2010年01月09日

宇津木魂 ソフトボールの鬼監督の自伝的リーダー論

宇津木魂 女子ソフトはなぜ金メダルが獲れたのか (文春新書)宇津木魂 女子ソフトはなぜ金メダルが獲れたのか (文春新書)
著者:宇津木 妙子
販売元:文藝春秋
発売日:2008-10-16
おすすめ度:5.0
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女子ソフトボールのルネサス高崎総監督の宇津木妙子さんの本。先日宇津木さんの講演を聞く機会があり、感銘を受けたので、さらに宇津木さんのことを知るために読んでみた。宇津木さんはブログも書いておられ、ほぼ毎日更新している。

北京オリンピックの時は解説者としてゲームを見て、アメリカ戦で優勝が決まった瞬間に「やった!」と叫んだのは多くの人が覚えているだろう。



宇津木さんやソフトボール関係者の長年の念願の金メダルが、かなった瞬間だ。

アマゾンの表紙写真は味気ないが、本の帯にはトレーニングウェア姿の宇津木さんと、北京オリンピックの女子ソフト優勝投手の上野さんのツーショットの写真が載っている。

宇津木魂












宇津木さんというと、この本の帯の写真にあるようにサングラスをかけた真っ黒けのおばさんというイメージがあるかもしれないが、講演でお見かけした宇津木さんは、白いスーツの似合う精悍な人だ。

たぶん練習で声を出しすぎてつぶれたのだろう、しわがれた声は迫力があり、存在感は抜群で、講演を聞いた時もスゴイ人だと思った。この本でもさりげなく、1分間40発の速射砲ノックとか、3時間で3,000本ノックとか書いてある。

この本はアマゾンのなか見!検索に対応しているので、是非目次を見て欲しいが、「倒れる寸前まで練習させる」とか、「死んだ気でやれ!」などといった過激なタイトルが並んでいる。

もちろん選手をひっぱたいて喝を入れることも、しばしばだったという。


抜群の統率力

宇津木さんの現場掌握力をうかがわせる出来事が筆者の聞いた講演でもあった。

宇津木さんは「皆さんと違って、自分は頭が悪いから毎日繰り返し覚えないと忘れる」と、選手には毎日練習の前に、目標や指示を繰り返し説明していたと語った。

そして、「それでは御社の社長の今年の経営方針は何ですか?さーあ、誰か言ってください。こちらから当てましょうか?」と会場の参加者に呼びかけたのだ。

会場が緊張で凍り付いたことは、容易に想像ができるだろう。

実は筆者も社長の年頭の挨拶の要点を覚えていなかった。年頭に聞いた時は頭にたたき込んだつもりだったが、その後時間が経つと忘れていたのだ。

パソナなどは毎日朝礼をやっているそうだ。リッツ・カールトンでは、全員が参加するデイリー・ラインナップと呼ばれる15分間のミーティングで、クレドに基づいた勉強会を毎日全職場で行うそうだが、基本を繰り返し頭にたたき込むことの大切さを、おもいしらされた出来事だった。

毎日の練習も同じで、反復練習が試合での成果につながるのだ。

宇津木さんは中日の選手と親しいようだが、このブログでも紹介した中日の落合博満監督の「超野球学」で、落合監督は、「バッティングは1日、2日で上達するものではない。1回でも多くバットを振った選手が生き残る。」と語っている。

現役時代、練習嫌いというイメージをマスコミに意図的に流していた落合監督だが、「超野球学2」の中で、「現役を退いた今『練習はしました。質も量も他のどの選手にも負けないくらい練習しました』と胸を張って言える」と明かしている。

大リーグ最高のジーターやアレックス・ロドリゲスが誰よりも練習をしていることは、松井秀喜の「不動心」のなかでも紹介されている。

練習しないで、試合だけで結果を出せるわけがない。基本に忠実な練習を繰り返すことによって、スポーツでも仕事でも結果が出せるのである。指導者は、選手にモチベーションを持たせて毎日練習をやらせ、体で覚えさせるとともに、頭でも覚えさせる指導が必要なのだ。


選手個人にあった指導

宇津木さんが監督だった日本代表合宿では、午前の練習はノック3,000本、1時間の休憩のあと、午後は素振り1,000回と打ち込み。最後にみんなで宇津木さんの考案したサーキットトレーニングで締める。これを毎日繰り返すのだ。

しかし、その厳しい練習や個人指導も、実は個人の特性を徹底分析してノートに書き留め、各人の性格や能力、持久力、体重などを考慮してのものだと宇津木さんは語る。

ノックでも、これ以上やったらケガするかも知れないと思ったら、わざと取れない打球を打ち、「お前、やる気がないなら、立っとけー」と、立たせて、実は本人には休憩を取らせ、他の選手には緊張感を与えるという高等技術を用いていたのだ。

さらに選手には練習日誌を書かせて、毎日脈拍、体重、体温を記録し、何を考えながらどこを強化したのか、その結果どうだったのかを毎日リマインドさせて頭を使わせるというフォローもやっている。


宇津木さんの監督時代のエピソード

宇津木さんはアトランタオリンピックではソフトボール日本代表のコーチ、シドニーとアテネオリンピックでは代表監督だった。宇津木さんのソフトボール日本代表監督時代のエピソードが紹介されている。

宇津木さんが、シドニーオリンピックの監督に就任したときに、最初のミーティングで、「私は妥協しないよ。監督に服従できない者は去ってもらう」と監督宣言した。

代表チーム編成は自分のチームのルネサス高崎の選手を中心に編成した。オールスターではチームとしてのまとまりが作れないからだと。

監督になってからは同じ女性の強みで、時には2時間も選手と一緒に風呂に入ってスキンシップを保ち、選手達と公平につきあうようにしていたという。男性監督はどうしても、おとなしかったり、外見の可愛い子をえこひいきしがちだが、それは大きなひずみをチームにもたらすという。

シドニーオリンピックの時は、自分のミスでピッチャー交代のタイミングが遅れ、同点とされ、延長戦で最後には負けてしまったと悔やむ。ピッチャーをバンクーバーオリンピックのボブスレー代表を目指した高山樹里に変えようと思ったが、金縛りにあったようになり、動けなくなってしまったのだと。

延長戦で小関選手が外野フライを落球してアメリカに負けて銀メダルになったときに、落球して泣いていた小関選手に元気づけるつもりが、「いつまで泣いているんだ。お前のエラーで負けたんだろーっ」と暴言を吐いてしまい、チーム全員から「小関のエラーじゃないっ、みんなのエラーだ。監督、このチームをつくるとき、私たちに何て言いましたか!」と言われ、更衣室で人知れず泣いていたという。

次のアテネオリンピックでは金メダルを期待されていながら、銅メダルに終わった。銀メダルを取ったメンバー主体のチームで再出発するという消極的な気持ちが、すべての敗因だったという。「シドニーの銀メダルで親戚が増え、アテネの銅メダルで親戚が減った」と今では笑い話にしているが、バッシングはひどかったという。

宇津木さんもアテネオリンピックの後、日本代表監督を更迭されている。


宇津木さんの経歴

宇津木さんは埼玉県生まれ、5人兄弟の末っ子のお父さん子で、小さいときから負けず嫌いだったという。中学校からソフトボールを始め、私立の星野女子高校に進み、ソフトボールで全国大会に出場する。

高校では1年生からレギュラーの座を勝ち取る。当時のポジションはキャッチャーだった。レギュラーの座を奪われた同級生からの陰湿ないじめや上級生の理不尽な扱いに会うが、何とか見返そうと今でも続く毎日1時間のランニングを始め、いじめをバネとして自分を成長させられたと語る。

いじめにあった経験から、北京オリンピックの優勝投手上野由岐子選手の唯一の欠点は、あまり良い子すぎて意地悪をされないことだと宇津木さんは語る。

実業団のユニチカ垂井からスカウトされ、星野女子高校のエースピッチャーと一緒に入団するが、星野女子高校の先生から「おまえはピッチャーの付録だから」と言われて発憤する。

たしかにユニチカでは実力差があり、スカウトに約束されていたレギュラーの座はすぐには奪えなかったが、毎日5時に起きてランニングを続け、1年でレギュラーの座を勝ち取った。

3年目でキャプテンとなってからは、リーグ優勝という目標を掲げ、各自から優勝するには自分は何をすべきかレポートを提出させた。意識改革を実現して万年リーグ下位だったチームをリーグ優勝に持って行く。それからはユニチカ垂井の黄金時代が続いた。

この頃のソフトボールの友人が、プロゴルファーの岡本綾子さんだ。

ユニチカ垂井での生活は「女工哀史」の世界だったという。寮は19畳の10人部屋で、段ボール箱に自分の所持品を入れて、畳一畳分で生活し、朝食はみそ汁とたくあん3枚にご飯だったという。昭和40年代半ば頃の話だ。

女工哀史 (岩波文庫 青 135-1)女工哀史 (岩波文庫 青 135-1)
著者:細井 和喜蔵
販売元:岩波書店
発売日:1980-01
おすすめ度:4.0
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ユニチカ垂井のチームは軍隊のような封建的な体質で、後輩が先輩の給仕や洗濯をやっていた。宇津木さんがキャプテンになって古い体質をすべて改め、先輩でも自分のことは自分でやり、先輩・後輩へだてなく平等に食事するようにしたという。

会社では総務部に所属していたので、寮の管理者を担当した。この本では書いてないが、講演では20代の若さで、毎日寮の便所掃除をやっていて、つらかったと語っていた。

そういえば星野さんの「星野流」でも、星野さんが大学生の時、「明治大学野球学部島岡学科」(星野さんは卒業したのは明治大学ではなく、島岡野球部監督の島岡学校だと呼ぶ)の時に、キャプテンとして進んで便所掃除をしたという話が書いてあったことを思いだす。

ただ星野さん達はみんなで便所掃除したのだろうが、宇津木さんの場合は一人で便所掃除して、しかもそれが仕事だったという違いがある。

ユニチカには13年間在籍したが、紡績業が不況業種となり、チームへの様々な支援がカットされた時に31歳で現役を引退した。ユニチカ時代は全日本のメンバーに選ばれたり、合計12回全日本級のタイトルを取ったという。


日立高崎(現ルネサス高崎)時代

宇津木さんが引退してからは、埼玉県の実家に戻り、星野女子高校のコーチや、ジュニア選手権の日本代表コーチをやっていたが、群馬県の日立製作所高崎工場長(現ルネサス高崎)からしつこく勧誘され、トレーニングコーチを引き受けた。そして「選手が宇津木さんに監督になって欲しいと言っている」と誘われ、監督を引き受ける。

女性監督には日立内部でも反対論が強く、味方は工場長だけだったという。

宇津木さんはお父さん子なので、お父さんに相談すると、「監督は社長であり、用務員でなければいけない」、「3年で結果がでなかったらやめろ」と言われる。

監督に就任後は、実業団3部の日立高崎を「強くて愛されるチーム」にすることを目標に掲げ、選手には、1.挨拶、2.時間厳守、3.整理整頓という3つのルールを毎日読ませ、規律を徹底させた。

毎日6時に朝練習、7時半から午後2時半まで勤務、それから全体練習、個人練習というメニューだった。

規律が守れない人は、時にはひっぱたき、化粧禁止、男女交際禁止という今では実行不可能なルールを決めていたという。鬼監督だったが、不思議と辞めた選手は一人もなく、2年で目標の1部リーグに昇格した。

監督をやって選手に教えられることが多かったと宇津木さんは語る。たとえば、「監督の顔を見ていると打てるような気がする」とホームランを打った選手もいた。

逆に選手が三振して戻ってくると「監督が頭を抱える姿を見たら、打てない気がしました」とも言われ、それからは何があっても平然と「大丈夫。いけるよ」という顔でうなずくようにしたという。

選手は監督の顔色一つで、気持ちが変わることが分かったからだと。


宇津木麗華さんのこと

最後に宇津木さんは宇津木麗華(旧中国名は任彦麗)現ルネサス高崎監督の話を紹介している。麗華さんは、中国ナショナルチームのキャプテンで、「アジアの大砲」と呼ばれていた。

宇津木さんにジュニア時代からあこがれ、教えを請い、国際電話で頻繁に電話をかけてきて、宇津木さんの元でプレーしたい一心で、日本行きを希望した。引き留める中国側の「アジア選手権に優勝したら日本に行ってよい」という条件を満たして、晴れて1988年に日本に来た。

麗華さんは、ルネサス高崎の選手となり、日本に帰化し、アトランタオリンピックには国籍がなく、出られなかったが、シドニー、アテネのメンバーとして活躍した。

任彦麗さんは、日本に帰化するときに、「宇津木」という名前を有名にしたいということで、宇津木麗華という名前にしたので、別に宇津木さんが養女にしたわけではないという。

宇津木さんは46歳の時に一回り下の日立の同僚と結婚している。


講演でも強烈な印象を聴衆に与えた。すごく存在感のある人だ。2010年4月にルネサス高崎との契約が切れると、東京国際大学の特命教授になるそうだ。

宇津木さんの一番の懸念は、オリンピック競技からはずされ、女子プロ野球がスタートすると、ソフトボール人気が落ちてしまうことだと語っていた。

小さい体にみなぎる闘志を秘めた人だった。この本も簡単に読めて、参考になる。是非一読をお勧めする。



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Posted by yaori at 00:18│Comments(0)TrackBack(0) 自叙伝・人物伝 | スポーツ

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