2011年04月22日

趙紫陽極秘回想録 天安門事件で失脚した趙紫陽主席の肉声

趙紫陽 極秘回想録   天安門事件「大弾圧」の舞台裏!趙紫陽 極秘回想録 天安門事件「大弾圧」の舞台裏!
著者:趙紫陽
光文社(2010-01-19)
販売元:Amazon.co.jp
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1989年の天安門事件で武力鎮圧に反対して失脚した趙紫陽(ちょうしよう)中国共産党総書記の回想録。2010年1月発刊だ。

アメリカで発売された"Prisoner of the State"という本が原本で、中国では発禁処分になっているという。

Prisoner of the State: The Secret Journal of Premier Zhao ZiyangPrisoner of the State: The Secret Journal of Premier Zhao Ziyang
著者:Zhao Ziyang
Simon & Schuster(2010-05-18)
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1989年6月4日(中国では6.4事件と呼ぶ)天安門事件の武力鎮圧後、趙紫陽は当時の最高権力者・小平の怒りを買って失脚し、事件の2ヵ月後から自宅に幽閉された。

幽閉生活は16年にも及び、最初は外出も禁止されていたので、好きなゴルフもできず、自宅で孫と遊んだり、ネットに向かってゴルフ練習をする毎日だったという。

この回想録は趙紫陽が監視の目を逃れて、60分テープに約30本録音したものを時系列的に整理したもので、翻訳で420ページものボリュームがある。


前任の胡耀邦も失脚

趙紫陽の前の総書記の胡耀邦(こようほう)も1987年1月に開明的すぎるとして小平の怒りを買い、辞任に追い込まれている。

胡耀邦の場合には、日本を訪問した時に、日本の若者3,000人を中国に招くと約束したり、中曽根首相と個人的にも親しくなって手紙のやりとりや、自宅に招いて宴会を開いた。それで「中国は個人外交をしてはならない。中曽根にきちんと対応できないものもいるようだ」として小平の批判を受けた。

加えて、香港のジャーナリストに小平の引退を望むような発言をしたことが、小平の怒りを買ったのだ。


趙紫陽の履歴

趙紫陽は河南省生まれ。13歳で中国共産主義青年団に入団した後に、1938年に共産党に入党、毛沢東周恩来と一緒に抗日戦争を戦った。

戦後は主に広東省で行政官としてキャリアを積み、特に農業生産拡大に成果を上げ、1965年に46歳という若さで広東省の党委員会第一書記に就任した。ところが、1966年からの文化大革命で失脚し、湖南省の機械工場で組立工として働かされた。一家4人で小さなアパートに住み、スーツケースを食卓代わりにしていたという。

1971年に毛沢東の指示で北京に呼び出され、内モンゴル自治区の党書記として復活し、広東省、四川省と党第一書記を務めた。

当時の中国は農業はソ連のコルホーズ(集団農場)にならって、人民公社が農業生産に当たっていた。いくらまじめに働いても個人の所得が増えないシステムなので、中国の農業生産は人口の伸びに見あっては増えず、凶作があった年は数千万人?の餓死者が出たといわれている。

この悪平等の人民公社システムを、一生懸命働いて生産量が増えれば、それだけ収入が増える戸別請負制に変え、あわせて国家の取り分も抑えて農民の生産意欲を格段に向上させた。

この農業改革が功を奏す一方、一人っ子政策で人口の伸びが頭打ちになったこともあり、中国の農業生産は人口を十分賄えるほどに拡大した。

このようにして趙紫陽は四川省などの勤務地で農業改革に成果を挙げ、それが中央の権力者の目にとまって、1979年には中央政治局委員、1980年には政治局常務委員会委員、国務院総理とトントン拍子で出世し、1987年に胡耀邦の失脚により党総書記に就任した。


1989年の天安門事件

ところが1989年4月15日に胡耀邦が亡くなると、自由化・民主化を求める学生や市民が天安門に集まり、デモを繰り返し、軍隊も出動して天安門事件が起きる。

ちょうどこのタイミングで北朝鮮を訪問することになっていた趙紫陽は、流血の事態を避けることを提案し常務委員会の全会一致で承認を得てから北朝鮮を訪問した。

一旦は収まった学生達の抗議行動が、再度燃え上がるのは4月26日の人民日報に、デモを非難する小平の厳しい言葉が掲載されてからだ。

小平は自分の言葉が公表されたことにショックを受けるが、最高指導者の言葉を撤回するわけにもいかず、デモ隊との衝突は避けられなくなる。

趙紫陽は2つのミスを犯したといわれている。

一つはアジア開発銀行の総会で「民主主義と法の原則に基づいた冷静かつ合理的かつ節度ある秩序正しい方法で問題の解決を図る必要がある」と演説し、学生デモは収まると発言したこと。

そして天安門事件のさなかに、ソ連共産党書記長のゴルバチョフと中ソ首脳会談をしたときに、小平が中国の最高指導者であるとゴルバチョフに語ったことだ。

小平は党中央軍事委員会主席ではあったが、国家主席でも党総書記でもなく、外から見れば国家主席の趙紫陽の方が権力者に見える。しかし、実は小平との会談が今回のゴルバチョフ訪中のクライマックスであると述べたという。

この2つのミスが、小平と長老達を激怒させ、趙紫陽と対立する李鵬首相を勢いづかせ、趙紫陽失脚に繋がった。


武力弾圧前の最後の学生達説得の試み

趙紫陽は5月19日に学生たちに広場から退去するよう天安門に直接出向いて演説したが、学生たちは聞き入れなかった。そして6月4日に軍隊により武力弾圧され、数千人の犠牲者が出たといわれる。

趙紫陽はすぐに党の全職務を解任され、それから16年間自宅に幽閉される。

その後1997年に小平が死去し、趙紫陽は2005年に死去している。

この本に1989年に天安門に出かけていって学生達にメガホンで呼びかける趙紫陽の写真が掲載されている。そしてその後ろには見たことのある顔がある。

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出典:本書5ページ

そう、恩家宝首相だ。当時はメガネをかけていないが、党中央弁公庁主任、中国共産党のいわば秘書長官のような立場だった。

恩家宝は胡耀邦、趙紫陽、江沢民の3人の総書記に仕え、出世して現在は首相の地位にある。天安門事件で趙紫陽は失脚したが、恩家宝はしぶとく生き残ったのだ。


いわば同年代史

筆者が中国との貿易に最初に携わったのは1976年で、1983年以来何度も中国を訪問している。

四人組が文化大革命で、政権を掌握して中国社会がめちゃくちゃになり、餓死者が数百万人出たと言われたのが1970年代初めだ。筆者が中国との貿易にかかわった1970年代後半は、毛沢東が死んで四人組が裁判にかけられ、小平が実権を握った時期だった。

中国とビジネスをやっていて困ったのは、1980年代初めに中央統制貿易から地方に貿易権を移譲する決定が出て、それまで交渉していた北京の冶金総公司から、契約窓口は地方の冶金分公司になるということで、急に窓口を移管されたことだ。

契約交渉には北京の冶金総公司の担当者も参加して、うまく契約できたから良かったが、中国政府の政策がガラリとかわったことには驚かされたものだ。

当時フィリピンの原料を中国浙江省に持って行って、委託加工して製品を日本に持ち帰るという取引をやっていた。

今は中国に原料を持ち込んで委託加工して製品を日本に持ち帰るという取引は普通に行われていると思うが、当時は画期的な取引だった。

この本を読むと1980年代は外資を活用して中国の経済を拡大する「合作」を奨励していたことがわかり、あの委託加工取引は中国の政策転換にぴったりタイミングがあっていたのだと思う。

筆者が1983年に委託加工工場の浙江省の横山鋼鉄廠を訪問した時には、夏にもかかわらずすっぽんを捕まえておいて、宴会をやって歓迎してくれた。たぶん浙江省の冶金分公司も中国中央政府の政策に沿って、外国との「合作」を実現したとして、評価されていたのだと思う。


中国の権力構造

1980年代は中国で誰が実権を持っていたのかわからなかったが、この本を読むと、中国共産党総書記は必ずしも実権を掌握しているわけではなく、四人組を追放した後は、小平が実権を持っていたことがわかる。

毛沢東の後継の総書記の華国鋒は1976年に党主席に就任して四人組を抑え込んだが、1978年に小平が最高権力者となると、権力闘争に敗れ、1981年に党主席を退いた。

華国鋒の後の総書記は小平によって推挙された胡耀邦で、1981年から1987年に失脚するまで党総書記を務めた。そのあとがやはり小平より推挙された趙紫陽で、1987年から1989年のわずか2年間だけの総書記だった。

趙紫陽の後を継ぐのが江沢民で、江沢民も中国のトップになったのが、主席就任後3年の1992年からだった。

小平は1978年から1992年まで一貫して党中央軍事委員会主席の座に座り続け、外国からはわかりにくい形で、中国のトップとして君臨した。

胡耀邦、趙紫陽、江沢民が総書記でありながら、中国の最高権力者ではなかったというのは、今回初めて知った。

中国の対外政策に関する権限がバラバラ(fractured)だと指摘するストックホルム国際平和研究所(SIPRI)の「中国の新しい対外政策」という本を紹介したばかりだったので、趙紫陽の回想録はまさに当事者の発言で大変興味深かった。

中国の新しい対外政策――誰がどのように決定しているのか (岩波現代文庫)中国の新しい対外政策――誰がどのように決定しているのか (岩波現代文庫)
著者:リンダ・ヤーコブソン
岩波書店(2011-03-17)
販売元:Amazon.co.jp
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小平は1997年に亡くなっており、現在の中国には小平のような絶対権力者はいないと思うが、趙紫陽そしてその前任の胡耀邦と華国鋒の3人の国家主席が相次いで権力闘争に破れ失脚したことは、現在の胡錦涛、恩家宝らの首脳陣にもトラウマのようになっていると思う。

つまり外国に対してあまり友好的な態度を示すと、中央政府ではやっていけないということだ。


その他参考になった点

その他参考になった点を箇条書きで紹介しておく。

★中国政府は巨大なデベロッパーとして、中国経済の急成長を推進している。土地の賃借権を売って、開発を進めるという考えは、1985年に趙紫陽が香港の実業家ヘンリー・フォック(霍英東)に会ったときに、市街地の開発資金がないと言うと、「土地があるのに、どうして資金がないのですか」と言われて気が付いたものだという。

★1980年代前半には「三来一補」=来料加工(委託加工)、来様加工(サンプル委託加工)、来件装配(部品組み立て)と補償貿易(技術や機械の提供を受け、製品で支払う貿易)を進めたという。上記で紹介した通り、まさに筆者が中国で委託加工貿易を進めたタイミングと一致している。

★胡耀邦が北朝鮮に甘すぎたことも小平の怒りを買った理由の一つ。北朝鮮を訪問したときに、金日成から中国のジェット機を供給して、北朝鮮のパイロットを中国でトレーニングして欲しいとの要請を胡耀邦が受け入れたが、帰国後小平に潰された。

★趙紫陽自身はまだ読んでいないが、ゴルバチョフの回想記には、1989年に中国を訪問したときに趙紫陽から複数政党制と議会制への移行を示唆されたと書いてあるという。趙紫陽の考えは、共産党独裁という統治の方法は変えなければならないことと、「人治」から「法治」にすべきだという2点だという。


なにせ中国の元主席が書いた本なので、中国を動かすいわゆるFAW(Forces at Work=そこに働く力)の実態がよくわかる。

同時代史としても価値があり、大変参考になる本である。


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Posted by yaori at 00:20│Comments(0)TrackBack(0) 自叙伝・人物伝 | 中国

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