2019年09月03日

明治を食いつくした男 大倉喜八郎 大倉財閥の創始者



大成建設帝国ホテルサッポロビールリーガルコーポレーションなどを設立した大倉グループの創始者の大倉喜八郎の伝記。

今度1万円札の肖像となる渋沢栄一と同時代で、一緒に鹿鳴館東京電力帝国ホテル帝国劇場東京商工会議所などの設立に貢献して、日本の産業振興に貢献したが、知名度はあまりない。

大倉喜八郎と渋沢栄一 (2)

























出典:本書P5

「明治を食いつくした」というタイトルがついているが、別に明治政府に癒着して甘い汁を吸ったなどというようなことはないので、なぜこんなタイトルがついているのかわからない。

大倉喜八郎は、明治維新前に新潟県の新発田市で生まれ、上京して鰹節屋の丁稚となり、すぐに独立して乾物屋、それから武器商人となり、31歳で明治維新を迎える。

これからは平和が時代が来ると先読みして、武器商人としての限界を感じた喜八郎は、1872年に民間人初の長期欧米視察旅行に出る。

このときに欧米を視察していた岩倉使節団と一緒になり、木戸孝允大久保利通岩倉具視伊藤博文らと知り合う。

帝国大学初代総長の渡辺洪基とも、この時に知り合った。のちに渡辺は帝大総長退任後、喜八郎が設立した大倉商業学校東京経済大学の前身)の校長に就任した。

1873年に岩倉視察団が帰国、喜八郎も帰国して、すぐに大倉組商会を設立し、翌1874年に日本企業で初めてロンドンに海外支店を設立する。商社としては、三井物産、伊藤忠商事、三菱商事などとほぼ同じ時期の創立だ。ちなみに、住友商事は今年100周年なので、ずっと後発となる。

大倉組はその後、貿易、建設、ビール、皮革製造、化学工業など多角的に事業活動を拡大した。

帝国ホテルは、日本を代表するホテル建設の必要性を感じた大倉喜八郎が渋沢と二人で総代となって1890年に開業した。筆頭株主は宮内省、建設は大倉土木が共同で請け負った。初代理事長は渋沢、渋沢の後を喜八郎が引継ぎ、1922年に息子の喜七郎が引継ぎ、財閥解体で大倉家から離れた。

旧帝国ホテルの売り物は、フランク・ロイド・ライトが設計したライト館だ。ライト館は改築の際に明治村に移設されている。

Imperial_Hotel_Wright_House















出典:Wikipedia

ライト館は1919年に建設工事が始まったが、完璧主義者のライトは石材から調度品の木材の選定に至るまでこだわり、予算が当初の150万円から900万円にふくれあがった。ライトは完成を見ずに帰国、1923年7月にやっと完成した。

直後の1923年9月に関東大震災が起こり、付近の多くの建物は軒並み倒壊や火災が発生したが、ライト館は小規模被害しかなく、帰国していたライトを狂喜させたという。

筆者は米国のピッツバーグに駐在していたので、ピッツバーグ郊外にあるライトの代表作のFalling Water(富豪のカウフマン家の別荘だった)は何度も見学した。

Wrightfallingwater











































出典:Wikipedia

別荘の中を小川が流れ、小さな滝もある。ライトはそこの家具の材質まで指定していたと言っていた。どこでも同じく完璧性を追求していたのだ。

ちなみに帝国ホテルのパンは、ハルピンのグランドホテルに宿泊した喜八郎が、パンのおいしさに驚き、そのパンをつくったアルメニア人イワン・サゴヤンを迎え入れてパンの品質を向上させたのだという。

この本では明治時代に活躍した実業家も、大倉喜八郎として対比して紹介している。明治30年(1897年)の所得税調査では、次のような納税額となっている。三菱財閥の創始者の岩崎弥太郎は1885年に亡くなっているが、依然として三菱財閥が他を圧倒していたことがわかる。

岩崎弥之助(三菱財閥2代目当主) 92万円
岩崎久弥(三菱財閥3代目当主)  15万円
三井源右衛門            8万円
三井武乃助             8万円
渋沢栄一郎             8万円
三井三郎助             7万円
大倉喜八郎(19番目)       5万4千円

安田財閥の創始者で東大の安田講堂に名を遺す安田善次郎と大倉喜八郎は、明治維新時に30歳前後で、ほぼ同じ年齢だ。岩崎弥太郎は明治維新時に34歳だった。

大倉喜八郎は台湾、朝鮮、満州で積極的に事業を拡大し、旧満州の本渓市に本渓湖炭田を開発したり、今も残る本渓鋼鉄を設立したり積極的に活動していたが、敗戦ですべての海外資産を失っている。

台湾での殖産興業のために、大倉喜八郎が当時の台湾総督の乃木希典を訪問しようとしたら、乃木は「本官は商人との直接の交渉は望まぬ。止むを得ざる場合は5分間を限り面会することにしている」という直立不動の姿勢だったことを紹介している。

その後乃木が児玉源太郎総督に交代し、その民生長官として着任した後藤新平が手腕をふるって、大倉財閥の台湾の事業も拡大した。

喜七郎は帝国ホテルの会長だったが、戦後公職追放にあい、持ち株も売却を迫られたので、帝国ホテルの経営権を失い、代わりに1958年に設立、1962年に開業したのがホテルオークラだ。

ホテルオークラ本館は現在建て替え中で、2019年9月12日の開業予定だ。現在休館中の大倉集古館も近々再開されるのだろう。

ゴルフ場があるリゾートホテルとして有名な川奈ホテル、冬は営業しない上高地帝国ホテルも喜七郎が建設したホテルだ。

大倉財閥は敗戦で資産を失い、また戦後の財閥解体で大倉財閥は解体され、その後も財閥としてはまとまりはなく、多くは安田財閥の系譜を組む富士銀行(現みずほ銀行)の芙蓉グループに統合されるような形となった。

大倉組商会の系譜を汲む大倉商事は1998年に不動産投資の失敗により自己破産している。筆者は入社後の鉄鋼原料の担当だった時代に、銀座にあった大倉商事を訪問したことがある。

たぶん昔からの商権だったのだと思うが、大倉商事がインドの鉄マンガン鉱石の日本の鉄鋼メーカー向け輸入の幹事商社だったので、事務的な打ち合わせのために訪問したのだ。銀座の一等地にオフィスを構えていることが印象的だった。

今は大倉グループとして活動しているわけではないので、あまり目立たないが、上記の様に様々な分野で活躍していたことがわかって参考になった。


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Posted by yaori at 06:00│Comments(0) 自叙伝・人物伝 | 趣味・生活に役立つ情報