2012年01月29日

蒋介石が愛した日本 親日家・蒋介石を敵にした日本軍部の愚

蒋介石が愛した日本 (PHP新書)蒋介石が愛した日本 (PHP新書)
著者:関 榮次
PHP研究所(2011-03-16)
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以前紹介した「チャーチルが愛した日本」に続く、元外交官作家関榮次さんのシリーズ第2弾。日本に留学、陸軍勤務を経験し、辛亥革命に参加するために中国に帰国後もたびたび日本の支持者を訪れ、日本に親愛の情を感じていた親日家の蒋介石像を見事に描いている。

実は大先輩の関さんには大変失礼をしてしまった。この本は出版当初の2011年3月にいただいていたが、あらすじを紹介するのが大変遅れてしまった。

一度読んだものの、蒋介石は大変毀誉褒貶が激しい政治家なので、蒋介石についてもっと本を読まなければ、きちんとしたあらすじは紹介できないと考えて、次のような本も読んだ。

蒋介石と日本 友と敵のはざまで (東アジア叢書)蒋介石と日本 友と敵のはざまで (東アジア叢書)
著者:黄 自進
武田ランダムハウスジャパン(2011-01-20)
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蒋介石 (文春新書 (040))蒋介石 (文春新書 (040))
著者:保阪 正康
文藝春秋(1999-04)
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(蒋介石に言及した部分はないが)台湾研究として:

街道をゆく (40) (朝日文芸文庫)街道をゆく (40) (朝日文芸文庫)
著者:司馬 遼太郎
朝日新聞社(1997-05)
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蒋介石秘録〈1〉51nSS9BVXhL__SL500_AA300_悲劇の中国大陸 (1975年)
著者:サンケイ新聞社
サンケイ新聞社出版局(1975)
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「蒋介石秘録」は日中国交回復以降、唯一台北に支局を置くサンケイ新聞社が総力を挙げてまとめた蒋介石の伝記で、全15巻の作品である。


「以徳報怨(いとくほうえん)」演説

蒋介石で最も有名なのは、終戦が決まった1945年8月14日に放送した日本に対しての「以徳報怨(いとくほうえん)」演説だろう。

満州や朝鮮から工場の設備など根こそぎ持ち帰った火事場泥棒のようなソ連のスターリンに対して、蒋介石の態度は実に立派で、関さんが書いているように多くの日本人は道義的にも敗れたことを痛感させられた。

最後のシナ派遣軍総司令官の岡村寧次大将は「この演説を当時ソ連のスターリンが『日露戦争の仇を討った』と声明したのに較べてみれば、まるで較べものにならない高邁寛容な思想といわねばなるまい。この思想、この大方針が、接収において降伏手続きにおいて、戦犯問題において、すべて中国側官民の日本人に対する態度の基礎になったのだと思う」と述べている。

蒋介石がこのような方針を打ち出したことから、日本人の中国からの帰国がスムーズにはかどり、結果として命を救われた日本人が多数いることは間違いない。満州で終戦を迎えた日本軍人が50万人以上もシベリア抑留されたことを考えると、大変な違いである。

蒋介石が日本の恩人の一人であることは間違いない。


蒋介石の経歴

蒋介石は浙江省の寧波の近くの渓口鎮で1887年に生まれた。蒋介石の生家は代々農家で、商才もあって塩の売買も行っていたが、蒋介石が8歳の時に祖父と父を相次いで亡くし、母親の手で育てられた。15歳の時に母がいうままに結婚したが、後日「早婚という悪い慣習に自分は苦しめられた」と書いているように、最初の結婚はうまくいかなかった。1910年に長男蒋経国が誕生し、1921年に母が亡くなると最初の妻と離婚している。

蒋介石は軍人を志し、満人の習慣である弁髪を切り落とし、日本留学をめざして、1906年に半年間日本を訪れたが、中国陸軍の推薦が得られず一旦帰国した。1908年に河北省の保定軍官学校の留学生として日本に留学し、3年間の予備的訓練の後、1910年12月に新潟県の高田野戦砲第19連隊に配属された。

1911年に中国本土で辛亥革命が始まると、孫文の仲間で同郷の先輩・陳基美の求めにより、高田連隊を抜けて帰国した。蒋介石は後日「新潟は第2の故郷のようである」、「日本の伝統精神を慕い、日本の民族性を愛している」と語っている。

1911年に帰国してからは上海を活動のベースとし、日本の頭山満などの支持者を頻繁に訪れ、孫文と行動をともにしていた。訪日の回数は10回を超えている。1916年にメンターの陳基美が暗殺されてからは、孫文のもとで蒋介石の責任は重くなった。

1923年に孫文はソ連と協定を結び、蒋介石は孫文代表団の団長としてソ連を訪問し、帰国後ソ連の軍事顧問を招いて広州に軍官学校を開設し、みずから校長として就任する。後に毛沢東と並ぶ中国共産党の二大指導者の周恩来は1917年から2年間の日本留学の後、フランスにも留学し、帰国後、第1次国共合作のため、軍官学校の副主任として蒋介石を助けている。蒋介石と周恩来は立場を超えて、双方が尊敬しあっていた仲だという。


国民党主席に就任

孫文は1925年に亡くなり、1926年に蒋介石が国民党主席となった。蒋介石は当時、二番目の妻・陳潔如と結婚していたが、浙江省の宋財閥を後ろ盾にする宋三姉妹の政治力・経済力、それと三姉妹の末妹・宋美齢の天性の能力、米国仕込みの教育と教養、美貌に魅せられ、陳潔如に別れを言い渡す。

陳潔如は翌1927年にアメリカに向け旅立ち、その後は蒋介石とは連絡は取りつつも、距離を置き、最後は周恩来の手配で香港に移住して亡くなっている。

1924年からの第1次国共合作で共産党と国民党は各地の軍閥に対して共同戦線を張り、北伐を続けてきた。

1927年3月に北伐軍が南京の各国の領事館を襲い、居留民を殺傷するという「南京事件」が起きたが、日本は幣原喜重郎が仲介して英米の武力行使をひっこめさせて、蒋介石に謝罪・弁償による解決をすすめて事件を解決した。幣原喜重郎は蒋介石による中国統一に期待していたのだ。

蒋介石が1927年4月から共産党を抑圧し、国共合作は瓦解した。しかし国民党内部の勢力争いで、蒋介石は国民革命軍主席を辞して、故郷に帰って下野してしまう。


日本の支持者を訪問

1927年10月に日本に行き、当時有馬温泉に滞在していた宋姉妹の母に宋美齢との結婚の許しを乞い、キリスト教に改宗することを条件に結婚を認められる。

この時には中国からの留学生が蒋介石を東京駅で青天白日旗を振って出迎え、蒋介石は帝国ホテルで「日本国民に告げる書」を発表し、日中両国は兄弟の国として「唇歯輔車」の関係にあり、目先の利益に惑わされて軍閥を利用して革命による中国の発展を妨げることなく、中国の革命運動を支援してくれるよう訴えた。

孫文が父と呼んだ頭山満と旧交を温め、88歳の渋沢栄一にもあって私淑している。関さんは懇談の内容を「竜門雑誌」から引用しており大変興味深い。渋沢栄一は若き指導者の蒋介石に日中の共存共栄を託そうと考え、支援を約束した。

しかしその後、田中義一首相と面談すると、田中首相はあきらかに中国革命軍が北伐後、中国統一を成し遂げることを好まず、蒋介石に対して誠意を見せなかった。蒋介石は中日合作の可能性はないと日記に記している。

日本には多くの支援者がいたにもかかわらず、この1927年の訪日が蒋介石の最後の訪日となった。

蒋介石は1か月半の訪日を終え、1927年11月に帰国してすぐに宋美齢と結婚した。新婚旅行は浙江省の行楽地莫干山(ばくかんざん)だったという。結婚後蒋介石はキリスト教に入信し、以後経験なクリスチャンとして信仰心を深めている。

結婚直後、蒋介石は国民革命軍総司令に再任され、70万人の大軍を擁して北伐にあたった。1928年6月の張作霖爆死事件で軍閥は総崩れとなって北伐は完了した。


日本軍部の暴走

張作霖爆死事件が息子の張学良に与えた影響は大きく、これがのちの西安事件につながる。張学良は自分の誕生日に張作霖が殺されたので、自分は誕生日を祝う気になれないとNHKのインタビュ−で語っている。

この間の1928年5月に日本が居留民保護のために出兵した済南事件が起こり、中国は屈辱的な賠償を払わさせられた。この事件は蒋介石の痛恨事となり、これ以降日本は蒋介石のあきらかな敵となった。

蒋介石は1928年10月に中国を統一した国民党政府主席に就任した。欧米政府は祝電を寄せたにもかかわらず、田中義一内閣の日本は南京総領事が口頭で祝辞を述べたにすぎなかったという。蒋介石はその時の日記に「日本の狭隘(きょうあい)なる嫉忌の心はこの通りだ。私はますます自強自奮しなければ」と書いている。

日本は関東軍が暴走を続け、1931年9月に奉天郊外の柳条湖で満鉄の鉄道を爆破して満州事変を起こし、日本政府の事態不拡大宣言を無視して関東軍は戦火を拡大した。翌1932年3月には清朝最後の皇帝の溥儀を擁立して傀儡政権の満州国を建国し、張学良は東北部からはじき出された。


西安事件

蒋介石は日本軍に対抗するには、まず国内の統一を保って軍備を整えるのが先決という「安内攘外」策を取り、張学良は共産軍の討伐にあたっていたが、蒋介石には共産軍と提携して日本の侵略に対抗すべきだと進言していた。しかし蒋介石が取り上げなかったので、張学良が蒋介石を監禁して、国共合作を承認させるという西安事件が1936年12月に起こった。

西安事件の首謀者である張学良みずからが語るNHKのインタビューは1991年のもので、張学良は西安事件そのものについては、「迷惑が掛る人がいる」として口を閉ざしているが、その他のことについてははっきり語っており、大変興味深い本だ。

張学良の昭和史最後の証言 (角川文庫)張学良の昭和史最後の証言 (角川文庫)
角川書店(1995-05)
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関さんは西安事件で蒋介石が脱出しようとした驪山(りざん)の岩穴や監禁されていた部屋を訪れた写真をこの本で紹介していて興味深い。西安事件はスターリンにも伝えられ、蒋介石を殺すつもりでいた毛沢東に対して「連蒋抗日」策をとるように指示し、毛沢東は怒りのあまり真っ赤になったという。

宋美齢や彼女の兄の宋子文、顧問のオーストラリア人・ドナルドなどが蒋介石解放交渉にあたり、クリスマスの日に蒋介石は解放された。張学良はそれから軍法会議で有罪となったが、蒋介石の特赦で自宅監禁となり、1990年まで自宅軟禁されていた。上記のNHKのインタビューは自宅軟禁が解けた直後のものだ。


日中戦争拡大

1936年2月26日に日本で2.26事件が起こり、日本の内政は混乱し、1937年7月の盧溝橋事件を経て日本は中国の成長を理解できないままに日中戦争、太平洋戦争へと突き進んでいく。

1937年3月に林銑十郎内閣の佐藤尚武外務大臣は幣原外交の流れを汲んで、戦争を回避し、中国と平等の立場で国交を調整することを含む平和外交4原則を打ち出したが、林内閣は4か月の短命に終わった。その後の近衛内閣の広田弘毅外務大臣が、満州国黙認を打ち出したので、蒋介石との対立は決定的となった。

1937年7月7日に盧溝橋事件が勃発し、その10日後第2次国共合作が成立し、中国が抗日で統一された。近衛内閣は大規模な武力行使で国民政府を屈服させる方針を決定し、戦火は北京、天津、上海と拡大し、日中間の全面戦争に発展した。12月には南京入城後、大規模な虐殺暴行事件が発生し、全世界の非難を浴びた。

翌1938年1月に近衛首相は「爾後国民政府を対手(あいて)とせず」との声明を出し、中国との外交関係を断絶させた。蒋介石にとってこれは国際的にも前例のない「狂気の沙汰」に思え、近衛も後々後悔したという。

最近日中戦争と太平洋戦争を、”アジア・太平洋戦争”と呼びなおそうという動きが出ている。

一般的には太平洋戦争と呼ばれてきたので、なにかフィリピンとかビルマなどでの死者が多いような印象を受けるが、実は日中戦争で中国・満州で亡くなった兵士の数が最も多い。

以前靖国神社の遊就館を訪問した時に、軍神として祀られている戦死者は、中国戦線で亡くなった人が多いことに驚いた。日中戦争を拡大した当時の指導者・軍部の「狂気の沙汰」の犠牲になって、70万人もの人が戦死しているのだ。


蒋介石の日本国民への呼びかけ

盧溝橋事件から1年後の1938年7月7日に、蒋介石は「日本国民に告ぐるの書」を発表し、「中日両国はもともと兄弟の邦(くに)であって」で始まる文は、日本軍の毒ガス攻撃や人道にもとる残虐行為を非難しながらも、日本の軍部は中国と日本国民の公敵であり、日本国民に対して軍部の侵略政策を変更させ、「平和と秩序を恢復(かいふく)し、中日相互親睦を実現し、東亜永遠の平和を樹立するよう切望する」と呼びかけている。

ちなみに三笠宮殿下は「若杉参謀」という変名で、太平洋戦争中の1943年1月に中国に赴任し、1年後離任するときに「蒋介石が従来日本軍閥云々と宣伝しているのは、無理からぬことだと感じた」と後に語っている。


蒋介石の対日戦略

蒋介石の対日戦略は、1.広大な国土を利用して持久戦、消耗戦に持ち込むこと、2.国際世論を味方につけること、3.外国の支援を獲得し、夷(外国)を以て夷を制することだった。

妻の宋美齢の米国コネクション、蒋介石の抜群の情報収集力がこの戦略の実現を可能にした。前回のあらすじで紹介したゾルゲが入手したドイツが独ソ不可侵条約を破棄してソ連を攻撃するという情報も蒋介石は入手して、ルーズベルトに教えていたという。

蒋介石の対日戦略は日独伊三国同盟で、日本が米英と敵対することが明白となって確立し、1941年12月8日の真珠湾攻撃で完成した。

日中戦争中は米国が義勇軍ということでフライング・タイガースなどの軍事援助を行い、蒋介石に大量の武器を供与した。

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出典:Wikipedia

中国滞在経験が10年で中国語に堪能なスティルウェル将軍が派遣され、ルーズベルトはスティルウェルに全中国軍の指揮権を与えるように蒋介石に指示したが、蒋介石は反発し、スティルウェルは召喚された。

談笑する蒋介石・宋美齢夫妻とスティルウェル将軍

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出典:Wikipedia

この辺はバーバラ・タックマンの「失敗したアメリカの中国政策」が取り上げている。

失敗したアメリカの中国政策―ビルマ戦線のスティルウェル将軍失敗したアメリカの中国政策―ビルマ戦線のスティルウェル将軍
著者:バーバラ・W. タックマン
朝日新聞社(1996-02)
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戦後処理での蒋介石の役割

第2次世界大戦の大勢は決し、蒋介石は1943年11月のカイロ会議に参加する。

カイロ会議ではチャーチルは蒋介石と宋美齢に好感を持ち、「スターリンは人のへそを見て話すが、蒋介石はまっすぐに自分の目を見て話す」と印象を記している。

もともと米英中ソ4か国会議を予定していたが、スターリンの反対でまずカイロで米英中3カ国会議が行われ、その後テヘランで米英ソ3カ国会議が開かれるという変則開催となった。スターリンはその後のヤルタ会談でルーズベルトから対日参戦の代償をしっかり取り付けて、戦後の中国の役割は無視された結果となった。

宋美齢は1943年に訪米し、上下両院で演説し、抗日戦での中国への支援を訴え、米国民の同情を得た。


「以徳報怨」演説と戦後処理

蒋介石は終戦が決まった1945年8月14日にラジオで「抗戦勝利にあたり全国軍民および全世界の人々に告げる演説」として有名な「以徳報怨」を放送した。

中国政府は日本軍将兵を俘虜と呼ばず、「徒手官兵」と呼んで、日本軍105万人、居留民80万人の早期送還を実現した。しかし北支方面では共産軍が武器引き渡しを要求し、共産軍の攻撃により戦後7,000名もの兵士が戦死した。国民党と共産党の争いがもう始まっていたのだ。

蒋介石はA級戦犯リストを48名から12名に削り、近衛文麿も軍部の操り人形として戦犯リストから外した。日本占領軍に中国が派兵しないのでソ連も派兵の機会を失う結果となった。

中国は対日賠償請求も放棄し、日本の経済復興を助けた。フィリピンのキリノ大統領にも働きかけ、対日賠償請求を80億ドルから5億5千万ドルに減額させた。


台湾に退去

アメリカの仲介で、終戦直後から蒋介石と毛沢東は国共共同政府樹立のため会談を重ねたが合意に至らず、トルーマンが中国への余剰武器輸出を禁止する一方、ソ連は満州の日本軍の武器を共産軍に引き渡したため、次第に国民党軍は劣勢となった。

1948年末には中共軍は満州、華北を制圧し、蒋介石は1949年1月に国民政府総統を辞任し、4月に台湾に移った。

台湾では1947年2月28日に規律ある日本の統治に慣れていた本省人(台湾人)の騒擾を国民党軍が武力弾圧し、3万人近い犠牲者を出す惨事となった。これが2.28事件である。

台湾行政長官の陳儀は蒋介石と同郷で日本の陸軍大学まで卒業した知日家だったが、共産側への寝返りを計画して捕えられ、2.28事件の責任も問われて1950年に公開銃殺された。


台湾の孤立化

1950年1月に英国の労働党アトリー政権が自由圏の大国としては最初に中共政府を承認した。その直後の1950年6月に北朝鮮の侵攻で朝鮮戦争が始まった。蒋介石も軍隊の派遣を申し出たが、トルーマンは蒋介石の派兵提案を拒否し、大陸侵攻をあきらめることも約束させられた。

朝鮮戦争については、ディヴィッド・ハルバースタムの「ザ・コールデスト・ウォー」のあらすじを紹介しているので、参照願いたい。スターリンという虎の威を借りたキツネとしての金日成の姿が良く分かる。

ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争 上ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争 上
著者:ディヴィッド・ハルバースタム
文藝春秋(2009-10-14)
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トルーマン政権の後のアイゼンハワー政権は台湾積極支援に転換し、1958年の金門・馬祖島の砲撃戦を軍事援助した。


旧日本軍人の軍事顧問団

蒋介石は1949年に終戦時のシナ派遣軍総司令官だった岡村寧次元大将に協力を求め、富田直亮元陸軍少将を団長とする17名の旧日本軍人の軍事顧問団がひそかに台湾にわたって国府軍の訓練を指導した。

蒋介石の後を継いだ蒋経国は、後任総統に李登輝を起用した。国民党政権下で台湾は経済発展を遂げ、世界でも有数の外貨準備高を誇る国となった。

日本との関係は1972年の田中角栄首相の日中国交回復から正式な外交関係はなくなったが、台湾は世界で最も親日国であり、東日本大震災の時も最も多額の民間義捐金を集め日本の復興を支援している。

蒋介石は1960年代から健康が悪化し、数度の心筋梗塞を経て、1975年87歳で亡くなった。

関さんは最近の周辺国との領土問題における居丈高な中国政府の姿勢を見るとき、西安事件以降、中国との関係調整に失敗し、中国共産党の大陸制覇に結果的に力を貸した日本の軍閥と為政者の愚を思うことしきりだと書いている。

「蒋介石の挫折に加担しなかったら、日中関係ははるかに友好的で円滑なものとなり、あるいは欧州共同体に匹敵するようなものがアジアに実現していたかもしれない」と結んでいる。

歴史にIFはないが、蒋介石という親日的指導者が中国を統一していれば、戦後の世界情勢は全く違ったものになっただろう。

筆者は1983年に湖南省の毛沢東の生家を訪問したことがある。今度は淅江省や台湾の蒋介石ゆかりの場所を訪問してみようと思う。

他の本も読みこんで、このあらすじを書いたが、関さんの表現は中立的であり、偏った点は見られない。一冊で蒋介石と20世紀前半の日中関係をコンパクトにまとめた良書である。


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Posted by yaori at 00:53│Comments(0)TrackBack(0)歴史 | 関榮次

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