2011年10月01日

松下幸之助はなぜ、松下政経塾をつくったのか 側近中の側近・江口克彦さんが語る

松下幸之助はなぜ、松下政経塾をつくったのか松下幸之助はなぜ、松下政経塾をつくったのか
著者:江口 克彦
WAVE出版(2010-06-10)
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松下政経塾出身者としてはじめての総理大臣の野田佳彦総理が誕生して、さっそく国会で論戦を演じた松下幸之助の側近中の側近、元PHP研究所社長の江口克彦さんの本。江口さんは松下政経塾の元面接官だった。

江口さんはみんなの党に所属している参議院議員で、野田さんへの質問は全文が江口さんのサイトに公開されている

ちなみに民主党代表選挙直前の江口さんの各候補の評価は次の通りで、全体的に評価は低いが、比較すると野田さんの評価が一番高い。

【江口克彦の代表候補採点】

前原誠司前外相 30点

野田佳彦財務相 44点

馬淵澄夫前国交相 35点*

樽床伸二元国対委員長 18点

*馬淵氏は松下政経塾OBではないが、江口氏主宰の「壺中の会」で学んでいる。

この本は2010年6月、江口さんが参議院議員になる直前に出版された。江口さんは現在みんなの党所属で「前原氏は腐った饅頭」などという放言をしており、所属政党が違うので額面通りには受け取れないが、それぞれの候補の比較という意味では参考になると思う。


江口さんは、筆者が最も好きな本の一つの「成功の法則」の著者で、PHP研究所の中心人物として晩年の松下幸之助に23年仕えた側近中の側近だ。

松下幸之助 成功の法則松下幸之助 成功の法則
著者:江口 克彦
WAVE出版(2010-03-18)
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その江口さんが昭和54年(1979年)に松下幸之助が松下政経塾を設立した経緯を語る。


日本一の高額納税者

松下幸之助は60歳の時の昭和30年(1955年)から昭和38年(1963年)まで昭和35年に2位になった以外は、日本の所得番付で第一位を独占しており、亡くなる前年の昭和63年まで連続33年間トップ10位に常に入っていた。

当時の日本の税制では高額所得者は78%が税金で取られ、手元に残るのは22%だけだった。「税金を納める手数料を取っているようなものだ」と語っていたという。

日本の高すぎる税金、非効率な政府、頼りない政治が、松下幸之助が政治改革の必要性を感じた一つの理由だ。


無計画の金権政治に危機感

昭和47年から49年までの田中角栄首相の金権政治と列島改造ブームによる地価高騰、昭和48年に起こったオイルショックによる狂乱物価、そして昭和49年からの赤字国債発行。これらが松下幸之助に強い危機感を抱かせることになった。

同じく危機感を共有するソニーの盛田さんと昭和50年に「憂論」という対談本を出し、これがベストセラーになっている。

憂論―日本はいまなにを考えなすべきか (1975年)憂論―日本はいまなにを考えなすべきか (1975年)
著者:松下 幸之助
PHP研究所(1975)
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このなかで松下幸之助は「わが国の現状はいわば夕陽みたいなものでしてね。落ちかけたら非常に早い。」と語り、危機感をあらわにしている。

戦後の日本は「経済大国」といわれるほどの目覚ましい発展を遂げた。しかし、これは松下幸之助によれば、20年なり30年前に、「20年、30年後の日本をこのような姿にしよう」という計画をもち、それを国民合意のもとに共同の力で推進してきたものではない。

終戦から無我夢中で働いてきて、気がついてみれば経済大国となっていたものであり、計画性がないので公害や無計画な都市の膨張というアンバランスを生むことになった。

それゆえ当面の事態への適切な対応とともに、国家の大計を打ち出すことが急務であると松下幸之助は主張していた。松下幸之助の考える未来像が小説「21世紀の日本」だ。

筆者も読んだが500ページの大作である。正直、松下幸之助自身が書いたものではないと思う。たぶんブレーンが書いたのだろう。

私の夢・日本の夢―21世紀の日本 (PHP文庫)私の夢・日本の夢―21世紀の日本 (PHP文庫)
著者:松下 幸之助
PHP研究所(1994-11)
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「21世紀の日本」では、2010年に「最も理想的と思われる国はどこか」という国際世論調査を行ったところ、圧倒的第一位は日本を選んだというフィクションから始めている。

日本が世界一となった理由は、国民所得で世界トップクラクス、先進国の中では税率が低い、富の分配が公平、すべての国民の生活水準が高い等の経済的理由のほかに、「日本人のモラルやマナーのよさ」、「美しい自然」、「治安のよさ」、「青年が希望を持って生きている」、「老人が大切にされている」、「日本の皇室の存在」、「政治の安定」、「日本は世界に貢献している」などだったと。

「日本人のモラルやマナーのよさ」は東日本大震災で日本人が日本人の美徳として強く意識したところだ。その他の点も、今もなお理想の国のあるべき姿として妥当である。


政治改革のうねり

ところが松下幸之助がこのような理想国家論を発表した昭和51年にロッキード事件が起こり、まさに金権政治の醜い姿が明るみにでた。筆者は今も覚えているが、「1ピーナッツ」が100万円のワイロを意味し、全日空にロッキード・トライスターを買わせてくれという丸紅の要請に対し、田中角栄は「よっしゃ、よっしゃ」と答えたという。

このような政治の混迷にあたって、オピニオン誌として発刊したのが今なお発行されている昭和52年12月発刊の"VOICE"だ。

Voice (ボイス) 2011年 10月号 [雑誌]Voice (ボイス) 2011年 10月号 [雑誌]
PHP研究所(2011-09-10)
販売元:Amazon.co.jp
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昭和50年にソニーの盛田さん、京セラの稲盛さん、ウシオ電機の牛尾さん、学習院大学の香山健一教授、演出家の浅利慶太氏の5人がそろって松下幸之助の真々庵に来て、政治を改革する国民運動の必要性を説くが、結局立ち消えとなる。

たぶん江口さんもこの会合に参加したのだろう、その時の発言が10ページほどにわたりこの本に収録されている。

昭和50年には自民党の若きエース石原新太郎が3選を目指す美濃部亮吉都知事に対抗して都知事選に立候補するが、タカ派発言が災いして敗れた。石原現都知事も最初の挑戦では敗北したのだ。


松下政経塾構想

5人の提唱した「生活人大連合」は立ち消えとなったが、松下幸之助は昭和21年からあたためていたという政治家育成塾の構想を本格化させる。

当初は「繁栄政治研究所」という仮称だったが、最終的にこれが「松下政経塾」に変わり、文部省主管の財団法人として設立されたのは昭和54年のことだ。最初の運営資金は50億円、建物は20億円で、松下幸之助の全額出資というスタートだった。

次のような塾是、塾訓、5誓が定められ、応募資格は25歳以下(現在は22歳から35歳まで)、研修期間は5年、月13〜15万円の研修費と年2回の十数万円の特別研修費が支給されるというものだった。

松下整形塾塾是





松下政経塾での松下幸之助の教えについては、「松下幸之助翁82の教え」という本に詳しいので、今度この本のあらすじで紹介する。

松下幸之助翁82の教え―私たち塾生に語った熱き想い (小学館文庫)松下幸之助翁82の教え―私たち塾生に語った熱き想い (小学館文庫)
著者:小田 全宏
小学館(2001-10)
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第1期生30名の募集に対し、907名が応募し、3次選考の後、23名が内定した。江口さんも面接官として選考に参加した。松下幸之助から指示された選考基準は「運の強い人、愛嬌のある人」だったという。

その第1期生の一人が野田佳彦首相だ。

松下幸之助が研修期間を5年としたところに、松下幸之助の本当の狙いがあらわれている。

「政経塾を5年制にしたのはな、塾生たちに、わしの考えた人間観を彼らの体に染み込ませようと思ったからや。人間をどう捉えるか。これが、特に政治の出発点や。(中略)塾生たちがその「人間大事」の原点から、政治を考えられるようにせんといかん。」

松下幸之助の超ベストセラー「道をひらく」では、松下幸之助の人間観を具体的な事例を通して説明している。「人間は偉大な力、とてつもない能力を有している」という人間観が根本にある。

道をひらく道をひらく
著者:松下 幸之助
PHP研究所(1968-05)
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そして松下幸之助が書き上げて「もう死んでもいい」と感想を漏らした本は、「人間を考える」だった。

人間を考える―新しい人間観の提唱・真の人間道を求めて (PHP文庫)人間を考える―新しい人間観の提唱・真の人間道を求めて (PHP文庫)
著者:松下 幸之助
PHP研究所(1995-01)
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「人間大事」という正しい人間観を確立させるためには、5年間の修業が必要と松下幸之助は考えていたのだ。


松下政経塾の基本方針

塾の基本方針は次の通りだ。実際にどのような研修が行われていたのかは樽床伸二議員の「わが師、松下幸之助」に詳しく紹介されているので参照して欲しい

1.自修自得

2.切磋琢磨

3.万差億別

4.徳知体の3位一体研修

わが師、松下幸之助―「松下政経塾」最後の直弟子としてわが師、松下幸之助―「松下政経塾」最後の直弟子として
著者:樽床 伸二
PHP研究所(2003-03)
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松下政経塾出身者では昭和61年の衆議院選挙で逢沢一郎が当選し、塾出身のはじめての国会議員となった。その後増減はあったが、現在は自民党・民主党・地方首長に多くの人材を輩出し、そして今回1期生から野田佳彦総理大臣が誕生した。

松下政経塾は決して一本調子で伸びてきたわけではなく、平成2年の衆議院選挙では塾生6名が立候補したが、逢沢一郎のみが当選という結果となって、志望者が急減した。平成2年の第11期生は塾生はわずか3名となって存亡の危機に立たされた時期もあった。


幻の松下新党構想

最後に幻に終わった松下新党構想を紹介している。

松下幸之助は江口さんに「きみ、政党をつくろうと思うんやけど」と昭和50年ころから言いだし、総論賛成・各論反対のさまざまな人の影響を受けながら、昭和60年から具体的な準備作業を開始し、平成元年の参議院選挙を目標としていた。ところが松下幸之助が90歳という高齢もあり、その年の10月から病気がちになって新党構想は日の目をみなかった。


松下幸之助の著作や言動をたどりながら、松下政経塾設立、そして政治に対しての松下幸之助の思いををわかりやすく解説している。いつもながら江口さんの描写する松下幸之助の言葉は、ビビッドでまるで松下幸之助から話しかけられているようだ。

今後松下政経塾出身者の本はいくつかあるが、塾の設立関係者の話は珍しい。さすが松下幸之助の側近中の側近の江口克彦さんだけある。参考になる本だった。


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Posted by yaori at 01:42│Comments(0)TrackBack(0) 松下幸之助 | 政治・外交

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