2011年05月18日

これから、中国とどう付き合うか 宮本・前駐中国大使ソフトパワー交流のススメ

+++今回のあらすじは長いです+++

これから、中国とどう付き合うかこれから、中国とどう付き合うか
著者:宮本 雄二
日本経済新聞出版社(2011-01-06)
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昨年まで駐中国日本国全権大使を勤められ、伊藤忠出身の丹羽さんと交代した宮本雄二大使の中国関係論。宮本大使は外務省のいわゆるチャイナスクールの代表格だ。

「中国と予測可能な協力関係を築くことができる稀有の機会」が出現していると宮本大使は強調する。

尖閣列島中国漁船衝突事件などの問題が生じるにつけ、日中間では深刻な問題が存在しているように思う人が大半かもしれないが、2008年の胡錦涛国家主席の来日時に福田首相と署名した日中共同宣言に定められた「戦略的互恵関係」で、日中関係は新しい時代を迎えた。


日中間のもめごと

1972年の日中国交回復以来、宮本大使は日中間のもめごとを次のように整理している。

1.歴史問題
2.領土問題
3.台湾問題
4.海洋進出と海軍の増強問題

3.の台湾問題については、「ひとつの中国」は常識中の常識であり、台湾が祖国復帰しないかぎり、屈辱の歴史は終わらないというのが絶対法則だ。日米にとっては、中国の立場に配慮しながら、台湾との関係を可能な限り残すというのが交渉ポジションとなる。最後の4.は最近加わったものだ。

日中間の特有の問題は1.の歴史問題だけで、他の問題は他の国も中国との間に抱えている問題である。

この歴史問題の整理がついて、「日中戦略的互恵関係」樹立が可能となった。しかし、これからも日中関係は平穏無事とは限らない。日中の国民感情も脆弱なので、対立や紛争を回避する努力を今後も行う必要がある。

日本が中国にとって必要な無視できない存在であり続けるためには、科学技術や快適な社会をつくりあげるソフトパワーの強化が急務である。

特に科学技術の分野では日本は中国の一歩先を歩まなければならない。中国問題は日本自身の問題なのだ。

宮本大使の好きな言葉だという「等身大」の相互理解を進めるためにも、歴史を振り返り、相手をより正確に理解し、問題を正確にとらえ、新しい時代の日中関係を考えようというのがこの本の趣旨だ。


中国のクイックレビュー

中国は日本の国土の25倍、アメリカとほぼ同じだ。人口は日本の10倍の13億人、55の少数民族が居て、人口の90%は漢民族である。

中国共産党一党支配の国で、共産党は4つの基本原則を掲げている(中国共産党の党員数は7,500万人)。

1.社会主義
2.中国共産党の指導
3.人民民主独裁
4.マルクス・レーニン主義と毛沢東思想

毛沢東死後、華国鋒が毛沢東の「2つのすべて」(1.毛沢東の決定はすべて変えてはいけない。2.毛沢東の指示にはすべて従う)を打ち出した。これに対して小平が論戦を挑み、勝利した。

小平は「黒猫で白猫でも、ネズミをとればよい猫だ」と語り、改革開放政策を推し進めた。その後ソ連の書記長に就任したゴルバチョフがペレストロイカ(改革)を開始、ソ連・東欧に改革の嵐が吹き荒れ、中国でも1989年に天安門事件が起きた。

天安門事件で民衆を武力で弾圧してからは、政治的には保守化した。この状況に小平は危機感を強め、さらに経済の大胆な改革を推し進めるよう「南巡講話」を発表した。政治的には保守化傾向は変わらなかったが、独特の社会主義市場経済は発展し、現在の中国の発展に繋がる。

中国共産党の適応能力は高いが、腐敗と汚職はむしろ悪化している。中国共産党は憲法の適用を受けないという位置づけになっているからだと宮本大使は語る。

中国の友人には「いくら名医でも、自分の病気の手術はできない」というたとえで説明してきたという。今の体制のままでは、原因は突き止められても、除去はできないからだ。

この本で宮本大使は、外務省のチャイナスクールの主要メンバーとして、中国との外交交渉に通訳兼担当官として携わった当時のエピソードを披露していて興味深い。

1969年のダマンスキー島附近での中ソ武力衝突の後、中国はソ連の核攻撃の危険にさらされていた。それが中国が米国にアプローチしてくる原因となったが、日本との交渉でも「反覇権条項」を入れるよう求めてきたという。

この本では1972年の日中共同声明、1978年の日中平和友好条約が参考文書として添付されている。


小平と日本の経済協力

中国の現在の開放経済は小平がグランドデザインを書いたと言える。小平は2度失脚して、2度復活している。

小平は1956年に党中央書記処総書記となり、毛沢東が大躍進政策の失敗の責任を取って公務から退くと、国家主席の劉少奇と一緒に中国経済の立て直しに尽力した。文化大革命が始まった直後の1968年に総書記を解任され、翌年江西省南昌に下放される。これが第1回目の失脚だ。

江西省南昌では暖房もない住居で、トラクター工場や農場での労働に従事させられたという。

1973年に周恩来に呼び戻され、国家副主席として復活する。1974年には国連資源総会に中国代表団の団長としてアメリカを訪問し、アメリカの偉容に驚嘆する。

しかし1976年に周恩来が死去すると、周恩来追悼に集まった民衆を四人組が送った軍隊が弾圧するという第一次天安門事件が起こり、四人組によって再び失脚させられる。

1976年9月に毛沢東が死去すると後継者の華国鋒が四人組を逮捕し、1977年に小平は2度目の復活を果たし、国務院常務副総理、党副主席、中央軍事委員会副主席兼人民解放軍総参謀長に正式に復帰する。

1978年10月に日中平和友好条約の批准書交換のために中国のトップとして初めて日本を訪れ、昭和天皇や日本政府首脳と会談したほか、新日鉄君津製鉄所、東海道新幹線やトヨタ自動車などの視察を行なった。

そのとき、小平の頭のなかの中国現代化のイメージが、すでに現代化を達成していた日本と重なった。中国現代化の最も重要なモデルのひとつに、日本が選ばれた瞬間である」と宮本大使は表現している。

小平は日本からの帰国直後の1978年12月の第11期三中全会で、「改革開放政策」を打ち出し、圧倒的な支持を得て、中国の最高権力者の座を確保する。

ちなみに尖閣列島は歴史的にも国際法的にも日本の固有の領土だとという立場を取り、実行支配をしている。これに対し中国(台湾も)は1971年から自国の領土だと主張し始めた。

その後小平は棚上げによる共同開発案を出し、これが中国政府の公式見解として現在に至っている。


中国を一貫して支援してきた日本

小平の路線の延長が現在の中国の発展だ。中国は日本のGDPを超えるほどの経済的成功を収めているが、宮本大使は中国の改革開放の道のりは決して平坦なものではなく、困難な時期にある中国を一貫して懸命に支えたのは日本だけだった。

★1970年代後半の改革開放政策初期の頃、中国に資金と技術の支援をしたのは日本だけだった。このころの日中友好の証しが、上海の宝山製鉄所だ。

筆者は1983年に宝山製鉄所を訪問した。たしか当時はまだ高炉が完成していなかったと思う。

上海の川向うにある宝山製鉄所がある場所は、今は浦東地区として高層ビルが立ち並ぶ近代的な地域で、1980年代は高層の建物は全くなかったと思う。

宝山寶館というホテルがあり、技術支援していた新日鉄のエンジニアがたくさん宿泊していた。そこで中国側の人と昼食を一緒にした覚えがある。

宝山製鉄所の建設は、一旦新日鉄や三菱重工、石川島播磨重工業などから主要設備を購入する契約が結ばれたあと、中国が外貨不足でキャンセルするという話が出てきて、宙に浮きそうになった。

新日鉄の人は、そんな契約を後でキャンセルしたり、変更したりという国際ビジネスマナーを守らない中国と根気強く付き合い続けた。その結果、現在の宝山製鉄所があるのだ。このあたりは「大地の子」でも取り上げられているストーリーだ。

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★1989年の天安門事件で世界から孤立した中国に最初に手をさしのべたのも日本だった。

★1999年中国のWTO加盟に際し、主要国のなかで最初に加盟の支持を明したのも日本だった。

これらの事実は中国の人たちにも正確に理解し、記憶しておいて欲しいと宮本大使は語る。

日本は中国に対して1980年から2008年まで3兆3164億円の円借款、1530億円の無償資金協力、1670億円の技術協力を行った。


感謝にこだわる日本、お詫びにこだわる中国

宮本大使は「感謝にこだわる日本、お詫びにこだわる中国」と評しているが、日本からの巨額の援助に対して、最近になって胡錦涛主席・温家宝首相が日本に対する感謝を表明するようになってきた。宮本大使は素直に評価したいと語る。

胡錦涛主席は2008年5月に早稲田大学で演説し、次のように語った、

中国の近代化建設において日本政府は、中国に円借款協力を提供し、中国のインフラ建設、環境保護、エネルギー開発、科学技術の発展を支持し、中国の近代化建設を促進するうえで積極的な役割を果たしました。

日本各界の方々は、さまざまなかたちで中国の近代化建設に温かい支援を提供しました。大勢の日本の方々が中日友好事業のために心血を注がれたことを、中国人民は永遠に銘記します。」


この感謝の演説が「戦略的互恵関係」という新しい日中関係の基礎となったのである。

歴史問題を正しく理解する

中国では1972年の日本との国交正常化を前に、一部の軍国主義者と一般国民・兵士を区分する二分論が考え出されたという。

中国が愛国主義教育をしているから対日感情が悪化しているという見方もあるが、宮本大使は、両親や祖父母から伝えられたものも含めた日本の対中侵略時の原体験に対する痛みや恨みが根底にあることを日本人は決して忘れてはならないと警告する。

英語で言えばファミリー・ストーリーなのだと。中国で仕事をする人は、中国人の痛みに対する理解がないと中国人とのコミュニケーションは不可能だろうと。

宮本大使は1972年の日中国交回復交渉から関係者だったので、田中角栄首相訪中の時の「ご迷惑」発言に、中国側が表現が軽すぎると騒然となったことや、1982年の「第一次教科書問題」(「侵略」を「進出」に変えた)、1986年の「第2次教科書問題」(日本を守る国民会議」編纂の高校日本史教科書の認定問題)などの経緯を振り返っている。

2001年4月に成立した小泉内閣では、首相の靖国訪問が日中関係を悪化させたのは記憶に新しい。小泉首相は、首相に就任した初年度は、2001年8月13日に靖国神社を訪問し、8月15日を避けたことを中国側は「留意」したことになっていた。

しかし2002年4月に小泉首相は海南島のボーアオ・アジア・フォーラムで朱鎔基総理と会談した9日後に春季例大祭にあわせて靖国神社を訪問する。この一件で、朱鎔基総理はメンツを失ったという話は、宮本大使が中国の友人から何度か聞かされたという。

小泉首相在任中は靖国神社参拝のたびごとに日中間の問題が起こり、サッカーのアジアカップでの反日応援や、日本の国連常任理事国入りに反対する各地での反日デモが暴徒化したことなどが思い出される。

小泉首相は、靖国参拝以外の対中政策はリベラルだったが、靖国問題でここまでやられると中国は振り上げた拳をおろせなくなってしまったというのが実情に近いのではないかと宮本大使は語る。

温家宝首相の明確な靖国神社訪問取りやめ要請にもかかわらず、小泉首相は2005年10月に5回目の靖国神社参拝を実施する。すべての日中間の外交交渉はキャンセルされ、新華社は2005年を日中関係で最悪の年と論評したという。


日中戦略討論のスタート

それでも2005年5月から外務省の谷内事務次官と、戴秉国(たいへいこく)外交部常務副部長との間で、「日中総合政策対話」を始めることとなり、これが「日中戦略対話」となり、その後の日中関係を改善する上で重要な役割を果たした。

2006年4月宮本大使は、駐中国日本国全権大使として3度目の北京勤務の辞令を受けた。日中関係は様々な問題で最悪の時期だったが、谷内次官からは次のように言われて勇気づけられたという。

「外務省の同僚でも、日本外交はいま袋小路に入って先が見えないと暗い顔をしている。しかし自分はそうは思わない。いまやっているのはオセロゲームであり、牌の色が一枚変われば全部が変わる。その一枚が中国だと思っている。全力を挙げて対中関係を改善する決意だ。君には中国でそれを支えて欲しい。」

日本の安全保障理事会入りを阻止しようと、中国はアジア、アフリカ、中南米で穏やかな仮面を脱ぎ捨て怖い顔をさらけ出してしまった。これは中国外交の失敗だった。

日中関係がこのままなら、中国の国益を損なうことがはっきりしてきて、胡錦涛主席が2006年3月に表明した「和すればともに利益し、戦えばともに損す」という考えに中国側もなってきた。


安倍内閣が転機

小泉総理は首相任期の最後に念願の8月15日に靖国神社を参拝し、日中関係をこれ以上ない悪化の状態に落とし込んだ。代わりに後任の安倍首相が就任直後に中国を訪問し、「氷を割る旅」で日中関係を新しいステージに導いた。谷内次官と戴秉国副部長の信頼関係と、二人が双方の政治指導者の信頼を得ていたことが「氷を割る旅」を実現した。

谷内ー戴秉国ラインについてははこのブログで紹介した元NHKの手嶋龍一さんの「葡萄酒か、さもなくば銃弾を」に詳しい。

葡萄酒か、さもなくば銃弾を葡萄酒か、さもなくば銃弾を
著者:手嶋 龍一
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宮本大使は、戴秉国氏が事前交渉のために訪日する際に、この任務に成功したら銅像を建てると約束してしまい、戴秉国氏から催促されて困っているという。

安倍訪中時の共同発表で、「戦略的共通利益に基づく互恵関係」という言葉ができ、これが後の「戦略的互恵関係」という日本側が提案したキーワードに結びつく。

2006年10月の安倍総理の「氷を割る旅」に続き、2007年4月の温家宝首相による「氷を溶かす旅」、2007年12月の福田首相による「春を迎える旅」、2008年5月の胡錦涛主席による「暖春の旅」と続くのである。

温家宝首相による代々木公園でのジョッギング、太極拳、立命館大学での野球、京都での農家訪問、福田首相の北京大学での公演後の絶妙な質疑応答と孔子の故郷曲阜訪問、胡錦涛主席の早稲田大学訪問と福原愛選手との卓球、パナソニック本社訪問など、近くで見ていて宮本さんには多くの思い出があるという。

この本の資料として2008年5月の胡錦涛訪日に際しての「『戦略的互恵関係』の包括的推進に関する日中共同声明」が添付されていて興味深い。


戦略的互恵関係の意義

戦略的互恵関係について詳しく宮本大使が解説している。

この新しい関係によって、中国は日本を「平和国家」と公式に認め、日本の軍国主義が復活することはないと結論づけられたことの意義が大きい。いわば「モグラたたき外交」から「攻めの外交」に転換することができたのだと。

1世紀という時間の中でも、そう何度も訪れることのない貴重な機会であり、この機会を逃すべきでないと。

歴史問題が、中国では若い世代の民族主義感情を煽り、強い反応を引き起こし、逆に国内の安定に影響を及ぼす図式になったことも、「歴史カード」が使いにくくなった理由の一つだ。

宮本大使は相互理解の大切さを訴えている。中国人の日本研究家は、「中国人は戦前の日本しか知らず、日本人は隋唐の中国しか知らない」と言っていたという。


その他の特記事項

★宮本大使の大学の恩師の高坂正堯さんの印象に残る話があるので紹介しておく。高坂さんはニュースを見たり、聞いたりしないという。時間の無駄だと。毎日のトップニュースのなかで将来の歴史書に書き残されるものは、ほんのわずかで、人類の歴史という観点から残すべき重要な話はほとんど起こっていない。であれば、歴史書を読んだ方がためになる。なぜなら人類が重要だと考えたことだけが記されているからだと。

3月11日からの福島原発事故のテレビ報道を見ていて、筆者も高坂さんの考えに同感だ。原発報道を見ていて、最初から炉心溶融は間違いないと思っていたのは筆者だけではないだろう。地震直後は1号機、3号機の冷却ができず燃料棒が露出しているという報道だった。

誰もが炉心溶融を思ったのに、NHKなどのマスコミは休止中の4号機の使用済み燃料プールの冷却問題、自衛隊ヘリコプターのセミのションベン報道に移り、全く一号機については報道しなかった。

今頃になって一号機の炉心溶融とか言い出しているが、そんなことは元からみんなが分かっていたことだ。

閑話休題

★中国人に北海道旅行ブームを巻き起こした「非誠勿擾」という映画はこれだ。



★中国では「大砲かバターか」の時代となった。一人から1,000円徴収しても1兆3千億円になるので、こういうやり方で北京オリンピックも上海万博もやったが、人口13億人の中国で一人1,000円配ったとしても1兆3千億円の予算が必要だ。

年金や社会保障を充実させるためには、巨額の資金がかかる。そのことを考えれば、世界に雄飛する軍事大国の建設というのは難しい。

★中国指導部は、ソ連の崩壊を徹底的に分析している。ソ連が崩壊した理由の一つがアフガン侵略に代表される帝国主義的行動である。だから中国は領土を求めることはしない。そして、もう一つの理由はソ連がアメリカとの軍拡競争に敗れて国が疲弊したことだ。

中国は湾岸戦争やイラク戦争での米軍の装備と作戦に驚愕した。軍の近代化は一刻も猶予は許されないが、軍備はあくまで祖国防衛が主眼である。

★四川大地震の時の日本の国際緊急援助隊が死者に黙祷を捧げる姿が、中国国民に与えたイメージは中国人の日本人に対するイメージを変えた。



これ以外にも北京オリンピックの時の入場行進で中国の旗を振ったのは日本チームだけだったとか、女子サッカーで「謝謝CHINA」との横断幕を掲げて、感謝の気持ちを示したりということなどで、日本は「礼の国」だという評価が高まってきた。

宮本大使は、地方交流、青少年交流、観光交流の重要性を挙げて、ソフトパワーの交流の大切さを訴えている。まさに草の根ベースのつきあいが重要なのだ。


さすが中国との外交を長年担当されてきた外務省チャイナスクールの代表格だけある。大変参考になる外交史をふまえた中国との付き合い方論である。


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Posted by yaori at 00:45│Comments(0)TrackBack(0) 中国 | 政治・外交

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