2013年04月16日

信念をつらぬく 経済産業省出身の古賀茂明さんの自伝

信念をつらぬく (幻冬舎新書)信念をつらぬく (幻冬舎新書)
著者:古賀 茂明
幻冬舎(2013-01-30)
販売元:Amazon.co.jp

以前紹介した「日本中枢の崩壊」の著者、経済産業省出身の古賀茂明さんの自伝。

日本中枢の崩壊日本中枢の崩壊
著者:古賀 茂明
講談社(2011-05-20)
販売元:Amazon.co.jp

現在は「無職」

古賀さんが「日本中枢の崩壊」を出版した時は、まだ経済産業省の官僚だったが、過激な公務員制度改革を推進しようとした関係で反感を買い、ポスト待ちポジションの大臣官房付として2年弱も留め置かれ、ついに2011年9月に経産省を辞職した。

その後は、大阪府市東郷本部特別顧問となった。このポストは月に数回呼ばれて日当は2〜3万円。交通費は新幹線の普通車分で、グリーン車に乗って仕事をするとか、会議に間に合わせるために前日に大阪入りしたりすると、ほとんどお金は残らないという。

他にはテレビのレギュラーコメンテーター、「エコノミスト」、「週刊現代」、「週刊プレイボーイ」連載、そして有料メルマガの発行をしている。職業は「無職」であると。

「日本中枢の崩壊」でも簡単に触れていた、古賀さんの官僚としての仕事ぶりを紹介していて興味深い。


古賀さんの経歴

古賀さんは1955年生まれ。父親は石炭会社に勤めるサラリーマン、母は専業主婦という家庭に生まれた。九州生まれではあるが、3歳の時に東京に引っ越してからは、東京と神奈川に住んだ。

麻布中学に入り、麻布の開放的な雰囲気を楽しむ。1974年に東大文気貌り、法学部に進学してテニスサークルを立ち上げる。法学部の司法試験や公務員試験を目指して勉強にいそしむ雰囲気に慣れず、2年留年する。


官庁訪問での印象

2留だと民間企業に行けないと脅され、公務員試験を受けた。勉強していなかった行政法は一夜漬けでなんとかこなす。10月の合格発表まで待っていると、「官庁訪問は合格発表前にしなければならない」と知らされ、ほとんど内定が終わった9月初めからあわてて官庁訪問を始める。

大蔵省は感じが悪かった。しかし、成績の良さが気に入られ、次回面接を言い渡され、内々定をもらえた。

東大法学部の成績で、「優」は勝ち、「良上(りょうじょう)」は引き分け、「良」と「可」は負けとしてカウントするのだと。古賀さんは成績には全く関心を持っていなかったが、「良上」が3つで、残りはすべて「優」だった。

筆者は公務員試験を受験するつもりはなかったので、「成績ドレッシング」に関心を持っていなかったが、当時の学生票(通信簿)を引っ張り出してきてみると、5勝、8引き分け、12敗だった。これではいいところの公務員は無理だろう。

公務員志望の学生は、教室の最前列に陣取り、熱心に授業をうけて、「優」を増やすべくよく勉強する。もしテストが「良」程度になりそうだと、そのテストを受けるのをやめてしまう。まさに「優」コレクターの「成績ドレッシング」である。

古賀さんが通産省を訪問してみると、「大蔵省とかけもちの学生が抜ける可能性があるから、追加で取っておこう」という段階だったようだが、そんなことはおくびにも出さず、言葉も態度も驚くほど丁寧だった。

仕事も趣味もバリバリこなす若手の課長補佐を紹介され、古賀さんは通産省に行きたいという気持ちが強くなった。しかし入省してみたら、こういったエネルギッシュな人は、ほとんどいなかった。なんのことはない、官庁訪問用の特殊な人材を配置した、巧妙な採用戦略だったことがわかったという。

建設会社に転職していた父親の関係で、建設省も一度だけ行った。最初は「もう大方内定は出しているので、面倒だな」という感じがありありだったが、成績が良いと知ると、前に待っている学生をすっとばして古賀さんを面接し、最初から「うちに来ませんか」と態度が豹変したという。

公務員試験の結果に自信がなかった古賀さんは、会社回りもして、日本興業銀行、日本長期信用銀行、東京海上から公務員志望者枠で内定をもらったという。いまはありえない景気の良かった時代の話だ。


入省後の仕事は人間ソーター

1980年に入省すると、工業技術院総務課に配属された。「1年生が先輩より早く帰るなんてとんでもない」という雰囲気や、「人間コピー・ソーター」、地獄の国会答弁資料作りの様子などが紹介されている。

こういった非生産的な官僚の仕事は、話には聞いていたが、「体験者語る」という形で聞くと、あらためて驚かされる。

先端技術開発をめぐって、通産省と科学技術庁の間で、なわばり争いが起こった。これは通産省から一人理事を出すということで決着した。「天下り先を確保できれば万事OK」という霞が関の考え方に初めて触れたという。

法律を作る場合でも、必ずと言っていいほど推進団体をつくる。たとえば原子力の安全性を担保する法律を作ると、原子力安全基盤機構をつくる。理事長、理事といったポストをつくり、天下り先を確保するのだ。天下りポストをたくさんつくると、官僚は上司から評価されるからだ。

古賀さんは2年目の後半に係長に昇進し、3年目には経済企画庁財政金融課に係長として出向した。国の経済見通しは、実は経済企画庁、大蔵省、通産省の交渉で、「経済成長率の見通しは何パーセントで行きましょう」という風に決めていたという。

もともと役人の大半は法学部出身者なので、経済に関する知識レベルは低い。2年間の経企庁出向で通産省に戻ってくると、「経済のプロ」とみなされるようになったという。

次に古賀さんは大臣秘書官となり、村田敬次郎渡辺美智雄田村元大臣に仕える。

1987年から南アの総領事館に駐在する。釈放されたばかりのネルソン・マンデラを日本領事館のパーティに呼んだら来てくれ、大変な混雑だったという。


課長補佐時代

1990年に帰国して産業政策局産業構造課の課長補佐となり、日米構造協議の取りまとめをする。アメリカの要求が正しいと思えば、それを受け入れるべく省内を説得して回っていたので、「改革派」のレッテルを貼られる。この時に実現したのが、行政手続法、審議会の公開化だ。

労働時間の短縮、少子化問題も手掛けたが、いまだに大きな進展がないのは残念だと。

古賀さんはそもそも官僚にはなりたくなかったし、出世してトップになっても天下り先のあっせんばかり考えているのは性に合わなかった。

その「出世したくない」古賀さんがエリートコースの基礎産業局総務課の筆頭課長補佐になった。

筆頭課長補佐は法令審査委員(その後廃止)も兼任している。法令審査委員会は予算と人事の強い権限があり、課長補佐以下の人事には局長でも課長でも口出しできなかった。

その中でも大臣官房の秘書課、総務課、会計課の筆頭課長補佐は別格で、次官候補とみなされる。

古賀さんは次に大臣官房の会計課の筆頭課長補佐となった。そして「官房長から予算削減の指示が出ている」とウソをついて数百億円の無駄を削減できた。「古賀流事業仕分け」だ。

予算折衝では、各省庁の総務課長、局長、事務次官、大臣の4段階に族議員も絡んでいた。古賀さんは、大蔵省の主査と話して、総務課長と局長折衝を廃止した。


課長に就任

古賀さんは産業政策局に戻り、産業組織政策室長に就任した。誰もが不可能だと思っていた独禁法を改正し、持ち株会社の解禁を実現する。

当時の橋本龍太郎大臣が支持してくれた。公取委の人数を増やし、事務局長を次官クラスに、部長を局長クラス、その下に部長クラスのポストをつくるという公取委の地位を上げる提案をしたところ、公取委は持ち株会社解禁賛成に回った。

1996年に古賀さんはOECDのプリンシパルアドミニストレーターとしてパリに赴任して3年いた。

この時にOECDから発送電分離、電力市場自由化を日本に勧告した。プレスに情報提供して、日本国内でニュースとして流れるように仕組んだという。

1999年にフランスから帰国すると商務情報政策局の取引信用課長、産業技術環境局の技術振興課長を経て、2002年に内閣府の産業再生機構設立準備室の参事官となった。5年間の期間限定で産業再生機構を立ち上げる。

銀行は当初、産業再生機構を行員の出向先として考えていたが、銀行からの出向は断った。

企業再生のプロを雇って、自前の人材で運営し、4年間でカネボウやダイエーなど40社の再生を手がけ、利益を上げて300億円の税金を払い、解散後は400億円を国庫に納めることができた。


経産省でKYとみなされる

2004年に経産省に戻り、経済産業政策局経済産業政策課長となる。各局の筆頭課長が集まる「政策調整官会議」で、経産省で当時発覚した「裏金問題はもっとしっかり調査すべきだ」などと発言して、KYとみなされる。

産業構造審議会に「基本政策部会」を作ろうとして当時の局長と対立し、「勝手にやれ」と言われて、部会を立ち上げると、半年で中小企業庁の経営支援部長に左遷された。


大腸ガンに罹り九死に一生を得る

1年後に中小企業基盤整備機構に理事として出向、その時に下血して大腸ガンが見つかり、大手術の上復帰を果たす。

1年後に産業技術総合研究所へ理事として出向中に、福田内閣で公務員制度改革基本法の制定を推し進める渡辺喜美さんに呼ばれ、内閣府の「国家公務員制度改革推進本部」の幹部として2008年7月に就任する。

1か月後渡辺喜美大臣が退任させられた。しかし、堺屋太一氏や屋山太郎氏などをまねいた顧問会議の支援を得て、2009年3月に「国家公務員法改正案」が麻生内閣から国会に提出されたが、不成立に終わる。

2009年9月に民主党政権が誕生し、当初は仙谷大臣より補佐官就任を要請されたが、霞が関の反対で実現しなかった。公務員制度改革推進本部幹部は全員更迭、古賀さんは経産省に大臣官房付として戻った。

民主党内閣は、公務員の「退職管理基本方針」を打ち出し、仕事はないが給料は高い「専門スタッフ職」をつくったり、「現役出向」で民間企業へ天下りの抜け道をつくる方針をだしてきた。これは民主党の「脱官僚、天下り根絶」の方針とは全く逆のものだった。

長妻大臣はこの動きに抵抗した。厚生労働省だけはこれを認めないとしたことで、官僚のクーデターに会い、更迭の憂き目を見た。官僚にとってはそれほど重要な骨抜き工作だったのだ。

古賀さんはなんとかこの動きを阻止すべく、実名で民主党の政策を批判する論文を書き、2010年6月29日、「週刊エコノミスト」に「現役経産官僚が斬る『公務員改革』消費税大増税の前にリストラを」という題で論文が掲載された。

「退職管理基本方針」は記事が載った翌日に閣議決定されたが、「専門スタッフ職」創設にはストップがかかった。


このようにもっぱら古賀さんの経歴を語っている。

はっきりいって、打たれるべくして打たれたクイである。本を出す目的がよくわからない本というのが、率直なところだ。

ともあれ、経産省での仕事のやりかたなどは参考になる本だった。


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Posted by yaori at 23:33│Comments(0) 政治・外交 | 古賀茂明