2013年01月14日

グル― 真の日本の友 大戦直前の駐日米国大使ジョセフ・グル―の伝記

+++今回のあらすじは長いです+++

グルー―真の日本の友 (ミネルヴァ日本評伝選)グルー―真の日本の友 (ミネルヴァ日本評伝選)
著者:廣部 泉
ミネルヴァ書房(2011-05-06)
販売元:Amazon.co.jp

太平洋戦争勃発前の1932年から10年間駐日米国大使として戦争回避に尽力し、戦争が始まった後は、帰国して20年ぶりに国務次官に復帰し、戦争末期には日本の天皇制維持のために尽力した米国外交官・ジョセフ・グルーの伝記。


グルータワー

東京赤坂の米国大使館員宿舎には3つの建物がある。一つはペリータワー、2つめはハリスタワー、そして3つめがグルータワーだ。米国では高く評価されているグル―が日本ではあまり知られていない。

吉田茂はグルーを「真の日本の友」と呼んだ。その言葉が真実であることがわかるグル―の伝記である。


ボストンの名家生まれ

グル―(Grew)は1880年にボストンに生まれた。グル―家はベンジャミン・フランクリンマシュー・ペリー(ペリー提督)ともつながりのある名家で、J.P.モルガンとも親類だった。

グル―は創立8年の名門校グロトン校に入学し、当然のようにハーバード大学に進学する。グロトン→ハーバードの2年下にはフランクリン・ルーズベルトがいた。フランクリン・ルーズベルトとは、学内誌「クリムゾン」の編集仲間だった。後に駐日米国大使として大統領に出した手紙には、”Dear Frank”の出だしで始めるものが多くみられる。

ルーズベルトも、大観衆の前で「ハロー、ジョー」と呼びかけて、グル―が赤面したこともあるという仲だった。


外交官を志す

当時の上流階級の習慣で、グル―は大学卒業後、見識と高めるための「グランド・ツアー」に旅立ち、ヨーロッパから中近東と渡り、マレーシアで虎狩をし、マラリアにかかってインドとニュージーランドで療養した。合計18ヵ月かけ、最後は日本経由で米国に帰国した。

その間、インドでのマラリア闘病中に米国総領事館に世話になったのため、実業界に入らせたいという父親の意向に逆らって、外交官の仕事を志すようになった。

グル―は帰国してすぐにダンスパーティで知り合ったアリス・ペリーと結婚する。

アリス・ペリーはペリー提督の兄のオリバー・ペリーのひ孫で、父のトマス・サージャント・ペリーが慶応大学の英文学教授として日本に滞在していたので、日本語がペラペラだった。

グル―は7歳のときに罹ったしょう紅熱のために難聴となってヒアリングに障害を抱えていたので、最初の韓国総領事秘書となるチャンスは実現しなかったが、カイロ総領事代理として外交官としてのスタートを切った。

当時の米国の外交官は、政治任官と、コネ任官で占められていた。その後試験制度が導入され、グル―は無試験で外交官になった最後のクラスだった。

無給のカイロ総領事代理のあと、グルーのマレー虎退治武勇伝を気に入ったセオドア・ルーズベルトの推薦でメキシコ大使館付3等書記官となり、はじめて有給の外交官となった。


外交官として出世

グル―はサンクト・ペテルブルク、ベルリン、ウィーン、2度目のベルリンに駐在し、2度目のベルリンで第1次世界大戦を体験した。米国参戦とともに米国に帰任し、終戦後パリ講和条約会議に参加する。

デンマーク公使、スイス公使、ローザンヌ条約(近代トルコの領土が確定した西欧諸国との条約)交渉米国代表を経て、1924年にクーリッジ政権の国務次官に就任する。

クーリッジの2期目ではケロッグ国務長官が腹心のオールズを国務次官補を重用したので、1927年にトルコ大使として転身した。

トルコはグルーがローザンヌ会議で一緒に交渉したイノニュが、ケマル・アタチュルク大統領の相棒として首相だったので、すぐに打ち解けた。米土通商航海条約締結や、娘がボスポラス海峡を泳いで渡るなどのイベントもあった。


駐日米国大使に就任

グル―は1932年に駐日大使となる。1942年に捕虜交換船でアフリカのロレンソ・マルケス港経由帰国するまで10年間その職にとどまり、日本と米国の戦争を回避するために尽力した。

本国の国務省では1928年にスタンレー・ホーンベックが極東部長に就任した。ホーンベックは、その後15年間にわたって米国の対日政策を牛耳った。1929年には元フィリピン総督のスティムソンが国務長官に就任している。

グル―が駐日米国大使として日本に着任してからは、日本語の話せるアリス夫人の思いやりのある数々の行動が日本人の心を打った。

たとえば誤って高価な壺を割った執事に対して、「あれは気に入らない壺だったので、処分に困っていた」と思いやったことを、歴代の駐日米国大使に仕えた日本人執事船山貞吉が紹介している。

白頭鷲と桜の木―日本を愛したジョセフ・グルー大使
著者:船山 喜久弥
亜紀書房(1996-02)
販売元:Amazon.co.jp

グル―は樺山愛輔牧野伸顕、牧野の娘婿の吉田茂幣原喜重郎などの穏健派と家族ぐるみで親交があった。

軍関係者では海軍関係者はゴルフなどに参加したが、陸軍関係者は荒木貞夫大将を除いては没交渉だった。

1932年の大統領選挙では、高校・大学の後輩のフランクリン・ルーズベルトが大統領に当選した。

それまでの共和党政権から民主党政権に交代するので、通常は主要外交官ポストは総替えとなる。このためグル―は、"Dear Frank"で始めるレターを出して、年金資格が得られる1934年までは一級ポストに留まれるように頼んでいる。ルーズベルトはこの手紙を受けて、ハル新国務長官にグル―留任の指示を出した。


戦争に向かう軍国主義日本

このころの日本は1931年に満州事変、1932年に国際連盟脱退というように、軍国主義に向かっていた。

フランクリン・ルーズベルト政権の国務長官に就任したのは、たたきあげの民主党員コーデル・ハルだった。それまでスティムソン長官のエスタブリッシュメント出身者優遇の人事に反感を持っていたホーンベックは、ハル新長官に近づき、信頼を得るようになった。その後の極東政策のキーマンとしての地位を確立した。

グル―が大使の頃、ベーブ・ルースヘレン・ケラーが来日している。

1936年の二.二六事件の前の晩はグル―が斉藤実内大臣夫妻と鈴木貫太郎侍従長夫妻を招いて、トーキーを上演した。その翌日斉藤内大臣が暗殺され、鈴木貫太郎が重傷を負い、牧野伸顕が九死に一生を得たことはグレーにとって大ショックだった。

二.二六事件後、広田弘毅内閣が成立する。広田は当初外務省同期の吉田茂を外相に入れたい考えだったが、自由主義者の吉田就任に対して陸軍から横やりが入り、やむなく広田首相兼務の後、有田八郎が外相に就任した。

広田弘毅の秘書官だった岸信介は、首相官邸でグル―に岡田首相の身代わりに秘書官の松尾伝蔵が射殺された現場を見せたという。広田弘毅は通訳も入れず、日米親善が政策の土台であることをグルーに強調した。

1年弱の広田内閣の後は、4か月の林銑十郎内閣の後、1937年6月に第一次近衛内閣が成立する。


日中戦争に拡大

1932年7月7日に盧溝橋事件が起こり、日中戦争の泥沼が始まる。

グル―は共産主義こそ危険な敵であり、日米はパートナーとなれるという自説を説いていた。しかし、日本軍が中国各地に進撃を進めたので、グル―の米国における発言権は低下していた。

グル―の発言が、日本政府そして日本国民の反省を呼び起こしたのは、第二次上海事変の後、日本軍機が米国パネー号を誤爆したパネー号事件の時だった。日本政府は陳謝し、日本国民からの詫び状が米国大使館に寄せられたという。

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出典:本書111ページ

日米関係を少しでも改善させるために、グル―は米国で客死した斉藤大使の遺体の移送にあたり、ルーズベルト大統領にかけあって、米海軍の巡洋艦を手配した。

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本書:120ページ

1939年には一時帰国して、ルーズベルト大統領と2回面談した。国務省幹部とも面談し、対日強硬策は日本の軍部を追い詰め、戦争に走らせる結果となることを訴えた。


第二次世界大戦勃発

1939年9月には、ドイツ軍がポーランドに電撃侵略し、第2次世界大戦がはじまった。

ホーンベックが取り仕切る米国の対日強硬政策は変わらなかった。もはや日本の穏健派は力を失ったとみて、日米通商航海条約の破棄や、航空燃料や鉄くずなどの対日禁輸法案が続々打ち出された。

1940年7月には第2次近衛内閣が成立し、松岡外相、東条陸相が入閣し、日米関係は一層悪化していく。グル―はドイツの勝利が日本人に大きな影響を与えつつあることを感じている。

1940年9月には日独伊三国同盟が成立し、その直後の1940年10月に、グル―は日本の中国進出をいさめる演説を日米協会で行っている。

1941年1月には日本が真珠湾攻撃を考えているという噂が、ペルー公使からアメリカ大使館に伝えられた。グル―はハル長官あてに電報で知らせている。

しかし、はるかに国力が勝るアメリカ相手に日本が戦争など起こすことはないという過信があり、アメリカは本気にしなかった。


日米交渉による戦争回避努力

1941年2月から野村吉三郎元外相が駐米大使となって、その後50回弱開かれる日米交渉がスタートした。

日本の外交暗号はすでにアメリカに解読されており、アメリカは日本の手の内を知って交渉を続けていた。解読結果は”マジック”と呼ばれ、ルーズベルトが”マジック”を待ち望んでいたことはよく知られている通りだ。

このあたりの事情は、このブログで紹介した日米露の3国の資料を分析した「暗闘」のあらすじを参照してほしい。

暗闘(上) - スターリン、トルーマンと日本降伏 (中公文庫)暗闘(上) - スターリン、トルーマンと日本降伏 (中公文庫)
著者:長谷川 毅
中央公論新社(2011-07-23)
販売元:Amazon.co.jp

日本は1941年6月に南部仏印進駐を決定した。このことが、日米関係を決定的に悪化させた。7月には在米日本資産の凍結(これにより日本は貿易取引でドル決済ができなくなった)、8月には綿と食料を除く対日禁輸が成立し、石油輸出がストップした。


事態打開の頂上会議案も不発

強硬策を主張する松岡外相を辞めさせるために、1941年7月に第2次近衛内閣は辞職した。2日後、第3次近衛内閣が成立した。近衛はルーズベルトとの頂上会議を提案する。

グル―はこの頂上会議提案を積極的に評価した。いままで日本の首相が外国を訪問するという前例はなかった。それにもかかわらず、日本が提案してきたことは太平洋の平和は維持されなければならないという強い決意の表れに他ならないと力説した。

ルーズベルトも野村大使を呼んで、「非常に立派」と評価し、「近衛公とは3日間くらいの会談を希望する」と乗り気だった。それを押しとどめたのが国務省の政策を牛耳っていたホーンベックだった。

日本の国内問題が解決されない限り、首脳会談によって問題は解決されないとの立場を繰り返したのだ。ホーンベックの意見を容れたハル国務長官の進言により、ルーズベルトは頂上会談をあきらめた。

石油備蓄を日に日に消費していく日本は、このままでは開戦に追い込まれることをグル―は力説した。しかし、日本が戦争に踏み切ることはありえないとするホーンベックにより牛耳られた米国国務省は動かなかった。


御前会議で戦争準備決定

1941年9月6日の御前会議で、10月末までに外交交渉がまとまらなければ、戦争準備をすることが決定された。

この時の天皇の言葉が、明治天皇の御製「よもの海 みなはらからと 思う世に など波風の たちさわぐらむ」を引用し、平和愛好の立場を強調したものだった。

9月6日の夜、近衛首相はグル―を秘密裏に呼び出し、ハル長官の4原則に全面的に同意すると表明し、「日米関係が現在のような悲しむべき情勢に陥ったのは自分の責任だ。関係を修復できるのも自分だけだということもわかっている。反対する勢力にもかかわらず、自分は全力を尽くす決心を決めた。」と語り、首脳会談実現への協力を依頼した。

グル―はこれを受け、大統領あてにメッセージを送った。同時に、ハル長官とウェルズ次官あての長文の電報で、日本の変化を伝え、ルーズベルト・近衛予備会談で戦争を回避すべきと訴えた。

しかし、この電報はハルからホーンベックに回され、ホーンベックが会談を否定する回答案を作成し、それがハルから野村大使に伝えられた。


東条内閣成立

近衛内閣は10月4日に総辞職し、東条英機内閣が成立する。11月にグル―は日本が「国家的ハラキリ」の挙に出る危険性を強調し、戦争の危険が高まっていると警告した。

東条内閣は11月5日の御前会議で、譲歩案として甲案、乙案を用意する。暗号解読で内容を知っていた米国は、11月26日に日本が受けられるはずのないハルノートを提示する。


日米開戦へ

日本がハルノートを最後通牒と受け止めていることに驚いたグル―は、吉田茂を通じて東郷外相に会うべく申し入れる。しかし、既に開戦決定が出されていたので、東郷外相はグル―に会おうとしなかった。

米国国務省を牛耳るホーンベックはこの期に及んでも戦争はありえないという立場だった。一時帰国した駐日大使館員が、「このままでは日本が自暴自棄で戦争に追い込まれる」と話すと、「歴史上、自暴自棄で戦争を始めた国があるなら、いってみたまえ。」という有名な返事をして、相手にしなかった。

ホーンベックは11月27日付けで、「極東関係問題ー情勢評価とある可能性」という覚書を書いている。この情勢判断の甘さが、終生彼を悩ますこととなった。

「もし賭けをするなら、本官は米日が12月15日以前に『戦争』にならない方に5:1で賭ける。…1月15日以前なら3:1、3月1日以前なら現金を賭ける。」

ルーズベルトは12月7日に天皇に宛てて戦争回避のための電報を打つが、グル―が東郷外相に届けて、天皇への謁見を依頼したのは日本時間12月8日の午前零時となっていた。もはや真珠湾攻撃は止めようがなかった。


捕虜交換船で帰国し、再び国務省へ

日米開戦後、米国大使館員は大使館に抑留された。1942年6月の捕虜交換船で、アフリカのロレンソ・マルケス港経由帰国する。帰国してから、グルーは日本軍は手ごわいことを全米で講演してまわった。

日本の外交暗号が解読されており、米国は日本の出方が手に取るようにわかっていたので、駐日大使館からの進言は重きを置かれていなかったことをグルーは帰国して知ったという。

1944年1月には宿敵ホーンベックが失脚し、グル―は5月1日付けで極東局長として国務省に返り咲いた。そして5月15日にはベストセラーとなった「滞日十年」を出版した。

滞日十年 上 (ちくま学芸文庫)滞日十年 上 (ちくま学芸文庫)
著者:ジョセフ・C. グルー
筑摩書房(2011-09-07)
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天皇制維持に尽力

当時米国では日本占領後の政策を検討しており、グル―は天皇制を存続させて、天皇を占領政策で利用すべきだとの天皇制擁護論を展開する。

ルーズベルトは1944年11月に4選され、老齢のハルに代わって、まだ40代のステティニアスが国務長官となった。ステティニアスは経験豊富なグル―を国務次官に起用した。

1944年末には国務省、陸軍省、海軍省の3者で、戦後処理についての3人委員会が設立され、スティムソン陸軍長官、フォレスタル海軍長官と、ステティニアス国務長官の代理としてグル―が第2回目から参加した。

1945年2月からのヤルタ会議では、ルーズベルトが個人外交として国務省を通さず、ソ連の対日参戦の見返りとして、樺太南部と千島列島の返還を約束していた。このことはルーズベルトが急死した1945年4月に、後継大統領のトルーマンに知らされた。

ルーズベルトの死をヒトラーは狂喜し、日本の鈴木貫太郎首相は哀悼の意を表するという正反対の対応をしている。


原子爆弾完成

このころ原子爆弾が完成間近なことが"new weapons"という表現で三人委員会で報告されている。詳細の記録は残されていない。

1945年5月7日にドイツが降伏すると、翌8日にトルーマン大統領は対日降伏勧告宣言を出している。グル―はトルーマンの演説に天皇制存続の対日メッセージを織り込むべく、天皇制存続がいかに戦争を早く終わらせ、ソ連の勢力拡大を防ぐのに重要かをトルーマンに力説した。

トルーマンは天皇制存続を国務省、陸軍省、海軍省で討議するように指示し、3者会議が開催される。しかし、「ある軍事上の理由」により日本に天皇制存続を呼びかける大統領声明は延期される。原爆が実用化されていたのだ。


原爆投下とソ連参戦回避に努力

グル―はこれにもめげず、今度は元大統領フーバーからトルーマンへの対日問題についてのアドバイスを出させる。

ソ連の勢力拡大は米国にとって不利であること、日本の鈴木貫太郎首相は穏健なので天皇制廃止はないことを明確にすれば、日本は降伏するだろうと提言している。

1945年6月中旬にグル―はトルーマンと再度掛け合い、天皇制存続を認めた無条件降伏案の説得を試みる。トルーマンはそれをポツダムでの3巨頭会議に議題に入れるように指示し。グル―はやむなくそれに従う。

トルーマン説得に失敗した後も、グル―は陸軍長官と海軍長官の説得を続けたが、7月初めにステティニアス国務長官が辞任し、後任は外交にはバーンズが任命され、グル―が国務長官代理として陸軍や海軍と交渉を続けることはできなくなった。

当時のアメリカの世論は、天皇を処刑すべきが33%、天皇を裁判にかけて終身禁固あるいは流罪が36%、何もしないが7%というものだった。天皇制存続にはアメリカの世論は反対だった。

新国務長官のバーンズは、マンハッタン計画を推進してきた人物だった。原子爆弾の威力を試すために原爆投下に積極的であり、それまでに戦争を終わらせる提案には否定的だった。


天皇制存続による早期終戦工作

早期終戦は米兵の戦死者を減らせると主張するスティムソン協調して、グル―は天皇制存続を保証する文言をポツダム宣言に織り込むべく努力する。

そして、統合参謀本部案として「日本国民は天皇を立憲君主として存続させるか否かを決定する自由を持っている」という一文を追加する案を提出した。

しかし、バーンズから意見を求められたハルの助言や、ソ連に対して日本が講和に向けて仲介を依頼してきたことをスターリンが自慢げに話したことから、日本に弱腰とみられないようにとのバーンズの意見が通って、日本へのメッセージはポツダム宣言から削除された。

7月16日に原爆実験成功の知らせがポツダムに届き、7月18日に日本への原爆投下が決定された。その際にスティムソンは、京都を原爆の目標から外すことと、天皇制について配慮すると日本に伝えることをトルーマンに要請した。


原爆投下とソ連参戦

ポツダム宣言を鈴木貫太郎首相は「黙殺」と表明したので、8月6日に広島に、8月9日に長崎に原爆が投下された。8月8日にはソ連が参戦した。

東京では最高戦争指導者会議が開催され、8月10日深夜、天皇の聖断を仰ぎ、ポツダム宣言を「天皇の国家統治の体制を変更するの要求を包含しておらざることの了解のもとに」受諾し、それがスイス政府経由アメリカ政府に伝えられた。

アメリカの返答は、「天皇と日本政府の統治権は連合国最高司令官に"subject to"である、日本政府の最終的な形は日本国民の自由な意思の表明によって確立されねばならない」という穏当なものだった。8月13日、14日の最高戦争指導者会議を経て、8月14日午後11時ポツダム宣言受諾の電報がスイスに向けて打電された。


8月15日に国務次官を辞任

日本が無条件降伏した8月15日に、グル―は自分の仕事は終わったとして辞表を提出して国務次官を退任している。

戦後、グルーは「滞日十年」の印税を国際基督教大学設立、エリザベス・サンダース・ホーム支援、バンクロフト奨学金設立に寄付した。

日本側の逆提案でグル―基金が設立され、日本側からも印税の十倍もの寄付金が集まって、1953年にはグルー奨学金一期生4人がアメリカに留学した。

グレーは1952年に回顧録を出版した。

もし米国政府が駐日大使館からのグル―の意見に従っていたなら、日米戦争は避けられた。開戦後も、自分が言うように日本に対して天皇制存続の確約を与えていれば、早期の戦争終結が可能となり、米兵の損害はより少ないものとなった。それにより原爆投下は避けられ、ソ連参戦も阻止でき、共産主義の拡大を事前に食い止めることができたであろうという主張を繰り返した。

「外交によって戦争を食い止めた外交官という歴史的役割をワシントンによって奪われた」とグル―は終生考えていたという。


日本ではあまり知られていないグルーの日本への好意と戦争回避努力がよくわかる。大変参考になる本である。


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Posted by yaori at 12:08│Comments(0)TrackBack(0) 自叙伝・人物伝 | 政治・外交

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