2009年07月14日

回想の日本外交 開戦時の外務次官西春彦さんの外交回想

回想の日本外交 (1965年) (岩波新書)回想の日本外交 (1965年) (岩波新書)
著者:西 春彦
販売元:岩波書店
発売日:1965
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第1次世界大戦中に東京帝大を卒業して外交官となり、ニューヨークでの外交官補研修後、中国に2回(長春、青島)、ソ連には3回駐在し、開戦時には東郷外相の下で外務次官を勤め、戦後はオーストラリア大使、英国大使などを歴任した西春彦さんの回想録。

7月14日付けでチュニジア大使に発令された多賀敏行さんの「エコノミック・アニマルは褒め言葉だった」で紹介されていたので読んでみた。この本は多賀さんが高校時代に出版され、むさぼり読んだそうだ。

「エコノミック・アニマル」は褒め言葉だった―誤解と誤訳の近現代史 (新潮新書)「エコノミック・アニマル」は褒め言葉だった―誤解と誤訳の近現代史 (新潮新書)
著者:多賀 敏行
販売元:新潮社
発売日:2004-09
おすすめ度:4.5
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日米交渉の時に日本の暗号電報が誤訳され、日本側は交渉の誠意がないと見なされ、強硬なハルノートが出される引き金となった話がこの本の中で紹介されている。

外交官の回顧録は多く出されているが、読むのはこの本が初めてだ。

やはり外交の当事者が語る実話は面白い。

西さんは開戦当時の東郷外務大臣の下で外務次官を務め、東京裁判では東郷さんの弁護側証人として証言したこともある。

大学受験に出ないとして昭和史は高校時代に勉強しなかったが、北康利さんの白洲次郎の本を読んでから、昭和史の本をいろいろ読みはじめた。

このブログではいままで450回以上投稿しており、1回に数冊紹介することもあるので、たぶん紹介した本は1,000冊くらいだろうと思う。

アーカーブのインデックスを見ると大体傾向がわかり、趣味・生活に役立つ情報ビジネスがそれぞれ100回を越えており、歴史政治・外交はそれぞれ15程度と少ないが、最近図書館から借りたり、読書家の会社の友人から借りる本は歴史の本が多い。

歴史の本は、読み出すと面白いし、その本の中で紹介されている本を読み出すと芋づる式に、どんどん広がっていくので、気が付くと現在図書館から借りたり、リクエストしている本は半分くらいは歴史の本になっている。

昨年の世界経済危機以来、世界経済は不況に陥っているので、興味をそそるビジネス書が少なくなっていることもあるかもしれない。

今週読むのは次の2つのの大作で、これらを読むために実は2日ほど休暇を取った。

マオ―誰も知らなかった毛沢東 上マオ―誰も知らなかった毛沢東 上
著者:ユン チアン
販売元:講談社
発売日:2005-11-18
おすすめ度:4.0
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マオ―誰も知らなかった毛沢東 下マオ―誰も知らなかった毛沢東 下
著者:ユン チアン
販売元:講談社
発売日:2005-11-18
おすすめ度:4.0
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21世紀 イギリス文化を知る事典21世紀 イギリス文化を知る事典
著者:出口保夫
販売元:東京書籍
発売日:2009-04-04
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ひょんなことから、自分の読書傾向を見直す機会ができた。

閑話休題。


西さんはモスクワ駐在3回のソ連外交のエクスパート

西さんの本を読むと外交とインテリジェンスとは表裏一体だということが痛感させられる。

「戦後日本はインテリジェンスについて全く鈍感だ」と最近有罪が確定した佐藤優さんと手嶋龍一さんが「インテリジェンス 武器なき戦争」の中で語っていたが、その話が今更ながら正しいことがわかる。

西さんはモスクワに3度駐在した対ソ連外交のエクスパートで、何度も日ソ漁業交渉を経験し、西さん達が苦労して結んだ日ソ漁業協定が1945年まで結局17年間続いた。

まさに蟹工船で働く人の生死を握る交渉だ。

蟹工船・党生活者 (新潮文庫)蟹工船・党生活者 (新潮文庫)
著者:小林 多喜二
販売元:新潮社
発売日:1954-06
おすすめ度:4.0
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ソ連大使は重要ポストで、後に外務大臣や首相になった広田弘毅、重光葵、東郷茂徳は皆ソ連大使経験者だ。

日本陸軍の仮想敵国は常にソ連だったが、この本を読むと日ソ関係は特に険悪ということもなかったことがわかる。

しかし1936年に日独防共協定が締結された後は、ソ連側は日独を仮想敵国とみなして断交に等しい厳しい態度を取り、西さんたち外交官は常にGPU(後のKGB)により尾行された。尾行は徹底的で、水泳やスキーにまで一緒についてきたという。まるでジョークの様に思えるが、本当の話だ。

戦前でもソ連とは漁業交渉や、日本が採掘していた北樺太の石油、石炭開発など、様々なビジネスがあったが、日独防共協定以降、ソ連は日本からの物資輸入に許可を出さないなど様々な妨害を加えてきて、石油も一時は20万トンくらいとれたが、2−3年後には4−5万トンに減少し、採算がとれなくなってきた。

日独防共協定コミンテルンの破壊工作に対処するもので、ソ連は防共協定自体には抗議しないが、その裏にある秘密協定に抗議するのだと言っていたという。

西さんは知らなかったそうだが、日独の一方がソ連から攻撃を受けた場合には、もう一方の国はソ連攻撃義務まではないが、少なくともソ連の負担を軽くすることはしないという秘密協定があり、その情報がソ連に漏れていたのだ。


英米との戦争に向け枢軸派で固めた人事の流れ

半藤一利さんの「昭和史」を読むと、2.26事件で陸軍の統制派と皇道派の争いに決着がついて統制派が主流となり、海軍でも穏健派の”条約派”とあくまで艦船建造に固執する”艦隊派”の抗争にけりがつき、”艦隊派が主流となったことが書いてある。

昭和史 1926-1945 (平凡社ライブラリー は 26-1)昭和史 1926-1945 (平凡社ライブラリー は 26-1)
著者:半藤 一利
販売元:平凡社
発売日:2009-06-11
おすすめ度:3.5
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外務省でも同様に英米協調派が追いやられ、枢軸国派が主流となっていった動きが、西さんの本でも書かれている。

外務省には1930年代の終わり頃に「革新派」と称するグループがあり、陸軍の親独派と連絡していて、リーダーの一人は局長で、白鳥イタリア大使もメンバーだったという。

白鳥イタリア大使は、1934年から駐独在外武官としてドイツに駐在し異例の昇進で駐独大使になった大島浩中将と連携して1940年9月に日独伊三国同盟を締結した。

そして1940年に松岡洋右が外相に就任すると「バスに乗り遅れるな」というスローガンのもと「松岡人事」で、それまで外務省の本流の外交官、特に在外大公使の大部分が辞めさせられた。

日独伊枢軸政策を支持するもので外務省の首脳部は占められ、在外公館や外務省の業務にも大きな影響が出たという。

陸軍が外務省人事に口だしするようになり、西さんもソ連公使として外に出された。駐ソ大使は東郷茂徳から代わった元陸軍中将の建川美次大使だった。このとき日ソ中立条約を締結する。1941年4月のことだ。

ちなみに半藤さんの本では、阿部信行内閣の時の1939年9月ー1940年1月に外相に就任し、その後1941年4月に駐米大使に就任した野村吉三郎海軍大将と外務省官僚との人事や貿易省設立案を巡る不仲にもふれている。

戦後白洲次郎が初代長官となって設立した貿易庁(後の通商産業省、現経済産業省)の原案が野村外相の時代に出され、外務省キャリア130人全員が辞表を出したという事件だ。


開戦直前の日米交渉

この本の白眉ともいうべき部分が開戦直前の日米交渉だ。

西さんは1941年10月東條内閣の外務大臣として復活した東郷茂徳外相のもとで外務次官に就任し、日米交渉をまとめあげるために、さっそく外務省内の「革新派」数名を辞めさせた。

東郷外相もなんとか日米交渉をまとめるべく、大本営政府連絡会議(首相、陸相、海相、外相、蔵相、企画院総裁、参謀総長、軍令部総長がメンバー)で中国駐兵期限を25年をメドとすることで米国への提案をまとめ甲案とした。

甲案がうまくいかなかった時に、日本資産凍結解除を条件に南仏印から撤兵するという乙案も用意された。

西さんは1941年11月1日の大本営政府連絡会議に参加し、会議の様子を書いている。この会議の焦点は日米交渉が1ヶ月ほどの間に妥結しない場合は臥薪嘗胆で行くか、開戦を決意するかだった。

永野修身軍令部総長が開戦を最も強く主張した。海軍はこのままいけば石油不足で身動き取れなくなり、その後は英米の要求に屈せざるを得ないという「ジリ貧論」だが、開戦決断は政府の責任だと。

陸軍には即戦論もあった中、東郷外相は交渉の期限を切るべきでなく、全局にわたる見通しがなくして開戦してはならないと強く主張したが、ジリ貧論が大勢を占めた。

西さんも発言し、開戦しなければ石油の不足はあっても無傷の軍艦を温存して平和の時期を迎えられると説いたが、効果はなかった。

東郷外相は賀屋蔵相の賛同を得て、かろうじて結論を1日延ばすこととしたが、結局翌日二人とも東条首相に従うことになり、12月上旬までに交渉が妥結しなければ開戦を決意するとの「第2次帝国国策要領」が決定された。

ルーズベルトと旧知の仲だった前外相の野村吉三郎海軍大将大使の補佐として交渉の専門家の外交官出身の来栖三郎大使も派遣され、甲案から交渉を始めた。

西さんは交渉が甲案でまとめる見込みは五分五分だと思っていたが、ハル国務長官は口頭では甲案を評価したものの対案も出さないので、日本側はやむなく乙案を出した。

しかし議論はかみ合わず結局11月26日にアメリカから出されたのは仏印からも中国からも撤兵を求めるハルノートだったので、時間切れで日本は開戦を決意する。

ハルノートの主要部分は次の通りだ。

BlogPaint











出典:公開されているハルノート原文

日本側が既に甲案で中国からの撤兵を期限付きで提案していることから考えて、筆者が今ハルノート原文を読むと、最後通牒ではなく、まだまだ交渉の余地があるような印象を受けるが、このブログを読む人はどう感じられるだろうか?

いずれにせよ日本側は時間切れで開戦を決定し、戦争に突入した。


日本側暗号解読誤訳の悲劇

西さんはなぜ甲案が受け入れられなかったのか疑問に思いながら、ずっと過ごしていたが、東京裁判の時に弁護側証人として証言した時に、日本側電報の暗号解読文の英訳文にひどい誤訳・曲訳があるのを発見し、合点がいったという。

苦心惨憺の末作った甲案、乙案の妥協案も、この傍受電報一つで蹴飛ばされたと言ってもいいほどだと西さんは悔しがる。

この話を日本側電報原文と暗合解読文の両方をつきあわせて解説したのが、多賀敏行さんの「エコノミック・アニマルは褒め言葉だった」に収録されている「暗号電報誤読の悲劇」だ。

どこがどう曲訳、誤訳、おまけに付け加えられたのか詳しく解説されていて興味深く、わかりやすい。

これでは日本側は誠意がないと受け止められるだろう。

「エコノミック・アニマル」は褒め言葉だった―誤解と誤訳の近現代史 (新潮新書)「エコノミック・アニマル」は褒め言葉だった―誤解と誤訳の近現代史 (新潮新書)
著者:多賀 敏行
販売元:新潮社
発売日:2004-09
おすすめ度:4.5
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西さんは1986年に亡くなっているが、西さん没後に出てきた新発見として、「真珠湾の真実」で明らかにされた、日本を挑発して先制攻撃させて、それを理由に対独戦に参戦しようとするマッカラム米国海軍極東課長の”裏口からの対独参戦計画”がある。

なぜ電報が意図的に曲訳されたのかも、”裏口からの参戦”のためと考えると、つじつまがあう。このことをもし知ったら西さんはどう思っただろうか?


1965年に書かれた本なので、ロシアがソ連だったり、中国が中共だったりして、古い部分はあるが、在野時代も含めて46年間も外交に携わった西さんだけに、裏話も含めた回想録は面白い。

日米安保改訂反対、「完全軍縮」、世界の核兵器廃絶を訴える姿勢は、今は逆に新鮮ささえ覚える。

絶版となっているようだが、アマゾンのマーケットプレースで購入もできるし、岩波文庫なので、多くの図書館でも置いていると思う。

さらに興味が増すので、誤訳された電報解読文が載っている多賀さんの本と一緒に読むことをおすすめする。


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Posted by yaori at 22:42│Comments(0)TrackBack(0) 多賀敏行 | 政治・外交

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