2010年10月07日

リクルート事件・江副浩正の真実 黙って死ぬわけにはいかない

リクルート事件・江副浩正の真実 (中公新書ラクレ)
リクルート事件・江副浩正の真実 (中公新書ラクレ)
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昭和63年に起きたリクルート事件を起こしたリクルート創業者江副浩正さんが、事件の捜査と検察の取り調べや裁判でのやりとりを、勾留中の房内ノートや公判記録などをもとに書いたリクルート事件と捜査の総括。読書家の上司のすすめで読んでみた。

この本のタイトルに「江副浩正の真実」とあるのは、「検察の真実」もあるだろうとして、江副さん側からのまとめだということを示している。

この本の原稿は20年ほど前に書いていたが、周りから止められていたので、いままで公開していなかった。しかし「黙って死ぬわけにはいかない」ということで、今回公開に踏み切ったものだ。

ちょうど厚生労働省の身障者優遇郵便不正事件で、村木元局長の取り調べをした大阪地検特捜部の前田検事が、フロッピーディスクの日付データを検察側に有利なように書き換え、それを上司の副部長や特捜部長が知っていたことが、大問題に発展しているときだけに、リクルート事件での特捜部の取り調べをありのまま書いているこの本は興味深く読めた。


リクルート事件とは

リクルート事件といってもピンとこない人が多いかもしれないが、リクルート事件は昭和63年(1988年)、ちょうどバブルのまっただ中で明るみに出たリクルート創業者江副さんが、上場直前の不動産子会社リクルートコスモスの未上場株を政界、官界、経済界の多くのキーパーソンに、数千万円単位の融資まで付けて安値で買わせ、「濡れ手に粟」の利益を上げさせた贈収賄事件だ。

秘書がリクルート株を買った当時の竹下首相までリクルート事件の責任を取って辞任したほどで、この事件のために、ポストを辞任したり、裁判で有罪になった人は次の通りだ。まさに戦後最大規模の贈賄事件である。(役職は在職当時)

政界
中曽根前首相 自民党を離党
竹下登首相  辞任 リクルート株を受け取った青木伊平元秘書は自殺
藤波孝生官房長官 一審で無罪となったが、二審で逆転有罪(懲役三年 執行猶予四年)。最高裁で棄却され有罪が確定
宮沢喜一蔵相  辞任
池田克也 公明党代議士 有罪(懲役三年 執行猶予四年)

その他、秘書、家族なども含め、リクルートから株を受け取った政治家は、渡辺美智雄(現在の渡辺喜美みんなの党党首のお父さん)、加藤六月、加藤紘一、塚本三郎(民社党)、安倍晋太郎、森喜朗他だ。当時の大物政治家ばかりである。

NTTルート
真藤恒NTT会長 有罪(懲役二年 執行猶予五年)
長谷川NTT取締役 有罪(懲役二年 執行猶予三年)
式場NTT取締役 有罪(懲役一年六ヶ月 執行猶予三年)

官界ルート
鹿野茂労働省職業安定局業務指導課長 有罪(懲役一年 執行猶予三年)
加藤孝労働事務次官 有罪(懲役二年 執行猶予三年)
高石邦男文部事務次官 有罪(懲役二年六ヶ月 執行猶予四年)
小松秀煕川崎市助役 解任(リクルート事件が明るみに出る発端となった人物)
原田憲経済企画庁長官

経済界他
森田康日本経済新聞社社長 辞任
公文俊平東大教授 辞任
牛尾治朗経済同友会副代表幹事 辞任
諸井虔経済同友会副代表幹事 辞任

リクルート関係者
江副浩正 有罪(懲役三年 執行猶予五年)
辰巳雅朗リクルート社長室長 一審で無罪となったが、二審で逆転有罪(懲役一年 執行猶予三年)、最高裁で棄却され有罪が確定
小林宏ファーストファイナンス社長 有罪(懲役一年 執行猶予二年)
小野敏廣リクルート社長室長 有罪(懲役二年 執行猶予三年)
松原弘リクルートコスモス社長室長 有罪(懲役一年六ヶ月 執行猶予四年)


朝日新聞横浜支局の大スクープ

事件が明るみに出たのは川崎市の小松助役へのリクルートコスモス株譲渡を朝日新聞の横浜支局が報道した昭和63年6月だ。朝日新聞横浜支局はその後「追跡リクルート疑惑」という本も出しており、米国調査報道記者・編集者協会賞を日本ではじめて受賞している。

追跡 リクルート疑惑―スクープ取材に燃えた121日
著者:朝日新聞横浜支局
販売元:朝日新聞社
発売日:1988-10
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文才のある江副さんだけに、460ページもの厚い新書だが、飽きさせないで読める。


世界最長(?)の裁判

江副さんの裁判は第一審の判決を江副さんも検察も受け入れた一発決着だったが、それでも13年3ヶ月かかり、開廷数は322回、分離して行われた裁判を入れると450回以上、江副さんの証言数も128回で、日本の刑事裁判史上最多、世界でも例のない開廷数だったという。


日本の政治混乱を招いたリクルート事件

江副さんが書いているので、なるほどと思ったが、リクルート事件で竹下首相が退陣した後の参議院選挙で自民党は惨敗し、それ以来、野党が参議院の過半数を占める現在と同じ「ねじれ国会」が生じた。

その後海部俊樹、宮沢喜一、細川護煕、羽田孜、村山富市、橋本龍太郎、小渕恵三、森喜朗と平均在任期間一年程度で内閣が替わり、平成13年の小泉純一郎内閣で自民党が衆参両院で過半数を占めるまで12年間政治は安定しなかった。

江副さんは「政権が安定していないと経済は発展しないとの思いから政治献金をしたが、逆の結果になった。私は大罪を犯してしまった。悔やんでも悔やみきれない思いだった」と書いている。

リクルート事件が、自民党政権の基盤を危うくし、政治の混迷を招いた結果となったことは間違いないと思う。

いろいろ参考になったが、筆者なりに整理すると、次の通りだ。


江副さんは寂しがりや?

★江副さんがリクルートコスモス株をいろいろな人にばらまいたのは、親しい人に未上場株を渡すという当時の慣行によるところもある。しかしあきらかにやりすぎで、特に政治家や高級官僚にも送ったことが世間の非難を浴びた。

★検察官に語った「50歳にもなれば、仕事の関係と友人とを区別するのは難しくなります。経営者の集まりで知り合って、友人関係になることもあります」という江副さんの発言は、たぶん本音なのだろうが、それにしても未上場株をばらまいたことは、あまりにも軽率と言わざるをえない。

江副さんの親しい友人は「江副さんは寂しがりやだからだ」と言っているという。経営者が孤独ということはわかるし、頼れる友人が欲しいという心境もわかるが、そんなことが理由になるのか?江副さんのセンスを疑う個所である。


不動産バブルで国民の怒り爆発

★当時はバブルのまっただ中で不動産価格が急騰し、一般民衆は通勤圏に持ち家を持つことが難しくなって不満が高まっていた。そんな中でバブルで最も儲けた不動産業のリクルートコスモスの株を政治家や高級官僚に贈り、「濡れ手に粟」で儲けさせるという事件だったので、国民の怒りが爆発した。

★そのため国民の怒りを代弁して朝日新聞始めマスコミが徹底的にリクルートを叩いた。朝日新聞では、社員は株取引は禁止されていたという。だから「濡れ手に粟」は記者の怒りにも火を付けたことは間違いない。


最大のポイントはワイロ性の認識

★贈収賄罪の最大のポイントは、本人にワイロ性の認識があるかどうかで、検察官は有罪にするために本人のワイロ性を認める自白調書が絶対必要だった。だから検察は江副さんなどの被疑者を精神的に追い込む一方、保釈と執行猶予をちらつかせ、アメとムチで、検察が作った調書に署名させて自白証拠を作った。

★江副さんは、全くワイロ性の意識はなかったので、当初は黙秘を続け、徹底的に否定するつもりだったが、精神的に追いつめられたことと、リクルート大阪の顧問弁護士から頑張っても結果は同じなので、検察官がつくる調書にサインして早く保釈を得た方が良いというアドバイスがあって検察官調書がデタラメでもサインすることにした。

★しかし虚偽の調書にサインしたことでNTT会長真藤さんはじめ、多くの人に迷惑を掛ける結果になったという。


検察官調書を重視する裁判所

★最高検察庁が取り調べをすべて管理しており、一旦サインした検察官調書も、「”ヘッドクオーター”から不十分としかられた」という理由で、どんどん検察に有利な調書に書き換えられ、そのたび毎に署名を強いられた。

★検察官のやりかたは、本書でも「現代の拷問」と紹介されている通り、被疑者を何時間も壁の直前に立たせ、目をつぶると大声でどなったり、座っているイスを蹴り飛ばしたり、毎日長時間尋問したりして精神的に追いつめるというやり方だ。しかし裁判では、検察官はそのような不当な圧迫尋問をしたことはないとウソをつく。

★江副さんは日本では起訴されると有罪率が99.8%と高い理由は、たとえむりやりサインさせられた検察官調書でも日本の裁判所は検察官調書で判決を決めるからだと感じたと語っている。「検事によって罪はつくられる」。所詮裁判所も国家権力なのだ。


国民意識を反映した判決では?

★江副さんはこう語るが、もともと株を贈ってもリクルートが得たメリットはほとんどないので、ワイロ性も薄かった。ところがマスコミ報道により国民の怒りがリクルート事件の当事者に向けられていたので、裁判所としても無罪と認定することは難しかったのではないか。

★だから江副さんの主張する無理矢理作られた虚偽の検察官調書が裁判所の判断に繋がったというよりは、むしろ裁判所は国民感情に配慮した点が大きいのではないかと筆者は考えている。

その意味では、この事件も佐藤優さんが「国家の罠」で書いている「国策捜査」と言えるかもしれない。


株売却益で追徴課税26億円!

★江副さんはリクルート事件で株取得を斡旋しただけなのに、国税庁からは江副さん自身の株取引として認定され、株の売却所得の申告漏れで巨額の追徴金を徴収された。最高裁まで争ったが、結局敗訴し、なんと合計26億円の国税・地方税を納付した。リクルート株をダイエーの中西さんに売っていなければ、この判決で破産しただろうと。


検察は政治家をターゲット

★江副さんはリクルート事件前から様々な政治家を囲む会に参加したり、「21世紀の総理候補」と言われていた藤波孝生代議士などには、毎年1,000万円の政治献金をしていた。政治家に経済的支援をすることで、少しでも国政を良くする上で役立っていると思っていた。しかし国民の常識は「見返りを期待しない政治献金はない」というものだったことは、事件後に分かったと江副さんは語る。

★江副さんは中曽根元総理と総理公邸で昼食を一緒にしたことがあるという。このとき出されたのはレトルトカレーで、総理公邸にはシェフも執事もいないことに驚いたという。リクルート事件では検察は中曽根元総理まで逮捕すべく視野に入れていたが、果たせなかった。江副さんは2008年に森ビルが建てた上海のSWFCビルの完工式で、中曽根さんに再会し、迷惑を掛けたことをわびたという。

話はそれるが、これが筆者の会社のオフィスも入っている上海のSWFC(Shanghai World Financial Center)ビルだ。(写真の後ろ側のビル)これらは9月に上海に出張したときに撮った写真だ。

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横から見ると栓抜きのような格好だが、下から見ると尖塔のように空に向かってとがっている様に見える独特のデザインだ。

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上海の浦東地区にはこんな感じでビルが林立している。写真の真ん中のビルも、やはり森ビルが10年以上前に建てたもので、以前は上海で一番高いビルだった。筆者の会社の前の上海オフィスはこのビルにあった。

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上海の浦東地区はちょうど日本の幕張を大規模にしたような人工の町で、その規模の大きさには驚かされた。

閑話休題。


★取調中、竹下内閣が退陣し、次期内閣の閣僚名簿の様なリストを、江副さんは検察から見せられた。検察と自民党が水面下で繋がっていることを知った出来事だったと。

江副さんが参考になったと言っている本は。「刑事裁判の光と陰」という本で、芸大バイオリン事件で有罪になった世界的バイオリニスト海野義雄氏が、検察官から江副さんと同じような圧迫取り調べにあったことなどを書いている。

刑事裁判の光と陰―有罪率99%の意味するもの (有斐閣人権ライブラリイ)
販売元:有斐閣
発売日:1989-01
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リクルート事件後の日本の政治の混迷を見ると、リクルート事件のインパクトは本当に大きい。ちょうど郵便不正事件で検察の不正行為が明るみに出ているので、この本で明かされている検察の”現代の拷問”の部分は興味深く読めた。

映画「それでもボクはやっていない」でもあったように、今や痴漢の冤罪で捕まらないとも限らないリスクがある時代だ。

まずはこの本で紹介されている「刑事裁判の光と陰」を読んで、いずれあらすじを紹介する。


参考になれば投票ボタンをクリックして頂きたい。



  
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2008年04月24日

不動産は値下がりする リクルート創始者江副さんの警鐘

不動産は値下がりする!―「見極める目」が求められる時代 (中公新書ラクレ 252)


リクルート創始者江副浩正さんの近著。前回紹介した「リクルートのDNA}なら江副さんにまさに書いて欲しい本だが、この本は不動産価格の見通しについての本であり、なぜ江副さんがこの本を今書いたのか、本を読むまでよくわからなかった。

リクルートは以前リクルートコスモス(現コスモスイニシア)という不動産開発会社を持っていて、首都圏のマンションや岩手県の安比高原スキー場などのリゾート開発の実績もあり、江副さんはリクルートコスモスの会長だった。

しかしリクルート事件でリクルートの社長を退任し、最近は江副育英会や東京オペラシティのサポーターなどの活動がメインで、不動産ビジネスからも引退しているのだと思っていた。

江副さんは72歳になっているはずだが、この本を読むと東京や全国の不動産開発についても最新の動きをつかんでいることがわかり、依然として現役投資家と言って良いと思う。

現在の不動産の需給状況を冷静に分析して、日本全体が少子高齢化に向かっているにもかかわらず、首都圏を中心に不動産の供給はさらに増えるので、金利が今後上昇していくと不動産の価格は下がると警鐘を鳴らしていて参考になる。

最後に「書くことは私自身の勉強になる」と記されているのは実感で、この本を書いた理由だろうが、いわば元バブル紳士の江副さんの「同じ間違いは繰り返すな」という遺言の様に思える。



不動産供給の増える理由

現在は都心の不動産価格は上昇している。

日本の国土は狭く、土地は限りある資産で、不動産を持っていた方がインフレに強いという発想(信仰)があるが、土地は埋め立て、法改正などで生産、再生産されており、規制緩和による容積率拡大により首都圏や近畿圏を中心に膨大な土地、床が供給されるのだと江副さんは語る。

だから首都圏を中心に不動産の供給が増えるので、バブルは崩壊すると江副さんは予想する。


1.規制緩和による容積率や建坪率の増加

都心部では30階を超える高層オフィスビル、50階を超えるタワーマンションが増加し、住宅地では敷地一杯に広がったマンションが増えた。南軽井沢では規制緩和で、引退した団塊世代が買えるこぶりの別荘が建てられるようになった。

規制緩和による土地供給増加はバカにならないものがある。


2.地方自治体が埋め立て地を造成

江副さんは神戸市出身だが、神戸市は六甲山を削って海を埋め立て、ポートアイランド、六甲アイランドなどを造成した。

東京臨海部でも有明、青海など臨海副都心を抱える江東区は50年間で面積が1.8倍、品川区、大田区も1.4倍に増えている。千葉県浦安市は面積で約4倍、人口は約9倍になった。

すべてが埋め立て地の幕張新都心を抱える千葉市だけで、32平方キロメートルも増えている。これは中央区の面積の3倍以上の土地の増加だ。

横浜のみなとみらい21でも、三菱重工横浜造船所の跡地と埋め立て地で土地が増えている。

品川地区のJR操車場跡は、興和不動産の佐藤悟一氏が「異常な高値」で落札したと言われたが、現在の地価は興和が落札した時の2倍以上になっているという。


3.オフィスの建て替えと新規開発

オフィスの建て替えや新規開発は丸の内、六本木、汐留、品川、大崎、霞ヶ関など目白押しで、さらに日比谷地区の古いビルが再開発予備軍として控えている。

姉歯元建築士による耐震偽装事件で建築基準法が改正され、昭和56年度までに建てられた旧耐震構造のビルは、建て替えるか耐震改修が義務づけられている。一方、国と地方自治体が13.2%を補助するので、いわばアメとムチによる立て替え促進である。

東京23区のビルの4割以上は旧耐震構造なので、銀座地区などでは立て替えブームが起こっており、立て替えられれば倍以上のオフィス床面積が供給されることになろう。

都心回帰をうまくつかんだ中央区
この都心回帰の流れをうまくつかんだのが中央区だ。中央区の面積は10平方キロメートルと東京23区のなかでは台東区に次いで狭い。

人口も昭和30年(1955年)の17万人から、平成7年(1995年)には6万4千人まで減ったが、「都心居住」のまちづくりで、銀座、日本橋〜築地、月島・勝どき・晴海と3つのゾーニングを設定し、容積率を1100%まで拡大し、平成18年には念願の10万人を超えた。

現在6期めの区長の矢田美英氏は中央区生まれの共同通信社出身で、従来の慣行に捕らわれない自由な発想の持ち主だったことが中央区の画期的な改革を可能としたのだろうと江副さんは語る。

築地市場跡地の再開発も計画されている。


4.大学の持っている土地の有効利用

中央大学は駿河台地区から東京の八王子に移転した。他にも郊外に移転した大学・学部もあるなかで、東洋大学などはむしろ都心回帰してきた。学生の都心指向は強い様だ。

東大の小宮山総長は大胆な東大改革を行おうとしている。

仮に駒場からすべて本郷の農学部や柏キャンパスなどに移転し、駒場のキャンパス10万坪を再開発すると六本木ヒルズ地区の2倍の面積の再開発が行えることになると江副さんは語る。

これによる地価は3,000億円と推定され、毎年200億円程度の収入が得られる可能性があると試算する。

さらに東大は小石川植物園周辺、千葉の検見川運動場、中野の附属中学・高校、田無の実験林なども持っており、資産の有効利用で国からの助成金の減少分を賄うこともできる可能性がある。

旧帝大系はみんな広大な土地を持っており、首都圏の千葉大学、埼玉大学、横浜国立大学なども同様だ。これらの土地を有効利用すると、将来は地価下落の要因になる。


5.生産緑地法の改正による農地の宅地化

首都圏で農地の宅地化が最も進んだ地区は、埼京線の戸田公園から大宮にかけてだ。平成3年(1991年)に改正された生産緑地法により、農家が申請すれば宅地に転用して売却も可能となったので、一挙に農地から宅地への転換が進んだ。

東京都だけでも昭和40年(1965年)には28%だった農地比率が、平成7年(1995年)には10%を切っている。それまで練馬大根や江戸川区の小松菜などを生産していた農地が宅地に転換されたのだ。

農地の固定資産税・都市計画税は(固都税)は宅地の100分の1で、相続税も営農の意思表示さえすれば納税しなくてよかった。このため千葉、東京、埼玉、神奈川の首都圏の市街化区域内農地とされる農地は平成7年の時点で205平方キロもあった。

ところがバブルによる地価高騰対策として、市街化地域内農地に対する宅地並み課税の声が高まり、「宅地化すべき農地」と「生産緑地(保全すべき農地)」とに区分されることになった。

首都圏の205平方キロの内、「宅地化すべき農地」は66%とされ、これが宅地や商業地として供給されたのだ。

バブル時代に大前研一氏が「平成維新の会」をつくり、農地の宅地並み課税により土地供給の増加を訴えていたことを思い出す。これが政策として実現していることがわかる。

また首都圏には工業専用地区が201平方キロあり、これも工場の移転や閉鎖とともに、時間を掛けて宅地や商業地に転換されてくる。

これらの土地供給圧力は膨大なものがある。

江副さんは私見として、バブルの時に導入され、バブル崩壊後凍結されたままの地価税を復活せよと語る。料率は路線価の1000分の3程度であり企業の負担は軽微だろうと。


江副さんの結論:金利の上昇は地価の下落に直結する

次が日本の人口動態調査だ。

人口動態調査







江副さんは、少子高齢化により平成17年度から日本の人口がほとんど増えていないこと、晩婚化・非婚化が進んでいることより不動産の需要は増えず、エリアによる格差が拡大すると予想している。

また住宅ローン金利も近く上昇し、不動産価格は下落すると予想し、これを結論としている。


バブル時代は一世を風靡した江副さんだが、今回はバブル崩壊再来というダメージが日本経済に起こらないために、この本を出版して警鐘を鳴らしている。

首都圏の不動産供給のマクロの動向がわかり、大変参考になる。不動産購入を考えている人に限らず、是非一度手にとって眼を通して頂きたい本である。


参考になれば次クリックと右のアンケートお願いします。


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Posted by yaori at 12:53Comments(0)TrackBack(0)

2007年10月15日

リクルートのDNA リクルートの強さの秘訣がよくわかる

+++今回のあらすじは長いです+++

リクルートのDNA―起業家精神とは何か (角川oneテーマ21 A 61)


リクルート創業者江副浩正さんの自伝的ビジネス書。

リクルート出身の知人もおり、リクルートは人材輩出企業として有名なので、タイトルに惹かれて読んでみた。

江副さん自身は凡庸な人間だと語る。凡庸な人間でも精一杯頑張れば、ある程度のことができる一つの例として、これから事業を始める若い人の参考になればと、この本を書いたと言う。

江副さんは甲南中学・高校出身。東大の教育学部卒だが、大学にはほとんど行かず、東大新聞の企業向け広告営業で成功し、就職するのがばからしいくらいの収入を得る。

東大新聞社理事の天野勝文さんに「広告もニュースだ」と言われたことがきっかけで大学新聞の就職広告からスタートして、数々の情報広告メディアつくりに進出し、現在のリクルートグループをつくりあげた。

江副さんの功績は、大学生の就職情報、転職、不動産、中古車などの情報を広告と結びつけた新しい広告分野を作り上げたことと、人材輩出企業と呼ばれるリクルートというビジネスシステムを作り上げたことだ。


江副さんの考える成功する企業風土

江副さんの考える成功する企業風土で、一番に来るのが考え方を同じにするということだ。

藤田晋さんの本で紹介されていた話だが、リクルートコスモス出身の現USEN社長宇野さんが現在のインテリジェンスを創業したときに、藤田さんを勧誘したのも『大事なのは金じゃない。本当に大事なのは志を共有できるかどうかなんだ』という言葉だった。

起業するときは仲間全員が同じ方向に向いているが、数年経つと考え方が違ってきて、一度ベクトルがずれるとなかなか元の起動には戻らない。

経営者にカリスマ性があれば、社員はその人についていくが、江副さん自身カリスマ性はないので、自分のメッセージを出せず、弱点を克服するために苦労したという。

次のようなことまで語っている。

「私は子どもの時からケンカが弱く、他人と競うことを避けてきた。人を統率する力はとても弱い。いつも会社のトップでいることがつらかった。そのため社員の誰よりも懸命に働こうと、一番に出社、夜は最後に電気を消して鍵をかけ帰っていた。」

ちょっと信じられない言葉だが、江副さんの本心からの言葉かもしれない。

人前で話す代わりに、江副さんの思いや経営に対するスタンスをリクルートの社訓、心得などにまとめて社員教育の教材とした。結果的に共同体意識が醸成でき、独特の企業風土や企業文化が生まれたのだと。


江副さんは”エゾリン” 社長もニックネームで呼ぶ会社

自由闊達な雰囲気は、社員同志が社長も含めてニックネームで呼んで親愛の情を示していることでもわかる。経営者も社員一人一人をよく知って、現場第一主義に徹していたという。

現役社長時代、江副さんは”エゾリン”と呼ばれており、社員で江副社長と呼ぶ者はなかったという。

現在の社長の柏木斉氏はカッシーだという。ちなみに柏木斉氏は筆者の寮の後輩だが、若い頃から社長候補と目されており、45歳で社長に就任したとのことだ。


大学新聞の広告代理で起業

江副さんは在学中から東大新聞の広告営業で年に50万円の収入があった。サラリーマンになると収入が1/3になるので、昭和35年(1960年)に卒業して、そのまま大学新聞広告代理業でスタートした。

リクルートというと江副さん一人が創業者だと思えるが、実際には鶴岡公(ひろし)さんが創業時からのパートナーだと江副さんは語る。

鶴岡さんは高卒後、東大新聞で原稿制作、校正、印刷の仕事をしていた。江副さんが営業、鶴岡さんが制作という役割分担だ。

早稲田、慶應、一橋、京大などの大学新聞の広告にも扱いを広げ、アルバイトも採用し、教育学部の先輩の森稔さんが学生時代に立てた西新橋の四階建て森ビル屋上の物置小屋を最初の事務所とした。

雨漏りがするので、森さんに話すと、「仕方がないよ。モリビルだもの」と言われたと。

鶴岡さんが就職特集記事をつくり、下に求人広告を入れて各大学新聞に出した広告がよく売れて、初任給が1万2千円の時代に、初年度100万円の利益を出した。

八幡製鉄(現新日鐵)の人事課長に個人との多額の取引は良くないので、株式会社にしてもらえないかと言われ、「株式会社の作り方」という本を買って、自分で設立手続した。リクルートの前身の株式会社大学広告の誕生である。江副さんが23歳の時の起業だ。


リクルートブックの誕生

翌昭和36年にアメリカ留学中の先輩からアメリカの就職情報ガイドブック「キャリア」を入手して、「これだ!」と思い、「企業への招待」という日本版の就職ガイドをつくる。有名なリクルートブックの誕生だ。

今もあるのかどうかわからないが、筆者が大学4年の5月頃に(当時は大学4年の9月1日が会社まわり解禁日だった)電話帳みたいなグリーンのリクルートブックがたしか四冊自宅に届いたので、母がびっくりしていたことを思い出す。

雑誌は表紙のデザインが重要だと考え、当時博報堂のコピー課にいた大学時代の友人の森村稔氏(のちにリクルートに入社してバリバリ広告コピーを書く)の紹介で、東京オリンピックのポスターデザインも担当した亀倉雄策氏にリクルートブックの表紙デザインを依頼する。

編集記事で会社を紹介するというコンセプトで、初年度100社の広告クライアントは軽く集まると思っていたが、いざ営業を始めると同業他社がやらないという理由で、なかなかクライアントが集まらない。

やむなく四十社ほどは無料で広告掲載してもらった。思い切ったギリギリの決断だが、これで最初のリクルートブックが世に出ることになる。

印刷の前金が足りず、頼み込んで芝信用金庫にビルの保証金を担保に融資してもらう。このときの恩義から江副さんの社長時代のリクルートの営業報告書では、常に芝信用金庫を金融機関リストのトップに載せていたという。

初年度は苦労したが、翌年度からは無料掲載はなくなり、売上も四倍となり、それからは倍々ゲームで高収益事業となった。

リクルートブック事業は新卒採用繁忙期の数ヶ月は極端に忙しいが、ほぼ半年はひまで、新卒採用の閑散期に始めた事業が、高校生のリクルートブックだった。

新卒採用情報のリクルートブックで成功したので、就職情報、住宅情報、エイビーロード、カーセンサーなどの様々な分野の情報誌を創刊していった。


フリーマガジン(?)のさきがけ

広告だけの本を書店で販売するのは出版界では初めてのことで、広告だけの本はトーハン、日販といった大手取り次ぎ会社では取り扱って貰えなかった。

そこで直接書店に持ち込み、無償で提供して売って貰うことにした。広告で利益があがるので、本の販売収益はゼロでよかったからだ。

通常の雑誌を売れば、書店の利益は売上の20%、それがリクルートの就職情報などの雑誌を売れば、利益は100%、しかも現金が入るとあって多くの書店で一番目立つ売り場に就職情報を置いてもらえたという。

書店に続きキオスクや駅の売店、ついにはコンビニにもねばり強く交渉し、進出したのだ。

こう書くと何か簡単なことの様に思えるが、取り次ぎ会社を通さずに書店に直販するには何らかの配送網を持たなければならず、今の様に宅配便がない当時ではありえないことだ。

江副さんがこの配送問題をどう解決したのか書いていないが、単に雑誌編集と広告営業だけでなく、配送のロジスティックスまで考えたリクルートのフットワークには頭が下がる思いだ。

今でこそホットペッパーやR25などのフリーマガジンが花盛りだが、リクルートは30年近く前から、消費者には有料でも書店には無料のいわばBtoB(対企業)フリーマガジン戦略で、書店やキオスク、コンビニに食い込んでライバルを部数で圧倒し、ナンバーワンの地位を確保したのだ。

部数がナンバーワンなら広告料も最も高くできる。損して得取れとはよく言ったものだ。まさに江副さんの戦略はその典型だ。

この無料戦略には普通の会社では、なかなか対抗できない。江副さんの「ナンバーツーは死だ」という言葉の意味が分かる。

一時は読売住宅情報がリクルートの住宅情報に挑んだそうだが、リクルートの無料戦略の前に破れさった。リクルートと競合する会社は大変だろう。


リクルートの行動指針

江副さんが考案したリクルートの社訓は、「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」というものだ。有名なIBMの"Think"のプレートに似せて、プレートもつくった。社訓には進取の精神が表れていて、いかにもリクルートらしい。

この社訓をもとに江副さんが行動指針をつくった。それが次のような経営理念のモットーだ。

1.誰もしていないことをする主義
2.分からないことはお客様に聞く主義
3.ナンバーワン主義(ナンバーツーは死だ)
4.社員皆経営者主義
5.社員皆株主(社員持株会が筆頭株主)
6.健全な赤字事業を持つ
7.少数精鋭主義
8.自己管理を大切に
9.自分のために学び働く
10.マナーとモラルを大切にする

この行動指針はリクルートの精神的バックボーンとなっている。


リクルートの高収益の秘密 PC制

稲盛和夫さんが生み出したアメーバー経営は以前紹介したが、リクルートにおける同様の制度がPC(プロフィットセンター)制だ。

江副さんが書中の師と呼ぶドラッカーが「現代の経営」で提唱していたアイデアに習って、PC制を導入して会社の中に小さな会社をたくさんつくった。

新訳 現代の経営〈上〉 (ドラッカー選書)


このPC制=社員皆経営者主義ゆえに、リクルートは多くの経営者を輩出できたのではないかと江副さんは語る、

ほとんどのPC長は三十歳未満で、十名程度の部下を率いる。

PC長で高い成績を上げれば、事業部長となる。事業部長で実績を上げれば、事業部門長となる。会社組織はピラミッドでなくグリッド型となる。

江副さんの退任時にはPC数は600を超えていた。

リクルート前社長の河野栄子さんは、この経営者育成プログラムの良い例だという。

河野さんは学生時代にリクルートと競合するアルバイトニュースの広告営業をやり、卒業後はニッサン車のセールスをやっていた。リクルート入社後もPC長から事業部長になるまで九年間連続して最優秀経営者賞を受賞し、43歳で専務、51歳で社長に昇格した。


リクルート成功の秘訣

この本にはリクルート成功の秘訣がサラッと書かれている。印象に残った点を簡単に紹介しておく。


最先端のOA

江副さんが昭和38年にアメリカに出張した時の経験から、IBM1100という大型コンピューターを使った自動採点機を導入し、当時急速に拡大していた適性検査の採点業務に使うとともに、大学などから入試採点業務を受注する。

まさに進取の精神だ。

リクルートの広告制作システムも大変自動化されたものだと、リクルート出身の知人から聞いたことがある。

リクルートのファックス一斉配信サービスは一頃市場を席巻していた。OA化も最先端で積極的に進めたのが、リクルートの成功要因の一つだ。


初任給は一流企業の三割増し

創業四年目から新卒採用を開始し、最初の新入社員の給与は一流企業の初任給の3割増しに設定した。高い給与で優れた人を採用するのがリクルート流だ。


リクルートは女性と高卒でもつ会社

2、000名の応募者から大卒四名、高卒四名を採用する。大卒は全員女性、高卒は男女半々だった。つまり採用八名のうち女性が六名だ。

リクルートは高卒と女性でもつ会社、と言われた時期が長く続くようになったそうだ。

今でこそ女性の総合職を採用するのが当たり前になっているが、30年以上前は女性総合職を採用している会社はほとんどなかった。女性の戦力を生かすという面でもリクルートは先進企業だ。


ファブレスのセル生産企業

リクルートは雑誌点数では日本一、印刷ページでも日本一、しかし平均発行部数は少ない。

自前の印刷工場を持たず、製造業で言うと「ファブレス」で、かつ少数多品種の「セル生産」がリクルートの強みだと江副さんは語る。


不動産は成長の原動力で、かつ鬼門

最初は森ビルの屋上の掘っ立て小屋から初めて、西新橋の本社ビル、新橋の本社ビル、大阪、名古屋の地方の支社ビル、銀座本社ビル、銀座日軽金ビルなど不動産で成功を収めた。

その後の不動産バブルもあり、不動産の含み利益がリクルート発展の原動力になったと言っても良い。

そして不動産分譲販売のリクルートコスモスの新規上場株を政治家や財界人などに配ったリクルート事件もまさにバブルの最中の事件だ。

結局撤退した岩手県の安比高原スキーリゾートの開発といい、不動産はリクルートにプラスとマイナスの両方の効果を与えた。


外飯・外酒

江副さんは「外飯・外酒」といって、得意先や社外の人との会食、勉強会や研究会への参加を奨励していた。外の人たちと交流を持ち、視野を広げることもリクルートの特色だった。講師になれば講演の準備が本人のためにもなる。

学会の役員になった人も多く、i-modeで有名な松永真理さんは、大学の非常勤講師を務めていた。前社長の河野さんは政府の総合規制改革会議のメンバーとなったり、経済同友会の幹事にもなっていた。

しかし江副さんの場合は、政治家を囲む会への出席が後にリクルート事件として大きな災いとなってしまった。


江副さんが学んだ名経営者の言葉

江副さんは交遊が広いので、多くの名経営者とのつきあいから、印象に残ったことを書いている。ソニーの井深、盛田、大賀さん、三洋の井植さんなどそれぞれに面白いが、松下幸之助とソフトバンクの孫さんのエピソードだけ紹介しておく。

松下幸之助は経営の要諦について、次のように語っていたという。

「人は誰でも得手なことと不得手なことがありまんがな。誰に、どの仕事を、どこまで要望するかが大事やなぁ」。経営の神様の味わい深い言葉だったという。

筆者も毎日1−2ページづつ愛読している松下幸之助の「道をひらく」は、松下幸之助が書いたPHPの連載コラムを編集したものだが、江副さんが聞いた様な話が満載で、大変参考になるのでこれもお勧めしておく。

道をひらく


ソフトバンクの孫さんの話も面白い。孫さんはゴルフが趣味で、自宅にゴルフレンジをつくり、暇があれば練習しているという。なんでも積極的だ。

孫さんは時間とお金、人を精一杯使う。ベンチャーの成功者になる条件だと。

まさに余談ながら、江副さんはソフトバンクモバイルはいずれKDDIが買収し、ドコモを超えるナンバーワンになるのではないかと予想していると言う。

むしろ孫さんは資金さえあれば、KDDIを買収したいと思っているのではないかと思うが、ともあれ江副さんの予想する合併も将来はありうるかもしれない。

この本でも紹介されているファーストリテーリングの柳井正さんの「一勝九敗」も面白かったが、この「リクルートのDNA」も参考になる。

一勝九敗


「リクルートのDNA」というと、リクルート出身者が持つ共通の性質のように思えるが、この本は江副さんの自伝的ビジネス書であり、リクルート出身者を一般化したものではない。

江副さんは既に現役をだいぶ前にリタイアされているだけに、気負いが全くなく自然体でスッと頭に入る。是非一読をおすすめする。


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Posted by yaori at 12:54Comments(0)TrackBack(2)