2009年09月18日

香淳皇后 昭和天皇と生きた60余年

香淳皇后―昭和天皇と歩んだ二十世紀香淳皇后―昭和天皇と歩んだ二十世紀
著者:工藤 美代子
販売元:中央公論新社
発売日:2000-10
おすすめ度:3.0
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「昭和天皇独白録」に続き、香淳皇后の伝記を読んでみた。

Wikipediaにも香淳皇后の若き日の写真が載っているが、宮内庁の皇室ホームページに掲載されている在りし日の昭和天皇・香淳皇后という写真が一番筆者の記憶にある昭和天皇・香淳皇后のイメージに近いので、つつしんで掲載する。

在りし日の昭和天皇・香淳皇后

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出典:宮内庁皇室ホームページ

学者然とした天皇と、いかにも穏和そうな香淳皇后のスマイルが印象的だ。


香淳皇后の生い立ち

香淳皇后は昭和天皇妃の追号であり、天皇に嫁ぐ前の旧姓は久邇宮良子(ながこ)女王だ。

天皇家の十一宮家の中では五〜六番目の久邇宮家の邦彦(くによし)王と薩摩の島津公爵の七女だった俔子(ちかこ)妃夫妻の長女だ。

久邇宮家は経済的には恵まれない生活だったが、良子女王が皇太子妃の候補になる前後から天皇家の支援を受け、渋谷の広大な邸宅に住むようになったという。

大正時代までは側室が認められていたので、皇族の中には側室の子どもも多く、明治天皇、大正天皇自身が側室の子だった。

良子女王の場合、久邇宮の両親どちらも正室の子どもではなかったが、特に母親の俔子妃は、華族から宮家に嫁いだこともあり、六人の我が子を終生自分より身分の高い皇族として扱い、呼び捨てにせず、上座に座らせたという。

この本を読むと昭和天皇を陰で支えるけなげな姿勢と、古くからの宮家・摂家の格に強く影響された価値観を併せ持った香淳皇后の考え方がよくわかる。


昭和天皇のお妃選び

明治天皇も大正天皇も皇太子妃は五摂家から選ばれたが、良子女王の場合には、昭和天皇の祖母の昭憲皇太后(明治天皇妃)が当時九歳の良子女王を皇太子妃の候補に見初めたのが始まりだという。

良子女王と並んで皇太子妃候補となったのは、一條家の朝子(ときこ)姫と、梨本宮家の方子(まさこ)女王だった。

方子女王は結局朝鮮王室の皇太子李垠(りぎん)殿下と結婚したが、当時の朝鮮王室は日本の宮家が嫉妬するほど豊かで、婚約指輪は五カラットのブルーホワイトダイヤモンドを芯に涙型のダイヤが花弁を形成していた豪華なものだったという。

良子女王はお后候補の中で最終的に選ばれるが、一旦内定したにもかかわらず、長州閥を代表する元老の一人の山縣有朋が母方の家系に色弱の遺伝子があることを問題にして、久邇宮家に婚約解消を強硬に主張したのだ。

これが「宮中某重大事件」と呼ばれる騒動だ。

事態は長州と薩摩(良子女王の母方の祖父は島津公爵)の争いという一面もあったが、結局大正十年に裕仁皇太子自身が良子女王を選び決着し、山縣は失意の内に翌年亡くなる。


皇室を刷新した昭和天皇

昭和天皇は大正十年3月から6ヶ月間ヨーロッパ諸国を訪問し、帰国してすぐに病弱の大正天皇の摂政となる。

この欧州旅行特に英国王室の生活に昭和天皇は大きく影響され、生活様式もベッドに椅子、洋服にあたらめ、宮中の女官などの着物も洋装にし、女官が側室となる風習を廃止し、住み込みをやめ、通いとした。昭和天皇の普段の朝食はトーストとオートミールだったという。

婚約発表後、大正十二年の関東大震災で結婚が延期となったが、翌大正十三年一月に婚儀、披露宴は五月と変則的に実施される。ちなみに昭和天皇のトレードマークのひげは結婚の年に伸ばし始めている。

新婚の昭和天皇と香淳皇后は一緒にゴルフに出かけるなど仲むつまじく、結婚の翌年の大正十四年には第一子の照宮成子(なるこ)内親王が誕生した。

成子内親王は、香淳皇后のいとこの久邇宮盛厚王に嫁ぎ、昭和二十年三月十日東京大空襲の日に第一子を出産している。

ちなみに三月十日の空襲では皇居は被害はなかったが、五月二十五日の空襲では山の手の火災が皇居の宮殿が焼け尽くされている。

香淳皇后は昭和天皇との間に二男五女をもうける。夭逝した次女久宮を含め四人の皇女誕生の後に、日本中が待ちに待った今上天皇が昭和八年十二月二十四日に誕生し、日本中が歓喜に包まれた。


古いしきたりに縛られた生活

昭和天皇と香淳皇后は子どもと一緒に生活することを望んだが、周りからそれではしつけができないとして、親王、内親王は二−三歳で親元から離れた生活を強いられた。

それ以前は生まれてすぐに乳母に預けられていたので、昭和天皇自身も生後2ヶ月で川村純義伯爵に預けられた。昭和天皇夫妻は子どもが2〜3歳になるまで一緒に暮らしたので、以前に比べれば長く暮らした方だが、やはり子どもの心の中の傷となったようだ。

昭和天皇は、宮城の敷地は30万坪もあり、原野のまま捨ておかれている土地もあるのに、「皇太子の住む一坪はない」と、育児すら自分達の意のままにならないことを嘆いたという。

たしかに天皇家は日本で最も自由のない人達なのかもしれない。

今上天皇は、皇太子浩宮殿下が誕生したときに、「いつまで子供と生活するかはわからないが、成年になるまでは、いっしょにいるつもりです。親と子が別れて生活するのは心の安らぎがない」と語っている。


香淳皇后のエピソード

この本では戦争中日光に疎開していた皇太子との手紙のやりとりや、戦後昭和21年から25年までヴァイニング夫人を皇太子の家庭教師に採用し、香淳皇后も英語を習ったエピソードなどが紹介されている。(香淳皇后はフランス語はできたが、英語教育は受けていなかった)

体操教師の竹越美代子の指導で美容体操を始めた皇后が「生まれてこのかた、急いだことがありません」と語ったエピソードを紹介している。いかにも皇族出身の皇后の性格がわかる話だ。

皇后が初めての外遊に出たのは昭和四十六年のヨーロッパ歴訪で、その二年後の皇后の古希の時の会見で、最も印象深かった出来事として欧州歴訪を挙げている。


皇太子の恋愛結婚には猛反対

この本では皇太子の正田美智子さんとの恋愛結婚には、美智子様が平民だという理由で猛反対した皇后の姿が描かれている。

高松宮妃、秩父宮妃などにも声をかけて反対したり、婚儀が決まっても、成婚記念の馬車が自分の時は四頭建てだったのに、六頭建てだといって憤慨している。

昭和天皇は、「皇太子がよければ、一般家庭の女性でもよい」と語り、美智子様に非常に期待していたことが描かれている。

さらっと書いてはあるが、その部分を引用すると、「常に寄り添って歩んできた天皇と皇后だが、世俗的な意味での姑や嫁の関係となると、やはり日本のどの家庭にもある永遠のテーマが横たわっていた」と言っている。

美智子様の人柄には欠点はありえない。やはりこれは香淳皇后の古い階級意識からくる差別だと思う。

筆者は子どもの時に記念切手を収集していたので、皇太子殿下ご成婚の事は切手で覚えている。

ご成婚記念














昭和三十四年の皇太子殿下ご成婚の時には、美智子妃の美しさに国民は熱狂的な喝采を贈り、はやくも翌三十五年第一子の浩宮徳仁殿下が誕生すると日本中が歓喜した。

美智子妃は皇居での陰湿ないじめにあったという話が、週刊誌などにまことしやかに語られることがあるが、香淳皇后ご自身が結婚に反対していたという元々の経緯から、たぶん平民出身の皇太子妃としてつらい思いをされたのだと思う。

小林よしのりの「天皇論」にも美智子妃が突然失語症になった話が紹介されている。すごいストレスがたまっていたのだと思う。

今の雅子妃もたぶん同じなのだろう。是非早く全快して欲しいものだ。


香淳皇后は、昭和64年1月7日の昭和天皇崩御の前後から老人性の意識障害に罹り、平成12年6月16日に崩御された。


この本を読むと天皇家がいかに不自由な生活を強いられているかがよくわかる。自分の子どもの教育方針も決められないというのは、国家元首であり立憲君主だった天皇にあっては信じられない話だ。

また香淳皇后は皇族として教育を受けた明治人らしく、階級意識はどうしても抜けなかったことがわかる。狭い世界で生きてこられた人なのだろう。

このあらすじでは省いたが、昭和の歴史の流れもフォローしており、香淳皇后の生涯を通して、大正・昭和史を描いている。

皇族などに直接取材した部分はほとんどないが、様々な資料を読みやすいストーリーにまとめている。一読をおすすめする。


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Posted by yaori at 00:40│Comments(0)TrackBack(0) 自叙伝・人物伝 | 歴史

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