2013年09月02日

ロゼッタストーン解読 フランスが発見しイギリスが持ち帰った碑文をフランス人が解読

ロゼッタストーン解読 (新潮文庫)
レスリー・アドキンズ
新潮社
2008-06-01


成毛眞さんの「面白い本」に紹介されていたので読んでみた。

面白い本 (岩波新書)
成毛 眞
岩波書店
2013-01-23


成毛さんの本では、1ページ半で簡単に紹介されているだけだが、300ページ以上の本である。

ナポレオン・ボナパルトは1769年コルシカ島の小貴族の息子として生まれた。フランスで軍人となり、フランス革命の時に、市民革命の波及を恐れてフランスを攻めたオーストリアなどのヨーロッパ諸国を撃退して一躍名を挙げた。

ナポレオンは当面の敵・イギリスに攻め込むには、海軍力が不足しており、まずはイギリスのインド交易路を断って、イギリスの財源を断つという作戦に出た。

そして1798年6月400隻の船に乗った約4万人のフランス軍がエジプトのアレキサンドリアに到着した。この時ナポレオンは150人以上のフランス学士院会員の学者を伴っていた。

ナポレオンはアレキサンダー大王の後継者を目指していたので、アレキサンダー大王の東方遠征でヨーロッパ文化がアジアに伝わったことを意識していた。ナポレオンのエジプト遠征は文化的使命も担っていると考えていていたようだ。

このエジプト遠征時にアレキサンドリアの東のロゼッタでフランス兵が発見したのがロゼッタストーンだ。1799年8月のことだ。

ロゼッタストーンは高さ1.2メートル、重さ700キロ以上の大きさで、ヒエログリフ、ギリシャ語、それとデモティックと呼ばれる民衆文字(コプト古語)で紀元前204年から180年まで在位したプトレマイオス5世エピファネスの偉業をたたえるために紀元前196年に作られた神官の布告だった。

ヒエログリフを学ぶ本の表紙にロゼッタストーンの写真が載っているので紹介しておく。



フランス軍はエジプトに攻め入ってきたトルコ軍を打ち負かし、それなりに奮戦していたが、いずれ補給が絶えてしまう恐れがあった。

フランス国内では、王党派が王政復興を画策していた。反クーデターがあるとのうわさを聞きつけたナポレオンは、エジプト遠征を自ら放棄して、フランスに戻ってしまう。タイミングよく1799年11月のクーデターの主導権を握り、その5年後の1804年には皇帝に戴冠した。

ナポレオンがエジプトを去ると、全権を委ねられたクレベール将軍は、すぐにイギリスと交渉を始め、1800年初頭に現地で合意が成立した。

学者たちはロゼッタストーンなどの収集品を船に積み込んで出航を待っていたが、イギリス本国はフランスの無条件降伏以外は認めず、結局帰国は1年半も遅れ、ロゼッタストーンはイギリスに没収された。

大英博物館に行ったことがある人なら、みんなロゼッタストーンを見たことがあると思う。これがフランスが発見したロゼッタストーンが発見国のルーブル美術館でなく、大英博物館にある理由だ。

ロゼッタストーンの碑文は、すぐに拓本がつくられ。ヨーロッパ中の学者に配布された。

ヒエログリフは次のような文字で、象形文字(いろいろな鳥とかヘビなど)、表意文字、そして表音文字の3つの機能がある。さらに「決定詞」と呼ばれる冒頭について敵や外国人を表すものもある。

ヒエログラフ







出典:本書194−5ページ

古代エジプトで使われていたが、ローマ支配下ではヒエログリフは使用されなくなった。キリスト教台頭とともに、異教徒の寺院や碑文と結びついたヒエログリフは禁止され、紀元394年にエジプトのアスワン近くの神殿に記されたヒエログリフが最後だと言われている。

ヨーロッパ中の学者がロゼッタ碑文によりヒエログリフの解読を試みた。

最初に一部解読に成功したのはイギリス王立研究所の教授で医者・学者のトーマス・ヤングだった。ヤングは外国名のヒエログリフ解読にはある程度成功したが、エジプト名の解釈で多くの間違いを犯した。ちなみにヤングは物理学者としても有名で、力学の「ヤング率」に名前を残している。

この本では、ヤングが解読した「プトレマイオス」や外国人名と、正しい読み方の比較表を載せており興味深い。

一方、フランスの南西部の小さな町フィジャックで1790年に本屋の末息子として生まれたジャン・フランソワ・シャンポリオンは、フランス革命で学校が閉鎖されていたため、兄や家庭教師の教えを受けて、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語、アラビア語、シリア語などをマスターし、のちにはキリスト教徒が使うエジプト語であるコプト語もマスターした。

「シュリーマン旅行記」や、ヘッセの「車輪の下」のあらすじでも記したが、昔の人は本当にスゴイ。これだけの語学をマスターしている人がゴロゴロいたのだ。

シュリーマン旅行記 清国・日本 (講談社学術文庫 (1325))
ハインリッヒ・シュリーマン
講談社
1998-04-10


車輪の下 (集英社文庫)
ヘルマン・ヘッセ
集英社
1992-01-17


シャンポリオンは、フランス学士院のアカデミー会員に選ばれた。

グルノーブルの大学や図書館で働く兄のジャック・ジョゼフの力も借りて、シャンポリオンは天性の語学の才能を生かし、1808年からロゼッタストーンの解読に取り組んだ。

当初は簡単な仕事と見られていたロゼッタストーン解読だが、ヒエログリフは複雑な仕組みでできていることがわかり、解読開始から14年近く経った1822年9月、シャンピリオンはロゼッタストーンの解読にとうとう成功する。

解読に成功したことをグルノーブルのフランス学士院に勤務する兄に伝え、そのまま倒れて5日間寝込んだといわれている。

1822年9月27日にパリの碑文アカデミーの会合で、シャンポリオンはヒエログリフの解読に成功したことを発表した。その時たまたまパリに来ていたイギリスのトーマス・ヤングは、碑文アカデミーの会合でシャンポリオンの隣に座って、彼の発表に立ち会った。

それまでヤングを含む何人もの学者がヒエログリフの解読に成功したと発表していたが、シャンポリオンはそれまでの説を否定し、ヒエログリフの表音文字は、外国名のみに限定されるのではなく、エジプト語にも広く使われ、基本的に3つの機能があると発表した。

たとえば次のアヒルを示す象形文字は、アヒルを意味すると同時に、表意文字として「の息子」という意味もあり、また表音文字として「サ」という音にもなる。

img569_081226hierogrif_onagagamo






出典:インターネット検索

この論文は、のちに「ダシエ氏への書簡」というタイトルで出版され、シャンポリオンのヒエログリフ解読者としての地位を確固たるものにした。

いままで知らなかったナポレオンのエジプト遠征やヒエログリフ解読のいきさつがわかり、参考になった。330ページと長く、本題とあまり関係ない部分もかなりあるので、それらはスキップして読んでも良いと思う。

スフィンクスの鼻はナポレオンの軍隊が壊したという俗説があるが、どうやらそれはウソのようだ。

ヒエログリフの本物がYouTubeに載っているので紹介しておく。



興味のある人は、次の本を読んでヒエログリフをマスターしても面白いと思う。

ヒエログリフを書こう!
フィリップ アーダ
翔泳社
2000-06



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Posted by yaori at 12:15│Comments(0)TrackBack(0) 自叙伝・人物伝 | 歴史

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