして翌1946年2月建国記念日の「新日本文化の創造」が第1部で取り上げられている。

次に第2部としては1946年3月の「戦没学生を弔う」、同じテーマの1963年12月の「戦没学生の遺産を嗣ぐもの」、1957年4月の著書「文化と国家」の序文、1946年9月の「祖国を興すもの」。憲法に関しては1946年11月の「新憲法発布」と1962年1月の「第9条の問題」が収録されている。

実に印象的な言葉が多い。


終戦直前の入学式での言葉

たとえば1945年4月の終戦直前の入学式での法学部長としての言葉だ。

戦時下でいつ最後となるかもしれない授業だが、大学や教授陣に何か「異常なもの」を期待してはならない。

われわれは特殊な「精神教育」をするものではなく、淡々と平常と変わりなく学問に従事する。燃えるが如く情熱を湛(たた)えつつ、それを抑制して学的作業に沈潜するところに、学徒の任務があるのだと。

「勝利は単なる『必勝の信念』によってもたらされるものでなく、必ずやそうした文化および自然にわたり、近代科学の知性に裏付けられてはじめてこれを獲得することができるであろう。」

この冷静な発言に続いて、法学部生は単に六法全書に取り組むだけではなく、「教養」を身につけろと訴える。

教養の核心は知性をもってする人間本質の展開または人間個性の開発にある。

事物を知るということは、それを通して自己を知ることであり、ソクラテスが「汝自身を知れ」と言ったのは、この意味で真理をついていると南原さんは語る。

3月10日の東京大空襲の後、ほとんど焼け野原になった東京で、毎日の空襲で明日をも知れない状況のなかで、実に冷静で教育者としての信念がこもった発言である。


終戦直後の言葉

終戦直後の1945年9月1日の言葉は、状況変化をふまえ、かつ学問の基本を押さえた発言となっているのが印象的だ。

「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」を目指すのではなく、勝敗を超えて列国と協力、進んで世界平和の建設に積極的に寄与すべきであり、それが天皇の終戦詔勅の「万世の為に太平を開かんと欲す」の聖旨であると。

原子爆弾ができた以上、戦争の再発を防止し、人類を滅亡から救うのは、世界の理性と良心に基づく公正な世論と組織に求める他に道はない。

そして旧来の我が国の大陸政策なるものを捨て、中国の近代国家の統一の達成に協力しなければならない。

両国の真の協力なくして東亜の安定と世界の平和は達成できないのだとまで言っている。

それを達成するためにも、猜疑と敵意を棄てて、人間としての信頼と尊敬を勝ち得るために、教養をつける。自己自身を絶えず内面的に向上し、純化する人間として自らを形成することが、教養の意義であると。

さらに戦いに倒れた護国の英魂も、我らとともにあり、これからの新たな戦いを祝福し、響導するであろうと。

まさに終戦直後の学徒を鼓舞し、日本の再建に向かわせる原動力を抱かせる印象的で力強い言葉である。


アカデミック・フリーダム

1945年11月の帰還学生歓迎会や、1946年2月、敗戦後最初の紀元節(建国記念日)では、学問の自由、アカデミック・フリーダムについて語っている。

これが憲法第23条の”学問の自由はこれを保障する”という条文に現れている。ちなみに憲法第23条の英語訳は"Academic freedom is guaranteed"だ。

憲法の権威、宮沢俊義さんの解説書、「コンメンタール日本国憲法」によると、「本条は、学問の自由を保障する。かつて滝川事件(1933年)や天皇機関説事件(1935年)のような学問の自由を否認する事件の再発を防ぐ趣旨である」と解説させている。

東大の総長経験者の佐々木毅さんによると、東大の総長になると「歴代総長演説集」が与えられるという。これを読んで自分の挨拶を考えろという意味なのだと。

南原さんの言葉は、これからも東大総長の挨拶の中で繰り返し引用されることだろう。


南原繁と靖国問題

ちょうど2006年8月15日は小泉元総理が総理退任前に現役総理大臣として靖国神社に参拝した日なので、「南原繁と靖国問題」というテーマの講演も含まれているが、南原繁の発言や著作には靖国神社に直接言及したものはなかったという。

南原繁の言葉の後半では、1946年3月の戦没並びに殉職者慰霊祭のときの「戦没学徒を弔う」や、9月の戦後最初の卒業式の挨拶、1946年11月3日の新憲法発布の時の言葉などが収録されている。


立花さんの解説

この本のところどころに立花隆さんの解説が織り込まれている。

たとえば終戦後すぐは東大を卒業しても就職口がない時代だったので、「諸君、われわれを取り囲む環境がいかに苛酷であろうと(略)、諸君は真理に対する確信を失うことなく、どこまでも自らの精神と魂をもった人間となれ!かような人間と人間性理想こそが祖国を興すものとなり…。」と語っていることを、紹介している。

また憲法9条の問題については、政治学の世界では無抵抗主義は成り立たない。国際連合に加盟したら、いずれは国際警察的な組織の一員として参加し、寄与する義務を免れることはできないだろうと語っていることが引用されている。

この本を通して立花隆さんの南原繁さんへの熱い思いが伝わってくる。

たしかに今読み直すと、まさにそのときの時代を反映していながらも、軸がぶれない姿勢は尊敬すべきだと思う。

単に歴史的な言葉として読むのでなく、今でも通用する自警の言葉として筆者も味わった。

南原さんの3代後の大河内一男総長は東大の卒業式で「太った豚より痩せたソクラテスになれ」と訓示したが、まさに南原さんは日本のソクラテスのような人だったと思う。

内容的にはちょっと堅いところがあるが、是非一度図書館などでパラパラとめくってみて欲しい本である。


参考になれば投票ボタンをクリックして頂きたい。




Posted by yaori at 12:58│Comments(0)TrackBack(0) 立花隆 | 歴史

この記事へのトラックバックURL