2010年09月24日

指導者の器 山下泰裕さんの柔道指導論

指導者の器 自分を育てる、人を育てる指導者の器 自分を育てる、人を育てる
著者:山下 泰裕
販売元:日経BP社
発売日:2009-11-30
おすすめ度:5.0
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1984年ロスオリンピック柔道金メダリスト山下泰裕(やすひろ)さんの近著。

山下さんはある時、インタビューアーから「どうして、あなたはこんなに恵まれた人生を歩めたと思いますか?」と聞かれたという。

この質問を受けて、2−3分の間考えていて、自分自身が恵まれた人生を送れるのは、「ありがたい」という感謝の気持ちを忘れなかったからではないかと思った。

順風の時は、周りが協力してくれたのに、感謝の気持ちがなかなか出てこない。「おれにはすごい力がある」、「協力してくれるのは当然」という傲慢な気持ちになってしまうこともある。

上手くいっている時に、支えてくれた人に対して「ありがたい」という気持ちを持てるかどうか、それができる人にはもっともっと支援が集まってくるのだと。

この事を気づかせてくれたインタビューアーには感謝しているという。

たしかに山下さんは恵まれている。東海大学2年の20歳の時、1977年の日本選手権で優勝。それから引退する1985年まで203連勝(引き分け7回)で、公式戦では一度も負けずに引退した。こんな戦績の選手は他にはいないだろう。1984年ロスオリンピックで、足に大ケガをしたにもかかわらず、金メダルを取った後、1984年に国民栄誉賞を受賞している。


現役引退後本を読み始める

山下さんは現役の時はほとんど本を読まなかったが、東海大学監督となって松下幸之助稲盛和夫、などの本を読み出したという。稲盛さんとは個人的にも親しく、稲盛さんの盛和塾にもメンバーとして参加させて貰っているという。

松下幸之助にも影響を受けた。松下幸之助は「自分は小学校しか行っていなくてよかった」と常に言っていたという。自分と異なる意見の人がいれば、まず「なぜ、この人はこう考えるのか」に興味を持つという。その背後には「自分の考えは絶対ではない。相手の考え方に学ぶべきところがあるはずだ」という信念があるからだ。

山下さんは伝記が好きだという。特に西郷隆盛が一番好きで、マザー・テレサの生き方にも大変感銘を受けたという。

選手時代は強くはなったが、人間としてはさほど成長していなかったと山下さんは語る。指導者として選手や学生と向き合うことで、初めて「人間・山下泰裕」が成長しはじめたという。

山下さんは学生にハッパをかけるときは、「おれの得意技は何か、知っているか?」と聞くという。

学生が「大外…、内股…、絞め技…」と答えると、どれも違うという。そしておもむろに、「自分の得意技は開き直りだ。勝負において、開き直ったときぐらい強くなれることはないのだ」と言うという。

山下さんはロスオリンピックの決勝戦は覚えていないという。開き直って無の心境だったのだ。


毛沢東も柔道の原理を応用

山下さんが中曽根元首相と会食した時に、中曽根さんが「毛沢東は、人民解放軍の戦術に柔道の原理を応用していたらしいよ」と言った。山下さんは、「引かば、押せ。押さば、引け」ではないかとその場では言ったという。

後で調べてみて、嘉納治五郎は中国からの留学生を私費で支援しており、その中に毛沢東の義父もいて、毛沢東自身も論文で嘉納治五郎の功績に言及していることがわかった。


全日本柔道の指導者に

全日本柔道男子は1988年ソウルオリンピックで惨敗した。オリンピック後、山下さんが強化コーチに就任して、まずやったことは他の分野の成功者に学んだことだ。

何かに成功したければ、既に成功している人から学ぶことだ。営業成績で一位になりたければ、トップセールスマンの下で働かせて貰うことが一番の早道だというのと同じだ。

オリンピックで好成績を収めていた水泳やスピードスケート、スキージャンプを研究して分かったことは、1.積極的に海外に出ていたことと、2.スポーツ医学を重視していたことの2点だ。

ちょうどJOC主催のコーチ向けセミナーで松平康隆さんが、開口一番「自分の力の限界を知れ!」と呼びかけたことに影響を受けたという。バレーボールの日本男子がミュンヘンで金メダルを取れたのは、自分の限界を知り、多くの専門スタッフの英知を結集したからだ。

柔道界では、サポートスタッフも柔道出身者のみだった。松平さんの講演に影響を受けて山下さんも明治製菓の栄養アドバイザーを採用した。栄養アドバイザーのおかげでバルセロナオリンピックの時に吉田秀彦古賀稔彦(としひこ)両選手は筋力を落とさずに減量でき、金メダルを取れた。

それまで柔道の合宿では相撲部屋の様な一日2回のドカ食いが習慣だったが、これを一日3回の食事に直した。

また1992年にヘッドコーチに就任してからは、筋力トレーニング、メンタルトレーニング、戦略分析の専門家をスタッフに加え、本格的なスポーツ医科学を導入した。

トヨタのように常にカイゼンを心がけたのだと。


日本食禁止令

ヘッドコーチとして最初に打ち出したのが、オリンピックと世界選手権を除いて、海外遠征時の「日本食禁止令」だった。自分の荷物で持って行く分にはかまわないが、チームとしては日本食は外食も含めて禁止した。

代表選考の基準も海外の戦績を最重要視した。それまで4月に行われていた講道館杯を11月に、5−6月に行われていた全日本体重別選手権を4月に変え、2−3月に海外で行われる国際試合の結果を最重要視した。

全日本柔道の基本方針は、「日本で一番強い選手」でなく、「世界で勝てる可能性の一番高い選手」となった。

人の意識を抜本的に変えるためには、人を評価する枠組みにメスを入れることだと山下さんは語る。

柔道界が主要大会のスケジュールや評価基準を変えたとは知らなかったが、やはり実力者の山下さんが改革に取り組めば、成果は上がるものだと感心する。


後継者選び

アトランタオリンピックでは日本柔道男子は、金2、銀2と健闘した。次男に自閉症の傾向があり奥さんも疲れていたので、山下さんは辞任を考えたが、後継者が育っていなかったため、奥さんの協力も得て、山下さんは東海大学の監督を辞め、全日本の監督を続けた。

後継者を育てる意味もあり、階級ごとにコーチを置いて、基本的にコーチに任せる体制にした。


シドニーオリンピック柔道代表

シドニーオリンピックでのメダリスト、81キロ級の瀧本誠、100キロ級の井上康生、60キロ級の野村忠宏、そして100キロ超級の篠原信一については、それぞれの知られざる内面の強さを書いている。

井上康生は色紙にいつも「初心」と書くのだという。井上選手の地震被災者やパラリンピック選手など、弱者への思いやりが紹介されている。大胸筋断裂という大けがに見舞われ、アテネでは惨敗したが、北京オリンピックの代表選考にも最後まで残った。

現日本男子柔道代表監督の篠原信一選手は、シドニーでは、内また透かしを決めて、一本勝ちしたと思ってガッツポーズを見せたとき、審判は逆に相手のドゥイエ選手に有効を宣言した。この疑惑の判定で銀メダルに終わったが、篠原選手は「自分が弱かったから負けた」と一切審判に対する批判を口にしなかった。

相手の「有効」になったときに、試合時間は3分半残っていた。「本当の実力があれば、逆転できたはずだ。」そう篠原選手は考えたに違いないだろうと。

山下さんも「試合の最中でもかまわず、すぐに抗議していれば、何かが違ったのではないか」と悩んでいたが、篠原選手の潔い態度に触れ、いつしか「篠原のメダルは銀じゃない。プラチナなんだ。だからもう、悩むのはよそう」考えるようになったという。


北京オリンピック

北京オリンピックでは強化委員長として臨んだが、結果はメダル2個の惨敗。しかも7階級中4階級が1回戦敗退。ベテランが多かったこともあり、選手の自主性に任せたことが失敗だった。

その中でも100キロ超級で金メダルを取った石井慧(さとし)選手は、「相手に実力を出させない」という戦い方で、21歳の若者とは思えない老かいな戦い方だった。石井は練習の虫と言われているが、単に練習量だけではなく、ビデオでの研究、頭脳を駆使した創意工夫でも優れている。

この本ではプーチン首相との交流も紹介されているが、これは次に紹介するプーチン前大統領(現首相)が書いた「プーチンと柔道の心」でまとめて紹介する。

プーチンと柔道の心プーチンと柔道の心
著者:V・プーチン
販売元:朝日新聞出版
発売日:2009-05-07
おすすめ度:4.0
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柔道ルネッサンス

柔道ルネッサンス」という活動があるが、そのきっかけになったのは、柔道関係者のマナーの悪さだったという。

大会で負けると、ふてくされて帰ってしまう。会場もゴミだらけのまま帰ってしまう。警察からも柔道の試合は振る舞いもだらしなく、ヤジが多いので、「もう柔道はやめて剣道だけにしてもいいのではないか」という意見が上層部で出されているという。

そんなことがきっかけとなり、山下さんは全日本柔道男子のコーチと男女選手だけで試合後の会場のゴミ拾いを始め、他の役員たちも続いた。

2001年には講道館長の嘉納行光さんが、「21世紀に向けて柔道が目ざすべきものは、やはり柔道を通した人づくりである」というメッセージを繰り返し発信され、その後講道館と全日本柔道連盟合同の「柔道ルネッサンス」運動が始まった。


国際柔道連盟(IJF)理事

最後に2007年まで務めた国際柔道連盟(IJF)の教育コーチング理事のことを書いている。

試合中でも審判に文句を付けるコーチ、試合に勝って大げさに喜び、柔道着を脱いでしまった選手、女子選手を殴ったコーチ、イスラエル選手との試合を体重オーバーで失格したイラン選手などの話が紹介されている。

2007年のIJFの理事選挙で、会長派の山下さんは、反会長派の多数派工作に敗れた。理事選挙後に、勝ったアルジェリア人候補に歩み寄り、祝福したという。アルジェリア人候補も一緒によく食事をした仲間だという。

海外の仲間との絆は山下さんの貴重な残産だということで締めくくっている。

IJF理事時代は海外の理解者を一人でも多くつくるために、「海外では日本人と食事しない」と決めていたという。山下さんらしいエピソードだ。

以前紹介したトヨタの奥田相談役との共著の「武士道とともに生きる」も面白かったが、この本も山下さんの人柄がよくわかる。

武士道とともに生きる武士道とともに生きる
著者:奥田 碩
販売元:角川書店
発売日:2005-04-25
おすすめ度:3.0
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他の本でも紹介されている東海大学時代の問題児の教え子の話や、プーチン大統領の話も紹介されている。山下さんの本で、これ一冊ということだと、筆者はこの本を選ぶ。

是非一読をおすすめする。


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Posted by yaori at 17:00│Comments(0)TrackBack(0) 自叙伝・人物伝 | スポーツ

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