2011年01月16日

虜人日記 フィリピン戦線で生き残った技術者軍属の貴重な日記と敗因考察

虜人日記 (ちくま学芸文庫)虜人日記 (ちくま学芸文庫)
著者:小松 真一
筑摩書房(2004-11-11)
販売元:Amazon.co.jp
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太平洋戦争中フィリピンのブタノール工場建設のために徴用されたアルコール製造技術者軍属の日記。

今度紹介する山本七平の「日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条」に詳しく引用されていたので読んでみた。

日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条 (角川oneテーマ21)日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条 (角川oneテーマ21)
著者:山本 七平
角川グループパブリッシング(2004-03-10)
販売元:Amazon.co.jp
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ブタノールはガソリンの代わりの燃料として航空機や自動車に使えるので、日本軍はフィリピンの酒精(エチルアルコール)工場を改造して、ブタノールを生産することを計画していた。

次がフィリピンの地図だ。

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出典:Wikipedia

台東製糖酒精工場長だった小松真一さんは、フィリピンで砂糖からブタノール生産のために軍属として派遣され、終戦後はネグロス島で捕虜になった。

虜人日記2




















出典:本書 表紙裏

この日記は、フィリピンの捕虜収容所に収容されていたときに、戦時中のこととや捕虜生活のことを手作りのノートに挿絵入りで記録し、骨壺に入れて内地に持ち帰ったものだ。

紙は米軍のタイプ用紙を、収容所のベッドのカンバスをほぐした糸で綴じている。絵は鉛筆のスケッチに、マーキュロやアデブリンなどの医薬品をマッチの軸木に脱脂綿をまいた筆で彩色しているという。大変貴重な記録だ。

全部で9冊のノートと挿絵が写真入りで紹介されている。

虜人日記1











出典:本書表紙裏

巻末に文を寄せている未亡人と息子さんによると、この日記は戦後ずっと銀行の金庫に眠ったままだったが、小松さんが亡くなられた後、遺族が知人に配るために私家版として出版したものだという。

それを月刊「現代」の編集長が読んで、これは同じフィリピン戦線で戦い、戦後捕虜となった山本七平氏に強いインパクトを与えるに違いないとひらめき、山本氏に見せたという。

山本氏は「虜人日記」を題材に雑誌「野生時代」に「虜人日記との対話」というシリーズで連載し、それが山本氏の死後13年経って、上記の「日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条」として出版されたのだ。

「戦争と軍隊に密接してその渦中にありながら、冷静な批判的な目で、しかも少しもジャーナリスティックにならず、すべてを淡々と簡潔、的確に記している。これが、本書のもつ最高の価値であり、おそらく唯一無二の記録であると思われる所以(ゆえん)である。」と山本氏は評している。


「バアーシー海峡」問題は現在でも最大の問題

「捕虜人日記」を詳しく解説した山本七平の「日本はなぜ敗れるのか―敗因21ヵ条」のあらすじもいずれ紹介するので、「敗因21カ条」については詳しくは紹介しないが、上記の山本七平の紹介文にあるように、非常に冷静に、客観的に書いてることは、さすが科学者と思わせるものがある。

特に中国の台頭で、現在でも安全保障上の大きなリスクとなってきているシー・レーンの確保を日本ができなかったことを、最大の敗因として挙げている。

その部分は「15.バアーシー海峡の損害と、戦意喪失」という言葉で表されている。バシー海峡とは台湾とフィリピンの間の海峡のことだ。そして山本七平氏も、「私も日本の敗滅をバシー海峡におく」と賛同している。

もちろん21項目挙げられている敗因の一つ一つが合わさって日本の敗戦となったわけだが、旧日本軍の致命傷は海上輸送の安全が確保できなかったことだと思う。

インドネシアで終戦を迎えた筆者の亡くなった父は、昭和18年に召集されたが、台湾沖で、同僚の輸送船が撃沈され、多くの兵隊が亡くなったと言っていた。駆潜艇がじゃんじゃか爆雷を落としたが、結局敵潜水艦は逃げてしまったと。

インドネシアに着いても、その後の新兵を乗せた輸送船がことごとく撃沈され、終戦まで初年兵のままだったと語っていた。

運が悪ければ、父も海の藻屑になり、筆者も生まれていなかったわけだ。だから小松さんの書いていることは、筆者には他人事とは思えない切迫感がある。

敗戦直前には日本国内の海運も投下機雷で壊滅状態になるのだが、海上輸送の安全確保ができなかったことは、米潜水艦対策の不徹底によるものだ。

それの反省なのか、自衛隊は対潜水艦戦闘能力が飛び抜けて高い。

しかし、日本が誇る100機ほどの対潜哨戒機P3Cも、定価3万8千ドル(300万円)といわれるスティンガーミサイルと同等品を大量に配備して、漁船を改造した工作船やジャンクボートなどから発射すれば、ほとんど撃ち落とされてしまうだろう。

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出典: 以下別注ないかぎりWikipedia

P3Cは軍艦相手なら対艦ミサイルがあるが、漁船のような工作船では防ぎようがないだろう。

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そんな事態になったら、太平洋戦争の時とおなじ「バアーシー海峡の損害と、戦意喪失」が起こることは目に見えている。

「米軍基地のない沖縄(日本)」、「新しい世界観」や「米国離れ」を説く評論家は多い。しかし、この先人の遺言たる「バアーシー海峡」問題を、日本の軍事力でどう解決しようとするのだろう?

あきらかに東シナ海の覇権を狙う中国は、今や大気圏外から急降下して米軍空母を直撃する新型ミサイルを開発し、これに対する防御策はないという。

それはそうだろう。弾道ミサイルなら弾道を計算して、同じ弾道で逆からミサイルを打てば迎撃できる。しかし上から超高速で落ちてくるミサイルは弾道という考え方は当てはまらない。弾道に合わせるということをしないと、線でなく点で迎撃することになり、これは事実上超高速落下物体では不可能となる。

この本は決して太平洋戦争の時のフィリピン戦線での体験記だけではない。この本が指摘する「敗因21カ条」のうち、いくつかはそのまま現在の日本に当てはまる警鐘である。

閑話休題。小松さんの日記に戻る。

小松さんは、フィリピンに昭和19年2月に飛行機で着任、早速各地の酒精工場を精力的に視察する。

マニラはジャズが流れ、夜はネオンサインが明るく、男女ともにケバケバした服装で、当時は「ビルマ地獄、ジャワ極楽、マニラ享楽」と言われていたという。

砂糖からブタノールを製造するには、莫大な石炭と副原料としてのタンパク質が必要だ。タンパク源としてはコプラが利用できるが、フィリピンには石炭がなく、資材難の中をようやく完成させた工場も、石炭がないので運転の見通しが立たないという状況だった。

結局昭和19年7月にフィリピンのブタノール生産計画は中止となり、小松さんは、やることがなくなったが、民間から採用した人は最低1年間は南方にいなければならないとして、軍に足止めを食う。

仕方がないので、小松さんはフィリピンの酒精工場の生産アップに尽力することとなり、レイテ島やセブ島各地の酒精工場を訪問し、戦火のなかにもかかわらず生産量をアップさせた。

最後にネグロス島の酒精工場の増産任務を受け、ネグロス島に赴任する。

この日記には内地からネグロス島に届いたばかりの最新鋭の四式戦闘機が、米軍の空襲で地上で焼かれた挿絵が載せられている。

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小松さんが「コンソリ」と呼ぶB-24爆撃機が大編隊で毎日のようにネグロス島を爆撃しており、工場の生産を上げるのもままならない状態だったが、生産をなんとか拡大し、一部ではウィスキーをつくって、部隊の兵士に喜ばれる。

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そのうち米軍がミンドロ島、ルソン島に上陸し、昭和20年3月にネグロス島にも上陸したので、せっかく生産している酒精工場に爆薬をしかけて爆破し、軍隊と一緒に山に待避する。それから半年ネグロス島の山での待避行が続く。

米軍は事前に砲撃して戦車で攻め込むという戦法で、いくつかの陣地がすぐに陥落した。戦車用の地雷も地雷探知機で掘り出してしまうから効果なかったという。

ネグロスの日本軍2万4千のうち、戦闘部隊は2千人のみで、他は輸送や飛行場設営などの非戦闘部隊ばかりだったという。しかし戦闘部隊がどんどん戦死するので、非戦闘部隊からも補充されていった。

武器は貧弱で高射砲が3門あるだけで、あとは重・軽機関銃と迫撃砲、飛行機からはずした機関砲などで、2,000人につき旧式の三八歩兵銃が70丁という情けないものだったという。

一発撃てば、五〇発のお返しがあり、とても手が出せない状態だったという。

小松さんは食用野草の調査を始め、部隊に食用野草の講習会を開催して喜ばれ、後には現地物資利用講習としてカエル、トカゲ、バッタ、燕、ヤマイモ、バナナの芯などの食用にできるものの講義をおこなう。

自活のために芋の栽培も行ったので、そこを希望盆地と名付けた。米軍は日本軍に追われた時に、さらに奥地に自活体制を整え、様々な農産物の畑とりっぱな無線通信設備が残されていたという。

そのうち日本軍の部隊同志で追いはぎ行為が発生し、日本軍同士も警戒しなければならなくなった。ミンダナオ島、ルソン島では人肉食も起こったという。

日本軍兵士は、空襲や砲撃、そして餓死でどんどん倒れていき、死体があちこちに放置され、使える物は何でも取られ、裸に近い死体ばかりだったと。ネグロス島ではマラリア感染は少なかったのが幸いだったが、アメーバー赤痢で衰弱して死ぬ者も多かったという。

8月18日に兵団から「終戦になったらしい」という事が正式に伝えられたが、皆おどろかなかったという。米軍に軍使を送って交渉し、山を下りて9月1日に捕虜収容所に収容された。2万4千人のうち、八千人が戦死、八千人が餓えと病気で死亡し、八千人が生き残った。

米軍の軍用携帯食料Kレイションを食べ、久々に文化の味をあじわったという。米軍がみやげにするといって刀や拳銃をほしがるので、くれてやったと。

捕虜収容所では当初カリフォルニア米とコンビーフの缶詰を配給されたが、人員が増えるので、量が減らされ、栄養失調で死者もでた。持ち物を住民の食料と交換したりして生き延びたという。

収容所長が交代し、日本人を憎んでいた軍人が収容所長になったことも影響していたという。

そのうちネグロスからレイテ島の収容所に移送され、食事や居住待遇も良くなり、長らくつきまとわれたシラミも駆除できた。

11月からは兵隊達が帰国しはじめたが、将校の順番は不明だった。捕虜は米軍の兵舎掃除や建築作業をやらされたが、食事は良かった。

黒人は親切だったという。また米軍は将校と兵隊の区別はなく、将校でも自分の荷物は自分で持っていくが、日本の将校は当番兵に担がせる。

朝鮮人、台湾人は早く帰国したが、彼らの不満は彼らに対する差別待遇であり、感謝されたことは、日本の教育者だったという。

盗みは日本人の間では不道徳だが、米軍から盗んでくるのは美徳とされたという。米軍も捕虜は盗みをするものと寛大に見ていたという。小松さんには方々から酒の密造の相談が寄せられたという。

そのうち演芸会や講演会が開かれ、新聞も10日に一回の割合で出されたという。弾やケースを使って飛行機などの工芸品を作る人もいた。小松さんは掲示板で、何でも相談室のようなことを担当していた。

暴力団がのさばりだして手が付けられなかったが、そのうち全員集合させられ別の場所に送られた。

次に小松さんたちはルソン島の収容所に送られる。カランバン収容所で、ここで山下大将は戦犯として処刑された。最後の言葉は「自分は神に対し、恥ずるところなし」というものだったという。ちなみに収容所はキャンプではなく、ストッケードと呼んでいる。営巣(違反を犯した兵隊を閉じこめておくための場所)のことだ。

本間中将は最後まで米軍を呪って、「今にお前達もこういう目に会う」といい残して銃殺されたという。

小松さんは昭和21年12月に日本に帰国した。帰国が決まってから、もう明治精糖の社員ではないので、事業を始めるアイデアをこの日記に書いている。

なかなか面白いアイデアで、今日でも、これらが実現できたら大変な事業になると思う。

1.家畜飼料製造会社 空中窒素を硫安として固定し、これを酵母に消化させ、タンパク質(人造肉)として飼料化する。

2.海に無尽蔵といわれるプランクトンを集めて家畜の飼料とする。プランクトン採集法は現在研究中だと。

3.マングローブの研究。マングローブは海水から真水を吸収して生きている。この組織の研究をしたら、海水から燃料なしで真水が取れる。

4.シロアリの研究。シロアリの体内のバクテリアは木材繊維を分解して糖化している。工業でやると高圧と酸が必要だが、バクテリアはどちらも不要である。


この日記の中では師団長などの高級軍人では良く書かれている人は稀だが、ネグロス警備隊長の山口大佐は兵をかわいがり、フィリピン人のゲリラも捕まえて東洋人の生きる道を説き、どんな大物でも逃がしてやったという。

バカな「閣下」の命令には決して服さず、敬礼もしなかったと。戦犯取り調べでも自分自身が責任を負い、他に迷惑がかからないようにと言うので、裁判官も検事も人格に打たれ、何とか罪にならないように努力しているという話を紹介している。

小松さんは、国家主義を脱却して、国際主義的高度な文化・道徳を持った人間になっていかねばならない。これが大東亜戦争によって得た唯一の収穫だと思っていると記している。

最後に山本七兵の「『虜人日記』の持つ意味とは」という文が載っている。

小塩節教授のエッセー「ミュンヘンの裏町で」を読むと、ダッハウ収容所では囚人一人につき掛かる費用と、囚人から没収して国庫収益となる資産、金歯及び強制労働による生産、死体から取れる脂代と肥料代まで計算してあって、国にとってプラス(黒字)は2,000マルクと計算した書類があるという。

ドイツは正確に記録を残した。一方日本は記録をすべて棄却した。そんな中で、この「虜人日記」は、「現場にいた人間の現場で書いた記録」という意味で重要であり、他にない資料であると山本氏は評している。

戦争中、戦後の捕虜収容所での生活が挿絵入りで描かれていて、興味深い。

収容所の話というと、歴史家会田雄次さんの「アーロン収容所」が有名だが、「アーロン収容所」とはかなり異なる。やはり豊かな戦勝国米国の捕虜の取り扱いの方が、戦争で疲弊した英国の捕虜の取り扱いより、よほどましだったようだ。

ジャワから帰還した筆者の父は、戦後もオランダ軍の要請で武装解除せず、オランダ人を憎むインドネシア人からオランダ人を守ってやっていたのだと言っていた。

捕虜生活まで「ビルマ地獄、ジャワ極楽、マニラ享楽?」だったようだ。

重い作品だが、読み出すと一気に読める。表現が不謹慎かもしれないが、「面白い」作品だ。そして日本の安全保障についても考えさせられる先人の忠言である。


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Posted by yaori at 04:11│Comments(1)TrackBack(0) 自叙伝・人物伝 | 戦史

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この記事へのコメント
4
大変な激戦地と聞きました。沈没したオランダ兵を救ったり
したのに、何故悪者扱いされるのですか、敗戦国と言うだけ
の事ですか?軍属の方々は何時釈放されたのですか?
皆様方痩細って帰国され亡くなった方もおられます。
家族は空襲で亡くなり、子供達もはぐれ、悲惨な現状見るに
耐えません。
Posted by 末摘花 at 2012年10月25日 16:07