2009年06月30日

俺は、中小企業のおやじ スズキの鈴木修社長の自伝

俺は、中小企業のおやじ俺は、中小企業のおやじ
著者:鈴木 修
販売元:日本経済新聞出版社
発売日:2009-02-24
おすすめ度:4.5
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2008年12月に世界経済危機を乗り越えるために8年ぶりに78歳で社長に復帰したスズキ鈴木修社長の回顧録。

鈴木さんは年齢は7掛けで見て欲しいという。昔の寿命は50歳、今は平均寿命は70歳超、だから7掛けで見るのが適当だという。

今年79歳だが、7掛けなら56歳だ。たしかに60歳前後と言ってもおかしくないハードな仕事漬けの生活で、唯一の趣味は週1回のゴルフだという。

この本の冒頭には、鈴木さんの言葉が掲げられている。

「俺は中小企業のおやじ。やる気、そしてツキと出会い、運とともに生涯現役として走り続けるんだ。」

まさに走り続ける鈴木さんのビジネス人生が描かれている。


スズキでの経歴

鈴木さんは1930年岐阜県下呂市生まれ、終戦の年海軍航空隊に入隊するが、すぐに終戦。中央大学法学部を卒業後銀行に就職するが、1958年2代目社長鈴木俊三さんの娘婿として、浜松にあった鈴木自動車に入社。

当時の売り上げは48億円で、義父の鈴木俊三社長は、なんとか売り上げを月間5億円、年間60億円に持って行きたいと言っていたという。エンジン付き自転車のスズキモペットや日本初の軽自動車セダンスズライトが新商品だった。

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スズライト 出典:Motor Magazine Medialog

実態は町工場で、あらゆる機械が天井のシャフトからベルトで動力を得ており、組み立てラインもベルトコンベアではなく、手押し車だったという。

最初に企画室に配属されるが、生産の実態をつかんでいない仕事ぶりに反発し、1週間で工程管理課という現場に移る。鈴木さんの仕事ぶりに企画室は反発し、3年後鈴木さんつぶしのため新工場建設チーム長として体よく追い出される。

鈴木さんは若い仲間を集めて愛知県の豊川市で1961年からスズキライトキャリイという2サイクル360CCの軽トラックの生産を始め、初年度は880台生産した。

スズキの工場は5万坪の本社工場が最初で、同様の小規模な豊川工場、10万坪の磐田工場、20万坪の湖西工場、15万坪の湖西第2工場、そして2008年7月には70万坪の相良工場が完成して生産能力を大幅に拡大した。

1963年には購買部長になり、零細企業ばかりのスズキの部品メーカーをオートバイで出かけて指導した。

取締役に就任。東京での営業を経て、輸出部長、1966年にUSスズキ社長としてアメリカに2年間駐在したが、2サイクルエンジンが主力のスズキのオートバイは売れず、10億円の赤字を出して帰国する。2サイクルは振動がひどく、バックミラーで後ろも見られなかったという。

辞表を出すが慰留され東京勤務となり、特徴ある自動車を生産していたホープ自動車から4輪駆動の製造権を買い、360CC2サイクルエンジンの軽自動車ジープ、ジムニーを売り出し大ヒットさせ、アメリカでの赤字を取り戻す。

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初代ジムニー 出典: Motor Magazine Medialog


社長に就任

常務、専務、代表取締役専務を経て1978年社長に就任。当時のスズキの売上高は3,232億円だった。

それが30年間で売り上げは3兆円超と10倍に増えたが、鈴木さんは、スズキは部品組み立て業であり、部品の仕入れ高を減算した付加価値は3ー5,000億円にすぎない中小企業なのだと語る。

スズキの危機は25年周期で来る。最初は1950年の労働争議、会社は倒産寸前まで追い込まれた。このころトヨタも同じように労働争議で倒産寸前になっていた。

次は1975年。石油ショック直後、スズキは新型エンジンの開発に成功したと発表していたにもかかわらず、実際には開発に失敗し、トヨタ自動車からエンジンを供給してもらい、なんとか生き延びた。

3度目が今回の金融危機を発端とする世界同時不況だ。スズキの問題は人材で、過去の危機を知っている幹部社員がほとんどないので、減産を経験したことがなく、とまどっている。しかし、この時期は外注先にコスト削減を強いるのはもってのほかで、カラーコピーをやめたり、不要不急の投資をやめるなど、内なるコスト削減をしなければならないと鈴木さんは語る。

苦境に立たされるほどファイトが湧いてくる。悔いや失敗の連続だったこれまでの経験と率直な思いをつづることで、最大の危機を乗り切る力とすべく、この本を書いたという。


アルト

先日タタ自動車のナノ(リンク先はインドの車比較サイト)が10万ルピー(27万円、約3,000ドル)車として話題になったが、鈴木さんが社長に就任して初めて1979年に売り始めた軽自動車アルトは、ライトバン仕様として商用車の安い物品税を利用して、当初全国一律47万円で売り出した。当時の為替相場で約2,500ドルだった。コストは35万円だったので、十分利益が出たという。

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タタ・ナノ 出典: Wikipedia

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初代アルト 出典:日本の自動車技術240選

5回のモデルチェンジを経て、累計477万台、2008年は8万台売ったという。インドでは800〜1,000CCの大きめのエンジンを搭載しているが、やはりアルトをベースとするマルチ800(リンク先はインドの車比較サイト)がトップシェアで、年間34万台売れているという。

タタがこれからやろうとしていることを、スズキは日本で30年前に実現しているのである。

アルトは鈴木さんにとって忘れられない車である。鈴木さんの考えたキャッチフレーズは次の通りだ。

あるときはレジャーに、あるときは通勤に、あるときは買い物に使える。あるとべんりな車。それがアルトです。」

一時は消える運命にあると見られた軽自動車がアルトの成功で、息を吹き返し、現在は新車市場の1/3、年間200万台を販売している。

またアルトの成功で、スズキはそれまでの2サイクルエンジンから4サイクルエンジンへの切り替え投資が出来たという。

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2サイクルエンジン 出典:Wikipedia

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4サイクルエンジン 出典: Wikipedia

現在は2サイクルエンジンはあまりないのかもしれないが、昔はオートバイは本田を除き、2サイクルエンジンが多かった。

筆者も中学の「技術」の授業でエンジンの構造を習ったが、2サイクルエンジンはオイル混合ガソリンを使い、簡単な構造だが、振動が激しく、排気ガスがオイルを含んでいるので白っぽく、においがするのが欠点だ。


オートバイのHY戦争

アルトを売り出して2年後の1981年にオートバイのHY戦争が起こり、ホンダとヤマハの激烈な値引き競争が起こる。発端はヤマハがホンダを抜き、世界1位になろうとシェア争いを始めたからだ。

シェアトップ1位、2位の争いなので、3位のスズキはなすすべがなく、5割減産に追い込まれた。もしアルトがなかったら、スズキはどうなっていたかわからないという。

一時はバイク1台1万円まで下がったHY戦争は、1983年ヤマハの敗北で終結する。


鈴木さんの経営手法

鈴木さんの経営手法がいくつか紹介されている。

★うなぎの寝床型工場 1キロくらいの長さの生産ラインとして、100メートルごとに資材の搬入口を付ける。フレキシブルに生産ラインを組み替えるためだという。

★重力と光はタダだ ベルトコンベアでなく、生産ラインに傾斜をつけて、重力で移動するような工場設計が特徴だ。光も極力自然採光を取り入れる。

★工場監査 鈴木さんは、1989年から年1回国内外の工場を丸一日かけて隅から隅まで歩き、ムダがないか目を光らす。「あの蛍光灯は必要なのか?」、「このスペースは空いている」というような指摘をする。工場監査は、VWの工場を見たことから始めたという。

★小少軽短美がモットー。

★工場にはカネが落ちている。野球の鶴岡一人元監督の「グラウンドにはゼニが落ちている」にならって。

★部品の共通化 VW元社長ハーン博士の教え。VWはモデルチェンジしても、ほとんど旧型車と同じ部品を使い続ける。VWはゴルフを17年で1,200万台生産しているのに対し、スズキのアルトは300万台弱の生産に留まる。このコストの差は大きい。

余談になるが、筆者が初めてのピッツバーグ駐在に赴任した1980年代後半にアメリカでも同じような話を聞いた。

そのときはGMとトヨタで、GMは乗用車部門は当時キャデラック、オールズモビル、ビュイック、ポンティアック、シボレーそしてサターンの6部門を持っていた。

GMがトヨタ車を買って、分解してみたら、カローラも上級車も、例えばワイパーモーターなどの部品は同じものを使っていたという。GMはそれぞれの部門で外見が似たような車をつくっていたが、内部は部門によってバラバラだった。

それに対してトヨタは、外見は違うが内部の使っている部品は同じだったという。見事に部品の共通化ができていたのだ。

筆者はアメリカで出張の時などにレンタカーを借りたが、GMの車は嫌いだった。別に性能とかシートの座りごこちなどはフォードもGMも変わりはないが、GMの車は、内装を車種ごとに変えているので、ワイパーやライトのスイッチが車種ごとに違っており、運転していて度惑うことが多かった。

特にポンティアックの車などは、スポーティな車が多かったせいか、内装のデザインがバラバラで、ワイパーやライトのスイッチが見つけにくく、閉口したものだ。

何もワイパーやライトのスイッチなど、車種ごとにレイアウトを変えることもないと思うが、内装デザインを変えるのが、当時のGMのやり方だった。


GMとの提携

1980年スズキは米国の某自動車メーカー向けに、新開発の1,000CCのエンジンを積んだカルタスをOEM供給する交渉をしていたが、契約は白紙となる。

そのとき既にGMと提携していたいすゞ社長の仲介で、GMとの提携が成立する。GMがスズキの5%の株式を取得し、小型車での3社提携が成立する。この時鈴木さんの言った言葉が、「蚊は鯨には飲み込まれない」だ。

カルタスを10万台/年輸出する契約を結ぶが、おりからの対米自動車輸出自主規制の延長に引っかかり、やむなくカナダオンタリオ州インガソルで合弁での現地生産を始める。この時のGMカナダのトップが後にGMのCEOとなるロジャー・スミス氏で、財務部長がその後のCEOで、今年解任されたワゴナー氏だ。生産したのはシボレースプリントという車種だ。

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シボレースプリント 出典: Wikipedia

1989年4月に第1号車を生産し、累計生産台数は200万台を超えている。

鈴木さんはクルマづくりはGMから学んだと語る。小型車の分野は主にGMのドイツ子会社オペルと共同開発したが、オペルの技術者は頑固で、基礎を積み上げるやり方を実直に守っていたという。この成果が2005年RJCカーオブザイヤーのスイフトで、年産30万台以上を生産している。

GMにはもう一つ助けられたという。1988年6月ジープ型の4輪駆動車サムライが横転しやすいとして、米国のコンシューマーズユニオンが道路交通安全局にリコールを要請した。

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1988年頃のジムニー 出典: Wikipedia

その数年前にアウディがオートマ車の急発進問題で欠陥車とされ、大打撃を受けたばかりだったので、鈴木さんはすぐに米国に向かった。消費者のクラスアクション(集団訴訟)に発展し、損害賠償額は1,400億円の規模だったが、GMの法務部長が道路交通安全局に話してくれ、クラスアクションに慣れている弁護士も紹介してもらい、9月にはサムライに安全性の問題はないとのお墨付きがでて決着した。

その後GMはスズキの持ち株比率を20%にまでアップされるが、昨年からの金融危機ですべて売却したことは記憶に新しい。

鈴木さんの、「私なら5分で決断できる」と「トップ・ダウンはコスト・ダウン」という言葉はGMのトップも使い出したという。


ハンガリー進出

1985年まだ共産党政権のハンガリーからスズキに自動車生産の話が伊藤忠商事経由持ち込まれ、スズキは1990年、ハンガリー49%、スズキ40%、伊藤忠商事11%の持ち株比率でマジャール・スズキを設立し現地生産を開始する。

スズキがハンガリーに進出を決めた当時の駐ハンガリー全権大使が、このブログで「日英同盟」「チャーチルが愛した日本」などの著書を紹介している関栄次さんだ。

現在はスズキの持ち株比率は97.5%にまで上昇している。

当初は5万台規模で生産していたが、現地調達比率が60%以上を超えていたので、EUへの輸出が本格化し、現在は30万台生産している。ハンガリー国内向けは3万台程度で、残りはすべて西欧への輸出だという。

2008年10月にはスプラッシュという車を日本に輸入販売したという。日本でも売れる車をつくれるほどの工場に成長したのだと。

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スプラッシュ 出典: Wikipedia


インド進出

鈴木さんは、「どんな市場でもよいからナンバーワンになって社員に誇りを持たせたい」と強く思っていたという。

スズキは1975年にパキスタンの自動車会社と技術提携契約を結んでいたが、1982年にインド政府がパートナー企業を募集するという情報を入手し、インド政府の訪日調査団を前に、どんな工場をつくらなければならないか鈴木さん自身が熱弁をふるった。

当時の日本メーカーは対米進出が最大の課題で、インドの話をまともに取り上げた自動車会社トップはなく、インド調査団の話を真剣に聞いてくれたトップは鈴木さんだけだったという。

1982年に話がまとまり、総工費2億ドル、資本金200億円のうち鈴木が26%出資して工場建設がスタートし、1992年に出資比率を50%に上げ、2002年に子会社化した。

日本的な経営でかまわないという条件だったので、カースト制を反映して幹部用の個室がある元のデザインを破棄し、すべて壁をぶちこわし、社員食堂も一緒にした。

グルガオン工場が出来たばかりのときは、鈴木さんも月1回はインドに行き、あれこれ指示していたという。工場のオープニングにはインディラ・ガンジー首相が、息子で国民車構想を打ち上げた故サンジャイ・ガンジー氏の悲願が実ったとスピーチした。

インドではマルチ800(2代目アルトと同じボディに800CCのエンジンを積む)を累計270万台生産しており、5代目アルトと4輪駆動のジムニーを生産している。

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マルチ800 出典: Wikipedia


スズキはニューデリー郊外にある第2工場のマネサール工場を2007年2月から稼働させ、生産能力を年間100万台に大幅アップさせている。もちろんトップシェアである。

インドではフィアットから技術導入して、燃費の良い小型のディーゼルエンジンを製造しているという。


ワゴンR

2003年から2008年まで連続して日本の車別の販売台数トップがワゴンRだ。国内累計販売は310万台である。

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ワゴンR 出典: Wikipedia

軽乗用車のワンボックスブームに乗り、それまで女性用の乗り物だった軽乗用車を、男性にも売り込める車にしたのだ。



この車のネーミングは、「スズキにはセダンもあるけど、ワゴンもあーる」ということで、ワゴンRとなったのだと。

鈴木さんは、小さな車を作ることに関しては誰にも負けないという自信があるという。


生涯現役宣言

鈴木さんは1979年に通産省に入省した浜松出身の小野さんを娘婿に迎え、いずれは後継者と考えていたが、小野さんは2007年にガンのために52歳で亡くなったのだ。2008年には津田社長が健康上の理由で退任し、鈴木さんみずからが社長としてカムバックした。

現在は月曜日と金曜日は役員昼食会、火曜から木曜は部門別の昼食会に鈴木さんも参加し、会社全体のレベルアップを図っているという。すごいエネルギーだ。


鈴木さんは中小企業のおやじ、生涯現役で走り続けるという。有給休暇は死んでから嫌というほどとれるからだと。

GEの元会長のジャック・ウェルチの自伝、"Straight from the Gut"(直訳すると、ガッツ(はらわた)からストレートに、腹蔵なしの意味)を現在オーディオブックで聞いているが、鈴木さんは日本の経営者のなかでも、最もガッツある、気骨のある経営者の一人だろう。

Jack: Straight from the GutJack: Straight from the Gut
著者:Jack Welch
販売元:Hachette Audio
発売日:2001-09-11
おすすめ度:4.5
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ビジネスの話中心で、他の話はほとんど書いてないが、面白く一気に読める。

是非一読をおすすめする。


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Posted by yaori at 01:33│Comments(0)TrackBack(0) 自叙伝・人物伝 | ビジネス

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