2011年09月17日

大気を変える錬金術 空気からパンと爆薬を作った男の物語

+++今回のあらすじは長いです+++

大気を変える錬金術――ハーバー、ボッシュと化学の世紀大気を変える錬金術――ハーバー、ボッシュと化学の世紀
著者:トーマス・ヘイガー
みすず書房(2010-05-21)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

図書館の新着コーナーで何気なく手に取った本だが、最近では最高傑作の一つといえる本だった。これだから図書館通いはやめられない!

以前紹介した読書家の友人の書評に続き、あらすじを紹介する。

「これは空気をパンに変える方法を発明した二人の男の物語である。彼らは小都市と並ぶ規模の工場を建て、巨額の財を成し、何百万人もの人の死に手を貸し、何十億もの人間の命を救った。

彼らの功績は歴史上もっとも重要な発見だと私は信じている。(中略)簡単に言ってしまうと、今の世界の人口の半分は、彼らの開発したもののおかげで生きていられるのだ。

ほとんどの人は、その二人の名前もその功績も知らない。しかし私たちは食物を口にいれるたび、彼らに感謝するべきなのだ。(中略)彼らが発明した機械すべてが停止したら、20億人以上が飢えて死ぬだろう。」


これがこの本の冒頭文だ。全部で7頁の「はじめに」だが、全文を引用したいくらいよくできている。また、この本の解説は、なんとノーベル化学賞受賞者の白川英樹筑波大学名誉教授だ。まずは本屋でこの本を立ち読みして、「はじめに」と白川教授の解説を読んで欲しい。大体の内容が分かると思う。

この本はアマゾンの「なか見!検索」に対応していないので、「なんちゃってなか見!検索」で目次を紹介しておく。


はじめに 空気の産物

第I部 地球の終演
1.危機の予測
2.硝石の価値
3.グアノの島
4.硝石戦争
5.チリ硝石の時代

第II部 賢者の石
6.ユダヤ人、フリッツ・ハーバー
7.BASFの賭け
8.ターニングポイント
9.促進剤(プロモーター)
10.ボッシュの解決法
11.アンモニアの奔流
12.戦争のための固定窒素

第III部 SYN
13.ハーバーの毒ガス戦
14.敗戦の屈辱
15.新たな錬金術を求めて
16.不確実性の門
17.合成ガソリン
18.ファルベンとロイナ工場の夢
19.大恐慌のなかで
20.ハーバー、ボッシュとヒトラー
21.悪魔との契約
22.窒素サイクルの改変

エピローグ



窒素の役割

大気の8割は窒素でできており、人間の体の構成元素の4番目(約3%)が窒素だ。窒素は人間の体を構成するタンパク質をつくる不可欠の元素だが、動物が大気中の窒素を取り入れることはできない。大気中の窒素ガスは不活性ガスだからだ。大気中の窒素を固定できるのは、植物の根に棲むバクテリアと稲妻だけだ。

窒素が植物の生長に役立つことは昔から知られており、動物の糞や堆肥が肥料として使われてきた。しかし、これらの自然肥料の供給は限りがあり、爆発的な人口増加に対応する食料増産は自然肥料では到底困難だった。

そこで注目されたのが硝石だった。

火薬は中国の唐時代に発明された。火薬の3/4を占める原料が硝石だが、肥料としても役立つことがわかり、火薬需要とともに肥料需要が爆発的に増加していた。

旧大陸に大きな硝石の鉱山はないので、人や動物の尿を灰に掛けて何層も敷き詰め、熟成して硝石を作るという人造硝石プラントまで出来たほどだった。

新大陸のペルーのグアノと呼ばれる鳥の糞が輸入され、チンチャ列島はグアノの輸出で大変な盛況を収めた。何千万年にもわたって厚さ数十メートルにも堆積したグアノだったが、もはや19世紀前半には枯渇した。

グーグルアースでチンチャ列島の写真も見られるので、是非見て欲しい。さびれた鉱石船積み設備が島に残されていることがわかる。

Chincha islands







出典:Google Earth

代わってアタカマ砂漠で採れるチリ硝石がヨーロッパに大量に輸出されることになり、チリ硝石を巡ってチリとペルーの間で戦争が起こるほどだった。

1900年には世界の硝石取引の2/3はチリ硝石で、ドイツとイギリスが最大のバイヤーだった。1907年にはチリには200を超える精錬所があったという。

一時はチリの輸出の半分以上を稼ぎ、世界の肥料原料供給をほぼ一手に引き受けていたチリ硝石ビジネスに壊滅的打撃を与えたのは、原料の枯渇ではなく、ドイツで発明された空気からのアンモニア生産だった。


フリッツ・ハーバー

空気からパンをつくる方法を発明した科学者フリッツ・ハーバーは1868年に現在はポーランド領ブロツワフの裕福なユダヤ人ビジネスマンの家庭に生まれた。

ハーバーについては、「毒ガス開発の父 ハーバー」という本も出ており、ドイツ人になりきろうとした改宗ユダヤ人のハーバーの努力が描かれている。

ハーバーの叔父がドイツ外交官として日本駐在中に函館で暴漢に殺された話とか、親友アインシュタインの離婚交渉の仲介をしたこと、星製薬社長・星一との交友で日本を訪問したことなどが紹介されており大変参考になる。いずれあらすじを紹介する。

scanner081








毒ガス開発の父ハーバー 愛国心を裏切られた科学者 (朝日選書 834)毒ガス開発の父ハーバー 愛国心を裏切られた科学者 (朝日選書 834)
著者:宮田 親平
朝日新聞社(2007-11-09)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る

この本の表紙には自分でデザインした軍服を着てご満悦のハーバーの写真が載っている。

空気から固定窒素をつくる方法を発明したのはハーバーが最初ではなかった。1902年にノルウェーで空中電弧法(アーク)法が工業化されていた。稲妻が空気中の窒素を固定することに目をつけた発明だった。

これを手がけていたのがノルウェーの国営会社ノースク・ヒドロだ。ドイツ最大の化学会社BASFもノースク・ヒドロに出資していた。しかしこの方法は大量の電気を消費し、チリ硝石よりコストが高かった。

1860年代に設立され、19世紀末に合成インディゴで大成功していたBASFは空気中の窒素固定法の開発に全力をそそいだ。

最初はハーバーのライバルのヴィルヘルム・オストワルトが特許をとった方法を試したが、その方法はみじめに失敗した。オストワルトの機械をテストしたのがBASF入社1年目のボッシュだった。

オストワルトは窒素固定法を求める科学者の探求を「賢者の石」を求める勇者の旅にたとえたという。ハリー・ポッターシリーズでも登場したが、「賢者の石」とは鉛を金に変えるという伝説上の物質だ。

1908年にハーバーはBASFに自らが開発した空気中の窒素からアンモニアをつくる特許を売り込んで採用され、1909年にオスニウムを触媒として使った実験機で小さじ一杯のアンモニアを生成する。

その後触媒は稀少金属のオスニウムからスウェーデン産の磁鉄鉱に変わったが、実験機は100気圧という超高圧を必要としたので、いかにリアクション・チャンバーをスケールアップするかが鍵だった。超強力なコンプレッサーも必要だったし、圧力チャンバーの素材も問題だった。

ハーバー自身は1911年ベルリンのカイザー・ヴィルヘルミ研究所の役員として高給で引き抜かれ、その後のアンモニア生産法の工業化はボッシュの功績だ。


ボッシュの改良

最初のチャンバーは厚さ1インチの鉄でできた高さ8フィートの円筒形をしたドイツ最大の大砲メーカークルップ社製のもので、コンクリート製のケースに入れられた。これは3日後に爆発した。次にクロム・モリブデンなどを加えた合金鋼を使ってみたが結果は同じだった。水素が鋼鉄をもろくしていたのだ。

そこでボッシュは天才的な発想の転換をする。チャンバーの内側の壁に保護材を入れ二重にして、水素が漏れる穴も開けた。パッキンやバルブなどすべての部品が研究され、次第にアンモニア生産量は増加していった。

そして1913年9月にオッパウ(Oppau)にBASFの巨大なアンモニア工場が完成する。


空気から火薬をつくる

オッパウ工場が完成し、生産量を拡大している時に第1次世界大戦が勃発した。当初戦闘はすぐに終了するとみられていたが、予想外に長期化した。ドイツは弾薬用の硝石の確保に窮し、占領したベルギーの倉庫に貯蔵されていたチリ硝石を没収したりしていた。

改宗ユダヤ人だが、熱烈な愛国者のハーバーはみずから志願して政府の科学顧問に就任し、BASFに手紙を書き、アンモニアから火薬原料の硝酸を作れないか聞いた。

アンモニアから直接硝酸はできないが、このときボッシュはまたも天才的なひらめきで、アンモニアからチリ硝石(硝酸ナトリウム)を製造することを考えつく。

ドイツ海軍はシュペー提督のもと、緒戦ではイギリス海軍を撃破し、南米からのチリ硝石輸送も問題がなかった。しかし英国海軍がフォークランド島の石炭貯蔵庫へのドイツ海軍の攻撃を待ち伏せして撃退し、シュペー提督が死亡してからは、チリ硝石の貿易は連合国が抑えた。

ドイツへのチリ硝石の供給は絶たれた。火薬と肥料用のチリ硝石を自国で生産せざるをえなくなったので、ボッシュは政府の費用で高さ12メートルの巨大アンモニア生産チャンバーを完成させ、月間5千トンのチリ硝石を政府に供給し始めた。

1915年5月にはフランスの戦闘機がオッパウに来襲し、空から小さな爆弾を落としはじめた。すぐにマシンガンと高射砲、サーチライトが据え付けられたが、すべての機器が集中しているオッパウ工場を防御するのは難しかった。

そこでBASFは政府の資金を得てフランス軍の戦闘機の航続距離外のライプチヒ近くのロイナに巨大なアンモニア・チリ硝石工場をつくった。ロイナ工場は1917年4月からアンモニアの生産を開始し、1918年に全工場が完成した。

ロイナ工場の完成により、ドイツ軍の火薬生産能力は補強された。これにより第一次世界大戦の終戦は1−2年遅れたと言われているほどだ、


ハーバーは「毒ガスの父」に

第1次世界大戦中、塹壕戦で戦線が膠着すると、プロシア陸軍科学部門長に就任していたハーバーは塩素系の毒ガスを開発した。空気より比重が重く、塹壕にひそむ敵兵を攻撃する目的だ。

すぐに英仏が毒ガス兵器で応戦し、これが英仏独の毒ガス戦争にエスカレートし多くの犠牲者を出した。ヒトラーも第一次世界大戦に伍長として従軍し、毒ガスでやられて入院している。

第1次世界大戦後、ハーバーの妻は毒ガス開発への抗議のために自殺し、ハーバーは戦犯容疑がかけられた。

ハーバーの開発した殺虫剤技術は、その後強制収容所のガス室で使われたチクロンBとなって、第2次世界大戦中に数百万人のユダヤ人同胞の命を奪うこととなる。


ボッシュは巨大企業IGファルベンの社長に

第一次世界大戦後、BASFのアンモニア生産技術を盗み出そうとする占領軍の動きがあったので、ボッシュはフランス化学業界の大物と話をつけ、フランス国営企業へ技術供与する契約を締結した。

日産100トンのアンモニア工場を建設するのを支援する代わりに、ドイツ国内の工場の操業を認めさせたのだ。

ボッシュはフランス政府との交渉をまとめたことでBASFの社長に昇格する。しかし1921年9月にオッパウ工場で大爆発が起こった。561人が死亡し、1700人が負傷、7,000人が家を失うという大事故だった。これが次の写真だ。

scanner031
















出典:本書201ページ

その後ボッシュは1923年にアメリカを訪問し、石炭液化という新しいプロジェクトに取りかかる。当時は大規模油田が発見されていなかったので、1930年代には石油は枯渇すると予測されていたのだ。

石炭液化を実現するためには多額の資金が必要で、ドイツの化学会社が力をあわせ、世界の有名企業とも提携する必要がある。そのためにボッシュはドイツの3大化学会社のヘキストとバイエルに呼びかけ、全部で8社のドイツ化学会社をまとめて1925年にIG(イーゲー)ファルベンを設立し、初代社長に就任した。USスチール、ゼネラルモーターズに続く世界第3位の企業の誕生だ。

ファルベンはスタンダードオイルやフォードと提携し、合成ガソリン生産を1927年から開始するが、当初技術的問題から工場の本格稼働は遅れに遅れる。そのうち1920年代末にはオクラホマで大規模油田が見つかり、ガソリン価格は1/10に下落して、合成ガソリンの採算性は失われた。

そして大恐慌がファルベンを襲う。製品の販売価格は下落し、ロイナベンジン(合成ガソリン)の生産は計画の10万トンを達成したが、コストはガソリンの2倍で、工場の稼働率は20%に低迷した。

ボッシュにとって嬉しい驚きは、1931年にノーベル化学賞を受賞したことだ(石炭液化技術のベルギウスも同時受賞した)。

1931年1月にはヒトラーがドイツ首相に就任した。ナチスは合成ガソリン生産に全面支援を約束し、1933年には全量をコスト+利益で買い上げる契約を締結した。いずれ戦争が起こったら、戦車や飛行機の燃料を合成ガソリンでまかなうためだ。

ボッシュはナチスに生産量を1935年までに3倍にして、一日1000トンに引き上げることを約束した。


ハーバーとボッシュの末路

1933年1月のヒトラー首相就任から4週間後にドイツの国会議事堂が不審火で破壊され、閉鎖された。矢継ぎ早にユダヤ人公職追放令、ユダヤ人のビジネスのボイコットが発表された。

ハーバーは1933年4月に永年勤めたカイザー・ヴィルヘルミ研究所長を辞任させられた。

ボッシュはハーバーが辞任させられた1933年5月にヒトラーと面会した。このときにボッシュはユダヤ人科学者に寛大な措置を取らないと、ドイツの化学と物理学研究は大きな損失を被ると意見したときにヒトラーは烈火の如く怒ったという。

「これから100年間、物理学と化学なしにやっていけばいい!」ボッシュは面会場所から追い出された。

ハーバーは1933年10月にイギリスのケンブリッジに移った。その後パレスチナ移住を決めたが、度重なる心臓発作に悩まされていたハーバーは、旅の途中のスイスで1934年1月に心臓発作で亡くなった。

ハーバーの息子のヘルマンはハーバーの遺灰をスイスに埋葬し、隣の墓に自殺した母クララの遺灰を埋葬した。ちなみにハーバーの息子のヘルマンは第2次世界大戦後自殺している。

ボッシュは1935年にファルベンの管理取締役のトップという名誉職に押し込まれた。ボッシュはその前後から酒浸りになっていた。合成ガソリンに加えて、合成ゴムもナチスに売ろうというファルベンの方針から反ナチスのボッシュが邪魔になったからだ。

その後ファルベンは全階級で非アーリア人従業員を解雇することを決定した。

ボッシュは1939年にドイツ博物館でのスピーチを依頼されるが、酒に酔ってあらわれ、自由と科学を政府の干渉から守ることが必要だと反ナチス発言を繰り返し、ナチス党員が退席する結果となった。

1939年9月にドイツはポーランドに侵攻した。それ以来ボッシュは屋敷に閉じこもり、翌1940年4月にボッシュは亡くなる。

「ヒトラーはロシアに攻め込むという大失敗をするはずだ、そしてドイツじゅうの都市、工場そしてファルベンは空を埋めつくす戦闘機に破壊される」というのが最期の言葉だったという。


ロイナ工場の防御

ロイナではレーダー制御された32門の対空砲が同時に動くように設計され、空中で砲火領域をつくって、その領域に突っ込んだ爆撃機をすべて撃墜するようになっていた。

連合軍のパイロットたちはロイナ上空を飛ぶのを怖がった。ある日は119機の爆撃機が不明になったこともある。まさに「メンフィス・ベル」の世界だ。



1939年ドイツは2/3の燃料を輸入していたが、ロイナが拡張されたおかげで、戦争中は供給されるガソリンの3/4はロイナで生産されていて、1944年初頭のドイツの燃料貯蔵量は1940年と同じレベルになっていた。

1944年5月から連合軍は大規模空襲を繰り返したが、爆撃を受けても数日で修理してロイナは生産を続けた。1944年末には防空能力は弱まったが、ドイツは戦闘機を温存し、ロケット戦闘機を投入して一挙に反撃に出た。

Me163efJM








出典:Wikipedia

1944年11月1日の連合軍の空襲では700機の爆撃機のうち、基地に戻れたのは400機以下だったという。

しかしロケット戦闘機は8分間しか飛べず、燃料が不足してきた。

連合軍はロイナに22回の大規模爆撃を行い、6000機を超える爆撃機が18,000トンのも爆弾を落とした。これは広島に落とされた原子爆弾に匹敵する量だったが、それでも終戦時にはロイナ工場は15%のガソリン生産を続けていた。

「第三帝国の神殿にて」を書いたナチスの軍需相シュペーアは、連合軍がロイナをはじめとする合成燃料工場を破壊することだけに専念し、昼夜問わず爆撃していたら、戦争は8週間で終わっただろうと語っている。

第三帝国の神殿にて〈上〉ナチス軍需相の証言 (中公文庫―BIBLIO20世紀)第三帝国の神殿にて〈上〉ナチス軍需相の証言 (中公文庫―BIBLIO20世紀)
著者:アルベルト シュペーア
中央公論新社(2001-07)
販売元:Amazon.co.jp
クチコミを見る


逸話が多岐にわたり、ストーリー構成が秀逸だ。翻訳も自然でよい。ノーベル化学賞受賞者の白川英樹教授の解説も素晴らしい。最近読んだ中でも一番といえる出来の本である。


参考になれば投票ボタンをクリックして頂きたい。







Posted by yaori at 23:50│Comments(1)TrackBack(0) 自叙伝・人物伝 | 図書館に行こう!

この記事へのトラックバックURL

http://trackback.blogsys.jp/livedoor/yaori/51726654
この記事へのコメント
面白く、興味深く読ませていただきました。

私は、フツーのオバサンですが、「ナチスのキッチン」を
読んでいます。

もともと、その時代に興味がありました。

自分のブログにも時々「ナチスのキッチン」の感想を書いています。

子供の時に、父から教えられた「ドイツは空気からパンを作った」という
話が忘れられません。

いろいろずっと調べてきました。
そのなかで、こちらのブログにいきつきました。

参考にさせてください。
とてもわかりやすかったです。
Posted by 森須もりん at 2014年03月24日 10:28