2009年07月19日

昭和史 1926−1945年 半藤一利さんの「あたまにスッと入る昭和史」

昭和史 1926-1945 (平凡社ライブラリー は 26-1)昭和史 1926-1945 (平凡社ライブラリー は 26-1)
著者:半藤 一利
販売元:平凡社
発売日:2009-06-11
おすすめ度:3.5
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みずから「歴史探偵」と語る現代最高の歴史小説家の一人半藤一利さんの歴史講釈。

半藤さんの「幕末史」のあらすじを以前紹介したが、本としてはこの「昭和史」の方が先に出版された。

編集者の「学校でほとんど習わなかった昭和史のシの字も知らない私たち世代のために、手ほどき的な授業をしていただけたら、たいそう日本の明日のためになるのですが」という説得から、4人のスタッフを相手に1回2時間弱、月1回程度、寺子屋的に行った昭和史の講義を編集したもの。

少人数の講義という意味では「幕末史」も同様だが、最近の作品の「幕末史」の方が歌あり、漫談ありでリラックスしてきた感じだ。


昭和史のFAW

さすが「昭和史の語り部」と呼ばれているだけあって、非常にわかりやすく昭和史を解説している。まさに「頭にスッと入る昭和史」だ。

なぜわかりやすいかというと、コンサルがFAWと呼ぶ(Forces at Work)出来事の根っこにあるトレンド、歴史を作った原動力が明確に示されているからだ。

この本で挙げられている昭和史のFAWの最も重要なものを、筆者なりに抜き出すと次の通りだ。

1.張作霖爆殺事件処理をめぐる昭和天皇の田中義一首相譴責 ー 「沈黙の天皇」誕生

「昭和天皇独白録」に収録されている天皇と田中義一首相とのやりとりは次の通りだ。

「それでは話が違ふではないか、辞表を出してはどうか」、「こんな云ひ方をしたのは、私の若気の至りである(中略)この事件あって以来、私は内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持ってゐても裁可を与へる事に決心した」

昭和天皇独白録 (文春文庫)昭和天皇独白録 (文春文庫)
著者:寺崎 英成
販売元:文芸春秋
発売日:1995-07
おすすめ度:4.0
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これ以降内閣の一致した意見ならば、天皇はたとえ不賛成であっても裁可を下すことになり、まさに天皇機関説通り、最高権力者としての天皇でなく、一国家機関になった。「沈黙の天皇」の誕生である。


2.統帥権という「魔法の杖」 内閣と統帥権の分離

1922年海軍大臣が認めたワシントン軍縮条約を軍令部が拒否し、「統帥権干犯」問題が発生した。

これ以降、軍の統帥権は天皇の不可侵の権利とされる。内閣と軍令部の二重構造が常態化したのだ。

司馬遼太郎さんが「魔法の杖」と呼ぶ統帥権分離を思いついたのは2.26事件で銃殺になった北一輝といわれている。


3.戦争をあおって売り上げを急増させた新聞などマスコミ

今は朝日新聞などは左派リベラルのようになっているが、戦前はマスコミ全部が戦争に大賛成していた。

昭和6年の満州事変以来、朝日新聞、東京日日新聞(毎日新聞)の各社は関東軍を支持、売り上げを伸ばす。

戦争中の大本営発表自体が戦果を誇張、というよりも戦果をねつ造していたもので、それに輪を掛けてマスコミ各社は戦争を賛美していたのだ。

これはいわゆる知識人も変わらない。ほとんどが戦争賛成だったのだ。

半藤さんは「真珠湾の日」で小説家や評論家などの発言を多く載せているが、この本でも当時の第一級の知性といわれた小林秀雄亀井勝一郎横光利一中島健蔵などの民族主義的発言を紹介している。

“真珠湾”の日 (文春文庫)“真珠湾”の日 (文春文庫)
著者:半藤 一利
販売元:文藝春秋
発売日:2003-12
おすすめ度:4.0
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そんな中で敗戦を予想して、東京都鶴川村に隠棲した白洲次郎の生き方は自分のプリンシプルを鮮明に打ち出していて、いかにも次郎らしい。

白洲次郎 占領を背負った男 上 (講談社文庫)白洲次郎 占領を背負った男 上 (講談社文庫)
著者:北 康利
販売元:講談社
発売日:2008-12-12
おすすめ度:4.0
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4.2.26事件が残した軍事テロの恐怖

松本清張は「2.26事件」で、次のように書いている。

「これ以降の日本は、軍部が絶えず”2.26”の再発をちらちらさせて、政・財・言論界を脅迫した。かくて軍需産業を中心とする重工業財閥を軍が抱きかかえ、国民をひきずり戦争体制へ大股に歩き出すのである。この変化は、太平洋戦争が現実に突如として勃発するまで、国民の眼にはわからない上層部において、静かに、確実に進行していった」

昭和史発掘 (5) [新装版] (文春文庫)昭和史発掘 (5) [新装版] (文春文庫)
著者:松本 清張
販売元:文藝春秋
発売日:2005-07-08
おすすめ度:4.5
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「昭和天皇独白録」でも天皇はこう語っている。

「私がもし開戦の決定に対して”ベトー(拒否)”したとしよう。国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証できない、それはよいとしても結局狂暴な戦争は展開され…」

山本五十六は「内乱では国は滅びない。戦争では国が滅びる。内乱を避けるために、戦争に賭けるとは、主客転倒もはなはだしい」と語ったという。

これも2.26事件の大規模なテロの恐怖がもたらしたものだろうと、半藤さんは語る。


広田弘毅内閣の3大失策

これらの4つが戦争までの昭和史の大きなFAWだが、それ以外にも小さなFAWがあった。

特に戦争につながったという意味では、広田弘毅内閣の軍部大臣現役武官制復活、日独防共協定、「北守南進」政策(南進論)という3大失策を挙げている。

・軍部大臣現役武官制が復活したので、これ以降軍部が内閣の生殺与奪の権を握ることになった。

・日独防共協定は、日独伊防共協定、そして1940年9月の日独伊三国同盟につながり、枢軸国側につくことで英米との対決を決定的なものにし、結果的にアメリカが第2次世界大戦に参戦する理由となった。

「昭和天皇独白録」で天皇はこう語っている。

「三国同盟について私は秩父宮と喧嘩して終わった」

1940年9月16日に三国同盟を上奏する近衛首相に対して天皇は物資不足や図上演習の結果などを示し反対する。しかし近衛は松岡の日独伊ソ4国同盟の可能性も説き、天皇は結局自説をまげて了承する。

・南進論は日米関係を決定的に悪化させ、日米戦争を引き起こした。

1940年9月日本は北部仏印に進駐する。本来平和的に進駐する予定が、現地のフランス軍と戦火を交えてしまい、武力進駐と世界から非難される。

「統帥乱れて信を内外に失う」とは現地指揮官が東京に打電してきた言葉だ。

南進論に反応しアメリカは一連の対日制裁を発動する。

1940年1月に日米修好通商条約廃棄、1940年9月にくず鉄輸出禁止、1941年8月には石油を全面禁輸とする。ABCD包囲網の完成だ。

広田弘毅は城山三郎さんの「落日燃ゆ」でヒロイックに描かれているので人気があるが、非軍人として唯一東京裁判で死刑になった元首相であり、日米開戦の直接の原因を作ったのも広田内閣である。

落日燃ゆ (新潮文庫)落日燃ゆ (新潮文庫)
著者:城山 三郎
販売元:新潮社
発売日:1986-11
おすすめ度:4.5
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国際情勢のFAW

筆者なりに日本をめぐる国際情勢のFAWを整理すると次の3つとなる。

1.国防、経済発展の生命線「赤い夕陽の満州」

結局日本が明治以来40年掛けて獲得した海外領土、海外権益を戦争ですべて失うことになるが、戦争に至った背景には、日本の生命線は満州であり、満州の権益は絶対に失えないという思いがあった。

終戦までに満州移民は150万人いたと言われており、このうち一般民間人で戦争で亡くなったのは18万人だ。

大日本帝国領土






2.アメリカの巧みな外交による日英同盟の廃棄、日本封じ込め


アメリカは1922年のワシントン軍縮会議の時に、英国にプレッシャーをかけて日英同盟を廃棄させる。

それ以降は日本人を目の敵にした日系移民排斥法などを成立させる他、蒋介石の中国を支援し、日本が必要なくず鉄や石油などの資源を禁輸にして日本を封じ込め、兵糧攻めをはかる。

前回紹介した「真珠湾の真実」で詳細に検証されていたルーズベルトが対独戦に参戦するために、日本に先制攻撃を仕掛けさせたという「ルーズベルトの陰謀説」も根強い。


3.ナチスドイツが先に原子爆弾を開発してしまうという恐怖

「真珠湾の真実」のあらすじでで、筆者の個人的見解を書いたが、半藤さんも1938年にドイツのオットー・ハーンが核分裂実験に成功し、翌1939年8月にはアインシュタインがナチスドイツが先に原子爆弾を開発してしまう恐れがあることをルーズベルトに直言したことを紹介している。

アインシュタインからルーズベルト宛のレター

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ルーズベルトは「マッチ箱一つで戦艦を吹き飛ばせる」原子爆弾を開発するため20億ドルを投じてマンハッタン計画をスタートさせ、原子爆弾を完成させた。


なぜ海軍は日米開戦賛同に変節したのか

元々英米協調路線で、日米開戦に絶対反対、日独伊三国同盟反対だった海軍がなぜ変節したのかというのは、多くの人が抱く疑問だ。

米内光政山本五十六井上成実の海軍良識派トリオは親米派で、開戦忌避努力を続けた。

特に山本五十六は同郷(半藤さんは長岡藩の系譜)の先人でもあり、いろいろな機会で開戦回避努力をしたことを半藤さんは紹介している。

親米路線だった海軍が日独伊三国同盟に賛同したのは、親米良識派トリオをはずした内部抗争とカネの問題だった。

ワシントン軍縮条約の16インチまでという主砲サイズ制限を破って、ひそかに46センチ主砲を持つ超大型戦艦大和・武蔵の建造を進めていた海軍の及川海軍大臣、豊田次官は、軍事予算の分配で陸軍に恩を売るために(?)日独伊三国同盟に賛同した。半藤さんは「カネのために魂を売った」とまで言っている。

それでも山本五十六は航空兵力不足を訴え、三国同盟締結に異を唱えるが、1940年9月14日及川海軍大臣、豊田次官以下の海軍首脳は三国同盟に正式賛同する。

皮肉にも翌日の9月15日に英国はバトルオブブリテンで最大の戦果を挙げる。

敵機195機撃墜、見方損失26機と発表された。その後撃墜数は少なかったことがわかるが、それでも大打撃を与えたことは間違いない。



バトルオブブリテンの時の有名なチャーチルの言葉が、"Never in the field of human conflict was so much owed by so many to so few"(人類の戦争の歴史の中で、これだけ多くの人が、これだけ少ない人によって、かくも多くの恩義を受けたことはない)。だ。

9月15日の敗北でドイツは英国侵略をあきらめ、対ソ戦の準備を始める。もはやナチスの勢いは落ちてきていたのに、世界の情勢を日本は全く掴まずに9月に日独伊三国同盟を結んだのだ。


あだ花の「日米諒解案」と松岡の日独伊ソ四国同盟構想の愚

翌昭和16年、日独伊ソ四国同盟案を提唱していた松岡外相は4月にヨーロッパ訪問後、モスクワを訪問する。

このときチャーチルは松岡宛に鉄鋼生産高など事実を示して日本を参戦させないようにレターを書く。

このときのレターの内容は関榮次さんの「チャーチルの愛した日本」のあらすじで紹介しているので、参照して欲しいが、おどしでも何でもなく、冷静に事実を考えてみようというレターだ。

しかし松岡は侮辱ととり、「日本の外交政策は偉大な民族的目的と八紘一宇の実現を意図し、周到に考慮して決められたものだから、余計な心配するな」と回答する。

松岡はドイツがひそかにソ連攻撃を準備していたことを全く知らず、スターリンの「お互いアジア人同士だ」という言葉にコロッと来て、スターリンがドイツ戦の準備で日ソ中立条約を結びたがっているという事情を全く理解しないまま。日ソ中立条約を結ぶ。

その後ウォルシュ司祭とドラウト神父の2神父が仲介してルーズベルトと近衛が太平洋のどこかでサミットミーティングを持って、事態を打開するという日米諒解案が野村大使とハル国務長官との間で詰められ、日本側は陸海軍すべて賛同したが帰国した松岡外相の反対でついえる。

ヨーロッパから帰ってきた松岡がやたらドイツの肩を持つので、松岡はヒトラーに買収されたのではないかと天皇が疑うほどだった。

「松岡は二月の末に独逸に向い四月に帰って来たが、それからは別人の様に非常な独逸びいきになった。おそらくはヒトラーに買収でもされてきたのではないかと思われる」

その後6月に独ソが開戦すると、松岡の日独伊ソ四国同盟案は雲散霧消し、松岡は一転してソ連を叩くべきだと言い出したという。

その後9月の御前会議で、昭和天皇は明治天皇の御製「四方の海みなはらからとい思ふ世に など波風の立ちさわぐらむ」を2回詠み、戦争に反対した。

ちなみに「公文書で見る日米交渉」という日本の国立公文書館アジア歴史資料センターのサイトに日本の公文書の情報が公開されており、興味深い。

国立公文書館






真珠湾攻撃で始まる太平洋戦争

山本五十六は反対論が強いなかで、ハワイ作戦を立案する。

「結局、桶狭間とひよどり越えと川中島とを併せ行うのやむを得ざる羽目に、追い込まるる次第に御座候」。戦争を早く止めるための作戦だったという。

開戦期日を昭和16年12月上旬に決めたのは、海軍戦力がアメリカの7割になるのがそのときで、それ以降は差はどんどん拡大するからだという。

ルーズベルトは暗合解読で事前に日本の開戦を予期していたが、日本とドイツに先に宣戦布告させるために日本に真珠湾攻撃をしかけさせ、大義名分を得て参戦する。

早くも17年6月に敵の空母を叩くつもりが、逆に6隻の正規空母のうち4隻を失うミッドウェー海戦の大敗で勢いは決した。

ミッドウェー海戦の敗戦は、作戦のせいではない、敵の待ち伏せを予期して、半分の飛行機は即時待機とし、あらゆる機会を捉えて敵空母部隊を攻撃しろという連合艦隊命令を南雲指揮官が無視した驕慢の結果だったと元参謀は語っていたという。

はるかニューギニアのガダルカナル島で日米両軍の主力が激突する戦争が起きたのは、米国からオーストラリアの補給ルートを日本が絶とうとしての作戦だった。

ガダルカナル敗退、山本長官戦死、アッツ島玉砕、インパール作戦敗退、サイパン喪失、神風攻撃にもかかわらず沖縄戦敗戦、そして原爆投下、ソ連参戦と続き、日本の敗戦となる。

日本の終戦交渉をすべきだと主張するラルフ・バード海軍次官は原爆投下に反対し、1945年7月に次官を辞任する。


太平洋戦争の死者数

「日本のいちばん長い日」のあらすじで紹介した最後の陸軍大臣阿南陸相は「一死を以て大罪を謝し奉る」と書いて、8月15日に切腹した。

決定版 日本のいちばん長い日 (文春文庫)決定版 日本のいちばん長い日 (文春文庫)
著者:半藤 一利
販売元:文藝春秋
発売日:2006-07
おすすめ度:5.0
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最後に半藤さんは310万人と言われる太平洋戦争の死者の数を列挙しているが(以下は概数)、到底阿南陸相一人が切腹して済む問題ではない。

・ガダルカナルで戦死8千人、餓死・病死1万1千人

・アッツ島で2,500人

・ニューギニアで病死も含め戦死15万7千人

・タラワ島で戦死4千7百人、マキン島で700人,ゲゼリン島で3,400人

・グアム島で戦死1万8千人

・サイパン島で戦死3万人、市民の死亡1万人

・インパール作戦で戦死3万人、戦病死4万2千人

・インパール作戦の一つで中国本土で戦死2万9千人

・ベリリュー島で1万人

・フィリピンで戦死47万7千人

・硫黄島で戦死2万人

・沖縄で戦死11万人、市民の死亡10万人

・日本本土空襲で30万人

・日中戦争で41万2千人(日ソ1週間戦争の死者8万人も含む)

・特攻で4千6百人

全て合計すると310万人が太平洋戦争で亡くなった。


5つの教訓

昭和史の教訓として半藤さんは次の5つを挙げている。

第1に国民的熱狂をつくってはいけない。

第2に最大の危機に於いて日本人は抽象的な観念論を非常に好み、具体的な理性的な方法論をまったく検討しようとしないこと。希望的観測が、確信になってしまう。「ソ連は攻めてこない」というような。

第3に日本型のタコツボ社会における小集団の弊害がある。陸軍大学卒が集まった参謀本部作戦課が戦争の全権を握るのが良い例だ。

第4にポツダム宣言受諾は意志の表明にすぎず、降伏文書の調印をしなければ完璧なものにならないという国際常識の欠如。これがためソ連に満州侵攻をゆるし、戦死者8万人を出し、シベリアで抑留された人が57万人、このうち帰還者は47万人で、10万人以上がシベリアで亡くなっている。

そのうちの一人が「プリンス近衛殺人事件」のあらすじで紹介した近衛文麿の長男、近衛文隆だ。

プリンス近衛殺人事件プリンス近衛殺人事件
著者:V.A. アルハンゲリスキー
販売元:新潮社
発売日:2000-12
おすすめ度:4.0
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第5に対症療法的なすぐに結果を求める短兵急な発想。大局観のない複眼的な見方の欠如した日本人のありかた。


結論としてまとめると、政治的指導者も軍事的指導者も根拠なき自信過剰と「大丈夫、アメリカは合意する」などの底知れぬ無責任が、日本を敗戦の危機に追いやったといえる。日本人に多くの教訓を与えてくれた昭和史だと締めくくっている。

500ページもの大作だが、テンポが良いのですぐ読める。文庫本が最近出たことでもあり、是非一読をおすすめする。



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Posted by yaori at 01:52│Comments(0)TrackBack(0) 半藤一利 | 歴史

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