2011年04月08日

明治の外交力 陸奥宗光の「蹇蹇録」に学ぶ

明治の外交力―陸奥宗光の『蹇蹇録』に学ぶ明治の外交力―陸奥宗光の『蹇蹇録』に学ぶ
著者:岡崎 久彦
海竜社(2011-02)
販売元:Amazon.co.jp
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外交関係を中心に多くの著作を発表している元外交官・岡崎久彦さんの最新作。

岡崎さんは、お父さんの岡崎勝男さんも元外交官で吉田内閣の外務大臣という外務省のサラブレッドのような人で、陸奥宗光の親戚ということで系図も紹介されている。

この本では近代日本外交の創始者ともいえる陸奥宗光の回想記・「蹇蹇録」(けんけんろく)の原文と口語訳を対比し、岡崎さんの解説を加えていて、大変わかりやすい。

陸奥宗光











出典:近代日本人の肖像(国立国会図書館)

上の写真の出典で紹介した国立国会図書館の「近代日本人の肖像」という肖像写真コレクションは、坂本竜馬とか見慣れた肖像画が収録されていて参考になるので、チェックすることをおすすめする。

外務省の建物の前には陸奥宗光の銅像が建っており、外務大臣の謁見室にも陸奥宗光の銅像があるという。

陸奥宗光は1840年生まれ、紀州藩の藩士の家に生まれ、父の友人だった坂本龍馬に見込まれて、勝海舟の海軍操練所に入り、その後海援隊に参加する。明治維新後は政府の役人となるが、藩閥人事に反発し、政府を倒すべく画策したとして5年間東北の監獄に投獄される。

その後ワシントン、シカゴ、イギリス、ウィーンで政治学を学び、ウィーン大学教授ローレンツ・フォン・シュタインに師事する。帰国後、親友の伊藤博文に重用され、明治政府の外務大臣として活躍する。

この「蹇蹇録」は陸奥宗光の日清戦争についての回想録である。

そもそも「蹇蹇録」(けんけんろく)というネーミング自体がただ者ではない。漢学は四書五経を原典として学ぶが、五経のなかの最後の易経に「蹇」という言葉がある。「蹇」は足が萎えて進めない状態で、「蹇蹇」とは力の限り尽くして、結果の善し悪しは問うべきでないという意味だ。

この「蹇蹇録」を記した当時の陸奥宗光は結核に冒され、高熱を出し、血痰を吐き、命を削りながら難局に当たった。日清戦争には勝利したが、三国干渉で遼東半島をあきらめざるを得ないという結果となった。どうやっても同じ結果になっただろうという意味も含めて、「蹇蹇録」とネーミングしたものだ。


帝国主義は「過去」のものではない

先日の尖閣列島の中国漁船拿捕事件後、中国のデモのスローガンには「沖縄奪回」もあったという。日米安保条約があるので、米国が尖閣列島付近の軍事行動は日米安保が発動されると警告したことが、中国の抑えになった。

岡崎さんは「帝国主義は『過去』ではない」と語り、軍備増強を続ける中国を「力の強い方が傍若無人にふるまうのが帝国主義時代だ」として警戒を呼びかけている。

昔の中国である清と直接戦争した当時の外務大臣だった陸奥宗光の「蹇蹇録」は現代の日本人への教訓に満ちていると紹介している。

以前紹介した中国の現役大佐による「中国最大の敵・日本を攻撃せよ」などという本が中国で30万部のベストセラーになっているということを聞くにつけ、岡崎さんの「帝国主義は過去ではない」という主張もうなずけるところである。

中国最大の敵・日本を攻撃せよ中国最大の敵・日本を攻撃せよ
著者:戴旭
徳間書店(2010-12-17)
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「蹇蹇録」を読むための基礎知識

「蹇蹇録」を読む際の基礎知識として次の3点を指摘している。

1.欧米列強が激しく競い合っていた帝国主義時代のまっただ中だったこと。

2.日清戦争に至る経緯では、朝鮮半島の壬午事変甲申事変などの事件で清国は日本に煮え湯をのませてきたこと

3.当時の日本には明治維新で近代化を達成した誇りから、朝鮮半島から清国を排除して日本と同じような近代化をもたらせようという「義侠心」があったこと

最後の3.については、今では信じられないが、蹇蹇録には朝野を挙げて朝鮮を清の属国から近代化を遂げさせて救おうという義侠心があったことが記されている。

陸奥宗光自身は、「義侠を精神として十字軍を興すの必要を視(み)ざりし」と、冷静に考えていたが、この様な日本全国の強い世論をバックとして、清との軍事的解決という非常手段に臨めたと陸奥は記している。


陸奥宗光の功績

外務大臣としての陸奥宗光の功績は、条約改正と日清戦争を日本の勝利に終わらせ、清の巨額の賠償金を使って、南下するロシアに対抗する日露戦争の備えができたことと言われている。

日本が関税自主権を回復するのは、明治44年、小村寿太郎外務大臣の時であり、条約改正は実に明治の45年間を通じてやっと完了した。

条約改正の最初は英国との日英通商航海条約締結であり、1894年(明治27年)のことだった。陸奥は条約改定のことを感慨深げに蹇蹇録に「条約改正の大業は維新以来国家の宿望に係り、これを完成せざる間は維新の鴻業(こうぎょう=偉大な功績)もなお一半を余すに均し」と書いている。


日清戦争

そして日英条約締結の8日後に、豊島沖海戦があり、日清戦争がはじまる。

日清戦争の10年前の甲申事変では、清が日本に圧勝している。しかし日清戦争では日本軍の連戦連勝で、清は兵力は日本とほぼ互角だったにもかかわらず、重なる敗戦に怖じ気づいて敗走を重ねる。

最初の陸戦の成歓の戦いで、戦闘開始前日に豊島沖海戦で、清国兵千人と武器弾薬を満載した英国戦績の輸送船「高陞号(こうしょうごう)」を日本軍が撃沈していたことが伝えられ、清側に心理的ショックを与えていたという。

日本は清の外交暗号をすべて解読していて、清の増援艦隊の動静を把握して連合艦隊が撃破した。「高陞号」も東郷平八郎が指揮する「浪速」が見つけて、警告ー英人艦長以下退艦ー攻撃という手順を踏んだ上で撃沈したのだ。

岡崎さんも書いているが、敵の戦艦は逃しても輸送船団は逃さないという作戦を東郷平八郎は取った。その戦略的発想が当の日本海軍でなく、アメリカ海軍に引き継がれたことは歴史の皮肉というより、日本軍人のおごりに他ならない。

日清戦争の経過図は次の通りだ。

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出典:本文 141ページ

アメリカの調停で、清の李鴻章が来日し、下関で講和条約交渉がはじまるが、来日した李鴻章を自由党員にピストルで狙撃され、重傷を負うという事件が起こる。

講和条約交渉当初は、日本は休戦を認めていなかったが、李鴻章が狙撃されたので、日本としても誠意を示す必要があったので、休戦に応じた経緯が蹇蹇録に記されている。

《条》~1



出典: Wikipedia


三国干渉と日露戦争への道

下関条約で日本は巨額の賠償金を勝ち取り、遼東半島台湾澎湖諸島などの領土を獲得するが、条約締結直後のドイツ・フランス・ロシアの三国干渉で、遼東半島を手放すことになる。

日本では英米の力を借りて、はねつけようとするが、英米が静観する態度を取ったので、やむなく受諾して清に遼東半島を還付する代わりに追加の賠償金を得る。

日本の世論はこの屈辱にいきり立ったが、政府は臥薪嘗胆をスローガンに軍備を拡充し、次の日露戦争への備えを進めることになる。

ロシアは李鴻章にワイロを払って、1896年に李鴻章ーロバノフ秘密協定を結び、三国干渉で日本に諦めさせた遼東半島の旅順・大連の租借権を手に入れる。ロシアの旧満州での権益拡大が、1902年の日英同盟、1904年の日露戦争に繋がった。

蹇蹇録は三国干渉後で終わっており、陸奥宗光は持病の結核が悪化し、下関講和条約後の1897年に亡くなる。

「余は当時何人を以てこの局に当たらしむるもまた決して他策なかりしを信ぜんと欲す」が終わりの言葉だ。まさに蹇蹇録というネーミングの通りの他に策はなかったという回顧の言葉である。

300ページ余りの本だが、字も大きく読みやすい。

日露戦争は「坂の上の雲」でも取り上げられているので、ある程度親しみがあるが、日清戦争についてはほどんど覚えていなかった。陸奥宗光という偉大な明治の政治家と、日清戦争前後の時代背景がわかり、興味深い本である。


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Posted by yaori at 12:51│Comments(0) 自叙伝・人物伝 | 政治・外交