2011年02月17日

ヒトはどうして死ぬのか ガンにならないために知っておくべきこと

ヒトはどうして死ぬのか―死の遺伝子の謎 (幻冬舎新書)ヒトはどうして死ぬのか―死の遺伝子の謎 (幻冬舎新書)
著者:田沼 靖一
幻冬舎(2010-07)
販売元:Amazon.co.jp
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東京理科大学薬学部教授でゲノム創薬研究センター長の田沼 靖一さんの細胞死の研究とゲノム創薬の最新の動きのレポート。

このブログで紹介したベストセラー「生物と無生物のあいだ」の著者、福岡伸一教授が「動的平衡」と呼ぶ通り、人間の体の細胞は常に新しいものと入れ替わり、古い細胞は死ぬが個体としては生き続ける。しかしガン細胞が増殖すると、ガン細胞は生き残るが、個体は死ぬ。

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)
著者:福岡 伸一
講談社(2007-05-18)
販売元:Amazon.co.jp
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この本では細胞の新陳代謝、「アポトーシス」と人の寿命との関係を研究し、ガンやAIDS,アルツハイマー病の新薬を開発しようとするゲノム創薬の最先端を紹介している。テーラーメイド創薬という誰でも興味のあるテーマについて最新の発見を紹介している。

細胞には2つの死に方がある。ひとつは膨らみ破裂するネフローシス。打撲などの外部刺激を受けたり、ウィルスなどに感染した細胞はネフローシスを起こす。たとえば鳥インフルエンザに感染したニワトリの体は溶けてなくなってしまうのを、テレビなどで見たことのある人も多いと思う。

もうひとつは1973年にイギリスの病理学者に命名されたアポトーシス。細胞が委縮し、細かいブドウの粒のようになってしまう。これは細胞の自死で、外部からの刺激はない。それゆえ「プログラムされた細胞の死」と呼べるのである。

アポトーシスは生物の体の器官を形作る際にも大きな役割を果たす。たとえば手の指が分かれること、水鳥の足に水かきがあることなど、すべてアポトーシスによる成形である。イモムシがサナギとなり蝶となるのもアポトーシスのおかげである。

生物は「性」によって遺伝子組み換えが可能となり、変化に強い生物のみ生き残ることができる体制が取れたが、逆に不適合な遺伝子も排除する必要性が生じた。それがアポトーシスであるという。

人間の体は毎日ステーキ一枚分、200グラムくらいの細胞が分裂して常に入れ替わっているが、細胞分裂の限界は50~60回である。これが人間の寿命の最大値を決定し、それは約120歳だという。一方、脳の神経細胞や心臓の心筋細胞など、再生しない細胞もある。これらはいずれ寿命がきて死んでいき、再生することはない。

個体の死が必要な理由は、古くなってキズを負った細胞をそのまま増殖させると、古い遺伝子が残り、結局生物は生き延びられなくなるからではないかと。

日本では3人に2人はガンに罹り、がん患者のうち3人に一人は亡くなっている。細胞がキズを負うことで、ガン化し、ガン細胞は死を忘れた不死の細胞だ。

そのガン細胞を退治するのが免疫細胞である。喫煙や紫外線、生活習慣病などで免疫細胞の働きが弱まると、ガンが無限に増殖し、やがては人の器官の機能が失われ、人は死ぬ。

ひとつの免疫細胞はひとつの抗体しか作れないが、遺伝子組み換えにより、異種の免疫細胞が誕生し、異種の抗体をつくる。免疫細胞における遺伝子組み換えの仕組みを解明したのが、1987年にノーベル生理学・医学賞を受賞した利根川進博士である。

精神と物質―分子生物学はどこまで生命の謎を解けるか (文春文庫)精神と物質―分子生物学はどこまで生命の謎を解けるか (文春文庫)
著者:立花 隆
文藝春秋(1993-10)
販売元:Amazon.co.jp
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免疫細胞は不良品や、不要品も生成されることから、これらの在庫処分を行うのが、自死メカニズムであるアポトーシスだ。

ガン細胞に死のシグナルを与える物質がゲノム創薬で研究されている。ガン細胞の遺伝子を研究し、その遺伝子に効く化学物質を調合し、ガン細胞に自死を起こさせるのだ。

いままでの製薬研究では、一種類の薬しか開発できなかった。だから人ごとに遺伝子が異なるので薬が効く人がいたり、副作用がある人もいた。ところがゲノム創薬であれば、個人別に効く薬を調合できる。これがテーラーメイド創薬である。

テーラーメイド創薬では、タンパク質の構造情報からコンピューターシミュレーションで化合物を設計する。

日本では、生物、情報工学などと専門分野が分かれている関係で、まだこのコンピューターシミュレーションがつくれるソフト技術者が育っていないという。

最後に田沼さんは、「人間が生きていく意味は、社会のため、他者のために存在し、次世代に何かを遺していくことにある」と語り、これが自然の摂理であると説く。

リチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」を想起させる結論である。

利己的な遺伝子 <増補新装版>利己的な遺伝子 <増補新装版>
著者:リチャード・ドーキンス
紀伊國屋書店(2006-05-01)
販売元:Amazon.co.jp
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先日筆者のラグビー部の先輩がガンで亡くなった。まだ62歳だった。この本を読んで何で人がガンで死ぬのか、あらためてよくわかった。

実は筆者は子供の時、夜驚症だった。寝ていて自分の目の前が黒ですべて塗りつぶされてしまうというのが怖くて泣きだして、気が付いたら大人に抱かれていたという記憶がある。ガンが進行するというのは、ちょうどそれと同じようなイメージなのだろう。

ガン細胞は遺伝子のコピーミスで毎日5,000個ほど誕生しているが、免疫細胞が退治しているので、ガンにならないという。今更ながら健康診断や定期的人間ドックの重要性を認識した。


タイトルの通り、人はどうして死ぬのかを再確認する事は重要だ。一読の価値がある本だと思う。


参考になれば投票ボタンをクリックして頂きたい。

  
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2010年11月20日

祝! ミッションコンプリート! はやぶさの大冒険 山根一眞さんのレポート

2010年11月20日追記

はやぶさのイオンエンジンを開発したNECが特別サイトで、はやぶさに関する情報を公開している。

NEC hayabusa







その中にはイオンエンジンの写真もある。

ion engine3










ion engine







ion engine2





出典:いずれもNEC チーム「はやぶさ」の挑戦 原出典:JAXA

NECの企業広告サイトだが、NHKの「プロジェクト X」のような仕立てで、参考になる話がいくつも紹介されているので、はやぶさについて詳しく知りたい人はNECの特設サイトをチェックすることをおすすめする。


2010年11月17日追記

先週山根一眞さんの「はやぶさの大冒険」のあらすじを掲載したが、はやぶさが持ち帰った粒子はイトカワのものであることが判明した。

イトカワ微粒子






出典:JAXA

JAXAは11月16日に記者会見し、この本でもいつも冷静と紹介されている責任者の川口さんが大変感激しているのが印象的だった。

打ち上げ当初、すべて成功したら「500点満点」と発言したことが引用され、「500点満点の成果」と報道されている

500点満点というのは聞いたことがないが、いずれにしても”mission complete"であることは間違いない。

以下のあらすじでも紹介している通り、、「東京から2万キロ離れたブラジルのサンパウロの空を飛んでいる体長5ミリの虫に弾丸を命中させるようなもの」で、なおかつイトカワの粒子を無事持ち帰ったことは、たしかに500点満点といってもよいと思う。

山根さんの本もアマゾンの売り上げランキングで、なんと72位に入っている。はやぶさ関係の本がいくつも出ている中で、ダントツの人気だ。

やはり7年間もかけてしっかりと取材した本は他とは違うことが、手に取ってみると消費者にもわかるのだろう。

イトカワ粒子確認を祝って、山根さんの本のあらすじを再度掲載する。


2010年11月12日初掲:

小惑星探査機 はやぶさの大冒険小惑星探査機 はやぶさの大冒険
著者:山根 一眞
マガジンハウス(2010-07-29)
販売元:Amazon.co.jp
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メタルカラーの時代などの作品で知られるノンフィクションライターの山根一眞(かずま)さんが、小惑星探査衛星のはやぶさを打ち上げ前からフォローして書いたレポート。

メタルカラーの時代〈1〉 (小学館文庫)メタルカラーの時代〈1〉 (小学館文庫)
著者:山根 一眞
小学館(1997-12)
販売元:Amazon.co.jp
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はやぶさが7年間の宇宙飛行を終えて地球に帰還して、一躍注目され、いくつか本が出版されたが、その中でも打ち上げ前からフォローしている山根さんの本は際立っている。

この本を読むとはやぶさ(工学実験探査機)がどうして構想されたか、その目的は何か、はやぶさの構造、そしてはやぶさの7年間の飛行などがわかる。JAXAのホームページではやぶさの写真やイトカワの写真が紹介されているので、是非チェックしてほしい。

はやぶさの宇宙旅行の要点を整理しておく:

★はやぶさの目的:約46億年前に出来たといわれている太陽系の起源を知るため。

大きな惑星では太陽系が出来た頃の物質は中心に集まり、高温にさらされ変成している。また物理的に取り出せないので、できるだけ小さい小惑星の地表の物質を分析することを狙った。

★はやぶさが目ざした小惑星は、日本の宇宙工学の父、糸川英夫博士にちなんで「イトカワ」と命名された。イトカワは直径500メートルのラッコのような形状をした小惑星だ。小惑星は約27万個が発見されている。小惑星の直径は最大900キロメートルから、イトカワのような数百メートルのものまである。

★テレビチャンピオンのラーメン王の佐々木晶現国立天文台教授は、隕石研究家で、はやぶさチームの関係者だった。

ラーメンを味わいつくす (光文社新書)ラーメンを味わいつくす (光文社新書)
著者:佐々木 晶
光文社(2002-01)
販売元:Amazon.co.jp
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★糸川英夫博士は戦前、陸軍戦闘機「隼」の開発にも従事したので、それゆえ探査機は「はやぶさ」と命名されたという。

Nakajima_Ki-43-IIa




出典:以下、別注ない限りWikipedia

★小惑星は時速10万キロで太陽の周りを周回しており、それに着陸するためには、はやぶさも2年間掛けて時速10万キロにする必要がある。

★はやぶさを小惑星に着陸させるのは、「東京から2万キロ離れたブラジルのサンパウロの空を飛んでいる体長5ミリの虫に弾丸を命中させるようなもの」だという。

★はやぶさと交信するのは、長野県佐久市にある臼田宇宙空間観測所の直径64メートル、重量1,980トンという巨大なパラボラアンテナだ。世界で6番目に大きいパラボラアンテナだという。このアンテナは元々ハレー彗星を観測することを想定して建設された。

450px-KICX0248











★イトカワに近づくとはやぶさとの通信は片道16分かかり、しかもイオンエンジン点火中は、通信速度が8bpsしかないので、はやぶさは自分で位置や速度を測り、自律的に飛行する機能が織り込まれている。これははやぶさの先行機、火星探査機「のぞみ」で通信が途絶えて失敗した経験に基づくものだ。

★はやぶさの主動力は直径15センチくらいの大きさのイオンエンジン。2.6KW(地球の位置の出力)の太陽パネルで電気を起こし、キセノンガスを燃料にする。キセノンガスに電子レンジと同じマイクロ波を照射してキセノンイオンを発生させる。

構造は次の図の通りだ。キセノンイオンがマイナス電極に当たると、電極がすぐに消耗してしまうので、イオンの中和器で電極の消耗を防ぐ技術がノウハウだ。

イオンエンジン












出典:本書58ページ

★キセノンイオンの放出エネルギーの反作用で推力が得られるが、イオンエンジンの推力は1グラム程度。わずか1円玉の重さだ。宇宙の真空だから有効となる動力源だ。

★はやぶさを太陽の周回軌道に乗せるためには、地球のそばを通過して、地球の引力を利用するスウィングバイを利用した。これは惑星探査機ボイジャーなどが使ってきた加速法だ。

★007のゴールデンアイにも登場したプエルトリコにある世界最大のパラボラアンテナで、直径305メートルのアレシボ天文台がイトカワの観測データを提供してくれた。

800px-Arecibo_Observatory_Aerial






★はやぶさには、何か異常があったときは、パソコンのように「セーフホールドモード」という観測を中断し、探査機の安全を守る機能がある。

★小惑星のサンプル回収はイトカワを小惑星に接近させ、サンプルホーンだけ接地させて、弾を撃ち込み、舞い上がったかけらを回収する方法だった。

800px-Hayabusa_hover






★はやぶさの動力はイオンエンジンだが、姿勢を保つには3つのリアクションホイールという円盤を回転させて、その遠心力を使う動力と、12基の化学推進エンジンという化学反応で姿勢を変えたり、微調整を行う動力がある。

★はやぶさは2005年11月にイトカワに接地したが、その直後通信が途絶えたので、イトカワに30分も接地したままでいた。「セーフモード」になっていたため、サンプルホーンから実際には金属弾が発射されず、接地で舞い上がったかけらを吸い込んで回収できたかどうか現在解析中だ。

★はやぶさの帰還途上で、燃料モレが発見され、化学推進エンジンは燃料切れで使えなくなり、通信も46日間途絶えた。3基のリアクションホィールのうち1基しか動かず、化学推進エンジンもなかった。イオンエンジンも次第に調子が悪くなり、最後は1基しか動かなくなった。イオンエンジンを使うと燃料切れが心配となるので、太陽の輻射圧を利用してはやぶさの姿勢を変えた。苦肉の策だ。

★それでもはやぶさはイオンエンジン1基という満身創痍の状態でなんとか地球の大気圏に再突入し、予定通りオーストラリア西部のウーメラの砂漠地帯でイトカワのちりを回収したはずのカプセルで地球に帰還した。

山根一眞さんはウーメラ砂漠まで行ってはやぶさから回収したカプセルも見ている。

はやぶさを打ち上げ前から7年間にわたって取材してきたジャーナリストらしく、有終の美というところだ。

はやぶさ関係は他にも本が出ているが、7年間という歳月をかけた取材なだけに、レポーターの山根さん自身が理解して書いているので、技術的な説明もしろうとにわかりやすい。


参考になれば投票ボタンをクリック願う。


  
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2010年10月10日

日本は原子爆弾をつくれるのか NHKスクープドキュメントに関連して

2010年10月10日追記:

NHKのスクープドキュメント「”核”を求めた日本ー被爆国の知られざる真実」が10月3日からNHK総合テレビやBSで放映された。

それのきっかけとなるニュースがYouTubeに掲載されている。



またNHKオンデマンドで有料で配信されている。

NHK核を求めた日本





1964年の中国の核実験成功やインドの核兵器を持とうという動きをにらんで、当時の佐藤栄作政権は、日本の核保有を真剣に検討していたことが報道されている。

当時の内閣調査室で1968年9月に「日本の各政策に関する基礎的研究」というレポートが作成されている。

日本の核政策に関する基礎的研究






日本の核政策に関する基礎的研究結論






NHKの画面から結論の部分を読み取ると次の通りだ(一部画面からは読み取れない部分は筆者推測)。

「結び 要するに、単にプルトニウム原爆を少数製造することは可能であり、また比較的容易である。しかし、近い将来有効な核戦力を創設するというのであれば、前述のような多くの困難が横たわっている。

日本の核戦力創設能力の検討に当たっては、技術的、財政的、人的・組織的条件だけから結論を導き出すことは不可能であり、さらに戦略的、国民心理的、外交的側面について十分に検討することが必要である。」

この研究結果を受け、佐藤栄作首相は米国の核の傘の下に入ることをきめ、訪米時に当時のジョンソン大統領に「日本防衛が核攻撃を含む攻撃に遭った時でも、日本を防衛する」との言質を取っている。

このときのマクナマラ国防長官との面談時に、佐藤首相は「日本の安全確保のために核を持たないことははっきり決意しているのだ。米国の核の傘の下で安全を確保する。」と語っている。

その2ヶ月後、核兵器の絶滅を目ざす、持たない、つくらない、持ち込ませないという非核3原則を表明する。佐藤元総理はこの非核3原則で、1974年のノーベル平和賞を受賞した。

佐藤元首相は非核3原則を世界各国に広めようとノーベル賞受賞スピーチで、そのように呼びかけようと原稿を作成するが、直前にアメリカのキッシンジャー国務長官がアメリカの核戦略を縛るような発言に不快感を示したため、授賞式では非核3原則には触れられなかった。

米国の核の傘の下に入った日本は、唯一の核被爆国にもかかわらず、核軍縮を求める国連決議の大半に反対か棄権している。「日米安保条約で核の傘で守って貰っているのだから、相手(米国)が嫌だということが分かっている決議には、反対か棄権することはしょうがない。」という立場を貫いている。

先月の国連総会での菅直人首相の「唯一の被爆国である日本は、『核兵器のない世界』」の実現に向けて具体的に行動する道義的責任を有している」という言葉が空虚に響く。

ドイツはヨーロッパ各国と連携し、ヨーロッパに配備されている米国の核兵器を撤去するように働きかけているという。

考えさせられるNHKの番組だった。

この番組をよりよく理解するために、米国在住の日本人科学者が書いた「日本は原子爆弾をつくれるのか」を再掲する。


2009年2月20日初掲:

日本は原子爆弾をつくれるのか (PHP新書)日本は原子爆弾をつくれるのか (PHP新書)
著者:山田 克哉
販売元:PHP研究所
発売日:2009-01-16
おすすめ度:1.5
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原子爆弾や量子力学についてブルーバックスなどで入門書をいくつも書いているロサンジェルス・ピアース大学物理学教授の山田克哉さんの本。

タイトルに惹かれて読んでみた。

この本はアマゾンのなか見検索に対応しているので、是非目次をチェックしてみてほしい。それぞれの項のタイトルまで読めば大体この本の内容が推測できると思う。

量子力学の基本から始めて、1938年ナチス時代のドイツで核分裂が発見され、ヒットラーが原子爆弾を開発することを恐れたアメリカがマンハッタン計画を立ち上げ、延べ45万人を投入して3年間で原子爆弾をつくりあげたこと。原子力発電技術と原子爆弾製造技術は全く異なるが、日本の技術をもってすれば3年から5年程度で原爆は作れる可能性があることなどを説明している。

しかし核武装についての国民のコンセンサスが得られないだろうし、たとえ原爆製造能力はあっても、日本は決して原爆製造をすべきでないと結んでいる。


放射能と放射線

原爆が怖いのは、爆発したときの衝撃波と超高熱もあるが、放射能放射線による人体への影響が長期間にわたって続くことだ。

放射線は放射性物質が放つもので、次の4種類がある。

1.アルファ線
  ウランなどがアルファ崩壊するとエネルギーとともに、ヘリウム原子の核と同じ2個の陽子と2個の中性子が核から吐き出される。これがアルファ線で電荷(プラス)も質量もある。

  アルファ線は物質や人体を構成している原子と激しい電気反応を起こす。人体に当たると皮膚で激しく反応し、呼吸器から吸い込まれると肺の細胞を壊し肺がんを誘発する。

2.ベータ線
  核がベータ崩壊すると中性子が陽子に変わり、電子が核外に飛び出す。これがベータ線で、マイナス電荷をもつ。質量はアルファ粒子の1/7000。

  ベータ線が人体に入ると原子から電子を弾き飛ばすので細胞が機能を失い、場合によっては細胞は死滅する。大量のベータ線が頭にあたると髪の付け根の細胞が死滅し、髪が簡単に抜けてしまう。

3.ガンマ線
  核がアルファ崩壊、ベータ崩壊を起こした後、エネルギーの高いガンマ光子と呼ばれる粒子が核から吐き出される。これがガンマ崩壊で、放出されるのがガンマ線だ。電磁波なので電荷も質量もない。
  
  ガンマ線も電子を吹き飛ばし、ベータ線のように細胞を死滅させることがある。

4.中性子線
  核から中性子が時間をかけて飛び出すもの。電荷はないが質量はある。

  中性子は核に吸収されやすく、中性子過剰になった核はベータ崩壊を起こし、元素自体が放射性物質に変化してしまう。


原子爆弾の構造

原爆には広島型(砲弾型ウラン爆弾)と長崎型(爆縮型プルトニウム爆弾)の2種類がある。

広島型はリトルボーイと呼ばれ、砲弾(ガン・バレル)型ウラン爆弾で、二つに分けたウラン塊を爆着させることで、臨界を起こし、核分裂を起こさせる。課題は核分裂の持続時間がせいぜい100万分の1秒程度と短く、多くの核が分裂しないまま爆発してしまうことだ。

リトルボーイの爆弾の重さは4トン、使われた濃縮ウラン(86%)は20Kgだ(Wikipediaでは約60Kgとなっている。どちらが正しいのか不明)。

Little_boy





出展:Wikipedia

一方長崎型プルトニウム爆弾はファットマンと呼ばれる球状の爆縮型で、真ん中がポロニウムとベリリウムでできた中性子発生体。次に直径4.2Cm,重さ6.2Kgのプルトニウム、まわりを厚さ7Cmのウランで固めている。

それをさらに燃焼速度の異なる二種類の爆薬でつくられた爆縮レンズで取り囲み、爆薬の衝撃波でプルトニウムの臨界をつくり核分裂を起こすのだ。

Fat_man





出展:Wikipedia


Implosion_Nuclear_weapon






出展:Wikipedia

次の図はアニメーションになっていて、爆縮する過程を示しているので、クリックしてみてほしい。

Implosion_bomb_animated








出展:Wikipedia

砲弾型より爆縮型の方が核分裂効率が高く、少ないプルトニウムあるいはウラン量で爆弾ができるので、こちらが主流だ。

爆縮レンズは2種類の爆薬を組み合わせた複雑な構造をしているが、これが可能となったのはフォン・ノイマンの数学的計算によるものだという。

アメリカは1956年に小型原爆の開発に成功し、スワンと名付けている。これは第三の原爆とも呼べるもので、英語でBoosted fission weaponと呼ばれている。重水素(D)と三重水素(T)のD−Tガスをプルトニウム球の中心に入れた構造のものだ。

D−T型原爆がもっとも効率が良く分裂比率が30%、長崎型で14%、広島型は1.4%だという。

その他の核兵器としては、核融合反応を用いた水爆、中性子爆弾(建造物に影響は少ないが、生物の細胞を破壊する)、コバルト爆弾(放射能汚染がひどい)、そして劣化ウラン弾がある。

湾岸戦争でも使われた劣化ウラン弾は、ウラン濃縮で残るウラン238を砲弾につかったもので、鉛の倍の比重があり貫通量が高く、敵の装甲を貫通するときに1200度の高熱を発するので、敵戦車の乗員を焼死させ、さらにウランが放射性微粒子となって空中に飛散するので、肺がんや白血病の原因となる。


原爆研究のはじまり

ナチス政権下の1938年にベルリンのカイザー・ウィルヘルム研究所で、オットー・ハーンリーぜ・マイトナーがウラン235のみに起こる中性子による核分裂を発見、この事実が一躍世界に知られた。当時世界では超ウラン元素の研究を至るところで行っており、日本でも理化学研究所が研究していた。

ハーンは戦争中の1944年にノーベル化学賞を受賞している。一方マイトナーはナチスの迫害をさけるためにスウェーデンに行っていたため、オットーハーンのみがノーベル賞を受けた。

核分裂が起こると、発生するエネルギーは化学反応の100万倍以上で、数百万度の温度になる。連鎖的に核分裂を起こさせると(臨界)巨大なエネルギーが生まれることがわかった。科学者達の頭に爆弾というアイデアが浮かんだのだ。

戦争に突入したこともあり、各国はそれぞれ独自に核爆弾の研究を始めた。日本でも陸軍は理化学研究所の仁科芳雄博士に原爆の研究を依頼し、二号研究という名前で、熱拡散法によるウラン濃縮技術を研究した。

海軍も「F研究」の名称で、有名な物理学者を集め、こちらは遠心分離法によるウラン濃縮を研究したが、結局ウラン濃縮には成功しなかった。

この過程でサイクロトロンを戦争中に完成させていたが、敗戦後占領軍がサイクロトロンを東京湾に投棄させた。

ドイツの敗戦直前の1945年3月にドイツを出たU−234号にドイツから日本に供与されたMe262ジェット戦闘機、ジェットエンジン、光学ガラス、航空機の設計図と装置類、そして酸化ウラン560Kgが積まれていたが、日本へ向かう途中にドイツが降伏し、艦長は投降を決定、乗船していた日本の技術将校二人は自決した。

Messerschmitt_Me_262




出展:Wikipedia

この話は「深海の使者」という小説になっている。

深海の使者 (文春文庫)深海の使者 (文春文庫)
著者:吉村 昭
販売元:文芸春秋
発売日:1976-01
おすすめ度:5.0
クチコミを見る



マンハッタン計画

アメリカはナチスが原爆をつくることをおそれ、当時の金で20億ドルという巨費を費やして延べ45万人(うち科学者10万人)を動員して、原子爆弾の製造を1942年に始め、わずか3年間で原子爆弾を完成させた。これがマンハッタン計画だ。

マンハッタン計画では次の三カ所の研究所が新設された。

1.クリントン研究所(現オークリッジ国立研究所) テネシー州 
  ウラン濃縮のため、K−25と呼ばれた巨大なガス拡散法によるウラン濃縮工場で製造した濃縮ウランを、Y−12と呼ばれた電磁法(カルトロン)によるウラン濃縮工場にかけてようやく濃縮度90%近くの濃縮ウラン235を製造した。ここにはX−10と呼ばれた原子炉と熱拡散によるウラン濃縮装置も建設された。

その濃縮ウランはロスアラモス研究所に運ばれて、リトルボーイが完成した。リトルボーイは実験することなしに広島に投下された。

2.ハンフォード研究所 ワシントン州
  原子炉(黒鉛炉)によるプルトニウム239生産工場。ここのプルトニウム摘出装置は現在の核燃料再処理工場の原型である。

3.ロスアラモス国立研究所 ニューメキシコ州
  前述の爆縮機構を含む原子爆弾の起爆装置と本体を製造

ファットマンは、ハンフォード研究所の原子炉でプルトニウム239が製造され、ロスアラモス研究所で2個の爆弾がつくられ、1個で実験して威力を確認後、残る1個が長崎に投下された。

筆者の山田さんはテネシー大学の原子力工学科に留学したので、マンハッタン計画に使われたテネシー州のオークリッジ国立研究所に一年間通ったそうだが、その巨大さに驚いたという。

コードネームX−10もY−12も東大本郷キャンパスの3倍程度で、K−25に至っては本郷の10倍という広さで、研究所というより大工場を思わせたという。

アポロ計画もすごいが、ゼロから3年で原爆を完成させたマンハッタン計画は、ヒットラーが原爆を開発する前に完成させるという切迫感に迫られたプロジェクトだった。


原爆用のウラン製造

ウランは自然界に存在するものの、原子爆弾に使える放射性物質のウラン235はウラン鉱の0.7%のみで、残りの99.3%は安定したウラン238だ。この天然ウラン精鉱(次の写真のイエローケーキと呼ばれる)をフッ素化合物とし、6フッ化ウランとしてガス化する。

LEUPowder






出展:Wikipedia

そのガスを加熱かつ1分間に10万回転という超高速回転するシリンダーに入れ、ウラン238を外側に飛ばし、ウラン235と分ける。

ウラン235もウラン238も同じ元素で単に原子量が違うアイソトープなので、技術的に分離することが非常に難しい。

すこしずつウラン235の濃度を高めていって、原爆用の濃度90%程度のウラン235をつくるには、7、000台もの遠心分離機を通すことが必要だ。だからマンハッタン計画で使われたテネシー州のオークリッジ研究所は、研究所というよりは巨大工場みたいだという。


原爆用のプルトニウム製造

プルトニウムは自然界には存在しないので、原子炉をつかって作り出す必要がある。

原子炉のタイプには軽水炉(普通の水を中性子の減速剤につかうので、燃料のウラン235はロスを補うために3−5%に濃縮する)、重水炉(高価な重水を使うので、減速ロスがないので天然ウランが使える)、黒鉛炉(減速剤として黒鉛を使用。天然ウランが使える)の3タイプがある。

日本の原子力発電所はすべて軽水炉タイプで、このタイプの原子炉の使用済み核燃料棒は再処理され、ウランとプルトニウムに分離されるが、軽水炉の核燃料再処理で取り出されるプルトニウムは「原子炉級プルトニウム」と呼ばれているプルトニウムアイソトープの混合体だ。

プルトニウム238から242までの多種が含まれており、原爆に使われるプルトニウム239は60%、残りが238,240,241,242のプルトニウムであり、プルトニウム239の純度は低く原子爆弾の原料には使えない。

またプルトニウム240が曲者で、自然に未熟爆発を起こし熱を発生させるので、非常に扱いにくい放射性物質である。

高速増殖炉は、核燃料再処理で得られたプルトニウム239とウラン238を混合させた燃料棒が使われ、プルトニウム239が核分裂して飛び出した中性子でウラン238がプルトニウム239に変わる。

入れたプルトニム239が1.3倍になって帰ってくるというまさにネーミングの通り「文殊(もんじゅ)の知恵」の様な技術だが、日本では1994年に運転を開始した1年後にナトリウム漏れ事故があり、それ以来停止している。

新しい技術として、日本ではプル・サーマル原子炉の建設計画があるが、住民の反対が強くなかなか前に進まないままである。


日本は原爆をつくれるのか?

日本にはこれまでの軽水炉での核燃料再処理で得た原子炉級プルトニウムが内外にあわせて44トンあると言われているが、問題はプルトニウム240による未熟爆発で、そのままでは原子爆弾には使えない。

アメリカエネルギー省は1962年に原子炉級プルトニウムを使って長崎型原爆と同規模の原爆を作ったと発表しているが、真相は不明のままである。

原子爆弾級のプルトニウムはプルトニウム239が90%以上で、これを作るには黒鉛炉か重水炉の使用済み核燃料を再処理するか、高速増殖炉でプルトニウム239を生産するかだが、日本のもんじゅは停止したままだ。

現在の核保有国アメリカ、ロシア、中国、フランス、イギリスでは黒鉛炉で兵器級プルトニウムを生産している。上記5カ国以外にインド、パキスタンが核保有国となり、イスラエルは核保有の噂が絶えず、最近では北朝鮮が核実験を行ったが、いずれも黒鉛炉を持っている。

さらに原爆ができても運搬手段がなくては意味がないので、ミサイル制御技術も欠かせないが、日本の宇宙ロケット開発技術をつぎ込めば、弾道ミサイルを開発することは可能だろう。

山田さんは日本が核軍備に走ることを絶対反対という立場ながらも、原子爆弾をつくるシミュレーションを行っている。

必要な設備は:

1.ウラン濃縮装置
  特に理化学研究所で長年研究してきた赤外線レーザー法濃縮技術を使うと、ウラン235の濃縮は比較的小規模な設備で非常に効率よくできる可能性があるという。ウラン235に赤外線レーザーの波長をあわせれば、電荷を帯びて集合して電極に塊となってたまる。このプロセスを繰り返して濃縮ウランを製造するのだ。

2.兵器級プルトニウム生産原子炉
  高速増殖炉か黒鉛炉または兵器用重水炉。

3.核再処理設備


この本で説明されている要素技術を組み合わせれば、原爆一個つくるだけなら3年、たぶん5年程度で日本は原子爆弾の製造とミサイルによる運搬手段の核軍備が可能であろうと。

しかし世界で唯一の被爆国である日本で核武装をすることなど、到底国民感情が許すとは思えないし、山田さんも日本の核軍備には絶対反対だという。


原爆の基礎的なことがわかって、参考になる。一部の右翼政治家の日本が核武装する気になれば、すぐに数千発の原子爆弾をつくれるという発言が科学的根拠に基づいていないことがわかった。

科学、原子爆弾の知識を手軽につけるには適当な本である。まずはアマゾンのなか見検索で目次を読み、書店で一度手にとってパラパラっと読むことをおすすめする。


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2010年09月29日

戦争広告代理店 尖閣問題などで日本も学ぶべき国際世論のつくりかた

+++今回のあらすじは長いです+++

2010年9月29日追記:

尖閣列島付近での中国漁船拿捕事件関連で、小池百合子さんのツイッターに、韓国の中国漁船拿捕情報の出典が載っていたので、追加で紹介しておく。

尖閣漁船拿捕








元々は2008年10月14日付けのサーチナ情報のようだ。



2010年9月28日初掲:

ドキュメント 戦争広告代理店 (講談社文庫)ドキュメント 戦争広告代理店 (講談社文庫)
著者:高木 徹
販売元:講談社
発売日:2005-06-15
おすすめ度:4.5
クチコミを見る


明石さんの本を読んだ関係で、ボスニア内戦関係の本を読んでみた。この本はボスニア内戦を扱った本の中で、最も売れた本の一つだろう。

1990年に起こったボスニア内戦での情報戦をNHKが特集にまとめ、2000年10月にNHKスペシャル「民族浄化 ユーゴ・情報戦の内幕」として放送した。放送では触れられなかった部分も含めて、担当したNHKディレクターの高木徹さんがまとめたのがこの本だ。

筆者は1980年に分裂前のユーゴスラビアに出張したことがある。その時は鉄鋼原料のメーカー訪問が主目的だったので、サラエボは訪問していないが、首都ベオグラード、アドリア海に面したクロアチアのスプリート、ダルマチア地方のシベニク、マケドニアのスコピエなどを訪問した。

ユーゴでは1日を3分割し、6時から2時までが労働、2時から10時までが余暇や農作業など、そして10時から朝6時までが休養と、労働時間も決まっていたことを思い出す。

美しい町、風景で、食事もワインもおいしかったことを思い出す。その美しい町、ベオグラードには、今やNATOの爆撃の跡があちこちに残っているという。残念なことだ。


尖閣漁船拿捕で露呈した日本政府のPR意識欠如

この本の中で高木さんもコメントしているが、日本の外務当局のPRのセンスはきわめて低い。

今回の尖閣列島周辺で領海侵犯した中国漁船の拿捕事件でも、日本政府のPR欠如を痛感した。中国政府にやられるままに拿捕船の船長を釈放した日本政府のふがいなさに多くの国民が失望したと思う。

誰かが書いていたが、なぜ領海侵犯の漁船が巡視艇に追い回された挙句、破れかぶれで意図的に体当たりするビデオを繰り返し流して、世界の世論を見方につけないのかと思う。それと尖閣列島が日本固有の領土であることを、中国も今までは争っていなかったことのPRも欠かせない。

自民党の小池百合子さんによると、韓国は領海侵犯をした中国漁船を2004年から2007年までの4年で2,000隻以上拿捕し、2万人の船員を拘束し、中国政府は213億ウォン?(20億円)の保釈金を払っているそうだ。(次のYouTubeのビデオの最後の1分間の発言)



筆者はまだ小池発言のウラ取りをしていないので、事実としてはまだ確認していない。なぜ2004年から2007年という4年間を選んだのか、小池さんがいいとこ取りしているような気もするが、それにしても中国漁船はいい漁場で操業するために領海侵犯で捕まることも辞さない常習犯であることは間違いない。

しかも小池さんによると中国は韓国には何も言わず、保釈金を払うが、日本は何でも言うことを聞くと見くびって高飛車に出ているという。

アメリカ政府も日本側に立った発言をしているのだから、なぜ世界の世論を中国船長=犯罪人とリードしないのか?

これでは領海侵犯の中国漁船や中国人活動家の船が大挙して尖閣列島周辺に集合し、そのうち海上保安庁の手には負えなくなるだろう。武力で撃退するということはできないなら、国際世論を見方につけることを考えるべきではないのかと思う。

話が横道にそれたが、この本で高木さんも「外務省の硬直的な人事制度では永遠に日本の国際的なイメージは高まらないだろう」と指摘している。

日本政府もアメリカのPR企業を雇うこともあるが、結局PR戦略を担当しているのは、大学を卒業してすぐに外務省に入り、一生外交官として生きていく役人ばかりである。

米国の高級官僚の”リボルビングドア(回転扉)”の様に、民間で活躍した人が官僚となったり、官僚となってからも民間へ出て経験をつみ、また官僚になる人はゼロである。

多少の人材を民間から登用しているが、量的にも質的にも彌縫策(びほうさく)にすぎない。

硬直した役所の人事制度を根本から改革しない限り、21世紀の日本の国際的地位は下がる一方になることは、はっきり予見できると高木さんは書いている。

残念ながら、高木さんの心配が現実化しているように思えてならない。

閑話休題。


NHKスペシャル「民族浄化 ユーゴ・情報戦の内幕」

番組は現在NHKアーカイブスにも収録されていないようだが、NHKの中高教育向けのDVD貸し出しサービスの対象になっている。

この本の主役であるボスニア・ヘルツェゴビナ共和国のハリス・シライジッチ外務大臣が、1992年4月14日に当時の米国のべーカー国務長官と一緒に会見している写真がNHKのサイトにも載っている。

NHKスペシャルボスニア









出典:NHKティチャーズ・ライブラリー


主役は人口3百万人の小国ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国

この本では1992年3月にユーゴ連邦から独立して誕生した人口3百万人の小国ボスニア・ヘルツェゴビナが、米国のPRのプロを使って、「民族浄化」というキーワードを広め、セルビア=悪、ボスニア・ヘルツェゴビナ=善という図式を欧米メディアに定着させ、わずか半年で国連でセルビア追放決議を成立させるまでの一連の流れを紹介している。

元々ボスニアの軍事力は戦車100台という具合で、セルビアには全く対抗できない軍事力だった。それにもかかわらず、ボスニアはPR代理店のアドバイスに従い、シライジッチ外相のハンサムな容貌と、テレビ・写真写りを意識した英語での演技力をフルに活用して、国際世論を味方につけた。

セルビアは国連から追放され、当時の指導者のミロシェヴィッチ大統領は、後に国際司法裁判所で裁かれ、獄中で死亡した。

ボスニアは戦わずして勝利したのだ。

それには経験豊富で用意周到、議会、各国政府、プレスなどあちらこちらにコネクションのある広報代理店のルーダー・フィン社のワシントン支社国政政治部長のジム・ハーフ氏のPR活動が不可欠だった。

この本の中心人物のジム・ハーフ(James Harff)氏は現在独立してGlobal Communicatorsという国際PR会社のCEOとなっている。


国際世論を味方につける

元々ルーダー・フィン社はクロアチア政府のPR担当を1991年から務めていて、バルカン半島には土地勘があった。

ボスニアが1992年3月に独立してすぐ、シライジッチ外相が一人で米国を訪問した。彼は幸運にも4月にジェームズ・ベーカー国務大臣と会談することに成功した。

べーカー国務長官は回想録に、この会談でシライジッチ外相から「セルビア人たちは、無辜の市民を動物のように殺しているのです」と聞かされ、彼の語り口に思わず引き込まれたと書いている。

「その率直な言葉は、他のどんな外交上の美辞麗句より雄弁に、ボスニアの人々が直面している苦しみを物語っていた」。

そしてべーカーはシライジッチには意外なアドバイスをする。

「私はタトワイラー報道官を通じて、シライジッチ外相に、西側の主要なメディアを使って欧米の世論を味方に付けることが重要だと強調した」

前掲の写真は、会談直後のシライジッチ外相とべーカー国務長官の会見のものだ。


泣かない赤ちゃんはミルクをもらえない

シライジッチはボスニアのことわざを思い浮かべたという。「泣かない赤ちゃんは、ミルクをもらえない」

国際社会に振り向いてもらうには、大きな声を出さなければならない。そして声の出し方には様々なテクニックがあるらしい、ということをシライジッチは知った。

会談の後、シライジッチは唯一の知人である米国人権活動家デビッド・フィリップス氏に相談した。元々シライジッチは、歴史学の教授でメディアなどのコネは全くなかったからだ。フィリップスがPR戦略の専門家として紹介したのが、ジム・ハーフだった。


PRのプロ、ルーダー・フィン社

ジム・ハーフは安易にホラーストーリーをでっち上げることは絶対しなかった。

というのは1990年の湾岸危機の時に、クウェート政府に起用された広告会社ヒル・アンド・ノールトンは下院公聴会でナイラという少女の証言をつくりあげた。

「病院に乱入してきたイラク兵が、生まれたばかりの保育器から赤ちゃんを取り出して床に投げつけました。赤ちゃんは冷たい床で息を引き取ったのです。本当に怖かった。」

実はナイラは在米クウェート大使の娘で、ずっとアメリカにいてクウェートに行っていなかった。保育器のストーリーはヒル・アンド・ノールトン社の創作だったのだ。

このことをニューヨークタイムズがすっぱ抜き、CBSの60ミニッツが特集を組んだ。クウェート政府とヒル・アンド・ノールトン社にはダーティなイメージが残った。


ファックスとレター 基本に忠実なPR作戦

ルーダー・フィン社のやり方は、「不正手段は用いず、基本に忠実」だった。

当時は電子メールはなかったので、ルーダー・フィン社はまずは主要メディアにファックスで「ボスニアファックス通信」を定期的に送りつけた。

記者会見の前にはシライジッチ外相の経歴、公式ステートメントの内容、シライジッチ外相が出した手紙のコピーなどをまとめて”プレスキット”をつくり、記者が記事を書きやすいように材料を提供した。

そして会見に来たジャーナリストにはすべて礼状をシライジッチ外相名とジム・ハーフ名で2通出した。

ジャーナリストのみならず、ジム・ハーフは共和党の大統領候補になったボブ・ドールなどの米国議会の大物や、大新聞の論説委員などにシライジッチ外相を引き合わせ、着々とボスニア支持の世論を形成していった。

ソフトな正攻法以外にも、ジム・ハーフは「両方の勢力が悪い」と正論を繰り返すサラエボ駐在のカナダ軍のマッケンジー将軍を、邪魔者は消せとばかりに失脚させるというパワーゲームまでやっている。


「民族浄化」というキャッチコピー

第2次世界大戦の時に、ナチスの傀儡政権だったクロアチアがセルビア人狩りを行い、「民族浄化=ethnic cleansing"」を行っていた歴史がある。それをルーダー・フィン社はボスニア紛争に使った。

民族浄化はホロコーストを連想させ、ジャーナリストには強烈にアピールし、ブッシュ(父)大統領もすぐに民族浄化という言葉を使ってセルビア人を非難した。まさにキャッチコピーの勝利だった。


バルカン半島にはボーイスカウトはいない

ボスニアの住民の4割はムスリム系、3割がセルビア系、そして2割がクロアチア系という民族構成だった。戦力ではセルビアの支援を受けたセルビア人勢力にはムスリムは対抗できなかったが、ムスリムも人権侵害を行っていた。

2度のユーゴスラビア駐在経験を持つイーグルバーガー国務副長官は「バルカンにはボーイスカウトなんていないんだよ」と語っていたという。

度重なるボスニアの武力支援の要請にも、ブッシュ(父)大統領は「アメリカは世界の警察官ではない」と語って、武力介入を避けていた。アメリカによる軍事行動が実現するのは、ブッシュに代わったクリントン政権となってからだ。


セルビアも対抗してアメリカ国籍の首相を選任

元々ユーゴスラビア時代は銀行の頭取だったセルビアのミロシェヴィッチ大統領も、国際世論対策の重要性を感じ、26歳でアメリカに移住してICN製薬を創業し、自家用飛行機で飛び回っている国際的経営者で大富豪のパニッチを1992年7月に首相に任命した。

パニッチは米国籍のままセルビア首相に就任する際に、ブッシュ(父)大統領の了解を取っている。しかし米国のユーゴスラビア、セルビアに対する経済制裁は実施された。

このためパニッチはルーダー・フィン社に対抗できるPR会社を雇おうとしたが、米国の経済制裁がすべてのサービスの輸出入を禁止していたので果たせなかった。

さらに「民族浄化」に次ぐもう一つのキーワードが国際世論に影響を与えていた。


「強制収容所」という新たなキーワード

1992年8月にボスニア北部のオマルスカに強制収容所があるというニュースを、ニューヨークのタブロイド紙「ニューズデイ」がスクープした。スクープした記者は後にピューリツァー賞を受賞している。

その後イギリスのテレビニュース制作会社ITNが現地を訪れ、捕虜収容所のニュースを収録した。これがその後多くのメディの表紙を飾った「やせさらばえた男」だった。NHKの番組紹介でもこの写真が載っている。

NHKスペシャルボスニア2









このやせさらばえた男=強制収容所というイメージが、世界中のメディで流され、世界のメディ界を掌握するユダヤ人達に強烈にアピールし、セルビアのイメージを決定的に悪くしたのだ。

このやせさらばえた男のフィルムが繰り返し流され、米国上下院は8月11日にセルビアを非難する決議を採択し、8月13日には国連安保理事会でもセルビア非難決議が採択された。


セルビアの起死回生の汚名挽回案が最悪の結果に

セルビアのパニッチ首相はサラエボを電撃訪問して、イゼトベゴビッチ大統領とトップ会談を行い、その一部始終を米国の3大ネットワークの一つのABCテレビが独占取材するというディールを決めた。

しかしABC取材陣がパニッチと一緒の飛行機でサラエボ入りしてすぐに狙撃され、ABCディレクターが死亡するという事件が起こり、セルビアが意図していたのと全く逆効果となってしまう。

実はサラエボ空港では国連軍の装甲車が2台しか手配できず、テレビ局のクルーは装甲車のピストン輸送を待ちきれず、普通のバンにガムテープでTVと貼って装甲車の後をおいかけた。その直後に狙撃兵がTとVのちょうど真ん中を打ち抜いたのだ。

首脳会談は中止され、パニッチの起死回生策は最悪の結果となった。


パニッチのロンドン会議での大立ち回り

1992年8月末にパニッチはミッテラン・フランス大統領の仲介で、英国メジャー首相主催によりロンドンで3日間の国際会議を設営する。参加国・団体27の大会議だった。

会議の場で、パニッチはミロシェビッチ大統領に公然と反発し、「この国を代表するのは私だ。お前はだまれ。」と罵倒し、ミロシェヴィッチ一人を悪者にして、辞任させる作戦に出た。

ところがジム・ハーフの手ほどきを受けたシライジッチはすでにアメリカ代表団とはファーストネームで呼び合う間柄となっており、アメリカとボスニアの関係は確固たるものとなっていた。

さらにシライジッチはボスニアから逃れてきた難民だというふれこみで、中年女性と二人の子どもを記者会見に登場された。女性はセルビア人から焼きごてで付けられたという腹のやけどをテレビカメラの前でさらし、記者が取材に殺到し演壇が壊れてしまうという事態になった。


国連のユーゴスラビア連邦(セルビア)追放決議

ボスニアの国際世論・国際政治での勝利はロンドン会議で確固たるものとなった。その最後の詰めは、ユーゴスラビア連邦(セルビア)代表団の国連からの追放だった。

ロンドン会議から1ヶ月後の1992年9月末の国連総会で、ボスニアは世界中の国、とりわけ米国に心地よく響く「多民族国家の樹立に務めているボスニア」というイメージを確立させた。

他方セルビアのパニッチはロシアと中国の支持を取り付け、国連本部からロシア国連代表部に常任理事国5カ国とパニッチの秘密会議を開催することに成功した。

なかば脅しのようにユーゴスラビア連邦が国連から追放されれば、独裁者ミロシェヴィッチ大統領の天下となるとフランスとイギリスを脅し、ユーゴ残留で内諾を取り付け、最後は米国を残すのみとなった。

ところがここでパニッチは決定的な失言をしてしまう。

米国代表のイーグルバーガーを「この11月には大統領選挙がありますね。もし私を支持しなければ、この選挙の行く末に影響するような何かを、私は言うことになるかもしれない。それでもいいですか?」と脅したのだ。

パニッチはアメリカ国籍を保持しながら、ユーゴスラビア首相になるというブッシュ大統領との約束のことを暗に言っているようだったが、いずれにせよ米国に対する脅しだった。

これに対してイーグルバーガーはキッパリ答えた。

「もし、私があなたの立場にいたら、そのようなことは絶対に言わないだろう」

世界唯一の超大国、米国がユーゴスラビアの脅しに屈することはない。パニッチの発言は墓穴を掘る結果となり、米国の強い主張により国連からユーゴスラビアは追放された。


ボスニア紛争を解決したのは国連でなく、米国の主導

ボスニア紛争当時の国連事務総長はエジプト出身のブトロス・ガリだった。

ガリはアフリカ出身なので、「世界にはサラエボより、もっと苦しい状態にある場所が10ヶ所はある。ボスニア紛争は所詮、金持ち同士が戦っている紛争だ」と発言して、国際的な大非難をあび、国連でただ一人の1期限りの事務総長となった。

この辺の事情はガリの部下だった明石さんの本には全く書かれていない。明石さんは、単にアメリカの圧力でガリは再任されなかったと、さらっと書いてあるだけだ。

ボスニア紛争に終止符を打つのは、国連ではなく、米国が主導して開いた1995年のオハイオ州デイトンのライト・パターソン空軍基地での缶詰交渉によってである。

ボスニアは欧州の一角なので、本来であればEUが介入してしかるべきである。にもかかわらず米国はクリントン政権になってボスニアに米軍を派遣するとともに、デイトン合意を成立させた。

その意味でボスニア紛争終結に対する米国の努力は並々ならぬものがあり、わずか300万人の小国のボスニアが米国をここまで動かしたのは、初期のPR戦略の成功によるものが大きい。


ルーダー・フィン社の得たもの

ボスニアのPRにこれだけ貢献したルーダー・フィン社がボスニアから得たものは、金額的には9万ドル程度だという。

ハーフは「ルーダー・フィン社は気が遠くなるほどの時間を、ボスニア政府のために費やしました。しかし、支払われた金額わわずかです」と語っている。

その支払いもシライジッチ外相が、トラベラーチェックや小切手で1万ドル程度づつ渡すだけだったという。

支払いを渋ったシライジッチ外相は最後に「これがお前らと仕事をする最後だ!」と言い放って、ドル小切手を投げよこして立ち去った。

採算的には全く見合わなかったが、ルーダー・フィン社はこの仕事で全米PR協会の「危機管理コミュニケーション」部門の年間最優秀賞を受賞した。

全米6千社あるPR企業のトップとして表彰されたので、ルーダー・フィン社とジム・ハーフのもとには多くの政府や企業から、ボスニアの危機を救ったPR企業と凄腕PRマンとして仕事の依頼が殺到したという。

この業界ではクチコミが最も良い広告になるのだと。


良い本のあらすじはどうしても長くなってしまう。大変面白い本だった。またNHKのボスニア内戦を取り上げた6日間の作品もBS1で先日見た。

最後にボスニアの絶妙なPR力を象徴する写真を紹介しておく。

オシム







出典:「オシムの言葉」133ページ

今度紹介する「オシムの言葉」に載っていた写真だ。サラエボオリンピックの時の競技場が墓地に変わっているという、サラエボ紛争で多くの犠牲者が出たことを物語る写真である。

しかし何もオリンピックの競技場を墓地にしなくても、土地はいくらでもあるはずである。あきらかに政治的な意図を持って墓地にしているとしか思えない。

ボスニアは人口3百万人の小国とはいえ、国際世論のリードがうまい国である。

冒頭に記したように日本も尖閣列島の漁船拿捕問題などでは、ボスニアの国際世論戦略を見習わなければいけないと思う。

NHKの取材はあまりにボスニア寄りだという非難もあるかもしれないが、広範な取材に基づき、わかりやすいストーリーに仕上げているのは、さすがNHKと言えると思う。

文庫版もでているので、是非一読をおすすめする。

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2010年08月18日

「婚活」現象の社会学 婚活はレッドオーシャン市場

「婚活」現象の社会学 日本の配偶者選択のいま「婚活」現象の社会学 日本の配偶者選択のいま
著者:山田 昌弘
販売元:東洋経済新報社
発売日:2010-06-11
おすすめ度:4.5
クチコミを見る


「婚活」という言葉をつくった社会学者山田昌弘中央大学教授の近著。「婚活」という言葉は、山田教授が2008年にジャーナリストの白河桃子さんと共同で書いた「『「婚活』時代」が最初だという。

「婚活」時代 (ディスカヴァー携書)「婚活」時代 (ディスカヴァー携書)
著者:山田 昌弘
販売元:ディスカヴァー・トゥエンティワン
発売日:2008-02-29
おすすめ度:3.5
クチコミを見る


それから結婚情報サービス業者の間で広まり、NHKの「コンカツ・リカツ」というテレビドラマのタイトルでも使われた。

コンカツ・リカツ







山田教授は「パラサイト・シングル」、「格差社会」などの社会の風潮を表す言葉もヒットさせている。


オムニバス論文集という構成

この本はなか見、検索!に対応しているので目次をチェックして欲しいが、次のような構成となっており、山田教授と様々な大学の准教授、教授レベルの女性研究者の書いた論文を集めている。

序   「婚活」現象の広がりの中で       山田昌弘

第1章 「婚活」現象の裏側           山田昌弘

第2章 若者の交際と結婚活動の実態       村上あかね

第3章 結婚仲人の語りから見た「婚活」     小澤千穂子・山田昌弘

第4章 自治体による結婚支援事業の実態     大瀧友織

第5章 結婚活動ブームの二つの波        開内文乃

第6章 誤解された「婚活」           白河桃子

第7章 アメリカ社会から見た現代日本の「婚活」 石井クンツ昌子

コラム 中国の婚活事情             赦力(カクリキ)

終章  積み過ぎた結婚             山田昌弘


石井クンツ昌子お茶の水大学教授は国際結婚をしているのでアメリカ人の婚活、中国人留学生の赦力(カクリキ)さんは中国の婚活を取り上げており、広がりがある。


婚活はレッドオーシャン市場

婚活とは、一言でいうと女性が年収600万円以上の男性を配偶者として求める活動で、そのような男性独身者は人口の2−3%しかいない(年収400万円でも3割程度)。だから正社員や400−500万円以上の収入の男性に多くの女性が集中する「レッドオーシャン」市場というのが、今の婚活市場の実態だという。

「レッドオーシャン」とは、このブログでも紹介した「ブルーオーシャン戦略」で、競争相手の少ないニッチ市場のブルーオーシャンに対して、競争相手がうじゃうじゃいて血に染まっているような既存市場のことで、その現実は次の通りだ。

1.(何もせずに)待っていても理想的な結婚相手は現れない

2.妻子を養ってい豊かな生活を送ることができる男性の激減

ブルー・オーシャン戦略 競争のない世界を創造する (Harvard business school press)ブルー・オーシャン戦略 競争のない世界を創造する (Harvard business school press)
著者:W・チャン・キム
販売元:ランダムハウス講談社
発売日:2005-06-21
おすすめ度:4.0
クチコミを見る


山田教授は「女性は収入が高い男性を求め、安定した収入を得る若年男性が減少していることが未婚かの原因である」と1994年に発表し、1997年の結婚の社会学―未婚化・晩婚化はつづくのか (丸善ライブラリー)で世に問うたが、これほど長い間政策やマスコミから無視され続けたものはないと語る。

「仕事を続けたいから結婚しない」という「俗説」の蔓延を食い止めることはできなかったという。

ちなみに相手の男性に求める条件は、以前は3高だったのが、現在は3低に変化しているという。3低とは、低姿勢、低リスク、低依存だという。最近では3手だという。3手とは、手伝う、手を取り合う、手をつなぐだという。


女性の結婚形態

女性の結婚形態は次の3タイプに大別できるという。

生存婚 : 地方の高卒女性に多い、自活できる職業も見つけることが難しく、男性に稼いでもらわないと生きていけないタイプ。

依存婚 : 短大卒の女性に多い、とりあえず就職したが、寿退社を理想とし、専業主婦を望むタイプ。

保存婚 : 大卒女性に多い、男性には家庭の仕事を分担してもらい、自分の専門的な職業を続けたいタイプ

地方の高卒女性にかぎらず、婚活をしている女性の結婚の目的が、この「生存婚」タイプが多いという。恋愛のような自然な出会いの結婚にはこだわりをもたないので、ロマンティク・ラブ・イデオロギーの終焉と呼んでいる。

そして結婚=生まれ変わりと捉えており、「生まれ変わるならばいまよりも幸福に」、「生まれ変わって不幸になるのなら、結婚しない」という考えが多くなっているという。

女性研究者のレポートばかりだからか、男性についての記述は少なく、女性に厳しい現実をつきつけている印象がある。


少子化の主因は結婚の減少

日本では結婚希望を抱いている人は未婚者の9割程度おり、これは20−30年前から変化はなく、夫婦の出生児数も40年前から2.2から2.1で推移している。

しかし2005年の統計では、30ー34歳の男性の半分、女性の4割が独身(離婚者含む)で、男性35−39歳の未婚率は1970年の5%程度から30%に、女性でやはり5%程度から18.4%にまで上がっている。

結婚する人が少なくなったことが、少子化の主因なのだ。


未婚化・少子化の解決策は欧米諸国のような共働き可能な社会

他の先進国(フランス、北欧、米国)などの例を見ると、いずれも「専業主婦時代」→「女性の社会進出および中流男性の没落」→「家計を支えるため共働き家庭」というシフトが起こっており、女性の社会進出を支えるために社会が子育てを負担している。

結婚形態の変化はこの本で次のようにまとめている。

結婚形態変化






日本の場合は、中流男性の没落が起きているのに、女性の社会進出が遅れている。その一つの理由は、「おサイフは妻が持ち、夫はお小遣い制」という日本、韓国、台湾にしか見られない特有のシステムのせいではないかと共著者の白河さんはいう。

結論としては、「年収600万円男性との結婚」から「夫婦合算で600万世帯へ」理想を変えていくことだと。

”稼ぐ女”と”愛される男”が婚活の鍵を握るという。


アメリカの婚活

アメリカ人と結婚している石井クンツ昌子がアメリカの婚活を説明している。アメリカでは、積極的な人は、何歳になっても新聞で相手求むと広告を出す人がいる。

欧米では会社のパーティなどもカップル出席が基本なところが多いので、パーティに誘って正式につきあい始めることもある。

筆者もアルゼンチンの研修生時代は独身だったので、会社のクリスマスパーティなどには相手に困った。結局甲斐性がなく、一人で出席したが、スペイン語の先生とか、下宿の隣の家の娘さんとか、誘おうかと迷ったものだ。

アメリカは様々な相手とつきあうことが多く、恋愛期間は平均して約10年だという。


中国の婚活

中国では恋愛相手と結婚相手とは別と考える若者が多いという。中国の3高は、高学歴、高い給料、高い職位だという。(日本は高身長だが、中国は容姿は重視しないという)。

結婚する際に親が援助するので、親の意見も重要だ。月収2500元(4万円程度)なのに、マンション購入で約60万元(850万円)、結婚相手の女性の家族に渡す礼金が3万元から5万元(50万円から85万円)、結婚式や披露宴などで3万元(50万円)かかる。合計で約68万元(約1,000万円)かかるので、親から援助して貰うからだ。

中国では「剰男剰女」と称しているそうだが、学歴の高い女性と、経済力のない男性の未婚率が高くなっている。中国では結婚は「経済」第一と考えられており、そのように公言されているという。


婚活の現状がよくわかって参考になった。婚活中の人には、わかりきったことかもしれないが、婚活では「ブルーオーシャン戦略」はないと思うので、自分を磨き、いろいろな機会を自らつくり、地道な婚活を続けて伴侶を見つけ、新たな人生に踏み出して欲しいものだ。


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2010年08月04日

「独裁者」との交渉術 元国連事務次長明石康さんの対談録

「独裁者」との交渉術 (集英社新書 525A)「独裁者」との交渉術 (集英社新書 525A)
著者:明石 康
販売元:集英社
発売日:2010-01-15
おすすめ度:4.5
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日本人初の国連職員で、カンボジアや旧ユーゴの国連事務総長特別代表を務めた明石康さんとノンフィクション作家木村元彦(ゆきひこ)さんの対談集。

読書家の上司から借りて読んだ。

青春と読書という雑誌の2009年1月から10月号まで連載されていた対談を単行本にしたものだ。「青春と読書」というのは、あるいは図書館向けの雑誌なのかもしれないが、どういった雑誌なのか興味があるところだ。

内容としては明石さんの生い立ち、フルブライト留学生から国連職員になった経緯、カンボジアPKO,ボスニア問題、スリランカ問題、そして最後に職業としての交渉者という構成になっている。

明石さんは1931年秋田生まれ、戦争末期に秋田でも米軍艦載機の攻撃があり、明石さんは米軍戦闘機パイロットの顔を見たという。

東大法学部卒業後、フルブライト留学生としてバージニア大学で学び、その後ボストンのフレッチャースクールの博士課程に進んだところで、国連よりリクルートされ、コロンビア大学で研究を続けることを条件に日本人初の国連職員となる。

この本は明石さんがカンボジアPKO、旧ユーゴスラビアPKO、スリランカ紛争(これは国連ではなく、日本政府の代表)で経験したトピックや交渉相手の話が中心だ。

筆者は1980年に当時のユーゴスラビアに出張したことがあり、首都ベオグラードに入り、スプリート、ダルマチア、スコピエなどを歴訪した。それから1990年代は毎年アルバニアに出張していた。

だから少なくとも旧ユーゴスラビアの部分は話についていけると思っていたが、この本を読んで、自分の知識の浅さを思い知らされた。

対談のため紛争の全体の流れがつかみずらいので、明石さん自身の自伝も読んでみる。

生きることにも心せき―国際社会に生きてきたひとりの軌跡生きることにも心せき―国際社会に生きてきたひとりの軌跡
著者:明石 康
販売元:中央公論新社
発売日:2001-06
おすすめ度:4.0
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戦争と平和の谷間で―国境を超えた群像 (双書 時代のカルテ)戦争と平和の谷間で―国境を超えた群像 (双書 時代のカルテ)
著者:明石 康
販売元:岩波書店
発売日:2007-11
おすすめ度:5.0
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「独裁者との交渉術」というタイトルがついているが、明石さん自身がこのタイトルは重すぎると言っている通り、交渉術というような一般化できるような経験談ではない。

しかし、相手の性格・出自をよく理解し、誠実に交渉することで信頼を得て、相手が受け入れやすいような話に持って行くというオーソドックスな明石さんのやり方は、「誠意は通じる」という筆者自身の信念に通じるところがある。

またスリランカで日本政府代表として交渉に当たる際には、ユニセフ、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)、WFP(国連世界食糧計画)、赤十字国際委員会(ICRC)、世界銀行、アジア開発銀行代表などと話しあい、チームワークを作って臨んだと明石さんは語る。さすが長年、国連職員として広いコネクションを持っている明石さんだ。

今まで知らなかったことが分かって、参考になった。

いくつか紹介しておく。

朝鮮戦争時の国連軍は、ソ連が中華人民共和国の国連加盟問題で安保理をボイコットしていた時に、アメリカが南下してきた北朝鮮を食い止めるために出した決議案が採択されたものだ。

このあたりの事情は漠然と理解していたが、今読んでいるハルバースタムの「ザ・コールデスト・ウィンター朝鮮戦争」でも、この点ははっきりわからないので、まさに当事者としての明石さんの話は参考になった。

ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争 上ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争 上
著者:ディヴィッド・ハルバースタム
販売元:文藝春秋
発売日:2009-10-14
おすすめ度:4.0
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★明石さんはカンボジアPKOの時は、シアヌークと親しくなり、カンボジアPKOの成果で、後にシアヌークより勲章を贈られたという。

ポル・ポト裁判をやっている裁判所は、国際法廷ではなく、カンボジアが裁判官と検察側に国際的に活躍している人を何人か入れている特殊な例だという。ちょうどこの法廷で、7月26日に政治犯収容所の所長に禁固35年という判決が出たところだ

スリランカ紛争ではノルウェーが調停役として紛争を収めるべく努力していた。筆者も経験があるが、ノルウェーとスリランカやバングラデシュなどは余り関係ない様に思えるが、ノルウェーは南アジア地域には政府援助など大きな関心を持っている。

実は筆者は25年ほど前に、ノルウェー産のシリコンをノルウェー政府の無償援助を使ってバングラデシュに輸出するという仕事をやったことがある。当時からノルウェーは南アジア地域には援助なども積極的に出していたことを思い出す。

★スリランカのタミル人反政府運動(タミルのトラ)の指導者で、後に暗殺されたプラバーカランは、下層カーストに属する漁村の出身だという。スリランカには約20%のタミル人がいるが、スリランカでもカースト制度の残滓があるようだ。

★スリランカのタミル人が独立すれば、インド南部のタミル・ナデゥ州も独立することになりかねず、そうなるとカシミール独立などと飛び火する可能性があるので、インド政府はタミル問題は無関心ではすまされないのだ。

★全世界ではタミル人は6千万人、スリランカのシンハラ人は2千万人。タミル人はヨーロッパでも成功している人が多いという。

★1389年のコソボの戦い(バルカン諸国がオスマントルコに敗れる)以来600年の歴史をセルビア人指導者は忘れていないという。

★日本政府がお膳立てして2003年に東京で開催されたスリランカ復興開発会議では、51カ国、国連他22の国際機関が参加し、日本政府10億ドル、アジア開発銀行10億ドル、世界銀行が12億ドル拠出し、他の援助もあわせて合計45億ドルの援助が決まり、スリランカのウィクラマナヤカ首相は感激して涙にむせていたという。

★国連の平和維持活動は、国連憲章にも書いていないことを、発明しながら続けているもので、現在12万人がPKOで活動している。

★旧ユーゴ紛争では、米国の国連大使で、後の国務長官のマデレーン・オルブライトが明石さんの姿勢を強く非難した。米国はコソボ、ボスニア寄りで、NATO軍を通じてセルビアの空爆をやりたがっていたという。

米国にはアルバニア系住民もたくさんいる。たとえば映画「ブルースブラザース」で有名になり、亡くなったジョン・ベルーシジム・ベルーシ兄弟もアルバニア系だ。



米国がなぜアルバニア系住民を支援したのか、本当に人道的見地からだけなのか、興味があるところだ。

この本だけでは情報は限られるので、明石さんの他の本も読んで調べてみる。



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2010年02月19日

裸でも生きる 行動力抜群の20代女性社長の手記

裸でも生きる――25歳女性起業家の号泣戦記 (講談社BIZ)裸でも生きる――25歳女性起業家の号泣戦記 (講談社BIZ)
著者:山口 絵理子
販売元:講談社
発売日:2007-09-22
おすすめ度:4.5
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バングラデシュ産のジュートを利用したカジュアルバッグなどのスペシャルティバッグを輸入販売するマザーハウスの20代女性社長、山口絵理子さんの手記。山口さんは、フジサンケイ女性起業家支援プロジェクト2006の最優秀賞を受賞している。

山口さんのストーリーはテレビの「情熱大陸」でも取り上げられている。YouTubeに3部にわけて載っているので、紹介しておく。バングラデシュで取材したビデオなので、リアルで迫力があって面白い。



本屋に平積みになっていたので読んでみた。「裸でも生きる」というタイトルなので、てっきり無一文になって、それからの再起の話かと勝手に思いこんでいたが、実は慶應湘南卆でバングラデシュの大学院を卒業した行動力抜群の女性起業家の話だった。

最近思うのだが、本には著者の熱意が伝わる本と、著者の意気込みや熱意が伝わってこない本の2種類がある。この本は、間違いなく前者で、著者の山口絵理子さんの熱い思いがビンビンに伝わってくる。

先日社内報に寄稿したときのことを思い出す。

筆者の書いた文はすっきり整理されて読みやすい文章になっていたと思うが、筆者の読書ノウハウを淡々と紹介するだけで、熱い思いが全然伝わってこない。それに比べ、他の社員が書いた文は、しろうと作文で、一つの文が長く主語述語がはっきりとしないため体裁が悪いが、伝えたいことがはっきりしていて、熱意が伝わってくる。

慢心を猛省した次第である。このブログでは従来同様、筆者の熱意を込めて書き続けるつもりだ。

山口さんの本は、やたら泣く場面が多いのが気になるが、著者の熱意がこもっていることがよくわかる、読んで面白い感動の作品である。

山口さんの談話は、ドリームゲートというサイトにも紹介されている

dream gate








山口さんの経歴

著者の山口絵理子さんは、埼玉県出身。小学生の時にいじめにあったり、中学生で不良の仲間に入ったりするが、大宮工業高校で男子に混じって柔道部で猛練習し、埼玉最強の埼玉栄高校の選手を破って埼玉県チャンピオンとして全国大会7位に入賞する。

余談となるが筆者は実は埼玉栄高校とは縁がある。

埼玉栄高校のある大宮市と筆者の住んでいたピッツバーグが姉妹都市関係にあったので、ピッツバーグ日本語補習校が校舎を借りていたフォックスチャペル高校と埼玉栄高校の交流を縁結びしたのだ。

筆者はその後日本に戻り、大宮市自体も浦和市などと合併してさいたま市になってしまったので、現在ピッツバーグとの姉妹都市関係はどうなっているのかわからないが、あるいは一時的な交流に終わってしまったのかもしれない。

埼玉栄高校は佐藤栄学園という学校法人で学園長は佐藤栄太郎さんという人で、地元の有力者だった。たしか埼玉県に数カ所の高校と大学もあったと思う。

フォックスチャペル高校も全米で有数の高所得者の町の高校だが、校長が埼玉栄高校を訪問して、その体育設備や音楽関係の設備がすばらしいことに驚いたと言っていたことが記憶に残っている。

閑話休題。

山口さんは偏差値40台だったが、持ち前のがんばりで大宮工業高校から慶應大学の湘南(総合政策学部)に入学し、竹中平蔵氏の竹中ゼミに入る。大学の入試面接では、「政治家になりたい」と言ったという。


途上国支援が研究テーマ

竹中ゼミで「発展途上国における所得格差と経済成長の関係」についてプレゼンし、竹中さんから「すごくよかったですよ。がんばってね」と声を掛けられる。

途上国は先進国の技術を模倣でき、後発のメリットを生かすことができるので、途上国と先進国との差は自然と縮小するという理論とは逆に、現実には”様々な理由”でギャップは拡大していることをレポートしたのだ。

それから国際協力分野に興味を持ち、その「様々な理由」を確かめるために、米州開発銀行の夏季インターンになってワシントンに行くが、国際機関に働く人たちは、現地を訪問する気もないエリートばかりなことに失望する。

援助が本当に役に立っているのかを調べるために、インターネットで”アジア 最貧国”と検索して、表示されたバングラデシュを2週間後に訪問する。スゴイ行動力だ。


バングラデシュでの生活

バングラデシュについたら、悪臭、汚さ、何かにつけて長蛇の列、平気でワイロを要求する役人や警察官、日本人と見ると”マネー”と金を求め群がってくる群衆、人間の生活できる衛生限度を越えている悪臭を放つスラムに圧倒される。

バングラデシュの現状については、ムハマド・ユヌスさんの「Baker to the Poor」や、このブログでも紹介した「貧困のない世界を創る」などで、なんとなく分かっているような気がしていたが、この本を読んで、全くうわべしか知らないことがよくわかった。

ちなみに日本語のバングラデシュ情報サイトのバングラナビというのもあるので、紹介しておく。

何とか住めるアパートを見つけ、バングラデシュのNGOが経営しているBRAC大学院に入学して、2年間でマスターを取る。バングラデシュの大学院を卒業した初めての日本人だ。


バングラデシュ製バッグの販売

アルバイトで働いていた三井物産ダッカ支店の仕事で、展示会に行き、バングラデシュの伝統産品のジュートを使ったバッグを日本で売ることを思い立つ。

ジュートはコーヒー豆の袋などの麻袋の素材で、筆者は昔鉄鋼原料を担当していたので、小口の顧客向けに輸入の原料を日本の倉庫で20Kgか25Kgの麻袋に詰めて、販売したことがある。

小口の鋳物メーカーとかは、麻袋入りの原料をそのまま人手で炉に投げ入れるのだ。

しかし麻袋は、もっと効率の良い1トン入りのフレコンバッグに置き換えられ、どんどん需要は落ちていった。

バングラデシュはジュートの世界最大の生産国とはいえ、化学繊維に市場を奪われ世界的に需要が減少したので、相当打撃を受けていたと思う。

そんなバングラデシュの特産品の天然素材のジュートを今度は、バッグの素材として目を付けたのだ。

苦労して個人向けに生産してくれる町工場を見つけ、工場に日参して工員と一緒に作業して、自分のデザインのバッグを160個生産し、日本に持ち帰る。

アルバイトしてお金を貯め、竹中ゼミの先輩でゴールドマン・サックスに就職していた先輩の山崎さん(現マザーハウスパートナー)からアドバイスを貰って起業し、ホームページでバッグを売り出す。

卸には相手にされず、多くの店に足を運ぶが、東急ハンズのバイヤーが気に入ってくれて、すぐにバッグを置いてもらう。"環境goo"というサイトでも励まされ、だんだんに売れていき、160個のバッグは残り少なくなる。

山口さんの活動がメディアでも紹介されるようになった時に、ある人から忠告を受ける「ビジネスになりきれていないわね。ファッション業界でビジネスをやることは、そんな簡単ではないのよ。白紙に戻すことも選択肢の一つだと思うわ。」

人の親切心・援助心に頼っていた販売、バッグのことを何も知らない自分に気づき、自らバッグ製造の修業をすることを決心し、バッグ職人を養成する御徒町の学校に入学する。先生から怒鳴られ厳しく教え込まれるが、最終的には先生と心が通じ合う。


バングラデシュ再訪

総選挙で混乱のさなかのバングラデシュを再度訪問し、前回の工場に行くが、パスポートを盗まれ不信感を抱いて、別の工場を苦労して探すが、そこでもだまされる。

つてを頼ってなんとかバングラデシュNo 1という型紙職人の居る工場を見つけ出し、そこで650個の生産を引き受けて貰う。従業員15人の小さな工場だが、ドイツ製の機械もあり、生産性と品質は高かったという。

今度はジュートを使ったカジュアルバッグを650個生産し、日本に持ち帰り表参道や、福岡三越、新宿小田急などで「お客様イベント」や発表会を開いた。

日経新聞の「春秋」で取り上げられたり、メディアで取り上げられたので、ウェブサイトでの販売は急増し、1分に1個売れるようになったという。スタッフは9人となり、第1号直営店を入谷に開いた。

motherhouse








ホームページではレザーバッグもたくさん売っている様なので、ジュートバッグだけでは無いようだ。


「裸でも生きる」と決めたのは、バングラデシュで食うや食わずの生活をしているみんなが、「君はなんでそんなに幸せな環境にいるのに、やりたいことをやらないんだ?」と問いかけてくるような気がするからだと。

やたら泣く場面が多いのが気になるが、実話なのだろう。ストーリーの展開も面白く、著者の思いのこもった一冊である。


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2009年12月09日

働く幸せ 鳩山首相が感動した社員の7割が知的障害者のチョーク工場

働く幸せ~仕事でいちばん大切なこと~働く幸せ~仕事でいちばん大切なこと~
著者:大山 泰弘
販売元:WAVE出版
発売日:2009-07-23
おすすめ度:5.0
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上司から大変面白かったという話を聞き読んでみた。

知的障害者が従業員の7割を占め、一躍有名になったホタテ貝殻でつくった粉のでないチョーク工場の会長の本。

この会社、日本理化学工業は、「日本で一番大切にしたい会社」で取り上げられて一躍有名になった。川崎市高津区にある従業員74名の会社で、北海道の美唄市にも工場がある。

日本でいちばん大切にしたい会社日本でいちばん大切にしたい会社
著者:坂本 光司
販売元:あさ出版
発売日:2008-03-21
おすすめ度:4.5
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筆者は通勤で電車に乗っている毎日往復2時間を読書に充てているが、この本を読んでいたら感動でウルウルしてしまった。電車の中で人に気づかれるとみっともないので、家に帰って読み終えた。

鳩山首相が所信表明演説で絶賛したという宣伝文句が本の帯に書いてある。

CIMG9989









鳩山首相所信表明演説







出典:西日本新聞

大山さんの経歴

この本の著者大山泰弘さんは、日本理化学工業の会長で、中央大学を卒業後、お父さんが戦前に始めたダストレスチョーク工場の経営を引き受ける。

このダストレスチョークは、大山さんのお父さんがアメリカの製品を参考にして、ドイツのパステル(絵画用具)製造機械を改造して製造を始めたものだ。チョークの粉が出ないということで、戦前は軍の作戦用チョークとしても売れていた。


知的障害者を受け入れる

大山さんが工場を引き受けてすぐに、品川区の養護学校から知的障害児を働かせてもらえないかという依頼がくる。

大山さんは悩み、入院中のお父さんに相談したところ、お父さんの「知的障害者が働く会社が1つくらい日本にあってもいいだろう。やってみたらいい。」という言葉で決心する。

そのときに15歳の女性工員を2名、まずは2週間の研修ということで受け入れた。研修が終わった後、工場の従業員たちが「私たちがめんどうを見ますから、あの子たちを雇ってあげてください」と申し出てくる。これは工場のみんなの総意だと。

1960年に養護学校を卒業した2名を雇ったことがきっかけで、どんどん知的障害者の従業員が増えていった。最初に入社した社員は定年後も嘱託として65歳まで、実に50年間も日本理化学工業の社員として働いたのだ。


知的障害者と働くということ

知的障害者と平常者が一緒に働くのは簡単なことではない。

大山さんは工場の生産プロセスでも、2種類の原料の重さを量るおもりと原料の入った入れ物を青と赤で色で区別したり、チョークの冶具の消耗度合いをノギス(計測器)を使わず、箱に入れて測ったり、時間を砂時計で計ったりして知的障害者でも効率よく働ける工夫を凝らした。

このような生産工程上の配慮とともに、社員旅行に行ったときの話(健常者、障害者両方が気を遣って楽しめなかったという)などの苦労談を披露している。


特に印象に残った話

この本で特に印象に残った話は次の3つの話だ。

まず大山さんは、釈迦の16人の羅漢(弟子)の一人、周利槃特(しゅりはんどく)という高僧の話を紹介している。周利槃特は今で言う知的障害者で自分の名前も言えないほどだったが、ある時お釈迦様が「塵を払わん、垢を除かん」という言葉と箒を与えると、周利槃特は一心不乱に掃除を始め、周囲の人は手を合わせたという。

お釈迦様は無言で説法が出来るということで、周利槃特を16羅漢に加えたのだと。大山さんは、工場で働く知的障害者たちにも、周利槃特と同じ気高さを感じるという。

2つめは元上野動物園の飼育係で、東武動物公園の”カバ園長”の西山登志雄さんの話だ。西山さんは「ぼくの動物園日記」というマンガの主人公にもなったので、筆者もよく覚えている。

動物園で育った動物は、自分の生んだ子どもでも育てようとしない。子育ての本能を忘れてしまうのだと。この話を聞き、大山さんは施設で保護されて生きることが、必ずしも本人にとって良いとは限らないのではないかと思ったという。

もう一つはたまたま法事で訪問した禅寺の住職の話だ。

大山さんが知的障害者が施設より工場に来たがることを話すと、住職は次のように言ったという。

「人間の幸せは、ものやお金ではありません。人間の究極の幸せは次の4つです。その一つは、人に愛されること。2つは、人にほめられること。3つは、人の役に立つこと。そして最後に、人から必要とされること。

障害者の方たちが、施設で保護されるより、企業で働きたいと願うのは、社会で必要とされて、本当の幸せを求める人間の証しなのです。」

これを聞いて大山さんは、いつも障害者に「がんばってくれてありがとう」と、なにげなく言葉をかけていたことを思い出し、それが彼らに幸せを与えていたことに気が付いたという。

「働く」という字は漢字ではなく日本で作った「国字」だ。人のために動くから「働く」なのだと、大山さんは語る。


障害者多数雇用工場として発展

大山さんの工場は順調に生産を延ばし、1973年に出来た「障害者多数雇用モデル工場」融資制度を使って、大きな敷地に移ることを検討した。

しかし当時工場のあった大田区からは民間の工場を支援するつもりはないと冷たく断られる。

それでも気を取り直して隣の川崎市に行くと、川崎市では市長みずからが公的機関が障害者を雇うよりも民間企業に雇って貰った方が良いと語り、4,000M2の土地を安く貸して貰えることになった。


チョークの技術開発でも日本トップ

第2工場として北海道の美唄市に建設した工場では、北海道ならではのエコ商品の開発に成功する。北海道ではホタテの漁獲量は45万トンと日本最大だが、それに伴ってホタテ貝殻が毎年大量に発生して、産業廃棄物となっていた。

このホタテ貝殻を原料としてチョークの生産を研究し、ついに2005年、ホタテ貝殻を10%混ぜたチョークの開発に成功した。

同時に開発に成功した全く粉の出ないチョーク技術とあわせて、2005年にエコ商品で”グリーン購買対応商品”として売り出し、国内トップシェアの年間5千万本を売り、売り上げ拡大に貢献した。


大山さんのこだわり

大山さんのこだわりは、たとえ知的障害者を雇っていても、賃金は最低賃金以上を払うことだ。知的障害者は月間1万円とか1万5千円とかの給料で使われることが多いが、大山さんは健常者並の賃金を払うことを会社方針として堅持している。

以前ヤマト運輸の創業者の小倉昌男さんの本を読んだが、小倉さんも障害者雇用拡大に努力し、全国にチェーン店展開しているスワン・ベーカリーを始めて、障害者を雇って健常者並の賃金を払うようにしている。

経営はロマンだ! 私の履歴書・小倉昌男 (日経ビジネス人文庫)経営はロマンだ! 私の履歴書・小倉昌男 (日経ビジネス人文庫)
著者:小倉 昌男
販売元:日本経済新聞社
発売日:2003-01-07
おすすめ度:4.5
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大山さんの日本理化学工業は、川崎市の推薦を受けて、2008年経産省から「明日の日本を支える元気なモノ作り中小企業300社」に選ばれたという。障害者雇用とは関係のない経産省から表彰されたことが、大山さんは嬉しかったという。


障害者雇用のメリット

最後に大山さんは障害者雇用のメリットを次の4つに整理している。

1.労働力を確保できること。

2.会社に「助け合う風土」が生まれる

3.消費者が味方してくれる

4.地域に支えてもらえる

ユニクロはやはり障害者雇用に熱心な企業の一つだ。現在障害者雇用率は8%で、従業員5,000人以上の大企業ではずば抜けた雇用率だ。ユニクロの柳井さんは、次のように語っているという。

「障害者と一緒に働くことで、彼らが苦手とする作業をフォローしたり、できる仕事をもっと上達させてあげようと、他のスタッフが協力しあうようになった。

その気持ちが従業員同士、さらにお客様に対しても向けられるようになり、結局は売り上げアップにもつながった。」


大山さんの見果てぬ夢

大山さんはベルギーの知的障害者雇用制度を日本にも導入しようとしたが、みんなから反対されて果たせなかったと語る。

ベルギーの制度とは、企業が知的障害者を雇用して最低賃金を支払うと、国が最低賃金分を補助するというしくみだ。実際賃金ゼロで障害者を雇えるのだ。

国は障害者施設の運営費用負担を減らし、企業は障害者を雇用しやすくなり、障害者は多くの働く場を得られる3方1両得の制度だ。

行政がお金をかけて施設でケアするよりも、企業に最低賃金分を支払って雇用して貰うほうが合理的なのだと、ベルギー政府の担当者は語っていたという。

日本で厚生省が所管していた「障害福祉基礎年金」と労働省が所管していた「最低賃金」を合計すれば、解釈を変更するだけで日本でも同様の制度ができると大山さんは考えたが、思わぬ反対にあった。

大山さんは全国重度障害者雇用事業所協会の会長を務めていたが、元労働省の事務次官の相談役に相談すると「年金は年金。賃金は賃金です。君は労働省を敵にまわす気か?」と言われたという。

省益を優先する官僚の本能的な拒絶にあったのだ。他の理事も相談役の顔色を見て、賛成しなかった。

結局大山さんは会長職を2003年に退任。この案は見果てぬ夢に終わった。日本の障害者雇用のこれからの問題である。


今度紹介する「日本でいちばん大切にしたい会社」は30万部、この「働く幸せ」は6万部のベストセラーになったという。

障害者雇用はきれい事だけではすまされない。日本理化学工業では、本当はこの本に書いてない大変な苦労があったのだろうが、それを乗り越えて知的障害者雇用率7割というのは大変立派な数字だ。

感動の実話である。大山さんの淡々とした文章にも好感を覚える。是非一読をおすすめする。


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2009年11月21日

投稿500回記念! 奇跡のリンゴ こんな面白い本ひさしぶりに読んだ

このブログの投稿も、いよいよ500回となった。

2005年1月にこのブログを書き始めて5年で500回なので、大体週に2回のペースであらすじを紹介してきた。

500回記念は、「奇跡のリンゴ」だ。

こんな面白い本ひさしぶりに読んだ。500回記念にふさわしい本である。

奇跡のリンゴ―「絶対不可能」を覆した農家・木村秋則の記録奇跡のリンゴ―「絶対不可能」を覆した農家・木村秋則の記録
著者:石川 拓治
販売元:幻冬舎
発売日:2008-07
おすすめ度:4.5
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NHKの「プロフェッショナル仕事の流儀」でも取り上げられた青森県の無農薬リンゴ農家の木村秋則さんの苦労を描いたノンフィクション作品。



NHKの番組のキャスターの茂木健一郎さんのブログ、クオリア日記にも木村さんのことが紹介されている。木村さんの歯の抜けた笑顔が印象的な表紙の本だ。

茂木さんの発案で、この本が出来た経緯もあり、茂木さんのブログではこの本のアウトラインがそっくりそのまま取り上げられている。木村さんがNHKの番組で語ったことをそのまま本にしている感じだ。

「マイクロソフトでは出会えなかった天職」も大変面白かったが、この本も非常に面白い。ほとんどノンフィクション小説といえる内容だ。


木村さんは1949年生まれ。巨漢相撲取りの岩木山で有名な岩木山で農家の次男として生まれ、リンゴ農家の婿養子となる。

奥さんが農薬過敏症で農薬に苦しめられたのと、ある時読んだ福岡正信さんの「自然農法」に惚れ込んで無農薬のリンゴ生産を決意する。

自然農法 わら一本の革命自然農法 わら一本の革命
著者:福岡 正信
販売元:春秋社
発売日:2004-08-20
おすすめ度:4.5
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それから8年間は苦労の連続だ。木村さんのリンゴ園は農薬をやめたので、リンゴの木は生気を失い、結局何年も生産ゼロが続いた。

お金がなく、家族にもみじめな生活をさせていた木村さんが、弱音を吐いて「もう諦めた方がいいかな」と言うと、おとなしい長女は色をなして怒ったという。

「そんなの嫌だ。なんのために、私たちはこんなに貧乏しているの?」

木村さん自身の「リンゴが教えてくれたこと」によると、木村さんの長女は次のように言ったという。

「お父さんのやってきたことはすごいこと。答のない世界でゼロから始めてここまで来た。」うれしかったと。

リンゴは木村さんの「公案」だ。「公案」については、「ビルゲイツの面接試験」のあらすじでも紹介したが、禅問答のことだ。

8年間努力して、結局失敗し、死に場所を求めてロープを持って岩木山の山奥に入ると、山腹に見事なリンゴ林が見えた。実は旧陸軍の軍馬の飼育場にあった椎の木林の見間違えだったのだが、人手が全く掛かっていないのに、雑草に囲まれた椎の木は健康そのものだったという。

木村さんは自分の畑とは全く違う刺激臭のするフカフカで暖かい土に気づく。土中に窒素があり余っていて、養分満点の土なのだ。

今までリンゴの木にばかり気を遣っていたが、土やリンゴの木の根っこには全く気を付けていなかった。それが盲点だったのだ。

自分の畑でもそれを再現しようと努力する。やわらかい土に植わっている木の根っこは、地中深く伸び、石ころだらけの畑で育つフランスボルドーのぶどうの様な話だ。まさにワインのテロワールだ。

terroir










出典:2009年11月12日の朝日新聞のボルドーワイン広告

それから数年木村さんの試行錯誤は続くが、努力が実って木村さんの800本のリンゴの木は蘇り、他にはない糖度のきわめて高い美味しいリンゴができるようになった。

とうとう木村さんはリンゴの木の声が聞こえるようになったのだ。木村さんは主人公は人間ではなくて、リンゴの木で、人間は単にリンゴの木の手伝いをしているに過ぎないと語る。それがわかるまで実に長い時間が掛かってしまったと。

東京白金台のフレンチレストランのシェ・イグチでは木村さんのリンゴのスープが看板メニューだという。木村さんのリンゴは2年経っても腐らないのだと。

木村さんが酔うと決まってする宇宙人に会って、宇宙船に乗った話とかも紹介されている。

まるで筆者の好きな未知との遭遇の一場面のようだ。



たぶん木村さんも現実と映画と渾然となっているのではないか?


害虫の顔を虫眼鏡で見た話も面白い。

リンゴの葉を食う害虫は、草食動物なので、つぶらなヒトミのすごくかわいい顔しているのだと。逆に害虫を食う益虫は、肉食動物なのでどう猛な顔をしていると。

ようやく熟れたリンゴが出来た時、木村さんはリンゴ箱を大阪駅気付で、自分宛に送った。「何で大阪かって?食は大阪にありって言うでしょう」

そのリンゴを大阪城公園でのイベントで売ろうとしたが、ほとんど売れなかった。しかしたまたま一袋買った人から手紙が届く。「あんな美味しいリンゴは食べたことがありません。また送ってください」

それからはうまくいったり失敗したりを繰り返したが、徐々にリンゴも安定し、毎年美味しいリンゴが採れるようになった。

最後にこの本のレポーターは木村さんをノアの箱船で有名なノアにたとえている。「私の船に乗りなさい」

木村さんはリンゴ生産の傍ら、全国で無農薬栽培を広める活動もしている。木村さんの農業支援活動は、木村さん自身が書いた「リンゴが教えてくれたこと」に詳しい。

リンゴが教えてくれたこと (日経プレミアシリーズ 46)リンゴが教えてくれたこと (日経プレミアシリーズ 46)
著者:木村 秋則
販売元:日本経済新聞出版社
発売日:2009-05-09
おすすめ度:5.0
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木村さんは米の自然栽培も手がけ、全国で指導もしている。「米の自然栽培は難しくない」と。

木村さんの指導する宮城県の「加美よつば農協」のつくった自然米はすべて東京に本社を持つ清水精華堂霰本舗が買い付けたという。

自然栽培とJAS法に基づく有機栽培とは全然違うことも参考になった。有機栽培でつくった野菜や米は一番先に腐る。次がスーパーで買った野菜・米、そして一番原型をとどめたのは自然栽培ものだった。

自然のものは枯れていく、人のつくったものは腐るという。腐ることのない野菜を食べていれば、どれほど健康になるだろうかと。

食という字は、人に良いと書く。人に良くないものは食と呼ばないでくれと木村さんは語る。


あまりに面白い本なので、木村さんのホラやレポーターの脚色が相当入っているのではないかという気がして、木村さん自身の本も読んでみたのだが、書いてあることは基本的に同じだった。


こんな面白い本を読むのはひさしぶりだ。木村さん自身の「リンゴが教えてくれたこと」も参考になるが、食に警鐘を鳴らす結構カタイ内容なので、読書=エンターテイメントとしては幻冬舎の本が面白い。さすがヒットメーカーの幻冬舎だ。

読み始めたら引き込まれて一気に読んでしまう。是非一読をおすすめする。


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2009年08月31日

ミッドウェーの奇跡 元GHQ戦史室長がまとめた中立的戦史

ミッドウェーの奇跡〈上〉ミッドウェーの奇跡〈上〉
著者:ゴードン・W. プランゲ
販売元:原書房
発売日:2005-02
おすすめ度:5.0
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図書館で見つけて読んでみた。ミッドウェー海戦といってもあまりピンと来ない人もいるかもしれないので、あらすじとともにYouTubeの映像もいくつか紹介しておく。

原書房という知らない出版社だし、装丁もパッとしないので、あまり期待しないで読んでみたが、実は著者のゴードン・プランゲ博士はGHQの戦史室長として昭和26年まで日本に滞在し、旧軍人を中心に200人もの人を自宅に招いて何度もインタビューし、それをもとに3つの作品を残した人だった。

プランゲ博士の収集したプランゲ文庫は、ワシントンDC郊外のメリーランド大学に保管されており、1945年から1949年の日本のほとんど全ての印刷物を集め、中にはGHQの検閲で発禁になったものも含まれる貴重なコレクションとなっている。


ブレンゲ博士の3部作

プランゲ博士の残した3つの作品で最も有名なものは、日米合作映画「トラ・トラ・トラ」の原作となった「トラ・トラ・トラ」だ。



トラトラトラ〈新装版〉トラトラトラ〈新装版〉
著者:ゴードン・W. プランゲ
販売元:並木書房
発売日:2001-06-01
おすすめ度:4.5
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もう一つは日本経由でドイツの情報がソ連に流れていたゾルゲ事件を取り上げた「ゾルゲ・東京を狙え」。

ゾルゲ・東京を狙え〈上〉ゾルゲ・東京を狙え〈上〉
著者:ゴードン・W. プランゲ
販売元:原書房
発売日:2005-04
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そして今回の「ミッドウェーの奇跡」だ。


翻訳者の千早さんも戦史専門家

翻訳者の千早正隆さんは、終戦時の連合艦隊参謀で元海軍中佐、プランゲ博士が戦史室長を務めていた時にGHQ戦史室に勤め、資料収集に協力した。

千早さん自身も「日本海軍の戦略発想」という本で、敗戦原因について語っており、昨年末に新装版が発売されている。

日本海軍の戦略発想日本海軍の戦略発想
著者:千早 正隆
販売元:プレジデント社
発売日:2008-12
おすすめ度:5.0
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この本では、真珠湾攻撃に成功し、マレー沖海戦で英国艦隊に打撃を与え、セイロン沖海戦にも勝利して、米海軍に対し物量的にも優っていた日本海軍が、なぜアリューシャン列島攻撃ミッドウェー作戦という意味の無かった作戦を行い、敗れたのかを当時の日米関係者へのインタビューも含めて中立的に描いている。

YouTubeでも当時のフィルムをカラーにした記録映画が掲載されているので、紹介しておく。冒頭のシーンはドーリットル爆撃だ。



「ミッドウェー」という映画も作られている。




ミッドウェー海戦の本

ミッドウェー海戦はまさに太平洋戦争の転換点となったので、敗戦の理由は過去からいろいろ取り上げられ、様々な本が出版されている。


「運命の5分間」

真珠湾攻撃総隊長として戦果を挙げた淵田美津雄氏(戦後は宣教師となった)と大本営参謀の奥宮正武氏の「ミッドウェー」。

ミッドウェー (学研M文庫)ミッドウェー (学研M文庫)
著者:淵田 美津雄
販売元:学習研究社
発売日:2008-07-08
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ミッドウェー海戦では、日本軍空母が地上攻撃の爆弾から艦隊攻撃の魚雷に爆装転換していた「運命の5分間」に太陽を背にした米国急降下爆撃機が突如現れ、「赤城」、「加賀」、「蒼龍」に直撃弾を食らわせ、それが準備中の爆弾・魚雷に引火して大爆発を起こした。

それが直接の敗因で、あと5分あれば全機発艦して被害は免れていたというものだ。この「運命の5分間」についてはNHKがまとめたビデオで紹介されている。



これに対して「ミッドウェー海戦史に重大なウソを発見した」という澤地久枝さんは、「滄海よ眠れ」という全6巻のミッドウェー戦記を書いて「運命の5分間」に疑問を投げかけている。

滄海よ眠れ 1―ミッドウェー海戦の生と死
著者:澤地 久枝
販売元:毎日新聞社
発売日:1984-09
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澤地久枝さんの「記録ミッドウェー海戦」

澤地久枝さんは、集めた資料を一冊の本にして「記録ミッドウェー海戦」という本も出版している。

記録ミッドウェー海戦
著者:澤地 久枝
販売元:文藝春秋
発売日:1986-05
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実は筆者の亡くなった父からミッドウェー海戦で、いとこが空母の機関員として必死の操艦の末戦死したと、子どもの頃聞いたことがある。

この「記録ミッドウェー海戦」を調べてみると、たしかに「加賀」の機関員として「須山正一」という人が戦死している。筆者のおじさん(父の弟)から貰った昭和16年の戸籍謄本があるので確認してみたら、たしかにこの人は父のいとこで間違いない。

慰霊碑で親戚の名前を見つけた思いだ。19歳5ヶ月で戦死している。さぞかし家族は悲しんだだろうと思う。筆者もあたらめてショックを受けた。


ミッドウェー敗戦の根本原因

山本五十六大将は、ミッドウェー海戦後、部下に「敗戦は私の責任だ」と語ったそうだ。プランゲ博士もミッドウェー海戦の敗戦の真の責任者は山本五十六だと述べながらも、驕慢が海軍のみならず全国民に蔓延していたことを強調している。

「日本をこのように征服、驕慢、傲慢に駆り立てた歓喜に溺れた雰囲気の背景を見ることなくしては、ミッドウェーの史的ドラマの真相を理解することはできない。

「彼らが自信から生まれた幸福感にひたった過程を見ることなくしては、彼らが真珠湾で見せた綿密な作戦計画、徹底した訓練、細心な機密保持が、わずか6ヶ月足らずの間にどうして消え失せたのかを、知ることはできないであろう。」


ミッドウェー海戦の評価

この本でプランゲ博士はアメリカの海軍大学で教えている204SMEC方式という作戦評価方式で、日本軍のミッドウェー作戦を評価している。いかに成功の可能性が少なかったかがよくわかる。

1.目的
ミッドウェー島を攻撃し占領するのか、ニミッツの太平洋艦隊を撃滅するのか。プランゲ博士は日本の計画は最初から「双頭の怪物」だったという。そもそもアリューシャンとミッドウェーの両方をなぜ攻略しなければならないかったのか目的が不明だ。

2.攻勢
計画を成功率の高いものにするためには、"IF"に対する備えがなければならない。もしアメリカが察知していたら?もしアメリカが早く発見したら?もし第1航空艦隊が大損害を受けたら?日本は全く対策を立てていなかった。

もしリスクをきちんと考えていたら、敵がまだ発見出来なかった段階で空母4隻を一個所に集中させるような艦隊配置は取っていなかっただろう。

プランゲ博士が指摘する日本海軍のリスク認識欠如、慢心を示す一例が服装だ。空母の乗員の多くは半ズボン半袖で、防火効果がある長袖、長ズボンの戦闘服を着させていなかった。これがためやけどで命を失った乗員も多い。

3.交戦点における優勢
日本はこの時点では物量でアメリカを上回っていたのに、兵力を分散して集中効果を失った。アメリカ軍がほとんどいないアリューシャンを同時に攻めたり、戦艦を空母から300海里後方に配備したり、用兵を誤った。防御の弱い空母の代わりに戦艦を先頭に立てていたら、空母全部がやられることもなかっただろう。

4.奇襲
アメリカは日本海軍のJN25暗号を解読していた。日本側の通信の中で頻繁に出てくる"AF"がミッドウェーだということも知っていた。日本は潜水艦による策敵も飛行艇による哨戒も不十分だった。

ミッドウェー海戦前の暗合解読についてのNHKの番組がYouTubeに掲載されている。



5.機密保持
日本海軍は真珠湾の時のような機密保持の注意や綿密さは完全に消え失せた。ニミッツは事前に日本側の戦力をほぼ完全につかんでいた。

日本の空母にはレーダーが装備されていなかった。レーダーの試作機は戦艦伊勢と日向に装備されたが、この2戦艦はアリューシャンに向かっていた。レーダーが空母に装備されていたら、4空母が一度に沈められるということもなったろう。

6.単純性
山本長官は戦艦主義と航空主義の調整をつけられなかった。

戦艦は40センチ以上の主砲を持ち、陸上のいかなる要塞砲にも圧倒的に勝っているのに、ミッドウェー砲撃を主張する部下に、「君は海軍大学校の戦史の講義で、海軍艦艇は陸上兵力と戦うなということを習っただろう」と言ったという。

宇垣はさらに辛辣だったという「艦隊の砲力で陸上の要塞を攻撃することが、いかに愚かなことであるかは、十分に知っているはずではないか」

ミッドウェー島のどこに要塞があるというのだ。

彼我の戦力の徹底的な分析なしに、日露戦争の時の旅順攻撃の後遺症の「艦砲は要塞砲に敵し難い」という原則を忘れたのかと叱責する始末だった。

戦艦の艦砲射撃と航空攻勢を融合したのはニミッツだった。

7.行動性、機動性
山本長官は南雲部隊の空母4隻は失ったが、依然として4隻の空母、110機の航空戦力を持っていた。

アメリカ空母3隻のうち2隻が沈没あるいは大破だったので、日本は依然として強力な戦力を持っていた。それにもかかわらず、山本長官は空母を沈められ、艦載機の多くを失って、どうしたらよいかわからなくなくなって日本に逃げ帰った。

プランゲ博士は、山本長官はケンカ好きのテリアに追われて、しっぽを巻いて逃げ帰るセントバーナード犬のように大部隊を率いて本国に逃走したのだと評している。

8.戦力の最善活用
山本長官はあらゆる艦船を出撃させ、貴重な燃料を浪費した。さらにミッドウェー基地の空襲に使用した航空戦力は過大で、まだ見えないアメリカ機動部隊の反撃に備えるべきだった。

9.協同、統一指揮
山本長官は旗艦を連れて行ったばかりに、この重要な法則に違反することになった。無線封止を保つ必要から戦艦大和からは山本長官は指揮できなかったのだ。これに対してニミッツは真珠湾にいた。


血のつながった親戚が亡くなっているので、敵機がいつ現れないとも限らない戦場で、爆弾を積んだ飛行機をすべての空母の航空甲板上に並べていた日本海軍のリスク意識の欠如に憤りを感じるが、たしかにプランゲ博士が指摘しているように、当時は日本全体が戦勝に酔っており自らを失って慢心の極にあったことが根本原因だろう。

昭和天皇が「昭和天皇独白録」で、敗戦の第一の原因として挙げている通りだ。

「敗戦の原因は四つあると思う。
第一、兵法の研究が不十分であった事、即孫子の、敵を知り、己を知らねば(ママ)、百戦危うからずという根本原理を体得していなかったこと。
第二、余りに精神に重きを置き過ぎて科学の力を軽視したこと。
第三、陸海軍の不一致。
第四、常識或る主脳者(ママ)の存在しなかった事。往年の山縣(有朋)、大山(巌)、山本権兵衛、という様な大人物に欠け、政戦両略の不十分の点が多く、且軍の主脳者の多くは専門家であって部下統率の力量に欠け、いわゆる下克上の状態を招いたこと。」


ミッドウェー海戦は様々な教訓を残している。知識経営論の野中郁次郎教授も参加している日本軍の戦略の失敗を研究した「失敗の本質」は1984年発刊だが、いまだによく売れており、アマゾンでも540位のベストセラーだ。

失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫)失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫)
著者:戸部 良一
販売元:中央公論社
発売日:1991-08
おすすめ度:4.5
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あなたの親戚にも戦争で命を落とした人がいるはずだ。失敗から学ぶことが我々の使命だし、今なお学ぶべきことは多い。機会があれば、上記で紹介した本のどれかを読んで自分の参考にして欲しい。


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2009年08月28日

オバマ大統領がヒロシマに献花する日 戦中派ジャーナリストの献花外交のすすめ

オバマ大統領がヒロシマに献花する日 (小学館101新書)オバマ大統領がヒロシマに献花する日 (小学館101新書)
著者:松尾 文夫
販売元:小学館
発売日:2009-08-03
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元共同通信ワシントン支局長の松尾文夫さんの相互献花外交のすすめ。共同通信退社後、2002年にジャーナリストとして復帰、「銃を持つアメリカ」を日米両国で出版、この本は8月に発売されたばかりの最新作だ。

銃を持つ民主主義―「アメリカという国」のなりたち (小学館文庫)銃を持つ民主主義―「アメリカという国」のなりたち (小学館文庫)
著者:松尾 文夫
販売元:小学館
発売日:2008-03-06
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Democracy With a Gun: America and the Policy of ForceDemocracy With a Gun: America and the Policy of Force
著者:Fumio Matsuo
販売元:Stone Bridge Pr
発売日:2007-10
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松尾さんは1933年生まれ。小学生の時に新宿区の戸山小学校(当時は国民学校)でドーリットル隊のBー25が地上スレスレの超低空で東京を空襲したのを目撃する。

小学校の校庭から大きな鼻の操縦士をはっきり見たという。その大きな鼻の操縦士と再会し、2005年のドーリットル爆撃隊の年次総会に出席した話も紹介されている。

YouTubeにドーリットル爆撃の実写フィルムがミッドウェー海戦とともに掲載されているので紹介しておく。レーダーに捕捉されないため(当時日本ではレーダーは実用化されていなかったが)超低空で飛行していることがよくわかる。

これならパイロットの顔もわかるはずだ。



ちなみに松尾さんもドーリットル爆撃を、ミッドウェイでの敗北の遠因となった太平洋戦争の一大転機と位置づけている。

たしかに空母に爆撃機を積んで発進させ、レーダーに発見されないように超低空飛行を続け、日本を通って中国に着陸するまで合計13時間、3,500キロも飛ぶ。

そして日本初爆撃で日本の指導者と国民を震撼させる上に、生還した爆撃機は中国に渡そうという構想は、敵の裏をかいた一石何鳥もねらった優れたアイデアだと思う。(ちなみにパイロットたちは皇居は狙わないように注意されていたという)

日本戦府は9機撃墜と発表したが、実際は1機も打ち落とせなかった。

しかし16機すべて途中で燃料がなくなって不時着したり、着陸時に壊れたりして、結局中国に引き渡せた機体はなかったというが、それでもアメリカ国民の士気を鼓舞し、日本を震撼せしめる大きな効果はあった。

松尾さんは疎開先の福井で敗戦直前の1945年7月にB−29の夜間無差別焼夷弾爆撃を受け、たまたま近くに落ちた焼夷弾が不発弾だったので九死に一生を得る。

このような戦争体験を持つ松尾さんは、戦争を知る最後の年代として「何故アメリカという国と戦争したのか」、「アメリカとはどういう国なのか」にジャーナリストとしてこだわりたいと語る。


オバマ大統領に広島で献花を

自分の生きている間は無理かもしれないとしながらも、2009年4月のプラハ訪問の時に核廃絶を目標として発表したオバマ大統領に広島で献花してもらい、返礼として日本の首相が真珠湾のアリゾナ記念館で献花する献花外交を松尾さんは提唱する。

すでに2008年に米国ナンシー・ペロシ下院議長の広島献花と、河野衆議院議長のアリゾナ記念館での相互献花が実現している。

松尾さんは献花外交というアイデアを2005年8月のウォールストリートジャーナルの意見欄でも明らかにした。

オバマ大統領は2009年6月にドレスデンを訪問しており、広島訪問も決して実現性のない話ではないと思う。


ドレスデンの和解

1995年にドイツ大統領、エリザベス女王名代のケント公、イギリス、アメリカの軍人トップが集まった「ドレスデンでの和解」がまず取り上げられている。

この日のドイツヘルツォーク大統領の「命を命で相殺できない」という演説は松尾さんのサイトでも紹介されている。

和解の印として相互に献花を行い、不戦の誓いと結束を新たに相互に確認しているのだ。

様々な戦争記念日は特別のイベントとしてメディアにも注目され、自国民のみならず、近隣や関係諸国の国民にも与える影響が大きい。まさに象徴的な献花外交と言えるだろう。

松尾さんはドレスデンの他に、スペイン ゲルニカや英国コベントリーの他、南京、重慶なども訪れている。


独仏共通歴史教科書

日韓で共通歴史教科書をつくることが検討されているが、献花外交の成果の一つは独仏共通歴史教科書だ。

共通教科書構想自体は1920年代からあったが、2003年の両国青年会議での提案をシラク大統領とシュレーダー首相が受け入れ、2006年に第1部「1945年以降」が初めて出版された。

第1部は日本語にも翻訳されているので、今度読んでみる。

ドイツ・フランス共通歴史教科書【現代史】 (世界の教科書シリーズ)ドイツ・フランス共通歴史教科書【現代史】 (世界の教科書シリーズ)
著者:ペーター ガイス
販売元:明石書店
発売日:2008-12-15
おすすめ度:5.0
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2008年に第2部「ウィーン会議から1945年まで」が出版され、第3部の「ウィーン会議までの時代」が2010年までに出版される予定だ。

共通歴史教科書は、歴史評価がシンクロできて、相互の理解が深まる良い手法だと思う。日韓や、時間が掛かるかもしれないが、日中でも共通歴史教科書は検討すべきではないかと思う。


日本とドイツの戦後処理の際だった違い

この本では戦後処理に関するドイツと日本の大きな違いを明らかにしており、興味深い。

ナチスドイツが一党独裁で戦争を推し進め、ユダヤ人やポーランド人を虐殺したドイツと、国民のほとんど全体が戦争を望み、圧倒的コンセンサスで「鬼畜米英」を相手に戦争に突入した日本では事情が大きく異なり、単純な比較はできないが、参考になる事例ではある。

日本とドイツの差は次のような点だ。


戦争犯罪追求

ドイツではいまだに「ナチス犯罪究明各州合同法務センター」がナチス犯罪を追求しており、2007年末までに訴追件数11万3千件、有罪7千4百件、死刑12件、終身刑167件、懲役6千2百件が確定している。

これは連合国によるニュルンベルグ裁判とは全然異なり、ドイツ人自身がナチスの犯罪を許さないという確固たる国会意思によって支えられている。

日本では東京裁判で連合国によりA級戦犯などが裁かれた。東京裁判とA級戦犯についてはこのブログでも紹介しているので、参照して欲しい。

日本人自身が「満州事変、シナ事変、大東亜戦争を不可避ならしめた者」を反逆罪で裁く緊急勅令案が、戦争終結直後の東久邇宮内閣や幣原内閣では考えられていたが、GHQの指示で東京裁判が開催されることになり、日本人自身が裁く話はその後も持ち上がらなかった。

筆者はナチスドイツとは異なり、日本の場合には国民大多数のコンセンサスで戦争に突入したことから考えて、日本人自身が日本の戦争犯罪人を裁くというのは当てはまらないと考えている。

一方、松尾さんは「日本はこの幻の自主裁判案の挫折で、私が本書でドイツとの対比で言い続けている敗戦のケジメ、つまりその戦後の再スタート時につけるべき大きなケジメのチャンスを失ったということである」と書いている。

これは「進駐軍と呼ぶのはまやかしだ、占領軍とはっきり呼ぼう」との松本重治の記事を検閲で削除した事とつながるGHQの占領政策であり、日本人が自らケジメをつけることを望まない「日本占領」の素顔がのぞいていると松尾さんは語る。


戦争責任を認めた謝罪外交

ドイツでは政府指導者が、ゲルニカ爆撃謝罪や、ワルシャワでのポーランド人虐殺、ホロコースト謝罪など目に見える形で戦争責任の謝罪を行っている。

その一方でドレスデン爆撃を強く主張したアーサー・ハリスイギリス空軍司令官の銅像建立に際してはコール首相が抗議している。

人道に対する罪をドイツは国内外の区別無く糾弾し、ドイツ自身の場合は謝罪し、そして連合国の犯罪は糾弾しているのだ。

これに対し日本は1995年の村山談話を公式見解として、新たな指導者は戦争責任は公式には口にしていない。

また東京大空襲はじめ日本の都市に対する夜間無差別焼夷弾爆撃による焦土作戦を立案・実行したカーチス・ルメイ将軍に対して、日本は航空自衛隊を育成したという功績で「勲一等旭日大授章」を贈っているのだ。

昭和天皇はカーチス・ルメイへの勲一等授与ははっきり拒否している。

松尾さんがアメリカでドーリットル隊の元軍人にこの話をすると、みんな沈黙したという。アメリカではルメイが無差別殺人を命じた張本人と見られているのに、その人物に対して日本が勲章を贈ったことが信じられないという。

ちなみに東京を焼き尽くし民間人を攻撃するという出撃命令を受けた爆撃機パイロットは皆ふさぎ込んでしまったという話は「B−29 日本爆撃30回の実録」のあらすじで紹介した通りだ。


民間人の戦争被害補償

ドイツでは民間人に対しても空襲や地雷、艦砲射撃の被害を戦争の直接被害として国家補償がなされている。ドイツではすでに1870年の普仏戦争から一般市民の戦争損害を補償しており、この伝統が守られているのだ。

日本では2008年に国会図書館社会労働調査室の宍戸伴久氏が「戦後処理の残された課題ー日本と欧米における一般市民の戦争被害の補償」という論文を発表している。

旧軍人には恩給法、軍属にはいわゆる「遺族援護法」が沖縄戦犠牲者、原爆犠牲者、戦後引き揚げ者・シベリア抑留者に適用されてきたが、空襲で焼け出されたり、死亡した被害者は補償の対象となっていない。

2007年3月から東京大空襲訴訟が始まっており、近々東京地裁で判決が下される事になっているが、最高裁判所は1987年の名古屋空襲の被害者に対して、戦争は国民として受忍すべきで、補償するには国会の立法が必要として請求を退けており、これが現在の判例だ。

余談になるが、筆者の亡くなった父はたしか昭和18年に徴兵され、上海からベトナムを経て最後はインドネシアで終戦を迎えた。後に続く輸送船はことごとく米国の潜水艦に沈められ、父達のあとの新兵の補充はなかったので、ずっと二等兵のままだったという話をしていたことを思い出す。

父とは軍人恩給の話をしたことはないが、恩給をもらうには期間が足りないと、父と同居していた弟から聞いたことがある。軍人恩給がどういう基準でもらえるのか総務省のQ&Aがあるので、興味のある人は参照して欲しい。

戦地加算一覧表というのもある。普通は12年以上の軍務だが、戦地の1年は4年に換算される。

いずれにせよ本人が亡くなると相続はしないので、父が亡くなった以上今は関係ないが、どうやらもうすこしのところで父は期間が満たなかった様だ。


占領地での強制労働の補償

さらにドイツは2000年仲介役のアメリカの協力も得て、ナチス時代のドイツ支配地域での強制労働の被害者にも道義的補償と位置づけて「ナチス強制労働補償財団」をつくって補償に応じている。

2007年には166万人に対して44億ユーロ(5,700億円)が支払われたという。


日本の戦争被害の補償

日本の場合にはサンフランシスコ講和条約第14条B項で、「連合国及びその国民」の日本に対する賠償請求権放棄を明記しているが、これを見直すべきだとの意見もスタンフォード大学アジア・大洋州研究センター所長の申基旭(Gi-Wook Shin)教授などから出されているという。

申教授の考えでは、「アメリカは戦後ドイツに周辺国との和解を勧めた欧州での政策と対照的に、戦後日本に対しては、近隣アジア諸国に対する和解を勧めなかったのみならず、逆に冷戦の敵としての中国、北朝鮮との敵対関係を放置し、あおるような行動に出た。このアメリカの政策が現在の東北アジアで和解ができていないことの根源にある。」

「1951年のサンフランシスコ平和条約の締結国にも韓国や中国は入っていない。東京裁判でも欧米人捕虜虐待問題は裁かれたが、中国や朝鮮半島での日本の残虐行為は裁かれなかった。アメリカの強い意向で天皇が訴追から守られ、天皇制の維持が図られた。」

「こうした北東アジアの緊張を解き、和解を達成するために、アメリカはドイツの戦時補償問題解決で仲介役を果たしたのと同じように、サンフランシスコ平和条約の第14条B項にある賠償権の放棄を再解釈する努力に日本の協力も得て取り組むべきである」

というものだ。

申教授が編者となった"Colonial Modernity in Korea"(「韓国の植民地近代性」)という本で、韓国での日本の植民地政策の賛否両論をまとめているようなので、この九月に家族でソウルに旅行することでもあり、読んでみようと思う。

Colonial Modernity in Korea (Harvard East Asian Monographs)Colonial Modernity in Korea (Harvard East Asian Monographs)
販売元:Harvard University Asia Center
発売日:2001-09-01
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相互献花外交という点以外、ドイツを戦後処理の範とする松尾さんの理由付けが今ひとつ弱いような気がするが、いずれにせよ日本の近隣諸国との関係を考える上で参考になる本である。

オバマ大統領が出てくる部分はほんの一部なので、タイトルに惹かれて読むとがっかりするかもしれないが、ドイツの戦後処理を知るだけでも参考になると思う。

出たばかりの本なので、書店で手にとってパラパラめくってみることをおすすめする。


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2009年08月17日

昭和天皇独白録 寺崎英成 御用掛日記 貴重な歴史資料

+++今回のあらすじは長いです+++

昭和天皇独白録 (文春文庫)昭和天皇独白録 (文春文庫)
著者:寺崎 英成
販売元:文芸春秋
発売日:1995-07
おすすめ度:4.0
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昭和天皇独白録・寺崎英成御用掛日記
著者:寺崎 英成
販売元:文藝春秋
発売日:1991-03
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外交官出身で、戦後すぐ昭和21年2月に昭和天皇の御用掛となった寺崎英成氏の記した昭和21年3ー4月の昭和天皇の独白録と寺崎さんの昭和20年から昭和23年までの日記。

寺崎氏は1900年生まれ。昭和天皇より1歳年上だ。兄太郎氏と英成氏の外務省の寺崎兄弟は、柳田邦男さんのノンフィクション「マリコ」の中心人物で、「マリコ」を日米交渉の暗号として連絡を取り合い、日米開戦を回避するために最後まで努力したことが知られている。

マリコ (1980年)マリコ (1980年)
著者:柳田 邦男
販売元:新潮社
発売日:1980-07
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上記に文庫版と単行本を紹介したが、1991年に単行本として出版されたときは、「昭和天皇独白録」(130ページ)、「寺崎英成御用掛日記」(230ページ)、寺崎さんの娘のマリコ・テラサキ・ミラーさんの寄せた「遺産の重み」等(40ページ)の3部作がセットになっていた(カッコ内は、それぞれのページ数)。

「寺崎英成御用掛日記」は元々かなりカットされているが、それでもページ数が230ページと多い。人に公開する前提で書いたものではなく、あまりに私的な部分が多いからだろうが、1995年の文庫版では収録されていない。

その代わり文庫版では半藤一利伊藤隆児島襄秦郁彦の4氏による座談会「独白録を徹底研究する」を解説代わりに付けている。

「昭和天皇独白録」は1990年12月の文藝春秋に発表されて、その存在が明らかになったもので、昭和21年3月から4月にかけて松平慶民宮内大臣、松平康昌宗秩寮総裁、木下道雄侍従次長、稲田周一内記部長、寺崎英成御用掛の五人の側近が、 張作霖爆死事件から終戦に至るまでの経緯を 4日間計5回にわたって昭和天皇から直接聞き、まとめたものだ。

昭和21年始めにマッカーサーは天皇の戦争責任を追及しないという方針を固めていた(この辺の事情は後述の「御用掛日記」の解説にもふれられている)。

なぜ天皇へのヒアリングが同年4月からの東京裁判直前に行われ、ヒアリングが何のために役立てられたのか、寺崎氏の筆記録以外に本紙があったのか、天皇の証言ははたして英訳されたのかなど、文庫版の座談会でも議論されているが不明なままだ。

こんな第1級の資料が1990年になるまで埋もれていたこと自体が信じられないが、寺崎英成氏が昭和26年に死去した後、遺品は米国在住の寺崎夫人グエンドレン(グエン)さんと、娘のマリコさんに引き取られた。

マリコさんの家族は日本語が読めないのでそのままになっていたところ、マリコさんの長男コール氏が興味を持ち、知り合いの南カリフォルニア大学ゴードン・バーガー教授経由日本の現代史研究家に紹介したところ、「歴史的資料として稀有なものである」というお墨付きを得て、文藝春秋に発表したものだ。ちなみに日本の現代史研究家とは座談会にも出席している伊藤隆東大名誉教授のことだ。

「昭和天皇独白録」は、寺崎氏特注の便箋に大半が鉛筆書きで記入され、上下2巻にまとめられたものだ。

出だしに「記録の大体は稲田(周一内記部長)が作成し、不明瞭な点については木下(道雄侍従次長)が折ある毎に伺い添削を加えたものである」

「昭和21年6月1日、本扁を書き上ぐ 近衛公日記及迫水久常の手記は本扁を読む上に必要なりと思い之を添付す」となっている。

この寺崎メモが発見される前に、同じく天皇のヒアリングに立ち会った木下道雄氏の「側近日誌」に断片的に記されていたので、ヒアリングがあったという事実はわかっていたが、克明な資料が残されていたことが、寺崎メモで初めて明らかにされたのだ。

側近日誌
著者:木下 道雄
販売元:文藝春秋
発売日:1990-06
クチコミを見る


この「昭和天皇独白録」の重要部分は、このブログでも紹介している半藤一利さんの「昭和史」、小林よしのりの「天皇論」旧皇族の竹田恒泰さんの「皇族たちの真実」にも引用されているが、まさに昭和史のFAW(Forces at Work=原動力)を裏付ける証言となっている。

昭和天皇が崩御された1989年の翌年の1990年にこの本が出版されたことも、昭和という時代を振り返る上で良いタイミングであったと思う。

不勉強で恥ずかしい限りだが、実はこの本を読むまで「昭和天皇独白録」は、昭和天皇御自身が書かれたものだと思いこんでいて、御用掛の寺崎さんが記録したものとは知らなかった。


独白録の項目

この「独白録」には、ところどころに半藤一利さんの解説も付いているので大変理解しやすい。まずは各項のタイトルを紹介しておく(カッコ内は実際に起こった年で、原本とは異なる)。

<第1巻>
・大東亜戦争の遠因
・張作霖爆死の件(昭和3年)
・倫敦会議、帷幄上奏(いあくじょうそう)問題(昭和5年)
上海事件(昭和7年)
・天皇機関説と天皇現神説(昭和10年)
二二六事件(昭和11年)
・支那事変と三国同盟(昭和12年と15年)
・ノモンハン事件(昭和14年)
・阿部内閣の事(昭和14年)
・平沼と日独同盟(昭和14年)
・御前会議というもの
・米内内閣と陸軍(昭和15年)
・三国同盟(昭和15年)
・南仏印進駐(昭和16年)
・日米交渉(昭和16年)
・9月6日の御前会議(昭和16年)
・近衛の辞職と東条の組閣(昭和16年)
・開戦の決定(昭和16年)
・ルーズベルト大統領の親電

<第2巻>
・宣戦の詔書
・ローマ法皇庁に使節派遣(昭和17年)
・詔書煥発要望の拒否及伊勢神宮
・敗戦の原因
・東条内閣の外交
・東条内閣の内政
・東条という人物
・東条の辞職
・小磯内閣
・小磯の人物
・講和論の台頭
・御名代高松宮の神宮参拝
繆斌(ぼくひん)問題
・最高幕僚設置問題
・小磯の辞職
・鈴木内閣
・首相推薦の重臣会議
・外務大臣・陸軍大臣の任命
・沖縄決戦の敗因
・講和の決意
・6月8日の御前会議とX項
・ソビエトとの交渉
・ポツダム宣言をめぐっての論争
・8月9日深夜の最高戦争指導会議
・8月10日の重臣会議
・12日の皇族会議
・8月14日の御前会議前後
・結論

貴重な資料なので、どれもふれておきたいが、一々紹介していくときりがなく長くなりすぎるので、特筆すぺき発言の要点だけを記すと次の通りだ。(現代仮名遣いに修正済)


★大東亜戦争の遠因
この原因は、第一次世界大戦後の平和条約で、日本の主張した人種平等案は列国から認められず、差別意識は残り、青島還付やアメリカの排日移民法などが日本国民を憤慨させ、反米感情を決定的にした。このような反米国民感情を背景として、ひとたび軍が立ち上がると、これを抑えることは容易ではない。

これが独白録の冒頭文だ。昭和天皇の考える根本のFAW(Forces at Work)をあらわしていると思う。


★張作霖爆死事件の顛末
当時の田中義一首相がうやむやに葬りたいと言ってきたことに対して、「それでは前と話が違うではないか。辞表を出してはどうか」と天皇が言ったことが、田中義一内閣の総辞職と、2ヶ月後の田中義一首相の死去につながった。

実際には首謀者の河本大佐が軍法会議で日本の謀略をすべてバラすと言ったので、軍法会議が開催出来なかったという事情があったらしい。

「こんな言い方をしたのは、私の若気の至りであると今は考えているが、とにかくそういう言い方をした。」

「この事件あって以来、私は内閣の上奏する所のものは、たとえ自分が反対の意見を持っていても裁可を与えることに決心した。」

天皇は国家機関の一部であるとする美濃部達吉の「天皇機関説」は、一時は主流学説だったにもかかわらず、昭和10年に突如国体に反するとの声があがり、禁止された。しかし天皇自身はこのように内閣の上奏は拒否しないことで、絶対君主的な統治者ではないことをはっきり認識されていた。

ちなみにこの項でいわゆる「君側の奸」にもふれている。

原文を引用すると、

「田中にも同情者がある。久原房之助などが、重臣「ブロック」という言葉を作り出し、内閣のこけたは重臣達、宮中の陰謀だと触れ歩くに至った。」

「かくして作り出された重臣「ブロック」とか宮中の陰謀とかいう、いやな言葉や、これを真に受けて恨(うらみ)を含む一種の空気が、かもし出された事は、後々まで大きな災いを残した。かの二二六事件もこの影響を受けた点が少なくないのである。」


二二六事件
天皇は田中内閣の苦い経験があるので、必ず輔弼の内閣の進言通りにしたが、二二六事件と終戦の二回だけは積極的に自らの考えを実行させた。反乱軍には天皇自ら討伐命令を下した。

二二六事件以降軍事テロの恐怖が、常に昭和天皇や政府首脳の頭にトラウマとしてこびりつくことになる。


御前会議
枢密院議長を除く、内閣、軍令部のメンバーは事前に意見一致の上、御前会議に臨むので、反対論を言える立場の人は枢密院議長だけで、多勢に無勢、全く形式的なもので、天皇には会議の空気を支配する決定権はない。


★日独伊三国同盟
昭和15年9月7日、バトルオブブリテンでドイツの英国侵攻失敗が決定的になった日にドイツからスターマー特使が来日、9日後の9月16日、日独伊三国同盟締結が閣議決定された。

昭和天皇は同盟反対だったが、閣議決定には従わざるを得なかった。

この項の前にも昭和天皇は三国同盟締結を勧める秩父宮とケンカしたとか、私が味方にしていたのは、前には(第一次近衛内閣)米内、池田、後では(平沼内閣)有田、石渡、米内だったと語っている。

「この問題については私は、陸軍大臣とも衝突した。私は板垣(征四郎)に、同盟論は撤回せよと言ったところ、彼はそれでは辞表を出すという。彼がいなくなると益々陸軍の統制がとれなくなるので遂にそのままとなった」

さらに畑俊六陸軍大将を侍従武官に任命した時にも、日独同盟反対ということが確かめられたので任命したと語っている。

「宮中が極力親英米的であったという事は之でも判ると思う」と天皇は語っている。

日独伊三国同盟は、いずれソ連を入れて日独伊ソ四国同盟として、英米に対抗して日本の対米発言権を強めようという松岡洋右外相の空虚な発想のもとで締結されたが、松岡は吉田善吾海軍大臣をだまして日独同盟に賛成させたと天皇は語っている。

この部分を引用すると、

「吉田善吾が松岡の日独同盟論に賛成したのはだまされたと言っては語弊があるが、まあだまされたのである。日独同盟を結んでも米国は立たぬというのが松岡の肚である。松岡は米国には国民の半数に及ぶドイツ種がいるから之が時に応じて起つと信じていた、吉田は之を真に受けたのだ。」

「吉田は海軍を代表して同盟論に賛成したのだが、内閣が発足すると間もなく、米軍は軍備に着手し出した、之は内閣の予想に反した事で吉田は驚いた、そして心配の余り強度の神経衰弱にかかり、自殺を企てたが止められて果たさず後辞職した。」

「後任の及川(古志郎)が同盟論に賛成したのは、前任の吉田が賛成した以上、賛成せざるを得なかった訳で当時の海軍省の空気中に在ってはかくせざるを得なかったと思う。近衛の手記中に於て、近衛は及川を責めているが、之はむしろ近衛の責任のがれの感がある」

松岡洋右については、昭和16年2−4月のドイツ訪問後ドイツびいきになったことで、「それからは別人の様に非常なドイツびいきになった。恐らくは「ヒトラー」に買収でもされたのではないかと思われる」とまで語っている。

「一体松岡のやる事は不可解の事が多いが彼の性格を呑み込めば了解がつく。彼は他人の立てた計画には常に反対する、又条約などは破棄しても別段苦にしない、特別な性格を持っている」

さらに三国同盟については、天皇は近衛首相に、次のように言っている。

「ドイツやイタリアのごとき国家と、このような緊密な同盟を結ばねばならぬことで、この国の前途はやはり心配である。私の代はよろしいが、私の子孫の代が思いやられる。本当に大丈夫なのか」

そしてその結末については、

「日独同盟については結局私は賛成したが、決して満足して賛成した訳ではない。(中略)三国同盟は15年9月に成立したが、その後16年12月、日米開戦まできた三国単独不講和確約は結果から見れば終始日本に害をなしたと思う」

「日米戦争は油で始まり油で終わった様なものであるが、開戦前の日米交渉時代にもし日独同盟がなかったら米国は安心して日本に油をくれたかも知れぬが、同盟があるために日本に送った油がドイツに回送されはせぬかという懸念の為に交渉がまとまらなかったとも言えるのではないかと思う」


★近衛の辞職と東条の組閣
陸軍は主戦論、海軍は戦争はできないことはないが、2年後になると財政経済の国力の問題になるから、和戦の決定は総理大臣に一任するという立場だった。

近衛は信念と勇気を欠いたので、処理に悩み辞職した。

その後は陸軍を抑える力のあるものということで東条を首相とし、9月6日の御前会議の決定を白紙に戻して平和になるよう極力尽力せよということで条件を付けた。

天皇の東条の評価は高いことがこの「独白録」からもわかる。


★開戦の決定
天皇の言葉は次の通りだ。

「問題の重点は油だった。中略。石油の輸入禁止は日本を窮地に追い込んだものである。かくなった以上は、万一の僥倖に期しても、戦った方が良いという考が決定的になったのは自然の勢と言わねばならぬ。」

「もしあの時、私が主戦論を抑えたらば、陸海に多年錬磨の精鋭なる軍を持ち乍ら、ムザムザ米国に屈伏するというので、国内の与論は必ず沸騰し、クーデタがおこったであろう。」

「実に難しい時だった。そのうちにハルのいわゆる最後通牒が来たので、外交的にも最後の段階に至った訳である。」

尚、半藤一利さんも「昭和史」のなかでコメントしていたが、天皇の広田弘毅の評価は低い。「玄洋社出身の関係か、どうか知らぬが、戦争をした方がいいという意見を述べ、又皇族内閣を推薦したり、又統帥部の意見を聞いて、内閣を作った方が良いと言ったり、全く外交官出身の彼としては、思いもかけない意見を述べた」


★ローマ法皇庁に施設派遣
「開戦後法皇庁に初めて使節を派遣した。これは私の発意である。」

ローマ法皇庁が全世界に及ぼす精神的支配力を見込み、戦争を終わらせる上で好都合で、世界の情報収集にも便利という発想だったという。ただ日独同盟の関係から、ヒトラーと疎遠な関係にある法皇庁に十分な活動はできなかったという。


★敗戦の原因
天皇の言葉をそのまま引用する。

「敗戦の原因は四つあると思う。
第一、兵法の研究が不十分であった事、即孫子の、敵を知り、己を知らねば(ママ)、百戦危うからずという根本原理を体得していなかったこと。
第二、余りに精神に重きを置き過ぎて科学の力を軽視したこと。
第三、陸海軍の不一致。
第四、常識或る主脳者(ママ)の存在しなかった事。往年の山縣(有朋)、大山(巌)、山本権兵衛、という様な大人物に欠け、政戦両略の不十分の点が多く、且軍の主脳者の多くは専門家であって部下統率の力量に欠け、いわゆる下克上の状態を招いたこと。」

半藤さんの解説には、最近になって公表された昭和20年9月9日付けの皇太子(今上天皇)宛の天皇の手紙が引用されている。

「我が国人が、あまりに皇国を信じ過ぎて、英米をあなどったことである。
我が軍人は精神に重きをおきすぎて科学を忘れたことである。
明治天皇の時には、山縣、大山、山本等の如き名将があったが、今度の時はあたかも第一次世界大戦のドイツの如く、軍人がバッコして大局を考えず、進むを知って、退くことを知らなかったからです」


★戦況の分かれ目
「私はニューギニアのスタンレー山脈を突破されてから(昭和18年9月)勝利の見込みを失った。一度どこかで敵を叩いて速やかに講和の機会を得たいと思ったが、ドイツとの単独不講和の確約があるので国際信義上、ドイツより先には和を議したくない。それで早くドイツが敗れてくれればいいと思ったほどである。」


★沖縄決戦の敗因
「これは陸海作戦の不一致にあると思う。沖縄は本当は三個師団で守るべきところで、私も心配した。」

「特攻作戦というものは、実に情に於いて忍びないものがある。敢えてこれをせざるを得ざるところに無理があった。」

「海軍はレイテで艦隊のほとんど全部を失ったので、とっておきの大和をこの際出動させた、これも飛行機の連絡なしで出したものだから失敗した」


★本土決戦準備
「敵の落とした爆弾の鉄を利用してシャベルを作るのだという。これでは戦争は不可能ということを確認した」


★結論
「開戦の際東条内閣の決定を私が裁可したのは立憲政治下に於ける立憲君主としてやむを得ぬ事である。もし己が好む所は裁可し、好まざる所は裁可しないとすれば、これは専制君主と何ら異なる所はない。」

中略

「今から回顧すると、私の考えは正しかった。陸海軍の兵力の極度に弱った終戦の時に於いてすら無条件降伏に対し「クーデター」様のものが起こった位だから、もし開戦の閣議決定に対し私が「ベトー」を行ったとしたらば、一体どうなったであろうか。」

「日本が多年錬成を積んだ陸海軍の精鋭を持ちながらいよいよという時に決起を許さぬとしたらば、時のたつにつれて、段々石油は無くなって、艦隊は動けなくなる、人造石油を作ってこれに補給しようとすれば、日本の産業をほとんど、全部その犠牲とせねばならぬ。それでは国は亡びる、かくなってから、無理注文をつけられては、それでは国が亡びる、かくなってからは、無理注文をつけられて無条件降伏となる。」

「開戦当時に於ける日本の将来の見通しは、かくの如き有様であったのだから、私がもし開戦の決定に対して「ベトー」したとしよう。国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証できない。」

「それは良いとしても結局狂暴な戦争が展開され、今次の戦争に数倍する悲惨事が行われ、果ては終戦も出来かねる始末となり、日本は亡びる事になったであろうと思う。」

これが「昭和天皇独白録」の結論である。


寺崎英成御用掛日記

昭和20年8月15日から昭和23年2月15日までの寺崎英成氏の日記だ。寺崎家の日常のこともふれられていて、何を食べたとか、誰と会ったとかの記録がほとんどで、たとえば「昭和天皇独白録」のヒアリングについては一切ふれていない。

たぶん公の機密事項については、他人が読む可能性のある日記には書かなかったのだろう。

230ページもの日記だが、マリコ・テラサキ・ミラーさんが書いているように、この時代が寺崎氏のキャリアで最も充実した時代だった。戦前から米国には多くの知人があり、奥さんが米国人だったこともあり、GHQ,大使館にはフリーパスだったそうだ。

寺崎氏は日米開戦時にワシントンの日本大使館に勤務していたが、日米開戦後帰国し、待命状態が続き、一時は外務省を離れていたが、昭和20年11月に終戦連絡中央事務局(終連)連絡官として復職する。

このときの同僚が終連参与の白洲次郎だ。

吉田茂の引きで終連参与となった白洲次郎は、どうやら寺崎氏など外交官出身者には吉田茂の虎の威を借る狐のように思えた様で、

「白洲、新聞記者が部外者に自動車を出していて怪しからぬと言う。怪しからぬハ白洲なり。余を部外者とハ何ぞや。」

「陛下ハ吉田白須(白洲)のラインに疑念を持たるるなりと言う」

というような表現も見られる。

寺崎氏の戦前からの知己、ジョージ・アチソン氏がマッカーサーの政治顧問団団長だったり、マッカーサーの直属の副官部の軍事秘書で、いわゆるバターンボーイズの一人のボナ・フェラーズ准将が夫人のグエンさんの親戚だったりで、GHQへの食い込みは単なる知米派を超えるものがある。

この日記を見ると頻繁にGHQのアチソン、フェラーズ、バンカー(マッカーサー副官)、フィットネー(ホイットニー民政局長。白洲次郎の宿敵のケーディス中佐の上司)他の様々なスタッフと頻繁に会ったり、食事したり、ゴルフや鴨狩に行ったりして公私ともに親密なつきあいをして、それが日本のためにもなっていることがわかる。

マッカーサーの写真を見ると腰にピストルを持っている副官が必ず同行しているが、それがフェラーズ准将であり、小泉八雲に傾倒し、天皇についても「天皇裕仁はルーズベルト以上の戦争犯罪人ではない。事実、記録をよく調べてみたまえ。そうそればどちらが戦犯か明らかになる」と明言していたという。

このフェラーズ准将は、次のような天皇に関する覚書を昭和20年10月2日付けで作成していた。マッカーサーはこの覚書を常にデスクに入れ、時々読み返していたことをウィロビー少将などが認めている。

「…われわれアメリカ軍は天皇に協力を求め、日本への無血侵入を成功裡に遂行した。七百万余の日本軍将兵が武器を捨て、急速に陸海軍が解体されたのは天皇の命令による。この天皇の行為によって、数十万の米軍将兵は死傷を免れた。戦争も予期された時日よりはるかに早く終結した。」

「このように、いったん天皇を利用した上で、その天皇を戦争犯罪を口実に裁くならば、日本国民はそれを信義にもとるものと見なすであろう。…もし天皇を裁判にかけるならば、日本の統治組織は崩壊し、民衆の決起は不可避である。他の一切の屈辱に耐えても、この屈辱に日本国民は耐ええないであろう…。」

まさにアメリカの天皇に対する占領政策を決めた覚書である。

統率の取れた武装解除を物語るビデオがYouTubeに掲載されているので、紹介しておく。昭和20年8月30日厚木飛行場に到着したマッカーサー一行が移動する時に、沿道には日本の兵隊が50メートルおきに立ち、全員マッカーサー一行に背を向けて、不届き者が近づかないように監視していた。

日本軍から攻撃されるかもしれないと戦々恐々だったマッカーサー一行は、秩序だった警備に感動し、これが天皇には手を付けてはならないという確信に繋がったのだろう。



半藤一利氏も「この日記のなかで、いちばん注目せねばならないのは、何といってもフェラーズの名であろう。」と解説している。

頻繁に会っているのがワシントン時代からの旧知の仲で、国際検察局捜査課長として赴任してきたロイ・モーガンだ。その面談の頻度から、東京裁判の被告人選定などに寺崎氏から情報収集をしていたのではないかと思わせる。

昭和21年に寺崎氏は皇太子(今上天皇)の家庭教師、ヴァイニング夫人の選定にもかかわっており、着任したヴァイニング夫人ともよくコンタクトしていたことがわかる。


遺産の重み

最後のマリコ・テラサキ・ミラーさんの「遺産の重み」は「宿命的な母グエンの死」、「ある外交官の挫折と栄光」、「かけ橋(ブリッジ)こそ父母の遺産」の3部作で構成されている。

寺崎氏の生涯や夫妻の出会い、戦時中の生活などを紹介している。冒頭で紹介した柳田邦男氏のノンフィクション作品「マリコ」で描かれている寺崎兄弟の日米戦回避努力が”表側”の生活だとしたら、戦時中の”裏側”の苦労などが綴られていて興味深い読み物となっている。

マリコさんは日米間のかけ橋となって欲しいという父母の遺産の重みを感じており、毎年のように来日して各地で講演している。

その象徴はドテラだ。

寺崎氏が、グエンさんを抱いてドテラにくるまって、「こうすれば二人は”一人の巨人”で怖いものなしさ」と言っていたという。ただでさえ難しい国際結婚で、しかもお互いの国が戦争していたのだから、普通以上の苦労をした二人であった。

日本とアメリカが”ドテラ”にくるまってひとつになったときに、本当の巨人になれるというメッセージを伝え続けていきたいとマリコさんは語っている。

8月の終戦記念日を迎え、昭和生まれの人にも平成生まれの人にもおすすめできる本だと思う。

文庫本の方が手っ取り早く読むには適しているが、時間があれば単行本も読んで頂きたい。単行本には写真も多く掲載されており、寺崎さんの日記も参考になる。

文庫本の座談会は、調べてみたら全員東大出身の小説家、学者で、児島襄さんは、半藤さんの東大ボート部の3年先輩だった。自由闊達な座談会でないのがやや残念なところだ。


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2009年07月22日

幼稚園バス運転手は幼女を殺したか 今、脚光を浴びる2001年のレポート


幼稚園バス運転手は幼女を殺したか幼稚園バス運転手は幼女を殺したか
著者:小林 篤
販売元:草思社
発売日:2001-01
おすすめ度:5.0
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1990年5月に発生した足利市幼女殺人事件の犯人とされ、自白やDNA鑑定などの証拠から最高裁で無期懲役が確定したが、2009年5月のDNA再検査で冤罪だったことが判明した菅家利和さんの事件を様々な角度からレポートした本。

2001年出版の本だが、書店に平積みになっていたので興味を持った。

400ページにも及ぶ犯行現場や犯行状況、菅家さんの私生活と家族環境、DNA鑑定の概要などを含んだ、あまりにも重い内容だが、もし裁判員に指名されたらこの程度のレポートは読み込んでおく必要があるだろうと思って読んでみた。

この裁判では最高裁がはじめてDNA鑑定を証拠として採用したが、結果的に当時のDNA鑑定の精度は低く、試料の状態が決定的に悪かったため誤った結果が出ていたことが判明した事件だ。

この本の他、足利市幼女殺人事件のDNA鑑定に疑問を投げかけた別の本も出ている。

魔力DNA鑑定―足利市幼女誘拐殺人事件魔力DNA鑑定―足利市幼女誘拐殺人事件
著者:佐久間 哲
販売元:三一書房
発売日:1998-09
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あきらめずに再審請求を繰り返してついに冤罪を証明した「菅家さんを支える会」の人たちの地道な努力に心から敬意を表すとともに、やりきれない怒りがこみ上げてくるのを覚える。

この本ほどあらすじを書くことが不適当と感じた本はない。

詳しく書けば、菅家さんの最も人に知られたくない私生活や診察記録、学校の成績など機微な情報をネットで公開することになり、ある意味菅家さんへの個人攻撃にもなってしまう。それは筆者の意図するところではない。

「自分ではやってはいないんですが、信じてもらえなかったんです。ですから、誘導とかはなくても、やったと言うしかないわけです。自分でも馬鹿だとは思うんですが…」 これが著者の小林さんに語った菅家さんの言葉だ。

それ以外にも「なんで?」という言動は多い。


もちろん非難されるべき人は多い。

・高圧的で菅家さんを犯人と決めつけた一審の弁護人(一審の弁論要旨はわずか原稿用紙13枚だった)

・菅家さんを犯人と疑って、逮捕される前にクビにした幼稚園経営者

・足利市で3件も(菅家さんの2審裁判が終わった直後、群馬県大田原市で同様の幼女失踪事件発生)同様の事件が起こったのに、無罪の菅家さんを逮捕して、真犯人には時効を成立させてしまった栃木県警

・菅家さんを初めから有罪と決めつけ、傍聴人から「能力が低いのはどっちだと思う」と捨てぜりふを浴びせられた宇都宮地方裁判所の判事

・マミちゃんを亡くした親に「何でパチンコ屋に連れてきたんだ」という罵声を浴びせ、自殺を考えるまで思い込ませたもはや犯罪的といえるほど無神経な栃木県警課長

・菅家さん逮捕につながった家宅訪問が手柄となり1階級特進が決まり、「ジャンボ宝くじが当たった気分」と言った警官

・試料が少なく、何度もDNA鑑定不能と回答していながらも、不正確なDNA鑑定を実施し、自らは警察を辞めて競馬会にトラバーユしたDNA鑑定の科警研技官

・たった3回の面談で菅家さんを「代償性小児性愛」と呼んでレッテルを貼った精神鑑定医


一方で頭が下がるプロもいた。

・殺害されたマミちゃんの写真を手帳に挟んで、不休で捜査にあたった栃木県警の現場の警察官たち

・この事件を解決するために幼女連続殺人事件(宮崎勤事件)を解決させた敏腕警察官を栃木県警本部長として送り込んだ警察庁

・やる気のない一審の弁護人の弁論要旨はわずか原稿用紙13枚分だったのに対し、2,320枚もの弁論要旨を提出した2審の弁護団

・400ページもの大作レポートを書き、菅家さんを信じて証拠を集めたこの本の著者でジャーナリストの小林篤氏

・菅家さんの無実を信じて最後まで支援した友人や支援者

・冤罪事件の本は売れないと言われる中で、あえて2001年に本書を出版した草思社


前述の理由であらすじは詳しく書けない。

読んで感動を覚える本であることは間違いない。裁判員制度に関心のある人には必読書と思う。

2001年発刊の本だが、あらためて書店には並んでいると思うので、是非一度手に取ってみて欲しい。


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2009年07月10日

真珠湾の真実 ルーズベルトの対独参戦シナリオに組み込まれた日本

真珠湾の真実 ― ルーズベルト欺瞞の日々真珠湾の真実 ― ルーズベルト欺瞞の日々
著者:ロバート・B・スティネット
販売元:文藝春秋
発売日:2001-06-26
おすすめ度:3.0
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ルーズベルト大統領は、事前に真珠湾攻撃を知っていたにもかかわらず、あえて日本に奇襲攻撃を仕掛けさせたというルーズベルト陰謀説の根拠を、1995年に発見された内部メモや暗合解読文などを丹念に調べ検証した本。

田母神さんの本に引用されていたので読んでみた。

この本は渡部昇一さんや、中西輝政さん、櫻井よし子さんなどの多くの本に引用されているが、真珠湾攻撃をアメリカが予期していたことを、「情報の自由法」により明らかにされた多くの暗号電報解読文で立証しているのみならず、なぜルーズベルトが日本の奇襲攻撃を現場の指揮官に知らせなかったのかという疑問まで解明している点で画期的な作品だ。

英語版は次の通りだ。英語版Wikipediaにも要約が載っている。

Day Of Deceit: The Truth About FDR and Pearl HarborDay Of Deceit: The Truth About FDR and Pearl Harbor
著者:Robert Stinnett
販売元:Free Press
発売日:2001-05-08
おすすめ度:3.0
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日本の一部で受け入れられたような「決定版」的な扱いを米国で受けているのかどうかわからないが、日本の翻訳本は90,000位なのに対して、米国では現在でも全体で45,000位程度なので米国でもそこそこ売れているようだ。


10年間の調査の成果

著者のロバート・スティネット氏は、第2次世界大戦中はブッシュ・シニア元大統領と一緒に海軍に従軍した元軍人(従軍カメラマン?)だ。戦後はオークランド・トリビューンの記者(カメラマン)として働き、退社後10年以上掛けて資料を調べ上げこの本を1999年に出版した。

田母神さんの本のあらすじで根拠不足と書いたが、歴史上の史実を立証しようとするのであれば、これくらい資料を揃えなければならないという見本の様な本だ。

脚注の多さは半端ではない。600近い原注に加えて訳注も数十あり、日独伊三国同盟を奇貨として「裏口からの参戦」を説いた1940年10月の米国海軍情報部極東課長のA.マッカラム少佐の「戦争挑発行動8項目覚書」の原文表紙と和訳、数々の日本側暗号電報の英訳が紹介されている。


日本の暗号はすべて打ち破られていた

この本ではPHPT(Pearl Harbor Part、1941年から1946年までの間にアメリカが行った公式調査)、PHLO(上下院合同真珠湾攻撃調査委員会、1945年から1946年までに実施された調査)、無線監視局USの文書、カーター大統領が1979年に公開した太平洋戦争中の日本海軍電報の解読文書約30万点を調査し、当時無線傍受局に勤務していた人へのインタビューなども実施して、膨大な資料を元に書かれている。

アメリカが日本の暗号解読に成功していたことは、東京裁判の証拠としても採用され今や公知の事実だ。その暗合解読作業を実際に行っていたのが、米軍が太平洋のあちこちに配置していた”見事な配置”と呼ばれる無線傍受網だ。

見事な配置

見事な配置






出典:本文134−135ページ

米国は1940年10月前後に日本の外交暗号のパープル(97式印字機)と、日本海軍の5桁数字暗号を特別の解読機を導入して打ち破っていた。

日本領事館を盗聴したり、商船に乗っていた海軍通信士官から暗号書を買い取ったり、あらゆる手段を使って米国は日本の暗号解読に成功したのだ。

パープル暗号が解読されているという情報がドイツから寄せられ、1941年5月に当時の松岡外相が、駐独大使の大島少将に詳細をドイツから聞き出すように頼んでいる暗号電報も、米国に解読されているのはジョークを越えて、お寒い限りだ。

実際ルーズベルトはヒトラーのロシア侵攻計画を、駐独大島大使の日本へのパープル電報の暗号解読で侵攻1週間前の1941年6月14日に知ったという。ドイツが気にする訳だ。

日本海軍の5桁数字暗号の解読情報は、今でも秘密扱いで公開されていないという。

ちなみに「日本軍のインテリジェンス」という防衛省防衛研究所戦史部教官小谷賢さんの書いた本のあらすじに、日本軍の諜報能力についてまとめてあるので、参照して欲しい。

日本軍のインテリジェンス なぜ情報が活かされないのか (講談社選書メチエ)日本軍のインテリジェンス なぜ情報が活かされないのか (講談社選書メチエ)
著者:小谷 賢
販売元:講談社
発売日:2007-04-11
おすすめ度:4.5
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この本の3つの論点

なにせ脚注と解説まで入れると500ページを越えるボリュームの本なので、整理すると次の3つが論点だ。

1.ルーズベルトは米国民が反対していた欧州での戦争に”裏口から”参戦するために、日本に戦争を仕掛けさせた。つまり日本はルーズベルトにはめられたのか?

この本の主題の一つは、1940年10月7日に上奏された海軍情報部極東課長のアーサー・マッカラム少佐の作成した覚書だ。著者のスティネット氏は、1995年に無線監視局USのアーサー・マッカラム少佐の個人名義ファイルの中から、この覚書を見つけたという。

マッカラムメモ

McCollum_memo_Page1













出典: Wikipedia

マッカラム少佐は、宣教師の両親のもとに1898年に長崎で生まれ、少年時代を日本のいくつかの町で過ごした。日本語が喋れたので米国の海軍兵学校を卒業すると駐日アメリカ大使館付海軍武官として来日した。昭和天皇の皇太子時代に米国大使館のパーティでチャールストンを教えたこともあるという逸話のある知日派だ。

このメモが書かれた当時のことを補足しておくと、ドイツは1939年9月にポーランドを電撃占領し、第2次世界大戦が始まった。その後"Twilight war"と呼ばれる小康状態の後、ドイツは1940年5月にフランスに侵攻・占領し、英国はダンケルクから撤退して戦力を温存した。

その直後からバトルオブブリテンでドイツが英国侵略の前段階として航空戦を挑み、英国が新兵器レーダーと英国空軍の大車輪の活躍で、1940年10月頃にはドイツ空軍の英国侵攻をほぼ撃退したところだった。

ソ連とドイツは独ソ不可侵条約を結んでいたので、ヨーロッパでは英国のみがドイツと戦っているような状態で、チャーチルの名著「The Second World War」第2巻は、"Alone"というタイトルが付けられているほどだ。

第二次世界大戦〈2〉 (河出文庫)第二次世界大戦〈2〉 (河出文庫)
著者:ウィンストン・S. チャーチル
販売元:河出書房新社
発売日:2001-07
おすすめ度:4.5
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ドイツの戦勝を見た松岡洋右などの日本の親ドイツ派は、「バスに乗り遅れるな」のかけ声の下、それまで欧州戦争には中立の立場を取っていたにもかかわらず、日独伊三国同盟を結び、海軍などが反対したにもかかわらず急速に枢軸陣営に加わっていった。

一方ルーズベルトは英国を助けるために、「隣の家が火事になったら、無償で消防用ホースを貸すでしょう?」という国民に対する説明のもとに、英国への武器無償貸与を1939年開始しており、マッカラムメモの後の1941年3月には「レンドリース法」を制定し、英国に武器を無償で大量供与した。

ルーズベルトは既にユダヤ人の殺害を始めていたナチスドイツがヨーロッパを支配することは重大な脅威と感じ、今や英国だけとなった反ドイツ勢力を支援していたが、米国内の共和党を中心とする戦争反対勢力は強かった。

第2次世界大戦が始まる1年前の1938年11月に「水晶の夜」事件が起こり、ナチスがドイツ国内のユダヤ人商店・工場やシナゴーグを襲うという事件が起きており、この事件はスピルバーグの「シンドラーのリスト」にも描かれている。



当時の米国民の8割以上は、欧州の戦争に参戦することに反対しており、ルーズベルトも「息子さんを欧州の戦争には生かせない」と公約して1939年の大統領選挙に勝利したことから、たとえヨーロッパをドイツが占領し、英国が風前の灯火となっていた状況でも米国の参戦を、表だって国民に受け入れさせることはできなかった。

マッカラムメモでは、日本との戦争は不可避であり、米国にとって都合の良い時に、日本から戦争を仕掛けてくるように挑発すべきだと考え、蒋介石政権への援助や、ABCD包囲網での石油禁輸、全面的貿易禁止など8項目の行動計画を提案している。

ルーズベルトがマッカラムメモを読んだことは確実で、もっけの幸いにマッカラムメモにある8項目を順次実施し、日本を挑発し、日本に最初に攻撃させることで、厭戦気分がある米国民を日本とドイツに対する戦争に巻き込む”裏口から参戦する”計画を練って、実行に移したというのがスティネット氏の見解だ。

これで日米交渉では米国側は妥協を一切示さず、結果的に日本を開戦に追い込んだ理由がわかる。


余談となるが、以前紹介した多賀敏行さんの「エコノミック・アニマルは褒め言葉だった」で紹介されていた話を思い出した。

「エコノミック・アニマル」は褒め言葉だった―誤解と誤訳の近現代史 (新潮新書)「エコノミック・アニマル」は褒め言葉だった―誤解と誤訳の近現代史 (新潮新書)
著者:多賀 敏行
販売元:新潮社
発売日:2004-09
おすすめ度:4.5
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開戦当時の外務次官だった西春彦さんの「回想の日本外交」に、1941年後半の日米交渉で日本は大幅な譲歩案である甲案を出したのに、アメリカが全く乗ってこなかったのは、暗号解読電文の誤・曲訳が原因の一つだったことが、東京裁判の証拠調べの時にわかり、その晩は眠れなかったと書いている。

ちなみに東京裁判の時にはブレークニー弁護人がこの誤訳を題材にして大弁論を展開したが、結局判決では誤って英訳していある電文をそのまま判決理由に載せた。唯一パール判事は、少数意見でこのことを詳細に取り上げて鋭く論評したという。

回想の日本外交 (1965年) (岩波新書)回想の日本外交 (1965年) (岩波新書)
著者:西 春彦
販売元:岩波書店
発売日:1965
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しかし実際にはルーズベルトは日本を挑発して裏口からの参戦を決めていたことが真相かもしれない。

元皇族竹田恒泰さんの「語られなかった皇族たちの真実」に、東久邇稔彦親王の自伝「やんちゃ孤独」で東久邇宮が元フランス首相クレマンソーから聞いた話が紹介されている。

語られなかった皇族たちの真実-若き末裔が初めて明かす「皇室が2000年続いた理由」語られなかった皇族たちの真実-若き末裔が初めて明かす「皇室が2000年続いた理由」
著者:竹田 恒泰
販売元:小学館
発売日:2005-12
おすすめ度:4.0
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「アメリカが太平洋へ発展するためには、日本はじゃまなんだ。(中略)アメリカはまず外交で、日本を苦しめてゆくだろう。日本は外交がへただから、アメリカにギュウギュウいわされるのにちがいない。その上、日本人は短気だから、きっとけんかを買うだろう。

つまり、日本の方から戦争をしかけるように外交を持ってゆく。そこで日本が短気を起こして戦争に訴えたら、日本は必ず負ける。アメリカの兵隊は強い。軍需品の生産は日本と比較にならないほど大きいのだから、戦争をしたら日本が負けるのは当たり前だ。それだからどんなことがあっても、日本はがまんをして戦争してはならない」


アメリカの戦略はその意味ではクレマンソーの予言通りだったと言えると思う。

閑話休題。


2.真珠湾攻撃は事前に察知されていたのではないか?

日本が対米開戦を決意し、択捉島の単冠湾(ヒトカップ湾)に機動部隊を集結させ、それからハワイに向かって移動していたことは、暗号が解読され米国側に事前に察知されていた。

この本の解説で中西輝政さんも驚いたと書いているが、ヒトカップベイという暗合解読文が原文で紹介されている。

暗号電報解読文の一例

hitokappu bay






出典:本文96−97ページ

さらに開戦を命じた1941年12月2日のニイタカヤマノボレの日本語電報原文と暗号解読された英文も掲載されている。

ニイタカヤマノボレ電文と暗合解読文

Niitakayama cable






出典:本文380−381ページ

"Top Secret-Ultra"に格付けされたこの電報は、打電されたのと同じ日の12月2日に解読されており、"Climb Niitakayama"とは"Attack on Dec. 8"のことだと断言しているのが印象的である。

この暗号解読情報は、1979年にカーター大統領の情報公開に基づいて公開された1941年7月から1945年秋までの30万通にものぼる日本の電報の解読情報の一つだ。

日本側は厳しい無線管制を敷いていて、アメリカ側は事前に察知できなかったとされているが、実際には艦隊への通信が行われており、それが傍受されて機動部隊の動きは米国に捉えられていた。

この本では日本艦隊が実際には頻繁に電報を打っていたことが数々の暗号解読電報から明らかにされており、少なくとも129通の電報が証拠としてあげられている。もっとも”おしゃべり”だったのが、南雲司令官からの電報60通で、司令官みずから無線管制を破っていたことがわかる。

またハワイの日本領事館で森村正こと、吉川猛夫海軍少尉は、日本のスパイとして真珠湾の艦船の停泊情報を調べ日本に送っていた。森村の行動を米海軍は監視はしたが、泳がせていた。これも真珠湾が攻撃される可能性が高いことを事前に知っていたという証拠の一つだ。


3.暗合解読により日本の攻撃は察知されていたのに、なぜ現地の司令官には何も知らされていなかったのか?

これがルーズベルト陰謀説の最大の謎だ。

上記のように”ニイカタヤマノボレ”の電報は、すでに12月2日に解読されており、これが現地の司令官に伝わらなかったのは、意図があってのことだと思わざるをえない。

スティネット氏は、マッカラムメモの筋書き通りに日本を挑発して先制攻撃を仕掛けさせるために、現地のハズバンド・キンメル海軍大将とウォルター・ショート陸軍中将には1941年11月27日に「合衆国は、日本が先に明らかな戦争行為に訴えることを望んでいる」という事前の大統領命令が出されていたことを指摘する。

両将軍は真珠湾攻撃を事前に察知できなかった責任を問われて、降格されているが、実は両将軍とも事前の大統領指令を忠実に履行し、日本側の出方を待っていたのだ。1995年と2000年には両将軍の遺族から名誉回復の訴えが出されている。

スティネット氏が直接インタビューした当時HYPO(真珠湾無線監視局)に勤めていたホーマー・キスナー元通信上等兵の証言によると、彼が毎日HYPOに届けていた書類の中には、無線方位測定による発信源データ(RDF)報告書が含まれており、10月まではキンメル将軍とホワイトハウス向けの両方に入っていたのに、1941年11月からキンメル将軍宛には入っていない。

このことを知らされたキスナー氏は、”誰が抜き取ったんだ?”と仰天した。

キスナー氏が完全な報告をHYPOに届けてから、しばらくたって誰かがRDF記録を抜き取った。1993年に国立公文書館真珠湾課長の専門官は、HYPOからキンメル大将宛の通信概要日報のうち、1941年11月と12月分65通以上に手が加えられているのを確認した。

1945年の議会公聴会前に提出された時には、既にページの下半分が切り取られていたという。

日本機動部隊の無線封止神話はここから始まったとスティネット氏は語る。

誰かが操作したことは間違いないようだ。

チャーチルもコベントリー市へのドイツ軍の空襲計画を事前に知りながら、予防措置を出動させれば、英国がドイツの暗号を解読していることがドイツに知れることを恐れ、コベントリー市民にはなんの警告も出さずに、多くの生命を犠牲にしたという。

ヒトラーというより大きな悪に立ち向かうためには、必要な犠牲だったとスティネット氏は語る。苦痛に満ちていたがルーズベルトの決定は、枢軸国に対して連合国を最終勝利に導くために戦略的に計算しつくされたものだったのだと。


蛇足ながら、スティネット氏は、日本軍の戦略性の無さも指摘している。

真珠湾に停泊していた旧式戦艦や艦船などを攻撃せずに、真珠湾に大量に備蓄されていた500万バレルの船舶用石油タンクとか修理ドック、高圧送電線網などの米海軍のロジスティックス設備を徹底的に攻撃していたら、米軍の反撃は数ヶ月は遅れたのではないかと。

チャーチルの「第2次世界大戦」でも書かれていたが、英国の船舶損失の90%は大西洋で、太平洋での損失はわずか5%程度だ。日本の潜水艦はドイツのUボートのような商船の攻撃はほとんど行っていないので、撃沈トン数も低い。

Wikipediaによると、Uボートは1,131隻が建造され、敗戦までに商船約3,000隻、空母2隻、戦艦2隻を撃沈したという。ほとんど戦闘艦船は撃沈していないのだ。Uボート自身の損失は743隻だという。

武士道精神なのかもしれないが、日本の潜水艦は武装艦船ばかりねらって非武装の商船はほとんど攻撃していないのだ。

相手の息の根を止めるにはなにをすべきか、相手が困るのはなにかという発想が欠けている。兵站思考のなさ。それが日本軍の最大の欠点であり、すでに真珠湾攻撃の時から、その弱点は露呈していたのだ。


後日談

1999年の執筆や2000年の追補時点でも米国海軍の暗号解読情報は未だ公開されていない。この異常とも思える秘密主義は、ルーズベルトが真珠湾攻撃を知っていたという疑惑を遠ざけるためだと著者のスティネット氏は語る。

いまだに開戦時の情報は公開されていないものがあり、すべては状況証拠ではあるが、この本を読むとルーズベルトが日本に先制攻撃を仕掛けさせることによって、米国民の8割が戦争に反対していたアメリカ世論を一挙に変える賭けに出たと思わざるを得ない。

メキシコとの戦いの時、「アラモを忘れるなーRemember Alamo"」のスローガンが米国民を一つにした故事にならい、"Remember Pearl Harbor"のスローガンのもとに、米国民が一致団結したのはまさにルーズベルトが望んだ通りの結果だったろう。

また米国の日独伊との戦争への参戦は、同盟国のイギリスのチャーチルも中国の蒋介石も望んだ結果なので、その意味でもルーズベルトはマッカラム計画に従って進めやすかったのだろうと思う。


本件に関する筆者の個人的見解

以下は筆者の個人的見解だが、ルーズベルトが日本をけしかけて、裏口からでも対独参戦したかった理由の一つは、ドイツの核開発疑惑ではないかと思う。

アインシュタインがルーズベルトにレターを送って、ドイツの原爆開発の可能性について警告したのは、1939年8月のことだ。

ルーズベルト宛のアインシュタインのレター

ae-fdr1











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出典:Leo Szilard Online

その後1941年には英国からMAUDレポートと呼ばれる原子爆弾の製造は可能という報告もあり、ルーズベルトはウラン資源を持ち、核分裂研究で世界のトップだったナチスドイツが原爆を持てばアメリカのみならず人類の重大な脅威になると感じていたのは間違いない。

MAUDレポート

MAUDPageLarge












出典:Wikipedia

だからルーズベルトが米国民の8割を越える反対にもかかわらず、欧州の戦争に参戦したがっていた背景には、ドイツが原爆を世界に先駆けて開発して、世界を支配するのではないかという恐れがあったように筆者には思える。

この裏付けにも思えるが、ルーズベルトはアメリカの原爆開発計画を勧める科学者ヴァネヴァー・ブッシュの1941年11月のレターを、日本が真珠湾攻撃を仕掛けてくるまで手元にそのままキープしていた。

そして日本の真珠湾攻撃を受けて、アメリカが第2次世界大戦に参戦した直後の1942年1月に、自筆メモで原爆開発計画にOKを与えているのだ。

「このメモを金庫にしまっておけ」と原爆開発計画を承認するルーズベルトの手書きメモ

VBOKLarge












出典:The Manhattan Project

これが1942年にスタートしたマンハッタン計画のさきがけだ。

マンハッタン計画の中心人物Groves将軍と科学者オッペンハイマー博士

458px-Groves_Oppenheimer











出典: Wikipedia


掲載されている数百の暗号解読文だけでも著者のスティネット氏が導き出したルーズベルトは真珠湾攻撃を知っていたという仮説は正しいと思う。

まだ公開されていない暗合解読文などの資料が将来公開されれば、現在は状況証拠の寄せ集めに過ぎないスティネット仮説も実証される時が来るのではないかと思う。

もっともルーズベルト陰謀説が正しいからといって、それで歴史が変わる訳ではないし、スティネット氏が語るようにルーズベルトの評価が落ちる訳でもない。開戦を決断したのは、昭和天皇と東條英機他の当時の日本の指導者だという事実に変わりはないのだ。

田母神さんのように、日本はルーズベルトにはめられて戦争に引き込まれた被害者だと胸をはって主張するのは無理があると思う。マッカーサーの言うように日本は自己防衛の為に戦争をしたにせよ、戦争を始めたのは日本なのだ。

資料からの引用が多く読みにくいが、日本人として一度は目を通しておくべき資料だと思う。一読に値する本だ。


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2009年07月07日

なにを食べたらいいの? 続・食品添加物の世界

なにを食べたらいいの?なにを食べたらいいの?
著者:安部 司
販売元:新潮社
発売日:2009-01
おすすめ度:4.5
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「食品の裏側」が60万部超というベストセラーとなった元食品添加物セールスマン、安部司さんの近著。

食品の裏側―みんな大好きな食品添加物食品の裏側―みんな大好きな食品添加物
著者:安部 司
販売元:東洋経済新報社
発売日:2005-10
おすすめ度:4.0
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「食品の裏側」と同様に、食品添加物でくず肉を使ってハンバーグや肉団子をつくったり、明太子をおいしそうに保ったりという加工食品の裏側を紹介しており、手首を使って手に取った食品の裏側の成分表に注意して食品を買うことを勧めている。


「合成保存料不使用」の怪

特にこの本で印象に残ったのは、保存料の話だ。

保存料はソルビン酸とか安息香酸などがあるが、これらは国により使える食品と、分量も決まっているので、簡単には使えない。

ところがいろいろな添加物を配合すると話は別だ。

たとえばサンドイッチなどにはリンゴ酸、酢酸ナトリウム、メタリン酸ナトリウムなど6種類から10種類の添加物を配合して「PH調整剤」と一括表示すれば良い。

「合成保存料」ではないので、たとえ実際には保存料と同じ効果のある「PH調整剤」でも、表示の義務はなく、逆に「合成保存料不使用」と表示が出来るという。

合成保存料的な成分を含んでいても、「PH調整剤」とか「調味料(アミノ酸など)」と一括表示すれば良いのだ。

常温で2−3日日持ちがするパック入りのサンドイッチは、保存料がなくてはありえない商品だが、冷蔵ケースに置くよりも、オープンケースの棚で売る方が売り上げが上がるというニーズに合わせたヒット商品だという。

実際に手にとって見てみたが、常温(5月ー10月は最高30度)で賞味期限が3日間となっている。たしかに「保存料」とかは一言も書いていないが、「PH調整剤」や「調味料」は入っている。

たぶんパックは密閉で、酸化を防止するガスなどが封入されているのだとは思うが、保存料無しで30度の環境で3日持つのはありえない話だ。


有機食品は売れない

安部さんは、有機農業のJAS判定員資格を持っているそうだが、日本の有機JASは大変厳しく、隣の田んぼで虫が大量発生しても、殺虫剤も撒けないという。除草剤、殺虫剤は使えず、堆肥にも厳しい基準がある。

無農薬・無化学肥料の安全な食品だが、コストが高いので、まったくといって良いほど日本では売れていないという。

安部さんは北九州市に住んでいるので、知り合いがやっているくまもと有機の会から、有機野菜のセットを送ってもらっているという。

栄養価も高く、「ハマる」おいしさだという。無数の外敵を生き抜いてきた野菜には力強さまで感じるという。


添加物を減らす努力

添加物なしの食生活を送ることは、大変難しいと思うが、たとえばポン酢のかわりに丸大豆醤油と100%果汁を使うとか、添加物を使っていることを意識するとか、ちょっとした工夫で添加物を減らすコツを紹介している。

ちなみに筆者の住んでいる町田市には「日本一醤油」という昔ながらの醤油を造っている岡直三郎商店という会社がある。

価格は一本1,000円前後と高いが、まさにこの本で紹介されている原料:丸大豆、有機小麦、天日塩だけを使った純粋な醤油だ。

楽天でも出店している。

人気商品!いい品をさりげなく贈ろう・・・日本一醤油の贈り物【02P25Jun09】
人気商品!いい品をさりげなく贈ろう・・・日本一醤油の贈り物【02P25Jun09】


ベストセラーの「食品の裏側」の様な強烈な印象はないが、特に保存料については消費者には気が付かない、いわば世間の非常識・食品業界の常識のようなものが紹介されていて興味深い。

今年出た本でもあり、書店等で一度手に取ってみて欲しい本である。


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Posted by yaori at 22:48Comments(0)TrackBack(0)

2009年06月15日

ホームレス大学生 笑えて泣ける家庭の「解散」劇 お兄さん編

2009年6月15日追記:

ホームレス大学生ホームレス大学生
著者:田村 研一
販売元:ワニブックス
発売日:2008-10-09
おすすめ度:4.5
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ホームレス中学生で大ヒットした麒麟の田村君のお兄さん、田村研一さんの本。

ホームレス中学生と基本的には同じストーリーだが、お兄さんの目から見たホームレス生活のことを書いている。

田村君は「まきふん公園」だが、お兄さんとお姉さんは「たこ公園」だ。

田村君の本では兄弟がホームレス生活の後で、知人の好意で古家で一緒に生活できたことしか書いていないが、お兄さんの本ではどうやって生活費、家賃を工面したかが書いてある。

お兄さんは一家が「解散」した時には大学生だった。コンビニの深夜アルバイトで月12万円ほどの収入があったが、それだけでは3人が暮らすのは到底無理なので、「解散」後すぐに田村君は友達のところに行くと言って、実際には「まきふん公園」で、お兄さんとお姉さんは「たこ公園」でホームレス生活を始めた。

そして知人の好意で古家に兄弟3人で住めることになり、お兄さんは奨学金を受け、アルバイトし、お姉さんと田村君は生活保護を申請し、時にはアルバイトをして、なんとか家賃を工面した。

一時は毎日小遣い2,000円ということもあったが、生活保護がなくなると一日300円となった。このあたりは以下の田村君の「ホームレス中学生」に詳しい。

お兄さんはお父さんが蒸発したあと、家長として兄弟を支えたことがよくわかる。

お兄さんも吉本で芸人を目指したが、田村君がやはり芸人を目指すことになると、兄弟2人が芸人で、お姉さんの幼稚園教諭としての給料では3人生活できないとして、自分はきっぱり辞めた。

お兄さんのみが経験した話として、お父さんを追いかけていた借金取りに捕まり、怖い目にあったことが描かれている。

最後はテレビの企画で、逃亡していたお父さんが14年目に見つかり、お父さんが独りで住んでいる1DKを兄弟3人で訪問して、それから家族が一緒に暮らせるようになったことを書いている。

今や田村君は売れっ子芸人、妹さんは幼稚園教諭となって結婚し、あとは長男として弟妹をひっぱってきたお兄さんが自分の生き方を見つける番だ。

そんな将来の道を見つける決心をするための今回の出版かも知れない。

ホームレス中学生と同じストーリーながら楽しく読めた。


参考になれば次クリック投票お願いします。


  
Posted by yaori at 23:02Comments(4)TrackBack(0)

2009年05月23日

吉田茂 ポピュリズムに背を向けて 今なぜ吉田茂なのか?

+++今回のあらすじはすごく長いです+++

吉田茂 ポピュリズムに背を向けて吉田茂 ポピュリズムに背を向けて
著者:北 康利
販売元:講談社
発売日:2009-04-21
おすすめ度:4.5
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筆者が注目している元ビジネスマン作家、北康利さんの最新作。前作「白洲次郎 占領を背負った男」で取り上げた白洲次郎のボス、吉田茂の伝記だ。このあらすじブログは筆者の備忘録も兼ねているので、良い本だと筆者の思い入れも強く、あらすじがつい長くなってしまう。

この本の表紙は、50歳頃と思われる吉田茂の写真だ。これはロンドンの写真館で撮ったものということなので、1930年前後のものだろう。見慣れた次のような吉田茂の写真とは異なり、別人の様に見える。

Shigeru_Yoshida_1947










出典:Wikipedia

YouTubeには次のような吉田茂のドキュメンタリーがいくつか収録されているので、こちらも参照して欲しい。



筆者は神奈川県藤沢市出身なので、小学校の遠足などで箱根方面に行く途中で大磯を通る時には、バスガイドが大磯の吉田邸の話をしていたことを思い出す。

また横浜市戸塚区の横浜新道と国道1号線をつなぐバイパスは、筆者の子供の頃は「ワンマン道路」と呼ばれていた。

このバイパスができる以前は国道一号線の戸塚駅付近に東海道線の踏切があって、朝晩は「開かずの踏切」になるので、たびたび足止めを食らった吉田首相の鶴の一声で、バイパス建設が決まったという逸話がある。

吉田茂は高知県人の「いごっそう」で、神奈川県出身ではないが、大磯に長く住んでいたので、まるで神奈川県の偉人のように感じていたものだ。

北さんも本の中で記しているが、今年3月吉田邸が不審火で焼失したのは残念でならない。



筆者の子どもの頃に吉田元首相の国葬があったことをおぼろげに覚えているが、北さんが述べている様に、高校の日本史では、受験に出ないという理由で、現代史は自習だったので、ほとんど当時の吉田茂のことは知らないので、興味深く読めた。

400ページ弱の本で、吉田茂の生い立ちから、サンフランシスコ講和条約締結までで終わっている。最初読んだ時は、吉田茂の晩年のことが書いてないので、尻切れトンボのような印象を受けたが、あらすじを書くために読み直すと、北さんの真意がわかってきた様な気がする。

たぶん北さんはこの本のタイトルにあるように、小泉元首相などに代表される「ポピュリズム」政治へのアンチテーゼとして、ステーツマン(ポリティシャン=政治屋でなく尊敬できる政治家)吉田茂の伝記を書きたかったのだろう。だから1951年のサンフランシスコ講和条約で終わっているのだと思う。


吉田茂のおいたち

吉田茂は明治11年(1878年)高知県で竹内綱の5男として生まれ、すぐに横浜のジャーディンマセソン商会の横浜支配人吉田健三の許に養子として出された。実父の竹内綱は自由民権運動家として知られた実業家・政治家だ。

吉田の長兄の竹内明太郎は小松製作所の創業者であり、早稲田大学理工学部創設に貢献したことから、竹内記念ラウンジがある。友人の田健治郎、青山禄朗とともに改心社自動車工場を設立し、3人の頭文字を取って脱兎にかけたDAT CAR後のダットサンが生まれる。

養父の吉田健三は福井県出身で、英国船に密航してイギリスで2年間生活した強者だ。帰国後実業家となり、当時極東最大のジャーディンマセソン商会の横浜支配人を勤めた。ビールを最初に取り寄せたのも吉田健三だといわれている。

健三は大磯に住んでいたが、当時大磯には伊藤博文、西園寺公望、木戸幸一、樺山愛輔(白洲正子の父)などが住んでいた。

健三は40歳で病死する。死因は不明だが、インフルエンザだったといわれている。豚インフルエンザの流行が毎日報道されるこのごろだが、昔も今でもインフルエンザは死に至る病となるのだ。

吉田茂は11歳で吉田家の戸主として現在の金にすると25億円ほどの遺産を相続し、遺産の大半を戦前に使い切ってしまったという。

大磯の豪邸をさらに広げたとはいうものの、それにしても大変な金銭感覚の無さだ。もっぱら遊びに使ったのだろう。吉田茂の実母は竹内綱の妾だったようで、後に妻の雪子に「芸者の子は芸者が好きね」とため息をつかれたという。


外務省入省

吉田茂は藤沢の耕余義塾という漢学塾に学び、日本中学校、東京高等商業(現一橋大学)、正則中学、東京物理学校(現東京理科大)、学習院大学を経て28歳で東大政治学科を卒業し、1906年外務省に入省する。

外務省では謹厳実直なエリート広田弘毅と同期で親友となる。

入省翌年、はやくも奉天に1年間勤務する。その後帰国して有力者牧野伸顕の娘雪子と結婚する。翌1908年ロンドン、次にイタリアに勤務する。

1912年から1916年までは朝鮮と中国の国境の鴨緑江に面する安東県領事として勤務する。

1915年大隈重信内閣は、袁世凱政権に対して「対支21ヶ条の要求」を突きつける。吉田は在満州の領事に呼びかけて、対支21ヶ条に反対したが誰も賛同しなかったという。保身を考えず、信念で行動する吉田らしいエピソードだ。


多くの役職を歴任して外務次官に

帰国後寺内正毅首相に秘書官にならないかと誘われ「私は首相なら務まると思いますが、首相秘書官は務まりません」と断っている。当時の外務次官の幣原喜重郎は英語の達人として知られるが、吉田とはウマが会わなかったという。

1918年中国の済南領事となり、第一次世界大戦のパリ講和条約に義父の牧野の秘書官として参加し、西園寺公望に同行していた近衛文麿と出会う。パリ講和会議では日本は人種差別撤廃を主張し、賛成多数を獲得するが、アメリカ大統領ウィルソンが全会一致を要求し、日本案は葬られてしまう。

吉田茂はこのとき国際社会における日本の立場を思い知らされたという。帰国後吉田は1920年に再度イギリスに赴任する。

1922年天津総領事を経て、1925年奉天総領事として勤務する。

このとき、吉田を訪ねてきた来客に出くわし、「本人がいないと言っているんだ。こんな確かなことがありますか」と答えたという話が残っている。戦後記者に「諸君とは食べ物が違う。私は人を食っている」と答えたという吉田茂らしいエピソードだ。


済南、天津、奉天のこと

余談になるが、筆者は中国の済南、天津、奉天(現瀋陽)すべて行ったことがある。

奉天(現瀋陽)に最初に行ったのは今のように近代化される前の1986年で、当時中国のマグネシア原料を米国に輸入していたので、鉱山を訪問したのだ。

今のように高速道路などない時代なので、片側一車線の並木道が旧満鉄沿いに大連から奉天まで続いており、当時の中国人運転手(今もそうかもしれない)の特徴とも言える無理な追い越しで何度も怖い目にあった。

奉天では満鉄の主要駅前にあった旧大和ホテルで一泊した。旧式ではあるが立派なホテルだった。

天津は2002年に行った。天津は北京から近いので、車で十分日帰りでき、天津事務所の人との打ち合わせだけだったので、あまり記憶にない。

山東省済南へは、1998年頃米国向け鉄鋼原料の買い付けで行った。飛行機で北京から済南まで飛んで、車で済南から青島まで高速道路で移動した。

このあたりは石炭を燃料としている中小工場が多く、済南から青島までずっと途中スモッグがたちこめ、中国の大気汚染のひどさに驚いたものだ。

日曜日は済南に一泊したので、済南の近くの鍾乳洞を訪問した。本当は同じ山東省の孔子廟のある曲阜(きょくふ)に行きたかったのだが、片道5時間かかると言われ、1980年代(?)に発見されたという鍾乳洞を見学した。

すごい大規模な鍾乳洞で、たしかに一見の価値はあった。

山東省は筆者にとって忘れ得ない省だ。一つは最初に中国に出張した1983年に浙江省の杭州の相手方の総経理(社長)が山東省の出身ということで、山東省名産の汾酒というアブサンみたいなアルコール50%超のセメダインのにおいのする酒で何度も乾杯させられたのだ。

中国焼酎 汾酒 フェンチュウ 53度 500ml
中国焼酎 汾酒 フェンチュウ 53度 500ml


(今調べてみたら汾酒は山西省の名産ということで、筆者が山東省と聞き間違えたのかもしれない)

悪酔いして本当にもう死ぬかとおもったが、案外翌日仕事ができたのには自分でも驚いた。たぶん蒸留酒なので翌日には残らないのだろう。

翌日の宴会の乾杯は度数の低いブランデーで、コーラも一緒に用意してこちらのペースで進めたので、問題なかった。ちゃんと対策を取っていれば、中国の宴会の「乾杯攻め」も怖くないことを知った。

もうひとつは1998年に済南に行ったときの宴会料理だ。

料理の一つが大皿にずらっと並んだセミの幼虫だったのだ。筆者が主賓のため、主賓が食べないと他の人も食べられないので、やむなく2−3個取って食べてみた。味はほとんど覚えていない。食べられなくはなかったが、うまいものではなかった。

そうしたら12人ほどのテーブルで、中国人でも食べないやつがいるのには頭に来た。こっちはせっかく無理して食べたのに、なぜ食べないのかと聞くと、今は(冬だった)セミのシーズンではないと言っていたので再度頭に来た。

閑話休題。


戦争に向かう日本

短期間のスウェーデン公使のあと、帰国して1928年に外務次官となる。張作霖爆殺事件が起こり、関東軍の暴走を止められなかった田中義一内閣は昭和天皇の叱責を受けて総辞職し、田中は3ヶ月後狭心症で死去する。

当時28歳の昭和天皇は、田中を叱責したことが田中内閣を総辞職させ、田中を死に追いやる結果にもなったかもしれないということを深く悔やみ、以後は発言を極力控えるようになり、そのことが軍部の横暴に拍車を掛ける結果となる。

今度紹介する元竹田宮家の旧皇族の竹田恒泰さんの「旧皇族が語る天皇の日本史」に「昭和天皇独白録」の関係部分が引用されているので紹介する。

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「それでは話が違ふではないか、辞表を出してはどうか」

「こんな云ひ方をしたのは、私の若気の至りである(中略)この事件あって以来、私は内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持ってゐても裁可を与へる事に決心した」

吉田は1930年まで外務次官をつとめた後、イタリア大使として転出する。

1931年に満州事変が起こり、政府は不拡大宣言を出すが、軍を抑えられず若槻内閣は辞職し、犬養毅内閣が成立する。その犬養毅も翌1932年5.15事件で暗殺され、暗い時代に入っていく。

駐米大使の話もあったが、吉田はこれを断り、1932年に日本に待命待遇で帰国する。駐米大使は外交官として最高の栄誉なので、あり得ない話だが、関東軍の暴走を追認する内田外相への反感によるものだという。

日本では1932年から駐日米国大使となっていたジョセフ・グルーと家族ぐるみの親密なつきあいをする。グルーはボストンの名家出身で、モーガン財閥とは姻戚だ。ハーバード大学在学中に日本を訪問し、日本びいきとなったという。


外交感覚のない国民は必ず凋落する

多くの逸話がある吉田茂だが、外交で国を救うという姿勢は一貫しており、その一つがこのエピソードだ。

1933年、吉田の外務省同期の広田弘毅が外相になり、待命中の吉田に気を遣って外交巡閲使として吉田を欧米に派遣する。1933年は日本が国際連盟を脱退した年だ。朝鮮・中国からスタートして一年強掛けて世界を一周する。このとき同行したのが麻生太郎首相のお母さんで吉田茂の三女、旧姓吉田和子さんだ。

吉田はワシントンで岳父牧野伸顕の紹介で、ウィルソン大統領の親友で外交官のハウス大佐に会い、「外交感覚のない国民は必ず凋落する」という警句を聞いた。これが吉田の生涯忘れえない言葉となった。

1936年には2.26事件が起こり、義父の牧野伸顕は湯河原で襲われ、孫の吉田和子と一緒に、すんでのところで難を逃れる。この時遭難してれば、麻生太郎首相も生まれなかったわけだ。

牧野についておもしろいエピソードを北さんは紹介している。

吉田茂の息子の吉田健一は評論家として有名だが、吉田の仲間の小林秀雄は酒癖が悪く、ある時酔って牧野に抱きつき、頭をなでながら「お前みたいに記憶のいい爺イはメモアールを書いておけ!きっと書くんだぞ!」と怒鳴っていたという。

仲間の河上徹太郎が失礼をわびると、牧野は「いやなに、2.26の時は機関銃の弾の下をくぐりましたから」と答えたという。

筆者の年代の人は、小林秀雄というと、文芸評論家の神様の様な存在で、現代国語の問題によく引用され、その難解な文章には悩まされたものだが、まさか酒乱だったとは思わなかった。


駐英大使として赴任

1936年3月、広田弘毅内閣が誕生する。広田は吉田を外相にするつもりだったが、軍部の反対でやむなく断念し、吉田を駐英大使に任命する。

この頃は在外武官が武官府という独自の事務所を持ち始め、独自の外交を展開していた。そんな武官の中で最も力を持っていたのがドイツ大使館付きでドイツ語が堪能な大島浩少将だ。

大島はヒットラーとも親しく、リッペントロップ外相日独防共協定案をつくりあげる。1937年11月に日華和平交渉を仲介するなど、それまでドイツは親中国の立場を取っていたので、この協定は大島の自信作で、案が煮詰まるまで大島は一切外務省には知らせていなかったという。

外務省はあわててドイツ以外のイギリスなどにも参加させようとするが、吉田は防共協定自体に反対する。結局この年11月に日独防共協定は締結され、広田内閣も10ヶ月で辞職する。

吉田が駐英大使時代につきあいが深まったのが白洲次郎である。次郎が日本水産の貿易担当役員をしていた関係で、ロンドンにもしばしば立ち寄り、吉田の妻雪子からは娘の和子の結婚相手を探すように頼まれる。

次郎が見つけてきた相手が麻生太賀吉・麻生鉱業社長だ。たまたま次郎は麻生と同じ船に乗り合わせ、サンフランシスコから横浜までの2週間一緒にいて意気投合したのだという。

白洲次郎夫妻が仲人となり、吉田の帰国後の1938年12月に二人は結婚する。麻生太賀吉は実父を早く亡くしたこともあり、吉田茂を実の父親のように慕っており、セメントや石炭事業が絶好調の麻生鉱業が、巨額の政治資金を吉田茂に提供したのだという。

1937年には廬溝橋事件で日中戦争に突入し、近衛文麿が総理大臣となるが、有名な「蒋介石を相手にせず」声明を発表してしまう。

吉田は駐英大使として孤軍奮闘し、親日家のロバート・クレーギーを駐日大使に赴任させることに成功するが、外務省の実権は大島の息のかかった白鳥敏夫派に移り、吉田は本国の支援を失い、1938年9月帰国辞令が出る。

吉田の後任が重光葵であり、チャーチルは重光と頻繁に会って、日本の欧州戦争への参戦を思いとどまらせようとしていたことは、関栄次さんの「チャーチルが愛した日本」に詳しい。

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最後まで開戦回避に努力

吉田の帰国辞令と時を同じくして結ばれたのがチェンパレン英国首相の戦争回避策であるミュンヘン協定だが、ヒットラーはミュンヘン協定を破って領土をさらに拡大し、戦争に突入していく。

日本に帰国した吉田は、役職にはつかず、白洲次郎と一緒にグルー駐日米国大使としばしばゴルフに出かけたり、クレーギー駐日英国大使とも密接な関係を保っていた。このため吉田の周囲は、憲兵隊から「ヨハンセングループ」(吉田反戦グループ)とコードネームを付けられ、常時監視されることになる。

1939年9月ドイツのポーランド侵攻により第2次世界大戦が始まる。閉塞感が漂う中、1940年7月近衛が再び首相に就任した直後に、米国は対日航空ガソリン禁輸を決定する。日本はやむなく石油資源を求めて9月に北部仏印進駐、そして日独伊三国同盟が大島と白鳥駐伊全権大使の連携で締結される。

1941年に吉田の妻の雪子が亡くなった。雪子の死後数年は吉田はやもめ暮らしをしていたが、娘の和子のすすめで、長年の妾だった小りんを家に迎え入れる。小りんは故雪子に気を遣って、入籍はしなかったという。

1941年4月戦争回避のためホノルルで近衛首相とルーズベルト大統領が会談するという計画が持ち上がるが、ハル国務長官松岡洋右外相の反対で実現しなかった。7月には南部仏印進駐への制裁として、米国は在米日本資産の凍結を発表、8月には対日石油輸出を全面禁止とした。

近衛はグルーと直接会い、ルーズベルトとの直接会談を要望するが、10月に近衛内閣は総辞職に追い込まれる。東條英機内閣が成立し、11月末の強硬なハルノートを受け取り、日本は開戦に踏み切る。

吉田は12月始めにグルーの要請で東郷茂徳外相との会談を実現すべく最後まで努力するが、12月1日の御前会議で開戦決定が下されていたので、東郷はグルーに会わなかった。


太平洋戦争に突入

戦争中も吉田は、和平を結ばせるべく努力し、近衛や木戸幸一内大臣などと相談するが、即時停戦の近衛上奏文作成に加わったことで1945年4月に逮捕され、阿南惟幾陸相の口利きで5月末に釈放されるまで収監される。吉田邸の女中や書生としてスパイが送り込まれていたのだ。

一方グルーは1942年外交使節交換船で帰国するが、米国帰国後も駐日大使より格下の国務省の極東次官補にあえて就任し、次に国務次官に就任、皇居への直接爆撃を阻止するなど、早期戦争終結に努力するが、ルーズベルトの後任のトルーマンは原爆の威力に魅せられ、グルーを遠ざけた。

吉田はグルーを「真の日本の友」と呼んで感謝している。

グルーの努力も実らず、結局原爆が投下され、ソ連が参戦し、日本は降伏した。終戦を決定した鈴木貫太郎内閣は1945年8月15日総辞職し、皇族の東久邇宮稔彦殿下が首相となり、吉田は外相として67歳で初めて入閣し、さっそく外務省の人事を一新し、大改革に取りかかる。。


マッカーサーと吉田茂

吉田は1945年9月GHQを訪れ、はじめてマッカーサーと面談する。初対面で「ライオンの檻に入れられたような気がする」とジョークを飛ばし、それ以降マッカーサーとは終生良い関係を保った。

この二人は自尊心といい、他人の言うことを聞かない独善性といい、性格的にはそっくりで、犬好きという共通点もあったと北さんは評している。

外相就任してすぐに、天皇の希望で、天皇とマッカーサーとの会談が実現し、有名な写真が公開される。モーニング姿の天皇に対し、開襟シャツのマッカーサー。どちらが支配者か一目で分かるマッカーサーの政治傑作の一つだ。

Macarthur_hirohito






出典:Wikipedia

マッカーサーの予想に反し、昭和天皇は命乞いをするどころか「戦争の全責任は私にある。私は死刑も覚悟しており、私の命はすべて司令部に委ねる。どうか国民が生活に困らぬよう連合国にお願いしたい」と述べた。

マッカーサーは感動し、誰にも使ったことのなかった”サー”を口にして送り出した。マッカーサーは、引退後も日本の戦後復興の最大の功労者は、昭和天皇だと語っており、天皇に対する尊敬は終生変わりはなかったという。

このときの昭和天皇の帽子の裏地には、ほころびを繕った跡があったという。天皇の人柄と、いかに清貧な生活をしていたのかが偲ばれるエピソードだ。

内務省が会見写真の新聞公開を差し止めたことから、GHQは怒り、内務大臣と内務・警察官僚4,000人の罷免を要求する。これで東久邇内閣は総辞職し、54日という歴代内閣最短記録をつくる。このことが尾を引き、戦前「役所の中の役所」と呼ばれてきた内務省は、1947年に解体されてしまう。

東久邇宮内閣の次は幣原喜重郎内閣が成立し、吉田は引き続き外相として留任して、「終戦連絡事務所」を設立し、白洲次郎を終連中央事務局参与に任命する。近衛はマッカーサーから一時はおだてられるが、米国内で近衛に対する非難がわき上がると、近衛を切り捨て、近衛は戦犯容疑で収監される前日に青酸カリ自殺する。


GHQ民政局と対決

GHQの占領政策の中心は民政局のホイットニー准将(当時48歳)とその部下のケーディス大佐(当時40歳)だった。彼らはニューディールの申し子で、いわば理想主義者の集団だった。

吉田茂と白洲次郎のコンビはGHQの民政局を相手に、日本の国益を守るために必死に戦う。吉田は作戦として、自分はマッカーサーを交渉相手にすることを決め、それ以下のホイットニーなどは相手にしなかった。マッカーサーの部下との交渉を引き受けたのが、ケンブリッジ仕込みの英語の達人、白洲次郎だった。

民政局は20万人を公職追放し、「ホイットニー旋風」を起こすが、GHQの中でもG2の「バターン・ボーイズ」の一人のウィロビー少将は民政局の政策を好まず、吉田と白洲はウィロビーと接近する。

ソ連が極東委員会を通じて、対日占領政策に口だしする構えをみせたので、マッカーサーは1946年2月に憲法改正草案の作成を命じ、GHQ関係者25名が7日間で草案を作り上げ、吉田と次郎に手渡す。改正案を日本側が訳して4月に憲法改正案として公表され、国会決議を経て成立した。

憲法改正案が国家に上程されたときに、多くの議員が無念のあまり嗚咽を漏らしたという。

自国の憲法を批准するのに国会議員が涙を流したというのはおそらく日本だけだろうと北さんは語る。日本人は彼らが抱いた悔しさを今ではすっかり忘れ果ててしまっていると。


第1次吉田内閣成立

1946年4月の総選挙で勝利した鳩山一郎は、組閣準備を始めるが、GHQの民政局から公職追放を突きつけられ、やむなく組閣をあきらめ、吉田に首相就任を要請する。吉田は一旦は断るが、鳩山や周りの説得で1946年5月に首相就任を決意する。

このとき鳩山に出した条件が次だ。

*自分は金を作らない
*人事には干渉させない
*嫌気がさしたらやめる

鳩山は「追放が解除になったらすみやかに総裁を譲る」という約束があったと主張して、後に吉田茂と大げんかになる。鳩山の公職追放が解除されたのは1951年のことだ。


戦争に負けて外交で勝った歴史はある

この有名な言葉は、吉田茂が昭和21年5月、初めて総理大臣となったときの言葉だ。

「戦争に負けて外交で勝った歴史はある」

吉田茂は後に日本医師会会長となる甥の武見太郎に、首相になる自信はあるかと聞かれた時に、このように答えたという。

19世紀ナポレオンの没落後、ヨーロッパ中を敵にまわしながら、領土を守りきったフランスのタレーラン外相のことを思って言ったのではないかと北さんは語る。

1946年当時、日本は海外領土を失い、農業の働き手を失って深刻な食糧不足に悩まされていた。

吉田はマッカーサーと掛け合い、食料問題を解決するために450万トンの食料援助を依頼するが、実際は70万トンで国内に十分な食料がゆきわたった。

マッカーサーがそのことをなじると、吉田茂は「もし日本が正しい数字を出せる国だったら戦争に負けてなどいませんよ」といなし、これにはマッカーサーも笑い出したという。

吉田はGHQの指示で、六・三制義務教育(それまでは6年間が義務教育だった)、農地改革を実現する一方、組合を「不逞の輩(やから)」と呼んで舌禍事件を起こした。

また選挙嫌いも徹底しており、地元で「自分は高知から選出されたかもしれないが、日本国の代表であって高知県の利益代表ではない」と公言していたという。


残りは続きを読むに記載。


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2009年05月06日

B-29 日本爆撃30回の実録 東京空襲を行ったパイロットの証言

B‐29日本爆撃30回の実録―第2次世界大戦で東京大空襲に携わった米軍パイロットの実戦日記B‐29日本爆撃30回の実録―第2次世界大戦で東京大空襲に携わった米軍パイロットの実戦日記
著者:チェスター マーシャル
販売元:ネコパブリッシング
発売日:2001-05
おすすめ度:5.0
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中央区図書館で見つけて読んでみた。

東京裁判についての渡部昇一さんの「パル判決書の真実」を読み、いまさらながら、東京裁判は勝者が敗者を裁く復讐裁判で、勝者の「人道に反する罪」といえる原爆や東京空襲が不問に付されていることが気になったので読んでみた。

この本はB−29で日本爆撃を30回出撃し、無事生還した米軍のパイロットが当時の日記を元に爆撃の記録をつづったものだ。

以下写真の出典はすべてWikipedia。

Boeing_B-29_Superfortress_USAF






B−29は第二次世界大戦末期に投入されたボーイング製の4発の爆撃機で、レシプロエンジン(ジェットエンジンの対義語)では最高の爆撃機と言われている。

B−29は1万メートルを超える高々度で飛行していたので、日本軍の戦闘機も1万メートルまで上昇して攻撃することは容易ではなかった。

また日本軍の高射砲も一部を除いては1万メートルの敵機を打ち落とす能力はなく、ほんの一部のB−29を撃ち落としてたのみだった。

日本軍の高射砲弾は時限信管で、VT信管ではなかったことも、戦果が挙がらなかった原因の一つだ。

この本の著者がB−29で日本を爆撃したのは1944年11月から1945年6月までで、合計30回の爆撃ノルマをこなして、全クルーが無事米国に帰還している。

B−29はサイパンから日本を爆撃したが、1944年末当時はまだ硫黄島が米軍の手に落ちていなかったので、硫黄島からしばしば日本軍の戦闘機や爆撃機がサイパンの米軍基地を攻撃してB−29の損失も多かった。米軍は1945年2月に硫黄島総攻撃を開始し、3月に栗林中将を指揮官とする日本軍守備隊は玉砕した。

それ以降はサイパンに対する日本軍の組織的な攻撃はなくなり、硫黄島を基地とするP−51戦闘機が毎回数百機出撃し、B−29爆撃機を援護するようになり、日本本土上空でも日本軍戦闘機をB−29に寄せ付けなかった。

P−51

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この本を読むと最初のうちは中島飛行機武蔵製作所や群馬県太田市の中島飛行機、名古屋の三菱などの飛行機工場を爆撃している。

ところが、3月9日になって急に東京への焼夷弾攻撃のブリーフィングが行われ、ほとんどの者が民間人攻撃の命令を受けて、信じがたい思いで座ったまま唖然としていたという。

合計334機のB−29で東京を火の海にしろという命令だ。

戦闘機の反撃はあっても圧倒的多数の護衛戦闘機に守られて軽微と予想されるので、弾丸は尾部銃塔のみに搭載し、焼夷弾を積めるだけ積んで出撃するのだと。

1個3キロ程度のM69焼夷弾を金属の帯で束ねて500ポンドの焼夷弾をつくる。

時限装置をつけ、地上に近づくと時限装置が作動して集束が解かれ、焼夷弾が広域にわたって散布されるしくみで、一機に24発の500ポンド焼夷弾を積み、横0.5マイル x 縦1.5マイルの範囲に散らばって落ちるという。

東京を焼き尽くし、民間人を攻撃するという出撃命令を受けてからはみんなふさぎ込んでしまったという。パイロットはこれが人道に反する攻撃だと知っていたのだ、

3月10日の東京大空襲では、高度2,000メートルで爆撃したので、がらくたや人肉の焼ける異臭がしたという。

日本軍の戦闘機は、屠龍、飛燕、鍾馗、月光などが迎撃し、このころから体当たり攻撃をするようになったこともあり、B−29のパイロットを恐れさせるが、実際には圧倒的多数の強力なP−51に守られたB−29まで到達する日本軍戦闘機はまれだったという。

屠龍

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飛燕

Kawasaki_Ki-61-14



鍾馗

Ki-44





月光

月光



この本の著者の属するB−29の25番クルーは30回、合計452時間の出撃を終えて米国に帰還する。

日本機撃墜10機、不確実7機、撃破2機というのが25番クルーの戦績である。

上記で紹介したように、東京空襲を行った米国人パイロット達も、民間人をターゲットとすることで落ち込んでいたのだ。

マッカーサーをフィリピンから追い落とした本間雅晴中将は、「バターン死の行進」の責任者として、戦後マニラ軍事裁判で死刑となり銃殺された。本間中将は銃殺される際に、自分はバターン死の行進の責任を取って殺されるが、広島や長崎に原爆を落とした張本人は罰せられないのかと発言したといわれる。

同じことが民間人をターゲットにした無差別爆撃の東京空襲にも言えると思う。(その意味ではドイツ軍のゲルニカ爆撃や連合軍のドレスデン爆撃、日本軍の重慶爆撃も同じことが言えると思う)

勝者が敗者を裁くのは戦争裁判の特質からやむをえないかもしれないが、民間人への攻撃を目的としたハーグ条約違反の行為は、たとえ軍事裁判にかけられなくても、「人道に対する罪」となると思う。

オバマ大統領は、チェコのプラハで核兵器廃絶をぶち挙げ、米国は唯一の原爆使用国として"moral responsibility"があると演説したが、東京やドレスデンなどへの民間人を対象とした無差別攻撃を命令した者についても、責任が明らかにされるべきだと思う。

そんなことを考えさせられる本だった。



参考になれば投票ボタンをクリックしてください。



  
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2009年04月21日

プリンス近衛殺人事件 おどろくべきロシア小説

プリンス近衛殺人事件プリンス近衛殺人事件
著者:V.A. アルハンゲリスキー
販売元:新潮社
発売日:2000-12
おすすめ度:4.0
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近衛文麿の長男で、プリンストン大学出身の英才ながら2等兵として入隊し、砲兵中尉になったところで終戦。ソ連に抑留され、ついに帰国することなく1956年に死亡した近衛文隆を中心にソ連のシベリア抑留を描いたノンフィクション小説。

ベビーフェイスの陸軍士官姿の写真が表紙に載っている。

近衛文隆といえば、白洲次郎が「カンパク」と呼ぶ近衛文麿に頼まれて家庭教師のように面倒を見ていたことが「白洲次郎 占領を背負った男」にも紹介されている。

近衛文隆がシベリア抑留され、1956年に亡くなった時に、次郎は「ソ連の野郎、絶対にゆるさねえ!」と叫んだという。


著者はロシア人ジャーナリスト

この本の著者はプラウダと並ぶロシアの2大新聞のイズペスチャの元副編集長で、ウズベキスタン国会議員やタシケント市長も兼任したアルハンゲリスキー氏だ。

著者自身の父親、兄弟が対独戦争で行方不明となったが、どこで戦死したのかも一切分からないため、ジャーナリストという地位を利用して各地の公文書館で調査を重ねたが、結局消息はわからなかった。

その際、近衛文隆をはじめとする日本人抑留者のKGBでの証言記録や強制収容所抑留記録が見つかったので、数万点もの資料を集め、本にまとめたものだ。

邦訳で300ページ余りの本だが、原著はこの数倍におよぶところを訳者が編集したという。


「おどろくべき本」

訳者もあとがきで評しているが、まさに「おどろくべき本」だ。

門外不出のKGB機密文書が紹介され、近衛文隆、そしてスターリンに粛正された元大臣や高官などの牢獄での様子なども紹介されている。

スターリンの側近や息子も収容所送りの例外ではない。

たとえばナンバー2のモロトフ外相の妻もスパイ容疑で収容所に送られた。一時近衛文隆が収容されていたKBG本部ルビヤンカの隣の部屋には元国家保安相でKGBの創始者アバクーモフが収容されていた。

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ルビヤンカ(旧KGB本部)出典:Wikipedia

スターリン死後に権力を握ったベリヤはほどなく処刑され、中将にまでなったスターリンの次男も収容所に送られ、シベリアのウラジミール監獄で近衛文隆と会ったという。

007の「リビング・デイライツ」で、しょっぱなのジブラルタルでの英国諜報部員のトレーニング中にエージェントがロープを切られて殺されるが、そこに出てきた紙切れに書いた”スパイに死を(スメルチ・シピオーナム)”という言葉が「赤軍諜報本部=KGB」の事を指すことが初めてわかった。



抑留者を強制労働

この本の著者はロシア人だが、戦争捕虜の権利を保障したハーグ条約があるにもかかわらず、ソ連だけが日本、ドイツなどの捕虜をシベリア抑留し、鉄道建設などの強制労働に使ったことが告発されている。

日本のシベリア抑留者の数は、一般的に言われている65万人という数字はデタラメで、実際には100万人以上が(300万人という説まである)抑留されていたこと、抑留者の死亡者は約37万人で、最初の1945年だけで夏服で掘っ立て小屋のラーゲリ(収容所)に収容された日本人が27万人も死亡したことなどがKGBや旧ソ連の政府資料などを中心に立証されている。

さらに抑留者のみでなくソ連の政府高官までも粛正され、一説には1,200万人のロシア人が”スターリン粛正”で処刑されたという。

スターリン他のソ連首脳の会話などは、一部は小説の形式を取っているが、大半の部分が著者が調べたKGBや当時の政府の秘密資料に基づいているノンフィクションである。

近衛文隆が亡くなったのは終戦後11年も経った1956年だ。

日本では近衛文隆返還運動まで起こり、鳩山一郎首相がソ連と交渉して、近日中の帰国が予想されていただけに、脳出血によるあっけない死にはたしかに疑問が残る。

著者のアルハンゲリスキー氏は、関東軍の高級将官の多くが、脳出血が理由で死亡している事実を指摘し、KGBは自分たちの意のままに操れない人物、反ソ連的思想がある人物を脳出血で葬ったのではないかと語る。

KGBは近衛文隆に共産主義への洗脳を試みたが、近衛がそれに応じないのを見て、このまま日本に返すと、やがては父の後を継いで政治家となり、反ソ連勢力となることを恐れた。

だから近衛文隆の帰国が時間の問題になってきたタイミングで、近衛を脳出血で殺したのではないかと。

死の直前に書いた日本への手紙数通が紹介されている。

日本から缶詰とか食料などの差し入れが可能となったので、最近は収容所生活で太ってきたとか、日本に帰ったらゴルフをやりたいとかと書かれている。

真実は今となっては永遠にわからないままだが、たしかに死の直前の奥さんや弟宛の手紙にコーヒーを送ってくれとかPSで書き添えているところを見ると、とてもすぐに病気で死亡するような状態とは思えない。

同じ収容所にいた元関東軍将軍も、近衛文隆が高熱が出て激しい頭痛を訴え、そのまま帰らぬ人になった様を報告している。

死亡診断書が残されているが、署名者からいってもそれは死亡直後のものでなく、近衛正子夫人がソ連を訪問して遺骨を引き取ることが決まってから急遽作成されたものに違いないという。

こんな話を読むと、今の北朝鮮が日本の拉致被害者に旧ソ連のKGBと同じことをしているように思われてならない。横田めぐみさんはじめ、他の拉致被害者も脳出血などの形で、北朝鮮に葬られたのでなければ良いのだが…。


著者アルハンゲリスキー氏の提言

最後に著者のアルハンゲリスキー氏は、シベリア抑留は旧ソ連の違法行為であり、日本政府は次の10ヶ条を要求すべきだと締めくくっている。

1.日本は自発的に武器をおいた。ロシア国会は関東軍を捕虜にした事実を公式謝罪する。

2.対日戦勝日(9月3日)を廃止する。あったのはソ連の対日侵略行為のみである。

3.「シベリア抑留白書」を刊行する。

4.暴力的にソ連国内に拉致された日本軍人、市民は強制抑留者であることを認める。

5.ソ連復興における日本人の勤労貢献に関する公式データを発表し、元抑留者や遺族に補償する。

6.すべての日本人墓地を整備し、死者の名前を入れた墓標を建立し、死亡者名簿を渡す。

7.おおむね日本人の手によって建設されたバイカル・アムール鉄道を日本幹線と改称する。

8.ハバロフスク裁判などの日本人に対する裁判は国際法上違法であり、全被告の名誉回復を行う。

9.近衛文隆関連の文書をすべて公開し、記念館を建て、KGB拷問室での近衛文隆の物語を刊行し、映画化する。近衛文隆を殺した犯人に対する国際裁判を開廷する。

10.しかるべき研究機関にシベリア抑留問題に関する文献を集めさせ、研究・発表させる。

日本の対ロシア平和条約は北方領土問題の根本的解決のみならず、シベリア抑留問題の解決がないとあり得ないことだと著者は語る。

今のロシア人の大半は、北方領土は太古よりロシア領であり、それが日露戦争で日本に武力で奪われたというウソの歴史を教え込まれ、信じ切っている。

日本側もこの誤解を解く努力をしていないので、100年くらいは北方領土問題は解決が難しいだろうと語る。

一方シベリア抑留問題は、国家秘密であったので多くのロシア人が問題の存在自体を知らなかった。

しかし事実が公表されれば、過去において自国政府が行った非人道的行為を理解するだろう。

収容所群島の犠牲者という意味では、今のロシア人も同じだと。


近衛文隆の話は決して忘れてはならないことだ。その意味で、劇団四季がミュージカル化したのは、すばらしいことだと思う。

このミュージカル「異国の丘」は、最近DVDも発売された。

劇団四季 ミュージカル 異国の丘 [DVD]劇団四季 ミュージカル 異国の丘 [DVD]
出演:劇団四季
販売元:NHKエンタープライズ
発売日:2009-01-23
クチコミを見る


この中では近衛文隆が作曲した”苦難に堪えて”という歌も歌われている。

筆者も一度見てみようと思う。

ロシア人が悪いのではない、旧ソ連という人非人国家があったのだ。多くのロシア人も同じような被害を被っている。

ノーベル賞受賞作家のソルジェーニツィンもシベリア送りになり、出所後「収容所群島」を書いているので、今度読んでみようと思う。

収容所群島(1) 1918-1956 文学的考察収容所群島(1) 1918-1956 文学的考察
著者:ソルジェニーツィン
販売元:ブッキング
発売日:2006-08-03
クチコミを見る


ロシア人も被害者であることがわかっただけでも読んだ意味があると思う。2000年出版の本で、絶版になっているようなので、是非一度図書館などで借りて読むことをおすすめする。


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2009年04月11日

消えた潜水艦イ52 1997年のNHKスペシャル 恐るべきアメリカ軍の諜報力

2009年4月11日追記:

畑村さんの「失敗学のすすめ」を読み直してみたら、イ52を沈めた護衛空母ボーグが戦時中アメリカが大量生産したリバティ船を航空母艦に改造した船だということがわかった。

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出展:Wikipedia

リバティ船とはそれまでのリベット接合に代えて鉄板を溶接して接合した急造の1万トン級の船で、全米18個所の造船所で戦争中に同じ形の船がなんと2,700隻も作られた。そのほかビクトリー船やT2タンカーなども合計1,000隻以上大量生産された。

WSA_Photo_4235






出展:Wikipedia

これらが大戦中の軍事物資の輸送に活躍し、アメリカを勝利に導いたのだ。リバティ船などの急造船のうち、なんと122隻がボーグの様な護衛空母に改造され、アメリカが戦時中につくった空母は151隻にも達した。

日本の全空母数の31隻に対して圧倒的な差である。

護衛空母のうち多くはイギリスにレンド・リース法により無償貸与され、イギリスの輸送船団護衛に威力を発揮した。

その後このリバティ船はなんと1,200隻の船体に何らかのダメージが生じ、230隻は沈没または使用不能となった。

冬の北大西洋で船体にダメージを受けるリバティ船が続出したので、理由を調査した結果、溶接鉄板の低温脆性のせいで沈没したことがわかった。これが畑村さんの「失敗学のすすめ」に書いてあったことだ。

それにしてもアメリカの圧倒的な生産能力に今更ながら感心する思いだ。

「消えた潜水艦イ52」で紹介されている武器の質の差とともに、これだけ圧倒的な物量の差があれば、とうてい日本には勝ち目はなかったことがわかる。


2009年4月8日初掲:

消えた潜水艦イ52 (NHKスペシャル・セレクション)消えた潜水艦イ52 (NHKスペシャル・セレクション)
著者:新延 明
販売元:日本放送出版協会
発売日:1997-08
おすすめ度:5.0
クチコミを見る


1997年3月2日に放送されたNHKスペシャル、消えた潜水艦イ52を本にまとめたもの。YouTubeにも収録されている。





日本が最高機密にしていた潜水艦のドイツ派遣が、アメリカの暗号解読によってアメリカに筒抜けになっていたという驚くべき事実が語られている。

アメリカ側は派遣時期から同乗している民間企業の技術者の名前や専門まですべて調べ上げていた。

そして潜水艦の動静を刻々と追って、ついに対潜水艦攻撃部隊の最新鋭兵器によってイ52は大西洋の底に葬られたのだ

まるで孫悟空がお釈迦様の手のひらで踊らされて、最後はひねりつぶされたような感じだ。米海軍の教育用テープにまとめられた沈没したときの音までインターネットで公開されている。遺族は複雑な心境だろう。

イ52は第2次世界大戦中の日独の軍事交易のために派遣された対独派遣潜水艦の5隻めで、最後の派遣鑑だ。

大戦中の日独の潜水艦による軍事交易については、吉村昭さんの「深海の使者」を紹介したが、吉村さんの小説は生存者や関係者など約200人への取材に基づくもので、1973年(昭和48年)の発刊だ。

日本からの潜水艦には2トンもの金を積んでドイツに向かったものもあった。そのうちの一隻がイ52だ。

「深海の使者」ではイ52は昭和19年7月にフランスに入港する直前に消息を絶ったと書かれているが、実はイ52はドイツ潜水艦とのランデブーを終わった直後、昭和19年6月下旬にアメリカの電撃機の最新式の音響探知(ホーミング)魚雷により撃沈されていた。

なぜイ52から到着間近という連絡があったと誤解したのか理由は不明だという。

吉村昭さんが取材していた当時は、アメリカ軍の秘密文書は公開されていなかったので、日本側の関係者はアメリカ側がイ52の動静をシンガポール出航から追っていたことは一切知らなかった。

しかしアメリカ軍は日本軍や外務省の暗号通信を解読していたので、ドイツ派遣潜水艦の派遣決定や、潜水艦の同行などをつぶさにつかんでいたのだ。

だから第3弾のイ34がシンガポールを出た直後英国潜水艦トーラスに待ち伏せされ撃沈された。

また第4弾のイ29はドイツからからレーダー、魚雷艇エンジン、Me262ジェット戦闘機、Me163ロケット戦闘機の設計図とドイツで学んだ日本人技術者を乗せてシンガポールまで帰着したが、日本に帰る途中のフィリピン沖で米国潜水艦3隻の待ち伏せ攻撃で撃沈されてしまう。

広い太平洋でタイミング良く3隻の潜水艦が一隻の潜水艦に出会って、一斉に攻撃するということなどありえない。待ち伏せされたのだ。

最後のイ52は昭和19年4月23日に金2トン、生ゴム、錫、タングステン、キニーネなどを積んでシンガポールを出航した直後、5月7日にはアメリカ側に出航を感知されている。

たぶんシンガポール近辺で日本軍艦の出入りを監視していたスパイの報告によるものと思われる。

イ52については、日本側にはほとんど資料は残っていない。しかし1990年頃に公開されたアメリカ軍のウルトラトップシークレットによると、アメリカ側はイ52の渡航目的、乗り込んだ日本側の技術者の専門と出身会社、積み荷、そして動静から沈没地点まですべてつかんでいたことがわかる。

NHKはアメリカ国立公文書館に残されたアメリカ軍の秘密文書を大量に入手し、その分析をすすめて、この番組を制作した。

もっともNHKがイ52に注目したのはアメリカのトレジャーハンター、ポール・ティドウェル氏の宝探しがきっけだ



ティドウェル氏は、公開されたアメリカ軍のウルトラトップシークレット情報約2000ページを読み込み、その資料をもとに、イ52が積んでいた金2トンを海底からサルベージしようとロシアの海洋調査船をやとって宝探しを続け、とうとう5,000メートルの深海に横たわるイ52の残骸を発見した

アメリカ軍はドイツ派遣命令が出た翌日の昭和19年1月25日の東京の海軍省からベルリン駐在の駐独海軍武官に宛てた電文を解読して、イ52がドイツに派遣される予定であることをすでにつかんでいた。

アメリカ軍は当時全世界に電波の傍受網をはりめぐらせて、複数の施設で傍受して発信元を特定し、傍受した暗号文はすべてハワイやワシントンの暗号解読施設に直ちに送られて解読された。

当初は暗号の解読に時間がかかっていたが、昭和19年にはほぼリアルタイムで暗号解読ができるようになり、通信が行われてから4−5日で英訳した報告書が作成されていたという。

日本の暗号は複数あったがほとんどが暗号書と乱数表を使ったもので、まず文章を暗号表をもとに数字に置き換え、それを今度は乱数表にかける。そして受け取った側に、どの乱数を使ったか、どの個所から乱数を使ったかを示す符号を巧妙に電文に隠すというやりかたを取っていた。

だから一旦解読できたら後は簡単に解読できたのだ。

潜水艦の訪独作戦に関する連絡は短波の無線通信によって交わされ、その情報は深夜に浮上するイ52にも伝えられた。

アメリカ側は無線を傍受してイ52を追跡し、6月23日にドイツ潜水艦U530と会合し、ドイツ側からレーダー逆探知機を受け取り装備することまで知っていた。

その直後イ52号を追跡していたアメリカ海軍の第22.2対潜部隊で、護衛空母ボーグを中心に、ジャンセンハバーフィールドなど5隻の駆逐艦で構成されたUボート攻撃のベテランチームがイ52を攻撃した。

このボーグを中心とするチームは、ドイツから寄贈され、日本に向かっていた2隻のUボートのうちの一隻のU−1224(ロー501と改名)を沈めたチームでもある。

アメリカ側は最新式レーダーと潜水艦の音を探知する音響探知機ソノブイを装備したアベンジャー雷撃機を発進させ、ランデブー直後のイ52をとらえ、スクリュー音を探知して自動追尾する最新式のマーク24魚雷で撃沈した。

ランデブー翌日24日の午前2時のことだ。



イ52号を撃沈したソノブイと音響追尾魚雷マーク24は実戦に投入されたばかりだったという。

NHKの放送ではイ52を撃沈したパイロットのゴードン中尉にインタビューし、イ52が魚雷攻撃で爆発して沈没する時の様子をソノブイがとらえた録音を番組で流している。

この録音テープはアメリカ海軍の対潜水艦飛行部隊の教材テープとして使われていたもので、潜水艦のスクリュー音、爆破音、飛行機のパイロットの会話、ブリキ缶を踏みつぶすような水圧で艦体がつぶれる音まで入っていて、最後に2度の爆発音で終わっている。

こんなテープが残っていることを知ったら遺族はどう思うだろう。圧倒的な技術力と生産力の差が招いた悲惨なイ52の最期だ。

このイ52の対独派遣については、非常に詳しいサイトがあるので興味のある人は参照してほしい。

以前読んだ柳田邦男氏の「零戦燃ゆ」にも、アメリカ軍のVT信管(信管に小型のレーダーを組み込み、電波が敵機に当たって反射すると爆発する仕組み)により飛躍的に対空射撃の命中精度を上げ、勝利に貢献したことが書いてあったが、それ以外にもレーダー、ソノブイ、ホーミング魚雷、ヘッジホッグといい、日本軍とアメリカ・イギリス軍の軍事技術の差は大きい。

零戦燃ゆ〈2〉 (文春文庫)零戦燃ゆ〈2〉 (文春文庫)
著者:柳田 邦男
販売元:文藝春秋
発売日:1993-06
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魚雷艇用高速回転エンジン

この本ではイ8が持ち帰ったベンツ製の魚雷艇用高速回転エンジンの話が取り上げられている。超高精度で加工された部品を見た三菱重工の技術者が、日本でのコピー生産は無理と断念した。

日本は外国の製品を輸入してコピー品をつくる「宝船」方式で兵器を生産してきたが、魚雷艇用のエンジンは大型鍛造クランクシャフトが日本で製造できないことと、1万分の1ミリの精度の加工精度は出さないことの2つで日本での製造は不可能だった。

大型船用のエンジンは製造できるが、100トン程度の小型船で70キロ以上の高速を出せるエンジンは軽量化と高速化回転が要求され、とても日本の技術では生産できなかったという。

日本とドイツの産業技術には大きな差があった。そしてそのドイツとアメリカ・イギリスのレーダーや音響兵器技術にも大きな差があった。

日本はレーダーや音響兵器の分野では世界のかやの外だった。

潜水艦で苦労してドイツに持ち込んだ日本自慢の酸素魚雷に、ドイツが見向きもしなかったことがよくわかる。

ドイツはアメリカと同様に音響魚雷を既に開発しており、イ52の積み荷の中には音響魚雷も入っていた。

もとから勝てる戦争ではなかったといえばそれまでだが、湾岸戦争でもイラクと米軍の圧倒的差が出たように、単に戦車とか軍艦とか潜水艦などのハードだけ作っても、搭載する武器の質や暗号解読などから得た情報を活用して戦略に活かすシステムの有無が大きな差になる。

現在の日本は世界トップレベルの加工技術を持っており、クランクシャフトなどはむしろGMなどビッグスリーはじめ全世界に輸出しているほどだが、戦前の日本の生産技術は欧米先進国とは大きな差があった。

昔筆者の友人から聞いた話だが、友人のおじいさんが三菱商事につとめており、戦前にチェコから機関銃を輸入して、バラバラに分解し、再度組み立てたら、すべてが元通り組み立てられたので驚いたという。

当時の日本の技術では加工精度が低かったので、部品をぴったり会わせるために、削って寸法を合わせていたのだ。

だからバラバラに分解して部品を混ぜてしまうと、それぞれちょっとずつ寸法が違ったので、元通りぴったり合わせることは不可能だったという。

NHKの番組では、イ52と運命をともにした三菱重工の蒲生さんというエンジニアにスポットを当てて、圧倒的な差があるにもかかわらず、なんとか欧米との差を縮めようと努力した当時の事情を紹介している。





この話はドラマとしてはおもしろいが、それにしてもアメリカ軍の徹底的な暗号活用と日米の軍事技術の差に驚かされる。

YouTubeに収録されているので、是非番組も見てほしい。"i-52"(アイ52)で検索すると数件表示されるはずだ。

たまたま図書館で見つけた本だが、大変おもしろかった。

是非図書館やアマゾンマーケットプレースで見つけて、一読されることをおすすめする。


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2009年03月08日

女女格差 タイトルに惹かれて読んでみた

女女格差女女格差
著者:橘木 俊詔
販売元:東洋経済新報社
発売日:2008-06-13
おすすめ度:3.0
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タイトルに惹かれて読んでみた。

著者は元京都大学教授で、現在は同志社大学教授の橘木俊詔(たちばなき としあき)さんだ。

ちょっと長くなるが、内容が大体推測できると思うので、この本の目次を紹介しておく。

第1章 男女格差
 1. 人口学からみた男女格差
 2. 労働の男女格差
 3. 生活状況の男女格差
 4. 教育水準の男女格差

第2章 女性の階層
 1. 女性の階層はどう決まるか
 2. 出身階層が女性の人生におよぼす影響力
 3. 女性の階層
 4. 出身階層は結婚に影響するのか

第3章 教育格差
 1. 教育の需要と供給
 2. 女性の教育を需要と供給から評価する
 3. 女性の教育格差拡大の影響 ー 三極化の意味(超高学歴層、高学歴層、低学歴層)

第4章 結婚と離婚
 1. 人が結婚に至るプロセス
 2. 結婚しない理由
 3. 結婚のマッチング
 4. 結婚・家族に関する妻の意識
 5. 離婚率の上昇とその要因
 6. 離婚にまつわる「女女格差」

第5章 子どもをもつか、もたないか
 1. 出生率の細かい検証
 2. 人は子どもをなぜほしがるのか
 3. 子どもをもつことの負担感
 4. 子どもをもつことで変わる女性の人生
 5. 少子化を防ぐための議論を呼ぶ試案

第6章 専業主婦と勤労女性
 1. 専業主婦は女性の夢だった
 2. 専業主婦からの脱出
 3. 女性の就業を決定する要因とその実態

第7章 総合職か一般職か、そして昇進は
 1. 総合職と一般職の違い
 2. コース別人事管理制度の導入理由と歴史的変遷
 3. 「女女格差」からみた総合職と一般職
 4. 昇進への道

第8章 正規労働か、非正規労働か
 1. 就業形態の実態
 2. 就業形態による処遇の格差
 3. 非正規労働者が多く存在する理由
 4. 正規と非正規にまつわる「女女格差」

第9章 美人と不美人
 1. 美人・不美人はすぐれて主観による
 2. 平均への回帰
 3. 美人は得か
 4. 美人が得なのは不公平か
 5. まとめ

第10章 おわりに


いくつか参考になった点を紹介しておく。

●合計特殊出生率(いわゆる出生率)は1.3を切るまで低下しているが、夫婦一組あたりの子どもの数は2でずっと変わりがない。

合計特殊出生率





完結出生児数





この本の多くの統計は国立社会保障・人口問題研究所が発表している資料だ。

国立社会保障・人口問題研究所





この研究所は少子化情報ホームページで役に立つ情報をとりまとめている。

shoushika






●女性も男性も30歳を過ぎると「ある年齢までには結婚する」という人が少なくなり、「理想の相手を待つ」という人が大幅に増える。女性の場合は30歳未満はほぼ50:50で、むしろ「ある年齢までには結婚する」の方が多いが、30歳を超えると1:2と「理想の相手を待つ」が急増する。

男性の場合はここまで極端ではない。


この本では多くの統計をもとに、橘木さんが分析・コメントするという形式で、学会発表のような内容だ。

目新しい発見はないが、いままでおおざっぱに理解していた少子化の原因(要は男女ともに未婚化、結婚年齢上昇であることがわかり、橘木さんは、非嫡出子と嫡出子の権利の差をなくして、たとえばフランスの様な結婚によらない子どもが増えるようにすべきだと主張している。

また、この本のタイトルになっている「女女格差」は学歴と結婚相手、そして就労形態に関連があることがわかる。

少子化問題に興味がある人は、国立社会保障・人口問題研究所の少子化情報ホームページとともに役立つと思う。


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2009年02月24日

食品の裏側 知られざる食品添加物の世界

食品の裏側―みんな大好きな食品添加物食品の裏側―みんな大好きな食品添加物
著者:安部 司
販売元:東洋経済新報社
発売日:2005-10
おすすめ度:4.0
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60万部売れたという食品添加物についてのベストセラーを読んでみた。

先週社員食堂でチャンポンを食べた。食べて気がついたが、このチャンポンのスープは、まさにこの本が書いている”白い粉の配合剤”ではないかと思えてきた。

思えば当たり前である。

たとえば筆者の家の近くにある全国的に有名な”室蘭ラーメン”の店雷文の営業時間は11時30分から16時頃までだ。夜は翌日の仕込みをしている。

20種類以上の野菜、肉、鶏ガラ、魚を入れてスープをとり、スープをとった後の残りが大量に出るので堆肥として無料で希望者に配っているほどだ。

社員食堂で、”仕込み”に何時間も費やせるはずがないので、スープのだしは出来合いのものを使うはずである。

ちなみに雷文のスープは絶品で、一言で言うと”クリアーな味”だ。町田駅から遠いので、車で来られるひとは是非食べてみてほしい。

この本では”白い粉”からとんこつスープを作る話とか、サボテンの寄生虫をすりつぶしてつくる天然色素、廃棄寸前のくず肉を大量の添加剤をまぜてミートボールに再生する話、スーパーで売っているパックサラダが殺菌剤のプールで何度も消毒されているというような話を紹介している。


味の素に慣れた舌

この本を読むまでは、ほとんど気にしていなかったが、思えば食品添加物だらけである。

実は筆者の子供のころは、しょうゆには必ず味の素を混ぜていた。刺身を食べる時にも、まずしょうゆに味の素を混ぜ、軽くかき混ぜてからわさびを足すのだ。家族や親類みんなが同じようにしょうゆに味の素を混ぜていたので、筆者も自然とそうしていた。

いつ頃から味の素を入れなくなったのかはっきりしないが、たぶん小学校高学年くらいから味の素を混ぜるのはやらなくなった。

そんなわけで味の素には子供の時から慣れているが、この本を読んでからは化学調味料の味が気になってきた。


著者の安部さんは食品添加物の専門家

著者の安部さんはかつて食品添加物の専門商社につとめて、お客の要望しだいで、食品工場の生産性が飛躍的に向上する食品添加物を売っていた”添加物のソムリエ”だった。しかし、ある日自分の家族が、安部さんの自信作のくず肉再生ミートボールをおいしいと食べるのを見て、人生が変わったという。

食品の安全性を無視して仕事をしてきた罪悪感にさいなまれ、会社を辞め、無添加明太子をつくりはじめ、食品添加物についての講演も引き受けるようになった。

食品添加物は悪か?と言われれば、法は犯していないし、消費者も味よりも見た目が良いものを求めるので、正しい経済活動だという。しかし、食品添加物がどれだけ使われているか情報公開がされていないのが問題だという。

製造している人たちも自分のところの製品は食べるなと言っているほどだそうで、野菜の漂白や合成着色料などを大量に使っているという。


食品添加物の実例

添加物商社に勤めていた時の最大の得意先は、明太子、漬物、練り物、ハム・ソーセージだったという。これらには大量の食品添加物が使われている。

●ドロドロのたらこが、添加物に一晩漬けるだけですきとおった赤ちゃんのようなつやつやな肌に生まれ変わるという。普通の明太子は20種類以上の”白い粉”でつくられているという。

添加物は一つひとつの安全性は厚生労働省がチェックしているが、20種類もの添加物を一度に食べて安全性はどうかはテストされていない。

無着色の明太子も合成着色料を2−3種類はずしているだけだという。

●”プリンハム”は豚肉を増量するために、大豆たんぱく、卵白、乳たんぱくなどのつなぎを加えて水をゼリー状にしたものを20−30%加えてつくる。

たんぱく加水分解物は肉や大豆のタンパク質を分解してつくられるアミノ酸で、うまみの成分で、子供の舌をこれに慣れさせてしまうと、おいしいと感じるようになり、味覚の崩壊が起こるという。

●塩分5%の低塩梅干しは、アルコールにつけたリサイクル梅に化学調味料、甘味料、酸味料、合成着色料、保存料(ソルビン酸)でつくった代物だ。塩だけで保存するのは7−8%が限界で、それ以下では他の保存料が必要になる。

●特売しょうゆや弁当についてくるしょうゆは、しょうゆ味調味料なことが多い。本物のしょうゆの成分は大豆、小麦、食塩だけで製造は1年以上かかるので、新式醸造しょうゆは、うまみのアミノ酸に何十種類も添加物を加えて作る。しょうゆの色はカラメルで出す。

●日本酒も米とこうじから作るのは純米酒だけで、本醸造酒は10%までのアルコール添加、普通酒はさらに糖類と酸味料の添加が許され、一番安い合成酒だとブドウ糖、みずあめなどなんでもありだ。

吟醸酒でも大吟醸でも変わらない。単にネーミングだけで、純米酒かそれ以外かに分けられる。

もっとも安部さんは純米酒しか本物の日本酒でないように書いているが、日本酒にアルコール添加は昔から味を調えるために行われてきたことだそうなので、必ずしも純米酒以外はダメということではないようだ。

実際本醸造酒は最大で10%までのアルコール添加なので、その意味では味を調えるためには必要なことのようだ。

●日本酒のつまみのさきイカも有名メーカーの製品も化学調味料がいっぱいで、成分表を見ても食品添加物のオンパレードなことがわかる。

筆者は今は食品添加物なしで昆布しょうゆで味付けした裂きイカを食べているが、後味が全然違う。

●砂糖の代わりにブドウ糖果糖液糖を使うとさわやかな甘みになるという。清涼飲料水のほとんどが使っている成分で、これを飲むとあっという間に血糖値が上がるという。


添加物表示の落とし穴

添加物は同じ種類なら一括表示で「乳化剤」とか「酸味料」、「PH調整剤」で、表示をできるだけ短くする。一種のトリックだと。

さらに食品衛生法の表示免除の制度を使う手もある。

キャリーオーバー(たとえば調味料のしょうゆに種々の添加剤が入っていても表示義務なし)、加工助剤(残っていなければ良い。たとえばパック入り野菜の洗浄剤)、ばら売りおよび店内加工、パッケージが小さいものが除外例だ。


安部さんは今、最進(さいしん)の塩という海水を平釜でコトコト炊くという製法で作っている塩に携わっているという。コストは高くなるが、ひもの会社で採用が決まったという。

安部さんは”手首の練習”で食品包装の裏を必ずチェックして、ハムになぜ大豆たんぱくや卵白が入っているのか?など素朴な疑問をもつことだと語る。

食品添加物すべてが悪ではない。ただ世の中には食品添加物を使いすぎた食品も氾濫しているので、消費者の厳しい目で「食品の裏側」を見ることが大事だと語る。


あまり知られていない食品添加物という分野がおもしろくわかる。さすが60万部のベストセラーとなっただけのことはある。是非一度手に取ることをおすすめする。


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2009年02月17日

アフリカ・レポート 追記 人類はみんなアフリカ出身

2009年2月17日追記:

元朝日新聞論説委員の松本さんの「アフリカ・レポート」のあらすじを紹介したが、アフリカというと日本人の自分とは関係ない地域と感じる人も多いのではないかと思うので、人類の祖先はアフリカで誕生したことが科学的に確かめられたIBMのジェノグラフィック・プロジェクトを再度紹介しておく。

IBMは様々な文化的プロジェクトを協賛していて、そのフィランソロピーのマインドには感心する。

その一つがNational Geographicと共同で推進しているジェノグラフィック・プロジェクトだ。

すでに20万人以上の様々な人種と国籍の人のDNAを採取して、DNAを分析したデータを蓄積している。

その研究の一端がIBMのサイトで公開されている。

IBMプロジェクト






ニューヨークのグランドセントラル駅に居合わせた人種も出身も異なる白人、アメリカインディアン、フィリピン、ラテン系の4人のDNAを採集して分析してみたのだ。

IBMのサイトでは、画面は小さいが動画で公開されている。

National Geographicのサイトでも公開されている。

National Geographic






DNA分析の結果、4人すべての祖先はアフリカから来たことがわかった。

数万年という年月で、白人やアジア人、アメリカインディアンと人種は異なるが、まさに人類みな兄弟という言葉を実証する結果となった。


IBMのサイトでは、ゴルフの科学や、リアルタイム犯罪センター、鳥インフルエンザ問題など、他のプロジェクトも取り上げられている。

さすがIBMと思う。是非一度IBMのサイトもご覧戴きたい。


2009年2月13日初掲:

南部アフリカのジンバブエで1980年の独立以来長く独裁政権を続けてきたムガベ大統領が、インフレ率年率150億パーセントという国内の混乱に対する国内外の批判に屈し、反対派のツァンギライ(Tsvangirai)氏が首相となる連立政権が本日(2月13日)誕生する。

連立政権が誕生しても、ムガベ氏は大統領として残るので前途多難だと思うが、少なくとも「世界最悪の独裁国家」と呼ばれたムガベ独裁から、挙国一致内閣に政権移行するのは歓迎すべきことだと思うので、アフリカの現状について書かれたこの本のあらすじを紹介する。

アフリカ・レポート―壊れる国、生きる人々 (岩波新書)アフリカ・レポート―壊れる国、生きる人々 (岩波新書)
著者:松本 仁一
販売元:岩波書店
発売日:2008-08
おすすめ度:4.5
クチコミを見る


2007年まで朝日新聞社で勤務し、ナイロビ支局長や編集委員を歴任したアフリカ通の記者松本仁一さんのアフリカの現状レポート。

松本さんを知るヨハネスブルグ駐在経験者の先輩から勧められたので読んでみた。

筆者は世界40カ国以上訪問したことがあるが、アフリカはエジプトと南アフリカしか行ったことがない。それもエジプトは約20年前、南アフリカは最後に行ったのが10年前で、最近の状況をレポートするこの本は参考になった。

1960年代はアフリカの時代と呼ばれ、東京オリンピックの前後に多くの国が独立し、アフリカはアフリカ人のものになった。しかし多くの国は部族間の対立と私利私欲に走る権力者という問題をかかえ、結局アフリカ諸国が繁栄する時代は来ていない。

AfricaCIA-HiRes










松本さんは現在のアフリカ諸国を次の類型に整理している。

1.政府が順調に国づくりを進めている国家
  該当するのはボツワナくらいだろうと。ボツワナは南アフリカの真上に位置する。

2.政府に国づくりの意欲はあるが、運営手腕が未熟なため進度が遅い国家
  ガーナ、ウガンダ、マラウィなど10カ国程度。

3.政府幹部が利権を追い求め、国づくりが遅れている国家
  アフリカではもっとも一般的で、ケニア、南アフリカなどが入る。

4.指導者が利権にしか関心を持たず、国づくりなど初めから考えていない国家
  ジンバブエやアンゴラ、スーダン、ナイジェリア、赤道ギニアなど。

いわゆるサハラ以南アフリカには48カ国がある(アフリカ全体では53ヶ国)。そのうちこの本で取り上げているのは10カ国程度だが、アフリカのどの国も同じ病理をかかえているので、代表的サンプルだと考えてよいと松本さんは語る。

いままでアフリカの汚職などを国際機関が追求すると、あなたはレイシストだと反撃され、そのまま議論は進まなかったが、もはやレイシスト=思考停止ではすまされない時代になってきている。

松本さんは1980年にアフリカを初めて訪れ、それ以降30年近くアフリカと関わってきた。その松本さんの「中間レポート」(いずれ最終レポートにつながる)が本書だ。


この本の目次

この本の目次は次の通りだ。

序章  アフリカの今 ー ムルンバの夢はどこへ行ったか
第1章 国を壊したのは誰か ー ジンバブエで
第2章 危機に瀕する安全と安心 ー 南アフリカ共和国で
第3章 アフリカの中国人 ー 南アで、アンゴラで、スーダンで
第4章 国から逃げ出す人々 ー パリで、歌舞伎町で
第5章 「人々の独立」をめざして ー 農村で、都市スラムで
第6章 政府ではなく、人々に目を向ける ー ケニアで、ウガンダで、セネガルで、


ジンバブエ

冒頭に記した様に、今日は30年あまり続き「世界最悪の独裁政治」と言われたムガベ大統領の独裁制が終わり、ツァンギライ首相との連立政権が成立する歴史的な日だ。

ジンバブエは昔はローデシアと呼ばれ、南部アフリカでも豊かな国だった。ローデシアとは南部アフリカで富を築いた英連邦のケープ植民地の首相でダイヤモンドのデビアス社の創設者の一人でもあるセシル・ローズにちなんだ国名である。

クリントン大統領はローズ奨学金を受けてオックスフォードに留学しているが、このローズ奨学金は莫大な富を死後オックスフォード大学に寄付したセシル・ローズにちなんだ奨学金だ。

ローデシアは鉱物資源に恵まれ、世界3大瀑布の一つのビクトリアフォールズもあり観光資源にも恵まれている。白人の農場主が土地をよく管理していたので、農産物を輸出するほどだった。

しかし人口600万人のうちのわずか5%の白人が支配していたことから、人種差別国だとして1966年から国連のローデシア制裁を受け、ついに1980年に黒人政権が誕生した。

その初代大統領が人口の8割を占めるショナ族出身のムガベだ。筆者も鉄鋼原料を担当していたので記憶があるが、独立当初は政府高官も白人が多く、安定した政権で、日本は官民合同で新生ジンバブエにミッションを送ったり、ミッションを受け入れたりしていたが、ジンバブエ政府の窓口のテクノクラートはみんな白人だった。

「アフリカで最もめぐまれた独立」といわれた新生ジンバブエは優れた農業政策をとっていた。

農業省の白人官僚は農業生産振興のために農業普及員ネットワークを作り上げ、農業キットという種と農薬のセットを農家に配った。この政策が功を奏し、1984年の干ばつで隣国が種まで食料にしてしまい、農業生産が落ち込むかたわら、ジンバブエは農業生産を拡大した。1980年にはタバコの93%、大豆の99%を白人農場が生産していた。

しかし1980年代後半からムガベの白人いじめのため、白人の政府官僚は辞め、ムガベの腐敗の噂がでると、矛先を変えるために白人の農地支配を非難したため、多くの黒人元ゲリラが白人の農場を乗っ取った。

しかし元ゲリラは大規模農場経営のノウハウがないので、農業生産は激減し、物価も高騰した。

その後ムガベ政権は1998年にはコンゴ派兵(自分の愛人が所有するダイヤモンド鉱山の警備に出兵したと言われている)、2000年には白人農場の強制接収を実施した。

2000年までは白人農場で働く黒人労働者は200万人いたが、国の白人農場接収で、実に180万人が職を失い、そのうち100万人が流民化した。

その後のジンバブエ経済の混乱ぶり、超インフレについては、時々報道されているとおりだ。青年海外協力隊の人もジンバブエの1、000億ドル紙幣を紹介している。

筆者がかつて駐在していたアルゼンチンも年率100〜200%のインフレだったが、年率150億%というのは全く想像もできない。要は通貨ジンバブエ・ドルの価値がないということだ。

この本ではムガベ政権下のジンバブエの無秩序な経済運営の実態をレポートしている。物価を抑えるため、2007年6月に政府は価格半減令を打ち出したので、なかば暴動のように人々が買いあさり、商品はなにもなくなった。

あまりにインフレが激しいために、為替も公定と闇相場は1000倍の開きがでて、卵一個が公定相場だと2万円で、闇だと20円という状態だという。

1970年代まではアフリカの多くの国は農業輸出国だった。それが農業は利権のうまみがないので、支配者が農業には関心を払わなかったので、どの国でも農業は衰退し、アフリカは農産物輸入国となってしまった。

このプラス・マイナスの所得の損失は年間700億ドルにものぼり、年間200〜300億ドル程度の先進国からのODAではとうていまかなえない金額である。

ムガベ大統領は経済の混乱は英国の制裁のせいだと言い出し、批判する野党の指導者を暴漢に襲わさせた。そして2008年3月国際監視のもとにジンバブエで大統領選挙が行われ、ムガベと同じショナ族出身ながら野党のツァンギライ候補が対抗馬として立候補した。

選挙結果はなかなか発表されず、やっと5月になってツァンギライ候補がムガベを上回る獲得票数だったが、どちらも50%に達しなかったということで再選挙が6月に実施された。

野党への圧迫は激しく、支持者の生命と引き替えに投票を依頼することはできないとして、ツァンギライ候補が決選投票への出馬取り消しを表明し、ムガベ政権がまた6年間続くことになった。

この本が出版されたのは2008年7月なので、その後ムガベ大統領と反対派のツァンギライ氏との間で合意が成立し、本日(2月13日)に連立政権が誕生することは冒頭に記した通りだ。


危機に瀕する「安全」と「安心」

松本さんは「危機に瀕する安全と安心」というタイトルで、1章を割いて南アフリカの治安の現状をレポートしている。

松本さんが訪問した時に、高級住宅地のサントンで、帰宅でガレージを開けた時をねらわれたカージャックが発生した。白人女性から奪われた新車のホンダは数時間後ソウェトでほとんどの部品をはぎ取られて横倒しになって見つかった。

2005年の南アフリカの犯罪は次の通りだ。括弧内は人口が約3倍の日本の犯罪発生数だ。いかに南アフリカの犯罪数が多いかわかると思う。

殺人事件  1万9千件(1,300件)
強盗事件 19万4千件(3.500件)
強姦事件  5万5千件(1,800件)

白人政権時代はフライング・スクォッドと呼ばれる優秀な警察組織があったが、現在の南アフリカ政府は犯罪対策に真剣に取り組んでいるとは思えないと松本さんは語っている。

たとえば警官の給料は地方公務員より2割安い。警官の数も減っている。犯罪の起訴率は殺人25%、強姦18%、強盗やカージャックは3−4%で、「やり得」の状態が続いているという。

犯罪の根本原因は貧困で、松本さんはヨハネスブルグ郊外のソウェトの現状をレポートしている。電気もトイレもない。電気は車のバッテリーをコミュニティセンターで充電して使う。1回100円の充電で、60ワットの電球を毎日4−5時間使うだけなら3週間持つという。

水道は700軒ほどの共同、トイレはヨーロッパのNGOが寄付したものがところどころあるが、政府がくみ取りをしないので、汚水があふれているという。

世界の金市場を支配するアングロアメリカンや、ダイヤモンドのデビアス社などが出資した400億円の貧困対策予算があるが、こうした基金は手つかずのままだ。会計検査が厳しく、利権のうまみがないからだ。

復興開発計画の目玉の一つは、10年間の義務教育無料化だったが、教育は無料となったがかえって子供の非行が増えたという。信じられない展開だが、初めは子供全員が学校に行くが、半分以上が3年でドロップアウトする。教材が買えず、授業についていけないからだという。

ドロップアウトした子供はドラッグに手を出し、金ほしさにスリやかっぱらいをして、ギャングの手下となるという結末だ。考えさせられる現実だ。


新植民地主義(ネオコロニアリズム)

アフリカの指導者が腐敗するのは、一つには部族の問題があるという。わいろを取っても部族の面倒をみる方が大切だという考え方だ、もう一つは他国の侵略などにさらされなかったので指導者に強い危機感がなかったことだという。明治学院大学の勝俣誠教授は「公の欠如」と呼んでいるという。

ヨーロッパ諸国などによる武力を用いない資源持ち出し・市場化の動きもある。それが「新植民地主義=ネオコロニアリズム」だという。フランスはセネガルに多数の「コーペラン(行政顧問)」を送り自国企業の利益を計っているという。

中国もアフリカの石油を手に入れ、中国商人が安価な中国製品を持ち込んでその国の市場を占拠しつつある。中国がネオコロニアリズムの主役になろうとしていると松本さんは語る。

中国商人=華僑の生命力・バイタリティは今に始まったことではない。昔から世界中で中華料理屋がない町はないと言われていたものだ。たとえば筆者の駐在していたアルゼンチンの最南端の町ウスアイアでも30年前に中華料理屋があった。

まずは中華料理屋をはじめ、そのうち事業を拡大していくのが典型的な華僑のやり方だ。

中国政府が資源確保に走っていることは間違いないが、政府が後押しして中国商人がアフリカに進出しているわけではないと思う。この本で指摘しているように出稼ぎ支援は中国ではビジネス=投資なのである。

南アフリカの小売りにも中国人が進出してきて、ギャングにねらわれて殺された人もいる。中国人は銀行を使わず、現金決済なので常に現金を持ち歩いているとみられているからだ。

南アフリカ在住の中国人が推定30万人と増えたので、はじめて中国人警官がヨハネスブルグ警察に誕生したという。

中国はナイジェリアに次ぐ石油埋蔵量があるといわれているアンゴラにも政府が積極アプローチをかけており、2004年には20億ドルのODAを供与し、20億ドルの鉄道、住宅、道路建設のほとんどを中国企業が受注した。


日本にいるアフリカ人

松本さんは日本にいるアフリカ人についてもレポートしている。歌舞伎町で外人バーを経営しているナイジェリア人のオースチンがぼったくりで逮捕された。シャンパン代金20万円を客のカードで引き落とした。カードのサインはあきらかに日本人のものではないサインだった。

そういえば六本木などでも外国人の客引きが目立つが、「かわいいい女の子いるよ。ガイジンの若い子。ボクの奥さん日本人、ボクを信用してよ」とかいって客の腕をつかんで離さないという。客引きの基本給は1日1万円が相場だ。

東京出入国管理局によると、彼らは出稼ぎ経験者からはまずは日本人女性と結婚しろと教わる。摘発されても強制退去にならないために日本人女性と結婚して永住権を得るのだ。

オースチンはナイジェリアの南東部ビアフラ出身だという。ビアフラといえば、悲惨な結果に終わったビアフラ独立戦争を思い出す。1960年代後半に起こったナイジェリアの内戦だが、ビートルズがビアフラ支援を呼びかけた。

ビアフラ独立戦争では数百万人が飢餓のため死亡したといわれ、フレデリック・フォーサイスがビアフラ側を支援して傭兵部隊を雇おうとして失敗したが、これが「戦争の犬たち」の元になった。

戦争の犬たち (上) (角川文庫)戦争の犬たち (上) (角川文庫)
著者:フレデリック・フォーサイス
販売元:角川書店
発売日:1981-03
おすすめ度:4.0
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「戦争の犬たち」は映画化もされている。

戦争の犬たち [DVD]戦争の犬たち [DVD]
出演:クリストファー・ウォーケン
販売元:20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
発売日:2009-02-06
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ビアフラ内戦は、ナイジェリアの少数民族イボ族の支配勢力のハウサ族に対する反乱という部族闘争という面もあったが、歌舞伎町にいるナイジェリア人は7割はビアフラ出身のイボ族で、主流部族であるハウサ族出身者は一人もいないという。

日本でもナイジェリアの部族対立の余波があることを初めて知った。


アフリカに生まれつつある希望

ジンバブエの農業NGOのORAPはただでものを配る援助はしないという。

ドラム缶のタンクから水を引き、穴の開いたゴムホースを畑にはりめぐらすというドリップ式灌漑で農産物の生産が飛躍的に向上し、余裕のある自作農が増えている。

10年間の内戦が終わったシェラレオネでは元兵士たちがバイク・タクシーを始めた。

アフリカで成功し、現地の雇用拡大に努力している日本人も三例紹介している。

ケニアで「アウト・オブ・アフリカ」というマカデミアナッツチョコレートを製造しているケニアナッツの佐藤社長。当初ケニアの木材で鉛筆をつくるつもりだったが、ハワイから持ってこられて放置されていたマカデミアナッツに目をつけ、これに集中して植林からはじめ成功した。従業員4,000人を雇用する。

植林から始めているので、中国商人も手が出さないという。

厳しい労働協約を結んで、従業員の無断欠勤は3回で解雇。遅刻は3回で警告、さらに遅刻したら解雇。怠慢が続いたら警告、そのうえ怠慢が続いたら解雇。という具合だ。

セネガルの生ガキ産業は、日本の青年海外協力隊の若者が事業を成功させたものだという。

ウガンダではシャツメーカーのフェニックス・ロジスティクスの柏田社長ががんばっている。従業員300人でオーガニックコットンをつかった「ヤマト」ブランドの製品を欧米中心に輸出している。

ウガンダのムセベニ大統領の要請を受けた日本の国際協力銀行が300万ドルの融資をすることになっていたが、財務省が私企業に政府が融資するのはいかがなものかとストップしてしまい、結局融資が実施されるのに4年かかった。

当時ウガンダ大使だった菊池氏は「フェニックス社はウガンダに外貨をもたらすことのできる数少ない企業で、ヤマトブランドは国中に知られており、日本の顔が見えるという意味では最高のプロジェクトです。大統領の要請に応えて決まった融資を財務省が止めてしまうなんて、これではアフリカ開発会議(TICAD)を何回やっても無駄ですよ。」と語っているという。

2008年5月末に横浜で開かれたTICAD IVでは、アフリカ53カ国のうち40カ国の首脳が参加したので政府は成功したと評価し、福田首相が今後5年間でアフリカODAを倍増するとぶちあげたという。しかし旧態依然の援助を続けていっていいのだろうかと松本さんは疑問視する。

この本で紹介されているようにただでものを配ることはせず、よく言われている「人に魚を与えれば1日養える。人に魚の釣り方を教えれば一生養える」タイプの援助をすべきだと思う。

アフリカ大陸には53カ国もあるので、国連の常任理事国選挙や、オリンピック開催競争では草刈り場として話題になるアフリカだが、中国が資源外交で先行しているなか、日本としてもアフリカ諸国とのつきあい方を見直す必要があると思う。

そんなことを考えさせられる参考になる本だった。

朝日新聞の「カラシニコフ」など新聞の連載記事を得意としていた松本さんだけに、まるでテレビの報道特集を見ているような構成で印象に残る場面が多い。

カラシニコフIIカラシニコフII
著者:松本 仁一
販売元:朝日新聞社
発売日:2006-05-03
おすすめ度:5.0
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アフリカに興味がある人もない人も、是非一度手にとって見ることをおすすめする。


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2008年12月31日

暗闘 スターリンとトルーマンの日本降伏を巡っての競争

暗闘―スターリン、トルーマンと日本降伏暗闘―スターリン、トルーマンと日本降伏
著者:長谷川 毅
販売元:中央公論新社
発売日:2006-02
おすすめ度:5.0
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在米のロシア史研究家、長谷川毅カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授の終戦史再考。

大前研一の「ロシア・ショック」で取り上げられていたので読んでみた。

ロシア・ショックロシア・ショック
著者:大前 研一
販売元:講談社
発売日:2008-11-11
おすすめ度:4.5
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この本を読んで筆者の日本史の知識の欠如を実感させられた。

終戦秘話といえば、大宅壮一(実際のライターは当時文芸春秋社社員だった半藤一利氏)の「日本のいちばん長い日」や、終戦当時の内大臣の「木戸幸一日記」、終戦当時の内閣書記官長の迫水(さこみず)久常の「機関銃下の首相官邸」などが有名だが、いずれも読んだことがない。

「日本のいちばん長い日」は映画にもなっているので、さまざまな本や映画などで漠然と知っていたが、この本を読んで知識をリフレッシュできた。

決定版 日本のいちばん長い日 (文春文庫)決定版 日本のいちばん長い日 (文春文庫)
著者:半藤 一利
販売元:文藝春秋
発売日:2006-07
おすすめ度:5.0
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木戸幸一日記 上巻 (1)木戸幸一日記 上巻 (1)
著者:木戸 幸一
販売元:東京大学出版会
発売日:1966-01
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新版 機関銃下の首相官邸―2・26事件から終戦まで
著者:迫水 久常
販売元:恒文社
発売日:1986-02
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今まで終戦史は、日本の資料かアメリカの資料をベースに何冊もの本が書かれてきたが、この本は米国在住の日本人ロシア史専門家が、友人のロシア人歴史学者の協力も得て完成させており、日本、米国、ロシアの歴史的資料をすべて網羅しているという意味で画期的な歴史書だ。

この本の原著は"Racing the enemy"という題で、2005年に出版されている。日本版は著者自身の和訳で、著者の私見や、新しい資料、新しい解釈も加えてほとんど書き下ろしになっているという。

Racing the Enemy: Stalin, Truman, And the Surrender of JapanRacing the Enemy: Stalin, Truman, And the Surrender of Japan
著者:Tsuyoshi Hasegawa
販売元:Belknap Pr
発売日:2006-09-15
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約50ページの注を入れると全部で600ページもの大作だが、日本の無条件降伏に至る太平洋戦争末期の世界の政治情勢がわかって面白い。

この本では、3つの切り口から日本がポツダム宣言を受諾した事情を描いている。


1.トルーマンとスターリンの競争

一つは日本を敗戦に追い込むための、トルーマンスターリンの競争である。

1945年2月のヤルタ密約で、ソ連が対日戦に参戦することは決まっていたが、戦後の権益確保もあり、トルーマンとスターリンはどちらが早く日本を敗北に追い込む決定打を打つかで競争していた。

ヤルタ密約は、ドイツ降伏後2−3ヶ月の内に、ソ連が対日戦争に参戦する。その条件は、1.外蒙古の現状維持、2.日露戦争で失った南樺太、大連の優先権と旅順の租借権の回復、南満州鉄道のソ連の権益の回復、3.千島列島はソ連に引き渡されるというものだ。

元々ルーズベルトとスターリンの間の密約で、それにチャーチルが割って入ったが、他のイギリス政府の閣僚には秘密にされていたという。

ルーズベルトが1945年4月に死んで、副大統領のトルーマンが大統領となった。トルーマンといえば、"The buck stops here"(自分が最終責任を持つ)のモットーで有名だ。

Truman_pass-the-buck







出典:Wikipedia

トルーマンは真珠湾の報復と、沖縄戦で1万人あまりの米兵が戦死したことを重く見て、これ以上米兵の損失を拡大しないために、原爆を使用することに全く躊躇せず、むしろ原爆の完成を心待ちにしていた。

1発では日本を降伏させるには不十分と考え、7月16日に完成したばかりの2発の原爆を広島と長崎に落とした。

原爆の当初のターゲットは、京都、新潟、広島、小倉、長崎の5ヶ所だった。

原爆を開発したマンハッタン計画の責任者のグローヴス少将は最後まで京都をターゲットに入れていたが、グローヴスの上司であるスティムソン陸軍長官は京都を破滅させたら日本人を未来永劫敵に回すことになると力説して、ターゲットからはずさせた。

2.日ソ関係

2つめは、日ソ関係だ。

日ソ中立条約を頼りにソ連に終戦の仲介をさせようとする日本の必死のアプローチをスターリンは手玉にとって、密かに対日参戦の準備をすすめていた。

1941年4月にモスクワを訪問していた松岡外務大臣を「あなたはアジア人である。私もアジア人である」とキスまでして持ち上げたスターリンは本当の役者である。

ポツダム宣言

ポツダム会議は1945年の7月にベルリン郊外のポツダムに英米ソの3首脳が集まり、第2次世界大戦後の処理と対日戦争の終結について話し合われた。

会議は7月17日から8月2日まで開催されたが、途中で英国の総選挙が行われ、選挙に敗北したチャーチルに代わり、アトリーが参加した。

ポツダム会議はスターリンが主催したが、ポツダム宣言にはスターリンは署名しなかった。

トルーマンとチャーチルは、スターリンの裏をかいて、スターリンがホストであるポツダムの名前を宣言につけているにもかかわらずスターリンの署名なしにポツダム宣言として発表するという侮辱的な行動を取ったのである。

トルーマンは原爆についてポツダムでスターリンに初めて明かしたので、スターリンにはポツダム宣言にサインできなかったこととダブルのショックだった。

これによりスターリンはソ連の参戦の前にアメリカが戦争を終わらせようとしている意図がはっきりしたと悟り、対日参戦の時期を繰り上げて、8月8日に日ソ中立条約の破棄を日本に宣言する。

ソ連の斡旋を頼みの綱にしてた日本は簡単に裏切られた。もっともソ連は1945年4月に日ソ中立条約は更新しないと通告してきていた。

7月26日の段階で、ソ連軍は150万の兵隊、5,400機の飛行機、3,400台の戦車を国境に配備しており、ソ連の参戦は予想されたことだった。

ソ連は終戦直前に参戦することで日本を降伏に追い込み、戦争を終結させた功労者として戦後の大きな分け前にありつこうとしたのだ。

日本は1945年8月14日にポツダム宣言を受諾したが、スターリンは樺太、満州への侵攻をゆるめず、ポツダム宣言受諾後に千島、北海道侵攻を命令した。

スターリンの望みは、千島列島の領有とソ連も加わっての日本分割統治だったが、これはアメリカが阻止した。


3.日本政府内の和平派と継戦派の争い

第3のストーリーは日本政府内での和平派と継戦派の争いだ。

この本では、和平派と継戦派の争点は「国体の護持」だったという見解を出しているが、連合国側から国体護持の確約がなかったことが降伏を遅らせた。

アメリカ政府では元駐日大使のグルーなどの知日派が中心となって、立憲君主制を維持するという条件を認めて、早く戦争を終わらせようという動きがあったが、ルーズベルトに代わりトルーマンが大統領となってからは、グルーはトルーマンの信頼を勝ちとれなかった。

開戦直後から日本の暗号はアメリカ軍の海軍諜報局が開発したパープル暗号解読器によって解読されていた。この解読情報は「マジック」と呼ばれ、限定された関係者のみに配布されていた。

ところでパープル解読器のWikipediaの記事は、すごい詳細な内容で、暗号に関するプロが書いた記事だと思われる。是非見ていただきたい。

日本の外務省と在外公館との通信はすべて傍受されて、日本の動きは一挙手一投足までアメリカにつつ抜けだった。

広島に8月6日、長崎に8月9日に原爆が投下された。ソ連は8月8日に日ソ中立条約の破棄を通告し、8月9日には大軍が満州に攻め込んだ。関東軍はもはや抵抗する能力を失っていた。

こうして8月14日御前会議で、ポツダム宣言受諾の聖断が下りた。

Gozen-kaigi_14_August_1945





出典:Wikipedia

最後まで戦うべきだと主張する阿南惟幾(これちか)陸軍大臣を中心とする陸軍の抵抗を、原爆やソ連参戦という事態が起きたこともあり高木惣吉ら海軍中心の和平派が押し切った。

天皇の玉音放送が流れた8月15日に阿南陸相は自刃し、象徴的な幕切れとなった。

ちなみにWikipediaの玉音放送の記事の中で、玉音放送自体の音声も公開されているので、興味がある人は聞いてほしい。

8月15日には天皇の声を録音した玉音盤を奪おうと陸軍のクーデターが起こるが、玉音盤は確保され、放送は予定通り流された。

しかし千島列島では戦争は続いた。最も有名なのは、カムチャッカ半島に一番近い占守島の激戦で、8月21日になって休戦が成立した。

スターリンはマッカーサーと並ぶ連合国最高司令官にソ連人を送り込もうとしたが、これはアメリカに拒否され、結局北海道の領有はできなかった。


歴史にIFはないというが…

長谷川さんはいくつかのIFを仮説として検証している。

1.もしトルーマンが日本に立憲君主制を認める条項を承認したならば?

2.もしトルーマンが、立憲君主制を約束しないポツダム宣言に、スターリンの署名を求めたならば?

3.もしトルーマンがスターリンの署名を求め、ポツダム宣言に立憲君主制を約束していたならば?

4.もしバーンズ回答が日本の立憲君主制を認めるとする明確な項目を含んでいたら?

5.原爆が投下されず、またソ連が参戦しなかったならば、日本はオリンピック作戦が開始される予定になっていた11月1日までに降伏したであろうか?

6.日本は原爆の投下がなく、ソ連の参戦のみで、11月1日までに降伏したであろうか?

7.原爆の投下のみで、ソ連の参戦がなくても、日本は11月1日までに降伏したであろうか?


歴史にIFはないというが、それぞれの仮説が長谷川さんにより検証されていて面白い。


日、米、ソの3カ国の一級の資料を集めて書き上げた力作だ。500ページ余りと長いがダイナミックにストーリーが展開するので楽しめるおすすめの終戦史である。


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2008年11月13日

ロシアン・ダイアリー 暗殺された女性記者の取材手帳

ロシアン・ダイアリー―暗殺された女性記者の取材手帳ロシアン・ダイアリー―暗殺された女性記者の取材手帳
著者:アンナ・ポリトコフスカヤ
販売元:日本放送出版協会
発売日:2007-06
おすすめ度:5.0
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2006年10月に暗殺されたロシアの「ノーヴァヤ・ガゼータ」の記者アンナ・ポリトコフスカヤの取材手帳。

次の3部にわかれ、2003年12月から2005年8月までの記録となっている。暗殺される直前の2006年10月までの日記は含まれていない。

第1部 ロシア議会民主制の死 2003年12月〜2004年3月

第2部 ロシア流、偉大なる政治的欝状態 2004年4月〜2004年12月

第3部 ロシアの憂鬱な冬と春 2005年1月〜2005年8月

2002年10月に起こったモスクワドゥブロフカ劇場占拠事件(約40名のテロリスト全員殺害、約130名の人質死亡)、2004年9月の北オセチアのベスラン学校占拠事件(ロシア側発表約400名死亡、推定約700名死亡)などが取り上げられている。

KGBはソ連崩壊とともになくなり、現在はFSB(ロシア連邦保安局)という機関がKGBの後継となっている。

この本の中ではしばしばFSBが超法規的措置(誘拐、暗殺や破壊工作など)の黒幕として疑われているが、真相はわからないままだ。


ロシアの汚い戦争

この本を読んでいて、筆者が昔駐在していたアルゼンチンの「汚い戦争」を思い出した。

1974年のホアン・ペロン大統領の死以降、副大統領だった奥さんのイサベル・ペロンが世界初の女性大統領になったが、政治的混乱が深まり、1976年に軍事クーデターが起こり、ビデラ将軍が大統領となって軍事政権となった。

このころに、軍部や警察が共産主義者や反政府と思われる人物をかたっぱしから誘拐し、蒸発者の数は1万人とも3万人ともいわれている。

筆者がアルゼンチンに駐在したのは、地元アルゼンチンが優勝したサッカーのワールドカップが開催された1978年から1980年までで、「汚い戦争」のピークは過ぎていたが、それでも時々テロ活動はあり、経済大臣が襲撃されたりしていた。

1978年以前はテロが頻繁に起こっており、筆者の会社の事務所があった当時ブエノスアイレスで一番高層だったビルにもバズーカ砲弾が打ち込まれたが、不発だったという。

そんなテロ勢力に対抗して軍や警察が、テロリストや反体制派とみなされた人たちを、裁判なしに秘密裏に誘拐して葬り去ることが行われていた。それが「汚い戦争」だ。

ロシアで起こっている誘拐や暗殺は、まさにあの頃のアルゼンチンの「汚い戦争」と同じだと思う。


麻薬犯罪

ロシア出身力士の大麻所持事件が続出しているが、プーチンが再選されたときの公開質問会で、ドラッグの売人は終身刑にすべきではないかと問われ、最長20年の刑期に改正したと答えている。

ロシア人元力士たちは、日本では大麻所持で情状酌量で釈放されているが、ひょっとするとロシアではもっと重い刑になったのかもしれない。

シンガポールでは依然として麻薬犯罪は死刑だと思うが(昔は入国書類にも麻薬犯罪は死刑と明記してあったので、たぶん今も変わらないだろう)、日本ももっと刑を重くする必要があるのではないかと思う。

主婦や会社員などが、外人の売人からドラッグを買うところをニュース映像で流していたが、罪という意識が薄いこともこの背景にあると思う。


ロシアの現状

ロシア軍は、国防省軍、内務省軍、FSB(警察系)と3つに分かれており、それぞれ折り合いが悪いということもこの本を読んで初めて知った。

スキンヘッドの「ロシア人のためのロシア」が、移民や中央アジア系のロシア人、外国人労働者たちを襲撃して、リンチして殺すことも頻繁に起こっているという。

大手石油会社のユコスの創設者の新興企業家ホドルコフスキー社長は脱税容疑で逮捕され、有罪判決がでて服役中で、ユコスはプーチン側近がトップとなっているロスネフチに吸収された。

ちなみに2004年にプーチンが再選された選挙結果は、プーチン71%、ハカマダが4%、ハリトノフが14%、その他11%となっている。

日本では最近部隊を移る自衛官に「はなむけ」として15人対一人の格闘訓練を行い、自衛官を死亡させたという事件が起こっている。ロシアでも新兵虐待が起こっており、虐待で死亡する兵士が出ている。ロシアでは徴兵制がまだあるのだ。

チェスの名人ガルリ・カスパロフが暴漢にチェス板で頭を殴られたとき、「ロシア人がチェス好きでよかった、これが野球だったら...」とジョークを言ったという。そのカスパロフはロシア政界に転身したが、反政府デモに参加して秩序を乱したとして、罰金刑に処せられたという。


(余談ながら)筆者のロシア体験

筆者がロシアに行ったのは1993年、1994年なので、もう15年くらい前になる。モスクワに行った後、エカテリンブルグ経由セロフに行って、ウラル山脈沿いの重工業地帯の鉄鋼メーカーを訪問し、そして一旦またモスクワに出て、今度は重工業都市チェリャビンスクを訪問した。

当時のロシアの場合、中央集権なので航空路線も地方と地方を結ぶ線が発達しておらず、すべて一旦モスクワに戻ってから別の地方都市に行くという具合だった。

セロフでは工場のゲストハウスに泊まったが、事前に聞いていた通りトイレットペーパーが新聞紙の様な硬い紙だったので、持参したトイレットペーパーをあげたら喜ばれた。

みやげに持っていった日本製の女性ストッキングが喜ばれた時代である。

セロフにはオリンピック級の大きな室内プールがあり、高さ10メートルくらいの飛び込み台もあった。

夏行ったときは、工場の連中と一緒にプールのサウナで裸の付き合いをして、サウナの後プールに飛び込んでみんなで泳いだので、冬行ったときも、当然プールのサウナに行くと思ったら、誰もサウナの話をしない。

変に思って、聞いてみたらなんとあのオリンピック級の室内プールは温水プールではなかったので、冬は閉鎖されていると聞いて驚いた記憶がある。

食事は安くておいしかった。アルゼンチンで有名なロシア風サラダ(ポテトサラダにビーツが入ったもの)の本場物を食べた。ウォッカはモスコフスカヤとかストリチナヤなどのロシア産のウォッカが品切れで、ドイツ製のゴルバチョフ?とかいうウォッカを飲んだ。

チェリャビンスクで泊まった民宿(マンションの一室を民宿として貸していた)では、ボディーガードがピストルを持って、寝ずの番をして、さらに空港まで送ってくれた。犯罪が多発しているということだった。

ちなみにこのチェリャビンスクでは、チェルノブイリのような原子力発電所の事故が1957年に起こっている。しかし、当時ば鉄のカーテンの中の出来事だったので、一切西側には知らされなかった。

この民宿で、当時封切られたばかりのシュワルツネガー主演のアメリカ映画「ラスト・アクション・ヒーロー」をビデオで見た。封切り直後にもかかわらず、海賊版がロシアの田舎で出回っていたのだ。



えらい国である。

ソ連の時代は、軍と警察とKGBの3勢力が押さえつけていたので、犯罪発生率も低かったが、共産主義が倒れると、一気に重しがなくなり、誘拐、殺人、泥棒、強盗、麻薬、違法コピーなどが広まり、マフィアがはびこるようになった。

そのマフィアの出身地で多いのがチェチェンと言われている。

プーチンはマスコミもどんどん自分の影響下に収めているので、たとえばモスクワの劇場占拠事件も、北オセチアの学校占拠事件でも、正確な報道がされていない。

正確な報道をするために、アンナなど独立系の報道機関が頑張っていたが、反体制と目を付けられ、とうとうアンナはモスクワのアパートのエレベーターで射殺されたのだ。

冒険投資家のジム・ロジャースは、ロシアとカスピ海湾岸国には決して投資しないという。よっぽど悪い思い出があるのだろう。

エネルギー価格が下落した現在こそロシアの正念場である。

はたしてプーチン院政で乗り切れるのか。注目されるところだ。


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2008年04月20日

IBMのジェノグラフィック・プロジェクト 人間は本当にみな兄弟


IBMは様々な文化的プロジェクトを協賛していて、そのフィランソロピーのマインドには感心する。

その一つがNational Geographicと共同で推進しているジェノグラフィック・プロジェクトだ。

すでに20万人以上の様々な人種と国籍の人のDNAを採取して、DNAを分析したデータを蓄積している。

その研究の一端がIBMのサイトで公開されている。

IBMプロジェクト






ニューヨークのグランドセントラル駅に居合わせた人種も出身も異なる白人、アメリカインディアン、フィリピン、ラテン系の4人のDNAを最終して分析してみたのだ。

IBMのサイトでは、画面は小さいが動画で公開されている。

National Geographicのサイトでも公開されている。

National Geographic






DNA分析の結果、4人すべての祖先はアフリカから来たことがわかった。

数万年という年月で、白人やアジア人、アメリカインディアンと人種は異なるが、まさに人類みな兄弟という言葉を実証する結果となった。


IBMのサイトでは、ゴルフの科学や、リアルタイム犯罪センター、鳥インフルエンザ問題など、他のプロジェクトも取り上げられている。

さすがIBM。是非一度IBMのサイトもご覧戴きたい。  
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2008年03月24日

チャーチルが愛した日本 関榮次さんの新作

チャーチルが愛した日本 (PHP新書 513)


第二次世界大戦前の知られざる外交史を描く元外交官の関榮次さんの新作。簡潔な表現の中にも、ストーリーが流れるように展開するので思わず引き込まれてしまう。

先週3月20日の朝日新聞にもPHP新書として大きな広告が出ていたので、気づかれた人もおられると思う。

この本の発売前に関さんと昼食をご一緒させて頂き、親しくお話をうかがう機会が持てた。

この本の帯に「名宰相と母の物語」と銘打っている様に、今回はチャーチルとチャーチルに大きな影響を与えた母ジェニー・チャーチルの2人が主人公だ。


ランドルフ・チャーチル卿夫人

チャーチルが日英同盟を通して日本に親近感を持っており、太平洋戦争直前には戦争突入を避けるために松岡洋右外相に手紙を託したことは、関さんの以前の作品の「日英同盟」「Mrs. Ferguson's Tea-set]で紹介されていたので知っていたが、チャーチルの日本への親近感はチャーチルのお母さんの影響が強いことを初めて知った。

チャーチルのお母さん、ランドルフ・チャーチル卿夫人(ジェニー・チャーチル)は、英語のWikipediaによると1854年1月9日生まれということなので、ちょうど筆者の100歳年上だ。

Jennie Churchil












出典:Wikicommons

チャーチルのお母さんは米国の実業家の娘で、母方の先祖を通してイロコイ族の血を引いていたと言われる。13歳の頃からパリで生活して、パリの社交界の花形だったところをチャーチルのお父さんのランドルフ・チャーチル氏と出会う。

ジェニーは20歳で議員に当選したばかりのランドルフと結婚し、翌年1874年に長男のウィンストンが誕生する。しかし20年続いたランドルフとの結婚生活は、必ずしも幸福なものではなかった。

ランドルフは結婚2年目でジェニーの誕生日に欠席する様になり、その後も頻繁に旅行に出かけて、すれ違いの生活を続ける様になった。

この原因はランドルフが梅毒に罹っていたので、奇行が目立ったからだと言われているが、真因はわからない。

ジェニーは自身の回顧録を1908年に出版しており、ランドルフを政治家として出世させるために尽力し、ランドルフは大蔵大臣にまでなったが、結果的に職を投げ出してしまい、ふがいないランドルフは彼女の期待に添うことができなかったことを記している。

ジェニーは写真でもわかるとおり、美貌に加えピアニストとしても一流、幼い頃からパリの社交界で磨かれた社交術、そして文才もあり、多芸多才な女性だった。ランドルフの議会演説の原稿も彼女が代筆することも多かったと言われている。

美貌とたぐいまれなる才能から、ランドルフと結婚していてもロマンスも多くあり、ランドルフの死後も1921年に67歳で亡くなるまでに20歳ほど年下の相手と2回結婚している。

関さんはジェニーの回顧録を読んで、そのディテールにわたる鋭い観察眼と描写に感銘を受けたと語っておられた。

このような恋多き、美貌かつ多才なアメリカ人女性なので、いまだにジェニーに関する研究が発表されており、昨年もアン・セバさんが"American Jennie"という本を出版している。関さんは出版記念会で、セバさんにも会われたそうだ。

American Jennie: The Remarkable Life of Lady Randolph Churchill


巻末に史料一覧が載っているが、いつもながら関さんの広範で勢力的な取材と膨大な資料からストーリーを構築していく力には敬服する。


ジェニー・チャーチルの日本紀行

ジェニーはランドルフが亡くなる直前の1894年に、主治医や召使いたちを伴ってランドルフと世界一周旅行に出発し、米国経由で日本にも9月から約1ヶ月滞在した。

横浜港に入港し、箱根、東京、日光、京都と滞在、神戸から次の寄港地の上海に向けて旅立った。

1894年6月に日清戦争が始まっており、チャーチル夫妻が日本を訪れたのは、日清戦争の真っ最中の頃だった。

ジェニーの「日本紀行」は1904年に雑誌「パルメル」に掲載され、1908年のジェニーの回顧録にも詳しく書かれている。

ジェニーの「日本紀行」は貴重な資料で、当時の写真とともに、この本のなかで40ページにわたり引用されていて大変興味深い。

ジェニーは日本の美しい風景と、明治時代中期のつつましいながらも規律正しい日本人の生活に大変感銘を受けたようだ。

何回も観劇に出向き、芝居を楽しむ人々の様子が詳しく紹介されている。

いろどりあざやかな幕の内弁当に興味を引かれ、当時の既婚女性のおはぐろには衝撃を受けたようだ。

箱根の描写も楽しい。当時の東海道線は丹那トンネルが開通していなかったので、現在の御殿場線の線路を走っており、チャーチル夫妻は横浜から国府津までは東海道線、国府津から箱根湯本までは1888年に開業した小田急の箱根登山鉄道の馬車電車で移動している。

途中の茶店で紅白のぱさぱさした菓子が出されたが、義理にもおいしいとは言えない代物だったそうだ。これが落雁なのか最中なのかなんだったのかが興味があるところだ。

今も残るホテルが描写されている。箱根富士屋ホテルは外人で一杯でがっかりしたそうで、1890年開業の東京の帝国ホテルは窓から蚊や3インチもあるバッタなどが飛び込んできたという。

日光では東照宮を訪れ、家康と家光の両方の神社を訪れることができたという。筆者も小学校の修学旅行で日光に行ったきりで、陽明門や眠り猫、三猿ははっきり覚えているが、家康と家光の両方の神社があるとは知らなかった。

ジェニーの日本紀行には、東照宮の内宮で行われた儀式も鮮明に描写されており、不勉強の筆者には大変参考になった。

京都には10日ほど滞在し、名所旧跡を訪問する他、骨董店や七宝、陶磁器、絹織物などの工房も訪れ、保津峡下りも行ったという。ジェニーの行動力には大変驚く。焼失して今はない京都の也阿弥(やあみ)ホテルからの眺望はすばらしかったという。

関さんは、ジェニーの明晰な頭脳、公平で包容力のある態度、審美眼もさることながら、彼女がフランスの小説家ピエール・ロティの著作("Japoneries d'Automne" (1889))などを通じて日本の歴史、文化、政治などについて相当の知識を事前に蓄えていたことを指摘する。

たしかに単に観光だけの旅行者の紀行文とはものが違う感じだ。

このようにジェニーは日本について忘れがたい強い印象を持って帰国する。


チャーチルと日本

チャーチルは1874年生まれで、当時の英国の上流階級の習慣で乳母に育てられ、その後は寄宿舎制の学校に入れられた。

幼少時は劣等生で陸軍士官学校も二度目の受験で合格したが、成績が悪かったので歩兵科に入れず、騎兵科に進んだことで父親ランドルフの不興を買っていたという。

チャーチルは士官学校を卒業した後、1900年に26歳で国会議員に当選、1902年の日英同盟締結の時には賛成票を投じている。第1次世界大戦中は海軍大臣、軍需相などを歴任した。

日英同盟は1921年に終結するが、その後1936年にチャーチルは「コリヤーズ」誌に「日本とモンロー主義」という題で寄稿し、次のように述べている。

「私は第1次世界大戦での日本の英国に対する忠実な協力を熱心に見守ってきた。ミカドの政府と長年協力してきて私の心に残る印象は、日本人がまじめで堅実であり、重厚で成熟した人々であるということ、彼らが力関係やいろいろな要因を慎重に考える人たちであると信じてよいこと、また理性を失ったり、よく考えないで無鉄砲な、計算を度外視した冒険に飛び込んだりしないということである。」

このような日本感は、彼が母から受け継いだ日本の姿であったと関さんは指摘する。

チャーチルは日英同盟条約への郷愁を披露しているばかりでなく、温情を込めて日本への忠告を披露している。それはその後日本がたどった太平洋戦争への道と、その結末を的確に予言したものであると関さんは語る。


太平洋戦争の本質ー大国の権益争い

第1次世界大戦では海軍相だったチャーチルは、日本の協力でドイツ艦隊を太平洋から一掃でき、日本海軍に感謝状を贈っている。

チャーチルは1929年に大蔵大臣を辞め、その後「荒野の10年」と呼ぶ下野の時代をすごす。

1932年にコリヤーズ誌にチャーチルは、次のような日本の植民地支配に好意的な一文を寄せている。

「自分は日本帝国と国民に憧憬と長年の敬意を持っている。精力的で進取的な日本の国民が格調の余地を必要とするのを認めるものである。我々は朝鮮で日本がしてきたことをみている。それは厳しいけれども良好であった。満州で彼らがやったことをみてきている。やはりそれは良好なものであるが、厳しいものであった。」と述べている。

さらに前記の1936年のコリヤーズ誌への論文でも、日本と英米諸国の植民地支配について指摘している。

「中国で永年にわたり合法的に手に入れた利権を暴力で根こそぎにされ、抹消されることに我々は耐えられないであろう。

いわんや、「日本人のためのアジア」を意味する「アジア人のためのアジア」という標語が実行されるときに、英語圏諸国は反発しないではいないであろう。」

これがまさに太平洋戦争の本質であり、「日本人のためのアジア」は実現しなかったが、「アジア人のためのアジア」は実現したことは、多くの人が指摘する通りである。


戦時下のチャーチル

1939年9月のヒットラーのポーランド侵攻とともに、チャーチルはチェンバレン内閣の海軍大臣として復帰し、1940年5月にドイツ軍がオランダ・ベルギー侵攻を開始した時に首相に就任する。

マジノ線が陥落してフランス軍が崩壊直前となったので、チャーチルはフランスに急遽飛んでフランス首脳と会談しているが、帰国した当日に予定通り日本大使館での重光葵大使主催の午餐会に夫妻で出席している。

このことでもわかる通り、チャーチルの最大関心事の一つは日本の参戦を防ぐことだった。

重光はチャーチルの行動に感激し、翌1941年前半にかけて日英関係の改善のための努力を尽くした。

チャーチルが首相に就任したての英国の対日政策は、中国への援助物資輸送用のビルマルート閉鎖に応じたり、日本への船舶建造発注案を検討したりと、かなり柔軟なものだった。

しかし1940年7月の第2次近衛内閣で松岡洋右外相によって日独提携が進められ、9月に日独伊三国同盟が結ばれてからは平和への機会が失われてしまったと関さんは指摘する。

1941年になってもチャーチルは日本を参戦から思いとどまらせるために、重光と頻繁に会い、ドイツ・ソ連を訪問した松岡宛にレターを書いたり、レターを松岡が握りつぶさないようにコピーを近衛に届けたりした。

ところが松岡はドイツ・ソ連出張後、極端なドイツびいきとなり、帰国後の天皇への報告会では、天皇にドイツに買収されたのではないかと思われたくらいで、チャーチルのレターにまともに対応する気はなかった。

そのレターは事前に米国国務省と内容をすりあわせたもので、次のような呼びかけとなっている。

☆ドイツが本当に英国侵攻が可能なのか見極めるのが日本の国益にかなうのではないか?

☆米英連合軍はヨーロッパでドイツと戦い、日本にも立ち向かうのが可能ではないか?

☆イタリアはドイツにとって負担ではないのか?

☆米英の鉄鋼生産量は合計9,000万トン、これに対して日本は700万トンで単独では戦うのは不十分ではないのか?


今から思えば、チャーチルの呼びかけは当然の内容であり、誰もが米英相手の戦争など無謀の極だと思うだろう。

日本の近衛内閣は無責任で、結局内閣を投げ出し東条英機内閣への道を開いた。近衛の責任は極めて重いと関さんは指摘する。

重光は結局1941年6月に離任し、その直後の7月には日本軍が仏印進駐で米英諸国との対立が決定的となった。それにもかかわらず、チャーチルは1941年11月、まさに太平洋戦争の勃発まで1ヵ月となった時に、マンションハウス演説と呼ばれる演説で日本へ最後の警告を出している。

「私は日本の最も賢明な政治家がもっており、すでに明らかにされている願望にそって、太平洋の平和が保存されることを希望する。」

しかし日本は戦争に突入し、1945年に無条件降伏するに至る。


戦後のチャーチルと日本

チャーチルは第二次世界大戦を陣頭指揮し英国を戦勝に導くが、1945年の総選挙で敗れ退陣する。

1951年には首相の座に返り咲き、当時皇太子だった今上天皇を英国でエリザベス2世の戴冠式にお迎えする。

戦後すぐでもあり、英国民の反日感情は高かったが、チャーチルは歓迎を陣頭指揮して、皇太子を格別にもてなした。

皇太子歓迎のレセプションでは、慣例を破って女王への乾杯の前に皇太子殿下への乾杯を行い、母ジェニー・チャーチルが日本から持ち帰り、チャーチルも愛用している青銅の馬の置物を取り上げて、「日本はこの置物のような美術品を生む文化と美術の長い歴史をもちながら、西欧諸国にまともに扱われず、軍艦を2,3隻もつようになってはじめて一流国として認められた」というジェニーが日本で聞いた話を皇太子殿下へのスピーチとした。

また吉田茂首相の訪英も反対論を押し切って受け入れ、吉田首相のレセプションでも皇太子殿下のスピーチで語った趣旨を繰り返し、第一次世界大戦中に日本の協力で、ドイツ軍艦を拿捕でき、太平洋での作戦がうまくいったこと、吉田首相が平和愛好家として戦前戦中を通して努力していたことをたたえた。

吉田首相は、チャーチルに10年来の旧友のように行き届いた心遣いをして貰ったことに感服したと回顧録に記している。

チャーチルの母がかつて日本に旅行したことがあり、幼少の時に母から日本の景色の優れていること、特に富士山のきれいなことを聞かされたということを聞いて、吉田首相は同じ大磯に住む安田靫彦(ゆきひこ)画伯に富士山の絵を描いてもらってチャーチルに贈ったところ大変喜ばれたという。

チャーチルは1965年に90歳で亡くなり、世界中、日本でも逝去が悼まれた。


指導者の質の差が出た太平洋戦争

関さんは、戦前戦後を回顧するときに、日本の指導者の資質の問題に思い至ることは避けられないと語る。

1970年代に防衛庁の防衛研修所と自衛隊幹部学校でチャーチルの戦略と戦争指導についての研究と集中講義を実施したところ、結論は連合国の勝因はチャーチルやルーズベルトらの資質が日独伊枢軸国側に比べて卓越していたことは忘れてはならないというものだった。

彼らは確固とした必勝の信念と透徹した先見性を持ち、世界戦略に立ってお互いに協力し、政治指導者としての地位権力の立場から軍の首脳と腹蔵なく協議しつつ、政戦両略の一体化をなしとげたということであった。


チャーチルの母の手

最後に関さんがチャーチルの生まれたマーバラ公爵家の壮大なブレナム宮殿、チャートウェルのチャーチル旧邸宅を訪問した時の話で締めくくっている。

この本に写真が載っているので筆者も気になっていたのだが、関さんはチャートウェルでチャーチルの母の左手のブロンズ像を見学したそうだ。

いかにもしなやかそうな美しい手で、チャーチルはこの左手の像をいつも書斎に置いていたという。チャーチルの母に対する愛惜の想いが伝わってくるようであったと記している。

まさにこの本のテーマを象徴するジェニーの手の像である。


綿密な資料調査に基づいていることがよくわかる作品で、特にケンブリッジ大学チャーチル史料図書館とチャートウェル財団に協力を得たと謝辞で記している。

さらにチャーチルの孫シーリア・サンズさんとは直接会って話を聞き、ヒュー・コータッチ元駐日英国大使とロンドン経済大学のニッシュ名誉教授の協力を謝辞に記している。

関さんの広範で緻密な調査にはいつもながら敬服する。大変格調高い文章でストーリー構成が秀逸である。

2002年BBCが行った「偉大な英国人」投票で1位に選ばれた偉大な政治家チャーチルの知られざる日本への想いがわかって面白い。是非一読をおすすめする。



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2008年01月28日

再掲:夜と霧(原題:心理学者収容所を体験する) ヴィクトール・フランクルの不朽の名作 

2008年1月28日追記:

ヴィクトール・フランクルの「それでも人生にイエスと言う」を読んだ。

それでも人生にイエスと言うそれでも人生にイエスと言う
著者:V.E. フランクル
販売元:春秋社
発売日:1993-12
おすすめ度:4.5
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たしか本田直之さんのレバレッジリーディングに、推薦されて居たのではないかと思うが、別の本かもしれない。記憶が不確かだ。

この本は、以下にあらすじを紹介する名作「夜と霧」の著者、心理学者のヴィクトール・フランクルが、強制収容所から解放された翌年の1946年にウィーンの市民大学で行った講演を集めたものだ。

内容は「夜と霧」と重複する部分が多いので、詳しいあらすじは記さないが、フランクルが強制収容所生活を生き延びることができた理由として、「人生の問いのコペルニクス的転換」を挙げているので、これを紹介しておこう。

生きることに疲れた人に対して、フランクルは、ものごとの考え方を180度、コペルニクス的転換をして、「私は人生にまだなにを期待できるか」を問うのではなく、「人生は私になにを期待しているのか」を問うべきだという。

「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから間違っているという。

私たちは人生に問われている存在なのであると。

日本では自殺者が年間3万人以上いる。警察庁の統計を見て頂きたいが、2万強で推移していた自殺者数が、平成10年から一挙に1万人増え、3万強となっている。

首都圏では、人身事故で電車が遅れない日は、ほとんどないという現状だ。

このあらすじを読む人は、自殺など考えたこともない人が、ほとんどだろう。

しかし、万が一魔が差して、自殺を考えるような時が来たら、是非このフランクルの「夜と霧」を読んで、24歳の美しい妻をはじめ、家族すべてをナチスに殺され、自らも強制収容所に収容されてもなんとか生き抜いた心理学者の話を読んで欲しい。

そして「生きる意味があるか」を問うのではなく、「人生は私になにを期待しているのか」を考えて欲しいと思う。


2006年11月27日初掲:

夜と霧 新版夜と霧 新版
著者:ヴィクトール・E・フランクル
販売元:みすず書房
発売日:2002-11-06
おすすめ度:5.0
クチコミを見る


ナチスにより強制収容所に入れられ、九死に一生を得て生還した心理学者ヴィクトール・フランクルの不朽の名作。

原題は「心理学者収容所を体験する」という簡単なもの。副題が「夜と霧」だった。

夜と霧とは夜と霧に紛れて、人々が連れ去られた歴史的事実を表現するものだ。

筆者は1978年から1980年まで軍事政権下のアルゼンチンに2年間駐在した経験があるが、当時の軍事政権は反政府的な行動・言動をした人を、まさに夜と霧に紛れて連れ去り、密殺していた。

この蒸発者は2万人ともいわれ、『汚い戦争』と呼ばれていたものだ。

フォークランド紛争の敗戦で、軍事政権が倒れ民主政権となってからは、大々的に『五月広場(大統領府の前にある広場)の母たち』として、蒸発者の親たちが集団で抗議行動をしていた。

軍事政権下で多くの人を殺した実行犯が告白を始め、次第に事実が明らかになってきたが、戦争中のナチス政権下でなくても、普通の国のアルゼンチンでさえ、『夜と霧』があったのだ。

スティーブン・コビーの大ベストセラー『7つの習慣』にも、強制収容所という極限的な環境の中でも、いかにふるまうかという人間としての最後の自由を奪うことはできないとヴィクトール・フランクルの言葉が紹介されている。

7つの習慣―個人、家庭、社会、人生のすべて 成功には原則があった!7つの習慣―個人、家庭、社会、人生のすべて 成功には原則があった!
著者:スティーブン・R. コヴィー
販売元:キングベアー出版
発売日:2008-08
おすすめ度:4.5
クチコミを見る


フランクルはドストエフスキーの言葉を紹介している。「わたしが恐れるのはただひとつ、わたしがわたしの苦悩に値しない人間になることだ」。

最期の瞬間までだれも奪うことができない人間の精神的自由。

それは、どのような覚悟で生きるかだ。生きることが意味があるなら、苦しむことにも意味があるはずだという考えだ。

こう書くときれい事のように聞こえるが、この本を読んでみると強制収容所という環境での様々な人間模様と、生き方が実体験として冷静に描写されており、深い感動を覚える。

フランクルの家族は全員収容所で亡くなったそうだが、家族がどうなったかなど、個人的なことは一言も書いていない。

ただ単に当時24歳だった奥さんへの愛が、フランクルが生き続けることができた理由だと書いてあるだけで、感情を押し殺した冷静な描写には驚くばかりである。

ヴィクトール・フランクルは家族と一緒に、アウシュヴィッツにまず送られた。

到着してすぐにカポーという収容所への協力者に気づく。魂を売り渡した被収容者だ。最初に選別され、左と言われた人(ほぼ90%)は、到着してすぐガス室直行だ。

フランクルはシャワーノズルから(殺人ガスでなく)水が出たので、みんな冗談を言い合ったことを最初の反応と言っている。

死と隣り合わせの生活で、感情はなくなり、常に飢えている、そんな状態でも(生きているのか死んでいるのかわからないが)、奥さんの姿を心の中で見ることで、至福の境地になれるのだと語る。

収容所の様々な風景、人間模様が描かれているが、時として衝撃の話が出てくる。

フランクルはアウシュヴィッツからガス室のないドイツのダッハウ収容所に移送され、そこで解放された。

アウシュヴィッツに残った仲間の一人と再会したが、アウシュヴィッツは最後は人肉食が始まり、地獄となっていたのだと。

収容所の1日は1週間より長いと言うと、収容所仲間は一様にうなずいたという話も驚くべき話だ。

全編を通じて、精神力/気力がゆえに、人は極限状態でも生存できるということを強く感じる。

たとえば1944年のクリスマスと1945年の新年の間にかつてないほどの死亡者がでたのも、クリスマスまでには解放されるという素朴な希望にすがって生きていた人たちが、落胆と失望にうちひしがれたからだ。

生きていることに何も期待が持てない人たちはあっという間に崩れていったと。

収容所の監視側でも人間らしい人はいた。

ダッハウ収容所の所長は親衛隊員だったが、被収容者のために自費で薬を買ってこさせていた。解放後はユダヤ人被収容者がアメリカ軍から所長をかばい、アメリカ軍占領後もアメリカ軍からあらためて収容所長として任命されたのだ。

旧版訳者の霜山徳爾さんの言葉や、訳者の池田香代子さんのあとがきも良い。霜山さんはフランクルと個人的にも親しく、自らも戦争に行った経験を持ち、特攻を黙認した天皇に対して、血が逆流する想いが断ち切れないと。フランクルの書は大いなる慰めであると。

訳者の池田さんは、この本の旧版と新版で違う点を指摘している。旧版ではユダヤという言葉が一言も出てこないのだと。

新版でもユダヤ人が出てくるのは上に紹介したダッハウ収容所長の話のところだけだ。

改訂版が出た1977年はイスラエルが第4次中東戦争で勝利して、ユダヤ人移住を奨励し始めた年だ。

被迫害者が迫害者となって、パレスチナ人民を追い出している。そんな情勢を憂えて、立場が異なる人たちが尊厳を認め合うストーリーとしてこの話を入れたのではないかと語っている。

原題の「心理学者収容所を体験する」が示すとおり、冷静すぎるほど冷静な収容所体験談である。

冷静な描写ゆえに深い感動を呼ぶ。

是非おすすめできる一冊である。


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2008年01月25日

反転 逮捕されたらまっさきに差し入れるべき本

反転―闇社会の守護神と呼ばれて (幻冬舎アウトロー文庫 O 90-1)


特捜エース検事と言われながら辞任し、バブル紳士、自民党清和会、山口組トップなどの顧問弁護士もつとめ、「闇社会の守護神」と呼ばれた田中森一(もりかず)弁護士の自伝。田中さん自身のホームページもある。

アマゾンでも売上211位のベストセラー本だ。

著者の田中森一さんの文才はたいしたものだ。検察や闇社会という両極端ではあるが、どちらも世間からはほど遠い世界を動かしている力学がよくわかり、読んでいて面白い。

起訴されて公判中ということでも、国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれてでベストセラー作家に転身した佐藤優氏を彷彿とさせる。

ヒット作を生み出すのが天才的な幻冬舎の見城徹社長が、佐藤優さんの成功パターンを念頭に、計算ずくで田中森一さんを売り出したのだろう。すでに半年で、共著ながらも田中さんの本が他に三冊出版されている。

「巨悪を眠らせない」と言っていた検察上層部が、実は検察OBや政治家の圧力で、平和相互銀行事件の捜査や、三菱重工CB事件、苅田町公金横領事件の追求をやめさせたとか、検察内部への告発も含んでいる。

ここまで実名を載せて書いて、元検事あるいは、弁護士としての守秘義務はどうなっているのかと思わせるほどだ。

この本に書いてある内容が本当に正しいかどうかは、わからないが、田中さんが最後に書いていることが、この本の内容をよく言い表している。

「この国は、エスタブリッシュメントとアウトローの双方が見えない部分で絡み合い、動いている」

「いちど足を踏み入れると抜け出せないような、暗いブラックホール。その深淵に立ち、覗き込むことはあっても、足を踏み入れることはできない。検事時代に感じた上層部や政治家の圧力も、これに似ている。」

「闇社会の守護神、特捜のエースと呼ばれてきても、しょせんその程度だったのではないか、と正直に思う。日本という国に存在する、深く真っ暗い闇がそこにある」



著者の田中森一さんは元特捜検事

著者の田中森一さんは、長崎県平戸出身で、貧しい家庭の8人兄弟の長男として1943年に生まれた。

実家は、半農半漁の小作人で、魚や農産物は自家用で、唯一の現金収入は年に一度牛を売って得る3−5万円だけだったという。

中学を卒業して、定時制高校に通い、浪人して予備校夜間部で苦学し、やっとのことで岡山大学に入学した。岡山大学では一念発起し、在学中に司法試験に合格した。

司法研修所では元々裁判官をこころざしたが、ある出来事で共産党系と見られてしまったので、やむなく検事になったという。1971年のことだ。それから1987年に辞めるまで、16年間、検事、そして最後の6年余りは特捜検事として活躍した。

検事になりたての頃は、月230時間残業していたという。もちろん残業代ゼロだ。仕事の鬼だ。

イトマン事件にも関わった許永中氏とともに、石原産業手形詐欺事件で二審で懲役三年の有罪判決を受け、現在上告中である。

ノンフィクション小説のような面白い内容だ。

特に、灰皿を投げつけたり怒鳴りつけるとか、何回も調書を書いては破り捨て、しまいには被疑者の根負けをねらうとか、検察の落としのテクニックを暴露しているところは、斬新で興味深い。

別ブログで紹介した通り、普通に生活していても、あなたもわたしも「それでもボクはやっていない」の様に冤罪の痴漢容疑で逮捕されることだってありうる。

筆者が、この本を「逮捕されたらまっさきに差し入れるべき本」と呼ぶゆえんだ。

詳しく紹介すると本を読む時に興ざめなので、いくつか特に印象に残ったストーリーだけ紹介しておく。


検察の内情

検察にはいわば徒弟制度があり、三つの派閥があるという。一つは赤レンガ派と呼ばれる東大法学部卒の法務省勤務が長いエリート官僚や、閨閥を後ろ盾にしている検事などだ。赤レンガ派は優遇されており、参考人程度の取り調べしかしないし、できないが、検察トップは赤レンガ派で占められている。

次は現場捜査派で、現場のたたき上げ検事だ。特捜検事になるのも難しいが、特捜検事になっても、うまくいっても最高検の検事、高検検事長、多くの人は地検の検事正どまりだ。辞めて刑事事件に強い、いわゆるヤメ検弁護士となる人が多い。

それらの中間が、準キャリアと呼ぶこともある中間層で、学閥や閨閥がなくても、法務省の重要ポストに抜擢されれば、最後は高検の検事長くらいにはなる。

田中さんは現場捜査派で、東京地検、佐賀地検、大阪地検、松山地検、高知地検と転々とし、大阪地検で特捜検事となり、次に東京地検の特捜部に転勤となったが、上層部の圧力で、政治家が絡む汚職事件の捜査がつぶされるのに憤慨して、もうどうでもよくなり、検事をやめた。

ちょうど1980年に巨人軍の王貞治選手が、その年30本もホームランを打っていながら、「三振しても腹が立たなくなったから」という理由で引退した気持ちに似ているかもしれないという。

検察といっても法務省の国家公務員であり、政府や時の権力者に都合が悪い展開となると、追求にブレーキが掛かるのは、権力に弱い官僚機構として、やむを得ないのだろうと田中さんはいう。

田中さんは検事時代に撚糸工連事件、平和相互銀行不正融資事件、三菱重工CB事件、福岡県苅田町長公金横領事件など政治家や検察OBが関与している事件で、検察上層部などの圧力で捜査を断念したという。

筆者の大学の同級生が、東京高検のかなりのポジションに居る。彼のことを思いながら、これを読んだ。


ロッキード事件と「検察冬の時代」

ロッキード事件の時は、あまりに三木政権や、外務省など官庁が協力してくれたので、やりやすかったという話を、田中さんは主任検事の吉永さんから聞いたという。

事件はアメリカ側からの仕掛けという説も根強いが、うなずける面もあると。

田中角栄は、ソ連への経済援助やシベリア共同開発、中国との国交回復など、従来のアメリカ一辺倒からよりグローバルな国際外交戦略に転じようとしていたので、日本を属国とみるアメリカの怒りをかったのではないか。

現にアメリカの異常ともいえる捜査への協力は、田中政権つぶしの意志をあからさまに示していたのではないか。

ロッキード事件は、捜査史上に燦然と輝く事件などではなく、検察が国際的な政争の具に利用されただけで、むしろ汚点を残しただけではなかったのかと思えると田中さんは語る。

事件で失脚すると見られた田中角栄は、むしろ自らの派閥を強化し、闇将軍として君臨し、検察への怨念を抱いて封じ込めにかかり、次々と息の掛かった有力代議士を法務大臣に送り込んで、法務省を支配しようとした。

そして、その間の10年間、検察は下手には動けず、「検察冬の時代」と呼ばれていたのだという。


驚く話が満載の検察官の待遇

今はこんな事はないだろうと思われる話が満載されている。

たとえば、検事が地方検察庁に赴任するときには、ヒラ検事でも各地の警察署長、消防署長、県庁の役人が列を成して挨拶にきていたという。

赴任者が検事正とでもなると、県警本部長や、国税局長などそうそうたるメンバーが挨拶に来て、挨拶に来ないのは、知事と裁判長くらいだと。

田中さんが故郷に近い佐賀地方検察庁に赴任した時は、自衛隊の好意で、ヘリコプターで実家に里帰りしたという。

田中さんは、朝日、毎日、読売の記者と常につきあっていた。彼らを通じて幅広い情報ソースを持っていたこともあって、1987年末に辞めたときには、文藝春秋に「特捜検事はなぜやめたか」という特集記事が出た。

そのためか、田中さんが検察官を退任して大阪で弁護士になったときに、6,000万円もの祝儀が集まった。ハナテンの社長などが、ポンと1,000万円の祝儀をくれたという。

「あなたは正義感の固まりだ」という相談者や、「無罪にしてくれ」という依頼人が列をなし、以前担当した事件での被告人なども知り合いの企業を紹介してくれ、顧問先は1年で100社を超え、約1,000万円/月の顧問料収入があった。

田中さんの場合は幅広い人脈があったとはいえ、「ヤメ検弁護士」は収入には困らない生活ができるようだ。

ただし、学生結婚の奥さんは検察官をやめることに反対し、それ以来別居が続いているという。

バブルの頃は、多くのバブル企業や山口組などヤクザ関係者の顧問弁護士となり、節税対策で7億円でヘリコプターを買ったほどだ。ただ、不動産などに投資した資産は40億円くらいあったが、バブル崩壊で一挙に40億円すべてすってしまったという。


こんな内情暴露もある。

検察幹部の小遣いは、捜査予備費と呼ばれる検察庁全体で2−3億円の予算のなかから、一人起訴して公判請求すれば五万円、起訴猶予だと一万円という具合に報奨金が各地検に配られていたという。

だから地方検察は逮捕者の多い選挙違反事件を好んで取り上げるのだと。

なるほどというか、情けない話だ。


大阪という土地柄

大阪府警のゲーム賭博の一斉捜査での捜査員のネコババ、ゲーム業者からの賄賂など、前代未聞の警察官汚職事件は、当時の責任者だった警察大学長の自殺という思いがけない事態が起こり、「身内をこれ以上追求してどうなるのか」というムードが高まり、尻すぼみになった。

当時の大阪府警の本部長や中心地の警察署長が転勤するときは、餞別として2,000万円から3,000万円の餞別が地元の有力者から贈られたという。こういった腐りきった内実があっての大阪府警察官汚職事件だった。

大阪では、暴力団や同和団体、在日韓国人などが複雑に絡んでいる。

当時の大阪国税局長が、同和団体に団体交渉権を認めた事実から、同和団体は税金を優遇される権利があると都合よく解釈しており、同和関係者がからむ脱税事件は捜査もおぼつかなかったという。

ある時は、同和団体の幹部を刑事告訴した弁護士の家に、毎日のように切ったばかりの豚や牛の生首が投げ込まれ、それで家族がパニックになり弁護士も告訴を取り下げるということがあった。

田中さんが意を決して、同和幹部から事情聴取したら、赤貧で育った田中さんでも思わず涙ぐむ様な話を聞かされ、追求する気が失せてしまったという。


東京地検特捜部と筋書きのつくられた事件

東京に転勤した田中さんは、特捜検事として平和相互銀行事件を担当する。本来平和相互銀行は恐喝され巨額融資をしてしまった被害者の立場のはずだった。

平和相互銀行には、検察OBの伊坂監査役もいたのに、思いもよらない容疑で経営陣が、特別背任罪で起訴されてしまった。

金屏風事件、馬毛島レーダー基地疑惑という自民党への巨額不正献金疑惑は訴追されず、結果として住友銀行が、内紛で弱体化した平和相互銀行をタダ同然で買い取る結果となった。

ちなみに、大阪では旧住友銀行と読売新聞が検察と古く強い関係を保っていて、定期的にトップと食事会を設けていた。検事正が退官して弁護士になるときは、住友銀行と読売新聞は何十社と顧問先をつけていたという。

この事件を体験して、田中さんは東京地検特捜部の恐ろしさを知ったという。

事件が検察の思い通りに、つくられるのだと。

特捜部では、捜査に着手する前に任意で関係者を調べ、部長、副部長、主任が事件の筋書きをつくって、法務省に送る。東京の特捜事件は、ほとんどが国会の質問事項になるので、法務省は事前に把握しておく必要があるためだ。

事件の真相は、実際に捜査してみないとわからず、捜査の段階で予想外の事実が出てくるものだが、特捜部ではそれを許さない。筋書きと実際の捜査の結果が違ってくると、部長、副部長、主任の評価が地に落ちるからだ。だから筋書き通りに事件を組み立てていくのだと。

上司の意図に沿わない調書は必ずボツにされるという。検事たちは筋書き通りの供述になるようにテクニックを弄して誘導していくのだと。

大阪の特捜部では尋問もしていない上役の検事が、事実関係について調書に手を入れるなどはありえないと。

こうなると、もはや捜査ではない。よく検事調書は作文だと言われるが、こんなことをやっていたら冤罪をでっち上げることにもなりかねないと田中さんは語る。


バブル企業や自民党清和会の顧問弁護士として活躍

バブル紳士として次の人たちが紹介されている。

東京に来るとホテルオークラの最高級スイートを借り切り、会う人には数十万円から数百万円の現金を渡していた5えんや(ECC)の中岡信栄会長。安倍晋三前総理の父、安倍晋太郎氏もそこにある牛乳風呂を気に入っていたという。

ちなみに田中さんは、安倍晋太郎氏が所属していた自民党清和会の顧問弁護士で、リクルート事件で安比高原リゾート開発の保安林指定解除をめぐっての政治工作疑惑で、加藤六月を弁護して訴追を免れさせ、自民党関係者からいたく感謝されたという。

大阪の街の多くのビルの屋上に、末野ビルと看板を立てたナニワの借金王と言われた末野恒産。朝日住建、富士住建など、住専問題で有名になった不動産会社の社長などとの、一晩に何百万円も札びらを切る生活、ヘリコプターで往復し、掛け金数千万円が乱れ飛ぶゴルフなどが述べられている。

ピーク時資産1兆円と言われたイ・アイ・イグループの高橋治則氏や、イトマン事件の伊藤寿永光氏、佐川運輸の創始者佐川清氏などとの、つきあいも語られている。

田中さんと一緒に起訴された許永中はバブルの頃、赤坂東急ホテルに葡萄亭ワインセラーという店を持っており、ロマネ・コンティを買い占めていたので、一本100万円もするワインをゴルフの帰りに何本も空けたという。

うらやましいというよりは、折角のワインの芸術品の無駄遣いという気がする。


拘置所での愛読書は中村天風

最後に田中さんの拘置所での愛読書が紹介されているところも、佐藤優氏の本を彷彿とさせる。

拘置所にいた頃、田中さんが最も心を打たれた本は、差し入れて貰った中村天風の「成功の実現」だったという。

成功の実現


東郷平八郎、原敬、松下幸之助などが心服したという人生哲学に、田中さんも心が洗われたという。

筆者も中村天風の名前は聞いたことがあるが、著書は読んだことがなかった。「成功の実現」は、一冊1万円もする本だが、図書館で借りたので、あらすじを紹介した


400ページ余りの本だが、中だるみがなく、最後まで面白く読める。検察や日本の政治力学の一端を知るためにも、是非一読をおすすめする。


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2008年01月16日

下流志向 多作多芸な内田樹教授の下流論

下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち


専門は現代フランス思想論ながら、映画論、武道論、アメリカ文化など、幅広い分野で積極的に情報発信している内田樹(たつる)神戸女子大教授の下流論。

昔の仕事仲間で、24万社の顧客を持つ日本最大の間接資材のネットストアMonotaRO(ものたろう)の瀬戸社長にすすめられて読んでみた。

内田樹の研究室というブログが、多くの本を生み出している。

この本は、ひところの下流論ばやりの頃のベストセラーだ。

内田さんは1950年生まれということで、ほとんどのページに’’’(強調点というのだろうか?)で修飾された部分がある。最近の本には、この強調点はほとんど見られないので、ひさしぶりに学生時代の頃の本に出会ったような気がした。


エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」

最初に主題が、「学びからの逃走・労働からの逃走」だと説明されている。

筆者も学生時代に読んだエーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」のように、子供達の学びからの逃走、若者の労働からの逃走が起こっているのだと。

自由からの逃走 (1951年) (現代社会科学叢書〈第1〉)


筆者が学生の時に読んだのは、まさにこの表紙の本だ。当時の教養学部では、組織論とか現代の人間とかいったゼミが人気で、フロムの本も教科書の一つになっていた。

フロムが描いたのは、20世紀前半に市民が自由主義を捨て、ナチスドイツなどの全体主義に傾斜していく現象だが、現代でも同じような逃走が学びや労働で起こっていると東京大学の佐藤学教授は指摘している。


日本の子供は世界で最も勉強しない子供?

OECDの統計によると、日本の子供は世界で最も勉強しない子供になっているという。

にわかには信じがたいが、中学2年生の校外学習時間は1995年の世界平均が3.0時間で、日本では2.3時間だった。これが1999年に1.7時間に下がり、当時の調査国37ヶ国中35番めだった。たぶん現在は調査国中最低になっていると思われると。

ネットで検索してみると、次の資料が中央教育審議会の議論のなかで示されてた。

校外学習時間調査






この本の中で引用されているデータと若干違うが傾向は同じだ。2003年の調査では、主要OECD13ヶ国のうち、下から3番目の週6.48時間だった。

筆者の率直な印象としては、日本全体の平均はこの調査の様になっているかもしれないが、私立と公立の差が大きいではないかと思う。


勉強は何の役に立つのですか?

今の子供は「先生これはなんの役に立つんですか?」と聞いてくるという。ひらがなを学ぶといった小学1年生の学習からもだ。内田さんは「新しいタイプの日本人の集団」という。

「人を殺してなぜいけなんですか?」など、内田さんは答えることのできない問いには、答えなくてよいと語る。

気に入ればやる、気に入らなければやらない。そんな選択権があると思っている子供がいる。授業を受けるという不快を耐えているのに、先生にとやかく言われる必要はないと考えているのだと。


不快通貨論

このように不快が「通貨」として流通している。その起源は家庭だという。家庭内通貨として「他人のもたらす不快に耐えること」が機能しているのだと。

家族の中で、誰が最も家産の形成に貢献しているかは、誰が最も不機嫌であるかに基づいて測定されるのが、現代日本の家庭のルールだという。

「不快通貨論」面白い指摘だ。


青い鳥症候群

自分探しの旅で、世界を旅する人は人間的に成長する可能性は低い。本当に自分探しなら、親や近親者にロングインタビューした方がよっぽど分かるはずだと。

むしろ目的は、自分についての外部評価をリセットすることではないか。

勉強は何の役に立つのかと逃げだす子供、仕事をすぐに投げ出す若者は、捨て値で未来を売り払っているのだと内田さんは語る。

未婚化・非婚化と言われているが、現実には高学歴で高収入の人たちの方が、結婚率は高く、収入と学歴が下がるにつれて離婚率、未婚率が上がる。実は社会的弱者ほど、支援者が持てないシステムになっているという。

勉強しなくても自信たっぷりで、自己決定して学校の業績主義から離脱することが良いことだと思っているのが、低い階層の出身者の傾向であると。

労働からの逃走では、自己決定フェティシズムともいうべき、「自己決定したのであれば、それが結果的に不利益をもたらす決定であっても構わない」というメンタリティがある。

日本型ニートは、このような「自己決定」する若者たちの一つの病態と考察すべきものだという。

「青い鳥」を求めて、「こことは違う場所」を求めて、「今、ここでベストを尽くすこと」を拒否しているうちに、どうにも身動きならなくなってしまった。

日本版ニートはそのように形成されているのではないかと、内田さんは分析する。


こうすれば良いという示唆を出している訳ではないが、分析はなるほどと思う。参考になる本だ。



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Posted by yaori at 23:34Comments(0)TrackBack(0)