2008年03月24日

チャーチルが愛した日本 関榮次さんの新作

チャーチルが愛した日本 (PHP新書 513)


第二次世界大戦前の知られざる外交史を描く元外交官の関榮次さんの新作。簡潔な表現の中にも、ストーリーが流れるように展開するので思わず引き込まれてしまう。

先週3月20日の朝日新聞にもPHP新書として大きな広告が出ていたので、気づかれた人もおられると思う。

この本の発売前に関さんと昼食をご一緒させて頂き、親しくお話をうかがう機会が持てた。

この本の帯に「名宰相と母の物語」と銘打っている様に、今回はチャーチルとチャーチルに大きな影響を与えた母ジェニー・チャーチルの2人が主人公だ。


ランドルフ・チャーチル卿夫人

チャーチルが日英同盟を通して日本に親近感を持っており、太平洋戦争直前には戦争突入を避けるために松岡洋右外相に手紙を託したことは、関さんの以前の作品の「日英同盟」「Mrs. Ferguson's Tea-set]で紹介されていたので知っていたが、チャーチルの日本への親近感はチャーチルのお母さんの影響が強いことを初めて知った。

チャーチルのお母さん、ランドルフ・チャーチル卿夫人(ジェニー・チャーチル)は、英語のWikipediaによると1854年1月9日生まれということなので、ちょうど筆者の100歳年上だ。

Jennie Churchil












出典:Wikicommons

チャーチルのお母さんは米国の実業家の娘で、母方の先祖を通してイロコイ族の血を引いていたと言われる。13歳の頃からパリで生活して、パリの社交界の花形だったところをチャーチルのお父さんのランドルフ・チャーチル氏と出会う。

ジェニーは20歳で議員に当選したばかりのランドルフと結婚し、翌年1874年に長男のウィンストンが誕生する。しかし20年続いたランドルフとの結婚生活は、必ずしも幸福なものではなかった。

ランドルフは結婚2年目でジェニーの誕生日に欠席する様になり、その後も頻繁に旅行に出かけて、すれ違いの生活を続ける様になった。

この原因はランドルフが梅毒に罹っていたので、奇行が目立ったからだと言われているが、真因はわからない。

ジェニーは自身の回顧録を1908年に出版しており、ランドルフを政治家として出世させるために尽力し、ランドルフは大蔵大臣にまでなったが、結果的に職を投げ出してしまい、ふがいないランドルフは彼女の期待に添うことができなかったことを記している。

ジェニーは写真でもわかるとおり、美貌に加えピアニストとしても一流、幼い頃からパリの社交界で磨かれた社交術、そして文才もあり、多芸多才な女性だった。ランドルフの議会演説の原稿も彼女が代筆することも多かったと言われている。

美貌とたぐいまれなる才能から、ランドルフと結婚していてもロマンスも多くあり、ランドルフの死後も1921年に67歳で亡くなるまでに20歳ほど年下の相手と2回結婚している。

関さんはジェニーの回顧録を読んで、そのディテールにわたる鋭い観察眼と描写に感銘を受けたと語っておられた。

このような恋多き、美貌かつ多才なアメリカ人女性なので、いまだにジェニーに関する研究が発表されており、昨年もアン・セバさんが"American Jennie"という本を出版している。関さんは出版記念会で、セバさんにも会われたそうだ。

American Jennie: The Remarkable Life of Lady Randolph Churchill


巻末に史料一覧が載っているが、いつもながら関さんの広範で勢力的な取材と膨大な資料からストーリーを構築していく力には敬服する。


ジェニー・チャーチルの日本紀行

ジェニーはランドルフが亡くなる直前の1894年に、主治医や召使いたちを伴ってランドルフと世界一周旅行に出発し、米国経由で日本にも9月から約1ヶ月滞在した。

横浜港に入港し、箱根、東京、日光、京都と滞在、神戸から次の寄港地の上海に向けて旅立った。

1894年6月に日清戦争が始まっており、チャーチル夫妻が日本を訪れたのは、日清戦争の真っ最中の頃だった。

ジェニーの「日本紀行」は1904年に雑誌「パルメル」に掲載され、1908年のジェニーの回顧録にも詳しく書かれている。

ジェニーの「日本紀行」は貴重な資料で、当時の写真とともに、この本のなかで40ページにわたり引用されていて大変興味深い。

ジェニーは日本の美しい風景と、明治時代中期のつつましいながらも規律正しい日本人の生活に大変感銘を受けたようだ。

何回も観劇に出向き、芝居を楽しむ人々の様子が詳しく紹介されている。

いろどりあざやかな幕の内弁当に興味を引かれ、当時の既婚女性のおはぐろには衝撃を受けたようだ。

箱根の描写も楽しい。当時の東海道線は丹那トンネルが開通していなかったので、現在の御殿場線の線路を走っており、チャーチル夫妻は横浜から国府津までは東海道線、国府津から箱根湯本までは1888年に開業した小田急の箱根登山鉄道の馬車電車で移動している。

途中の茶店で紅白のぱさぱさした菓子が出されたが、義理にもおいしいとは言えない代物だったそうだ。これが落雁なのか最中なのかなんだったのかが興味があるところだ。

今も残るホテルが描写されている。箱根富士屋ホテルは外人で一杯でがっかりしたそうで、1890年開業の東京の帝国ホテルは窓から蚊や3インチもあるバッタなどが飛び込んできたという。

日光では東照宮を訪れ、家康と家光の両方の神社を訪れることができたという。筆者も小学校の修学旅行で日光に行ったきりで、陽明門や眠り猫、三猿ははっきり覚えているが、家康と家光の両方の神社があるとは知らなかった。

ジェニーの日本紀行には、東照宮の内宮で行われた儀式も鮮明に描写されており、不勉強の筆者には大変参考になった。

京都には10日ほど滞在し、名所旧跡を訪問する他、骨董店や七宝、陶磁器、絹織物などの工房も訪れ、保津峡下りも行ったという。ジェニーの行動力には大変驚く。焼失して今はない京都の也阿弥(やあみ)ホテルからの眺望はすばらしかったという。

関さんは、ジェニーの明晰な頭脳、公平で包容力のある態度、審美眼もさることながら、彼女がフランスの小説家ピエール・ロティの著作("Japoneries d'Automne" (1889))などを通じて日本の歴史、文化、政治などについて相当の知識を事前に蓄えていたことを指摘する。

たしかに単に観光だけの旅行者の紀行文とはものが違う感じだ。

このようにジェニーは日本について忘れがたい強い印象を持って帰国する。


チャーチルと日本

チャーチルは1874年生まれで、当時の英国の上流階級の習慣で乳母に育てられ、その後は寄宿舎制の学校に入れられた。

幼少時は劣等生で陸軍士官学校も二度目の受験で合格したが、成績が悪かったので歩兵科に入れず、騎兵科に進んだことで父親ランドルフの不興を買っていたという。

チャーチルは士官学校を卒業した後、1900年に26歳で国会議員に当選、1902年の日英同盟締結の時には賛成票を投じている。第1次世界大戦中は海軍大臣、軍需相などを歴任した。

日英同盟は1921年に終結するが、その後1936年にチャーチルは「コリヤーズ」誌に「日本とモンロー主義」という題で寄稿し、次のように述べている。

「私は第1次世界大戦での日本の英国に対する忠実な協力を熱心に見守ってきた。ミカドの政府と長年協力してきて私の心に残る印象は、日本人がまじめで堅実であり、重厚で成熟した人々であるということ、彼らが力関係やいろいろな要因を慎重に考える人たちであると信じてよいこと、また理性を失ったり、よく考えないで無鉄砲な、計算を度外視した冒険に飛び込んだりしないということである。」

このような日本感は、彼が母から受け継いだ日本の姿であったと関さんは指摘する。

チャーチルは日英同盟条約への郷愁を披露しているばかりでなく、温情を込めて日本への忠告を披露している。それはその後日本がたどった太平洋戦争への道と、その結末を的確に予言したものであると関さんは語る。


太平洋戦争の本質ー大国の権益争い

第1次世界大戦では海軍相だったチャーチルは、日本の協力でドイツ艦隊を太平洋から一掃でき、日本海軍に感謝状を贈っている。

チャーチルは1929年に大蔵大臣を辞め、その後「荒野の10年」と呼ぶ下野の時代をすごす。

1932年にコリヤーズ誌にチャーチルは、次のような日本の植民地支配に好意的な一文を寄せている。

「自分は日本帝国と国民に憧憬と長年の敬意を持っている。精力的で進取的な日本の国民が格調の余地を必要とするのを認めるものである。我々は朝鮮で日本がしてきたことをみている。それは厳しいけれども良好であった。満州で彼らがやったことをみてきている。やはりそれは良好なものであるが、厳しいものであった。」と述べている。

さらに前記の1936年のコリヤーズ誌への論文でも、日本と英米諸国の植民地支配について指摘している。

「中国で永年にわたり合法的に手に入れた利権を暴力で根こそぎにされ、抹消されることに我々は耐えられないであろう。

いわんや、「日本人のためのアジア」を意味する「アジア人のためのアジア」という標語が実行されるときに、英語圏諸国は反発しないではいないであろう。」

これがまさに太平洋戦争の本質であり、「日本人のためのアジア」は実現しなかったが、「アジア人のためのアジア」は実現したことは、多くの人が指摘する通りである。


戦時下のチャーチル

1939年9月のヒットラーのポーランド侵攻とともに、チャーチルはチェンバレン内閣の海軍大臣として復帰し、1940年5月にドイツ軍がオランダ・ベルギー侵攻を開始した時に首相に就任する。

マジノ線が陥落してフランス軍が崩壊直前となったので、チャーチルはフランスに急遽飛んでフランス首脳と会談しているが、帰国した当日に予定通り日本大使館での重光葵大使主催の午餐会に夫妻で出席している。

このことでもわかる通り、チャーチルの最大関心事の一つは日本の参戦を防ぐことだった。

重光はチャーチルの行動に感激し、翌1941年前半にかけて日英関係の改善のための努力を尽くした。

チャーチルが首相に就任したての英国の対日政策は、中国への援助物資輸送用のビルマルート閉鎖に応じたり、日本への船舶建造発注案を検討したりと、かなり柔軟なものだった。

しかし1940年7月の第2次近衛内閣で松岡洋右外相によって日独提携が進められ、9月に日独伊三国同盟が結ばれてからは平和への機会が失われてしまったと関さんは指摘する。

1941年になってもチャーチルは日本を参戦から思いとどまらせるために、重光と頻繁に会い、ドイツ・ソ連を訪問した松岡宛にレターを書いたり、レターを松岡が握りつぶさないようにコピーを近衛に届けたりした。

ところが松岡はドイツ・ソ連出張後、極端なドイツびいきとなり、帰国後の天皇への報告会では、天皇にドイツに買収されたのではないかと思われたくらいで、チャーチルのレターにまともに対応する気はなかった。

そのレターは事前に米国国務省と内容をすりあわせたもので、次のような呼びかけとなっている。

☆ドイツが本当に英国侵攻が可能なのか見極めるのが日本の国益にかなうのではないか?

☆米英連合軍はヨーロッパでドイツと戦い、日本にも立ち向かうのが可能ではないか?

☆イタリアはドイツにとって負担ではないのか?

☆米英の鉄鋼生産量は合計9,000万トン、これに対して日本は700万トンで単独では戦うのは不十分ではないのか?


今から思えば、チャーチルの呼びかけは当然の内容であり、誰もが米英相手の戦争など無謀の極だと思うだろう。

日本の近衛内閣は無責任で、結局内閣を投げ出し東条英機内閣への道を開いた。近衛の責任は極めて重いと関さんは指摘する。

重光は結局1941年6月に離任し、その直後の7月には日本軍が仏印進駐で米英諸国との対立が決定的となった。それにもかかわらず、チャーチルは1941年11月、まさに太平洋戦争の勃発まで1ヵ月となった時に、マンションハウス演説と呼ばれる演説で日本へ最後の警告を出している。

「私は日本の最も賢明な政治家がもっており、すでに明らかにされている願望にそって、太平洋の平和が保存されることを希望する。」

しかし日本は戦争に突入し、1945年に無条件降伏するに至る。


戦後のチャーチルと日本

チャーチルは第二次世界大戦を陣頭指揮し英国を戦勝に導くが、1945年の総選挙で敗れ退陣する。

1951年には首相の座に返り咲き、当時皇太子だった今上天皇を英国でエリザベス2世の戴冠式にお迎えする。

戦後すぐでもあり、英国民の反日感情は高かったが、チャーチルは歓迎を陣頭指揮して、皇太子を格別にもてなした。

皇太子歓迎のレセプションでは、慣例を破って女王への乾杯の前に皇太子殿下への乾杯を行い、母ジェニー・チャーチルが日本から持ち帰り、チャーチルも愛用している青銅の馬の置物を取り上げて、「日本はこの置物のような美術品を生む文化と美術の長い歴史をもちながら、西欧諸国にまともに扱われず、軍艦を2,3隻もつようになってはじめて一流国として認められた」というジェニーが日本で聞いた話を皇太子殿下へのスピーチとした。

また吉田茂首相の訪英も反対論を押し切って受け入れ、吉田首相のレセプションでも皇太子殿下のスピーチで語った趣旨を繰り返し、第一次世界大戦中に日本の協力で、ドイツ軍艦を拿捕でき、太平洋での作戦がうまくいったこと、吉田首相が平和愛好家として戦前戦中を通して努力していたことをたたえた。

吉田首相は、チャーチルに10年来の旧友のように行き届いた心遣いをして貰ったことに感服したと回顧録に記している。

チャーチルの母がかつて日本に旅行したことがあり、幼少の時に母から日本の景色の優れていること、特に富士山のきれいなことを聞かされたということを聞いて、吉田首相は同じ大磯に住む安田靫彦(ゆきひこ)画伯に富士山の絵を描いてもらってチャーチルに贈ったところ大変喜ばれたという。

チャーチルは1965年に90歳で亡くなり、世界中、日本でも逝去が悼まれた。


指導者の質の差が出た太平洋戦争

関さんは、戦前戦後を回顧するときに、日本の指導者の資質の問題に思い至ることは避けられないと語る。

1970年代に防衛庁の防衛研修所と自衛隊幹部学校でチャーチルの戦略と戦争指導についての研究と集中講義を実施したところ、結論は連合国の勝因はチャーチルやルーズベルトらの資質が日独伊枢軸国側に比べて卓越していたことは忘れてはならないというものだった。

彼らは確固とした必勝の信念と透徹した先見性を持ち、世界戦略に立ってお互いに協力し、政治指導者としての地位権力の立場から軍の首脳と腹蔵なく協議しつつ、政戦両略の一体化をなしとげたということであった。


チャーチルの母の手

最後に関さんがチャーチルの生まれたマーバラ公爵家の壮大なブレナム宮殿、チャートウェルのチャーチル旧邸宅を訪問した時の話で締めくくっている。

この本に写真が載っているので筆者も気になっていたのだが、関さんはチャートウェルでチャーチルの母の左手のブロンズ像を見学したそうだ。

いかにもしなやかそうな美しい手で、チャーチルはこの左手の像をいつも書斎に置いていたという。チャーチルの母に対する愛惜の想いが伝わってくるようであったと記している。

まさにこの本のテーマを象徴するジェニーの手の像である。


綿密な資料調査に基づいていることがよくわかる作品で、特にケンブリッジ大学チャーチル史料図書館とチャートウェル財団に協力を得たと謝辞で記している。

さらにチャーチルの孫シーリア・サンズさんとは直接会って話を聞き、ヒュー・コータッチ元駐日英国大使とロンドン経済大学のニッシュ名誉教授の協力を謝辞に記している。

関さんの広範で緻密な調査にはいつもながら敬服する。大変格調高い文章でストーリー構成が秀逸である。

2002年BBCが行った「偉大な英国人」投票で1位に選ばれた偉大な政治家チャーチルの知られざる日本への想いがわかって面白い。是非一読をおすすめする。



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2007年05月14日

Mrs Ferguson's Tea-Set 関榮次さんの最新作 ストーリー構成が秀逸

2007年5月14日追記:

関さんにご招待頂き、外国人記者クラブでの夕食会Book Breakに参加した。ちょっと長くなるが、その雰囲気を追記として、紹介しておこう。

最初に20分ほど関さんが、流ちょうでわかりやすい英語で、8年間にわたる取材の裏話を披露された。"Automedon"から政府の秘密文書がドイツ側に漏洩したことは、英国政府としてもふせておきたい事実だったので、当時の資料はほとんどなかったこと。

種々資料を探していて、英国の国立公文書館(National Archives)でやっと2つのファイルを探し当て、そのうちの一つはMrs. Fergusonが捕虜送還で英国に戻ったときの諸費用のファイルだったこと。捕虜釈放で帰国できた英国人はその送還費用を国に支払うのだ。

やっとMrs. Fergusonの旧住所がわかり、ロンドンから100キロほど離れたSt. Albansを訪問したが、その家には赤の他人が住んでおり、困り果てたこと。St. Albans Advertiser(記憶不確か)という地方紙に手紙を書いたら、その手紙を新聞に載せてくれて、Mrs. Fergusonの末妹のMrs. Madge Christmasから連絡を貰えたこと。

3人の"Automedon"の生存者から話を聞け、攻撃や沈没のありさまがよくわかったこと。ドイツでも資料収集したが、あまり協力は得られず、攻撃側の"Atlantis"Rogge船長の情報は、ほとんど入手できなかったこと。

英国では政府の要職についていた人などが亡くなると、公文書館が資料を貰い受けるというシステムがあるそうで、これが歴史的に重要な資料の散逸を防ぐ優れたもので、日本でも考えるべきだと語っていた。その通りだと思う。

また英国の船員、漁民、灯台守の戦死者は、すべて巨大な記念碑に刻銘され、その貢献がいつまでも覚えられているのに対し、日本の船員などの戦死者には横浜に小さな慰霊の石があるのみで、船員戦死者に対する畏敬の念の表し方は日英で大きな差があると。

次に会場からの質問のセッションになり、いくつかの質問が寄せられた。

そのうちの一つはトリビア的な質問だが、Mrs. Ferguson's Tea-setはどこのメーカーのものかというものだった。これは本にも載っていたが、Taylor & Kentが正解。

筆者も質問を考えていたが、質問のタイミングを失してしまって、場を盛り上げることができず、お役に立てず申し訳なかった。

筆者が用意していた質問は、この本のタイトルは非常にintriguing(興味をそそる)なもので、読者がその意味を知ると、本の大筋がわかるというeleborated(緻密に考えられた)なものだが、どうやってこのタイトルを決めたのかというものだ。

またの機会にこれは取っておこう。ちなみに今のところ日本語訳は、出版予定がないと。

この本のあらすじは、このブログで紹介した通りだが、大変良くできた作品なので、是非日本語訳を出版してほしいものである。


2007年2月25日追記:

いままで気になっていたのだが、この本の中で強く記憶に残る統計を追記する。

それは戦時中の商船の被害と、商船員の死亡率についてである。

第2次世界大戦中の連合国と中立国の商船の損失は4,800隻(総トン数21百万トン)で、死亡や行方不明となった船員は37,000人である。

船員の損失率は25%で、これは英国陸軍、海軍、空軍の戦死率より遙かに高い。

日本の場合は、もっと悲惨で、2,500隻(総トン数8百万トン)の商船が沈没し、30,000人の船員が命を失った。

致死率は実に43%であり、日本帝国陸軍の20%、海軍の16%をはるかに超えている。

戦時中の船員は、大変危険な仕事だったのだ。


2007年2月10日追記:

著者の関栄次さんから、英国の元船員から紹介されたという商船中心の船の情報サイトShipsNostalgiaを紹介頂いた。

11,000人程度のメンバーがフォーラムとか掲示板を利用して、船の写真とかコメントを書いている。会員登録もしてみた。

昔乗った船の話や、船愛好家、船員仲間との交流を楽しむサイトだ。

Ships nostalgia






ここに関さんの本の書評が載っている。

ships nostalgia book






このサイトは商船に興味のある人しか使わない、非常に限られたメンバーの集まりだが、世界中の船の愛好家が集まっており、ここに情報が掲載されれば、芋づる式に密度の濃い情報が集まる可能性がある。

英語で本を出版することの影響力がよくわかる事例だ。

日本語の本だと影響力はほぼ日本のみだが、英語はインターネットを通して今や世界語と言えるので、英語の情報は世界中に広がり、いろいろな人に読まる。

本当に世界が広がる感じだ。

Mrs Ferguson's Tea-Set, Japan, and The Second World War: The Global Consequences Following Germany's Sinking of The SS Automedon in 1940
Mrs Ferguson's Tea-Set, Japan, and The Second World War: The Global Consequences Following Germany's Sinking of The SS Automedon in 1940


以前ご紹介した「日英同盟」の著者、関榮次さんから最近作を頂いたので、早速読んでみた。

新著は英文で出版された。格調高い英文で、文脈に非常に適切な単語が使われているというのがよくわかる。いずれ日本語版も出版されるだろう。

筆者は最近は主にオーディオブックで英語の本を読んでいる(聞いている)ので、ひさしぶりに英語の本を読んだが、あらためてWikipediaの威力を思い知った。

たとえば本文の中で出てくる"salvo"という言葉だ。普通の英語辞書では、一斉射撃と書いてあるが、wikipedia英語版では軍艦の片側一斉射撃、艦砲射撃を表現する際に、一般的に使われると説明してある

さすがにネット版百科事典だ。コピーペーストで簡単に意味を調べられるし、使われている単語の意味を正確に理解するためには、いまや普通の辞書や電子辞書より、Wikipediaの方が役立つかもしれない。


本書の時代的背景


関さんの前作:「日英同盟」
では第一次世界大戦中に、日英同盟に基づいて日本が地中海に派遣した艦隊の活躍という、知られざる戦時秘話が中心ストーリーとなっていた。

「日英同盟」で取り上げられた日本と英国の絆が、本書の伏線となっている。

第1次世界大戦の時に海軍相/軍需相だったチャーチルは、日本の艦隊の貢献を深く感謝し、日本に親密感を抱いていたので、第2次世界大戦直前の1941年4月に日本との戦争を回避すべく、当時の重光葵駐英大使に託して訪欧中の松岡外相宛に親書を送った。

しかし松岡は帰国後欧州での歓待の報告に終始し、天皇の不興を買った他は、チャーチルの親書を、近衛首相や天皇に報告したという事実はなく、チャーチルの親書は松岡によって握りつぶされてしまった。

ちなみに立花隆の「滅びゆく国家」の「平成18年は明治139年」という部分で紹介したが、戦前の大日本帝国の領土はWikipediaの次の地図の通りだ。


大日本帝国領土







この広大な支配地域を持つ世界の一等国の日本が、当時の無能な政府とそれを容認した国民のために、勝てる見込みのない戦争に向かってしまった訳だ。

1940年8月から11月のバトルオブブリテンで、ヒットラーが英国侵攻をあきらめ、ドイツの破竹の勢いは失われていた。

翌1941年6月にドイツは、独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻するが、米英ソを敵に回してのドイツの両面戦争は明らかにドイツに不利との情報が在外公館から寄せられていたのに、それでも第2次世界大戦に参戦していった日本の政府の動きが、冷静に分析されている。

「Mrs Ferguson's Tea-Set」は、日本が第二次世界大戦に参戦する前に、イギリスの商船を襲ったドイツの偽装軍艦が、英国内閣の秘密情報を入手し、それがドイツから日本にもたらされ、日本の参戦を後押ししたという史実をセンターピースにしている。

全体として一つの大きなストーリーが流れているが、登場人物の話題や時代背景、日本や英国の当時の政府の動きなどが、順を追って、史実に基づいて展開されている。

関さんは英国にも住居を持っておられ、取材のために年に数ヶ月欧州に滞在されていると、お聞きしている。

15ページにわたって紹介されている"Automedon"、"Atlantis"の平時の写真と沈没の断末魔の写真、様々な登場人物の当時の写真と近影、外交文書、捕虜収容所での写真等、読みながら参照でき、非常に興味深い写真ばかりである。

ちなみに、表紙の写真は"Automedon"の沈没時の連続写真である。

また脚注(Notes)、参考文献(Bibliography)、付録(Appendices)だけでも30ページもあり、膨大な資料と調査により生み出された作品であることが良くわかる。

関さんのストーリー構成力には、いつもながら感心しているが、それに加えて元外交官の多彩なコネクションと地道な努力の積み重ねによる膨大な情報に裏打ちされた、秀逸なノンフィクションである。


偽装軍艦"Atlantis"

第二次世界大戦は1939年9月にドイツのポーランド侵略から始まり、翌1940年5月にドイツが英仏と戦争に入って本格化した。

ドイツは英国の補給路を断ち、連合国向けの物資を接収して自分で使うために1940年に大西洋やインド洋に偽装軍艦を派遣していた。

ドイツのU−ボートが連合国の商船や軍艦に大きな脅威となっていたことはよく知られているが、U−ボートは沈めるだけで、偽装軍艦は商船やタンカーを襲って、乗っ取るというのが大きな違いだ。

筆者もこのような偽装軍艦が活躍していたとは全く知らなかった。元外交官の関さんらしい、知る人ぞ知る歴史秘話だと思う。

襲われた商船が救難信号を発すると、近くの連合国側の艦船が救助にくるので、潜水して姿をくらませられる潜水艦に比べて、偽装軍艦は敵の攻撃にさらされる危険性は高い。

それでもこの本で取り上げられている偽装軍艦の一隻の"Atlantis"は、1940年はじめから1941年11月に英国巡洋艦に沈められるまで、22隻の商船やタンカーを拿捕または沈めるという大きな戦果を上げていた。

Wikipedia英語版でも"Atlantis"は詳しく取り上げられており、その意味では偽装軍艦の中でも、優れた戦果を挙げているのだと思う。

関さんの著書もWikipedia英語版に参考文献として挙げられている。


運命の商船"Automedon"

時は1940年11月。ヒットラーが電撃戦でフランスを占領し、英国侵攻をめざして8月からバトルオブブリテンと呼ばれる航空戦が戦われていたが、英国空軍の迎撃で、結局ヒットラーが英国侵攻をあきらめた頃だ。

英国の商船"Automedon"は1940年9月末に英国リバプールから上海向けに出航した。積み荷は、航空機、自動車、機械部品、鉄や銅製品、ウィスキー、食料など一般荷物と郵便で、旅客も乗せていた。

"Automedon"はマレーシアのペナンに到着する1日半前に、偽装軍艦"Atlantis"に襲われた。

事前に"Atlantis"から警告信号が出ていたが、これを無視して"Automedon"が救難信号を発信したので、"Atlantis"は一斉射撃を行い、"Automedon"の船橋にいた館長以下の主要オフィサーは全員戦死した。

旅客の中にシンガポールに駐在する英国船会社の社員Ferguson夫妻が乗っていたが、旅客は無事だった。

ドイツの偽装軍艦"Atlantis"は"Automedon"を沈める前にボートを出し、食料や使える積み荷を移送し、負傷者・乗員・旅客を捕虜として自船に移送したが、最初の探索では"Automedon"の外交文書が保存してある金庫室は見逃していた。

ところがFerguson夫人が、自分のトランクがまだ船に残っているので、取ってきてくれと"Atlantis"のBernhard Rogge船長に頼んだことから、トランクが置かれている金庫室から125袋の秘密文書が見つかり、ドイツ側を喜ばせる結果となった。


奪取された秘密文書

この中に日本の行動を多角的に分析し、日本が軍事行動に出る可能性があるが、攻撃に準備ができていない英連邦の現状に関する8月8日付けの英国首相の報告もあった。

当時日本は1940年9月の三国同盟でドイツと同盟国となっていたものの、中立国として、ドイツにも英国にも等距離を保っていた。ドイツはそんな日本を、ドイツ側に引き寄せるために、この秘密情報をフルに利用した。

"Automedon"が攻撃されたのが1940年11月22日、そして秘密文書は12月12日に駐日ドイツ大使館の駐在海軍武官Wenneker少将より近藤海軍軍令部次長に手渡された。

秘密文書に驚いた近藤信竹次長は、その晩駐在武官を夕食に招待し、情報に感謝するとともに、大英帝国がここまで弱体化していることは、外からはわからないものだと語ったという。

ドイツ側が秘密文書の入手経路を明らかにしなかったことから、帝国海軍は当初秘密文書の真偽を疑っていたが、文書の内容がアジア各地で収集している軍事情報と驚くほど一致することから、情報の真実性を確信するに至った。

これによりそれまで三国同盟はあっても、中立にこだわりドイツ船舶の補給にも、中立国としての対応を守っていた日本が、急速にドイツ寄りに傾き、翌年にはドイツから兵器や技術を購入するためのミッションも派遣している。

結局翌年1941年12月に日本はアメリカに宣戦布告し、これがアメリカの第2次世界大戦への参戦のトリガーとなった。

この本では"Automedon"の乗組員のフランスでの捕虜生活と、脱走してスペイン経由英国に帰還した秘話や、Ferguson夫妻がドイツで過ごした捕虜生活も紹介しており、非常に興味深い。

本のタイトルとなったMrs Ferguson's Tea-setの写真も掲載されている。Mrs Fergusonは亡くなったが、妹の家を訪問した関さんが2003年にそのティーセットを見せられて、数奇な歴史のきっかけとなった遺品を見て複雑な気持ちを抱いたストーリーも紹介されており、感慨深いものがある。

格調高い英文で、綿密な資料と対面調査に基づく様々な逸話も含めてストーリー構成にはさすがと思わせるものがある。

日本語版が待たれる一冊である。




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2006年10月25日

日英同盟 日本外交の栄光と凋落 日米安保条約を考える上での歴史の教訓

2006年10月22日追記:

『日英同盟』の著者の関榮次さんからご招待を受け、昼食をご一緒させて頂いた。

著書にサインも頂いた。


関榮次さんサイン







関さんのストーリー構成力のすばらしさは、以前ご紹介したところだが、今度は日本が第2次世界大戦に参戦する要因の一つとなったと言われている事件を取り上げた本を英語で出版されるそうだ。

第2次世界大戦初期、ドイツの潜水艦が沈めた英国商船から回収された連合国の暗号文書が日本にも提供されたが、その情報を信じた日本は開戦に踏み切り、結果的にミスリードされたという事件だ。

タイトルは英国の出版社が決めたそうだが、Mrs. Ferguson's Tea Setというもので、いかにもしゃれている。沈没船にはMrs. Fergusonのtea setが積まれており、それの回収をMrs. Fergusonが求めたというエピソードを元にしている。

非常に面白そうで楽しみな本だ。

英語版が出版されたら一部頂くことになっているので、読んであらすじをご紹介する。

このあらすじブログが縁で、ご紹介した本の著者の方とのおつきあいが出来るようになり、筆者も大変刺激を受けた。

もう一つのブログも運営しているので、最近やや更新の頻度が落ちているが、引き続きお役に立つ様な情報を発信すべく努めるので、今後も興味ある記事があれば参考にして頂きたい。

日英同盟―日本外交の栄光と凋落


筆者は年間200冊以上の本を読んでいるが、たとえプロの作家でも本当に文才がある人は案外少ないと感じている。

今まで頭をガーンとやられる様なカリスマ性があると感じたのは安部譲二と角川春樹であることは以前書いたが、この本の著者の関榮次さんの文才というか、ストーリー構成力には感心した。

日英同盟に基づき日本が第1次世界大戦中に地中海に艦隊を派遣したという、知る人ぞ知る部類の歴史的史実をセンターピースにしていながら、徳川家康に仕えた三浦按針に始まる日本と英国の歴史からはじまり、現在の日米安保体制に対する提言まで、一連の流れでスッとあたまに入る様に構成されている。

また史実についても、この本の帯に「元外交官による10年にも及ぶ資料発掘の成果!」と書いてあるが、それぞれの事件の描写が関係者の回想録や外交文書などの綿密な調査に基づいていることがはっきりわかる深みがあり、興味深く読めた。


著者の関栄次さんは元外交官

以前紹介した日米永久同盟で日英同盟のことが言及されていたので、この本を読んでみたのがきっかけだが、『日米永久同盟』と提言も異なり、出来も全く異なる。

著者の関栄次さんは駐英公使、ハンガリー大使等を歴任した元外交官でノンフィクション作家だ。

日本のシンドラー6,000人のユダヤ難民を救った杉原千畝を取り上げたNHKのその時歴史が動いたでも、ゲスト出演した。

一般的に日英同盟は『日本外交の精髄』と呼ばれて、特に日露戦争の時の英国の協力(戦費調達、ロシアバルチック艦隊補給への嫌がらせや、アルゼンチンがイタリアに注文していた戦艦の日本への転売斡旋等)が、日本の勝因の一つになったとして、高く評価されている。

しかし、それは来るべき日露対決の事を考えて1902年に締結された日英同盟が、2年後の1904年に実際に日露戦争が起こったときに機能したもので、いわば当初の目的通りである。

日英同盟のおかげで日本はロシアに勝利して列強と肩を並べる『一等国』になったとの満足感に浸ったが、それは1923年に米国の圧力で終了するまでの日英同盟の21年の歴史のほんの一部でしかない。

関さんは日英同盟を礼賛する様な動きを諫め、余り知られていない地中海遠征という史実を通して、当時の日英両国の関係を描き、末期の日英同盟を救おうとする一連の動きを取り上げる。


第1次世界大戦まで

1914年に第1次世界大戦が勃発し、日本も参戦しドイツが領有していた青島を攻略、1915年には中国に対して21箇条の要求を出すに至って、日本は日英同盟を悪用しているとの批判が英国内に高まる。

しかし国運を賭してドイツと戦っている英国は、背に腹は替えられず、手を焼いていたドイツ・オーストリア連合軍のUボートの輸送船攻撃に対抗するため、日本に地中海への艦隊派遣を要請。

この時の英国首相はロイド・ジョージ、軍縮相はウィンストン・チャーチルだ。

日本海軍ではちょうど欧州視察から帰国したばかりの秋山真之(さねゆき)少将(司馬遼太郎の『坂の上の雲』の登場人物)が、地中海派遣という機会を生かせば、戦後の我が国の地歩が有利になるとともに、実戦経験は技術向上や兵器の改良にも役立つとして、優秀な若手士官を派遣することを熱心に進言していた。


地中海への艦隊派遣

英国の要請を受け1917年に旗艦を巡洋艦『明石』とする最新鋭の樺型駆逐艦8隻の第2特務艦隊が地中海遠征に派遣され、以後1919年の凱旋帰国まで2年間地中海で連合国の輸送船防衛の任務につくことになった。

日本の特務艦隊はマルタ島に本拠を構え、連合国のなかでも抜群の稼働率で出動し、各国からの信頼を得て、地中海の連合国輸送船護衛に大きな成果を上げた。

唯一の損害らしい損害は、駆逐艦榊がオーストリア・ハンガリー帝国の小型潜水艦の雷撃で、船首に大きな損害を受け、59名が殉職した事件である。

本書はこの事件を中心に、最後はマルタ島にある榊殉職者の慰霊碑を著者が訪れた時の記録で終わっている。

この事件に関しては非常に詳しいウェブサイトを見つけたので、ご興味のある方は参照頂きたい。

オーストリアもハンガリーも現在はいずれも内陸国なので、潜水艦と言われてもピンとこないが、旧ユーゴスラビア、現在のクロアチアは当時オーストリア・ハンガリー帝国の一部だったので、アドリア海を母港として地中海に出没していた。

日本から派遣された特務艦隊には後に巡洋艦出雲と駆逐艦4隻が増派され、終戦とともに戦利品のUボート数隻を伴って、凱旋帰国した。

戦後ロンドンで大戦勝パレードがあり、各国の軍隊が参加したが、日本は艦隊は既に帰国の途についており、わずかに4名の駐在武官がパレードに参加したにとどまった。

本書の裏表紙にあるこのときの貧相なパレードの写真は、日本の外交センスのなさを示す写真として紹介されている。


近代海戦では対潜水艦対策がカギ

筆者は駆逐艦が英語でDestroyerと呼ばれるのを長らく不思議に思っていたが、今回第1次世界大戦で既にドイツのUボートが活躍していた事を知り、なぜ駆逐艦をDestroyerと呼ぶのか、はじめてわかった。

駆逐艦よりずっと大きい巡洋艦はヨットの様なCruiser、戦艦はもっと簡単にBattle Shipと、どうということがない呼び名がついているが、駆逐艦だけがデストロイヤーというおどろおどろしい名前がついている。

第1次世界大戦の時から潜水艦が海上輸送の大きな脅威で、潜水艦に対抗して商船隊を護衛するには高速でかつ小回りの利く小型艦船が必要だったのだ。

そのため排水量1,000トン前後で最高速度30ノット前後の小型の駆逐艦が大量に建造され、対潜作戦に当たったのだ。

日本から派遣された樺級の駆逐艦も排水量665トンの小型船舶だ。

地中海遠征を通して、日本は神出鬼没の潜水艦に対抗するには多数の駆逐艦など小型船舶と、航空機による護送船団方式しかないことを経験したわけだが、この教訓は生かされず、相変わらず大艦巨砲主義に固執し、それが結局第2次世界大戦の敗北につながった。

現代では駆逐艦の代わりに、航空機と哨戒艇が対潜水艦戦略の中心であることは『そのとき自衛隊は戦えるか』で紹介したが、日本は第2次世界大戦の反省もあってか、哨戒機99機、哨戒ヘリ97機と突出した対潜水艦戦闘能力を持っている。


日英同盟の末路

第1次世界大戦後のパリ講和条約交渉では、エール大学卒の俊英を代表にたてる中国に対し、日本は21箇条の要求の理不尽さを突かれ守勢にまわる。

同盟を結んでいた英国も日本を援護すべく努力はするが、日本を支援することが英国内の世論の賛成を受けられず、限界があった。

日本は地中海派兵を行い、榊の乗組員の犠牲を払ったが、自らの行動に世界から支持を得られず、もはや日英同盟を継続することは不可能であった。

英国は日英同盟を終結する時に、ロイド・ジョージ首相、バルフォア枢密院議長などが、英国の名誉のためにも第1次世界大戦で貢献した日本に対する信義を守らなければならないと呼びかけ、アメリカを説得し、さらにフランスも入れて、1923年の4カ国条約締結に至る。

1923年のワシントン条約で軍備制限が合意され、大正デモクラシーのもと、束の間の平和が訪れるが、日本は軍制度改革や軍備縮小に失敗し、5.15事件、2.26事件等を経て軍部の介入がひどくなり、太平洋戦争に向かっていく経路をたどる。


日米安保体制への教訓

著者の関栄次さんは日英同盟の教訓をもとに日米安保体制について考察している。たぶんこれが最も関さんが伝えたかった点であろう。

日英同盟が双務的な盟約であったのに対して、日米安保条約は対日講和後も米軍基地を維持しようという米国の意図から生まれた片務・従属的な条約である。

たしかに日本の復興・発展に日米安保条約が果たした役割は大きく、それがため日米関係は『最も重要な二国関係』と言われる様になってはいるが、安保条約のために日本の国民の防衛意識が希薄になってしまったと関さんは指摘する。

筆者が昔読んだ小沢一郎の『日本改造計画』(絶版となっていたが復刻される)で、小沢氏は『普通の国』という表現を使っていたが、戦後60年が過ぎ、共産圏対自由主義圏という冷戦構造もなくなり、アジアでは中国、インドのBRICS諸国の台頭が著しい現状では、日米安保条約が現在のままで良いのかどうかを日本国民の間で真剣に議論する時ではないかと筆者も思う。

日本改造計画


関さんは現在の日米安保体制が国家の自主性を損ない、国民の外交感覚を鈍らせる結果となっていることが気がかりだと指摘している。

また沖縄に集中する米軍基地の縮小についても、真剣な対策をおろそかにしてきた歴代政権の責任は重大であると指摘する。

さらに現状のままでは、80年前に日英同盟がワシントンに葬られたように、いつの日か日米安保体制が北京に、あるいはモスクワなどに葬られないという保障はないと警告する。

同盟は、盟邦以外の諸国を疎外し、外交上の選択の幅を狭めることになるので、いわば劇薬のようなものであり、国益を守るため他に十分な手段がない場合の補足的措置であるべきであり、慢性的に常用してよいものでもないと。

共産主義に代わり、国際テロが国際社会への脅威となり、世界情勢が変わり、ピンポイントで攻撃できる巡航ミサイルなど軍事技術も進歩した。

米国自身も国内外の基地展開を縮小している現状で、日米安保がそのまま継続されるべきなのかどうか。

そもそも日本国憲法を改正し、自衛権を明文化すべきではないか。様々な観点での議論が必要だ。

関さんは日本国民が必ずしも納得しない米国の世界戦略に奉仕することを求められることもある現在の安保条約を、国民的論議も十分に尽くさないまま惰性的に継続することは、日米の真の友好を増進し、世界の平和と繁栄に資する道ではないと語る。

米軍基地をグアムに移転するから移転費用の1兆円を日本国民が負担しろというアメリカ政府の提案が明らかになり、日本政府がそれを受け入れようとしている現在、国民の税金を使う前に、普通の国となる議論が再度なされるべきではないかと筆者も感じる。

その意味で筆者は、小沢一郎の民主党代表就任は一つの転機になるかもしれないと期待している。

元外交官のからを破った関さんの提言は斬新で拝聴すべき意見だと思う。読後感さわやかなノンフィクション作品である。



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Posted by yaori at 00:50Comments(1)TrackBack(0)この記事をクリップ!